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2007年1月

2007年1月31日 (水)

レイヤー・ケーキ

2004年 イギリス 2006年7月公開 Sdcabirth02_1
評価:★★★★
原題:Layer Cake
監督:マシュー・ヴォーン
原作:J・J・コノリー 『レイヤー・ケーキ』(角川文庫刊)
脚本:J・J・コノリー
撮影:ベン・デイヴィス
出演:ダニエル・クレイグ、コルム・ミーニイ、ケネス・クラナム
    ジョージ・ハリス、 ジェイミー・フォアマン、シエナ・ミラー
    マイケル・ガンボン、マーセル・ユーレス、 トム・ハーディ
    テイマー・ハッサン、ベン・ウィショー、バーン・ゴーマン
    サリー・ホーキンス、ナタリー・ルンギ、フランシス・マギー、ジェイソン・フレミング

  イギリスは80年代のサッチャー首相時代に政治・社会の大変動を経験する。サッチャーはイギリスを「揺りかごから墓場まで」と言われた社会福祉国家からアメリカ型の競争社会に変えた。その結果イギリスは表面上確かに豊かになったが、その一方でアメリカ的な消費生活が急速に拡大し、金の有無だけがその人間関係を決定する社会に変貌していった。経済は好転したが、極端な上昇志向や拝金主義が蔓延し、弱者は切り捨てられることになった。這い上がる余地のない失業者や社会の最底辺にいる者たちは、出口のない閉塞した社会の中に捕らわれて抜け出せない。社会が人々を外から蝕み、酒とドラッグが中からむしばんでゆく。

  社会の変化に伴ってイギリス映画も変貌を遂げた。失業、ストライキ、麻薬、アル中、犯罪は90年代イギリス映画の新しいキーワードになった。失業、ストライキ、麻薬などは、かつてのイギリス映画がほとんど描かなかったものだ。かくして、イギリスにもアメリカ映画を思わせる犯罪映画が登場する。「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「バタフライ・キス」、「ザ・クリミナル」、「ロンドン・ドッグズ」、「ダブリン上等!」(アイルランドが舞台だがイギリスも製作に参加)等々。失業者を主人公にした映画やクライム・ムービーは確実にイギリス映画の一角を占めるようになった。「レイヤー・ケーキ」は明らかにこのクライム・ムービーの系統に属する映画である。

 名前のない主人公を演じたダニエル・クレイグは新ボンド役としてばかり意識されているが、彼がここで演じた役柄はちょっと前ならロバート・カーライルが演じていた役柄である。彼を単なるアクション俳優と捉えたのでは彼の役者としての幅の広さを捕らえそこなう。僕が彼を初めて意識したのは1999年の「ザ・トレンチ 塹壕」という映画である。第1次大戦で大量の戦死者を出したことで有名なソンムの塹壕戦を描いた映画。ほとんど戦闘場面もなく、だらだらと塹壕の中の兵士たちの日常を描くだけの、実に退屈でつまらない映画だった。しかしその退屈な映画の中でウィンター軍曹を演じたダニエル・クレイグが1人光っていた。それまで聞いたことのない名前だったが、なんてうまい俳優だろうと感心したものだ(最後の最後に出てくる突撃場面で、塹壕を飛び出たとたんにあっけなく撃たれて死んでしまうが)。その後しばらく忘れていたが、「シルヴィア」で詩人テッド・ヒューズに扮し、「ミュンヘン」で車輌のスペシャリスト、スティーヴを演じていた。その延長線上にジェームズ・ボンド役があるわけだ。

Gun3500   007の新作はまだ観ていないが、「レイヤー・ケーキ」はダニエル・クレイグが初めて彼の真価を全面的に発揮した映画である。「ザ・トレンチ 塹壕」同様、ここでも彼はアンチ・ヒーローである。アメリカ映画の主人公のように不死身ではなく、銃の使い手でもない。颯爽とはしていても喧嘩が強いわけではない。この映画の売りは複雑に入り組んだ人間関係と先の見えない話の展開、皮肉とブラック・ユーモアに満ちた会話、(派手なドンパチではなく)互いに出し抜きあう頭脳戦にある。

  ダニエル・クレイグ演じる麻薬のディーラーは一見普通のサラリーマン風。実際彼の表の顔は不動産業者だ。彼の座右の銘「ゴールデン・ルール」が可笑しい。欲張りすぎるな。取引は紹介された人物とだけしろ。計画をたて、それに従え。敵を知り、尊重しろ。法律をバカにする奴は、本当のバカだけだ。好調なうちに引退しろ、等々。サラリーマン処世訓としても通じる。麻薬のディーラーというやくざな商売だが、彼はそれをビジネスとして割り切っていた。決して危ない橋は渡らず、「正当に」取引して小金をためた。ある意味では、不二家よりよほどまともだ。真面目なサラリーマンがちょっと道を踏み外し、やばいほど儲けは大きいと新商売に手を出した感じ。根っからの悪党ではない。だから、冒頭のナレーションでもう十分稼いだからそろそろ足を洗おうと語るわけだ。登場した時は颯爽とした渋い男前。麻薬ディーラーなのにビジネス・スーツが似合うから面白い。スーパーの陳列棚の前を彼が通ると、棚の商品が次々に麻薬に変わって行く視覚的効果もなかなか優れた演出だった。

  しかし簡単に足を洗えないのがこの業界。これが最後と思って引退前に引き受けた仕事は簡単に片付くはずだった。大ボス、エディ・テンプル(マイケル・ガンボン)の麻薬中毒の娘を捜し出す事と、ギャングのデュークが手に入れた大量の”エクスタシー”を売りさばく事。だがこれは罠だった。”レイヤー・ケーキ”というタイトルがここで生きてくる。イギリスは徹底した階級社会。裏社会も同じこと。何層にも重なる闇社会の階層(レイヤー)の中では彼も小者。下積みの悲哀をいやと言うほど味わわされる。

  危ない橋を渡ったことがないだけに、いざという時007のように冷静沈着に行動できない。ボスのジミー・プライス(ケネス・クラナム)を銃で撃ち殺す場面が出てくるが、初めて銃で人を撃った感じだ。そのジミーの右腕だったジーン(コルム・ミーニー)からは顔中血だらけになるほど痛めつけられる。あまつさえ、マネーロンダリングを任せていたインド人会計士には預けていた金をごっそり持ち逃げされる。ヒーローには程遠い、このあたふたしたところが逆に魅力だ。このあたりはイギリス映画らしい味わいがあって実によろしい。

 二つの仕事を請け負ってからの展開は実にめまぐるしい。いくつものグループが絡んできてストーリー展開も複雑である。この展開は「ダブリン上等!」を連想させる。どこか群像劇にも似た複雑な人間関係。その上にスピーディな展開だから観終わってしばらくするとどんな話だったかよく思い出せない。そういう映画だ。上に挙げたイギリス製クライム・ムービーはほとんどどれもそんな感じ。疾走感はあるがドラマ性が薄いために後には残らない。いくつもの思惑が絡み合い、手違いや裏切りや失敗で話はねじれにねじれ、こんがらかり、もたつき、どんでん返しの繰り返し。群像劇といっても人間関係を複雑かつ重層的にして重厚なドラマにしようというタイプではなく、意外なストーリー展開自体に重きを置くタイプなので、まあこのドタバタを楽しめばいい。

 これに加えてイギリス映画らしい独特のひねったユーモアが会話に練りこまれている。Xmas200512071 ダニエル・クレイグはセルビアのマフィアが放った殺し屋から身を守るために殺し屋を雇うが、これがまるでセールスマンみたいで少しも凄みがなく、ちっとも殺し屋に見えないのが可笑しい。とにかくわけのわからぬ依頼にさんざん振り回され、二転三転したあげく、気が付いたらダニエル・クレイグはかつてのボス、ジミー・プライスの後釜に納まっていた。そして今度こそ引退しようと思った矢先に撃たれて死んでしまう。いかにもイギリスらしい皮肉な結末。

  アメリカ映画のような正義と悪という単純な二分法ではない。そもそもギャングやマフィアしか登場しないのだから正義のヒーローなどいようはずもない。そんな中でダニエル・クレイグが銀行員並の堅実な仕事ぶりで一財産築いているのが愉快だ。しかし、彼も最後は欲に目がくらんで引退を遅らせたのがあだとなって惨めに死んでゆく。

  それなりに楽しめるのだが、展開がめまぐるしすぎて味わいがやや薄い。登場人物も多すぎてダニエル・クレイグ以外はいまひとつ印象が薄い。大ボスに扮したマイケル・ガンボンはあの大きな顔で凄みを見せていたが、やや物足りない。「ミニミニ大作戦」に出てきたギャングの大ボス(ノエル・カワード)は獄中にいるのになぜかまるで自分の大邸宅にいるように豪勢な生活をしていた。これぐらいどぎつく描かないと、これだけめまぐるしい展開の中では埋もれてしまう。ダニエル・クレイグの上役を演じたコルム・ミーニーはいい味を出していたが、「ウェールズの山」で演じた、「好色モーガン」というあだ名ながらも人情味のある宿屋の親父役には及ばない。

 監督のマシュー・ヴォーンは、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「スナッチ」のプロデューサー。なるほどよく似たタッチなわけだ。

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2007年1月29日 (月)

ちょっと一息

  このところまた忙しくなりブログの更新もままなりません。昨日の日曜日も出張で、先ほFruits_1 どやっと家に戻ってきました。今週も予定が一杯で今度いつ更新できるやら。3日の土曜日はようやく休みが取れるのですが、4日の日曜日に東京で研究会があるのでその準備をしなければなりません。観た映画のレビューも書けないし、新たに映画を観る時間も取れるかどうか。ああ「グエムル 漢江の怪物」が観たい。「ローズ・イン・タイドランド」や「トランスアメリカ」も観たい。予約注文で手に入れた「フープ・ドリームス」も観たい。昨年はブログを頑張りすぎて体を壊してしまいましたが、今度はブログが書けなくてストレスがたまりそうです。

 いや、申し訳ありません。つい嘆き節になってしまいました。嘆いていても仕方がないので、この間観た映画の報告をしておきましょう。レンタルしていた「レイヤー・ケーキ」と「恋人たちの食卓」を返却日ぎりぎりに観終えました。忙しいと言いつつ、期限を切られると人間頑張るものです。久々に両方とも満足しました。評価は以下の通り。

 「レイヤー・ケーキ」★★★★  
 「恋人たちの食卓」★★★★☆

  「レイヤー・ケーキ」はイギリス流クライム・ムービー。アメリカ映画のように不死身のヒーローがかっこよく立ち回り、派手なドンパチで相手をばたばたなぎ倒したりはしません。むしろ主人公はアンチ・ヒーロー的で、イギリス映画らしい皮肉っぽい語り口がピリッと利いている。さらにブラックなユーモアがふんだんに盛り込まれています。登場人物が多彩で、ちょっとした群像劇のような作りになっているところも面白い。「トレインスポッティング」や「ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」などが好きな人にはおすすめです。

  「恋人たちの食卓」は期待に違わぬ傑作でした。名優ラン・シャンを起用した、アン・リー監督の「老父」シリーズ3作目。1作目の「推手」もそうですが、ラン・シャンは小津映画の笠智衆のように枯れてはいない。息子や娘たちに振り回されながらも、老父はラストで第2の人生に踏み出してゆく。「推手」同様味わい深い作品でした。第2作の「ウェディング・バンケット」も早く観たい。

  「レイヤー・ケーキ」は短評で、「恋人たちの食卓」は本格的なレビューを書きたいと思っていますが、何せ忙しいのでいつのことになるやら予定が立ちません。どうか気長にお待ちください。

2007年1月24日 (水)

あの頃こんな映画があった 1988年

■1988年Img_0200_1
 僕の映画自伝である「あの頃名画座があった(改訂版)⑧」の最後で「88年以降につい てはまた切り口を変えて年毎にまとめて行くつもりです」と書いた。その後時間がなくてほとんど放り投げていたが、そろそろまた連載を始めようと思う。「あの頃名画座があった」は自分がどこでどんな映画を観てきたかを中心に、覚えている限りで当時の映画環境も書き込んだ(東京中心だが)。88年からは東京を離れ長野県の上田市という地方小都市に移り住んだので映画はほとんどビデオ/DVDで観ている。「あの頃名画座があった」と同じ趣向では書けないので、新連載は日本で公開された作品を年毎にまとめることを試みてみようと思う。

 これまで何度も嘆いて見せたが、東京を離れると一気に映画環境は悪化する。当時上田にあった映画館は「ニューパール」、「上田映劇」、ポルノ専門館になっていた「東横劇場」、「敦煌」を観ただけですぐなくなってしまった「上田テアトル」の4館だけ。今残っているのは「映劇」だけである。4月1日にさっそく「上田映劇」で「フルメタル・ジャケット」を観ている。併映は何と「エルム街の悪夢」。どういう組み合わせだ!?最終上映回だったのでこちらは10分ほど観てパス。あんなもの真っ暗な中で1人では観たくないからね(始まった時はほかにもう1人観客がいたが、5分ほどで出て行ってしまった)。

 上田では物足りないので長野まで足を伸ばして「千石劇場」、「東宝中劇」、「長野東映」、「東宝グランド劇場」、「長野ロキシー」などへ行っている。しかし大した作品をやっていないのですぐ行かなくなってしまった。この年はまだ東京への未練たらたらで、結構週末を使って東京まで出かけている。まだ新幹線がなかった頃だから、片道2時間半もかけて通ってImg_0198_1 いたことになる。体力と若さがなければできないことだ。

 代わってビデオ生活が始まる。当時既にレンタルビデオ店があったが、東京にいた頃は当然映画館で観ていたのでビデオは借りたことがなかった。映画ノートを見ると、上田で借りた最初のビデオは「刑事ジョン・ブック目撃者」。9月の4日である。半年間我慢したわけだ。しかし背に腹は代えられない。一旦踏み切れば、後は堰を切ったように懐かしい映画、それまで見落としていた映画を借りまくっている。当時のビデオは嘆かわしいほど画質が悪かった。斜めの線などはぎざぎざになってまっすぐにならない。今のような大画面テレビもないので、小さな画面で画質の悪いビデオを見る情けなさ。しかし他にどうすることも出来ない。こうして、半年以上遅れて新作を観る生活が始まった。

【興行成績】
<洋画>
1位 「ラストエンペラー」
2位 「ランボー3 怒りのアフガン」 Img_0201_1
3位 「危険な情事」
4位 「ウィロー」
5位 「ニューヨーク東8番街の奇跡」
6位 「ロボコップ」
7位 「インナー・スペース」
8位 「クロコダイル・ダンディー2」
9位 「007/リビング・デイライツ」
10位 「フルメタル・ジャケット」

<邦画>
1位 「敦煌」
2位 「優駿 ORACION」
3位 「いこかもどろか」
4位 「あぶない刑事」
5位 「ドラえもん のび太のパラレル西遊記」
    「エスパー魔美 星空のダンシングドール」 Img_0199_1
    「ウルトラB ブラックホールからの独裁者B・B」
6位 「マルサの女2」
7位 「ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲」
    「はいからさんが通る」
8位 「マリリンに逢いたい」
9位 「帝都物語」
    「またまたあぶない刑事」
    「・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・」  
     「男はつらいよ 寅次郎物語」
    「女咲かせます」

 Img_0202_2 興行成績を見てみるとその年どんな映画がはやり、何が話題になったか手っ取り早く分かる。88年は「ラストエンペラー」と「ロボコップ」の年である。壮絶な夫婦間の「戦争」を描いた「危険な情事」も話題になった。一方日本映画を見てみると情けなくなる。上記の諸作品と比べると、この1、2年の日本映画がいかに高いレベルに達し ているか分かろうというものである。まさに天と地の差である。数々の名作を生み出した50年代を頂点に、60年代以降はテレビに押されて下降線をたどり、80年代の末にはここまで落ち込んでいたのである。僕は80年代には年間に日本映画を数十本も観ていたが、そのほとんどは30年代から60年代にかけての作品だった。70年代までは日本映画の名作を観る機会が限られていたので、上映機会が増えた80年代に飢えたように観まくっていたからだが、新作に観るべきものがなかったからでもある。

 さて、興行成績はともかく、この年の特徴をゴブリン的視点から見直してみたい。この年Img_0192_1 の最大の成果と特徴は中国映画「芙蓉鎮」の公開と韓国映画の登場である。以下7点にわたってこの年の特徴をまとめてみたい。

