レイヤー・ケーキ
2004年 イギリス 2006年7月公開
評価:★★★★
原題:Layer Cake
監督:マシュー・ヴォーン
原作:J・J・コノリー 『レイヤー・ケーキ』(角川文庫刊)
脚本:J・J・コノリー
撮影:ベン・デイヴィス
出演:ダニエル・クレイグ、コルム・ミーニイ、ケネス・クラナム
ジョージ・ハリス、 ジェイミー・フォアマン、シエナ・ミラー
マイケル・ガンボン、マーセル・ユーレス、 トム・ハーディ
テイマー・ハッサン、ベン・ウィショー、バーン・ゴーマン
サリー・ホーキンス、ナタリー・ルンギ、フランシス・マギー、ジェイソン・フレミング
イギリスは80年代のサッチャー首相時代に政治・社会の大変動を経験する。サッチャーはイギリスを「揺りかごから墓場まで」と言われた社会福祉国家からアメリカ型の競争社会に変えた。その結果イギリスは表面上確かに豊かになったが、その一方でアメリカ的な消費生活が急速に拡大し、金の有無だけがその人間関係を決定する社会に変貌していった。経済は好転したが、極端な上昇志向や拝金主義が蔓延し、弱者は切り捨てられることになった。這い上がる余地のない失業者や社会の最底辺にいる者たちは、出口のない閉塞した社会の中に捕らわれて抜け出せない。社会が人々を外から蝕み、酒とドラッグが中からむしばんでゆく。
社会の変化に伴ってイギリス映画も変貌を遂げた。失業、ストライキ、麻薬、アル中、犯罪は90年代イギリス映画の新しいキーワードになった。失業、ストライキ、麻薬などは、かつてのイギリス映画がほとんど描かなかったものだ。かくして、イギリスにもアメリカ映画を思わせる犯罪映画が登場する。「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「バタフライ・キス」、「ザ・クリミナル」、「ロンドン・ドッグズ」、「ダブリン上等!」(アイルランドが舞台だがイギリスも製作に参加)等々。失業者を主人公にした映画やクライム・ムービーは確実にイギリス映画の一角を占めるようになった。「レイヤー・ケーキ」は明らかにこのクライム・ムービーの系統に属する映画である。
名前のない主人公を演じたダニエル・クレイグは新ボンド役としてばかり意識されているが、彼がここで演じた役柄はちょっと前ならロバート・カーライルが演じていた役柄である。彼を単なるアクション俳優と捉えたのでは彼の役者としての幅の広さを捕らえそこなう。僕が彼を初めて意識したのは1999年の「ザ・トレンチ 塹壕」という映画である。第1次大戦で大量の戦死者を出したことで有名なソンムの塹壕戦を描いた映画。ほとんど戦闘場面もなく、だらだらと塹壕の中の兵士たちの日常を描くだけの、実に退屈でつまらない映画だった。しかしその退屈な映画の中でウィンター軍曹を演じたダニエル・クレイグが1人光っていた。それまで聞いたことのない名前だったが、なんてうまい俳優だろうと感心したものだ(最後の最後に出てくる突撃場面で、塹壕を飛び出たとたんにあっけなく撃たれて死んでしまうが)。その後しばらく忘れていたが、「シルヴィア」で詩人テッド・ヒューズに扮し、「ミュンヘン」で車輌のスペシャリスト、スティーヴを演じていた。その延長線上にジェームズ・ボンド役があるわけだ。
007の新作はまだ観ていないが、「レイヤー・ケーキ」はダニエル・クレイグが初めて彼の真価を全面的に発揮した映画である。「ザ・トレンチ 塹壕」同様、ここでも彼はアンチ・ヒーローである。アメリカ映画の主人公のように不死身ではなく、銃の使い手でもない。颯爽とはしていても喧嘩が強いわけではない。この映画の売りは複雑に入り組んだ人間関係と先の見えない話の展開、皮肉とブラック・ユーモアに満ちた会話、(派手なドンパチではなく)互いに出し抜きあう頭脳戦にある。
ダニエル・クレイグ演じる麻薬のディーラーは一見普通のサラリーマン風。実際彼の表の顔は不動産業者だ。彼の座右の銘「ゴールデン・ルール」が可笑しい。欲張りすぎるな。取引は紹介された人物とだけしろ。計画をたて、それに従え。敵を知り、尊重しろ。法律をバカにする奴は、本当のバカだけだ。好調なうちに引退しろ、等々。サラリーマン処世訓としても通じる。麻薬のディーラーというやくざな商売だが、彼はそれをビジネスとして割り切っていた。決して危ない橋は渡らず、「正当に」取引して小金をためた。ある意味では、不二家よりよほどまともだ。真面目なサラリーマンがちょっと道を踏み外し、やばいほど儲けは大きいと新商売に手を出した感じ。根っからの悪党ではない。だから、冒頭のナレーションでもう十分稼いだからそろそろ足を洗おうと語るわけだ。登場した時は颯爽とした渋い男前。麻薬ディーラーなのにビジネス・スーツが似合うから面白い。スーパーの陳列棚の前を彼が通ると、棚の商品が次々に麻薬に変わって行く視覚的効果もなかなか優れた演出だった。
