トランスアメリカ
2006年 アメリカ 2006年7月公開
評価:★★★★☆
原題:TRANSAMERICA
製作総指揮:ウィリアム・H・メイシー
監督:ダンカン・タッカー
脚本:ダンカン・タッカー
撮影:スティーヴン・カツミアスキー
衣装デザイン:ダニー・グリッカー
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
主題歌ドリー・パートン“Travelin' Thru”
出演:フェリシティ・ハフマン、ケヴィン・ゼガーズ
フィオヌラ・フラナガン、エリザベス・ベーニャ
グレアム・グリーン、バート・ヤング、キャリー・プレストン
ロード・ムービーには大きく二つの面がある気がする。一つは出会いと発見。道中での様々な出会い(人であれ出来事であれ)を通じて主人公たちと観客は新たな発見をする。もう一つは旅を通じての主人公たちの内面(自己認識を含む)や人間関係の変化。どちらの面に力点があるかは作品によって異なるが、いずれにしてもこの二つの面は不可分に結びついている。主人公たちは旅の途中の出会いと発見を通じて、そして同伴者と行動を共にすることによって社会や人間関係や自己に対する認識を新たにしてゆく。同伴者が家族の場合はその絆が深まってゆくタイプが多い。人々は旅を通じ自分や家族を見つめなおしてゆく。
「トランスアメリカ」は父ブリー(フェリシティ・ハフマン)と息子トビー(ケヴィン・ゼガーズ)の2人が旅をするロード・ムービーである。父といってもブリーはトランスセクシャルで、性転換手術を目前に控えている。本来の名前はスタンリーだが、サブリナ・クレア・オズボーンという名前の女性に生まれ変わろうとしていた(サブリナを縮めてブリー)。ところが、手術を1週間後に控えた彼にとんでもない厄介ごとが降って沸いた。何と、彼がまだスタンリーだった頃付き合っていた女性との間にトビーという子供がいたのである。トビーはもう17歳になっており、窃盗罪でつかまった彼が保釈の保証人として父親スタンリーの名をあげたのだ。最初は無視していたが、セラピストに問題を解決するまで手術に同意できないと言われしぶしぶ保釈の手続きをする。
この息子、家を飛び出し男娼をして生活していた。将来の夢は映画俳優になることである。ブリーは自分が父であることを隠し、教会から派遣された親切な叔母さんということにしてトビーを義父の家まで届けようとする。息子に対する親としての愛情などは全くなかった。ただ早く手術を済ませたい一心で厄介な息子を警察から引き取ったのである。そこからトランスセクシャルの父と男娼として働いていた息子が2人でアメリカ横断をする奇妙な旅が始まる。トランスアメリカとトランスセクシャルという二重のトランスが絡まりあっていることが分かるだろう。
この旅で描かれるのは2人の心の変化である。徐々に互いを理解しあってゆく過程をじっくりと描いている。実の父であることを明かすのは映画の最後のあたりである。それまでは他人として二人は接している。旅の終点は2人が親子として、つまり「母」と息子として向き合い、互いを認め合うことである。その終着点までの間に2人が共に乗り越えなければならない難しい二つの段差がある。最初の段差は彼女が女性に性転換しようとしている男性であることを認めること。二つ目の段差は彼が実の父だと認めること。この二つ目の段差は一番目の段差よりはるかに大きい。だから映画はその大半を第2の段差を越える前までに当てているのである。第2の段差の後トビーは家を飛び出す。そして最後に二人の再会を描くのだが、その間に一定の時間の経過があったことを暗示している(映画の上での時間は一瞬だが)。つまり、トビーが二つ目の段差をどう乗り越えたかを描いていない。一つ目の段差に出会ったときのショックよりも二つ目の段差に出会ったときのショックの方がはるかに大きかったはずである。しかし映画はそれを直接描きはしなかった。それでいいと思う。この時間配分はうまく成功している。それまでの部分で必要なことはすべて描かれている。後はトビーがその事実を個人的にどう理解し、乗り越えるかという問題なのである。