1 「芙蓉鎮」の衝撃
 この年岩波ホールで公開された謝晋監督(この当時はまだ漢字表記だった)の「芙蓉鎮」は日本の映画ファンに大きな衝撃を与えた。文革のすさまじい実態をつぶさに描いた映画が日本で初めて公開されたのである。僕が中国映画を観たのはその前年の87年だが、まだその時は一部で注目されていたに過ぎない。この「芙蓉鎮」によって事実上はじめて中国映画のレベルの高さを日本人は知ったのである。僕は迷わずこの作品を88年のベストテン1位に選んでいる。  文芸座の「中国映画祭‘88」では6本が上映されたが、その中では「北京物語」と「晩鐘」が印象に残った。

2 韓国映画が初めて注目される
 この年に「旅人は休まない」、「鯨とりコレサニヤン」、「ディープ・ブルー・ナイト」が公開さImg_0204_1 れた。この頃はまだ韓国映画に対する僕の意識は低く、翌年に公開された台湾の「童年往時」や「恋々風塵」、あるいは「誰かがあなたを愛している」などの香港映画とかなり混同していた覚えがある。正直言って、91年公開の「達磨はなぜ東へ行ったのか」など、奇妙なタイトルの映画が入ってくるようになったなという程度の認識でしかなかった。だから観たのはいずれも数年後である。「誰かがあなたを愛している」は90年、「旅人は休まない」、「ディープ・ブルー・ナイト」、「恋々風塵」は91年、「童年往時」は93年、「鯨とりコレサニヤン」と「達磨はなぜ東へ行ったのか」は未だに観ていない。とにかくこの時期の韓国映画はまだ珍品扱いだったといっても過言ではないだろう。作品的にも今の恋愛もの全盛とは違ってより瞑想的で難解な作風だった。

3 イギリス映画
 イギリスからはこの年「遠い夜明け」と「ワールド・アパート」というアパルトヘイトを告発した傑作が2本入ってきた。アパルトヘイトが撤廃されたのは3年後の91年。2002年には「アマンドラ!希望の歌」という傑作ドキュメンタリーが生まれている。 イギリス映画では他にジョン・ブーアマン監督の秀作「戦場の小さな天使たち」やピーター・グリーナウェイ監督の「建築家の腹」があった。

4 フランスとイタリア映画
 フランス映画は上映数こそ多くないが、「愛と宿命の泉」、「さよなら子供たち」、「グレート・ブルー」、「フランスの思い出」などの傑作が公開された。エリック・ロメール作品も前年Img_0203_1 の「緑の光線」に続いて、「友だちの恋人」と「モード家の一夜」が公開された。他に「汚れた血」、「カンヌ映画通り」など。
 イタリア映画は「ラスト・エンペラー」の公開が最大の話題。しかし作品的には「1900年」に及ばない。他にフェリーニの「インテルビスタ」、フランチェスコ・ロージの「予告された殺人の記録」、エットーレ・スコラの「マカロニ」など、こちらも数は少ないが粒はそろっていた。

5 アメリカ映画
 88年はベトナム物に秀作がそろった年である。上記の「フルメタル・ジャケット」の他にベトナム物は「グッド・モーニング・ベトナム」と「ディア・アメリカ 戦場からの手紙」がある。ベトナム物以外では地味な作品に傑作が集中している。「ラジオ・デイズ」、「八月の鯨」、「メイトワン1920」、「ミラグロ 奇跡の地」、「エル・ノルテ 約束の地」など。
 他に注目すべき作品としては、「存在の耐えられない軽さ」、ジェイムズ・ジョイス原作の「ザ・デッド」、「月の輝く夜に」、「ミッドナイト・ラン」、「セプテンバー」、「月の出をまって」、「ウォール街」など。

6 その他の国々の映画
 ソ連映画に秀作が多かった。「黒い瞳」、「持参金のない娘」、「翌日戦争が始まった」、Img_0193_1 「死者からの手紙」、「メッセンジャー・ボーイ」、(僕は評価しないが)ソクーロフの「孤独な声」など。「黒い瞳」を除く4本は高田馬場東映パラスで観た。
 南米映画も前年に引き続き好調。アルゼンチンの「王様の映画」、「南東からきた男」、「ナイト・オブ・ペンシルズ」、キューバの巨匠ウンベルト・ソラス監督の「ルシア」、ブラジルの「ピンタット」など。この頃アルゼンチン映画は毎年のように入ってきていた。何と言ってもフェルナンド・E・ソラナス監督の存在が大きい。
   この年10月5日から13日にかけて草月ホールで「ラテンアメリカ映画祭」が開かれ、ウンベルト・ソラス監督の「成功した男」をわざわざ東京まで出かけて観ている。しかし「キネカ錦糸町」で観た「ルシア」も「成功した男」も悲しいことに全く記憶に残っていない。
 英仏以外でこの年公開されたヨーロッパ映画は少ない。しかし、ドイツの「ベルリン・天使の詩」と「都会のアリス」、ポーランドの「太陽の年」、チェコの「スイート・スイート・ビレッジ」とさすがに傑作、秀作ぞろいだ。
 日本映画では「となりのトトロ」、「TOMORROW明日」、「火垂るの墓」が3大傑作。この3Img_0195_1 本だけ観ておけば十分事足りる。日本映画が活気を取り戻すのはようやく2000年代になってからである。

7 未公開作品の発掘
  未公開作品の初公開も引き続き盛んだった。三百人劇場で「ヨーロッパの名匠たち フリッツ・ラングとジャン・ルノワール」と題して、「死刑執行人もまた死す」(87年12月19~88年1月8日)、「捕らえられた伍長」(1月9日~22日)、「恐怖省」(1月23日~2月5日)の3本が上映された。この面で三百人劇場が果たした役割はどんなに評価してもしすぎることはない。ジョン・フォード監督の「タバコ・ロード」もこの年に初公開された。

【1988年 マイ・ベストテン】
1 芙蓉鎮                謝 晋(シェ・チン)
2 エル・ノルテ 約束の地      グレゴリー・ナヴァ
3 さよなら子供たち          ルイ・マル
4 死刑執行人もまた死す       フリッツ・ラング
5 愛と宿命の泉            クロード・ベリ
6 遠い夜明け              リチャード・アッテンボロー
7 フランスの思い出          ジャン・ルー・ユベール
8 八月の鯨               リンゼイ・アンダーソン
9 スイート・スイート・ヴィレッジ    イジー・メンツェル
10 フル・メタル・ジャケット        スタンリー・キューブリック
次 翌日戦争が始まった        ユーリー・カラ   
  ワールド・アパート          クリス・メンゲス
  メイトワン1920           ジョン・セイルズ
  ベルリン・天使の詩         ヴィム・ヴェンダース
  黒い瞳                   ニキータ・ミハルコフ
  ディア・アメリカ              ビル・コーチュリー
  死者からの手紙            コンスタンチン・ロプシャンスキー
  北京物語                鄭洞天(チェン・トンティエン)
  グッド・モーニング・ベトナム       バリー・レビンソン
  ラジオ・デイズ               ウッディ・アレン
  友だちの恋人               エリック・ロメール
  ウォール街              オリバー・ストーン
  ミラグロ                   ロバート・レッドフォード
  ラスト・エンペラー          ベルナルド・ベルトルッチ
  戦場の小さな天使たち        ジョン・ブーアマン
  予告された殺人の記録       フランチェスコ・ロージ

(注)
 写真はマイ・チラシ・コレクションより。名前を挙げた作品はほとんど持っています。

2007年1月22日 (月)

男の闘い

1969年 アメリカ 1969年公開Gen1
評価:★★★★
原題:THE MOLLY MAGUIRES
原作:アーサー・H・ルイス
監督:マーティン・リット
脚本:ウォルター・バーンスタイン
撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
音楽:ヘンリー・マンシーニ
出演:リチャード・ハリス、ショーン・コネリー、サマンサ・エッガー、フランク・フィンレイ
   アート・ランド、アンソニー・ザーブ、アンソニー・コステロ、ジョン・オルダーソン
   フィリップ・ボールネフ

 マーティン・リット、ハリウッドきっての硬派監督の一人。男くさいがリベラルな視点を持った映画を得意とする。代表作をあげると以下の作品あたりになろうか。

「暴力波止場」 (1957)
「長く熱い夜」 (1958)
「太陽の中の対決 」(1965)
「寒い国から帰ったスパイ」 (1965)
「男の闘い」 (1969)
「ボクサー」 (1970)
「ウディ・アレンの ザ・フロント」 (1976)
「ノーマ・レイ」 (1979)
「ナッツ」 (1987)
「アイリスへの手紙」 (1989)

 炭鉱を舞台にした組合と経営側の対立を描いた映画にはジョン・セイルズの「メイトワン 1920」やトニー・ビル監督の「アメリカン・ジャスティス」などがある。「男の闘い」もそれに通じる主題を持った映画。19世紀末、ペンシルヴァニアのある炭鉱が舞台。炭鉱夫はアイルランド系が主で、一部の炭鉱夫たちが″モリー・マグワイアズ″という秘密結社を結成して破壊活動を行っている。名前の元になったモリー・マグワイアという女性は17世紀アイルランドの農民の娘で、立ち退きを命じた地主に対する反乱を指導したジャンヌ・ダルクのような女性らしい。資本家側は″モリー・マグワイアズ″の幹部を一網打尽にしようとピンカートン探偵社から探偵を雇いスパイとして炭鉱夫たちの中に潜入させた。

 この映画は実話を元にしている。日本語サイトにはあまり情報がないので、英語サイトから基本的な情報を補っておこう。アレン・ピンカートン著『モリー・マグワイアズと探偵たち』は今日に至るまでこの問題の定本として知られている。言うまでもなく、この本は自分たちを法の守り手として描く一方でアイルランド系労働者たちを邪悪なテロリストとして描いている。1936年に出たウォルター・コールマンの『モリー・マグワイアズの暴動』はよりバランスの取れた本である。リベラル派のマーティン・リット監督はこのコールマンの本とアーサー・ルイスの著書(64年)に基づいてこの映画を作っている。監督のマーティン・リットと脚本のウォルター・バーンスタインは共に赤狩りでブラックリストに挙げられた経歴の持ち主。硬骨漢らしい題材の選び方だ。

 ジェームズ・マクパーランド(リチャード・ハリス)はある日汽車で炭鉱町にふらっと現われる。紹介された宿屋の女主人メアリー・レインズ(サマンサ・エッガー)にはジェームズ・マッケナと名乗る。こうして彼は炭鉱労働者たちに近づいてゆく。彼が炭鉱夫たちが集まる酒場に入ると中にいた全員が不審そうに彼を見つめる。やがて1人の男がマッケナにいちゃもんをつけ喧嘩になる。警官隊がやってきていきなりマッケナの頭を棍棒で殴りつける。ところが次の場面ではマッケナと警察署長(フランク・フィンレイ)が話し合っている。喧嘩は芝居で、炭鉱夫仲間にうまく入り込めるようにタフな男を印象付けようと仕組んだのだった。2人の会話からは実に多くのことが読み取れる。

署長「バカな奴らだ、ストでの負けを火薬で取り返せると思ってる。」
マッケナ「バカなわけじゃない。それがアイルランド人だ。」
署長「気が知れん。」
マッケナ「分からんさ。あんたはウェールズ人だからな。」
署長「そうだな。彼らにはヒベルニア協会という組織がある。」
マッケナ「同国人をかばいあう合法的な組織だ。」
署長「だがそれは表向きで、実は組合を隠れミノにして″モリー・マグワイアズ″という
  暴力結社が存在する。結社は全国的だ。別の炭鉱に出した密偵は2人が殺され1
  人は行方不明。そして次は君の番だ。」
マッケナ「俺は大丈夫さ。」
署長「リーダーたちを捕まえたい。見当はついている。この町にいるはずだ。証拠がな
  いので現行犯で逮捕したい。」
マッケナ「任せろ。」
署長「なめるとあの世行きだぞ。」
マッケナ「志願したのはドジるためじゃない。この国で芽を出したいからだ。貧乏暮らし
  はもう飽きた。浮かび上がりたい。見上げてばかりではなく、見下ろしたいんだ。」

 署長が言及した「スト」というのは1875年の1月から6月まで続いた「長いストライキ」のHuymgm04 ことで、組合側が敗北した。ジャック・キーオウ(ショーン・コネリー)を首魁とする″モリー・マグワイアズ″は、スト敗北後坑道の爆破など破壊活動を行っていたようだ。映画の冒頭部分がとりわけ有名である。真っ黒になって坑道の中で働く炭鉱夫たちの様子を延々写し出す。やがて休憩時間になり鉱夫たちは次々にトロッコに乗って地上に上がってゆくが、ジャック・キーオウら数名はわざとぐずぐずして最後になるのを待つ。そして数箇所に爆薬を仕掛けて地上に上がってくる。坑道口を背景にし、画面のこちら側に向ってキーオウたちが歩いてくる。何食わぬ顔をして別れを告げあい左右に散ってゆく。全員の姿が消えた後、腹に響く爆発音と共に坑道から火が噴出す。この間およそ15分、一言もせりふがない。卓抜な導入場面である。

 署長がウェールズ人だということも暗示的だ。当時、熟練したイギリス系の炭鉱夫に対して未熟練のアイルランド系労働者という対立図式があったようだ。マクパーランドがアイルランド人に好意的なことも意識しておくべきだ。名前からして彼もアイルランド系なのだろう。マクドナルドやマッケンジー、マッキントッシュなど、名前にMac(Mc)がつくのはアイルランド系かスコットランド系である。そして一番重要なポイントは「浮かび上がりたい」というマクパーランドの言葉だ。彼はそれまで散々苦労して来たに違いない。同胞を裏切ってまでスパイになろうとする彼の背後には強烈な上昇志向がある。映画はまず最初にこの点を観客の胸に刻みつけている。

 しかし彼はただ冷酷で計算高い男ではない。しだいに仲間から信頼され、ついに彼は″モリー・マグワイアズ″の一員になる。何度も破壊活動に同行する。そうしながらいつしかマッケナ(マクパーランド)はジャック・キーオウの人柄に惹かれてゆく。仲間に信頼されるには相手を信頼し友情を持たなければ見抜かれてしまう。芝居なのか本心なのか分からなくなってくる。映画の中で何度もキーオウとマッケナの心の触れ合いが描かれてゆく。最後にマッケナは資本家側を裏切り、キーオウたちの側に付くのではないか。そんな期待も観客に生まれてくる。この辺の描き方がうまい。

 ジャック・キーオウはテロリストである。マッケナことジェームズ・マクパーランドはスパイである。共に正義漢とは言えない2人が主人公である。この二人が共に魅力的に描かれなければこの映画の成功はない。マッケナへの信頼感は彼が次第にキーオウたちに引かれて行くことを描くことで得られてゆく。彼は警察署長と密会した時に、″モリー・マグワイアズ″のメンバーが警察に撃たれた仲間の仕返しに行こうとするのを本気で止めようとしたが止められなかったと署長に打ち明けている。より印象的な場面は、死んだ父親にまともな服を着せてやろうとキーオウが商店に押し入ったときだ。服を運び出し仲間に放り投げる。キーオウは店を破壊し始めるが、思わずマッケナも「破壊活動」に加わる。突然の感情の噴出。2人は商店に火をつける。「これで生きてると示せるぞ」とキーオウ。このとき二人はもっとも気持ちが接近していた。

 破壊活動を続けるキーオウに観客が共感するためには、彼の行動に納得の行く理由がなければならない。それは必ずしも充分描かれてはいない。映画製作上で何らかの規制があったのかどうかは分からない。いずれにせよ炭鉱における搾取の実態ははっきりとは描かれていない。低賃金など待遇面の他に安全軽視も重大な争点だったようだが(事故が多発していた)、その点も明示的には描かれていない。むしろ言葉によって暗示的に描くという方法を取っている。新入りのマッケナにまだ疑いの目を向けていたキーオウが、なぜこの町にやってきたのかとマッケナに聞く場面がある。マッケナは警察に追われていると答えるが、すぐに嘘だと見抜かれる。「坑道に比べたら刑務所はホテルだ。」だから刑務所を逃れるために炭鉱に来る奴はいないと。炭鉱の仕事がいかに過酷か間接的に語られている。

 もう一つ重要な場面は、上に挙げた商店を破壊する直前の場面。キーオウの父親の葬儀の場面である。キーオウのせりふから踏みにじられ続けてきた男の抵抗精神が読み取れる。

 彼(父)は静かだ。あんなふうには死ねない。・・・虫の鳴くほどの声も出さずに、逝っちまった。・・・42年も坑道にいて自分の声はこだまも残さなかった。・・・音を出すんだ親父。胸のつかえを吐き出せ。耳打ちでもいい、寝たままでだ。・・・沈黙は金というわけか。貝になったんだな。連中に叩き込まれたんだ。哀れな男だな。火薬は持ってた。新米の俺にその使い方を教えてくれた。なぜ自分のためには使えなかったんだ。奴らに示すべきだった。生きていることを。動物は音を出す。彼だって出すべきだった。搾取を免れるにはそれしかない。すべてを奪われていた。見ろ、死んでく服もないぞ。・・・奪ってやるぞ、着てゆく服を。

