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2006年12月28日 (木)

胡同のひまわり

2005年 中国 2006年7月公開 Ataiwan075
評価:★★★★★
原題:向日葵
監督、脚本:チャン・ヤン
脚本:ツァイ・シャンチュン、フォ・シン
撮影:ジョン・リン
音楽:リン・ハイ
出演:スン・ハイイン、ジョアン・チェン、リウ・ツーフォン
    チャン・ファン、ガオ・グー、ワン・ハイディ、チャン・ユエ
    リャン・ジン、リー・ビン

  こういう中国映画が観たかった。「上海家族」(2002、ポン・シャオレン監督)、「こころの湯」(1999、チャン・ヤン監督)、「山の郵便配達」(1999、フォ・ジェンチイ監督)、「スパイシー・ラブスープ」(1998、チャン・ヤン監督)、「活きる」(1994、チャン・イーモウ監督)、「女人、四十」(1995、アン・ホイ監督)、「青い凧」(1993、ティエン・チュアンチュアン監督)、「心の香り」(1992、スン・チョウ監督)、「芙蓉鎮」(1987、シェ・チン監督)。庶民の苦しみ、哀しみ、温かさ、ささやかな幸せ、親子や夫婦や家族の絆と情。こういったテーマを扱って、中国映画は数々の傑作を生み出してきた。ここにもう一つの傑作が加わったことを素直に喜びたい。

  「胡同のひまわり」にはいくつも主題がある。親子の絆、庶民同士の付き合い、文革の傷痕、30年の時間の移り変わり。主人公もシャンヤン(向陽)とその父の2人いる。恐らくそのどちらの立場にたって映画を観るかで印象が大きく異なるのではないか。子供の立場から観ればほとんど耐え難い映画である。遊びたい盛りに遊ぶこと禁じられ、得意ではあるが決して好きではない絵を描くことを強要される。妥協のない父親には(特に同じような経験を持っている人なら)憎しみすら感じるだろう。しかし父親にそってみれば、なぜあそこまで妥協なく厳しくするのか疑問を感じながらも、どういうわけか最後まで引き付けられて観てしまう。つまり、最終的な主人公は父親であって、映画も息子から父親へと視点を変えて描かれているのである。息子は厳しいだけの父親に反発しつつも、彼を見つめながら成長してゆく存在として描かれている。

  なぜ父親はシャンヤンに対してあのように厳しく接したのだろうか。この映画を観ることはこの疑問を解いてゆくことでもある。映画の冒頭、一組の夫婦に赤ん坊が生まれる。夫婦は向日葵のように太陽に向かって生長してほしいという願いを込めて息子に向陽(シャンヤン)という名前を付けた。こうして67年に張向陽は生まれた。映画はすぐそのあと76年に飛ぶ。9歳になったシャンヤン(チャン・ファン)は元気一杯遊びまわっている。余談だが、子供の遊びの中に僕が小学生の頃やったのと全く同じ遊びが出てきてびっくりした。確か僕の田舎では「馬乗り」遊びといっていたと思うが、一人が壁際に立ち、別の子がその立っている子の股に首を突っ込むようにしてかがむ。その後ろにまた別の子が前の子の股の間に頭を入れてかがむ。こうして何人かで「馬」を作り、また別の子が走ってきて跳び箱のように「馬」に飛び乗ってまたがる。上に乗った子たちが体をゆすり、「馬」が崩れたら「馬」の負け。確かそんな遊びだったと思う。映画の中と全く同じだ。あれは中国から来た遊びなのか?あるいはその逆?いずれにしても、何十年かぶりに思い出してとても懐かしかった。

  思い出に浸るのはこれくらいにしておこう。シャンヤンは友達と2人で屋根に上り、パチンコで小石を人に向けて飛ばすいたずらをしている。怒った女の子たちが立ち去った後、知らない大人が通りかかる。もう一度シャンヤンが小石を飛ばすとその男の人の額に当たった。男の人が怒ってこぶしを振り上げると、二人は屋根を降りて逃げる。しかし今度は石をぶつけられた女の子に告げ口されて、シャンヤンは母親(ジョアン・チェン)に追いかけられることになる。狭い通路(胡同)を走り回る母と子。映画はそのようにして映画のもう一つの「主人公」である胡同と四合院を紹介してゆく。

  その時はまだ知らなかったが、シャンヤンが石をぶつけた見知らぬ大人の人は、文革で下方され6年ぶりに帰ってきたシャンヤンの父親だった。6年ぶりということはシャンヤンがまだ3歳の頃に父親がいなくなったことになる。当然父親の記憶はない。シャンヤンの母は夫の突然の帰還を喜ぶが、シャンヤンにすれば突然現われた「知らないおじさん」を父親と呼ばされることになる。

