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2007年2月

2007年2月26日 (月)

トランスアメリカ

2006年 アメリカ 2006年7月公開 033798
評価:★★★★☆
原題:TRANSAMERICA
製作総指揮:ウィリアム・H・メイシー
監督:ダンカン・タッカー
脚本:ダンカン・タッカー
撮影:スティーヴン・カツミアスキー
衣装デザイン:ダニー・グリッカー
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
主題歌ドリー・パートン“Travelin' Thru”
出演:フェリシティ・ハフマン、ケヴィン・ゼガーズ
    フィオヌラ・フラナガン、エリザベス・ベーニャ
    グレアム・グリーン、バート・ヤング、キャリー・プレストン

  ロード・ムービーには大きく二つの面がある気がする。一つは出会いと発見。道中での様々な出会い(人であれ出来事であれ)を通じて主人公たちと観客は新たな発見をする。もう一つは旅を通じての主人公たちの内面(自己認識を含む)や人間関係の変化。どちらの面に力点があるかは作品によって異なるが、いずれにしてもこの二つの面は不可分に結びついている。主人公たちは旅の途中の出会いと発見を通じて、そして同伴者と行動を共にすることによって社会や人間関係や自己に対する認識を新たにしてゆく。同伴者が家族の場合はその絆が深まってゆくタイプが多い。人々は旅を通じ自分や家族を見つめなおしてゆく。

  「トランスアメリカ」は父ブリー(フェリシティ・ハフマン)と息子トビー(ケヴィン・ゼガーズ)の2人が旅をするロード・ムービーである。父といってもブリーはトランスセクシャルで、性転換手術を目前に控えている。本来の名前はスタンリーだが、サブリナ・クレア・オズボーンという名前の女性に生まれ変わろうとしていた(サブリナを縮めてブリー)。ところが、手術を1週間後に控えた彼にとんでもない厄介ごとが降って沸いた。何と、彼がまだスタンリーだった頃付き合っていた女性との間にトビーという子供がいたのである。トビーはもう17歳になっており、窃盗罪でつかまった彼が保釈の保証人として父親スタンリーの名をあげたのだ。最初は無視していたが、セラピストに問題を解決するまで手術に同意できないと言われしぶしぶ保釈の手続きをする。

  この息子、家を飛び出し男娼をして生活していた。将来の夢は映画俳優になることである。ブリーは自分が父であることを隠し、教会から派遣された親切な叔母さんということにしてトビーを義父の家まで届けようとする。息子に対する親としての愛情などは全くなかった。ただ早く手術を済ませたい一心で厄介な息子を警察から引き取ったのである。そこからトランスセクシャルの父と男娼として働いていた息子が2人でアメリカ横断をする奇妙な旅が始まる。トランスアメリカとトランスセクシャルという二重のトランスが絡まりあっていることが分かるだろう。

  この旅で描かれるのは2人の心の変化である。徐々に互いを理解しあってゆく過程をじっくりと描いている。実の父であることを明かすのは映画の最後のあたりである。それまでは他人として二人は接している。旅の終点は2人が親子として、つまり「母」と息子として向き合い、互いを認め合うことである。その終着点までの間に2人が共に乗り越えなければならない難しい二つの段差がある。最初の段差は彼女が女性に性転換しようとしている男性であることを認めること。二つ目の段差は彼が実の父だと認めること。この二つ目の段差は一番目の段差よりはるかに大きい。だから映画はその大半を第2の段差を越える前までに当てているのである。第2の段差の後トビーは家を飛び出す。そして最後に二人の再会を描くのだが、その間に一定の時間の経過があったことを暗示している(映画の上での時間は一瞬だが)。つまり、トビーが二つ目の段差をどう乗り越えたかを描いていない。一つ目の段差に出会ったときのショックよりも二つ目の段差に出会ったときのショックの方がはるかに大きかったはずである。しかし映画はそれを直接描きはしなかった。それでいいと思う。この時間配分はうまく成功している。それまでの部分で必要なことはすべて描かれている。後はトビーがその事実を個人的にどう理解し、乗り越えるかという問題なのである。

  この二つの段差は悲劇的結果をもたらしうるものである。またいつばれるのかとハラハ 033799_2 ラさせる展開にすることも可能だったろうが、映画はむしろコミカルな方向を選んだ。最初はなかなかそりの合わない二人を温かい目で見つめながらコミカルに描いてゆく。そのためにもう一つの設定が必要となった。つまり、見かけにかかわらず2人とも相手を受け入れられるだけのまっすぐな心と寛容さを持った人物に設定されているのである。ブリーは手術前からほとんど性格的には女性である。トビーのだらしない態度や汚い口の利き方を注意する時のブリーは、まるで口うるさく息子を注意する母親のようだ。最初はトビーを厄介者だと思っていたが、次第に親として接するようになってゆく(もちろんトビーには悟られないように)。途中一夜の宿を借りるためにテキサス州ダラスにある知り合いの家に行くが、そこにはトランスセクシュアル仲間が集まってパーティーを開いていた。あからさまに性的な話をしている彼らを見てブリーは顔をしかめる。自分がトランスセクシュアルであることがトビーにばれないよう気を使っていることもあるが、やはり彼(女)らとは性格的に違うという印象を受ける。「プリシラ」のような世界にはなじめない、ただ女性になりたいと純粋に願っている心優しい人物として描かれている。

  一方息子のトビーも麻薬を吸ったり男娼をしていたり、車に乗ればダッシュボードの上に足を乗せたりと、それまでかなり荒れた生活をしていたことが示されているが、決して根が腐った、心がすさんだ若者としては描かれていない。むしろ意外なほど純粋である。ブリーに叱られれば素直に従う。ブリーが当座の小遣いとして与えた100ドルをトビーが本のカバーの中に丁寧に隠すシーンが何度か描かれる。終始本を手放さないことは、彼の中に知的な面や向上心があることを暗示している。「トランスセクシャルの父と男娼として働いていた息子」というかなり特異な取り合わせのわりには共に意外なほどストレートなのだ。この点は評価が分かれるところだろう。当然物足りないと感じる人もいるはずだ。しかし製作者たちの意図はキッチュな映画を作ることにあるわけではない。作品の方向性は「リトル・ミス・サンシャイン」と基本的に同じである。コミカルでヒューマンな味付けのファミリー・ドラマとしては良くできた作品だと思う。

  トビーには映画俳優になること以外にもう一つ夢がある。彼はアーカンソーで野宿した時、ブリーに「親父と暮らすのが夢だ」とはっきり言う。ブリーとしてはつらい言葉だ。ブリーはその前にニューヨーク州カリクーンでトビーの義父と会っている。彼にトビーを預けてさっさと厄介払いしようと想ったのだ。しかし結局はまたトビーを連れて旅に戻った。なぜなら子供の頃義父から性的虐待を受けていたことをトビーから打ち明けられたからである。それだけに本当の父に会いたいというトビーの気持ちはブリーにも理解できる。理解できるからこそ彼の悩みも深い。彼は「父親」ではなくなろうとしているのだから。試練はさらに続く。夜、ブリーが車の後ろで立ち***している時、トビーにペニスを見られてしまうのだ。ついに来るべき時が来た。

  一気に二人の間の空気が険悪になる。ブリーはしかし決してくどくどと言い訳はしなかった。「体は中途半端でも魂には何の曇りもないわ。私が試練に耐え生まれ変わるのは神の意思よ」とはっきり言い切る。しかしトビーのショックはそう簡単に消えない。彼はブリーを「バケモノ(fleak)」と呼んだ。しかし、後で「いや、あんたはただのウソツキだ」と訂正する。既にブリーと数日過ごしていた彼にはそこまで受け入れられる下地が出来ていたのである。それに何よりまだブリーが父親だと知らなかったからでもある。

  ブリーたちはその後うっかり車に乗せた若者に車を盗まれ、文無しで足もなくしやむなくアリゾナ州にあるブリーの実家に行くことになる。立派な家と敷地を見ればブリーの実家はかなり裕福だと分かる。ほとんど関係を絶っていたブリーが女性の姿で帰ってきたのを見た両親(フィオヌラ・フラナガン、バート・ヤング)の驚きようは滑稽なくらいである。母親などはブリーの股間を握ってまだ「付いている」か確かめたほどである。妹のシドニー(キャリー・プレストン)には「放蕩息子の帰還ね」と言われてしまう。ブリーから見ればトビーも同じだから、この言葉は二重に当てはまる。考えてみれば、親子2代とも家を飛び出したわけだ。トビーなどは「薄汚い若者」などと言われるが、彼がブリーの両親の孫だといわれるとブリーの母親の態度がころっと変わってしまうところが可笑しい。一家揃ってレストランに行く場面はこのまるで寄せ集め家族のようなちぐはぐさが笑いをさそって面白い。しかしこの不揃いな家族には危なっかしいながらそれまでの二人旅とは違う「家族」が描かれていた。レストランでブリーが息子と並んで写真を撮るシーンは非常に印象的である。

  しかしやっと終点に着いたかと思ったその夜、ついに二つ目の段差を乗り越える時がやってくる。トビーが夜ブリーのベッドにやってきて「愛し合う」ことを迫ってきたのだ。悲しいことにトビーはそれ以外に愛情を表現するすべを知らないのである。たまらPmhusuy11_1 ずブリーは真実を打ち明ける。トビーは家を飛び出す。この告白はトビーにとってもブリーにとっても乗り越えなければならない大きな課題だった。1週間前だったらトビーがいなくなりゆくえが知れなくなれば、むしろブリーはほっと安心していたことだろう。厄介払いできたと。しかしこの時点ではもはやトビーは厄介者ではなかった。彼の大事な息子になっていた。待ちに待った手術の後、友人のセラピストは不思議そうにブリーに聞く。「変ね、今日は人生で一番幸せな日だって先週そう言ってたわよね?」ブリー「先週はもう大昔よ。」彼にとってこの1週間は彼の人生を決定的に変えてしまう日々だった。恐らく人生でもっとも長い1週間だったに違いない。「痛いわ。」ブリーはよだれをたらして泣き崩れる。その痛みは手術の痛みではない。セラピストは慰める。「ブリー、心のせいよ。」

  「漂流するアメリカの家族」という記事で「淀んだ空気を吹き払うには「クラッシュ」が描いたように閉じられた窓を開け放ち、意識的に「触れ合い」を求める必要がある。じっと閉じこもるのではなく、 行動を起こさなければならない。その行動のひとつが旅に出ることである。外の新鮮な空気に触れ、自分や家族をみつめなおす旅」と書いた。もしトビーがブリーの近くに住んでいて、すぐ家に引き取っていたらトビーはすぐ家を飛び出していただろう。時間をかけて旅をしたからこそ2人の絆は強められることになった。映画はそう描いている。

  トランスセクシュアルのブリーにとってそれは楽な旅ではなかった。ニューヨークを出発して、ニューヨーク州カリクーン(トビーの義父の家)、アーカンソー州(野宿)、テキサス州ダラス(ブリーの友人の家)、ニューメキシコ州(カルヴィンとの出会い)、アリゾナ州(ブリーの実家)、そしてロザンゼルスへ。2人の旅は南部を通る旅だった。ディープ・サウスは避けられても、ニューヨークからテキサス州に最短距離で行くには保守的なバイブル・ベルト地帯を通らざるをえない。アーカンソーあたりだったか、途中寄った簡易食堂で女の子に“Are you a boy or a girl?”と聞かれてあわてて逃げ戻ったりしたこともある。内心びくびくものの旅だったに違いない。 旅を通してブリーは強くなった。人間としての自尊心を持ち、それに親としての自覚も加わった。トビーの捜索を警察に頼んだ時、あなたはトビーの何に当たるかと聞かれて、一瞬迷った後「父です」と答えた。女性の格好をしたままで。

  恐らく「父です」と答えた時、ブリーは完全にそれまでの自分の殻を脱ぎ捨てたのだろう。ラストでトビーがふらっと現われた時、彼(女)はテーブルに足をのせて座るトビーを一喝した。「私のテーブルからその汚い足をどけなさい。」彼女はもう完全に母親になっていた。父親が母親になっただけのことである。親に変わりはない。ブリーは息子にカウボーイ・ハットを渡す。その帽子はニューメキシコで会ったカルヴィン(グレアム・グリーン)というネイティヴ・アメリカンの男性からもらった帽子だろう。「戦士の印だ」と言ってカルヴィンがトビーに贈ったロデオ・チャンピオンの帽子である。

  トビーの登場は世間や家族から逃げていたブリーに自分を見つめなおす機会を与えた。人間は一人では生きてゆけない。自分が勝手に性転換すればそれで済むわけではない。トビーという息子を得ることによって、ブリーは改めて家族や息子と向き合うことができるようになった。その意味でセラピストの言ったことは正しかった。ほとんど本筋に関係ないとも思えるカルヴィンとの出会いは、世間ののけ者のように自分を考えていたブリーに、偏見を持たずに接してくれる人もいることを教える意味で必用だったのだ。そういう出会いと発見があってブリーは自分を変えることができた、そういう描き方になっている。

  ブリーを演じたフェリシティ・ハフマンがなんと言っても素晴らしい。女優が「女になろうとしている男」を演じるのだから並大抵の演技力では演じきれない。大変な偉業である。ドリー・パートンが歌うエンディング・テーマ「トラベリン・スルー」も心に沁みる。

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2007年2月25日 (日)

「紙屋悦子の青春」を観てきました

  今日上田の電気館で「紙屋悦子の青春」を観てきた。これで黒木和雄監督の「戦争4部作」を全部観たことになる。4部作の中では「父と暮らせば」が一番優れていると思う。2位がこの「紙屋悦子の青春」、以下「TOMORROW明日」「美しい夏キリシマ」というのが僕の評価。

  「紙屋悦子の青春」は病院の屋上のシーンを除けばほとんど屋内の撮影。大きな動きはKota1_1 なく、ほとんどが会話で構成されている。そのせいか小津の世界を感じた。黒木監督は遺作で小津の世界に還ったのだ。出演者も限られている。たったの5人。何度か話にだけ出てくるおしゃべりな駅長さんを入れても6人。年老いた悦子と夫の長政の現在から始まり終戦の年昭和20年の回顧に移る展開。5人の出演者すべてがいい演技をしている。特に長瀬正敏と原田知世が素晴らしい。原田知世の老け顔はいまひとつだが、回想の中の若い時が実に美しい。髪をひっつめにしているせいか「博士の愛した数式」の深津絵里によく似ていた。これまで一度もいいと思ったことのない女優だが、この映画での彼女は繊細で清楚で非常に心を引かれた。そう言えば、田中裕子も「いつか読書する日」を観て初めていい女優だと思った。俳優は素晴らしい作品に出会った時輝くのだと改めて思う。すぐにレビューを描きます。

  「トランスアメリカ」のレビューが遅れていますが、何とか今日か明日には書き上げたい。21日に観た「隠された記憶」もその後に控えている。デヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」そっくりの出だしで始まるサスペンス映画。終わり方も「ロスト・ハイウェイ」同様謎が謎のまま最後まで残る。何も説明されずにあっけなく終わってしまう。しかしそこはミヒャエル・ハネケ、デヴィッド・リンチのように非現実的な要素を持ち込んだりはしない(「ロスト・ハイウェイ」も「ツイン・ピークス」ほど荒唐無稽ではないが)。観客一人ひとりに心当たりはないかと問いかける終り方は悪くないと思った。

