男の闘い
1969年 アメリカ 1969年公開
評価:★★★★
原題:THE MOLLY MAGUIRES
原作:アーサー・H・ルイス
監督:マーティン・リット
脚本:ウォルター・バーンスタイン
撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
音楽:ヘンリー・マンシーニ
出演:リチャード・ハリス、ショーン・コネリー、サマンサ・エッガー、フランク・フィンレイ
アート・ランド、アンソニー・ザーブ、アンソニー・コステロ、ジョン・オルダーソン
フィリップ・ボールネフ
マーティン・リット、ハリウッドきっての硬派監督の一人。男くさいがリベラルな視点を持った映画を得意とする。代表作をあげると以下の作品あたりになろうか。
「暴力波止場」 (1957)
「長く熱い夜」 (1958)
「太陽の中の対決 」(1965)
「寒い国から帰ったスパイ」 (1965)
「男の闘い」 (1969)
「ボクサー」 (1970)
「ウディ・アレンの ザ・フロント」 (1976)
「ノーマ・レイ」 (1979)
「ナッツ」 (1987)
「アイリスへの手紙」 (1989)
炭鉱を舞台にした組合と経営側の対立を描いた映画にはジョン・セイルズの「メイトワン 1920」やトニー・ビル監督の「アメリカン・ジャスティス」などがある。「男の闘い」もそれに通じる主題を持った映画。19世紀末、ペンシルヴァニアのある炭鉱が舞台。炭鉱夫はアイルランド系が主で、一部の炭鉱夫たちが″モリー・マグワイアズ″という秘密結社を結成して破壊活動を行っている。名前の元になったモリー・マグワイアという女性は17世紀アイルランドの農民の娘で、立ち退きを命じた地主に対する反乱を指導したジャンヌ・ダルクのような女性らしい。資本家側は″モリー・マグワイアズ″の幹部を一網打尽にしようとピンカートン探偵社から探偵を雇いスパイとして炭鉱夫たちの中に潜入させた。
この映画は実話を元にしている。日本語サイトにはあまり情報がないので、英語サイトから基本的な情報を補っておこう。アレン・ピンカートン著『モリー・マグワイアズと探偵たち』は今日に至るまでこの問題の定本として知られている。言うまでもなく、この本は自分たちを法の守り手として描く一方でアイルランド系労働者たちを邪悪なテロリストとして描いている。1936年に出たウォルター・コールマンの『モリー・マグワイアズの暴動』はよりバランスの取れた本である。リベラル派のマーティン・リット監督はこのコールマンの本とアーサー・ルイスの著書(64年)に基づいてこの映画を作っている。監督のマーティン・リットと脚本のウォルター・バーンスタインは共に赤狩りでブラックリストに挙げられた経歴の持ち主。硬骨漢らしい題材の選び方だ。
ジェームズ・マクパーランド(リチャード・ハリス)はある日汽車で炭鉱町にふらっと現われる。紹介された宿屋の女主人メアリー・レインズ(サマンサ・エッガー)にはジェームズ・マッケナと名乗る。こうして彼は炭鉱労働者たちに近づいてゆく。彼が炭鉱夫たちが集まる酒場に入ると中にいた全員が不審そうに彼を見つめる。やがて1人の男がマッケナにいちゃもんをつけ喧嘩になる。警官隊がやってきていきなりマッケナの頭を棍棒で殴りつける。ところが次の場面ではマッケナと警察署長(フランク・フィンレイ)が話し合っている。喧嘩は芝居で、炭鉱夫仲間にうまく入り込めるようにタフな男を印象付けようと仕組んだのだった。2人の会話からは実に多くのことが読み取れる。
署長「バカな奴らだ、ストでの負けを火薬で取り返せると思ってる。」
マッケナ「バカなわけじゃない。それがアイルランド人だ。」
署長「気が知れん。」
マッケナ「分からんさ。あんたはウェールズ人だからな。」
署長「そうだな。彼らにはヒベルニア協会という組織がある。」
マッケナ「同国人をかばいあう合法的な組織だ。」
署長「だがそれは表向きで、実は組合を隠れミノにして″モリー・マグワイアズ″という