この二つの段差は悲劇的結果をもたらしうるものである。またいつばれるのかとハラハ ラさせる展開にすることも可能だったろうが、映画はむしろコミカルな方向を選んだ。最初はなかなかそりの合わない二人を温かい目で見つめながらコミカルに描いてゆく。そのためにもう一つの設定が必要となった。つまり、見かけにかかわらず2人とも相手を受け入れられるだけのまっすぐな心と寛容さを持った人物に設定されているのである。ブリーは手術前からほとんど性格的には女性である。トビーのだらしない態度や汚い口の利き方を注意する時のブリーは、まるで口うるさく息子を注意する母親のようだ。最初はトビーを厄介者だと思っていたが、次第に親として接するようになってゆく(もちろんトビーには悟られないように)。途中一夜の宿を借りるためにテキサス州ダラスにある知り合いの家に行くが、そこにはトランスセクシュアル仲間が集まってパーティーを開いていた。あからさまに性的な話をしている彼らを見てブリーは顔をしかめる。自分がトランスセクシュアルであることがトビーにばれないよう気を使っていることもあるが、やはり彼(女)らとは性格的に違うという印象を受ける。「プリシラ」のような世界にはなじめない、ただ女性になりたいと純粋に願っている心優しい人物として描かれている。
一方息子のトビーも麻薬を吸ったり男娼をしていたり、車に乗ればダッシュボードの上に足を乗せたりと、それまでかなり荒れた生活をしていたことが示されているが、決して根が腐った、心がすさんだ若者としては描かれていない。むしろ意外なほど純粋である。ブリーに叱られれば素直に従う。ブリーが当座の小遣いとして与えた100ドルをトビーが本のカバーの中に丁寧に隠すシーンが何度か描かれる。終始本を手放さないことは、彼の中に知的な面や向上心があることを暗示している。「トランスセクシャルの父と男娼として働いていた息子」というかなり特異な取り合わせのわりには共に意外なほどストレートなのだ。この点は評価が分かれるところだろう。当然物足りないと感じる人もいるはずだ。しかし製作者たちの意図はキッチュな映画を作ることにあるわけではない。作品の方向性は「リトル・ミス・サンシャイン」と基本的に同じである。コミカルでヒューマンな味付けのファミリー・ドラマとしては良くできた作品だと思う。
トビーには映画俳優になること以外にもう一つ夢がある。彼はアーカンソーで野宿した時、ブリーに「親父と暮らすのが夢だ」とはっきり言う。ブリーとしてはつらい言葉だ。ブリーはその前にニューヨーク州カリクーンでトビーの義父と会っている。彼にトビーを預けてさっさと厄介払いしようと想ったのだ。しかし結局はまたトビーを連れて旅に戻った。なぜなら子供の頃義父から性的虐待を受けていたことをトビーから打ち明けられたからである。それだけに本当の父に会いたいというトビーの気持ちはブリーにも理解できる。理解できるからこそ彼の悩みも深い。彼は「父親」ではなくなろうとしているのだから。試練はさらに続く。夜、ブリーが車の後ろで立ち***している時、トビーにペニスを見られてしまうのだ。ついに来るべき時が来た。
一気に二人の間の空気が険悪になる。ブリーはしかし決してくどくどと言い訳はしなかった。「体は中途半端でも魂には何の曇りもないわ。私が試練に耐え生まれ変わるのは神の意思よ」とはっきり言い切る。しかしトビーのショックはそう簡単に消えない。彼はブリーを「バケモノ(fleak)」と呼んだ。しかし、後で「いや、あんたはただのウソツキだ」と訂正する。既にブリーと数日過ごしていた彼にはそこまで受け入れられる下地が出来ていたのである。それに何よりまだブリーが父親だと知らなかったからでもある。
ブリーたちはその後うっかり車に乗せた若者に車を盗まれ、文無しで足もなくしやむなくアリゾナ州にあるブリーの実家に行くことになる。立派な家と敷地を見ればブリーの実家はかなり裕福だと分かる。ほとんど関係を絶っていたブリーが女性の姿で帰ってきたのを見た両親(フィオヌラ・フラナガン、バート・ヤング)の驚きようは滑稽なくらいである。母親などはブリーの股間を握ってまだ「付いている」か確かめたほどである。妹のシドニー(キャリー・プレストン)には「放蕩息子の帰還ね」と言われてしまう。ブリーから見ればトビーも同じだから、この言葉は二重に当てはまる。考えてみれば、親子2代とも家を飛び出したわけだ。トビーなどは「薄汚い若者」などと言われるが、彼がブリーの両親の孫だといわれるとブリーの母親の態度がころっと変わってしまうところが可笑しい。一家揃ってレストランに行く場面はこのまるで寄せ集め家族のようなちぐはぐさが笑いをさそって面白い。しかしこの不揃いな家族には危なっかしいながらそれまでの二人旅とは違う「家族」が描かれていた。レストランでブリーが息子と並んで写真を撮るシーンは非常に印象的である。