 商店を破壊しつくした後でキーオウが「これで生きてると示せるぞ」と叫んだのはこういう流れがあったからだ。こういう間接的な描き方だけでは過酷な搾取を充分描ききれていないが、ショーン・コネリーという脂の乗り切った役者の存在感が強烈に彼を後押しして、彼を魅力的な人物にしている。丁度007シリーズからの方向転換を目指し、俳優として別の可能性を模索していた頃の作品である。70年代はあまりいい作品に恵まれず、渋みを増した新生ショーン・コネリーとして注目され始めるのは86年の「薔薇の名前」以降である。

 警官二人が夜″モリー・マグワイアズ″のメンバー宅を襲撃し妻もろとも撃ち殺す場面も出ては来るが、どちらかというと先に″モリー・マグワイアズ″の破壊活動があり、彼らを捕まえようとする警察が武装して待ち伏せするという展開になっている。少なくともそういう印象を与える。実際には経営者側がならず者を雇ってたびたび炭鉱夫たちを襲撃させており、炭鉱夫たちは暴力に暴力で応酬していたという関係だったようだ。

 マーティン・リット監督は明らかにキーオウの側に共感を寄せて描いている。しかしスパイとして送り込まれたマッケナをあからさまな悪党として描かなかったために、この映画に独特の緊張感が生まれている。マッケナは最終的にどう行動するのか。彼は炭鉱夫仲間を裏切るのか、それとも最後に経営者側を裏切るのか。これが観客を引っ張る心理的ドライブとなっている。

 ほとんど男ばかりの映画の中で1人だけ比較的重要な位置にいる女性がいる。マッケナを泊めている宿の女主人メアリー・レインズだ。マッケナは次第に彼女に心を引かれてゆく。彼女は二度重要な役割を果たしている。一つ目は2人で丘の上にピクニックに行ったときだ。マッケナと彼女の会話からマッケナという男の性格がほの見える。

マッケナ「町で見てきただろう。貧乏人に品位などない、金で買うんだ。法律でさえパ
  ンみたいに買うんだ。」
メアリー「善と悪があるわ。」
マッケナ「欲しいものがあったら買うだけだ。」
メアリー「お金で買える以上のものがあるわ。」

 欲しいものは金で買うと言うマッケナ。最初に示した上昇志向、そしてこの何でも金で買えるという考え方。キーオウは彼を理性的だと言った。マッケナはキーオウに「俺は永遠にXmas200512091 生きる」と言った。果たして彼は最後にキーオウを売る。裁判に証人として出頭する時、彼は控え室でトランプをやって平然と呼ばれるのを待っていた。ピンカートン探偵社の上司から昇進の約束をされ彼は満足そうな顔を見せる。「仲間」を裏切ったことを悔いているのではないかというこちらの期待を見事に裏切る。彼はそういう男なのだ。情に流されず最後まで「理性的」だった。最後まで生き残る男。裁判でキーオウたちは死刑を宣告される。判決後、満足げな彼は法廷に1人残っていたメアリーと会う。まだ俺に気があるのかという思いで声をかけるが、返ってきたのは冷たい言葉だった。これがメアリーの二つ目の役割である。

 しかし最も打撃的な言葉を浴びせたのはキーオウ本人である。マッケナ、いやマクパーランドが監獄のキーオウに面会に行ったのだ。この場面は詳しく引用するに足る。

マクパーランド「必用なものはないか?」
キーオウ「火薬かな。」
マクパーランド「縁を切ってる。今でも火薬で勝てると思ってるのか。」
キーオウは笑う。
マクパーランド「じゃあなぜ?」
キーオウ「君も穴にいたから分かるだろう。黙って指をくわえてたか?」
マクパーランド「抜け出すことを考えたさ。」
キーオウ「出てどんな違いがある?上と下がいて、せめぎ合っている。いい思いは上
  だけだ。」
マクパーランド「では上に上がればいい。」
キーオウ「まあな、そして下をいじめるんだ。」

 不当な扱いがいやなら抜け出せばいい、あるいは自分が「上」になればいい。上昇志向の彼らしい言葉。キーオウに男として共感する面はあっても自分の信条は全く揺るがない。彼は「なぜ中止しなかった。本気で止めたのに」と聞くが、キーオウはまともに答えない。二人の考えは完全に平行線だ。ところが、途中からキーオウが会話の主導権を握る。

キーオウ「君が来たのは世間話や別れを言うためじゃない。」
マクパーランド「顔を見に来たんだ。」
キーオウ「免罪のためだ。」
マクパーランド「君は神父か」
キーオウ「罪を忘れたいんだろ。」
マクパーランド「そんなヤワではない。」
キーオウ「許しなら女からもらえるか。じゃあ罰だな、欲しいのは。罰せられれば自
  由に。それで来たんだ。罰を求めて。昔からだが十字架を背負った奴には我慢
  できない。」
ここでマクパーランドにつかみかかり警官に引き離され、なぐられる。
キーオウ「もう自由か、これで新しい人生へ出発できるか。」
マクパーランド「お陰でな。」
キーオウ「自由じゃないぞ。罰せられてもこの世に自由などない。」
マクパーランド「地獄で会おう。」

 この作品は徹頭徹尾炭鉱労働者側に立っている。僕がこの映画を評価する基本的な理由もそこにある。しかし優れた作品はすべてそうだが、善悪を単純には描かなかった。炭鉱の劣悪な労働条件や経営側の暴力など基本的情報が充分盛り込まれてはいないが、せりふを練り上げて人間ドラマとして見ごたえのある作品を作り上げている。

  リチャード・ハリスといえば「ジャガーノート」(1974)でさっそうと登場する爆弾処理班のチーム長役(いかにも腕利きという雰囲気を終始漂わせている)あるいはホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長の印象が強いかも知れない。しかし彼を知る上で見逃せない2本の傑作を是非観てほしい。エリオット・シルバースタイン監督の「馬と呼ばれた男」(1969)とその続編であるアーヴィン・カーシュナー監督の「サウス・ダコタの戦い」(1976)。もう1本。未公開作品だがロバート・デュヴァルと共演した「潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ」(1993)も是非。以上の3本は知られざる傑作である。他に「ワイルド・ギース」(1978)、「カサンドラ・クロス」(1976)、「荒野に生きる」(1971)、「テレマークの要塞」(1965)、「赤い砂漠」(1964)、「孤独の報酬」(1963)、「戦艦バウンティ」(1962)も要チェック。

<参照>
Steve Schoenherr氏のレビュー
Shane Burridge氏のレビュー(Rotten Tomatoes)

2007年1月21日 (日)

この間観た映画、これから観る予定の映画

Kmyrn001   中国映画強化月間と宣言しながらもほとんど中国映画を観ていません。申し訳ありません。昨年の12月から1月にかけて大量にアマゾンで廉価DVDを入手したのでどうも目移りしてしまいました。一方でレンタルしたDVDもあるのでそちらも観なければなりません。ところが、この間書こうという意欲が湧く傑作になかなか出会えず、加えてまた忙しくなったので、レビューの筆も進みません。一応これまで観てまだレビューを載せていない映画のタイトルと評価点を示しておきます。

「ぼくを葬る」(フランソワ・オゾン監督、フランス)★★★
「ウォ・アイ・ニー」(チャン・ユアン監督、中国)★★★
「プラハ!」(フィリップ・レンチ監督、チェコ)★★★☆
「男の闘い」(マーティン・リット監督、アメリカ)★★★★

  「ぼくを葬る」は主人公に全く共感できず。オゾンの作品にはこういう作品がいくつかあります。「ウォ・アイ・ニー」は延々夫婦喧嘩を描いた異色の作品。全編これ怒鳴り合い映画。確かに異様な迫力はありますが、果たしていい映画なのか?疑問大。「プラハ!」は珍しいチェコ映画。プラハの春をミュージカル仕立てで描いたこれも異色作。ラストで突然現われるソ連の戦車がぞっとするほど巨大に見えるシーンは実にショッキングだ。しかし共産党政権下での「自由」が遊び戯れる若者の行動によって代表されるという描き方には底の浅さを感じます。

  「男の闘い」は炭鉱を舞台に過激な秘密結社とそこに送り込まれた経営者側のスパイの駆け引きを描いた力作。これはレビューを書きます。この映画を観た後あるショックなことがありました。「男の闘い」のデータをフリーソフト「映画日記」に書き込んでいたら、同じ題名の映画が既に入っているではありませんか。何と90年に一度観ていたのです。完全に忘れていました。映画を観ている間ずっと初めて観たつもりでいました。しかもこれが初めてではなく、これまでも「家族」や「ズール戦争」などで同じことがありました。いやはや、ここまで記憶力が落ちると危機感を覚えます。もっともアマゾンで見つけて買ったのですから、いい映画だという認識はどこかにあったわけです。それにしても観たことすら気づかなかったなんて悲しい。

  気を取り直して、これから観る予定の映画も挙げておきましょう。まず今レンタルしている「レイヤー・ケーキ」と「恋人たちの食卓」。手持ちのものでは川島雄三の「貸間あり」、「太陽の少年」、「ザ・フロント」、「野良犬」あたり。いずれも前に観てからだいぶたっています。

  さらには、「生まれてはみたけれど」、「大曽根家の朝」、「放浪記」、「煙突の見える場所」、「夫婦善哉」、「山椒大夫」、「赤線地帯」、「牛泥棒」、「ユーリ・ノルシュテイン作品集」、「一年の九日」、「季節の中で」、「吸血鬼ノスフェラトゥ」、「ヴァンパイア」、「戦火のかなた」、「ひまわり」、「サン・ロレンツォの夜」、「カオス・シチリア物語」、「ぼくは歩いてゆく」、「ハンガリアン」、「大いなる幻影」、「マンハッタンの二人の男」、「霧の波止場」、中国映画では「芙蓉鎮」、「最愛の夏」、「故郷の香り」、「早春二月」、「紅いコーリャン」、「スパイシー・ラブスープ」等々。気まぐれでその時の気分しだいで観ますので、これはあくまで予定です(あるいは今の関心です)。間にレンタル作品も当然入ります。まあ、気長に待ってください。

2007年1月20日 (土)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年2月)

【新作映画】
1月27日公開
 「ユメ十夜」(実相時昭雄、清水崇、西川美和、他監督、日本)
 「輝く夜明けに向って」(フィリップ・ノイス監督、仏・英・南ア・米)
 「幸せのちから」(ガブリエレ・ムッチーノ監督、アメリカ)
 「夏物語」(チョ・グンシク監督、韓国)
 「どろろ」(塩田明彦監督、日本)
 「ルワンダの涙」(マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督、英・独)
 「魂萌え!」(阪本順治監督、日本)
 「グアンタナモ、僕達が見た真実」(マイケル・ウィンターボトム、他監督、英)
2月3日公開
 「ピンチクリフ・グランプリ」(イポ・カプリノ監督、ノルウェー)
 「世界最速のインディアン」(ロジャー・ドナルドソン監督、ニュージーランド・米)
2月10日公開
 「あなたになら言える秘密のこと」(イサベル・コイシェ監督、スペイン)
 「華麗なる恋の舞台で」(イシュトバン・サボー監督、ハンガリー他)
 「善き人のためのソナタ」(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督、独)
 「となり町戦争」(渡辺謙作監督、日本)
 「長州ファイブ」(五十嵐匠監督、日本)
2月17日公開
 「ドリームガールズ」(ビル・コンドン監督、アメリカ)
 「孔雀 我が家の風景」(クー・チャンウェイ監督、中国)
 「チョムスキーとメディア」(マーク・アクバー他監督、カナダ)
2月中旬公開
 「モーツァルトとクジラ」(ピーター・ネス監督、アメリカ)
2月下旬公開
 「パパにさよならできるまで」(ペニー・パナヨトプル監督、ギリシャ・独)

【新作DVD】
1月25日
 「バッシング」(小林政広監督、日本)
1月26日
 「ONE LOVE」(リック・エルグッド他監督、ジャマイカ、ノルウェー、英)
 「春の日のクマは好きですか?」(ヨン・イ監督、韓国)
 「見つめる女」(パオロ・フランキ監督、イタリア)
2月2日
 「16ブロック」(リチャード・ドナー監督、米・独)
 「ザ・センチネル」(クラーク・ジョンソン監督、アメリカ)
 「マッチポイント」(ウディ・アレン監督、英米他)
 「ルムンバの叫び」(ラウル・ベック監督、仏・ベルギー・独・ハイチ)
 「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督、セネガル他)
 「ミヒャエル・ハネケ DVD-BOX②」
 「バックダンサーズ!」(永山耕三監督、日本)
2月14日
 「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)
2月23日
 「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
 「ワールド・トレード・センター」(オリバー・ストーン監督、アメリカ)
 「キンキーブーツ」(ジュリアン・ジャロルド監督、英・米)
 「ツァイ・ミンリャン DVD-BOX」(台湾)
 「弓」(キム・ギドク監督、韓国)
 「ゆれる」(西川美和監督)
 「出口のない海」(佐々部清監督)
 「夜のピクニック」(長澤雅彦監督)

【旧作DVD】
1月25日
 「アダム氏とマダム」(49、ジョージ・キューカー監督、米)
1月26日Kota1
 「野火」(59、市川崑監督)
 「私は二歳」(62、市川崑監督)
 「黒い十人の女」(61、市川崑監督)
1月27日
 「恐怖省」(44、フリッツ・ラング監督、アメリカ)
 「心の香り」(92、スン・チョウ監督、中国)
 「獅子座」(59、エリック・ロメール監督、フランス)
2月2日
 「ガンジー 25周年記念特別版」(リチャード・アッテンボロー監督、英・印)
2月23日
 「愛と宿命の泉 コンプリート・セット」(86、クロード・ベリ監督、伊他)  
 「ロシア・アニメーション傑作選集 vol.1~4」
2月24日
 「英国式庭園殺人事件」(82、ピーター・グリーナウェイ監督、英)
 「M」(31、フリッツ・ラング監督、ドイツ)

 劇場新作はノルウェー、南ア、スペイン、中国、ハンガリー、ギリシャと多彩。非常に興味を惹かれる作品ばかり。「ピンチクリフ・グランプリ」はノルウェー歴代観客動員数1位の人形アニメ。「チョムスキーとメディア」はドキュメンタリー。
 新作DVDは「マッチポイント」、「母たちの村」、「ヨコハマメリー」、「ゆれる」と注目作が続々。ミヒャエル・ハネケとツァイ・ミンリャンのDVD-BOXも見逃せない。
 旧作はすごい。何とフリッツ・ラングの「M」と「恐怖省」、中国映画の名作「心の香り」が出る。長いこと待ち望んでいました。感謝!「獅子座」と「英国式庭園殺人事件」も要チェック。市川崑監督の代表作が3本出るのもうれしい。

2007年1月17日 (水)

あの娘と自転車に乗って

1998年 キルギス・仏 99年10月公開 81分
評価:★★★★
原題:Beshkempir(The Adopted Son)
監督:アクタン・アブディカリコフ
製作:イリザイ・アリバエフ、セドミール・コラール
脚本:アクタン・アブディカリコフ、アヴタンディル・アディクロフ、マラト・サルル
撮影:ハッサン・キディリアレフ
出演:ミルラン・アブディカリコフ、アルビナ・イマスメワ、アディール・アブリカシモフ

Itmt01   昨年の12月から今年にかけてソ連/ロシア映画のDVDをアマゾンで結構手に入れた。先日取り上げた「雪の女王」などのアニメ作品や古典的作品の他に、「あの娘と自転車に乗って」、「旅立ちの汽笛」、「パパってなに?」が入手できたのはうれしい。これらはDVDになっていることすらうかつにも気づかなかったものである。DVD化は予想以上に深く広く進行していた。

  「あの娘と自転車に乗って」と「旅立ちの汽笛」はキルギスの監督アクタン・アブディカリコフの2作目と3作目の作品である。処女監督作品「ブランコ」は48分の中編なので、「あの娘と自転車に乗って」は彼の長編第1作に当たる。91年に旧ソ連から独立して以後、キルギス共和国が作った初の長編映画でもある。ただし、誤解を避けるために付け足しておくが、独立前にも当然キルギスで映画は作られていた。旧ソ連時代は15の共和国すべてに撮影所があって映画を製作していたのである。アブディカリコフ監督自身が当時のキルギスにおける映画製作の状況を次のように語っている。