  「紙屋悦子の青春」★★★★☆
  「隠された記憶」 ★★★★☆

  どうもこのところなかなかレビューに集中できなくて観る映画の数にレビューが追いつかない。昨年の11月に入院する前は、レビューを書き終えないうちは新しい映画を観ないようにしていた。そのため観る本数が減ってしまった。今年は観る本数を増やして、長めのレビューを減らし短評を増やそうと考えたのだが、書き出すと長くなってしまうのが悩み。以前のような長大なレビューはなくなったが、集中力が減ったせいかアイデアが浮かばなくなり、自分で満足のいくレビューが書けなくなってきた。以前より短いレビューなのに書きあぐんでいる。「ジャーヘッド」以降はどん底。どうやらスランプの時期がやってきたようだ。

  いかん、また愚痴になってしまった。ようやく忙しい時期も脱したのでこれからまたどんどん書いてゆきたい。今レンタルいるのは「タイヨウのうた」。あと「ゆれる」と「明日の記憶」を観ればキネ旬の日本映画ベストテンを全部観たことになる。これらと「トンマッコルへようこそ」を観た後は新作DVDを一時棚上げして、たまりたまった手元のDVDを集中的に観てみたい。今年に入ってからも続々とDVDを手に入れた。「フープ・ドリームス」、「心の香り」、「春にして君を想う」、「スプリング春へ」、「イジィ・トルンカ作品集4、5」、「愛と宿命の泉」、「恐怖省」、「M」、「川本喜八郎作品集」等々。どれも今すぐ観たい。去年買った「夫婦善哉」、「芙蓉鎮」、「貸間あり」、それから「タヴィアーニ兄弟傑作選 BOX」、「溝口健二 BOX」、「成瀬巳喜男 BOX」など観たい映画は山ほどある。まあ、あせらず一本ずつ観て行くしかないか。

  ちなみに現在までの「2006年日本映画マイ・ランク」を最後に付けておきます。6位まではほとんど横一線。甲乙つけがたい傑作が並ぶ。

1 博士の愛した数式(小泉堯史監督)
2 かもめ食堂(荻上直子監督)
3 フラガール(李相日監督)
4 嫌われ松子の一生(中島哲也監督)
5 武士の一分(山田洋次監督)
6 紙屋悦子の青春(黒木和雄監督)
7 THE有頂天ホテル(三谷幸喜監督)
8 雪に願うこと(根岸吉太郎監督)
9 カミュなんて知らない(柳町光男監督)

2007年2月21日 (水)

リトル・ミス・サンシャイン

2006年 アメリカ 2006年12月公開 Car008_s_1
評価:★★★★
監督:ジャナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス
脚本:マイケル・アーント
撮影:ティム・サーステッド
出演:グレッグ・キニア、トニ・コレット、スティーヴ・カレル
    アラン・アーキン、ポール・ダノ、アビゲイル・ブレスリン

 この映画は「グエムル 漢江の怪物」に似ている。別に「グエムル」はロード・ムービーではないし、「リトル・ミス・サンシャイン」にも当然怪物は出てこない。しかし「グエムル」が怪物に連れ去られたヒョンソを救うためにそれまでバラバラだった家族が力を合わせて行動するように、「リトル・ミス・サンシャイン」もオリーヴの“リトル・ミス・サンシャイン”コンテスト参加のために個性が強く協調性に欠ける家族が力を合わせるという映画である。「グエムル」の家族が戦った相手が怪物なら、「リトル・ミス・サンシャイン」の相手は「勝ち組/負け組」という考え方である。成功の夢を掴む機会は平等に与えられているというアメリカの夢はとうに破産し、社会の底辺であえぐ人たちは這い上がろうという気力すらなくしている。成功の夢は競争原理に姿を変え、人々を駆り立てる。乗り遅れた者は「負け犬」のレッテルを貼られて悩み苦しむ。競争社会の息苦しさの中で呻吟する人々。

 「リトル・ミス・サンシャイン」は個性豊かな人々が寄り集まった一つの家族が、ビューティー・クィーンになるというオリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)の夢をかなえるために力を合わせるという話である。金のない彼らは飛行機にも乗れず、アリゾナ州アルバカーキから黄色いミニ・バスに乗り込んでカリフォルニアのレドンド・ビーチを目指す。彼らは勝ち組ではないが、まだ負け組と決まったわけでもない。なぜなら彼らには夢があるからだ。オリーヴの父リチャード(グレッグ・キニア)は「成功への9ステップ・プログラム」という怪しげな成功論を声高に振りかざし、世の人々を勝ち組と負け組に分けて考える人物。「私がこの世で嫌いなものは負け犬だ」などと公言している。その彼には自分の成功論を本にして出版するという夢がある。オリーヴの兄ドウェーン(ポール・ダノ)は空軍のテストパイロットになる夢がある。試験に合格するまでニーチェにならって「沈黙の誓い」をたてており、家族とも口を利かない。なんとこの家族の中には3つも夢があるのだ。

  出発前に家族が1人増える。病院から退院したばかりの叔父フランク(スティーヴ・カレル)だ。彼はリチャードの理論で言えば完全な負け犬。自称アメリカ最高のプルースト学者だが、恋人に捨てられて自殺未遂をした男。その恋人とは男、つまり彼はゲイである。しかも彼から恋人を奪ったのは同じプルースト研究者。二重の敗北に自殺を思い立ったわけだ。傷心の中年男。何とか勝ち組に這い上がろうという一家にとっては貧乏神がやってきたようなものだ。そうでなくても個性派ぞろいの一家は寄ると触ると口論の嵐。しかしまあ、このお騒がせおじさんが一家になじむこと!夢はあるもののオリーヴの家族はほとんど負け組だからおじさんもすんなり仲間に入れる。皆さん協調性など薬にもしたくないという人たちばかりなので事あるごとに言い合いになる。いやはや、先が思いやられる。

Ihana_1  オリーヴの“リトル・ミス・サンシャイン”コンテスト参加も棚からぼた餅式の繰り上がり当選。誰がどうやってオリーヴをカリフォルニアに連れて行くかでひともめした後、全員が黄色いミニ・バスに乗って行くことになった。そんなこんなでオンボロバスの珍道中が始まる。しかし、予想通り途中ハプニング続出で、一家のまとめ役であるオリーヴの母シェリル(トニ・コレット)は苦労の連続。ストレスがたまりタバコがやめられない。「グエムル」のレビューで、「私の考えでは、母親は賢く現実的で、家庭の中でとても強靱な存在なんです」というポン・ジュノ監督の言葉を引用した。ここでも確かにシェリルは唯一まともな存在に見える。しかし彼女の奮闘もこの懲りない面々の前ではほとんど成果を上げない。むしろいつの間にか家族が力を合わせて問題を乗り切るという展開になっているところがいい。

  アメリカ映画にはよくオンボロ車が出てくる。日本じゃまず見かけないボロ車が平気で走っている。この黄色いフォルクスワーゲンがまた家族に負けず個性的ですこぶるいい。見掛けは結構可愛くて、何もない荒野を走る姿が実に絵になる。それだけならどうということはないが、この車、お騒がせ一家以上にトラブルメイカーなのだ。ドアは外れるわ、クラクションは鳴りっ放しになるわ、果てはクラッチがいかれて押しがけでないと走らなくなってしまう。イヤイヤ2歳児以上にわがままだ。ところが、バラバラの家族をまとめたのはシェリルではなくこのオンボロ車だった。発進するたびに家族が後ろから押さなければならない。この一致団結した行動が一家を自然にまとめてゆく。ミニ・バスが壊れてゆくほど家族の結束は固まってゆく。言葉ではなく行動が一家を変え、家族の絆を深めるという描き方が素晴らしい。

 家族は次第にまとまってゆくのだが、旅の途中でそれぞれの夢が次々に壊れてゆく。成功論をぶち上げるリチャードは鼻息ばかり荒いが、彼の講演会にはまばらな参加者しか集まらない。本の出版計画は順調に進んでいるかに(少なくとも本人にとって)思えたが、結局取りやめになってしまう。一家にとって迷惑極まりないダメ親父を演じたグレッグ・キニアが惚れぼれするほどいい味を出している。一方、ニーチェかぶれで「ツァラトゥストラかく語りき」を読んでいた兄のドウェインも色盲だということが分かって、テスト・パイロットになる夢が断たれてしまう。車を飛び出し半狂乱になって絶叫する。失意の兄を慰めたのは妹のオリーヴだった。何も言わず兄の横に座って、寄り添うように肩に手をかけ、兄をそっと抱きしめるシーンはなかなかに感動的だ。

 一番のハプニングは旅の途中で爺さん(アラン・アーキン)が麻薬のやりすぎで頓死してしまうこと。この爺さんはつわものぞろいの一家の中でも際立って変だ。何しろヘロイン中毒で老人ホームを追い出されたという経歴の持ち主。ヘロインは若い奴には良くないが年寄りならいいと施設を出ても吸い続けている。言うことがまたハチャメチャだ。ドウェインに向って「若いうちはヤリまくれ!」と「有益な」アドバイス。結局、エロ爺のまま旅の途中で天寿を全うした(性格はとても真っ当とはいえないが)。死んだだけでも大変なのに、その上一家は葬式をめぐるごたごたに巻き込まれる。しかしこの一家そんなことではめげない。隙をついて爺さんの死体を持ち逃げする。ところが車で死体を運んで走っているところを、何と今度はパトロール警官に呼び止められる。だがこの絶体絶命の窮地もポルノ愛好家の爺さんが残した「置き土産」のおかげで無事乗り切る。さらに、しかしこの色ボケ爺さんは家族に一つだけ名言を残した。自信をなくしかけて落ち込むオリーヴに、「負け組とは負けることを恐れて挑戦しない人たちのことだ」と諭すのだ。亀の甲より年の功。阪神淡路大震災の際に一番活躍したのは受験勉強の優等生ではなく茶髪の兄ちゃん姉ちゃんたちだったように、競争原理などから一番遠いこの爺さんだから言えるせりふなのだ。

 この色ボケ爺さんを演じるのは何とアラン・アーキン。アラン・アーキンといえば「暗くなるKaeru3 まで待って」(1967)。盲目のオードリー・ヘップバーンを追い詰める殺人者の役がなんといっても強烈だった。初出演の「アメリカ上陸作戦」(1966)といい、不気味な役が似合う役者だが、障害者を演じた「愛すれど心さびしく」(1968)などもあり、なかなか才能のある役者だ。「キャッチ22」(1971)など代表作は6、70年代に集中している。一時とっくに引退したと思っていたが、「シザー・ハンズ」(1990)、「ガタカ」(1997)、「クアトロ・ディアス」(1997、これは知られざる傑作!)など90年代以降も活躍している。「リトル・ミス・サンシャイン」は晩年の代表作になるだろう。

 かくして、途中様々なハプニングに会いながらも一家は何とか会場に到着する。実際はわずかに遅れて、受付でまた一悶着あるのだが、それも何とかクリア。いよいよコンテスト本番となる。次々と出てくる大人顔負けのしなを作るライバルたちに家族は自信をなくしてしまう。恥をかくだけだから止めさせた方がいいんじゃないかと引き止めようとしたり、本番直前までどたばたが続く。散々ためにためておいて、いよいよオリーヴの出番。ここから先は書かないでおこう。一度もオリーヴのダンスを見せなかった理由が最後に分かる。そして家族が見せた反応とラストが一番の見所。

 ともかく、オリーヴはビューティー・クイーンにはなれなかった。それどころか「もう二度と出るな」と追い出される始末。だが、最後はさわやかだ。勝ち負けなんか決して重要ではない、みんなで団結して家族の絆を取り戻したことこそ一番の栄冠であるという分かりやすいメッセージが却って心地よい。オリーヴ役のアビゲイル・ブレスリンも見るからに可愛いという子役ではない。お腹が出た幼児体型で分厚いメガネをかけている。それがニコニコ笑顔を振りまく他のミス・コン出場者をキュートさで圧倒してしまうところが面白い。オリーヴという名前が暗示的だ。オリーヴを助けるのはポパイ。しかしこのオリーヴ、決して「ポパイ助けて」なんて叫ばない。そもそもこの映画に無類の力持ちのポパイは登場しない。力のない家族が力を合わせてオリーヴを助ける。「グエムル」と同じ。オリーヴは最後の自分のダンスがどういう意味を持っているのか自分では全く気づいていない。回りでおたおたする人々を尻目に踊り続ける。バスの中でもヘッドホーンをつけて、周りの大騒ぎから離れ1人自分の世界に没入している。ジタバタする家族から超然として終始変わらないマイペースっぷりが最高だ。

 結局この旅はそれぞれの夢が壊れてゆく旅なのだが、それでも一家にとって家族の絆が強められてゆく貴重な経験になった。このことが意味しているのは、家族の愛があれば夢なんかなくてもいいということではないだろう。誰にとっても夢は必要だ。だが、彼らが見ていた夢は多かれ少なかれ「成功の夢」だった。“リトル・ミス・サンシャイン”コンテストが象徴しているような競争原理に振り回されるのではなく、それぞれの身の丈にあった夢を持てばいい。そう言っているのだろう。

 最後もバスを押して帰るところがほほえましくも愉快だ。誰もがっかりなどしていない。彼らの顔には微笑が浮かんでいる。勝ち組になろうなんて考えはもう吹き飛んでいた。そう、そういう君たちこそ「ユー・アー・マイ・サンシャイン」さ。

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2007年2月20日 (火)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年3月)

【新作映画】
2月24日公開
 「さくらん」(蜷川実花監督、日本)
 「ボビー」(エミリオ・エステベス監督、アメリカ)
 「叫び」(黒沢清監督、日本)
3月3日公開
 「パフューム ある人殺しの物語」(トム・ティクバ監督、独・仏・スペイン)
 「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(ロバート・アルトマン監督、アメリカ)
 「パリ・ジュテーム」(ブリュノ・ポタリデス 、他監督、独・仏)
3月10日公開
 「ラスト・キング・オブ・スコットランド」(ケビン・マクドナルド監督、イギリス)
 「許されざるもの」(ユン・ジョンビン監督、韓国)
 「サン・ジャックへの道」(コリーヌ・セロー監督、フランス)
 「約束の旅路」(ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)
 「パラダイス・ナウ」(ハニ・アブ・アサド監督、独・仏・蘭・パレスチナ)
3月17日公開
 「ハッピー・フィート」(ジョージ・ミラー監督、豪・米)
 「春のめざめ」(アレクサンドル・ペトロフ監督、ロシア)
 「キトキト!」(吉田康弘監督、日本)
 「フランシスコの2人の息子」(ブレノ・シウヴェイラ監督、ブラジル)
3月24日公開
 「ユアン少年と小さな英雄」(ジョン・ヘンダーソン監督、イギリス)

【新作DVD】
2月21日
 「アタゴオルは猫の森」(西久保瑞穂監督、日本)
2月23日
 「ミュージック・クバーナ」(ヘルマン・クラル監督、キューバ・独・日)
 「紀子の食卓」(園子温監督、日本)
 「迷子」(リー・カンション監督、台湾)
3月2日
 「薬指の標本」(ディアーヌ・ベルトラン監督、仏・独・英)
 「トンマッコルへようこそ」(パク・クァンヒョン監督、韓国)
3月16日
 「フラガール」(李相日監督、日本)
 「カポーティ」(ベネット・ミラー監督、加・米)
3月21日
 「狩人と犬、最後の旅」(ニコラス・バニエ監督、フランス・カナダ他)
 「トゥモロー・ワールド」(アルフォンソ・キュアロン監督、英・米)
3月23日
 「太陽」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)