  この出会いがそもそも不幸だった。父親(スン・ハイイン)になじめないシャンヤンの気持ちも理解できる。しかしシャンヤンに絵の才能があると見抜いた父はその日から一切の遊びを禁じ、絵の勉強をシャンヤンに強いる。父親も画家だったが、強制労働の最中に利き腕の親指を折られて絵が描けなくなっていた。自分の夢を息子に投影した父親は厳しく絵を仕込む。その厳しさは異常なほどだ。毎日毎日ひたすら絵を描かせる。時々トイレに行くと言って脱走していたことに気づくと、トイレにも行かせない。ついにシャンヤンはパンツに大便をもらしてしまう。たらいで自分のパンツを洗えという父の命令をシャンヤンは拒否する。木の枝で尻をたたかれたシャンヤンは泣き叫ぶ。「嫌いだ、何で戻ったの?」「嫌うがいい。」

  シャンヤンの不満はつのる。友だちから映画に誘われても絵を描き終らないと行けない。父親が寝込んだ隙に脱走するが、映画は丁度終わるところだった。自分も手が使えなくなれば絵を描かなくて済むと思ってミシンの針で指を傷つけようとしたり、四人組打倒のデモ行進のときにたまたま足元に飛んできた爆竹の不発弾を爆発するまで握っていたりする。その思いつめた行動が何とも哀れで不憫だ(爆竹の時は皮肉にも級友を守ったとして表彰されることになるが)。

  時代が87年に変わり、シャンヤンが20歳になっても父親の「過剰干渉」は続く。シャンHimawari ヤン(ガオ・グー)は、スケート場で年賀状を売ってアルバイトしている時に赤いマフラーを巻いたスケートのうまい女の子(チャン・ユエ)に見とれる。2人は恋人同士になり、シャンヤンの友だちと共に広州へ行こうとするが、直前に父親によって汽車から引き摺り下ろされてしまう。その女の子が妊娠して戻ってきた時には、父親が駅で出迎えて勝手に子供を堕ろさせてしまう。ほとんど暴君のごとき父親の強引なやり方に親子関係は冷え切っている。このあたりまでは観客の共感は当然ながら息子に向けられる。

 なぜそこまでするのか?寡黙な父親はほとんど語らないが、一度だけ心情を息子に語りかけたことがある。「恨んでるだろ。私の息子だから厳しくする。理解できんだろう。しかし、いつか分かるはずだ。私も幼くして絵を始めたが時代が悪かった。私の人生はそうだが、お前は違う。私より才能がある。それに時代も違う。お前はきっと成功する。チャンスは少ない。私の分までお前には頑張ってもらいたい。」息子は神妙に聞いているが当然完全には納得していない。

  これだけひどい行為を描きながら観客は父親を憎みきるところまでは行かない。それは息子も同じで父親とはつかず離れずの関係を保っている。なぜなら、親子の関係が完全には断ち切れていないからだ。父親の理不尽とも思える行為の合間に親子愛を感じさせるシーンがちりばめられている。一つは地震が起きた時のシーン(シャンヤンが9歳の時)。父親に尻をたたかれてふてくされたシャンヤンは屋根に上って隠れている。その時マグニチュード7.5の地震が起きた。家が崩れそうになる。下にいた父親が俺に向って飛び降りろと叫び、飛び降りたシャンヤンを父はしっかりと受け止めた。もう一つは2人で仲良く川で洗濯している時のシーン(同じく9歳の時)。洗濯物が風に飛ばされて川に堕ちて流されるのに気づいた父が川を下って拾いに行く。目が覚めたシャンヤンは父がいないので「父さん」と呼ぶ。初めて「父さん」と呼んだのだ。それを木陰でうれしそうに聞いている父の顔。印象的なシーンである。

  もう一つ、シャンヤンが20歳の時にも印象的なシーンがある。恋人が勝手に堕胎させられたと知ったシャンヤンは父親に親子の縁を切ると宣言して家を飛び出す。スケート場になっていた凍った池の上で、逃げる息子と追う父のレースが始まる。その時半分融けていた池に父親が落ちてしまう。助けるか見殺しにするか、息子は身をよじって煩悶する。結局彼は手を差し伸べた。親子の縁はどうしても断ち切れない。父親の思いと息子の思い。互いにすれ違いながらも接点だけはなくならない。この描き方が父親から観客の関心を引き離さないのだ(父親が息子に送ったパラパラ絵〔ノートをパラパラめくると絵が動いているように見えるやつ〕の使い方も効果的だ)。

  これまでかなり詳しく具体的に内容を書いてきた。なぜなら、これほどわがままで意固地な父親にどうしてわれわれは共感してしまうのか、この映画を深く理解するにはそれを解き明かさなければならないと思うからである。上にその理由の一つを書いたが、さらには恐らくこのあとの第3部、シャンヤンが32歳になった1999年のエピソードが与える印象が大きいと思われる。ラストで流れる父親の残したテープは感動的で、そのため観終わった後の印象を大きく支配してしまう。残されたテープの声というのは実に効果的で、チャン・イーモウ監督の「至福のとき」やイザベル・コヘット監督の「死ぬまでにしたい10のこと」でも使われていた。