  ソ連崩壊前には、キルギスタンの映画撮影所は大きな役割を果たしていました。ソ連の映画史に残るような作品が作られたこともあります。1年間に、4本の長篇劇映画、4本のテレビ映画、5、6本の短篇映画、さらに60本くらいの記録映画を作っていました。当時は国から資金が出ていたわけですが、独立後は、キルギスタンのような小さくて貧しい国では映画製作の資金を出すことが不可能になり、撮影所があっても使われない状態にありました。『あの娘と自転車に乗って』はキルギスタン共和国としてはじめての作品です。今後も製作が続いていけばいいのですが…。
 「アクタン・アブディカリコフ監督 インタビュー」

  このように各共和国で映画が製作されていたのだが、オタール・イオセリアーニ監督やゲオルギー・シェンゲラーヤ監督などを輩出し一時ちょっとしたブームになったグルジア映画を除けば、日本で各共和国の映画が上映される機会は極端に少なかった。そのため一般にはその存在自体が知られていなかったのである。それでも近年は福岡アジア映画祭、東京国際映画祭、東京フィルメックスなどで少しずつ知名度は広がってきている。

 「あの娘と自転車に乗って」は実に独特の味わいを持った映画である。これに近い映画が他に思いつかない。韓国映画「僕が9歳だったころ」のように子供たちが主人公で淡い恋愛が描かれるが、観る者を引き付けるはっきりしたテーマやストーリー展開はない。はるかに淡々としており、独特の民族的風習が織り込まれている。その淡々とした味わいと展開は例えばウルグアイ映画「ウィスキー」やグルジア映画「ピロスマニ」などに近い。また、子供の淡い恋愛といっても、「僕が9歳だったころ」や「玲玲の電影日記」の子供時代よりもやや年齢層が上だろう。性の目覚めが赤裸々に描かれているので13、4歳頃と思われる。

 監督自身の子供時代を元にしているので(主人公の少年は監督の息子)、全体を白黒画面で描いている。一部カラーの部分があるが、監督によれば主人公の記憶に強く焼きBicycle2_2 ついた部分はカラーで撮っているということだ(映画代を母親からもらう場面、主人公が思いを寄せる女の子が野を散歩しているシーンなど)。ただ、カラーになるのはほんの一瞬なのであまり効果的とは思えない。唯一効果的なのは冒頭のシーンである。村の5人の老婆たちが養子にもらった子供を揺りかごに入れ、魔除けの儀式をするシーンだ。まず色鮮やかな絨毯が鮮明に映される。そこへ一人ひとり老婆が現われて絨毯の上に座り、儀式が始まる。きわめてユニークなもので、よく訳が分からないものの観客は目を奪われてしまう。このとき主人公は赤ん坊だからこの色鮮やかな絨毯や儀式を覚えているわけではないだろう。冒頭の場面はむしろ導入部分を印象的にするための方策だったと思われる。いずれにせよやや時間的に長めなので、強烈な色彩と独特の儀式が長く印象に残る。優れた導入部分である。

 全体に淡々とした映画なのだが、多少観客を引き付けるストーリーらしきものがないわけではない。前半は子供たちの無邪気ないたずら、後半は主人公ベシュケンピールの淡い恋。ところどころキルギスの様々な風習が描きこまれ、これが結構アクセントになっている。さらには前半から中盤にかけて性の目覚めと性に絡んだ遊びが何度か描かれる(ベッドの中でオチンチンに手を伸ばしたり、裸のおばさんのでっかいおっぱいを覗き見したり、地面に土を盛り上げて女性の形を作りパンツを脱いでチンチンを押し付けたり)。思春期は感情的に微妙な年頃である。だから子供たちがしょっちゅう他の子のズボンを脱がす場面が出てくる。ベシュケンピールの友達の一人がやはり可愛いアイヌーラを好きになり、ベシュケンピールに嫉妬してけんかになる場面がある。けんかのきっかけはアイヌーラと話しているベシュケンピールのズボンをその男の子がいきなり下ろしたことである。幼児のころは裸でも平気だが、性を意識し始めた時には性器が気になる。だから意地悪として効果があるのだ。

  同じように何度も出てくる小道具に自転車がある。この使い方がうまい。映画の映写技師にベシュケンピールはよく頼まれて、映写技師が惚れている女性を家から呼び出す役をやらされている。映写技師は女の子を自転車に乗せてどこかに去ってゆく。ベシュケンピールは自分も好きな女の子(アイヌーラ)を自転車に乗せたいと思っている。これが伏線として何度か描かれる。だからこそ、ラストでベシュケンピールがアイヌーラを自転車に乗せて坂を下ってゆくシーンが非常に感動的なのである。淡々とした展開で時には退屈にすら感じられるが、ラスト当たり、ベシュケンピールの祖母の葬式からこの自転車のラストシーンにいたるあたりは強く画面に引き付けられる。この映画の印象はこのラストで大きく変わってしまう。そういう意味では「あの娘と自転車に乗って」という邦題は実に素晴らしい。原題の「養子」ではとても観に行こうという気にならない。非常に美しい響きがあると同時に、映画の最も素晴らしいシーンをきちんととらえている名タイトルである。

 旧ソ連の各共和国の映画はいずれも素朴な映画が多い。ほとんどが生活の一部をそのまま切り取ったような淡々とした映画である。この監督も自らストーリーよりも主人公がどういう人間なのかということの方が重要だと語っている。思春期の少年が出会う様々な経験と成長という以上の明確な主題もない。様々な独特の風習が出てくるがほとんど説明もない。ハリウッド映画の対極にあるような映画である。ハリウッド映画に対する意識的な反発もあるかもしれないが、むしろこれが彼らの生活のリズムであり生活の現実だと言いたいのだろう。この種の作品はその流れに任せて、観客も主人公たちの環境に入り込み、そこで展開される生活のリズムに身を委ねるのが望ましい鑑賞態度だろう。

 しかしそうは言っても流れになじむまでかなり時間がかかる。前半は子供たちのいたずらが中心だが、効果音もなく、説明的描写もないので何をしているのか最初は理解できないのだ。いきなり前述の5人の老婆による儀式から始まる。日本にはない風習なので最初は何が始まるのか全く分からない。しばらくして赤ん坊の幸運を祈る儀式らしいことが分かってくる。この時点では赤ん坊が養子であることは知らされていない。ようやく映画の中ほどで分かるようになっている。万事この調子なのだ。そのすぐ後の場面ではいきなり10年くらい時間がたっている。画面も白黒に変わる。女性が子供の髪の毛をバリカンで刈っている。この子供が先ほどの赤ん坊だというのは何とか見当が付くが、特に何の説明もない。

 子供の髪型がまたユニークである。真ん中だけ残して後頭部と両脇を剃ってしまう。まるで金太郎、あるいは大五郎である。映画の最後に「綾取り」のシーンも出てくる。日本と全く同じだ。中国や中央アジアの映画を観ていると何か不思議な共通点を感じることがよくある。どこかで繋がっているという感覚。ジェイムズ・ジョイスの小説を読んでいて、自分が子供の頃やっていたのと同じ地面に釘を刺す遊びが出てきて仰天したこともある。物がなかった頃の子供の遊びには共通するものが多い。興味深い事実である。

  次の場面も何の説明もなく始まる。子供たちが泥水の周りで体中に泥を塗っている。互いに泥をなすり付けたりしていかにも子供らしいが、どうも単なる泥遊びとは違う。泥でレKmrn01 ンガを作っている場面も出てくるので、レンガ作りの途中で遊び始めたのかと思うとどうやらそうでもない。積んであるレンガの上に一人がよじ登ってなにやらやり始めた。レンガの間の蜂の巣に手を伸ばしている。ハチミツを取ろうとしているのか、単に巣を壊そうとしているのか分からない。とにかくものすごい数の蜂が飛び出してきて、子供たちは一目散に逃げ出し、先ほどの泥水の水溜りの中に一斉に飛び込む。そこまで来て初めて蜂に刺されないように体に泥を塗っていたことが分かる。そこに女の子(アイヌーラ)が通りかかり、男の子たちは一斉に泥水の中にもぐる。女の子は苦笑している。

  思い出というものは美しく懐かしいものである。少年時代の想い出を綴ったこの映画を観て誰でもノスタルジアを感じるだろう。しかし懐かしい風物を総動員した感がある「ALWAYS三丁目の夕日」とはまた違う肌合いの映画である。作った懐かしさではないからだ。泣かせようとする演出も一切ない。出演者はみな素人である。子供たちが自然に発したせりふや行動を取り入れている。無邪気に振舞う子供たちの行動が微笑みを誘う。しかしただ楽しいばかりではない。先ほどベシュケンピールが彼に嫉妬した友達とけんかする場面に触れたが、けんかに負けた友達がお前は捨て子だと泣きながら捨て台詞を投げつけてゆく。そこからベシュケンピールの新しい悩みが生まれる。実際彼は養子だったのである(ベシュケンピールは「5人の老婆」という意味)。父親は厳しいばかりの男だが、キルギスでは男の子が困難に立ち向かえるように特に男の子にはとても厳しく接するようだ。彼の場合養子だからなおさら厳しく彼に接したのである。しかしベシュケンピールには父親の気持ちが理解できない。

  印象的なのは網戸代わりに薄いレースのような布を窓に取り付けるシーン。窓をはさんで父親と息子が共同の作業をしている。二人の気持ちが触れ合いほっとするシーンだ。しかし邪魔が入ってさえぎられてしまう。親子の気持ちはすれ違ったままだ。おばあちゃんだけがベシュケンピールに優しく接してくれる。彼を支えていたのはおばあちゃんとアイヌーラへの思いだったのかもしれない。しかしそのおばあちゃんが死んでしまう。葬式の場面は感動的である。恐らく「泣き女」の習慣がここにもあるのだろう。女や子供はみんな声をあげて泣いている。けんかした友達も一緒に泣いている。ここでベシュケンピールは大きな役割を与えられる。遺族の代表として挨拶をする役目だ。彼の言った言葉はあるいはお決まりの言葉なのかもしれないが胸に沁みる。「おばあさんが借金していたら僕が返します。おばあさんがもしお金を貸していたらなかったことにします。」苦悩を通り抜けて彼は少し成長した。

  最初に生まれて間もない赤ん坊が描かれ、最後のあたりでおばあさんの死が描かれる。そこにあるのは人生のリズムである。日本と比べると格段にゆったりとした生活のリズム。家の周りでは鳥の声が聞こえ、何もない平原に流れる川からは涼しげな水の音が聞こえてくる。子供たちはいたずらをし、また女の子をまぶしげに見つめる。決してわくわくしながら、手に汗握りながら観る映画ではない。劇的な要素はすべてそぎ落とされている。退屈に感じることすらある。われわれとは大きく異なる文化と風習、人々の生活の仕方や考え方も違う。しかしそこに描かれた素朴な人々と純朴な感情。喜びや悩み、そして悲しみ。日常的であるだけに深みはないが、多感な時期の少年たちの姿から感じるのは単なる懐かしさだけではない。生きることの実感がそこにある。

2007年1月14日 (日)

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト

2006年 アメリカ 2006年7月 G20
評価:★★★☆
監督:ゴア・ヴァービンスキー
製作:ジェリー・ブラッカイマー
脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ
撮影:ダリウス・ウォルスキー
出演:ジョニー・デップ、オーランド・ブルーム
    キーラ・ナイトレイ、 ビル・ナイ、ステラン・スカルスガルド
    ジャック・ダヴェンポート、 ケヴィン・マクナリー、ナオミ・ハリス
    ジョナサン・プライス、マッケンジー・クルック、トム・ホランダー
    リー・アレンバーグ、ジェフリー・ラッシュ

 このところアメリカ映画は他の国の映画の再映画化作品やシリーズ物の続編ばかり作っていてオリジナリティーがないと常々批判してきた。しかしシリーズ物がすべてダメだと言っているわけではない。「ロード・オブ・ザ・リング」は映画本来の魅力がぎっしりと詰まった優れたシリーズだし、マット・デイモンの「ボーン」シリーズもいい。エイリアン・シリーズも2作目までは傑作である。要するに、アイデアに詰まって安易に人気作の続編を作ろうというのではなく、1作目の水準を2作目以降も保てるのならシリーズ化も悪くない。

  ディズニーの「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズもかなり楽しめる。1作目の短評で「最初から実写として撮ったアニメ調映画」と書いたが、このシリーズの魅力はアニメを観る楽しみに通じる。ユニークなキャラクターの魅力、ハチャメチャだが波乱に富んだストーリー展開を堪能すればいい。ドリームワークスの「シュレック」やピクサーの「モンスターズ・インク」が好きな人は楽しめるだろう。1作目は目に隈取りをしてくねくねとアニメの登場人物のように体をくねらすジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)のキャラクターがとりわけ目立ったが、2作目では彼は主要登場人物の一人に後退している。代わって、ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)、エリザベス(キーラ・ナイトレイ)、さらには悪役のデイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)などが大きくフィーチャーされ、ジャックと肩を並べている。そうそう大ダコ、クラーケンも忘れちゃいけない。アニメ的キャラクターと展開に加えて、ホラー、海洋冒険譚、宝探しアドヴェンチャー、SFと、楽しめる要素をみんなぶち込んでしまえという気前のいい出血大サービス。恋愛だってあるんだから。そりゃ楽しめますわ。アニメ仕様なので最初からリアリティーは度外視、些細なことは「気にしっこなしよ」の世界。この種の能天気ムービーはアメリカにかなわない。長年積み重ねた経験でツボを押さえまくりだ。

 東インド会社が絡んでくるあたりはいかにもイギリスらしいが、全体としてはスピード感あふれるアメリカ製ジェットコースター・ムービー。そのせいかありきたりのスタイルに近づいている気がする。1作目にあったユニークさが薄れ、エンターテインメントの王道をまっしぐら。なんだか「スター・ウォーズ」やら「ハムナプトラ」やら「インディ・ジョーンズ」やら、どこかで観たようなシーンばかり。その分他の映画にないユニークさが薄れた感じがする。ただし、タコ頭のデイヴィ・ジョーンズが頭からたれる触手でピアノを弾くというシーンはなかなか秀逸だったが。いかんせん詰め込みすぎのきらいがある。たぶん、ユニークさが堕ちたのは、ジャック・スパロウがやや後ろに退いたせいなのかも知れない。彼の強烈な個性あってのシリーズなのである。棺桶に入って脱出、棺桶をつついていた鳥を銃で吹き飛ばして中から出てくるという登場場面はいかにも彼らしくて颯爽としているのだが、その後はなんか情けない。狩の獲物みたいに棒に吊るされて火であぶられそうになるあたりがその典型。このまま主役から転落して主役の一人に埋もれてしまうのか?でも、情けないジョニー・デップもまた好きです。2作目の終わり方を見ると3作目は同じ路線で突っ走りそうな気配。ありきたりの映画になってしまわなければいいが。1作目のようなジャックが戻ってきて欲しいものだ。

大法寺に行く

 今日は天気がいいのでまたふらっとドライブに行ってきた。丸子のあたりを少し走ってま_2 た上田に戻る。車のMDから流れているのは鬼束ちひろの「インソムニア」。彼女の曲をじっくり聴くのは初めて。このアルバムはだいぶ前にレンタルCDからMDにダビングしてあったのだが、前のサニーにはカセットテープのデッキしか付いていなかったのでMDが聞けなかったのだ。自前やレンタルCDからダビングしたMDが100枚以上たまっていた。やっと去年インプレッサに買い換えた時からMDが聞けるようになったのである。「インソムニア」は意外なほど素晴らしかった。こんないいとは!他のアルバムもこんな感じなら矢井田瞳と同じくらい好きになれそうだ。

  143号を青木に向かう。大法寺に行く道に入り、そのまま大法寺の方には曲がらず道を直進。坂を行けるところまで上ってみる。こんな奥まで上ってきたのは初めて。棚田に行ったときにも書いたが、初めての道は楽しい。道がかなり細くなったところで車を止める。こんな山の上まで家があるのかと驚くほど上のほうまで家が建っている。車1台しか通れない道がさらに上まで続いていて、木立の影に家が1軒見える。車を止めたところからの眺めは、丁度稲倉棚田からの眺めに似ていた。写真を撮ろうかと思ったが撮らなかっ_5_1 た。また道を下って今度は大法寺の方に曲がる。ここに来るのは久しぶり。3度か4度目。三重塔まで上って写真を撮った(右上の写真)。あたりはシーンとして何も聞こえない。晴れているが木陰になるのですごく寒い。三重塔に上がる道の途中に喫茶店がある。塔を眺めながら珈琲を飲めるのが売りのようだ。まだ入ったことはないが、せっかくだから写真を撮ってきた(真ん中の写真)。