【旧作DVD】
2月23日
 「青いパパイヤの香り」(93、トラン・アン・ユン監督、ベトナム)
2月24日
 「わらびのこう」(03、恩地日出夫監督、日本)
3月2日
 「タバコ・ロード」(41、ジョン・フォード監督、米)
3月24日
 「死と処女」(ロマン・ポランスキー監督、英・米・仏)

 新作は先日「Golden Tomato Awards発表」「Golden Tomato Awards発表 その2」で紹Earth_jewel_w1 介した作品がいくつか登場する。「今宵、フィッツジェラルド劇場で」、「ハッピー・フィート」、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」の3本。どれも期待できそうだ。

 新作DVDは花盛り。最大の話題作は言うまでもなく「フラガール」。他にも「トンマッコルへようこそ」、「カポーティ」、「太陽」、「トゥモロー・ワールド」など豪華なラインアップ。一方、旧作DVDはやや勢いが落ちた感じがする。今月だけのことであってほしい。

 ちょっと先の話だが、うれしいお知らせ。4月25日にケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」のDVDが出るのにあわせて、ようやく彼のDVD-BOXが出る。「麦の穂をゆらす風」、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、「ブレッド&ローズ」、「ナビゲーター ある鉄道員の物語」、「明日へのチケット」の5作品を収録。この勢いで他の作品も続けてDVDを出してほしい。

2007年2月18日 (日)

漂流するアメリカの家族

  先週の日曜日に映画館で観た「リトル・ミス・サンシャイン」は愉快な映画だった。実にユHuiwto01 ニークな個性がそろった家族で、ハプニングだらけの旅とその途中のエピソードが面白い。そして圧巻は何といってもラストのダンス。” リトル・ミス・サンシャイン”コンテストでオリーヴが披露した踊りにはやられた。なるほどそうきたか!後で考えるとあちこち伏線が張られていたことに気づくが、意表をつくダンスに脱帽。

  昨日は「トランスアメリカ」を観た。こちらも家族のロード・ムービーだが、出来はさらに上回る傑作。フェリシティ・ハフマンが性転換手術を控える男性を演じ、その息子のケヴィン・ゼーガーズはドラッグに染まり男に体を売っているというねじれた親子関係。ひねりにひねった設定はアメリカというよりむしろイギリス的だが、ブラックな方向には向かわない。映画の味わいはアメリカ映画が得意とするファミリー・ドラマ。特異なシチュエーションであるにもかかわらず、人間的な情愛が意外なほどストレートに描かれている。

  ほとんど悪ふざけとも思える「リトル・ミス・サンシャイン」のラストのダンスにしろ、「トランスアメリカ」のねじれた人物設定にしろ、今のアメリカ映画はここまでやらなければ「個性的な」映画が作れないのかと考えさせられる。特に「トランスアメリカ」は、安易な作品がはびこるアメリカ映画の「お手軽病」を突き破る作品が多数公開された06年の中でもとりわけ異彩を放つ。とはいえ、窃盗で投獄されていた息子が意外にまともで、最後は父子の絆が取り戻されるという展開なので、決してひねた底意地の悪い映画ではない。既成の枠組みからどれだけ抜け出ているかで作品の良し悪しを計る向きには物足りないだろうが、これはこれで充分優れた映画だと僕は思う。

 「リトル・ミス・サンシャイン」★★★★
 「トランスアメリカ」★★★★☆

  いずれこの2作品ともレビューを書くつもりだが、ここではこの二つともロード・ムービーであるということについて若干考察してみたい。この2、3年に公開されたアメリカ映画には家族が旅をするロード・ムービーが結構ある。上記2作品のほかに、「ラスト・マップ/真実を探して」、ヴィム・ヴェンダース監督の「ランド・オブ・プレンティ」と「アメリカ、家族のいる風景」、未見だが「ブロークン・フラワーズ」など。家族ではないが「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」などもある。

  家族のロード・ムービーというパターンは今までそれほど多くなかった。最近になって急に増えてきたという感じだ。上に挙げた映画のほとんどは映画が始まった時家族はばらばらである。両親がそろっていないケースも多い。「リトル・ミス・サンシャイン」だけが両親もそろって祖父までいる。それは、これらの作品の中で一番従来のファミリー・ドラマに近いからである。親子そろって観られる映画なのだ。しかし、その「リトル・ミス・サンシャイン」の場合でも家族はばらばらである。ばらばらの家族がアメリカを漂流している。彼らの旅は家族の絆を求める旅である。だからただ目的地もなく漂っているわけではない。だが、不安定で波乱に満ちた旅である。家族同士が反発しあいながら次第に信頼を回復してゆく。互いに欠けている物を求め合っている。

  家族の絆を回復する旅だから途中で家族が離散したり(老人が途中で死ぬことはあるが)、目的地にたどり着けなかったりはしない。これらの映画には裏返しの願望が込められている。だが逆に言えば、それだけアメリカの家族が崩壊の危機にさらされているということだろう。従来のファミリー・ドラマがリアリティーを持ちえなくなってきている。自分を見失い、他人も見えなくなってきている。みんな自分の世界に引きこもってしまう。その典型が「リトル・ミス・サンシャイン」のドウェーン。彼は自分の部屋に閉じこもり誰とも口を利かない。互いに自分の殻に閉じこもり、会話が弾まない。家族の集まる食卓や居間には淀んだ空気が充満している。あるいは1人で暮らしている(「アメリカ、家族のいる風景」と「トランスアメリカ」は共に突然自分の子供が現われて慌てふためく映画である)。

  もちろん現実の社会では平穏に暮らしている家族も少なくないはずだ。映画はありふれた平凡な家庭を描くこともあるが、上記の作品は典型的なケースや極端なケースを象徴的Waveleaf_1 に描いている。しかしこれを例外的だと片付けるわけには行かない。現実の社会の中で深く広範に進行しつつある危機を抉り出しているとも言えるからだ。アメリカは世界一のストレス社会である。おまけに犯罪が日常的な不安社会でもある。失業や様々な差別もある。社会的軋轢が人々を外側から締め付け、麻薬やアルコール中毒、精神的不安が個人を内側から蝕む。いずれの問題もアメリカ映画では当たり前の日常生活のように描かれている。9・11後のアメリカの迷走ぶりがその不安に拍車をかけている。イラクへ介入し続ける一方で、ハリケーン・カトリーナはアメリカがアメリカ国民の生活と安全に無頓着なことや、社会保障体制が意外に脆弱であることが暴露された。上記の映画だけではない、アメリカ社会全体に淀んだ空気が沈殿している。

  淀んだ空気を吹き払うには「クラッシュ」が描いたように閉じられた窓を開け放ち、意識的に「触れ合い」を求める必要がある。じっと閉じこもるのではなく、行動を起こさなければならない。その行動のひとつが旅に出ることである。外の新鮮な空気に触れ、自分や家族をみつめなおす旅。旅は家族の絆を取り戻す特効薬として描かれている。今のところアメリカのぎすぎすした家族はこの特効薬で何とか千切れかかった絆を回復している。

  しかし薬は使い続けるうちに効かなくなってくる。さらに強い薬が必要になってくる。今後のアメリカ映画はどのような方向に進むのだろうか。安定を取り戻し再びのんきなファミリー・ドラマに回帰してゆくのか、あるいは旅も行き詰まるのか。「地獄の黙示録」のように謎にたどり着いたり、「アギーレ・神の怒り」のように仲間が途中で死に絶え残った1人も狂気にいたる展開になってゆくようなファミリー・ロード・ムービーが出現するのだろうか。ストレートな人間が1人もいない家族が出現するのだろうか(それに近い映画は既にたくさんあるが)。映画は社会を映す鏡。映画の移り変わりを深く理解するにはアメリカ社会の移り変わりを深く観察しなければならない。

2007年2月17日 (土)

ジャーヘッド

2005年 アメリカ 2006年2月公開
評価:★★★★
監督:サム・メンデス
原作:アンソニー・スオフォード『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』(アスペクト)
脚本:ウィリアム・D・ブロイルズ・Jr
撮影:ロジャー・ディーキンス
出演:ジェイク・ギレンホール、ピーター・サースガード、ルーカス・ブラック
   クリス・クーパー、ジェイミー・フォックス、ブライアン・ケイシー
   クリスティン・リチャードソン、エヴァン・ジョーンズ

Gen1_1   戦闘場面のない戦争映画。「ジャーヘッド」を一言で言えばそういう映画である。この映画が日本で公開されたのは2006年の2月だが、前年の暮れから06年の3月にかけて「ロード・オブ・ウォー」「クラッシュ」「スタンドアップ」「ミュンヘン」「アメリカ、家族のいる風景」、「シリアナ」、「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」など、アメリカを批判的に捉えなおした映画がどんどん入ってきていた。「ジャーヘッド」もそういう「ポスト9・11映画」の一つである。時代背景は1990-91年の湾岸戦争だが、明らかに9・11後の雰囲気の中で作られ観られてきた。

  最初は「フルメタル・ジャケット」や傑作TVドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」を思わせる新兵の厳しい訓練が続く。いつの時代にもいる鬼軍曹に厳しくしごかれて兵士たちは殺す機械に仕立て上げられてゆく。おなじみの場面だ。昔もこの手の映画は多かった。「あの高地を取れ」(1953)ではリチャード・ウィドマークが的と兵士の間に足を広げて立ち、俺の股の間から撃てと射撃が下手な兵士に命令する有名な場面がある。訓練も命がけだ。

  しかしその後はこれまでの映画と全然違う。「ワルキューレの騎行」の音楽に乗って戦闘ヘリ”アパッチ”が地上の敵を機銃掃射する有名な「地獄の黙示録」の場面を観て狂ったように盛り上がった気分のまま戦地に乗り込むが、彼らを待っていたのは戦闘ではなく延々と続く待機状態。過酷な訓練を経てアドレナリン出しまくりの戦闘機械となった兵士たちはその成果を実践で試したくて仕方がないが、こぶしを振り上げたものの殴るべき相手がそこにいない。じりじりと砂漠の炎熱に焼かれていたずらに訓練を続ける毎日。

  これまで何度か「ザ・トレンチ 塹壕」という映画を紹介した。第1次大戦で大量の戦死者を出したことで有名なソンムの塹壕戦を描いた映画。ほとんど戦闘場面もなく、だらだらと塹壕の中の兵士たちの日常を描くだけの、実に退屈でつまらない映画だった。しかしそれでも戦闘中だった。敵の狙撃兵に撃たれたり迫撃砲の直撃を受けて戦死するものが続出する。戦線が膠着しているだけである。しかし「ジャーヘッド」は戦闘そのものが描かれない。「ジャーヘッド」は偵察狙撃隊を主人公にして、ただ待機するだけの、たった4日間しか地上戦が行われなかった戦争を描いているのである。

  湾岸戦争は戦場を除けばテレビ観戦する戦争だった。あの緑色の夜間戦闘場面、地上から高射砲の砲弾が空に向って花火のように打ち上げられ、空中で炸裂し、地上では時々激しい爆発が起きる。パトリオット・ミサイルなど様々な種類のミサイルが飛び交い、ピンポイントで敵を破壊できる、誤爆がない「きれいな戦争」と謳われた戦争。あれはまるでゲームを観ているようで何のリアリティもなかった。「ジャーヘッド」が描いたのは、テレビが一切描かなかった現場の兵士のリアリティであった。この映画の意義はそこにある。

  「ザ・トレンチ 塹壕」と違い、同じ「戦わない戦争映画」でも「ジャーヘッド」は観客が飽きないよう様々に工夫している。ひたすら待つ兵士たちの焦燥感や欲求不満、炎天下でのS_illusion5_1 虚しい訓練ばかりではなく、味方の空軍による誤爆、その直後に目撃した黒焦げになった避難民の死体の山、何の真実も映さないTVの取材、TV向けに演じたほとんどやらせのガスマスクをかぶっての訓練(これが実に滑稽だ、ダース・ベイダーのまねも出てくる)、うっかりしてテントに火が燃え移り中の照明弾がまるで花火大会のように打ち上げられる場面など。特に映像として優れていた場面が二つある。一つは砂漠で訓練中に陽炎の中を何者かが近づいてくる場面。空気が揺らめいているので最初は敵か味方か分からない。緊張する場面である。これはまさに「アラビアのロレンス」でラクダに乗ったアリ(オマー・シャリフ)が登場するあまりに有名な場面へのオマージュだ。映像的にさらに圧巻なのはイラク軍によって火を放たれた油田から立ち上る黒煙と砂漠に降り注ぐ油の黒い雨の映像。テレビでも何度も映された光景だが、真っ赤に燃えた空を背景にしたこの場面は強烈な印象を与える。無駄に燃やされる原油と無駄に過ぎてゆく時間。凄絶な映像にむなしさが漂う。

  彼らはそこで何をやっているのか。何のために彼らはそこにいるのか。兵士たちはそれを問わない。一人だけそれを口にするが、すぐ議論は封じられてしまう。TVの取材を受けたときも「海兵隊に入ったときから言論の自由はない」と本音を吐くことを禁じられてしまう。何より炎天下で考える力さえ奪われてゆく。むなしく時だけが過ぎてゆく。兵士たちは問わないが、映画全体を通して先の疑問が観客に投げつけられている。そういう作りになっている。

  彼らの焦燥感のクライマックスはようやく戦闘が始まった時に訪れる。主人公のスウォフォード(ジェイク・ギレンホール)とトロイ(ピーター・サースガード)は敵の将校の狙撃を命じられる。やっと銃が撃てる。彼らは喜び勇んだ。しかし狙いを定めた瞬間、横にいた将校に狙撃中止を命じられる。作戦は空爆に変わったというのだ。トロイは逆上し掴みかかろうとしてスウォフォードに押さえつけられ、「撃たせてくれ」と狂ったように泣き喚く。結局彼らは一度も銃を撃たず、誰も殺さず国に帰還する。むなしさは極限に達する。

  ドイツ映画の名作「橋」(1959、ベルンハルト・ヴィッキ監督)では、戦争ごっこに夢中になっていた少年たちが戦争に駆り出される。俺たちが敵をコテンパンにやっつけてやると最初は勢いづいているが、実際に戦闘が始まると(指揮官は未熟な少年兵たちに敵の来ない橋の見張りを命じたのだが、皮肉にも連合軍は裏をかいてそこから攻めてきた)、彼らは地獄を見ることになる。生き残ったのはわずかだった。戦争の残酷さとむなしさを描いた戦争映画史上屈指の名作だが、「ジャーヘッド」はまた別の角度から戦争のむなしさを描いたといえる。

  誰も殺さず、自分も殺されずに帰国できたのは幸いだが、戦闘は空爆やミサイル攻撃で決着がついてしまい、自分たち地上部隊は何しに行ったのかというむなしさが残る。しかし彼らはヒーローとして迎えられる。バスに乗り込んできた中年の男は戦場の勇ましい土産話を聞きたくて仕方がない様子だが、兵士たちは迷惑そうな顔で黙ったままだ。話そうにも話せない。敵を倒すどころか、一発も敵に向けて撃っていないのだから。テレビを見て浮かれていた国内の人たちと戦場にいた兵士とのギャップもまた説得力を持って描かれている。