しかし簡単に足を洗えないのがこの業界。これが最後と思って引退前に引き受けた仕事は簡単に片付くはずだった。大ボス、エディ・テンプル(マイケル・ガンボン)の麻薬中毒の娘を捜し出す事と、ギャングのデュークが手に入れた大量の”エクスタシー”を売りさばく事。だがこれは罠だった。”レイヤー・ケーキ”というタイトルがここで生きてくる。イギリスは徹底した階級社会。裏社会も同じこと。何層にも重なる闇社会の階層(レイヤー)の中では彼も小者。下積みの悲哀をいやと言うほど味わわされる。
危ない橋を渡ったことがないだけに、いざという時007のように冷静沈着に行動できない。ボスのジミー・プライス(ケネス・クラナム)を銃で撃ち殺す場面が出てくるが、初めて銃で人を撃った感じだ。そのジミーの右腕だったジーン(コルム・ミーニー)からは顔中血だらけになるほど痛めつけられる。あまつさえ、マネーロンダリングを任せていたインド人会計士には預けていた金をごっそり持ち逃げされる。ヒーローには程遠い、このあたふたしたところが逆に魅力だ。このあたりはイギリス映画らしい味わいがあって実によろしい。
二つの仕事を請け負ってからの展開は実にめまぐるしい。いくつものグループが絡んできてストーリー展開も複雑である。この展開は「ダブリン上等!」を連想させる。どこか群像劇にも似た複雑な人間関係。その上にスピーディな展開だから観終わってしばらくするとどんな話だったかよく思い出せない。そういう映画だ。上に挙げたイギリス製クライム・ムービーはほとんどどれもそんな感じ。疾走感はあるがドラマ性が薄いために後には残らない。いくつもの思惑が絡み合い、手違いや裏切りや失敗で話はねじれにねじれ、こんがらかり、もたつき、どんでん返しの繰り返し。群像劇といっても人間関係を複雑かつ重層的にして重厚なドラマにしようというタイプではなく、意外なストーリー展開自体に重きを置くタイプなので、まあこのドタバタを楽しめばいい。
これに加えてイギリス映画らしい独特のひねったユーモアが会話に練りこまれている。 ダニエル・クレイグはセルビアのマフィアが放った殺し屋から身を守るために殺し屋を雇うが、これがまるでセールスマンみたいで少しも凄みがなく、ちっとも殺し屋に見えないのが可笑しい。とにかくわけのわからぬ依頼にさんざん振り回され、二転三転したあげく、気が付いたらダニエル・クレイグはかつてのボス、ジミー・プライスの後釜に納まっていた。そして今度こそ引退しようと思った矢先に撃たれて死んでしまう。いかにもイギリスらしい皮肉な結末。
アメリカ映画のような正義と悪という単純な二分法ではない。そもそもギャングやマフィアしか登場しないのだから正義のヒーローなどいようはずもない。そんな中でダニエル・クレイグが銀行員並の堅実な仕事ぶりで一財産築いているのが愉快だ。しかし、彼も最後は欲に目がくらんで引退を遅らせたのがあだとなって惨めに死んでゆく。
それなりに楽しめるのだが、展開がめまぐるしすぎて味わいがやや薄い。登場人物も多すぎてダニエル・クレイグ以外はいまひとつ印象が薄い。大ボスに扮したマイケル・ガンボンはあの大きな顔で凄みを見せていたが、やや物足りない。「ミニミニ大作戦」に出てきたギャングの大ボス(ノエル・カワード)は獄中にいるのになぜかまるで自分の大邸宅にいるように豪勢な生活をしていた。これぐらいどぎつく描かないと、これだけめまぐるしい展開の中では埋もれてしまう。ダニエル・クレイグの上役を演じたコルム・ミーニーはいい味を出していたが、「ウェールズの山」で演じた、「好色モーガン」というあだ名ながらも人情味のある宿屋の親父役には及ばない。
監督のマシュー・ヴォーンは、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「スナッチ」のプロデューサー。なるほどよく似たタッチなわけだ。
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