  大法寺は小県郡青木村にある。昔は大宝寺と書いたようだ。国宝の三重塔が有名で、塔の姿が美しいので見返りの塔とも呼ばれる。信州の鎌倉と呼ばれる上田市にも有名な三重塔が二つある。前山寺の三重塔(左の写真、戦没画学生の絵を集めた「無言館」の近くにある)Photo_25 と別所温泉にある安楽寺の八角三重塔。今日は行かなかったが安楽寺の近くにある常楽寺も一度は行ってみる価値がある。一番奥にある石造多宝塔の一角はどこか不思議な雰囲気が漂っている。周りは巨大な木が茂っているために、昼間でも日が差さず初夏に行っても肌寒いくらいだ。多宝塔のあたりに木漏れ日がまるでスポットライトのように差し込んでいる。飛び回る虫たちがスポットライトの中に入ると白く姿が見え、またスポットライトから外れるとふっと消える。なんとも不思議な光景。薄暗いシーンと静まり返った苔むす石の塔の周りを消えたり現れたりして飛び回る虫たち。どこか神秘的で映画の1シーンのように思える。常楽寺のすぐ下にある別所神社もついでに行ってみるといい。能舞台のような建物があるだけだが、観光客もあまり行かないのでかえって人気のない不思議な雰囲気が味わえる。

2007年1月13日 (土)

酔いどれ天使

1948年 日本 東宝作品 1948年4月公開  98分  Bottleg
評価:★★★★☆
監督:黒澤明
製作:本木荘二郎
脚本:植草圭之助、黒澤明
撮影:伊藤武夫
美術:松山崇、
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、山本礼三郎、木暮実千代
    中北千枝子、千石規子、 笠置シズ子、進藤英太郎
    清水将夫、殿山泰司、久我美子

  黒澤明というと時代劇を思い浮かべる人も多いだろうが、彼は「天国と地獄」(1963)、「生きる」(1952)、「野良犬」(1949)、「酔いどれ天使」(1948)、「素晴らしき日曜日」(1947)、「わが青春に悔なし」(1946)など現代劇にも傑作、佳作を多く残している。「酔いどれ天使」は続く「野良犬」と並ぶ初期の代表作である。作品の完成度という点では傑出しているとは言い難いが、この作品にはそれを越えてあまりある不思議な魅力がある。黒澤の全作品の中でも上位に入る傑作だと僕は思っている。同じ医者を描いた映画でも「赤ひげ」よりも魅力を感じる。その魅力とは一体何か。それを追求してみたい。

  「酔いどれ天使」は黒澤が三船敏郎を初めて起用した作品であり、世評では結核病みのやくざを演じた三船のギラギラした演技が高く評価されている。しかしこの映画で志村喬が果たしている重要な役割を見落としてはならない。志村喬にとっても「生きる」、「七人の侍」、「野良犬」などと並ぶ代表作だろう。彼の出演作は多数あるが、代表作といえばほとんど黒澤の作品が上位に並ぶことになる。笠智衆を活かしきれた監督が小津しかいなかったように、志村喬の持ち味を最大限に引き出しきれたのは黒澤明しかいなかったと言っても過言ではない。発表当時は三船のワイルドさが評判になって志村がかすんでいると見られたようだが、今観れば飄々としていながらも芯の所では一歩も譲らない堂々たる志村喬の存在感の前では、虚勢を張っていきがっている三船敏郎がしばしばチンピラに見えるほどだ。何度も三船に突き飛ばされながらも、少しもひるむことなく暴力には言葉で応酬し、医者の情熱で押し切る。まことに痛快である。酔いどれながら悠揚迫らない志村喬に比べると(「本日休診」の柳永二郎をさらにワイルドにした感じだ)、三船の演技は素人くさく、大仰でぎこちない。「椿三十朗」や「用心棒」の頃の落ち着きや貫禄はまだない。しかし彼には体から発する迫力がある。荒削りながら天性のスター性があった。少々の演技力不足はそれで押しのけてしまう。いや、演技力も新人としてはかなりのものである。懐の深い志村喬の演技と、「ダンディな闇市の顔」からげっそりとやせこけて髪振り乱した「転落した男」までを荒削りながらもぎらつくほどの勢いで演じた三船のぶつかり合い、これが優れた作品を生んだのである。

  この2人の対決が観客をぐんぐん引き込むのはその対立が何らかの抽象的観念の対立ではないからである。確かに主題は単純である。それを明確に示すのはやくざの松永(三船敏郎)とセーラー服の女の子(久我美子)の対比である。2人とも眞田(志村喬)の患者である。病気が恐いくせに無理に虚勢を張っている松永に対して、女の子は病気と正面から向き合い、積極的に治療を受けて病気と闘おうとしている。松永が自滅して死んでいった後、ラストですっかり病気が治った女の子と眞田が交わす会話がそのテーマをもっとも明確に示している。

  少女「理性さえしっかりしていれば結核なんてちっとも怖くないね。」
  眞田「結核ばかりじゃないよ。人間に一番必用な薬は理性なんだよ。」

  2人は腕を組んで闇市の人ごみに消えて行く。この対比は作品を単純化することはあっても、決して深めてはいない。なぜなら、積極的な価値を担っているのは少女だが、患者が医者の言うことに素直に従うことは当たり前のことであって、それ自体取り立てて積極的価値を持っているとは思えないからだ。

  医者の言うことにおとなしく従うことが「理性」だと言うのではあまりに単純すぎて説得力を持たない。しかし、やくざには「理性」がないと言っているのかといえば、そうでもない。眞田は松岡の中にわずかな「理性」を見て取っている。眞田は松永のことを次のように説明している。あいつは「肺がやられてるだけじゃないんだ。なんていうか芯がやられてやがるんだ。きざな面してそっくり返ってやがるが、胸の中は風が吹き抜けてるみてえに、寂しいにちげえねえ。絞め殺しきれねえ理性が時々うずくのさ。まだ凝り固まって悪にはなっちゃいねえんだ。」

  「絞め殺しきれねえ理性」は上の引用の「人間に一番必用な薬は理性なんだよ」とつな Silverglass3_1 がっているが、どう見ても松永には「理性」の光は見えない。医者にかかるという意味で言うなら確かにある。実際、ばつが悪いからグテングテンに酔っ払ってはいるが、レントゲン写真を持って医者のところに転がり込んでくる。しかし、それが単に病気を治したいという気持ちからなのか、それともやくざから足を洗いたいという気持ちを腹の底に持っているのかは少なくとも三船の荒っぽい演技からは判然としない。松永はムショ帰りの兄貴分岡田に自分の縄張りを奪われて憤慨するが、それでも大親分に話をすれば分かってもらえると信じているような男なのである。だからこの「理性」という主題がどこか抽象的で薄っぺらなお題目のように響いてしまうのだ。その点がこの作品の弱さである。

  これでもし眞田が真面目で情熱的な青年医師にでも設定されていたら、この作品は「静かなる決闘」のような失敗作になっていただろう。実際当初はそう設定されていたようだ。しかし途中でその設定を変えた。そこに黒澤の非凡さが窺える。「きまじめ天使」ではなく「酔いどれ天使」にしたこと、これがこの作品を成功させた最大の要因である。眞田は若い頃挫折を味わっている。学生の頃「女郎買いにふけって」ぐれてしまった。ずけずけ物を言うのは自分の性分で、それがなければ今頃はどっかの病院の院長ぐらいにはなっているさ。そういう思いがある。しかし彼はそれを気にはしていない。出世なんか早々に諦め、言いたいことをずけずけと言い続けてきた。それが彼の魅力なのである。すごんで見せる松永に投げ返す言葉の端々にそれが表れている。「結核患者の5人もいれば医者は左団扇だ。」医者は胸をたたいたり聴診器を当てたりして見せるが、「そんなものはおまじないだよ。医者は格好がつかないからあんなことをするだけさ。」一方、「てめえ命は惜しくねえか」と脅す岡田には「自分ばかり人殺し面するな。お前より俺のほうがよっぽど殺してるよ」とやり返す。

  眞田は松永の問題を彼個人の「理性」の問題としては捉えていなかった。「お前の肺(結核をわずらっている)は丁度この沼みてえなもんだな。お前の周りにゃ腐りきった、うじの湧いたばい菌みたいな奴らばかり集まってる。そいつらときれいさっぱり手を切らない限りお前はダメだな。」泥沼に浮かぶ人形のカットがやけに印象的だ。抽象的な倫理的枠組みにはめ込まれてはいるが、最も重要な眞田と松永の対立場面ではそんな枠組みをはみ出てリアルな問題が抉り出されている。三船のギラギラした凄みに押されるようにして松永の設定がどんどん書き換えられていったことは有名だが、シナリオを練り上げ人物をよりリアルに描こうとするうちに、人物が生き生きとして立ち現れ、結果的に倫理的枠組みを越え出てしまったのは眞田も同じなのだ。そしてその踏み越えた度合いは眞田の方がずっと大きい。おとなしく倫理的枠組みに収まっているような柄じゃない。単なる生真面目な作品に止まることなく、痛快、豪快という言葉が似合う作品になったのはそのためである。このように理解して初めて、この作品の根源的な魅力が理解できるのである。

  ストレートにヒューマンなテーマを語るのではなく、幾重にもひねりを利かせて描いている。眞田はしばしば自嘲する。「本当にありがたく思わなくちゃ罰が当たるぜ。こうして頼まれもしないのに赤の他人の体を心配してやっているんだ。我ながら時々考えるね。俺は天使みたいなもんだってな。」松永「汚ねえ天使だな。」メタンガスが噴出す不潔な沼のほとりに医院を構える男には松永のように見栄を張る必要はない。軽口が似合う男なのだ。「先生入りましたよ、上物が」と呼びかける居酒屋の主人(殿山泰司)には「お前のところの酒はアルコールよりも石油に近いんでな。・・・まあ、これなら死にはせんだろ」と返す。そこで働く女(千石規子)が松永に気があるそぶりを見せると、「あんな男に惚れるんじゃないよ。惚れるんだったら俺みたいな男に惚れな。見かけは汚いが、第一病気になっときただで済む」とからかう。

  眞田に医者としての情熱がないわけではない。いやむしろ人一倍あるといったほうが正確だろう。散々憎まれ口をたたきながらも、松永のことは気になって仕方がない。しかしそれをストレートには出さない。「お前なんかどうなろうと構わない。しかしな、俺はお前の肺に巣くっている結核菌に用がある。そいつを一匹でも殺したいんだ。」さらに彼の酒好きがうまく使われている。実は松永のことが心配なのだが、踏み倒された診察代を取りにきたという名目で眞田は松永に酒を飲ませろとたかる。高級ウィスキーをうまそうに飲む眞田。しかしすぐ松永と言い合いになって、怒った松永が何度もグラスを手で弾き飛ばすが、眞田はあわてず騒がずすぐ別のグラスを取ってくるところが可笑しい。最後はつまみ出されるが、酒を飲みに来たのか松永が心配で来たのか分からない描き方が実に秀逸である。病院で松永につかみかかられた時も、眞田は出てゆく松永に次々と物を投げつけるが、ふと手に取ったアルコールだけは投げようとしてやめる。その前には、治療用の純アルコールに急須からお湯を注いで酒代わりに飲む有名なシーンも挿入されている。こういう演出はさすがにうまい。

  「酔いどれ天使」は初期の作品だが、はっとさせる演出の冴えが随所に見られる。特にうまいのはギターの使い方。タイトルバックでメタンガスがぶくぶく湧き出す汚いため池が映し出され、それに美しいギターの調べがかぶさる。この清濁のコントラストは見事だ。ギWine ターを弾く男はいつも画面奥に映されるが、一度だけ大きく間近に映される。座ってギターを弾いている男の横に近づいてきた男の下半身が映る。出所した岡田(山本礼三郎)が始めて登場する有名な場面。この登場の仕方が不気味だ。冷酷なまでの凄みが体からほとばしっている。「貸してみな」と言って岡田はギターで1曲弾いてみせる。「兄貴、今のなんていう歌ですか?」「人殺しの歌だよ。」この一連のシーンは実に強烈だ。凄みのある岡田がギターを弾くギャップ、曲調とタイトルのギャップ。これも効果的だ。流れてきたギターの調べを離れた所で聴いていた岡田の妻美代(中北千枝子)は岡田が戻ってきたことを知る。姿は見えなくとも曲で分かるという演出が効いている。去り際に岡田が残したせりふも印象的だ。「変わらねえのはこの薄汚ねえ水溜りだけか。」

  メタンガスが噴出すこの沼のようなため池は闇市の真ん中に位置するだけではなく、映画の中心にも位置している。それは混乱し腐敗した人間社会の象徴である。このドブ池の周りに闇市があり、眞田の病院がある。闇市の活気と人いきれ、生活のにおいがあふれかえっている。飲み屋「ひさご」で働く千石規子のけだるい雰囲気(この映画の彼女は非常に魅力的だ)。ダンスホールの喧騒。それでいてどこか淀んだような空気。一歩間違えば「泥沼」にはまりかねない不安定な生活。「野良犬」や「酔いどれ天使」の魅力の一つは戦後の混乱期の世相やムードが実にリアルに再現れていることである。闇市はセットなのだが、やはりあの空気はあの時代でないと作り出せない。淀んだ沼はまた岡田や松永のようなやくざたちの象徴でもある。松永がため池の横にたたずむシーンが何度か映される。花を一輪持ってたたずむ松永の足元の池からはあぶくが湧いている。松永の足元にもう一つの影が近づく。岡田だ。二度足から登場するが、足元を映すだけで不気味さを感じさせるという演出はなかなかできるものではない。松永は突然ぺこぺこし、持っていた花を沼に投げ捨て岡田を居酒屋に案内する。沼に浮かぶ花のカットが映るが、このとき既に松永は沼に片足が浸かっていたのだ。

  岡田が戻ってきてから松永の運命は暗転する。岡田は松永が持っていたものを一つひとつ奪ってゆく。後半はむしろ松永の転落劇になって行く。松永がダンスホールで愛人の奈々江(木暮実千代)を紹介するシーン。踊っている奈々江を見つめる岡田の目つきが食い入るようで凄みがある。口をあんぐり開けて見つめている。松永は奈々江と踊ろうと立ち上がる。しかし奈々江がパートナーに選んだのは同じく立ち上がっていた岡田だった。一人残されて呆然とする松永。やがて奈々江は落ち目の松永を捨ててアパートを出てゆく。その後でもう一度松永が池の横にたたずむシーンが出てくる。今度は池のそばの斜めの柱に斜めに寄りかかっている。この斜めの構図が彼の転落を象徴している。後は坂道を転げ落ちるだけ。いつのもように通りがかりの店から花を一輪すっと抜き取ると店の主人から「30円払え」と言われる。「この縄張りは岡田さんのもんだ」と言われ愕然とする。いつの間にか縄張りも失っていた。そして有名な岡田と白いペンキまみれになって格闘するシーンを経て、岡田に腹を刺されて物干し台の上で息絶えるシーンへ。

  松永の中にある「絞め殺しきれねえ理性」に期待をかけたものの、結局やくざはやくざだった。松永は何度か本気で病気を治そうとしたが、彼は自分にまとわり付く社会的関係性をついに断ち切れなかった。彼の中では「理性」よりもやくざの義理の方が重かった。岡田に縄張りを取られても、松永はまだ大親分に頼み込めば何とかなるという甘い幻想があった。しかしその大親分もただ自分を利用しているだけだと知った時、彼は最後のよりどころを失った。彼は自滅の道に走る。松永が物干し台で死んだ直後に、眞田が松永に食べさせようと卵を買ってうれしそうに戻ってくる短いカットがさしはさまれる。松永の悲惨な末路は眞田の期待の甘さを暴露している。最後はさわやかな久我美子を登場させてきれいにまとめているが、この映画の魅力はそんなさわやかな枠組みに収まりきらない、はみ出た部分にある。

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2007年1月 9日 (火)

雪の女王

1957年 ソ連 65分
評価点:★★★☆
原題:Снежная королёва
監督:レフ・アタマーノフ 
原作:ハンス・クリスティアン・アンデルセン 『雪の女王』
脚本:ゲオルギー・グレブネル、レフ・アタマーノフ、ニコライ・エルドマン 
美術:レオニード・シワルツマン、アレクサンドル・ヴィノクーロフ