  故国に凱旋した彼らはヒーロー扱いされるが、彼らの胸に残るのはむなしさと虚無感だKu_005 けだった。そのむなしさには自分たちは何のために派遣されたのかという戦争そのものに対するむなしさも既に入り込んでいる。一体あれは何のための戦争だったのか。誰のための戦争だったのか。彼らの胸の中のうずきは一旦は窒息させられていた人間的感覚が戻りかけてきていることから来るうずきである。しかし人間的感覚が戻ってきても、彼らの体の中には戦争によって植えつけられた毒素がいつまでも消えずに残っていた。

 彼らは平時の日常生活に戻る。しかし彼らの中にいつまでも戦争が不完全燃焼のまま残っていた。「男は何年も銃を撃ちそして戦争に行く。やがて家に戻り、それ以外のことをし始める。家を建て、女を愛し、おしめを換えるが、彼はいつまでも“ジャーヘッド”。 “ジャーヘッド”は皆、殺し、死ぬ。それはいつでも僕自身だ。僕らは今も砂漠にいる。」最後に窓の外を眺めるスウォフォードの姿が映される。キャメラが横に移動すると、彼の姿を境に窓の外の眺めが砂漠の戦場に変わって行く。戦場から帰ってきたのはヒーローではない。兵士の抜け殻だった。彼の心は今も敵のいない戦場を駆けめぐっている。

 この映画はある意味で「ユナイテッド93」に共通する性質を持っている。現場に密着した分その場にいたものにしか分からないリアリティが描きえているが、その一方で大状況が充分描かれていないうらみがある。「ジャーヘッド」はアメリカの政策や湾岸戦争そのものの意味を正面切って問うてはいない。代わりに兵士たちの焦燥感やむなしさが強調されている。その分曖昧さが入り込んでいる。大活躍した空軍の兵士を主人公にしていれば、この戦争はもっと違って見えていただろう。しかしこの映画が描いたむなしさは9・11後の不安感や厭戦気分とシンクロする面もある。戦争を描く新しい視角を提起したことは評価されるべきだろう。

  入隊前スウォフォードは大学に行きたかった。しかし貧しい家に育った彼にはかなわない夢だった。彼が軍隊に入ったのはそうすれば大学に行かせてもらえると思ったからである。湾岸戦争後10年ほどたってアメリカは再びイラクと戦火を交えた。その時も構図は同じだった。マイケル・ムーアの「華氏911」があぶりだしたように、食べてゆけない貧しい層は食うに困らない軍隊に志願してゆく。金持ちたち支配層は国民をだまし安全な国内にとどまりつつイラクに軍隊を送り、飢えた貧しい人々は戦場に向かい命を落とす。21世紀のスウォフォードたちは銃を撃つことが出来た。しかし祖国に帰って来た時は棺に入っていた者も少なくない。

2007年2月16日 (金)

雪に願うこと

2005年 日本 2006年5月公開 F_kesiki01w_1
評価:★★★★☆
監督:根岸吉太郎
原作:鳴海章 「輓馬」(文藝春秋刊)
脚本:加藤正人
撮影:町田博
出演:伊勢谷友介、佐藤浩市、小泉今日子
    吹石一恵、山崎努、草笛光子、香川照之
    小澤征悦、椎名桔平、山本浩司
    津川雅彦、岡本竜汰、でんでん、出口哲也

  こういうストレートな日本映画は久々に観た。おそらく「深呼吸の必要」(04年、篠原哲雄監督)以来だろう。バブルの頃はこんなストレートで地味な映画は鼻で笑われていただろう。つくづくバブルは遠くなりにけりだ。「深呼吸の必要」は本土から沖縄のサトウキビ刈りに参加した5人の若者の苦労と成長を描いた映画。それぞれに問題を抱えた若者たちが労働と共同生活を通して心を開いてゆく様子をさわやかに描いた。「雪に願うこと」は東京で事業に失敗した青年が帯広で厩舎を営む兄の下に転がり込み、厩舎での馬の世話を通じて再び自分を取り戻して東京に戻ってゆくまでを描いている。どちらもいわゆる「予定調和に向う単純な映画」などと揶揄されるタイプのストレートな映画だ。確かに枠組みはテレビ・ドラマによくあるありきたりのパターンである。しかし二つの作品ともそういう枠組みを持ちながら、なおそれを越えて観客に確かな手ごたえを与える力がある。どちらも優れた映画だが、映画の出来としては「雪に願うこと」の方が上である。

  サトウキビ刈りは体力のいる重労働だが、一時的なものである。刈り終われば若者たちは去ってゆく。一方厩舎での仕事は1年を通して休みなく行われる。朝から晩までかかるきつい仕事だ。「矢崎厩舎」で育てているのはサラブレッドではなく、輓曳(ばんえい)競馬に出場する輓馬(ばんば)である。輓曳競馬は輓馬たちが数百キロ以上もあるソリを曳きながら走るレースである。輓馬がソリを曳くので「輓曳競馬」と呼ばれる。サラブレッドが馬の短距離選手なら、もともと農耕馬である輓馬は馬の重量挙げ選手である。同じ馬でも全く違う。体重はサラブレッドのおよそ2倍、1トンほどもあるという。ずんぐりむっくりでがっしりした体格。

  この輓馬の姿が「雪に願うこと」という映画の性格をそのまま示している。生活に根ざしたどっしりとした映画なのだ。競馬のシーンはこの地味な映画の数少ないスペクタクル・シーンでありハイライトである。しかしこの映画の価値は厩舎での日常の生活をじっくりと描いたこと、それが兄弟の価値観の衝突というドラマの土台としてしっかりとストーリーの中に煉り込まれていることにある。この点を見逃すべきではない。 北海道の大地に根を張るように生きている「矢崎厩舎」の親方矢崎威夫を佐藤浩市がいぶし銀の味わいで演じている。彼は、重厚さの中にも軽妙さを併せ持っていた父親の三國連太郎とはまた違うタイプの役者に育ってきた。今や日本映画界の中堅どころとしては役所公司、竹中直人、岸部一徳、香川照之などと並ぶ代表格である。

  弟の学(伊勢谷友介)は一時いい目を見たのだが、結局は事業に失敗した負け犬。兄を頼って北海道に帰ってきて競馬になけなしの金をかける。しかし結局その金も全部すってしまう。人生のレースも馬のレースもうまくいかない。彼が金をかけたウンリュウという馬も負け続けている馬だった。年間の賞金が100万円に届かない馬は「馬刺し」にされる運命が待っている。そのウンリュウの騎手を務めた首藤牧恵(吹石一恵)も最近勝てない。学に馬券の買い方を教えた丹波という男(山崎努)に彼女は「お前も馬刺し」と言われてしまう。学、ウンリュウ、牧恵、崖っぷちに追い込まれたこの「馬刺し3兄弟」の再生への努力が始まる。

Sizuka1   ウンリュウを介して学と牧恵も知り合いになる。学に生きる力を与えたのは厩舎での労働とウンリュウの生命力である。追い込まれたもの同士、惹かれあうようにして学とウンリュウは心を通わせてゆく。最初は仕事の邪魔になっているだけの学もやがて「すっかり馬臭くなったな」と言われるまでになる。厩舎での労働以上に魅力的なのは馬の調教の場面。がっしりとした輓馬(ばんば)は北海道の大地によく似合う。雪の残る北海道の広々とした台地とどっしりとした馬の姿が実に美しい。特に冬の朝、体中から湯気を立ててソリを曳く馬の映像が実に詩的で美しい。

  世間をいつか見返してやることばかり考えていたささくれ立った学の気持ちを変えたものは他に二つある。一つは母親(草笛光子)との再会である。母は自分には自慢の息子がいると学に語るのだが、目の前にいる学がその息子であることに気づかない。泣きながらボケた母親と「幸せなら手をたたこう」を踊るシーンはなかなかに感動的だ。しかしそれ以上にはっとさせられたのは踊ろうと立ち上がったときの母親の姿だ。母親が何と小さく見えたことか!「たわむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず。」どんな苦労話を聞かされるよりも、この小さな体がそれを雄弁に語っていた。

  もう一つはかつての同僚と思われる須藤(小澤征悦)という男が学を北海道まで追ってきて食堂で怒鳴りつけるシーンだ。彼は本気で怒っていた。唖然とする周りの者のことなど全く気に留めていない。学は会社が順風満帆な時は調子のいいことを言っていたが、会社が倒産してしまうと無責任に一人北海道に逃げてきたのである。会社の倒産がどれほど多くの人に迷惑をかけたのかお前には分からないのか、本気で怒鳴った須藤の言葉が学の胸に突き刺ささる。須藤は学から金を取り立てに来たのではない。学が一文無しであることは初めからわかっている。他人の信頼を裏切り、他人に迷惑をかけっぱなしで逃げていった学の無責任な姿勢を叱責しているのだ。学を信じていたからこそ本気で怒ったのだ。彼は学に自己破産申立書に判を押させて帰っていった。学1人が転落したのではない。彼には多くの人が生活を預けていたのだ。彼の母親のように彼に夢を託していた人もいる。人間は一人で生きているわけではない。学は厩舎での共同生活を通じて、あるいは須藤や母親との再会を通じてそれを学んでいったのだ。厩舎ですごした時間は自分の甘さを知り、自分を見つめ直す時間であった。

  学に影響を与えた人物はもう1人いる。競馬の時だけまかないにやってくる晴子(小泉今日子)である。学の目からも晴子と兄が好意を抱き合っていることはわかるが、晴子はそれ以上決して踏み込もうとしない。「今更男の人と幸せになろうなんて思ったら罰が当たる。雪が降って冬になればまた帯広にやってくる。帯広に輓馬がやってくれば春になるまで大将のそばにいられる。それだけで充分。」学は晴子から人の気持ちの優しさを教えられた。小泉今日子の存在感は抜群。「なんてたってアイドル」から22年。本当にすごい女優になった。

  脇役である牧恵の場合は、もっと簡潔に心の葛藤とその変化が描かれている。「消えたり現われたりする橋」が象徴的に使われている。昔彼女が住んでいた村にある橋だ。ダムが出来たために彼女たちをその場所を追われた。橋は水位によって現われたり消えたりする。映画では水の代わりに雪が使われていた。最初牧恵が学を案内した時には橋の全景が見えていた。二人は橋を見上げていた。だが、「お前も馬刺し」と言われて落ち込んだ牧恵が逃げるようにやってきたときには半分雪に埋もれていた。橋は人生の浮き沈みを暗示していた。現実のものとは思えない何とも不思議な空間で、これが実に効果的に使われている。

  学は兄に雇われるが給料は月8万円。小遣い程度だ。厩舎の経営がいかにぎりぎりの生活なのか分かる。学が山崎努扮する丹波(学に馬券の買い方を教えた男)に向って「勝Saba3_1 負って勝ち負けじゃないだろ」と怒鳴るシーンがある。世間を見返すことばかり考えていた彼からすれば一皮剥けた発言だが、しかし厩舎にとって競馬での成績はそのまま生活に跳ね返ってくる。きれいごとばかりは言っていられない。負け続ける馬は食肉にされてしまう。学はまだまだ甘い。ある厩務員が飲みに行っている隙に大事な馬が病気で倒れた時、威夫はその男を殴り倒し思い切り蹴飛ばした。学自身も威夫の肘鉄を食らって吹っ飛ばされたことがある。佐藤浩市の演技は半端ではない。本気で殴っていると思えるほどだ。馬1頭の生き死には文字通り生活を左右する。威夫は必死である。手抜きには容赦しない。

  威夫の厩舎は彼独りで成り立ってはいない。何人も厩務員を雇い、その生活も保障しなければならない。牧恵など騎手との関係もあるし、賄い婦の晴子にだって金を払わなければならない。馬主との関わりもある。馬主は投資しているのである。負けていては馬も人間も生きてゆけない。馬と人間は一体なのだ。レースに出て脚光を浴びる馬と騎手の背後にこれだけの人間関係があり、生活があり、レースの結果にはこれだけ多くの人たちの思いが込められている。輓馬はソリと騎手だけではない、これだけの重荷と願いを同時に曳いているのである。この映画の優れた点は、これらのことを言葉ではなく、厩舎での仕事を黙々とこなす男たちの姿、馬の世話にこめる男たちの愛情、威夫がたびたび見せる暗く重たい表情、そして何よりまるで鉄の塊のようなずっしりと重いソリを曳く輓馬の姿によって描いていることである。

  輓馬はサラブレッドのように疾走はしない。苦しそうに息をしながら、ずるずるとソリを引きずる。猛烈な鼻息、体中から汗が噴出し湯気が立ち上る。盛り上がった障害の前では立ち止まって力を蓄え一気に上る。坂の頂上あたりでは前足が重みに耐えかねひざまずいてしまうことがある。それでもまた体勢を立て直し前進する。「風に願うこと」は人間のドラマであるが、競馬は決して単なるスペクタクルではない。重いソリを曳いて苦しみもだえる輓馬の姿にはその馬を育ててきた人間たちの苦労と希望が二重写しになっている。地味な作品ながら、まれに見る力強さを持っているのはそのためである。

  学の心の変化とウンリュウの調教は並行して描かれ、ラストの競馬でクライマックスを迎える。そのレースで勝たなければウンリュウは馬刺しにされてしまう。だが競馬場にそのレースを見届ける学の姿はなかった。学はその前に東京に戻ることを決意していた。学はレースを見ずに東京へ帰ってゆくのだ。須藤に本心から謝るために。去る前に学は「ウンリュウ、ありがとな」と話しかけながら馬の頭をなでさする。ラストはウンリュウのレースと競馬場を出てゆく学の姿が交互に映される。

  ストーリーとして学をそのまま厩舎で働かせる選択肢もあった。しかしそうしなかったのは正しい選択だったと思う。どう見ても厩舎は彼のいる場所ではない。厩舎で働き始めた時学の姿は完全に他から浮いていた。兄や厩務員たちは北海道訛り、弟は東京の言葉で話している。やがて学も次第になじんでくるが全く同じにはなれない。一時生活を共にしてその苦労を知るのはいいが、そんな簡単に調教師になどなれるはずもない。そんな安易な方向を選ばず、映画は彼をもう一度人生に立ち向かわせた。レースの結果を見ずに出て行ったのはウンリュウの勝利を確信しているからだったかもしれないし、あるいは、たとえ勝てなかったとしてもウンリュウはもはや負け犬ではないと信じていたからかもしれない。できるだけのことはやった。しっかりと前を見つめる彼の顔に迷いはない。思いを残さず彼は去ったのである。

  学が出てゆくことを決意した後の厩舎での学と兄威夫の会話が印象的だ。「うらやましいな兄さんが。」「なしてよ?」「迷わないで生きてる。」「何言ってんだ、迷ってばかしだ。」北海道での生活で何がしかのことは学んだが、学の行く先は決して平坦な道ではないだろう。再び成功できる可能性は低い。彼もまた兄のように迷いながら生きてゆく以外にない。それでも彼は前に踏み出した。ウンリュウのように重い荷物を背負って。