暴力結社が存在する。結社は全国的だ。別の炭鉱に出した密偵は2人が殺され1
人は行方不明。そして次は君の番だ。」
マッケナ「俺は大丈夫さ。」
署長「リーダーたちを捕まえたい。見当はついている。この町にいるはずだ。証拠がな
いので現行犯で逮捕したい。」
マッケナ「任せろ。」
署長「なめるとあの世行きだぞ。」
マッケナ「志願したのはドジるためじゃない。この国で芽を出したいからだ。貧乏暮らし
はもう飽きた。浮かび上がりたい。見上げてばかりではなく、見下ろしたいんだ。」
署長が言及した「スト」というのは1875年の1月から6月まで続いた「長いストライキ」の ことで、組合側が敗北した。ジャック・キーオウ(ショーン・コネリー)を首魁とする″モリー・マグワイアズ″は、スト敗北後坑道の爆破など破壊活動を行っていたようだ。映画の冒頭部分がとりわけ有名である。真っ黒になって坑道の中で働く炭鉱夫たちの様子を延々写し出す。やがて休憩時間になり鉱夫たちは次々にトロッコに乗って地上に上がってゆくが、ジャック・キーオウら数名はわざとぐずぐずして最後になるのを待つ。そして数箇所に爆薬を仕掛けて地上に上がってくる。坑道口を背景にし、画面のこちら側に向ってキーオウたちが歩いてくる。何食わぬ顔をして別れを告げあい左右に散ってゆく。全員の姿が消えた後、腹に響く爆発音と共に坑道から火が噴出す。この間およそ15分、一言もせりふがない。卓抜な導入場面である。
署長がウェールズ人だということも暗示的だ。当時、熟練したイギリス系の炭鉱夫に対して未熟練のアイルランド系労働者という対立図式があったようだ。マクパーランドがアイルランド人に好意的なことも意識しておくべきだ。名前からして彼もアイルランド系なのだろう。マクドナルドやマッケンジー、マッキントッシュなど、名前にMac(Mc)がつくのはアイルランド系かスコットランド系である。そして一番重要なポイントは「浮かび上がりたい」というマクパーランドの言葉だ。彼はそれまで散々苦労して来たに違いない。同胞を裏切ってまでスパイになろうとする彼の背後には強烈な上昇志向がある。映画はまず最初にこの点を観客の胸に刻みつけている。
しかし彼はただ冷酷で計算高い男ではない。しだいに仲間から信頼され、ついに彼は″モリー・マグワイアズ″の一員になる。何度も破壊活動に同行する。そうしながらいつしかマッケナ(マクパーランド)はジャック・キーオウの人柄に惹かれてゆく。仲間に信頼されるには相手を信頼し友情を持たなければ見抜かれてしまう。芝居なのか本心なのか分からなくなってくる。映画の中で何度もキーオウとマッケナの心の触れ合いが描かれてゆく。最後にマッケナは資本家側を裏切り、キーオウたちの側に付くのではないか。そんな期待も観客に生まれてくる。この辺の描き方がうまい。
ジャック・キーオウはテロリストである。マッケナことジェームズ・マクパーランドはスパイである。共に正義漢とは言えない2人が主人公である。この二人が共に魅力的に描かれなければこの映画の成功はない。マッケナへの信頼感は彼が次第にキーオウたちに引かれて行くことを描くことで得られてゆく。彼は警察署長と密会した時に、″モリー・マグワイアズ″のメンバーが警察に撃たれた仲間の仕返しに行こうとするのを本気で止めようとしたが止められなかったと署長に打ち明けている。より印象的な場面は、死んだ父親にまともな服を着せてやろうとキーオウが商店に押し入ったときだ。服を運び出し仲間に放り投げる。キーオウは店を破壊し始めるが、思わずマッケナも「破壊活動」に加わる。突然の感情の噴出。2人は商店に火をつける。「これで生きてると示せるぞ」とキーオウ。このとき二人はもっとも気持ちが接近していた。