  滅多に観る機会のないソ連・ロシア・アニメだが、昨年一気に4枚の中古DVDを手に入Sdclbglsc04 れた。近所の中古店で見つけた「ユーリ・ノルシュテイン作品集」、年末にアマゾンで買った「雪の女王」、「蛙になったお姫さま」(54、ミハイル・ツェハノフスキー監督)、「森は生きている」(56、イワン・イワノフ=ワノ監督)。いずれもDVDが出ているとは知らなかった。

  この中から有名な「雪の女王」をまず観た。たまたま書店で見かけて買った『世界と日本のアニメーションベスト150』(2003年、ふゅーじょんぷろだくと刊)という本がある。ラピュタ阿佐ヶ谷主催で行なわれた「世界と日本のアニメーション ベストオブベスト」投票の結果をまとめた本である。「雪の女王」は17位にランクされている。世界に名高いソ連アニメの中でも名作とされる作品だが、正直今観るととても上位に入る作品とは思えない。当時としては驚異的作品だったのかもしれないが、今のアニメ技術は当時のレベルをはるかに超えている。今の水準からすれば見劣りするのは仕方がないが、50年も前にこれだけの水準のアニメを作っていたのかという驚きは確かにある。いつまでも神格化するのではなく、もっと実際的な見方をするべきだろう。「雪の女王」が宮崎駿や高畑勲にも影響を与えたことは有名だが、彼らもその時の段階にいつまでもとどまっていたわけではない。

  ただ、確かに影響関係は感じられる。「雪の女王」のヒロイン、ゲルダは「未来少年コナン」のヒロイン、ラナを連想させる。絵のタッチやもキャラクターも非常に似ている(ラナの方がずっと可愛いし魅力的だが)。ただし、どちらかというと受身的なラナに対してゲルダはより積極的。「未来少年コナン」ではコナンがラナの窮地を救うというパターンが多いが、「雪の女王」ではゲルダがカイを救う旅に出る。

  アンデルセンが原作なので主題は単純。「愛は氷の魔術さえ融かす」というもの。とにかく宮崎アニメでおなじみの行動的女性が主人公なのだが、ゲルダの行動力は性格的な強さからきているというよりは、むしろ愛に突き動かされているという感じの描き方である。強さよりもけなげさが強調されている。男の子はとかく強がりを言って無茶な行動をする、女の子は愛情にあふれているという設定は従来の概念の範疇から出てはいない。さらには、ファンタジーというよりも御伽噺なので、ゲルダが平気で氷の上を裸足で歩くなど、細かいところでリアリティーを無視している。「愛のためならどこまでも」という基本設定なので、ゲルダの前に立ちふさがる障害はそれほどリアルではない。彼女を阻むのは嵐などの自然現象で、人間や動物などはむしろ皆彼女の一途な思いに共感して援助してくれる。こういう設定が心地よいともいえるが、その反面いかにも単純で、不満を感じるところである。

  ラナに近いゲルダよりもむしろ旅の途中でゲルダを捕まえる山賊の娘の方が魅力的だ。宮崎駿の「もののけ姫」に出てくるサンにそっくりなキャラクター。男のような話方や振る舞い方をするが根は優しい。ディズニーアニメにはあまりなかったキャラクターではないか。ディズニーではみんなゲルダのようになってしまう。宮崎はそんなところにも惹かれたのかもしれない。他の登場人物、狂言回しの役をする小人、二羽のカラス、王子と王女などはむしろディズニー的。美術担当のレオニード・シワルツマンはソ連のアニメはディズニーから様々なアイデアやキャラクターを借りていると語っている。

  キャラクターの造形としてもっとも秀逸なのは言うまでもなく雪の女王。横長の大きな目と氷の冠が実に印象的だ。威圧感と冷酷さがよく表現されている。性格設定は「心の冷たい女王」という文字通りのもので単純だが、絵的な魅力は抜群である。雪の女王ほど印象的ではないが、北欧デンマークの作家アンデルセンらしさを感じて興味深かったのは女王の城に行く直前にラップランドを通ること。親切な女性たちに助けられるが、彼女たちは恐らく「ククーシュカ ラップランドの妖精」に出てきたサーミ人なのだろう。氷の女王の国に近いために、彼女たちが一番具体的な援助をするという設定が興味深い。

  絵や絵の動きに関して言えば、かなり動きは滑らかでリアルである。ディズニー的なPegasus1 オーバーアクションはない。女王が馬車に乗って走り回るシーンでは何度か回転するが、頭の部分などはごく自然に角度を変えている。立体的な絵ではないが模型などを作って回転する様子をよく観察したのだろう。絵そのものもスタジオ・ジブリやピクサーなどの精緻を極めた絵に比べるとさすがに見劣りするが、日本のテレビ・アニメよりはるかに丁寧に作りこまれている。特に街の景観や氷の輝きと透明感の表現、雲や風や吹雪の表現などは50年も前のものとは思えないほどリアルだ。ただ、主人公のゲルダとカイはいかにも子供向きのシンプルな絵という感じでやや物足りない。絵柄としては「アルプスの少女ハイジ」や「未来少年コナン」あたりの素朴な絵である。「風の谷のナウシカ」以降のリアルな人物像と比べると実に素朴だ。2人の顔色が土気色なのも気になる。まあ、その分氷の女王のリアルな絵がより引き立つようにはなっているが。

  「未来少年コナン」でも人物は単純化されているが、インダストリアやギガントは恐ろしくリアルだ。僕はそれほどアニメの技術面には詳しくないが、推測するに、セル画の場合背景は動かないからそのままかあるいはずらして使えるが、人物は動くので何度も描き直す必要があるため単純化しているのではないか。技術が進んで人物もかなりリアルに描きこめるようになったということだろう。

  有名な「イワンと仔馬」も最近アマゾンで見つけて入手した。2月には「ロシア・アニメーション傑作選集」Vol.1~4が発売予定である。川本喜八郎の作品集も1月に出る。アニメーションの分野でもDVD化の動きが急である。毎年アニメーションフェスティバルを開催している「ラピュタ・阿佐ヶ谷」の功績も最後に特記しておきたい。

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2007年1月 7日 (日)

2006年公開映画を振り返って

  まだ昨年劇場公開された主要な映画の半分ほどしか観ていない段階で1年間の概況を書くのは無茶な話だが、少なくとも大まかな傾向についてはある程度書けるだろう。自分の年間ベストテンは今年も『キネマ旬報』のベストテン号発売に合わせて2月上旬に載せようと考えている。

特徴1 日本映画の好調さ
  2006年の一番目立つ特徴は日本映画の好調ぶり。まず、全般的な傾向から確認しておくと、シネコンの急増で映画館数が増えた。スクリーン数は3000を越えたようだ。日本映画の公開本数が増え、前年の356本から380本超へ。洋画との比率で見ても前年までの洋画7邦画3に対し、2006年は6対4になった。興行収入も久々に日本映画が洋画を超えそうな勢いだった。
  作品的にも充実していた。以下に挙げる注目作を見ても前年よりぐっと質が上がっていPen_mado_1 ることがわかる。昨年は5点をつけた邦画は1本もなかったが、今年は既に4本ある。ただし、全体的にコメディ調の作品が多く、シリアスなものは相変わらず少ない。その意味では晩年戦争を追い続けた黒木和雄監督の遺作「紙屋悦子の青春」は貴重な作品だった。戦争を題材にしたものでは「男たちの大和/YAMATO」が大ヒットしたが、地味な良心作に佐々部清監督の「出口のない海」や池谷薫監督のドキュメンタリー「蟻の兵隊」もある。「かもめ食堂」の荻上直子、「ゆれる」の西川美和、「赤い鯨と白い蛇」のせんぼんよしこ、「酒井家のしあわせ」の呉美保など女性監督の進出が目立ち、「フラガール」の蒼井優をはじめ若い女優が大活躍。また後述するがドキュメンタリー映画に力作がそろったことも昨年の特長だった。
  劇映画やドキュメンタリー映画が好調だったために、例年話題を集めていたアニメが昨年はあまり目立たなかった。「ゲド戦記」は評判倒れだったようなので、「時をかける少女」や岩波ホールで公開された人形アニメ「死者の書」が主な成果ではないか。昨年は「白蛇伝」、「太陽の王子ホルスの大冒険」などを製作した東映アニメーションの創立50周年に当たった。「太陽の王子ホルスの大冒険」から高畑勲と宮崎駿という二人の優れた監督が育ち、今や世界レベルにまで日本アニメの質を高めた。しかしどんどん外注をしてアニメを作っている現状なので、いずれは日本に優れたアニメーターがいなくなる可能性もある。スタッフの待遇面もいまだ改善されたということを聞かない。韓国のように国が本腰を入れて支援しなければ遠からず危機的状況が訪れるだろう。
  全体として好調ではあったが、いいことずくめではない。ヒット作は「日本沈没」「ゲド戦記」「LIMIT OF LOVE 海猿」などの東宝作品に集中している。テレビとの提携が大きく影響している。作品の質ではなくマスコミの露出度で人気度が左右される現状には疑問を感じる。テーマ的にもシリアスなものが少なく、非常に偏っている。これには製作側の事情が大きく関与しているだろう。儲け一本の姿勢ではやはり健全な映画製作状況とは言えない。映画製作に対する国の援助という点でも改善されているわけではない。これまで何度も書いてきたが、映画を文化としてとらえるという見方がいまだ日本では定着していないことが最大の問題点なのである。映画は単なる娯楽で商品であるという捉え方が制作会社や国の支援姿勢に露骨に表れている。
  では、そのような状況下でなぜ日本映画がこれほどの活況を呈しているのか。これを解明するには日本での映画製作状況だけではなく、監督や技術スタッフそして俳優たちが現在どのように養成されているのかを調べてみる必用がある。国立の映画大学もなく、かつての映画会社による徒弟制度のような養成システムがほぼ解体された中で、彼らはどこで映画製作を学びどのように製作の機会を得ているのか、これを調べてみたいがなかなかその余裕がない。そういう関心で日本映画を論じた研究が進んで欲しいものだ。

「THE有頂天ホテル」(三谷幸喜監督)
「かもめ食堂」(荻上直子監督)
「フラガール」(李相日監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「博士の愛した数式」(小泉堯史監督)
「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)
「ゆれる」(西川美和監督)
「チーズとうじ虫」(加藤治代監督)
「時をかける少女」(細田守監督、アニメ)
「武士の一分」(山田洋次監督)
「長い散歩」(奥田瑛二監督)
「手紙」(生野慈朗監督)
「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督)

特徴2 アメリカ大作映画は低調 9.11後を意識した映画が続出
  ここ数年のアメリカ映画の一般的傾向については「アメリカ、家族のいる風景」のレビューである程度まとめてあるので、まずはそちらを参照しTobira_hane0_bl ていただきたい。とにかくハリウッド製大作映画が振るわなかった。05年度には興行収入が10億円を越えた洋画が39本もあったのに対し、06年度はわずか14本程度。大ヒット作はいずれも「ハリポタ」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「ミッション・インポッシブル」などのシリーズ物ばかり。一方で主に低予算だが9.11後を反映した映画が噴出した。ボブ・ディランのドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」のタイトル通り、家族が崩壊し、社会における自分の位置を見失い、方向性を見失った人々を描く映画、アメリカの政治姿勢を正面から批判する映画、タブーに挑戦した映画。文字通り一気に噴出した感じである。もはや英雄が英雄として描きえなくなってきた。
  この傾向は今年も続くのではないか。ハリウッド大作の巻き返しもあるかもしれないが、その場合でもかつてのように娯楽に専念するのではなく、何らかの社会性を持った作品が増えるだろう。

「クラッシュ」(ポール・ハギス監督)  
「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督)
「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督、南ア・米・英・伊)
「アメリカ、家族のいる風景」(ヴィム・ヴェンダース監督)
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(トミー・リー・ジョーンズ監督)
「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督、英米仏日)
「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス監督、英独)
「ユナイテッド93」(06、ポール・グリーングラス監督)
「ワールド・トレード・センター」(オリバー・ストーン監督)
「Vフォー・ヴェンデッタ」(ジェイムズ・マクティーグ監督、米独)
「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督)
「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)
「ブロークバック・マウンテン」(アン・リー監督)
「カポーティ」(ベネット・ミラー監督)
「サンキュー・スモーキング」(ジェイソン・ライトマン監督)
「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督)
「ダ・ヴィンチ・コード」(ロン・ハワード監督)
「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」(ジョン・マッデン監督)
「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督)

特徴3 記録映画に力作がそろった
  ついこの間までは記録映画というと真っ先にマイケル・ムーア監督を思い浮かべたものだが、昨年はだいぶ事情が変わった。山形ドキュメンタリー映画際や「ポレポレ東中野」の果たした役割が大きいだろうが、ドキュメンタリー映画が公開される機会が増え、一定のファン層も生まれてきたようだ。ドキュメンタリーは映画の原点。初めてキャメラを手にした人たちが最初にやるのは現実を写し取ること。ほとんどの国の初期映画史はドキュメンタリー映画が重要な役割を果たしている。今のような不安定な社会では現実が想像をしばしば超えてしまう。9.11の映像がそれを雄弁に示している。
  これを機会にドキュメンタリーが上映される機会がさらに増え、過去の名作も含めてDVD化が進むことを切に願う。

「蟻の兵隊」(05、池谷薫監督、日本)
「六ヶ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督、日本)
「エドワード・サイード OUT OF PLACE」(佐藤真監督、日本)
「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督、日本)
「ガーダ パレスチナの詩」(古居みずえ監督、日本)
「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)
「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督、アメリカ)
「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウパー監督、オーストリア・ベルギー・仏)

特徴4 韓国映画勢い止まらず
  いつのまにかレンタル店の棚一面どころか壁一面を占めるようなった韓国映画やTVドラマ。06年もその勢いは続いた。3月にはシネマート六本木で「韓流シネマフェスティバル2006」も開催された。相変わらず恋愛物が圧倒的に多い。あまりに多すぎてどれを観ていいのか迷うほどだ。しかし話題になった作品はさすがに評価が高い。現時点では未見のものが多いが、楽しみな作品ばかりだ。

「グエムル 漢江の怪物」(ポン・ジュノ監督)
「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督)
「トンマッコルへようこそ」(パク・クァンヒョン監督)
「ファミリー」(イ・ジョンチョル監督)
「うつせみ」(キム・ギドク)

特徴5 その他の国々、国別の特徴
・中国・台湾映画久々に充実、アジア映画の紹介進む
  このところ公開本数が落ち込んでいた中国映画がやや持ち直した。中でも「ココシリ」は力作。評価が分かれているが「胡同(フートン)のひまわり」も優れた作品だと思った。ただArtharikoinu01250w それ以外はもう一つ。もっと優れた作品がたくさんあるはずだ。韓国映画ばかりではなく中国映画もどんどん輸入して欲しい。
  ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン以降やや落ち込んでいた台湾映画もやや上向きになってきた。9月にはアン・リー監督の初期三部作もDVD化された。
  中国・韓国・台湾を除くアジア映画はまだまだ一般の観客の眼に触れる機会は少ない。主に上映される機会は「東京国際映画祭」や「東京フィルメックス」などである。東京国際映画祭では特集上映されたマレーシア映画が注目された。しかし映画祭上映作品はその一部しか劇場公開されないし、当然DVD化されるものも少ない。大都市に住むものしか観る機会がないという状況は何とか改善されないものか。

「ウォ・アイ・ニー」(チャン・ユアン監督)
「玲玲(リンリン)の電影日記」(シャオ・チアン監督、中国)
「ココシリ」(ルー・チューアン監督、香港・中国)
「胡同(フートン)のひまわり」(チャン・ヤン監督、中国)
「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
「楽日」(ツァイ・ミンリャン監督、台湾)
「夢遊ハワイ」(シュー・フーチュン監督、台湾)
「深海」(05、チェン・ウェンタン監督、台湾)

・イギリス・フランス映画は好調
  イギリスとフランス映画はまだほとんど観ていない。本数的にはまずまず。内容的にもケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」をはじめ期待できそうだ。単館ロードショーに回ることが多いので目立たないが、この2国の映画はこのところ充実している。