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2007年2月12日 (月)

冬の不動滝

07212_1  上田駅の近くで昼食をとった後、ドライブに行く。いつもながら行く当ては特にない。国分に向かい千曲川沿いの道を丸子方面に向かう。そのまま丸子を抜け、「ブランシュたかやまスキー場」へ行ってみることにした。家から車で1時間程度で行けるスキー場は5つ6つある。「ブランシュたかやまスキー場」は「車山スキー場」と同じ山の反対側にあるスキー場で、その二つの中間にあるのが「エコーバレースキー場」。「車山」は行ったことはないが、他の二つは滑ったことがある。

 スキー場に着くと結構人はいた。雪はさすがに少なく、気温が高いのでほとんどシャーベット状。駐車場の辺りは緩斜面で家族向き。そこから速度の遅いとろとろリフトで延々のぼって上のゲレンデに行ける。そっちの方はあまり人はいないのではないか。スキーの用意は当然していないが、レンタルして4、5回だけでも滑ってみたいという誘惑に駆られた。もちろんそうはせずにおとなしく帰った。

07212_2   途中2箇所寄ったところがある。登ってくる途中看板を見かけて帰りに寄ろうと思っていたところだ。最初に車を停めたのは道路わきの小さな川原。なんとか渓谷との看板があったのでいってみた。別にどうということはないただの渓流があるだけだった。途中二股の道があって、もう一方の道はもっと上まで上っていたのでそっちに行けばすごい渓谷があったのかもしれない。そっちに行ってみようかとも思ったが、もう4時近かったので諦めた。

 次に行ったのは「不動滝」。わき道に入るとすぐ山道。車が1台やっと通れる程度の細い07212_3道だ。対向車が来たらどうしようと不安が頭をかすめるが、この時期にこんなところに来る人はないだろうと自分を納得させる。実際、車1台、人っ子一人見かけなかった。途中あと2.5キロという看板が目に入る。山道だから結構あるなと思ったがとにかく進んだ。ようやく「不動滝」という看板が立っている橋のところに着く。水の音も聞こえてくる。やれやれやっと着いたか。車を停め、カメラを用意して車外に出る。ふと先ほどの看板をもう一度見ると、何と「不動滝1キロ」とあるではないか。思わず「バカ野郎」と叫んでしまった。

 その先も道はあるが雪が道を覆っている。橋の先に滝のようなものが見えるが、コンク リートの堰だった。一瞬それが「不動滝」だったことにして引き返そうかと思ったが、ここまで来たのだから行ってみようと気を取り直す。車で橋を渡ったがその先は舗装されていない。上れなくなったらえらいことになると思って、バックで橋のところまで引き返す。車を置いて歩いて上る。「1キロ」となっているが実際はその半分ぐらいの感覚だった。中国で203高地を登ったときも「頂上まで30分」と書いてあるのに実際は10分くらいしかからなかった。「何だもう着いたのか、案外たいしたことはないな」と思わせるために、実際より多めに書いてあるのだろうか。

07212_5  それはともかく、いい加減息が切れてきたころに滝が見えてきた。山の陰なので気温はかなり低い。それでも滝に着くころには汗をかいていた。滝が落ちている岩は不思議なほど真っ黒だった。そこだけ黒いのでやけに目立つ。何しろあたりは茶色一色で、地面は雪で真っ白なのだ。滝の高さは7、8メートルくらいか。黒い岩に氷がツララ状にいくつも張り付いている。このところほとんど雨が降っていないので水はあまり流れていないのではないかと心配していたが、結構ざあざあと流れていた。普通の年ならもっと水量は多いのだろう。もっとも暖冬だからこの時期に上ってこれたのだろう。雪が多い年だったら「冬の不動滝」は拝めなかったかもしれない。

 滝の下に東屋がある。そこでタバコを吸ってしばし休憩。休んだ後何枚か写真を撮った。周りの山は岩山だ。ごつごつとした岩が崖のようにむき出しになっている。もう陽もか07212_1_1 なり低くなってきたので10分ほどいてすぐ道を引き返した。橋のところまで戻った時はほっとした。しかしまだまだ油断は出来ない。雪の残る細い山道を今度は下らなければならない。大した斜面ではないのだが、何せ道が細いのでロウ・ギアで走った。それでも結構スピードが出る。道からそれないよう慎重に運転する。雪のあるところはさすがに走りにくかったが、スリップすることもなく無事降りられた。愛車インプレッサはスバルの車だけにやはり足回りがいい。ほとんど不安を感じなかった。普通の道に出て、気持ちよく家まで走った。

2007年2月11日 (日)

グエムル 漢江の怪物

2006年 韓国 2006年9月公開
評価:★★★★☆
監督&オリジナルストーリー:ポン・ジュノ
脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン
撮影:キム・ヒョング
音楽:イ・ビョンウ
出演:ソン・ガンホ、パク・ヘイル、ペ・ドゥナ、コ・アソン、ピョン・ヒボン
   イ・ジェウン、イ・ドンホ

 全体にどこかB級映画を思わせる作りだが、滅法面白かった。「ボディ・スナッチャー」、Steal2_1 「遊星よりの物体X」、「エイリアン」シリーズ、「トレマーズ」、「GODZILLA」、「レリック」、「ミミック」、「グリード」、「パラサイト」など、この手の映画は結構観ている。他にも観ているはずだが、ほとんどがB級映画なのでよく覚えていない。いずれにせよ、「グエムル 漢江の怪物」は日本の怪獣映画などのありきたりの怪物物に比べると相当ユニークだ。そのユニークさをまずしっかり捉えておくことがこの映画を理解する上で重要である。「宇宙戦争」や「エイリアン」シリーズほど豪華ではないが、日本の怪獣映画ほどチープでもちんけでもない。良くできたB級映画という作りだ。言ってみれば韓国版「トレマーズ」である。しかし「宇宙戦争」も「エイリアン」も「トレマーズ」もどちらかというと宇宙人や怪物から反撃しつつ逃げ回る映画だが、「グエムル 漢江の怪物」はむしろ奪われた家族の一員を取り戻すために、ばらばらだった家族が力を合わせて怪物に立ち向かう映画である。家族愛が強調されているところがいかにも韓国映画らしい。

  怪物は日本の「ゴジラ」やアメリカ版「GODZILLA」のような近代兵器も通じないほど強力ではない。「エイリアン」シリーズのように数が多くもない。言ってみれば「ロスト・ワールド」の恐竜の1匹が現代韓国社会に出現したようなもの。銃程度では大した効果はないが、ミサイルを浴びればひとたまりもない。つまり、大した武器を持たない(「トレマーズ」のようなダイナマイトすらない、せいぜい銃や弓や火炎瓶程度である)普通の家族が力を合わせれば倒せる程度の怪物である。あくまで「家族」が強調されているのである。だから恐ろしい怪物ではあるが、「ゴジラ」や「GODZILLA」ほど大きくはなく、せいぜい象くらいの大きさの(ただし動きは素早く獰猛な)怪物が必用だったのである。

  そう考えてくれば、怪物をウィルスの発生源として誤って認識するという無理な設定がなぜ必要だったかも分かる。軍が本格的に介入したら怪物などひとたまりもないからなのだ。警察は怪物の捕獲ではなくウィルスに感染した人々の隔離に追われる。軍が介入するほど強大な脅威ではないという設定。主人公たちにとっては軍や警察の協力すら得られないどころか、むしろウィルスの感染者として隔離され、家族の救出に向うことさえ妨害されるという設定にしたかったのだ。こうして、まるで「真昼の決闘」のように誰の協力も得られず、彼らは自分たち家族だけで怪物に立ち向かうのである。

 こういう設定なので、この映画には颯爽としたヒーローは登場しない。アメリカ大統領が先頭を切って大活躍する「インデペンデンス・デイ」タイプではなく、有名俳優は早々に殺され大統領ならぬ無名の人たちが活躍する「マーズ・アタック」のような、あるいは無名の人々が力を合わせて怪物を倒す「トレマーズ」のようなタイプの映画。そして無名の家族を支えていたのは「家族愛」という設定。

 これにアメリカ批判がトッピングされている(もちろんピリ辛味)。怪物は漢江上流の米軍基地から劇薬ホルムアルデヒドが大量に不法投棄されたことにより誕生したのである。しHuymgm03_1 かもアメリカ批判は政治面だけではなく文化面にも向けられている。長年同じようなものを作り続けてくるとどんどんエスカレートしてゆかざるを得ない。怪獣が強大化して現実味が薄くなったアメリカ映画の怪物やかっこよすぎるヒーロー像、あるいは日本のチープな怪獣映画に対する批判が込められている。外国映画の焼き直し、シリーズ物の続編ばかり作っているアメリカ映画界の「お手軽病」は、一方で強い奴を組み合わせればすごい映画になるだろうという安易な方向にも向かう。「フレディVSジェイソン」がその典型。吸血鬼とフランケンシュタインをくっつけてしまおうという「ヴァン・ヘルシング」もそう。ヒーロー側も「リーグ・オブ・レジェンド」で大結集だ。かくして話は「ドラゴン・ボール」のように荒唐無稽になって行く。そのうち「ス-パーマン・バットマン・スパイダーマン・ロボコップvsプレデター・ターミネーター・エイリアン・GODZILLA+助っ人怪獣ゴジラ・キングコング(どっちの側についたかは観てのお楽しみ)」が出来るかも。日本ではとっくに大怪獣結集映画を作っている。

  超人的なヒーローが登場しない代わりに、逆にだらしない人間を中心に据える。金髪で店番をしても居眠りばかりしている主人公のカンドゥ。名優ソン・ガンホがここでもいい味を出している。それでも彼らが活躍できるのは、原動力として「家族愛」があるから。いわば等身大のヒーローたち。スーパーマンにとってはなんでもないことでも、現実の人間には乗り越えられない壁になる。鉄格子があればそれを通り抜けられない。高い塀を乗り越えられない。酒を飲みに行きたくても目を光らせている奥さんを突破できない。韓国のダメ親父カンドゥはウィルス感染者として隔離された施設のビニール・カーテンすら簡単には抜け出せない。目に見えない社会の縛りがあるからだ。大怪獣など登場させなくても社会の抑圧機構を描くだけで充分ドラマになる。戒厳令を敷き、伝染病ウィルスの拡散を防ぐことに力を注ぐ軍や警察は主人公たちの助けではなくむしろ障害になる。軍隊は戦時も平和時も国民に対する抑圧機関である。ある意味、カンドゥをベッドに縛りつけ、あまつさえウィルスを取り出すために頭部の手術すら強制する政府の役人たちはカンドゥたちにとって怪物と同じであるとさえ思える。主人公たちに協力する味方は浮浪者などの社会から疎外された個人である。

  「グエムル 漢江の怪物」は主人公たちが大活躍するというよりは、なかなか家族の救出に向えないもどかしさを描いている。しかも家族が一丸になって怪物に立ち向かうのではなく、途中でバラバラになり、1人ずつ立ち向かわざるを得ないため簡単に怪物によって跳ね除けられてしまう(力を合わせても容易ではないのだが)。設定は無理やりだが展開は(等身大の主人公たちの闘いという意味で)結構リアルである。こうして所詮B級か子ども向けだった怪獣映画を一級品に仕立て上げたポン・ジュノ監督の力量は賞賛してよい。 言うまでもなく、上に述べた設定は意識的なものである。ポン・ジュノ監督がインタビューに答えて語った次の言葉はこの映画を鑑賞する上で重要なヒントを与えてくれる。 

 最も情けない家族にしようと思いました。グエムルと一番戦えそうにない、戦うという行為が似合わない駄目な家族にしようと。それこそがこの映画のドラマの核心部分だと思いました。普通、怪獣映画だと、軍人や天才科学者などのスーパーヒーローが出てくると思うのですが、この映画はそうではありません。そんな風に色々と家族構成を考えていたら、2世代に渡って母親が不在ということに気がつきました。ヒョン・ヒボンにも、ソン・ガンホにも妻がいません。なぜ母親を登場させなかったのかというと、私の考えでは、母親は賢く現実的で、家庭の中でとても強靱な存在なんです。だから母親がいると、駄目なはずの家族が、情けない家族に見えなくなると思ったのです。パク一家が駄目な家族に見えるからこそ、この映画ではその設定が生きると思ったのです。ですが、あれほどまでに情けないパク一家が、命を賭けて助けようとしたヒョンソに、実は母親的な要素があったのです。劇中でグエムルによって閉じこめられていたときに、ヒョンソは自分より小さな男の子を守ろうと必死でした。 eiga.com

 ダメ親父としっかり者の女房というよくある組み合わせをあらかじめ解体してあるという指摘が面白い。母親は最初から不在であり、その可能性を持ったヒョンソも最後には死んでしまう。徹底してアメリカ映画の定番パターンを崩してゆく。そういう意図に基づいて作られた映画である。怪物自体もユニークである。見るからに恐ろしげではなく、元はなんだか分からない中途半端な姿がかえっていい。ホラー映画並みにやたらと観客を脅かす描写は極力少なくし、彼女を救おうとする家族の奮闘に多くを割いている。怪物は特別巨大ではないので街のどこかに隠れ潜んでいる。どこか分からないが近くにいて神出鬼没だからこそ恐ろしい。「キングコング」のように怪物自体に共感することもない。何の感情も持たせていない。しかし智恵はあるらしい。

  大きな排水溝の中に閉じ込められたヒョンソ(コ・アソン)はもう一人生き残った男の子と一緒に小さな横穴に隠れている。彼女たちの存在に気づいた怪物は無理やり捉えようとするのではなく陽動作戦を取った。脱出用(だということまで怪物は認識しているようだ)のヒモの下で眠っていると見せかけて彼女をおびき出すのだ。ヒモに手をかけた途端、ヒョンソの動きが止まる。キャメラの視線が下がると彼女の体に怪物の尻尾が巻きついていた。どこかで似たシーンを見た気がするが、ともかくぞっとするシーンだ。こういった演出がなかなかうまい。

  監督はかなりこの手の映画を観ているのだろう。穴に隠れるヒョンソたちを怪獣が追い詰め、穴を覗くシーンはまさに「エイリアン」。怪物が初めて登場するシーンはそれこそ「ジョーズ」だ。漢江は有名な観光スポットで、休日には家族連れやカップルがたくさん集まる。そののんびりした楽しい風景に怪物が不穏な影を落とす。橋の下から尻尾でぶら下がっている光景が何とも不気味。やがて怪物は川に飛び込み、黒い影を水面に映して泳ぎ始める。あのゾクゾクする「ジョーズ」のメロディーが聞こえてきそうだ。観光客たちは最初面白がって見ていたが、やがて怪物は岸に上陸し人々を襲い始める。のどかだった漢江の岸辺は一転して阿鼻叫喚の巷と化す。カンドゥは娘のヒョンソの手をとって逃げようとするが、気が付いたら他人の手を引いていた。怪物はあっという間に長い尻尾でヒョンソを捕まえて川に飛び込み、向こう岸に消えて行く。導入部分として実に秀逸だった。