破壊活動を続けるキーオウに観客が共感するためには、彼の行動に納得の行く理由がなければならない。それは必ずしも充分描かれてはいない。映画製作上で何らかの規制があったのかどうかは分からない。いずれにせよ炭鉱における搾取の実態ははっきりとは描かれていない。低賃金など待遇面の他に安全軽視も重大な争点だったようだが(事故が多発していた)、その点も明示的には描かれていない。むしろ言葉によって暗示的に描くという方法を取っている。新入りのマッケナにまだ疑いの目を向けていたキーオウが、なぜこの町にやってきたのかとマッケナに聞く場面がある。マッケナは警察に追われていると答えるが、すぐに嘘だと見抜かれる。「坑道に比べたら刑務所はホテルだ。」だから刑務所を逃れるために炭鉱に来る奴はいないと。炭鉱の仕事がいかに過酷か間接的に語られている。
もう一つ重要な場面は、上に挙げた商店を破壊する直前の場面。キーオウの父親の葬儀の場面である。キーオウのせりふから踏みにじられ続けてきた男の抵抗精神が読み取れる。
彼(父)は静かだ。あんなふうには死ねない。・・・虫の鳴くほどの声も出さずに、逝っちまった。・・・42年も坑道にいて自分の声はこだまも残さなかった。・・・音を出すんだ親父。胸のつかえを吐き出せ。耳打ちでもいい、寝たままでだ。・・・沈黙は金というわけか。貝になったんだな。連中に叩き込まれたんだ。哀れな男だな。火薬は持ってた。新米の俺にその使い方を教えてくれた。なぜ自分のためには使えなかったんだ。奴らに示すべきだった。生きていることを。動物は音を出す。彼だって出すべきだった。搾取を免れるにはそれしかない。すべてを奪われていた。見ろ、死んでく服もないぞ。・・・奪ってやるぞ、着てゆく服を。
商店を破壊しつくした後でキーオウが「これで生きてると示せるぞ」と叫んだのはこういう流れがあったからだ。こういう間接的な描き方だけでは過酷な搾取を充分描ききれていないが、ショーン・コネリーという脂の乗り切った役者の存在感が強烈に彼を後押しして、彼を魅力的な人物にしている。丁度007シリーズからの方向転換を目指し、俳優として別の可能性を模索していた頃の作品である。70年代はあまりいい作品に恵まれず、渋みを増した新生ショーン・コネリーとして注目され始めるのは86年の「薔薇の名前」以降である。
警官二人が夜″モリー・マグワイアズ″のメンバー宅を襲撃し妻もろとも撃ち殺す場面も出ては来るが、どちらかというと先に″モリー・マグワイアズ″の破壊活動があり、彼らを捕まえようとする警察が武装して待ち伏せするという展開になっている。少なくともそういう印象を与える。実際には経営者側がならず者を雇ってたびたび炭鉱夫たちを襲撃させており、炭鉱夫たちは暴力に暴力で応酬していたという関係だったようだ。
マーティン・リット監督は明らかにキーオウの側に共感を寄せて描いている。しかしスパイとして送り込まれたマッケナをあからさまな悪党として描かなかったために、この映画に独特の緊張感が生まれている。マッケナは最終的にどう行動するのか。彼は炭鉱夫仲間を裏切るのか、それとも最後に経営者側を裏切るのか。これが観客を引っ張る心理的ドライブとなっている。
ほとんど男ばかりの映画の中で1人だけ比較的重要な位置にいる女性がいる。マッケナを泊めている宿の女主人メアリー・レインズだ。マッケナは次第に彼女に心を引かれてゆく。彼女は二度重要な役割を果たしている。一つ目は2人で丘の上にピクニックに行ったときだ。マッケナと彼女の会話からマッケナという男の性格がほの見える。
マッケナ「町で見てきただろう。貧乏人に品位などない、金で買うんだ。法律でさえパ
ンみたいに買うんだ。」
メアリー「善と悪があるわ。」
マッケナ「欲しいものがあったら買うだけだ。」
メアリー「お金で買える以上のものがあるわ。」
欲しいものは金で買うと言うマッケナ。最初に示した上昇志向、そしてこの何でも金で買えるという考え方。キーオウは彼を理性的だと言った。マッケナはキーオウに「俺は永遠に 生きる」と言った。果たして彼は最後にキーオウを売る。裁判に証人として出頭する時、彼は控え室でトランプをやって平然と呼ばれるのを待っていた。ピンカートン探偵社の上司から昇進の約束をされ彼は満足そうな顔を見せる。「仲間」を裏切ったことを悔いているのではないかというこちらの期待を見事に裏切る。彼はそういう男なのだ。情に流されず最後まで「理性的」だった。最後まで生き残る男。裁判でキーオウたちは死刑を宣告される。判決後、満足げな彼は法廷に1人残っていたメアリーと会う。まだ俺に気があるのかという思いで声をかけるが、返ってきたのは冷たい言葉だった。これがメアリーの二つ目の役割である。