「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」(ニック・パーク監督)
「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督、英・チェコ・仏・伊)
「プルートで朝食を」(ニール・ジョーダン監督、アイルランド・英)
「レイヤー・ケーキ」(マシュー・ボーン監督、イギリス)
「マッチポイント」(ウディ・アレン監督、イギリス)
「キンキー・ブーツ」(ジュリアン・ジャロルド監督、英米)
「麦の穂をゆらす風」(ケン・ローチ監督、アイルランド・英、他)
「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」(カーク・ジョーンズ監督、英米仏)  
「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム監督、カナダ・イギリス)
「愛より強い旅」(トニー・ガトリフ監督、フランス)
「親密すぎるうちあけ話」(パトリス・ルコント監督、仏)
「狩人と犬、最後の旅」(04、ニコラス・バニエ監督、仏・他)
「薬指の標本」(ディアーヌ・ベルトラン監督、仏・独・英)
「あるいは裏切りという名の犬」(オリビエ・マルシャル監督、仏)
「オーロラ」(ニルス・タベルニエ監督、フランス)
「キングス&クイーン」(アルノー・デブレシャン監督、仏)
「ぼくを葬る」(フランソワ・オゾン監督、フランス)
「合唱ができるまで」(マリー=クロード・トレユ監督、フランス)

・スペイン、ドイツ映画
  ここ数年傑作をいくつも送り出してきた両国だが、昨年の公開本数は少なかった。観たのはまだ「白バラの祈り」だけ。平凡な出来だと思ったが高く評価する人もいる。「戦場のアリア」は話題になった作品。出来もよさそうだ。スペイン映画で目に付いたのは1本だけ。さびしい限りだが、数々の傑作を生み出してきた名匠カルロス・サウラ監督作品なので見逃す手はない。

「イベリア 魂のフラメンコ」(カルロス・サウラ監督、スペイン・フランス)
「白バラの祈り――ゾフィ・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督、独)  
「戦場のアリア」(クリスチャン・カリオン監督、仏独他)
「太陽に恋して」(ファティ・アキン監督、独)

・その他の国々の映画
  ロシアの「ククーシュカ」と「太陽」、アフリカの「母たちの村」、3人の有名監督のオムニバス「明日へのチケット」、ベルイマンが久々にメガホンを取った「サラバンド」など、話題作が結構ある。イラン映画がひところほど公開されなくなったのは残念。05年に「亀も空を飛ぶ」(未見)が公開され高い評価を受けたが、ここ数年はほとんど「福岡アジア映画祭」や「東京フィルメックス」で上映されるにとどまっている感じだ。かつての映画大国イタリアも低調が続く。北欧、東欧、南米もいまひとつぱっとしない。ただ、まだ観ていない作品が多いので、意外な傑作があるかもしれない。

「ククーシュカ ラップランドの妖精」(アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
「太陽」(05、アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
「ファーザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
「美しき運命の傷痕」(ダニス・タノビッチ監督、伊仏ベルギー)
「サラバンド」(イングマル・ベルイマン監督、スウェーデン、他)
「歓びを歌にのせて」(ケイ・ポラック監督、スウェーデン)
「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督、オーストリア他)
「クリムト」(ラウル・ルイス監督、オーストリア、他)
「明日へのチケット」(E.オルミ、K.ローチ、A.キアロスタミ監督、伊・英)
「13歳の夏に僕は生まれた」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、伊・仏・英)
「人生は、奇跡の詩」(ロベルト・ベニーニ監督、イタリア)
「夜よ、こんにちは」(マルコ・ベロッキオ監督、イタリア)
「トリノ、24時からの恋人たち」(ダビデ・フェラーリオ監督、イタリア)
「ニキフォル」(クシシュトフ・クラウゼ監督、ポーランド)
「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督、ハンガリー、英)
「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督、フランス・セネガル)
「僕と未来とブエノスアイレス」(ダニエル・プルマン監督、アルゼンチン)
「ダック・シーズン」(フェルナンド・エインビッケ監督、メキシコ)
「カクタス・ジャック」(アレファンドロ・ロサーノ監督、メキシコ)

特徴6 旧作のDVD化が急速に進んだ
  7月にフィルムセンターで「ロシア・ソビエト映画祭」、8月にアテネ・フランセで「アルメニアBarun_mizu_03 映画祭」が開催された。こういった地道な特集は80年代ごろから盛んになった。その意義は大きい。ただ、こういった局地的開催ではごく一部の人にしか観る機会がない。何度も言うようだが、広くいきわたるにはDVD化が望まれる。地方の小都市に住むものにとってはそれが唯一の接点なのである。アメリカ映画の同じ作品が装いを変えて何度も繰り返し発売されているのに、こういう地味な作品は発売の機会さえ与えられていない。それでは存在しないも同じだ。何とかして欲しいものだ。正直、怒りすら感じる。
  とはいえ、2006年は旧作のDVD化が一気に進んだ年である。待ち望んでいた作品がだいぶDVDになった。個人的には、「芙蓉鎮」「家族の肖像」「ドン・キホーテ」(57、グリゴーリー・コージンツェフ監督)「拝啓天皇陛下様」「愛妻物語」「揺れる大地」「ムッソリーニとお茶を」「ゲット・オン・ザ・バス」などがDVDで手に入るようになったのがうれしい。最大の話題は何といっても溝口健二のBOXセット。ほかにルビッチやブニュエルもほとんど手に入るようになった。国別では特に日本映画とソ連映画のDVD化が進んだ。喜ばしい限りである。
  次世代DVDもいよいよ実用化されたが、どこまで根付くかは今のところ未知数。DVD-BOXが1枚になって出るようならそういうものだけ買ってもいいとは思っている。いずれにせよ自分としては当分の間今のDVDで行くつもりだ。

2007年1月 6日 (土)

大雪です

 今年は暖冬。例年のような猛烈な寒さがない。昨年末に一度雪が積もりましたが、正月0716に帰省して戻ってきたときには完全に消えていました。しかし今日の雪は大雪です。大粒の湿った雪が昨夜から降り続いています。午前中に近所の人たち総出で雪かきをしましたが、今は誰も雪かきをしていません。止むまではいくらやっても切りがないと諦め顔。

 上田は全国でも雨が少ないことで有名な地域。当然雪も少ない。20センチ以上積もることはまず滅多にありません。でも今回は20センチを悠々越えそう。こうなると雪かきも大変ですが、寒いところなので北側の建物の影になっているところは雪がいつまでも残り、夜間に凍結して氷になってしまいます。氷の上ではスタッドレスも大して役に立ちません。数年前に、氷の上にまた新雪が積もり非常に滑りやすい状態になっているときに、信号で止まっていた車に追突してしまったことがあります。あの時は待ち合わせの時間ぎりぎりであせっていた。いつもならかなり手前からポンピング・ブレーキをかけるのですが、気が急いているので思わずぐっとブレーキを踏み込んでしまいました。もう滑り出したらどうしようもない。「あ、あ、あ」と言っている間にドスン。幸い大したスピードではなかったので相手の車のバンパーを壊しただけで済みました。苦い思い出です。

 雪が降ればスキーという楽しみもあるのですが、このところ忙しくてなかなかいけません。去年は一度も滑りませんでした。長野に来て初めて覚えたスキー。一時はかなり夢中になっていましたが、年々遠ざかっています。かつてはリフト乗り場前にとんでもない行列が出来ていたものですが、最近はスキー、スノボー人口もがた減り。待つこともなくすいすいとリフトに乗れてしまいます。楽だけどさびしい気も。今年は何とか一度はスキーに行ってみたい。

(写真はゴブリン亭の庭)

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正月は読書三昧

  年末にまた頑張ってレビューを書いてしまったので、正月は骨休み期間に。正月の1日と2日は実家で箱根駅伝を見るのが年中行事。三が日は全く映画を観ず、パソコンにも触らなかった。「無菌状態」のままひたすら読書。『風の影』と『本所しぐれ町物語』は前からちびちび読んでいた。ブログに時間をとられてまとまった時間が取れなかったのだが、やっとこの正月に読み終えた。『葉桜慕情』は昨年の正月に読んだ『花びら葵』に続く”口中医桂助事件帖”シリーズ第四弾。著者は従兄弟の奥さんで、今回は本人のサイン入り本をいただいた。『パイオニア・ウーマン』は帰りの電車の中で読んだ。まだ途中。

カルロス・ルイス・サフォン『風の影』上下、(集英社文庫)
  これは実に面白かった。ロバート・ゴダード風ゴシック・ロマン、あるいはドイツロマン派のE.T.A.ホフマン風幻想文学という評もあるが、僕は子供時代に読みふけった江戸川乱Cutwindow3_1 歩の少年探偵団シリーズを連想した。顔のない不気味な怪人、アルダヤ家の廃墟や地下の納骨堂などはまさにその世界。まあ、全体としては確かに『リオノーラの肖像』の頃のロバート・ゴダードに一番近いか。恋愛を絡めた伝奇ロマンといった小説である。ジャンルはともかく、昨年読んだ中ではこの本と『ダ・ヴィンチ・コード』がダントツで面白かった。

  スペイン映画というと内戦時代が何らかの形で関係しているものが多い。その後フランコの独裁が続いていただけに、中国の文革以上に大きな傷を残している。この小説も語りの現在時点は第二次大戦直後だが、内戦時代に殺された一人の小説家の謎をめぐってストーリーが展開する。謎自体は案外底が浅く、途中である程度見当がついてしまう部分もある。しかし二重三重に謎が絡まり、探ってゆくに連れて謎が謎を生み渦巻いてゆくという展開で、容易に全貌が明かされない。否応なく読者はその渦に引き込まれてしまう。

  謎の中心にいるのはフリアン・カラックスという小説家。タイトルの『風の影』というのはその作家が書いた小説の名前でもある。少年ダニエルが「忘れられた本の墓場」でたまたま『風の影』という本を手に入れたのが発端である。上巻は盲目の美少女クララに対する幼いダニエルの恋心が描かれたりして多少間延びする部分がある。しかしフリアン・カラックスに興味を持ったダニエルが彼のことを調べ始めるあたりからぐんぐん引き付けられる。

  全編を覆う暗い雰囲気が秀逸。舞台となったバルセロナを影と暗闇が常時覆っている。建物や施設などの道具立てと登場人物の造形がうまい。「忘れられた本の墓場」という摩訶不思議な場所、老人の掃き溜めのような陰気で妖気漂う養老院、フリアン・カラックスの本を探し出してすべて焼き払っている顔のない謎の男、いたるところに現われてはダニエルたちを脅してゆくフメロという刑事の不気味さ。ダニエルと一緒にフリアンの謎を探るフェルミンがキャラクターとして出色。悲惨で謎めいた過去を持つ男で体中にミミズ腫れなどの傷がある。陽気でおしゃべりな男でなかなか詩的な話もする。ダニエルの恋愛指南役的な役回りも。女性は美女ばかりだが、謎に満ちたヌリアが抜群の存在感である。調べてゆくほどにダニエルがフリアンと重なってくる展開も興味深い。読者は何重にも折り重なった謎の深みにはまり、最後の最後にやっと解放される。どことなく文学的深みも感じさせる傑作。

藤沢周平『本所しぐれ町物語』(新潮文庫)
  藤沢周平には『日暮れ竹河岸』、『霧の朝』、『海鳴り』、『時雨のあと』、『驟り雨』、『夜消える』、『橋ものがたり』など一連の市井物がある。『本所しぐれ町物語』は江戸の市井の人々を描いた連作長編。魅力的なタイトルだが、正直言っていまひとつ引き込まれなかった。途中で中断して『風の影』を読み始めたのはそのためである。最初の「鼬(いたち)の道」から違和感があった。上方に行ったきり音信不通になっていた弟がひょっこり呉服商の兄の元に戻ってきて、兄夫婦の生活に暗い影を落としてまた去ってゆく。それだけの話。だからなんだ?他にも浮気の話や泥棒の話しも出てくるが、どれも味わいが少ない。

  どこかそれまでの藤沢周平の作品と違う。どうも男はふらふらとしてだらしなく、女ばかりがしっかりしている。それはそれでいいのだが、話が面白くない。狂言回しの役を務める地獄耳の万平やまるで「おしん」を思わせるおきちなど素材としていいキャラクターも登場するのだが、話に味わいや深みがない。つまらないわけではないし、最後まで読めるのだが、どこかさらっとしすぎて面白みに欠ける。彼の市井物が持っているしっとりとした味わいがない。たぶんそれが一番の不満なのだろう。枯れて乾いた藤沢周平がそこにいる。

和田はつ子『葉桜慕情』(小学館文庫)
  こちらも連作長編。〈いしゃ・は・くち〉を開業している″口中医″藤屋桂助が活躍する江戸版シャーロック・ホームズ・シリーズ。悪の親玉″そちも悪よのう″岩田屋が次々と仕掛けてくる難事件を桂助の推理で見事に解決してゆく。しかし岩田屋そのものには手が出せない歯がゆさも最後に描かれる。事件も変化に富んでいて、推理にも無理がない。すいすいと読める。

  ひょうひょうとした桂助と彼にほのかな恋心を寄せる志保、自分も志保に惚れながらも志保の気持ちにさっぱり気づかない桂助に「じれってえ」思いをしながら手足となって桂助の捜査を助ける鋼次、いつものコンビが好調。特に求愛者が現われて揺れ動く志保の女心がよく描かれている。直情型の鋼次のせりふや独白はちょっと紋切り型過ぎるが、合いの手程度なのでそれほど気にはならない。

  一番気になったのは最後の第五話「直山柿」、全体のクライマックスとなる毒殺犯との対決部分が説得力を欠いていること。意外性を狙ったのだろうが、設定に無理がある。あんな無理な設定にする必然性が感じられない。山本一力の『大川わたり』の最後の展開もかなり強引だと感じたが、最後の詰めが甘いと全体の印象が悪くなってしまう。その点が残念だった。

  しかし見逃せないのは、その「直山柿」で面白い要素が導入されていることである。飢饉倉の役人を務める下倉藩士佐藤亀之助。彼の語った飢饉の時の農民の惨状は全編の中で際立った衝撃度を持つ。その話は桂助の「飢えを治せる医者など、この世にいないのですからね」、あるいは道順(志保の父)の「病はざまざまだが、亡くなってゆく人たちの数の多さからいえば、飢えが一番多い病かもしれぬ」という言葉とつながってゆく。だが残念ならがここでは充分展開されずに終わっている。亀之助の語った話はあまりにも重く衝撃的なために、結果的に作品の中で浮き上がってしまっている。ただ、この最後のエピソードは次回作につながってゆく気配なので、次の作品で全面的に展開されるのかもしれない。テーマ的に亀之助の言葉と響き合う内容を持つ『藩医宮坂涼庵』(未読)という本を新日本出版社から出している人なので、農民問題を正面から取り上げれば、白戸三平の『カムイ伝』に匹敵するとんでもない傑作を生むかもしれない。どんな内容になるのか楽しみだ(全然違う方向に行ってしまうかもしれないが)。

ジョアナ・ストラットン『パイオニア・ウーマン』(講談社学術文庫)
  国の歴史を読んで一番面白いのは恐らくアメリカと中国だろう。波乱万丈、歴史そのものが壮大なドラマである。アメリカで一番面白いのは開拓時代である。先住民たちの「豊Ride2 かな」暮らし、自然と共に生きてきた彼らがほとんど荒らさなかった自然の豊穣さと美しさ、開拓の苦労、様々な伝説や英雄譚やほら話(トール・テイル)、探検隊の冒険、奴隷制の問題、南北戦争、金鉱の発見とゴールドラッシュ、フロンティアの消滅と海外への進出、急激な工業化と摩天楼の出現、等々。西部劇でおなじみの保安官やカウボーイばかりが開拓時代のイメージではない。いや、カウボーイのイメージでさえ、現実は西部劇のイメージとは大幅に違う。例えば(これは現代の話だが)「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」でメキシコ人のカウボーイが出てきたし、「黒豹のバラード」では黒人のカウボーイが出てきたが、実は当時のカウボーイには黒人やメキシコ人あるいは日本人や中国人などが多数含まれていたのである。しかしハリウッド映画では彼らはみんな画面から排除され、勇ましく荒々しい白人だけが画面を占領していた。

  藤沢周平が平侍の日常を描いたように、少しも勇ましくない開拓者の日常をリアルに描いた名作がある。ローラ・インガルス・ワイルダーが書いた有名な『大草原の小さな家』シリーズである。このシリーズはどれも読み物としてすばらしいばかりではなく、実にリアルに開拓者の労働、自然の猛威、質素で考えられる限りの智恵を絞ったぎりぎりの生活、それでいて何もない中で楽しくたくましく生きようとしていた人々の暮らしを余すところなく描いている。NHKドラマのチープなイメージを持っている人も多いだろうが、これは紛れもない開拓者小説の金字塔である。当時の生活が眼に浮かぶように描き出されていて、下手な文学作品よりはるかに面白い。