  ソン・ガンホが主人公なのでしっかり笑いの要素も盛り込まれている。その笑いも滑稽さだけではない。そこは「ほえる犬は噛まない」のポン・ジュノ監督、風刺の効いたシニカルなPearl_k02_1 笑いも含まれている。それでいてスペクタクルも楽しめる。盛りだくさんな映画なのだ。ただし、その分中途半端という指摘もあるだろう。いささか無理な設定が多すぎるのは確か。特に韓国政府とアメリカのあたふたとした、しかも見当違いな対応には何度も突っ込みを入れたくなる。しかし、ありもしないウィルス騒動に振り回される韓国政府に、追い討ちをかけるようにアメリカが茶々を入れてさらに事態を混乱させているという構図には監督の批判精神がきっちり盛り込まれている。あえて戯画化という方法をとっているのである。結果的にはナンセンスの方向に流れてしまっているので必ずしも効果的ではないが、家族愛ばかりが前面に出て甘くなるのを防いではいる。そんな馬鹿げたものに人々は翻弄されるのである。

 最後にその家族というテーマを詳しく見てみよう。カンドゥはだらしない男である。店番をさせれば居眠りをする。その上あろうことか客に出すイカの足を1本食べてしまう。父親であるヒボン(ピョン・ヒボン)にいつも叱られてばかりいる。そんな彼だが娘のヒョンソは人一倍可愛がっている。彼には下に妹と弟がいる。弟のナミル(パク・ヘイル)は大卒だがまともな職についていない感じだ。学生の頃には学生運動に参加していたようである。妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)はアーチェリーの選手。大会に出場するほどの選手だが肝心なところで力が発揮できない。

 この家族が集まるのはヒョンソを含む犠牲者の合同葬儀の時。しかし家族の結束は簡単に生まれない。ヒョンソがさらわれたのは「お前が手を離したからだ」と弟のナミルがカンドゥを怒鳴りつけている。むしろ家族はばらばらだった。その上に、葬儀の最中に黄色い防護服を着た人が現れ、現場にいた人たち全員を強制的に隔離してしまう。カンドゥの携帯電話に「お父さん、助けて。私は今、大きな排水溝の中・・・」とヒョンソが電話をかけてきたのはその夜である。ヒョンソは生きている!そこで初めて家族が結束する。しかしヒョンソ救出どころか彼らは隔離施設を抜け出すことさえ出来ない。戦いは人間との戦いから始まる。

 娘は生きていると訴えても警察は耳を貸さず、ウィルスで頭がいかれていると相手にしない。賄賂を使って何とか抜け出すが、間抜けなカンドゥが銃弾の数を間違えたために怪物に立ち向かったヒボンが殺されてしまう。カンドゥは再び警察に捕まってしまい、ナミルとナムジュも逃げる際にバラバラになってしまう。怪物と戦っているのか国家と戦っているのか分からないという描き方になっている。

 そこから3人それぞれの孤独な戦いが始まる。しかしバラバラになりながらも家族の絆は途切れなかった。そういう描き方がいい。警察に追われ力尽きたナミルは携帯でナムジュにヒョンソの居場所を知らせる。ナムジュは妹救出に向かいアーチェリーを武器に怪物に立ち向かうが、怪物に弾き飛ばされ排水溝に落ちてしまう。ヒョンソのいる排水溝に近いが別の排水溝だ。排水溝は社会の底辺を象徴しているのだろう。社会の掃き溜め。パク一家のヒョンソ救出劇はまさに掃き溜めの中の戦いだった。

 高い金を取られて役に立たない地図を買わされたり、先輩に裏切られたり、彼らは途中散々な目に合う。3人がそろって力を合わせるのは最後の最後までお預けである。最後にやっとカンドゥとナミルとナムジュが結集して怪物を倒す。家族の力を合わせることで初めて敵を倒せるといういかにも韓国らしい作り。しかし皮肉なことに怪物の動きを鈍くさせたのはアメリカ軍がいい機会とばかりに実験的にまいたイエロー・エージェントと名付けられた対細菌兵器用の薬品だった(人間には無害だが怪物には有害というのは「宇宙戦争」のアルージョンだろう)。怪物は焼き殺されるが、怪物に油をかけたのは彼らに協力してくれた別の男だった。ナミルはあせって火炎瓶を取り落とし、かろうじてナムジュがその火を借りて怪物に火矢を放つ。猛火に包まれもだえる怪物にやっとカンドゥが鉄の棒で止めを刺す。家族の力の結束を強調しながらも、最後まで彼らを英雄にしていない。そんな描き方もいい。

 怪物は倒せたが、怪物に飲み込まれていたヒョンソは既に息絶えていた。ただヒョンソが抱きかかえるようにしていた男の子は助かった。監督が言うように彼女は確かに「母親」的要素を持っていたのである。その子は新しい家族になった。

 見事なアンチ・ヒーロー映画である。家族愛も「宇宙戦争」のいかにもとってつけたようなものではない。しっかりと作品の底を支えていた。しかも「Mr.インクレディブル」のような超人的な力は発揮しない。家族愛は人間を超えた力を発揮させるものではなく、最後までヒョンソの生存を信じさせ、助け出すまで諦めない気持ちを生み出したのである。人間も愛も最後まで「等身大」だった。

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2007年2月10日 (土)

久々の休日

Coffe2  朝起きてすぐ珈琲を淹れ、ゆっくりと新聞を読みながら飲む。BGMはAKIKOの「シンプリー・ブルー」。最近どんどん出てくる日本のジャズ・ミュージシャンの中でも特に気に入っている1人。ピアノの木住野佳子とアキコ・グレース、サックスの矢野沙織、ヴォーカルのケイコ・リーとAKIKO。このあたりは本当にいい(今気がついたが、全員女性だ)。珈琲を飲みながらゆったりと音楽を聴く。至福の時間。こんな当たり前の時間がずいぶんと久しぶりに思える。

 外で昼食をとった後、ブックオフに行ってDVDとCDを売る。売るといっても、気に入らなかったものはわずかで、ほとんどは既に持っているのに二重買いしたもの。半年もたつとCDとDVDをあわせて軽く10枚を越える。情けない。今回もCDとDVDをあわせて14枚ほど持っていったが、全部でたったの3千数百円。安いと思ったが仕方がない。査定の間にいくつかほしいものを見つけたが買わなかった。持っていないかどうかよく確かめてから買わないとね。記憶力も衰えてきているが、持っている物の数が膨大なのでとても全部は覚え切れない。また失敗しないよう慎重にしないと。

 街中に行く。「電気館」に行くと、何と「それでもボクはやってない」と「紙屋悦子の青春」が今月中旬から上映予定とある。うれしい。やっと観れる。あんまりうれしかったので、「リトル・ミス・サンシャイン」の上映時間を確かめるのを忘れた。今年はまだ映画館で映画を観ていない。明日「リトル・ミス・サンシャイン」を観に行くつもりだが、これが今年最初に映画館で観る映画になる。最近日本映画のレベルが上がってきたので、映画館で日本映画を観る機会が増えてきている。チラシもいいのが手に入った。ほくほく。 天気がよかったのでその後ドライブに行った。サンラインに入り、また初めてのわき道をあちこち走ってみた。道々ずっと平原綾香の「ODYSSEY」のMDをかけていた。素晴らしいアルバムだ。聞くほどにほれ込む。彼女の低音が心地よい。

 夕方「ジャーヘッド」を観る。思っていた以上にいい映画だった。特に最後の30分くらいがいい。昨日観た「雪に願うこと」も素晴らしい映画だった。地味だが力強い。このような作品を作れるようになったことは日本映画の実力がもはや世界でもトップクラスになったことを示している。相変わらずしょうもない作品をたくさん作ってはいるが、少なくともトップテンに入る作品のレベルは世界のトップクラスに比べても見劣りしないところまで来た。蔦屋書店でDVDを返却。「グエムル」がもう1週間レンタルになっていた。「トランスアメリカ」を借りる。「グエムル」のレビューが延び延びになっていたが、今日と明日で何とか書き上げよう。

 「グエムル 漢江の怪物」★★★★☆
 「雪に願うこと」★★★★☆
 「ジャーヘッド」★★★★

2007年2月 8日 (木)

DVDを出してほしい映画 その2

  昨年は旧作のDVD化がかなり進んだ。しかしこんなものまで出ているのかと驚く一方で、どうしてこれが出ていないのかと不思議に思うものもまだまだ多い。アンジェイ・ワイダやフランチェスコ・ロージ、ケン・ローチなどはほとんど出ていないし、国別に見てもイタリア映画の古典的名作は意外なほど出ていない。名作ひしめく中国やソ連の古典もまだまだ残っている。ポーランドをはじめとする東欧映画もすっぽり抜けている感じ。
  前回の「DVDを出してほしい映画」は2005年の7月(ブログは9月に掲載)に書いたのだが、そのうちDVD化されたのはまだ一桁だ。アメリカのB級映画は山ほどDVDになるのに、社会派の作品はなかなか光が当たらない。この偏った傾向はなかなか改まらない。ただこのところ旧作のDVD化には拍車がかかっているので、今後の展開を期待しながら見守りたい。
  今回は数が多いのでコメントをつけず、タイトルと監督名のみを挙げる。

「SUPER8」(2001) エミール・クストリッツァ監督 祝!発売
「ブレッド&ローズ」(2000)  ケン・ローチ監督 祝!発売
「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(1998)  ケン・ローチ監督 祝!発売Snow_01
「カルラの歌」(1996)  ケン・ローチ監督 祝!発売
「真実の囁き」(1996) ジョン・セイルズ監督
「明日を夢見て」(1995)  ジュゼッペ・トルナトーレ監督 祝!発売
「アントニアの食卓」(1995) マルレーン・ゴリス監督
「大地と自由」(1995)  ケン・ローチ監督
「黒豹のバラード」(1994) マリオ・バン・ピープルズ監督
「フィオナの海」(1994)  ジョン・セイルズ監督
「レディバード・レディバード」(1994)  ケン・ローチ監督 祝!発売
「レイニング・ストーンズ」(1993)  ケン・ローチ監督 祝!発売
「ウルガ」(1991) ニキータ・ミハルコフ監督
「コルチャック先生」(1991) アンジェイ・ワイダ監督
「乳泉村の子」(1991) シェ・チン監督
「リフ・ラフ」(1991) ケン・ローチ監督 祝!発売
「恐怖分子」(1990) エドワード・ヤン監督 祝!発売
「森の中の淑女たち」(1990) グロリア・デマーズ監督
「トーチソング・トリロジー」(1988)ポール・ボガート監督 祝!発売
「戦場の小さな天使たち」(1987) ジョン・ブーアマン
「旅人は休まない」(1987) イ・チャンホ監督
「翌日戦争が始まった」(1987) ユーリー・カラ監督
「予告された殺人の記録」(1987) フランチェスコ・ロージ監督
「北京物語」(1987) チェン・トンティエン監督
「スイート・スイート・ヴィレッジ」(1985) イジー・メンツェル監督 祝!発売
「ディープ・ブルー・ナイト」(1985) ペ・チャンホ監督
「野山」(1985) ヤン・シュエシュー監督
「鯨とりコレサニヤン」(1984)  ペ・チャンホ監督 祝!発売
「スペシャリスト」(1984)  パトリス・ルコント監督
「追憶のオリアナ」(1984) フィナ・トレス監督
「敵」(1984) ユルマズ・ギュネイ監督
「愛しのエレーヌ」(1983) パトリス・ルコント監督
「白い町で」(1983) アラン・タネール監督
「ハッカリの季節」(1983) エルデン・キラル監督
「黄昏の恋」(1982) ホセ・ルイス・ガルシ監督
「川の流れに草は青々」(1982)  ホウ・シャオシェン監督 祝!発売
「鉄の男」(1981) アンジェイ・ワイダ監督 祝!発売
「メフィスト」(1981) イシュトヴァン・サボー監督
「夢見るシングルズ」(1981)  パトリス・ルコント監督
「恋の邪魔者」(1980)  パトリス・ルコント監督
「光年のかなた」(1980) アラン・タネール監督
「獄中のギュネイ」(1979) ハンス・シュテルペル、マルティン・リプケンス監督
「レ・ブロンゼ/スキーに行く」(1979)  パトリス・ルコント監督
「レ・ブロンゼ/日焼けした連中」(1978)  パトリス・ルコント監督
「群れ」(1978) ユルマズ・ギュネイ監督
「大理石の男」(1977) アンジェイ・ワイダ監督
「ジョナスは2000年に25才になる」(1976) アラン・タネール監督
「追想」(1975) ロベール・アンリコ監督
「ナッシュビル」(1975)  ロバート・アルトマン監督 祝!発売
「ルカじいさんと苗木」(1973) レゾ・チヘイーゼ監督
「黒い砂漠」(1972)フランチェスコ・ロージ監督
「エレジー」(1971) ユルマズ・ギュネイ監督
「帰郷」(1971) ウラジミール・ナウモフ、アレクサンドル・アロフ監督
「トロイアの女」(1971) マイケル・カコヤニス監督
「道中の点検」(1971) アレクセイ・ゲルマン監督 祝!発売
「希望」(1970) ユルマズ・ギュネイ監督
「湖畔にて」(1970) セルゲイ・ゲラーシモフ監督
「サラマンドル」(1970) アラン・タネール監督
「激しい季節」(1969) バレリオ・ズルリーニ監督 祝!発売
「国境は燃えている」(1965) バレリオ・ズルリーニ監督 祝!発売
「シャイアン」(1964)  ジョン・フォード監督
「都会を動かす手」(1963)フランチェスコ・ロージ監督
「家族日誌」(1962) バレリオ・ズルリーニ監督
「シシリーの黒い霧」(1962)  フランチェスコ・ロージ監督 祝!発売
「小犬を連れた貴婦人」(1960) イォシフ・ヘイフィッツ監督
「日曜はダメよ」(1960)  ジュールス・ダッシン監督 祝!発売
「ワーロック」(1959) エドワード・ドミトリク監督 祝!発売
「宿命」(1957) ジュールス・ダッシン監督
「リラの門」(1957)  ルネ・クレール監督 祝!発売
「屋根」(1957) ヴィットリオ・デ・シーカ監督
「影」(1956) イエジー・カワレロウィッチ監督 祝!発売
「地下水道」(1956) アンジェイ・ワイダ監督 祝!発売
「パンと恋と夢」(1953)ルイジ・コメンチーニ 祝!発売
「オーソン・ウェルズのオセロ」(1952) オーソン・ウェルズ監督
「ウンベルトD」(1951) ヴィットリオ・デ・シーカ監督 祝!発売
「文化果つるところ」(1951) キャロル・リード監督
「ミラノの奇跡」(1951)ヴィットリオ・デ・シーカ監督 祝!発売
「忘れられた人々」(1950) ルイス・ブニュエル監督 祝!発売
「荒野の抱擁」(1947)ジョゼッペ・デ・サンティス
「邪魔者は殺せ」(1947) キャロル・リード監督 祝!発売
「平和に生きる」(1946) ルイジ・ザンパ監督
「深夜の銃声(ミルドレッド・ピアース)」(1945) マイケル・カーティス監督  祝!発売
「飾り窓の女」(1944) フリッツ・ラング監督 祝!発売
「男の敵」(1935) ジョン・フォ-ド監督
「地の果てを行く」(1935)  ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 祝!発売
「巴里祭」(1933) ルネ・クレール監督 祝!発売
「モンパルナスの夜」(1933) ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 祝!発売

 

2007年2月 6日 (火)