しかし最も打撃的な言葉を浴びせたのはキーオウ本人である。マッケナ、いやマクパーランドが監獄のキーオウに面会に行ったのだ。この場面は詳しく引用するに足る。
マクパーランド「必用なものはないか?」
キーオウ「火薬かな。」
マクパーランド「縁を切ってる。今でも火薬で勝てると思ってるのか。」
キーオウは笑う。
マクパーランド「じゃあなぜ?」
キーオウ「君も穴にいたから分かるだろう。黙って指をくわえてたか?」
マクパーランド「抜け出すことを考えたさ。」
キーオウ「出てどんな違いがある?上と下がいて、せめぎ合っている。いい思いは上
だけだ。」
マクパーランド「では上に上がればいい。」
キーオウ「まあな、そして下をいじめるんだ。」
不当な扱いがいやなら抜け出せばいい、あるいは自分が「上」になればいい。上昇志向の彼らしい言葉。キーオウに男として共感する面はあっても自分の信条は全く揺るがない。彼は「なぜ中止しなかった。本気で止めたのに」と聞くが、キーオウはまともに答えない。二人の考えは完全に平行線だ。ところが、途中からキーオウが会話の主導権を握る。
キーオウ「君が来たのは世間話や別れを言うためじゃない。」
マクパーランド「顔を見に来たんだ。」
キーオウ「免罪のためだ。」
マクパーランド「君は神父か」
キーオウ「罪を忘れたいんだろ。」
マクパーランド「そんなヤワではない。」
キーオウ「許しなら女からもらえるか。じゃあ罰だな、欲しいのは。罰せられれば自
由に。それで来たんだ。罰を求めて。昔からだが十字架を背負った奴には我慢
できない。」
ここでマクパーランドにつかみかかり警官に引き離され、なぐられる。
キーオウ「もう自由か、これで新しい人生へ出発できるか。」
マクパーランド「お陰でな。」
キーオウ「自由じゃないぞ。罰せられてもこの世に自由などない。」
マクパーランド「地獄で会おう。」
この作品は徹頭徹尾炭鉱労働者側に立っている。僕がこの映画を評価する基本的な理由もそこにある。しかし優れた作品はすべてそうだが、善悪を単純には描かなかった。炭鉱の劣悪な労働条件や経営側の暴力など基本的情報が充分盛り込まれてはいないが、せりふを練り上げて人間ドラマとして見ごたえのある作品を作り上げている。
リチャード・ハリスといえば「ジャガーノート」(1974)でさっそうと登場する爆弾処理班のチーム長役(いかにも腕利きという雰囲気を終始漂わせている)あるいはホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長の印象が強いかも知れない。しかし彼を知る上で見逃せない2本の傑作を是非観てほしい。エリオット・シルバースタイン監督の「馬と呼ばれた男」(1969)とその続編であるアーヴィン・カーシュナー監督の「サウス・ダコタの戦い」(1976)。もう1本。未公開作品だがロバート・デュヴァルと共演した「潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ」(1993)も是非。以上の3本は知られざる傑作である。他に「ワイルド・ギース」(1978)、「カサンドラ・クロス」(1976)、「荒野に生きる」(1971)、「テレマークの要塞」(1965)、「赤い砂漠」(1964)、「孤独の報酬」(1963)、「戦艦バウンティ」(1962)も要チェック。
<参照>
Steve Schoenherr氏のレビュー
Shane Burridge氏のレビュー(Rotten Tomatoes)
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