  今回実際にその時代を生きた女性たちの手記をまとめた『パイオニア・ウーマン』を読んで、ローラ・インガルス・ワイルダーの小説がいかにリアルで正確だったかが改めて確認された。また、その手記そのものが実に面白く、興味が尽きない。上に書いたように、現実そのものがドラマだったのである。

  それらの手記は長い間屋根裏に眠っていた。それらを集めたのは著者の曽祖母ライラ・デイ・モンローだった。彼女自身1884年にカンザスに入植して、開拓時代の生活を経験した。「そこで出会った開拓地の女性の強さとしなやかな生き方に心を打たれ」、「開拓地の女性の生活を記録し、遺産を保存する」事業に取り掛かかったのである。最初の方に彼女の写真が掲載されているが、これは強烈に引き付けられる写真である。椅子に座って本を読んでいる姿を写しただけの写真だが、彼女の凛とした美しさに眼を奪われる。「美しさ」と言ったのは単に美人だという意味ではない。もちろん美人なのだが、そこにいるのはイギリスの19世紀の中上流婦人たち、「人形の家に住む家庭の天使」ではない。彼女の美しさは、人間のちっぽけさをいやというほど思い知らされる自然の猛威と耐えがたいほどの労働(家事や子育てだけではない)を潜り抜けてきた人だけが持つ強さとしなやかさを持った美しさなのである。今これだけのしっかりとした芯を持ち、かつ厳しさと優しさをあわせ持った女性はいない。そう思えてくる。1枚の写真がそれだけのことを語っている。彼女は何も自分では出来ない「人形妻」ではなく、まさに大地に生きた「開拓地のパイオニア・ウーマン」である。

  『パイオニア・ウーマン』はカンザス州に入植した約800人の女性の貴重な証言を集めたものである。著者の曾祖母が集め、祖母がタイプして索引と注を付けたが、彼女も仕事に追われその後出版されることなく屋根裏に埋もれていた。著者が偶然原稿を発見したことで現代によみがえったのである。著者の意図(それは著者の曾祖母の意図でもある)は次の言葉から窺うことができる。「概して歴史は・・・家庭でおこる種々雑多なことを手際よく処理した腹のすわった女性たちについてはまったく触れていないのです。」しかし厳しい開拓地の生活は女性たちの労働力や智恵、忍耐、そして優しさがなければ到底耐えがたく継続できなかったものである。その埋もれかけた女性たちの歴史を著者は文字通り掘り出してきたのである。

  当時の名もない女性たちの生の声は心を打つものがある。「人は都会で人間に触れ、荒野では神と触れ合います。」ほとんど身一つで開拓地に乗り込んだ女性たちの不安感は並大抵のものではなかった。「父が建てた、たった一間の芝土の家の前に、幌馬車から降り立った時の母の顔を忘れることが出来ません。生涯、なにごとにもしっかりと耐えた母でしたが、この時は、荒涼とした土地を声もなくじっと見つめた後、父の肩に身を投げかけて我を忘れたように泣きました。」しかし彼女たちはそれに耐えた。彼女たちも強かったが、そこにあったのはただ厳しいだけの生活ではなかったからだ。「苦労ばかりの生活に思えるでしょうが、けっこう充実した毎日でした。新しい土地を征服するときめき、素晴らしい自然、大草原の魅力などで胸がはちきれそうになって、不満なんてどこかに行ってしまったのです。低く連なる丘、なにもさえぎるもののない地平線、絶え間なく吹く風に流されてゆく雲。開拓精神は、いまだに家族中に引き継がれています。」

  時に自然が疲れを癒してはくれたが、それが過酷な労働であることに変わりはなかった。それでも彼女たちは畑仕事に、裁縫に、食事作りに、そして子育てに必死で働いた。なぜならそれは生きるがための戦いだったからである。「開拓民の女性にとって家庭とは、今までにない過酷な労働そのものだった。しかも、生き延びるための労働である。・・・気づいてみると、女性と男性の立場がほとんど平等になっていたのだった。」「暑い時期には、水は何より必用でした。一マイル先に泉があり、この水は冷たく、良質で臭いもありませんでした。母は二つのバケツを天秤棒で肩にかつぎ、十五年間毎日、水を運びました。」自然は容赦しない。時には一人で家を守る不安と寂しさに気が狂ってしまう女性もいた。それでも開拓は進んだ。よりよい生活を求めて彼女たちはたゆむことなく努力し続けたのである。

  「新しい土地を征服するときめき」という言葉には、活字になることを意識した「公式の」表現が感じられるが、同時に「マニフェスト・デスティニー」の響きも感じられる。アメリカの領土拡大は神が与えた「明白な使命」であるとする考え。彼らは征服者であった。原住民(ネイティヴ・アメリカン)を「征伐」し、やがては北米大陸を越え、米西戦争をへてプエルトリコ、グアム、フィリピンなどを手に入れ、さらにはハワイも領土にする。その精神は「世界の憲兵」を自認する現在にも引き継がれていると言える。彼女たちの誇らしげな声にそのおぼろげな響きを聞き取ることも可能だろう。

  映画を観る眼は映画だけによっては十全には養われない。このような文献、いや生の経験と接することによって、現実の中にドラマを見出し、平凡な生活の中に非凡な人生を感じ取り、日常生活の中に歴史を見て取る眼が養われるのである。是非おすすめしたい本である。

2007年1月 1日 (月)

推手

1991年 台湾・アメリカ 1996年1月公開
評価:★★★★☆
監督:アン・リー
製作:テッド・ホープ、ジェームズ・シェイマス、アン・リー、エミリー・リウ
脚本:アン・リー、ジェームズ・シェイマス
撮影:ジョン・リン 音楽:チュイ・シャオソン  
出演:ラン・シャン、ワン・ボー・チャオ、ワン・ライ、デブ・スナイダー、ハーン・リー

 アン・リー監督作品はこれまで「いつか晴れた日に」(1995)、「グリーン・デスティニー」Cliptoso2 (2000)、 「ブロークバック・マウンテン」(2005)の3本を観た。「いつか晴れた日に」と「ブロークバック・マウンテン」は優れた作品だと思う。「グリーン・デスティニー」はアカデミー賞を取るほどの作品とは思わないが、結構楽しめた。初期の3本を観ていなかったのは当時何となくウォン・カーウァイとイメージがダブっていたからである。僕はウォン・カーウァイの作品が苦手なのでどうも手が出なかった。先日レンタル店に行ったら「推手」(1991)、「ウェディング・バンケット」(1993)、「恋人たちの食卓」(1994)の3本が棚に並んでいた。9月にDVDが出ていたはずだが、なぜかそれまで気が付かなかった。3本とも観るつもりなので、まず順番通り「推手」から借りてきた。

  想像していたのとはだいぶ違うタイプの作品だったが、なかなかいい映画だった。出だしがいい。中国人の老人(ラン・シャン)が一人静かに太極拳をしている。しかし建物の感じはどう見ても中国ではない。白を基調とした清潔で整頓された部屋。まずこれだけで違和感がある。しばらく老人の動きを映した後、キャメラの角度が変わると金髪の若い女性(デブ・スナイダー)が映る。彼女はパソコンで何か書いている。さらにキャメラの角度が代わると彼女がいるのは老人の隣の部屋だということが分かる。二つの部屋の間のドアは開いているので、互いが見えるはずだが、互いに相手を全く意識していない感じだ。

  老人は一通り太極拳を終えると、時間をもてあまし気味にビデオを見るがどれもつまらないらしく、すぐ交換して次のを見る。やっと気に入ったのが見つかってヴォリュームを上げる。それは京劇のビデオだった。あの甲高い声があたりに響き渡ると、我慢しかねた金髪女性がヘッドホーンを取り出し老人に差し出す。なぜか互いにほとんど口を利かない。しかし老人が興に乗って声を出して歌い始めると、女性のイライラが爆発する。

  非常に優れた導入部分である。この二人はいったいどういう関係なのか。なぜこの二人 が同じ家の中にいるのか、なぜこんなにも沈黙が支配しているのか、という疑問が観客の中に自然と浮かんでくる。実は、この不思議な非日常的雰囲気と空気感が彼らの日常だったのである。場所はニューヨーク。老人の名前は朱。金髪女性は老人の息子アレックス(ワン・ボー・チャオ)の嫁で、老人は1ヶ月前から息子夫婦の家に厄介になっていたのである。夫婦の間には息子のジェレミーがいる。息子のアレックスと孫のジェレミーは英語と中国語が話せて通訳の役が果たせるが、二人がいない昼間は老人と嫁のマーサ2人きりになってしまう。それぞれ自国語しか離せないのでほとんどコミュニケーションが取れない。この導入部がそのままこの映画の主題を暗示している。

  移民を主題にした映画はこれまでもいくつかあった。「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(2006)、「スパングリッシュ」(2004)、「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」(2002)、「アメリカン・ラプソディ」(2001)、「ジョイ・ラック・クラブ」(1993)、「グリーン・カード」(1990)、「わが心のボルチモア」(1990)、「エル・ノルテ 約束の地」(1983) 、「ディープ・ブルー・ナイト」(1984) 等々。たいていは不法入国者の苦労、差別問題、異文化のぶつかり合い、故国への思いなどが主題だった。「推手」がユニークなのは異文化間のディスコミュニケーションや老いた父の扶養問題、さらには老人の居場所という問題を一家族の物語の中に描き込んでいる点である。人種や文化の違いというギャップにさらに世代の違いを加えている。したがって、特に前半は、舅と嫁、板ばさみの息子というホーム・ドラマの様相を呈する。さらに後半はアメリカの中の中国人コミュニティーに老父が自分の居場所と伴侶を見つけるまでの「さすらい」が描かれる。

 つい先日見たばかりの「胡同のひまわり」でも父親が散々息子に迷惑をかけ、最後には家を出て行く。息子への迷惑のかけ方はぜんぜん違うが、老人が家を出て自分の人生を見出してゆく点は同じである。他人に頼らない老人の生き方、この点は日本とはだいぶ違う。世界中に中華街を作ってきた中国人とやっと最近になって大衆が海外へ出始めた日本人との違い。

 それでも前半のホームドラマは日本でもなじみのテーマなので映画に入りやすい。無意識のうちに観客の視点は最初に映った老人の視点に重なる。あの清潔な家。違う文化のTaiwan001視点から見ると同じものがそれまでと違って見えるから面白い。「胡同のひまわり」を観た直後だったせいもあろうが、彼らの住むああいう清潔な家はどこか生活感がないと思えてくる。中国の薄汚れて埃っぽい家のほうが使い込んだ生活感があって人間的な感じがする。あの部屋では老人も落ち着かないはずだ。導入部の後はマーサと朱老人(朱老人というより「朱大人」と表現したくなる。人間国宝チュウ・シュイ〔朱旭〕など素晴らしい人生の厚みを感じさせる名優が中国には多い)のまったく反りの合わないちぐはぐな日常が事細かに描かれる。食べるものが違う。野菜ばっかり食べているマーサと自分で肉料理を作って食べている朱老人。朱老人が中華なべで食事を作っているとマーサが手を伸ばして彼の足もとや頭の上の棚から皿などを取るシーンが象徴的だ。一緒にいながら全く別の料理を別々に作っている。ほとんど言葉も交わさないすれ違いの生活。

 文化の壁はかくも大きく厚い。同じ中国人同士でも、例えば「ジャスミンの花開く」の第2章で、莉(チャン・ツィイー)が労働者と結婚して夫の両親と同居する場面があるが、寝室に便つぼを置く習慣になじめず臭いから何とかして欲しいと夫に訴えるシーンが出てくる。同じ中国人でも生活のレベルが違うとギャップが生じる。ましてや人種と世代が違う舅と嫁ではまるで異星人同士。それまで夫や息子と平穏に暮らしていたマーサにとってはまったくの闖入者である。夫や息子がいれば通訳してもらえるが、面倒くさがってまともに通訳しない。野菜しか食べないマーサをあげつらって朱老人が「わしは肉を食べてるが太ってないぞ」と言うのをマーサが聞きとがめて、何と言ったのかと夫に聞くが、夫は適当にごまかしてしまう。逆のケースもある。まるで「ククーシュカ ラップランドの妖精」を観ている感じでこのあたりは可笑しい。

 マーサと朱老人だけの時は沈黙が支配する「真っ白い」コミュニケーション不全状態、4人そろった時は二ヶ国語が飛び交うがそれでも充分なコミュニケーションが取れない。一家の間に次第に亀裂が生じて行く。クライマックスは朱老人が迷子になったとき。お前が外に出すからだとアレックスは荒れ狂い、台所をめちゃくちゃにして外に飛び出してゆく。ぐでんぐでんに酔って夜帰ってきて(既に老父は警察に保護され戻っていた)トイレの壁に頭を打ち付けて穴を開けてしまう。アレックスの父への思いは深い。心から尊敬し、これまで育ててもらったのだからこれからは自分たちが父の世話をするのは当然だと譲らない。しかし、作家であるマーサは義父が家にいるせいで気が散ってさっぱり小説が書けないという、これまた深刻な悩みを抱えている。誰も悪者はいないのだが、否応なく亀裂が深まってゆく。ただでさえ親の扶養は大きな負担なのだが、カルチャー・ギャップが絡んでいるため問題はさらに拡大する。誰も迷惑をかけたいとは思っていないのに、誰かが傷ついてしまう。誰の言い分も理解できるが、解決が見出せない。安易に登場人物を善玉悪玉に分けなかったことが、ドラマの葛藤をより深く深刻なものにしている。

 どこにも居場所がない朱老人だが一つだけ気の休まる場所がある。チャイナタウンで太Tree 極拳を教える時である。朱老人は太極拳の達人。倍ぐらいある大きな男もはじき飛ばしてしまう。太極拳の会場で朱老人は陳夫人(ワン・ライ)と出会う。この出会いが結果的にはターニングポイントだった。このまま朱老人が息子一家と同居し続けるのも困難だし、かといってマーサの親の助けを借りてより広い家に引っ越すこともアレックスが拒んでいる。にっちもさっちも行かないどん詰まりの状況。考えに考えてアレックスが目をつけたのはこの陳夫人。何とか父と陳夫人がうまくいってくれれば。しかしそんな思惑を陳夫人は察していた。それを聞いて朱老人は一人黙って家を出る。レストランでの皿洗いのエピソードを経て、朱老人はチャイナタウンで新たな太極拳の教室を開く。そして陳夫人との再会。ニューヨークの路上で空を見上げる2人。

 日本のテレビドラマ向きの題材だが、アン・リー監督は日本のドラマのように人間関係をドロドロには描かない。互いに言いたいことは言い合う、時には怒りを爆発させるが最後は落ち着くところに落ち着く。朱老人は同胞の中に居場所と伴侶を見出し、息子夫婦はより広い家に引越しいつでも父を迎えられる余裕を作る。他民族が互いにある程度触れ合いながらも別々に共存しているアメリカ社会。家族も同じこと。互いに一定の距離を置いて付き合う。困難を見つめつつも新しいスタートを予感させるラストがいい。

 「スパングリッシュ」のレビューでも書いたが、日本人には自国の文化よりアメリカの文化の方が上だという意識が働く。早くアメリカになじもうとする、アメリカに同化しようとする。朱老人に比べると若い世代のアレックスはそれに近いが、同じではない。自分のルーツは中国人であることを忘れない。息子のジェレミーには週末中国語を習わせている。皿洗いしていたレストランで一暴れして監獄に入れられた父にアレックスが面会に行く。息子がさめざめと泣く場面はいい場面だ。息子の父親への思いが伝わってくる。人間は自分が育った文化の外には簡単に出られない。ましてや老人の場合はなおさらそうである。人の厄介にはなりたくない。例え家族でも。無理に相手に合わせようとするのではなく、自分にあった環境を見出すのが一番。太極拳の達人でも問題が錯綜した現実の中では「無の境地」には至れない。そういう描き方がいい。無理をすることはない。自分のままでいればいい。そうできる場があればいい。

 何といってもラン・シャンの好演が光る。人生の厚みを感じさせる表情と佇まい。朱老人には文革時代の決して忘れられないつらい記憶がある。「胡同のひまわり」のシャンヤンの父親もそうだが、中国のあの世代には誰にも深い心の傷がある。決して癒えることはないが、それに押しつぶされずに今を生きてゆこうとする人々。中華街にいれば安全というわけではない。中華街にも朱老人を雇ったレストランの経営者のような男がいる。しかしいい距離を保っている朱老人とアレックス一家は何とかうまくやってゆけるだろう。新居のベッドルームでアレックスがマーサに「推手」を教えている。相手の力を利用しながらバランスを取って相手を倒すのだと。マーサが「結婚と同じね」と口を挟むところが面白い。人間関係はバランスが肝心、この映画はそう言っているようだ。

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