『キネマ旬報』ベスト・テン号発売

 やっと「恋人たちの食卓」のレビューを書き終えた。映画を観てから10日もたっていた。Cftyw009_1 これ以上日がたてば記憶が褪せてしまって書けなくなってしまう。ぎりぎりだった。そのせいか比較的短いレビューになってしまった。集中して書ける日が少なくとも二日はないと満足がいくものは書けない気がする。このところ忙しすぎて充分時間が取れなかったのが残念だ。

 三日前に待望の「グエムル 漢江の怪物」を観た。期待にたがわぬ傑作。次はこのレビューを書く予定。それから今借りているDVDが「雪に願うこと」と「ジャーヘッド」。特に「雪に願うこと」は期待できそうだ。

 忙しい忙しいといいながら結構記事を更新しているじゃないかとよく言われる。しかし、レビューが書けないときの埋め草に使っている短い日記などは時間もかからず簡単に書ける。もう少しまとまった記事、たとえば「これから観たい&おすすめ映画・DVD」シリーズや「ゴブリンのこれがおすすめ」シリーズ、最近始めた「あの頃こんな映画があった」シリーズ、あるいは「Golden Tomato Awards」の記事なども大して書くのに苦労しない。調べるのに時間は多少かかるが、頭を使わないのでレビューを書くよりはるかに楽なのである。レビューの場合はそうは行かない。ぐっと気を引き締め作品世界に入り込み、気力を高め集中しないととても書けるものではない。だから疲れて帰ってきた日はレビューを書く気になれない。代わりに何か書こうと思って、アリバイ的に上記のような記事を書こうと思い立ったら、短ければ一時間以内、長くても3、4時間後にはもう書きあがっている。去年入院したのも、意地になってレビューにこだわり続けたからだろう。書いている最中はハイになっているから時間を忘れてしまう。睡眠時間を削って書いていたわけだ。今年は無理せず、埋め草記事を大量に書いてごまかしている。本格的レビューを書けないと不満がたまる。しかし忙しい時期もいつかは終わる。時間があるときに書けばいい。そういう「ゆったりスタイル」で今年は行きたい。

  さて、昨日『キネマ旬報』のベスト・テン号が発売された。毎年2月5日のベストテン号だけは欠かさず買っている。『キネ旬』は1点でも票が入った作品はすべて掲載されているので、年間の主要作品リストとして有用だからである。今年のベスト・テンを見ていて面白かったのは日本映画。リストに挙がっている内で観たのは7本だけだが、そのうちの6本はベスト・テン入りしている。もれた1本、「THE有頂天ホテル」も充分ベスト・テン入りの資格がある映画である。これほど効率よく日本映画を観た年はない。良さそうだと思っていた作品は皆上位に来ている。自分の選択眼の確かさを誇りたいところだが、作品の出来不出来がはっきりしているということかも知れない。そうだとすればまだまだ日本映画の本格的充実は先のことである。注目していたドキュメンタリー映画も「文化映画ベスト・テン」にかなり入っていた。この部門をなくさずに維持してきたことは立派だ。

  外国映画のベスト・テンを見ると一転して気が重くなる。昨年公開の外国映画は40本くらい観ているのにまだまだ観ていない作品の方が圧倒的に多い。全部は観る必用はないにしても、観たいと思うものを拾ってみると50本は下らない。ほぼ観終えるまでまだ半年はかかるだろう。

  今年の特徴はアメリカ映画の復活、健闘である。ベスト・テンのうちの7本を占める。クリント・イーストウッドの2作が1位と2位を占めているのも驚きだ。僕のベスト・テンは最終的にはかなり違うものになりそうだが、いずれにしてもアメリカ映画に力作が多かったことは確かだ。韓国映画も相変わらず上位に何本も送り込んでいる。今年はイギリス映画も健闘している。この三つで上位30位までのほとんどを占める。ヨーロッパ勢はいまひとつ勢いがなかった。一方「スパングリッシュ」や「Vフォー・ヴェンデッタ」が選外になったのは疑問である。特に「スパングリッシュ」は上位に入れてもおかしくない優れた映画である。ドキュメンタリー映画「スティーヴィー」は未公開扱いなのだろうか。「外国映画ベスト・テン」にも「文化映画ベスト・テン」にも入っていない。傑作なのに惜しいことだ。

 最後に、ベスト・テンとは関係ないが、『キネ旬』をぱらぱらめくっていたらドイツ古典映画を中心にDVDを出している「クリティカル・エディション」シリーズの宣伝チラシが目に入った。これまでフリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」や「メトロポリス」、F.W.ムルナウの「サンライズ」、G.W.パプストの「パンドラの箱」、さらにはデンマークの巨匠カール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」等がこのシリーズから出ている。いずれも5000円台から8000円台までと高価だが、映画史上貴重な名画ばかりなのでおすすめのシリーズである。3月24日にはフリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ」が出る。2枚組みで8190円。ビデオは持っているがDVDもほしい。しかしこの値段。半額程度になるまで2年でも3年でも気長に待つ覚悟はあるが、この手の「物件」は値段が下がるよりも上がる可能性が高い。中古買いはタイミングが難しい。

2007年2月 5日 (月)

恋人たちの食卓

1994年 台湾 1995年6月公開
評価:★★★★☆
監督:アン・リー
製作:シュー・リーコン
脚本:アン・リー 、ジェームズ・シェイマス、ウォン・フイリン
撮影:ジョン・リン
音楽:メイダー  
出演:ラン・シャン、ヤン・クイメイ、ワン・ユーウェン、ウー・チェンリン
    シルヴィア・チャン、ウィンストン・チャオ、チェン・チャオロン
    ルー・チンチョン、チェン・チエウェン、グァ・アーレイ

 「胡同のひまわり」「推手」もそうだが、アジア映画には親子や家族の情愛を描いた秀Photo_41 作が多い。韓国映画「グエムル 漢江の怪物」もやはり親子の強い絆を描いた映画だった。韓国映画は感情表現が派手だし、日本のドラマは概してべたべたしすぎるが、中国や台湾の映画はむしろあっさりしている。落ち着いた悠揚迫らぬ作品なのだが、それでいて深い愛情を感じさせる。実に味わい深い作品である。「推手」に続いて観たアン・リー監督「老父3部作」の3作目「恋人たちの食卓」も料理を通して父と娘たちを描いた秀作である。

 「推手」は冒頭で老人が1人黙々と太極拳をしている場面で始まった。音のない不思議な空間と感覚が観客を引き付け、同時にその家におけるコミュニケーションの不在という主題をさりげなく提示していた。見事な導入部分だった。「恋人たちの食卓」の導入部分もそれに劣らない。「推手」と同じ朱という名前の老人が台所で料理を作っている。その手さばきの見事さには和食の伝統を持つ日本人の目で見ても驚嘆せざるを得ない。ものすごい勢いで料理を作っている。次々に多彩な材料に包丁を入れ、手でむしりとり、なべに放り込む。あっという間に仕上げてゆくが充分な下ごしらえをしていることは説明などなくても分かる。鮮やかな手つきと次々に出来上がってゆく料理の見事さに思わず身を乗り出しそうになる。

  妻を早く亡くした朱老人は日曜日ごとに3人の娘たちと食事を共にすることを習慣にしていた。しかしあれだけうまそうな料理に娘たちはほとんど手を出さない。次女などは味に文句をつけている。朱老人は一流ホテルで働いていた名シェフだったが、実は最近味覚が衰えていることを自覚していた。入念に作られてはいるがやや味が落ちた料理と、ほとんど料理に手を出さず会話も弾まない食卓。「推手」同様、親子の関係がきしみだしていることが冒頭のエピソードから見て取れる。

  シチュエーションは違うが、主題は「推手」と同じといってもよい。親と子の関係。ただ、「推手」では既に息子は家庭を持っていた。親と息子家族の同居から、親が家を出て微妙なバランスを保つという経過をたどった「推手」に対して、「恋人たちの食卓」では3人の娘たちの結婚、独立が遠からぬ先に控えている時期に焦点を合わせている。娘たちの結婚はいずれ来るべきものであり喜ぶべきだが、残される親はさびしいものだ。このテーマはまさに小津安二郎が何度も描いてきたテーマである。日常のなんでもないことをテーマにしながら、それでいてありきたりの話に終わらず優れた作品に仕上げる。滅多に起こらない劇的な出来事を描くのではない。淡々と日常を描きながらそこに永続的な感銘を残すドラマを作り出す。

  これが実は難しい。ファミリー・ドラマを得意とするアメリカ映画でもこれを成し遂げた作 Scene1 品はほとんどない。ヨーロッパの作品で僕が唯一小津の世界を感じたのはベルトラン・タベルニエ監督の「田舎の日曜日」だけだ。日本でも家族の日常を描くことを通して人間的感情をそくそくと描きえた作品は意外に少ない。興味深いことに小津の伝統を踏まえ、かつ作品的に優れたものを生んだのは台湾だった。日本に親近感を抱く人が多い国だ。家族のありようもかつての日本に近いのかもしれない。しかし台湾人の監督でもすべての試みが成功しているわけではない。アン・リー同様小津を尊敬するホウ・シャオシェン監督が日本で撮った「珈琲時光」は悪くはなかったが、小津とは別の世界だった。「ウェディング・バンケット」は未見だが、現在のところ初期のアン・リーこそがもっとも正統な小津の後継者だという気がする。

  ただし、あまりに小津に引き付けすぎて作品を観ない方がいいだろう。時代も国も違うのだ。文化や習慣や考え方も同じではない。親と子の関係もずっとドライだ。「恋人たちの食卓」は朱老人(ラン・シャン)を主人公にしながらも、3人の娘たちの悩みや考えも十分描きこんでいる。総計4人の主要登場人物それぞれに一定のスペースを割きつつ(しかも3人の娘たちにはそれぞれ恋人がいる)、細切れにならず焦点もボケていない。練り上げた脚本の見事さと演出のよどみなさをまず賞賛したい。

  小津映画の父親は平凡なサラリーマンが多い。しかしアン・リーの3部作の父親たちはそれぞれに突出した特技を持っている。アン・リー監督自身が「父親は何でも知っている三部作」と言っている通りである。父親の性格付けもその特技と深く関連付けて描かれている。「恋人たちの食卓」の場合は言うまでもなく料理である。父親がもっとも心を割って話せるのは料理を理解している人たちである。その1人は長年の同僚だったウェンである。朱老人は元「グランドホテル」の総料理長で今は引退しているが、時々人手が足りない時に駆りだされる。ウェンは現在の料理長。

  朱老人に率直な意見をいってくれるのはウェンだけである。「強がり言っても分かるさ。人生思い通りには行かない。あんたは亀みたいに押しつぶされている。」亀のたとえが日本人の発想にないだけに愉快だ。背中に子亀を3匹乗せているイメージか。長女のチアジェン(ヤン・クイメイ)は30歳を越えているのに全く男っ気がない。「一生あんたにくっついていそうだ。」次女のチアチェン(ウー・チェンリン)は航空会社に勤めるキャリア・ウーマンで、3人の中では一番独立心が強く気も強い。ウェンのコメントが面白い。「あの子は石から生まれたみたいだ。だがあの性格はまったくの親譲りだろう。頑固と気ままは母親からだ。気取り屋と好き嫌いの激しさは父親からだ。」  

  3人の娘の中で最も重要な役割を果たしているのはこの次女である。「親譲り」の例え通り、次女のチアチェンは料理の優れた腕を親から譲り受けている。食卓で父親の味覚が衰えていると率直に指摘したのは彼女だ。長女として父親の世話をしなければいけないと常日頃話しているチアジェンに対して、次女のチアチェンは早く家を出たいといつも言っている。3女のチアニン(ワン・ユーウェン)は父親の手の込んだ料理への反発からかマクドナルドでアルバイトをしている。この中で料理のことを口にするのは次女だけである。

  料理はこの映画の中で重要な象徴的役割を果たしている。最初のあたりで朱老人が「飲む、食べる、男と女、食と性は人間の欲望だ。一生それに振り回される」と語っている。毎週テーブルを囲んで食事をするように、料理は家族の絆の象徴である。今はその絆が崩れかかっている。その不安は父親の味覚が衰えているという自覚と並行して描かれている。味覚の衰えた朱はホテルのレストランで手伝っている時は友人のウェンの「顔色で味を判断」している。同じように娘たちの顔色を窺いながら家族の絆を判断している。舌が衰えたのと同じ様に、娘たちの様子も見えなくなってきている。長女も3女もいきなり結婚したことを報告して家を出てゆく。父親は呆然として見送るしかない。

  一番家を出たがっていた次女が最後に残る。彼女にも恋人はいる。新しく同僚になった切れ者の男にも気持ちを引かれている。アムステルダムへの転勤の話も出ている。それMidori1 でも彼女は最後に残った。料理の絆があったからである。彼女は恋人にこう語っている。「変ね、昔の思い出は料理のことばかり。昔は父も優しい人だったの。嘘みたいね。レストランの厨房で粉をこねて腕輪や指輪を作ってくれたわ。」しかしやがて女に料理人は無理だと厨房から追い出されてしまう。だから彼女は決して家では料理を作らない。頑固親父と「親譲り」の頑固な娘。言葉では通じ合えないが、二人の間には料理という共通の「絆」があった。

  ラストは父親と次女の2人が食卓を囲んでいるシーンである。料理で始まり料理で終わる。次女のチアチェンは既にアムステルダム行きを決意している。父親と二人で過ごす最後の夜。チアチェンの作ったスープを飲んで父親の味覚が戻った。父は娘の手を握る。「この味は・・・。」娘のスープの味は恐らく母親の味だったのだ。家族といえども共通するものがなければ心は通い合わない。一度だけ壁にかけられた母親の写真が映された。母親は最初から不在だったが、彼女は最初からずっと壁から一家を見つめていたのである。次女とのラストシーンは最も小津らしさを感じさせるシーンであった。僕はこのシーンを観て小津の「晩春」のラストシーンを思い浮かべた。結婚式で娘を送り出した父親が一人家に帰ってくる。彼はリンゴの皮を剥き始める。切れずに長く垂れ下がるリンゴの皮。その皮が突然ぽとりと下に落ちる。父親は手を止めうなだれる。

  「推手」では家族のバランスの取りかた、家族との距離の取りかたの大切さが描かれた。しかし、「恋人たちの食卓」では未婚の娘たちを抱えている以上、いずれは家族がばらばらになって行く運命にある。ラストが小津の「晩春」を思わせるシーンになっているのはそのためである。しかしそこに寂寥感はない。なぜなら「推手」同様、父親も新しい人生に踏み出していたからである。この点は小津作品と大きく異なる。

  小津は日常を描きながら実は人生を描いていた。「恋人たちの食卓」は料理をシンボルとして添えながら、家族がそれぞれに自分の人生を掴み取ってゆく様を描いた。人生という料理の味は朱老人が言ったように一色ではない。「人生は料理のようには行かないもの。材料をそろえて鍋に入れ、そして口に入れれば、甘い、すっぱい、辛いと色々だ。」戸惑いつつ、迷いつつ人は生きてゆく。結婚、離婚、独立、就職、転職、死別、人生にはいくつも転換期がある。人はそれぞれに迷い、考え、道を選んでゆく。人はいつまでも同じところにとどまりはしない。人生の大半は日常的な出来事の繰り返しだが、人は年を取るように少しずつ変わって行く。ジャン・コクトーの「君たちに」という詩がある。「いつかは天までとどくほど 大きくなるような木の幹に 君の名前を彫りたまえ 大理石に彫るよりも そのほうがずっといいのだよ 名前もいっしょにのびるのだ。」