しかしやっと終点に着いたかと思ったその夜、ついに二つ目の段差を乗り越える時がやってくる。トビーが夜ブリーのベッドにやってきて「愛し合う」ことを迫ってきたのだ。悲しいことにトビーはそれ以外に愛情を表現するすべを知らないのである。たまら ずブリーは真実を打ち明ける。トビーは家を飛び出す。この告白はトビーにとってもブリーにとっても乗り越えなければならない大きな課題だった。1週間前だったらトビーがいなくなりゆくえが知れなくなれば、むしろブリーはほっと安心していたことだろう。厄介払いできたと。しかしこの時点ではもはやトビーは厄介者ではなかった。彼の大事な息子になっていた。待ちに待った手術の後、友人のセラピストは不思議そうにブリーに聞く。「変ね、今日は人生で一番幸せな日だって先週そう言ってたわよね?」ブリー「先週はもう大昔よ。」彼にとってこの1週間は彼の人生を決定的に変えてしまう日々だった。恐らく人生でもっとも長い1週間だったに違いない。「痛いわ。」ブリーはよだれをたらして泣き崩れる。その痛みは手術の痛みではない。セラピストは慰める。「ブリー、心のせいよ。」
「漂流するアメリカの家族」という記事で「淀んだ空気を吹き払うには「クラッシュ」が描いたように閉じられた窓を開け放ち、意識的に「触れ合い」を求める必要がある。じっと閉じこもるのではなく、 行動を起こさなければならない。その行動のひとつが旅に出ることである。外の新鮮な空気に触れ、自分や家族をみつめなおす旅」と書いた。もしトビーがブリーの近くに住んでいて、すぐ家に引き取っていたらトビーはすぐ家を飛び出していただろう。時間をかけて旅をしたからこそ2人の絆は強められることになった。映画はそう描いている。
トランスセクシュアルのブリーにとってそれは楽な旅ではなかった。ニューヨークを出発して、ニューヨーク州カリクーン(トビーの義父の家)、アーカンソー州(野宿)、テキサス州ダラス(ブリーの友人の家)、ニューメキシコ州(カルヴィンとの出会い)、アリゾナ州(ブリーの実家)、そしてロザンゼルスへ。2人の旅は南部を通る旅だった。ディープ・サウスは避けられても、ニューヨークからテキサス州に最短距離で行くには保守的なバイブル・ベルト地帯を通らざるをえない。アーカンソーあたりだったか、途中寄った簡易食堂で女の子に“Are you a boy or a girl?”と聞かれてあわてて逃げ戻ったりしたこともある。内心びくびくものの旅だったに違いない。 旅を通してブリーは強くなった。人間としての自尊心を持ち、それに親としての自覚も加わった。トビーの捜索を警察に頼んだ時、あなたはトビーの何に当たるかと聞かれて、一瞬迷った後「父です」と答えた。女性の格好をしたままで。
恐らく「父です」と答えた時、ブリーは完全にそれまでの自分の殻を脱ぎ捨てたのだろう。ラストでトビーがふらっと現われた時、彼(女)はテーブルに足をのせて座るトビーを一喝した。「私のテーブルからその汚い足をどけなさい。」彼女はもう完全に母親になっていた。父親が母親になっただけのことである。親に変わりはない。ブリーは息子にカウボーイ・ハットを渡す。その帽子はニューメキシコで会ったカルヴィン(グレアム・グリーン)というネイティヴ・アメリカンの男性からもらった帽子だろう。「戦士の印だ」と言ってカルヴィンがトビーに贈ったロデオ・チャンピオンの帽子である。
トビーの登場は世間や家族から逃げていたブリーに自分を見つめなおす機会を与えた。人間は一人では生きてゆけない。自分が勝手に性転換すればそれで済むわけではない。トビーという息子を得ることによって、ブリーは改めて家族や息子と向き合うことができるようになった。その意味でセラピストの言ったことは正しかった。ほとんど本筋に関係ないとも思えるカルヴィンとの出会いは、世間ののけ者のように自分を考えていたブリーに、偏見を持たずに接してくれる人もいることを教える意味で必用だったのだ。そういう出会いと発見があってブリーは自分を変えることができた、そういう描き方になっている。
ブリーを演じたフェリシティ・ハフマンがなんと言っても素晴らしい。女優が「女になろうとしている男」を演じるのだから並大抵の演技力では演じきれない。大変な偉業である。ドリー・パートンが歌うエンディング・テーマ「トラベリン・スルー」も心に沁みる。
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