  朱老人の家族は決して大理石の家族ではなかった。老大木のようにあちこち裂け目があり、木肌が剥げ落ちているところやねじれたところもある。切り落とされた枝もある。しかしその幹に刻まれた3人の子供たちの名前は確実に大きくなっていた。木の成長につれてそれぞれの名前は大きくなると同時に離れても行く。もう消えかかっている。いずれごつごつして荒れた木肌と区別が付かなくなってしまうだろう。しかしその時、刻まれた名前は木と一体になるのである。

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2007年2月 3日 (土)

Golden Tomato Awards発表 その2

アクション/アドヴェンチャー部門 
1位 「007/カジノ・ロワイヤル」  
  マーティン・キャンベル監督、ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーン主演
2位 「スーパーマンリターンズ」
 ブライアン・シンガー監督、ブランドン・ラウス 、ケイト・ボスワース主演
3位 「Vフォー・ヴェンデッタ」
 ジェームズ・マクティーグ監督、ナタリー・ポートマン、ヒューゴ・ウィーヴィング主演

アニメ部門
1位 「カーズ」
 ジョン・ラセター監督、(声)オーウェン・ウィルソン、ポール・ニューマン
2位 「ハッピー・フィート」 3月17日公開予定
 ジョージ・ミラー監督、(声)イライジャ・ウッド、ヒュー・ジャックマン Bwwhstr01
 南極を舞台に、歌って踊れる皇帝ペンギンのコメディ・アドベンチャー。フランスのドキュメンタリー映画「皇帝ペンギン」の真似かと思ったら、ペンギンを主人公にしたミュージカル。皇帝ペンギンというくらいだからペンギンの帝国がある。しかしそこは歌えて何ぼの世界。タップダンス(!)はうまいが歌はへたくそなマンブル、父のメンフィスに「それじゃペンギンではない」と言われてしまう。母のノーマ・ジーンはそんなマンブルを可愛いと思っていたが・・・。とまあ、なかなか設定が優れている。これは楽しみだ。
3位 Flushed Away
 デイヴィッド・バウワーズ監督、(声)ケイト・ウィンスレット、ヒュー・ジャクソン
 Flushed Awayとはトイレの水を流すこと。その名の通り、ロンドンの地下に広がる下水道を舞台にしたCGアニメ映画。ドリームワークスとアードマンスタジオの共作だから興味津々。ねずみたちを主人公にしたウォレスとグルミットの世界といったところか。クライム・ムービーとはまた違ったロンドンのアンダーグラウンド世界が観られそう。

コメディー部門
1位 Borat
 ラリー・チャールズ監督、サシャ・バロン・コーエン、パメラ・アンダーソン主演
2位 「リトル・ミス・サンシャイン」  
 ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督、トニ・コレット、スティーヴ・カレル主演
3位 Tristram Shandy: A Cock and Bull Story
  マイケル・ウィンターボトム監督、スティーヴ・クーガン、ロブ・ブライドン主演

ドキュメンタリー部門
1位 Wordplay
  パトリック・クリードン監督、マイク・ムシーナ、ウィル・ショーツ主演
2位 「不都合な真実」  
  デイヴィス・グッゲンハイム監督、アル・ゴア主演
3位 「ブロック・パーティー」
  ミシェル・ゴンドリー監督、デイヴ・シャペル、ローリン・ヒル主演

ドラマ部門
1位 The Queen
  スティーヴン・フリアーズ監督、ヘレン・ミレン、マイケル・シーン主演
2位 「ユナイテッド93」
  ポール・グリーングラス監督、コーリイ・ジョンソン 、デニー・ディロン他出演
3位 Half Nelson
  ライアン・フレック監督、ライアン・ゴズリング、シャリーカ・エプス主演

外国語映画部門
1位 Pan's Labyrinth
  ギレルモ・デル・トロ監督、セルジ・ロペス、アリアドナ・ギル主演
2位 ボルベール<帰郷>
  ペドロ・アルモドヴァル監督、ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ主演
3位 「硫黄島からの手紙」
 クリント・イーストウッド監督、渡辺謙、二宮和也

ホラー部門
1位 「ディセント」
  ニール・マーシャル監督、シャウナ・マクドナルド、ナタリー・メンドーサ主演
2位 Slither
  ジェームズ・ガン監督、ネイサン・フィリオン、エリザベス・バンクス主演
3位 「ホステル」
 イーライ・ロス監督、ジェイ・ヘルナンデス、デレク・リチャードソン主演

キッズ/ファミリー部門
1位 「名犬ラッシー」
  チャールズ・スターリッジ監督、ピーター・オトゥール、サマンサ・モートン主演
2位 「シャーロットのおくりもの」
 ゲイリー・ウィニック監督、ダコタ・ファニング主演、(声)ジュリア・ロバーツ
3位 「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」
 カーク・ジョーンズ監督、エマ・トンプソン 、 コリン・ファース主演

ロマンス部門
1位 「恋愛睡眠のすすめ 」 GW公開 予定
 ミシェル・ゴンドリー監督、ガエル・ガルシア・ベルナル、シャルロット・ゲンズブール主演
 「エターナル・サンシャイン」のミシェル・ゴンドリーが同じように「睡眠」をテーマに描いたラブ・ロマンス。引っ込み思案でシャイなステファンはクールで知的なステファニーを好きになるが、なかなか自分の気持ちを相手に伝えられない。しかし夢の中ではステファニーとの恋愛はどんどんうまく行く。やがてステファンは夢と現実の区別がつかなくなっていく。アニメーションや他の視覚的効果を多用し、言葉も英語とフランス語とスペイン語が飛び交う。奇想天外なゴンドリー・マジックの世界。
2位 Something New

 サナー・ハムリ監督、サナー・レイサン、サイモン・ベイカー主演Kmtkm001
 人種問題と人種間の関係を真摯に追及したブラック・ムービーのようだ。ヒロインのケニヤの「理想の男性」は「金持ちで、教養があり、ハンサムな」黒人男性だが、ブラインド・デートで知り合ったのは「金持ちで、教養があり、ハンサムな」白人男性だった・・・。男女と人種の組み合わせはスタンリー・クレイマーの名作「招かれざる客」と逆だが、40年後の本作はどんな描かれ方になっているのか。興味をひかれる映画だ。
3位 The Boynton Beach Club
 スーザン・サイデルマン監督、ジョセフ・ボローニャ、ダイアン・キャノン
 フロリダのボイントン・ビーチに住む老人たちを主人公にしたシットコム。夫や妻をなくした老人たちのコミュニティ。誰も自分たちを年寄りだとは認めたくない。いい味の恋愛コメディの可能性あり。

SF/ファンタジー部門
1位 「トゥモロー・ワールド」
  アルフォンソ・キュアロン監督、クライヴ・オーウェン、ジュリアン・ムーア主演
2位 The Fountain
 ダレン・アロノフスキー監督、ヒュー・ジャクソン、レイチェル・ワイズ主演
3位  「ローズ・イン・タイドランド」
 テリー・ギリアム監督、ジェフ・ブリッジス、ジョデル・ファーランド

スリラー部門
1位 「ディパーテッド」  
  マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン主演
2位 「インサイド・マン」
  スパイク・リー監督、クライヴ・オーウェン、デンゼル・ワシントン主演
3位 The Last King of Scotland
 ケヴィン・マクドナルド監督、フォレスト・ウィッテカー、ジェームズ・マカヴォイ主演
 原作はジャイルズ・フォーデンの小説『スコットランドの黒い王様』(新潮クレスト・ブックス)。もう何年も前に買ったきり忘れていた。フォレスト・ウィッテカーがあのウガンダのアミン大統領に扮しているという。そこにスコットランドの若者がやってきて彼の主治医になる。有名なウガンダの大虐殺が描かれる政治的スリラー。

2007年2月 2日 (金)

Golden Tomato Awards発表

Snow_200_01  アメリカの有名な映画批評サイトRotten Tomatoesが2006年の映画ランキングを発表した(サイドバーの「お気に入りホームページ」にリンクがあります)。全米の500館を越える劇場で公開された映画を対象とするWide Release部門、500館以下のLimited Release部門、これが主要2部門である。それぞれにベスト50が挙げられている。ヒット作とそうでないものに分けるあたりはいかにもアメリカらしい。この他にジャンル別(アクション、アニメ、コメディー、ドキュメンタリー、外国語映画、ドラマ、ホラー、ファミリー、ロマンス、SF、スリラー)ベスト10もある。とても全部は紹介しきれないので主要2部門はベスト10まで、ジャンル別はベスト3まで紹介しよう。
  今回は Wide Release部門とLimited Release部門を取り上げる。

Wide Release部門
1位 「007/カジノ・ロワイヤル」  
  マーティン・キャンベル監督、ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーン主演
2位 「ディパーテッド」  
  マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン主演
3位 Borat
 ラリー・チャールズ監督、サシャ・バロン・コーエン、パメラ・アンダーソン主演
 イギリス人コメディアン、サシャ・バロン・コーエンがカザフスタン人TVレポーターに扮し、アメリカでドキュメンタリーをとるという設定。彼のインタビューは行く先々でアメリカ人の激烈な反応を誘い、アメリカの恥部をさらけ出させてゆく。一種の挑発的「ショックメンタリー」映画であり、単なるおバカムービーではないと見た。
4位 「ユナイテッド93」
  ポール・グリーングラス監督、コーリイ・ジョンソン 、デニー・ディロン他出演
5位 「インサイド・マン」
  スパイク・リー監督、クライヴ・オーウェン、デンゼル・ワシントン主演
6位 「ブロック・パーティー」
  ミシェル・ゴンドリー監督、デイヴ・シャペル、ローリン・ヒル主演
  ブルックリンで開催された無料のシークレット・ライブのドキュメンタリー。カニエ・ウエスト、モス・デフ、フュージーズ、ローリン・ヒルなどブラック・ヒップホップ・ミュージシャンが総出演。観たいです。
7位 「ディセント」
  ニール・マーシャル監督、シャウナ・マクドナルド、ナタリー・メンドーサ主演
8位 Slither
  ジェームズ・ガン監督、ネイサン・フィリオン、エリザベス・バンクス主演
  「ドーン・オブ・ザ・デッド」の脚本家ジェームズ・ガンが初めてメガホンを取った低予算B級ホラー。ヌルヌル、ベトベトのナメクジ映画。お好きな方はどうぞ。
9位 Akeelah and the Bee
 ダグ・アチソン監督、ローレンス・フィッシュバーン、アンジェラ・バセット主演
 Spelling beeと呼ばれるスペリング・コンテストを通じて成長してゆく黒人の女の子を描く感動編。型どおりのストーリーだが、ヒロインに共感を禁じえないファミリー・ドラマとの評判。
10位 「今宵、フィッツジェラルド劇場で」 3月3日公開予定
  ロバート・アルトマン監督、ウディ・ハレルソン、ジョン・C・ライリー主演
  ロバート・アルトマン監督の遺作。アメリカを代表するラジオ番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」最後のオンエアの一夜における出演者の人生模様を、ちょっぴり辛口なウィットと粋なユーモアで包んだ別れと再生の物語。これまたアルトマンお得意の群像劇。

Limited Release部門
1位 The Queen
  スティーヴン・フリアーズ監督、ヘレン・ミレン、マイケル・シーン主演
  イギリス映画の傑作。ダイアナ妃事故死直後のイギリス王室の舞台裏を描く内幕物。ヘレン・ミレンが女王エリザベス2世を演じ、マイケル・シーンがブレア首相に扮している。二人の名演はヴェネチア映画祭など各地で絶賛されている。これは必見!
2位 「リトル・ミス・サンシャイン」
  ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督、トニ・コレット、スティーヴ・カレル主演
3位 「トゥモロー・ワールド」
  アルフォンソ・キュアロン監督、クライヴ・オーウェン、ジュリアン・ムーア主演
4位 Wordplay
  パトリック・クリードン監督、マイク・ムシーナ、ウィル・ショーツ主演
  クロスワードパズルをテーマにしたドキュメンタリー映画。「ニューヨーク・タイムズ」のクロスワードパズル編集者ウィル・ショーツはその筋ではカリスマ的存在。彼には多くの信奉者がいるらしい。眉間にしわを寄せて新聞のパズルを食い入るように見つめているパズル・ファンの姿はまさにオタクの世界。毎年行われるクロスワードパズルのトーナメント大会があるなんて知らなかった。スペリング・コンテストを描いたAkeelah and the Beeといい、アメリカ人はコンテストが好きだ。
5位 「不都合な真実」
  デイヴィス・グッゲンハイム監督、アル・ゴア主演
6位 Pan's Labyrinth
  ギレルモ・デル・トロ監督、セルジ・ロペス、アリアドナ・ギル主演
  英語のタイトルを直訳すれば「牧羊神の迷宮」。1人の少女の眼を通して、彼女の想像の世界を描くダーク・ファンタジー。悪夢のような彼女の想像世界には怪異な生き物が棲息している。大人向けの「不思議の国のアリス」といった感じの作品。その恐怖の世界はファンタジー的であるが、同時に彼女が第2次世界大戦中のスペインで経験した恐怖のアレゴリーでもあるらしい。非常に心を惹かれる作品。
7位 Half Nelson
  ライアン・フレック監督、ライアン・ゴズリング、シャリーカ・エプス主演
  人生の岐路に立った孤独な人々をセンチメンタルになることなく描いた作品。内なる悪魔と葛藤している白人の教師とイノセンスを失いかけている黒人の少女。ライアン・ゴズリングとシャリーカ・エプスの演技が心に沁みる映画のようだ。
8位 ボルベール<帰郷>
  ペドロ・アルモドヴァル監督、ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ主演
  「オール・アバウト・マイ・マザー」のペドロ・アルモドヴァル監督がペネロペ・クルスと組んだ悲喜劇。ペネロペ・クルスは失業中の夫と幼い娘を抱えていくつも仕事を掛け持ちしている若い主婦を演じている。伯母の死をきっかけに故郷を訪れた彼女はそこに亡き母の面影を感じる。祖母・母・娘三世代の人生を綴ったドラマ。これも期待大!
9位 Deliver Us From Evil
  エイミー・バーグ監督
  ロサンゼルス映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した作品。小児愛の性癖を持った元聖職者オリヴァー・オグレイディと彼を守ろうとするカソリック教会の隠蔽体質を暴露したドキュメンタリー。タブーに挑んだショッキングな作品。最近のドキュメンタリーの勢いは今や奔流となって否応なくわれわれを巻き込んでゆく。これも必見だ。
10位 Tristram Shandy: A Cock and Bull Story
  マイケル・ウィンターボトム監督、スティーヴ・クーガン、ロブ・ブライドン主演
  な、な、何と、あの英文学の古典、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』をマイケル・ウィンターボトム監督が映画化した!18世紀に書かれた奇書ともいえる破格の小説をどう映像化したのか?解説によると映画の製作過程を映画にするという方法を採ったようだ。カルロス・サウラが名作「カルメン」で採った方法である。ポストモダン的大はしゃぎ映画。う~ん観たい。

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