  第3部に入る前に少し角度を変えて別の面を見ておこう。シャンヤンが20歳の第2部の最後の頃からアパートの問題が出てくる。シャンヤンの母が何としてもアパートに入居できるくじに当たりたいと必死になる。このあたりから夫婦の間にも軋みが目立ち始める。胡同にこだわる夫と新しい便利な生活にあこがれる妻。この対比の中からも父親像が浮かび上がってくる。付け届けをするなど、どんな手を使ってでもアパートに入りたいという妻に対して、夫はただおとなしく順番を待つだけ。かつての友人ラオ(リュウ・ツー・フォン)が見かねて当選して得た自分の権利を譲ろうと申し出ても断ってしまう。実直で不正を嫌う父親の性格がわかる。第3部はこの夫婦が離婚届を出しているところから始まる。実はアパートに入居しやすくするための偽装離婚だった。妻の提案だろう。夫は胡同に住み続ける。彼はどうしても胡同から離れがたかったのだ。

  99年になると北京の町には近代的な高層ビルが立ち並んでいる。32歳になった息子のシャンヤン(ワン・ハイディ)も今や車に乗っている(父親はずっと自転車だ)。消え行く胡同とどんどん存在が小さくなってゆく父親。この二つがパラレルな関係として描かれてゆく。昔のように息子を怒鳴ってはいるが、もう息子は独り立ちして父親の指示には従わない。父親にはどこか憂愁と寂寥感が漂い始めている。この第3部に入るあたりから観客の気持ちは一気に父親に向う。打ち壊され廃墟になった昔の家に独りたたずむ父親の姿が何度も映される。一方、妻は運動をして生活を楽しんでいる。同じ世代だがなぜこれほど夫婦の間に違いがあるのか。性別や性格の違いもあるだろう。しかしやはり文革時代に6年間も下放させられた夫の苦い経験がここで大きな違いとなって表れてきていると考えるべきだろう。

  父親の孤独感をもっとも感じさせるエピソードは友人だったリウの死である。実は父親が下放させられた原因はリウにあった。わざと売ったのではないが、結果としてそうなってしまった。それが分かってからリウとは一度も声を掛け合っていない。しかし憎みあっていたわけではない。互いに口こそきかないが、2人は同じ将棋版で将棋を交互に指していたのである。しかしある日リウを訪ねると彼はソファの上で死んでいた。友の遺体を前にしたシャンヤンの父の言葉が胸に沁みる。「いいかね、あと1手であんたは負けていた。こうなると知ってれば、詰まない手を指したのに。今となっては私は一人ぼっちだ。誰も将棋を指してくれない。友よ、お互いに苦しんだな。私が仲直りのきっかけを作らせなかった。できれば”待った”をしたい。」片手で顔を覆って泣く姿には、かつて息子にむごいとも思える仕打ちを強いていた暴君の勢いはない。がくんと落とした肩に寂しさがにじんでいる。こうして消え行く胡同のように、かつてあった近所同士の付き合いも絶えて行く。

  第3部では新しい問題が描かれる。子供の出産である。シャンヤンには既に妻(リャン・Honobono2sジン)がいた。両親は早く孫が見たいとせっつくが、シャンヤンまだ早いと断り続ける。何が彼を思いとどまらせているのか。妻がシャンヤンに問う。「なぜ子供を欲しくないの?」「話し合っただろう。今は時期じゃない。」「お義父さんへの意地に思える。反抗に利用している気がして。」「そうかもしれない。父の言うことに体が拒否する。」シャンヤンは妻に頼まれて、まだ産みたくないと父を説得に行く。「もしかして僕たちは親の器じゃないのかもしれない。僕がこだわっているのはいい父親になること。その自信がつくまで子供は作れない。」

  この映画は「エデンの東」や「父 パードレ・パドローネ」のように父親と息子の葛藤を描いてきた。しかし最後まで観てきてそこには「父になること」とはどういうことなのか、「父親とはどういう存在なのか」という隠れたテーマがあることが分かる。シャンヤンになかったのは自信ではない。自分の父親に対する理解である。父親を理解して初めてシャンヤンは自分も父親になれたのである。父親を理解できたのは彼の個展を父親が見に来た時だ。父親は息子の絵を見てその紛れもない才能の開花に確信を持った。その時初めて父は息子と握手する。息子の絵はすべて家族写真を基にしたものだった。このとき初めて家族が一つになったのである。

  最後にもう一度先ほどの課題を取り上げよう。これほどわがままで意固地な父親にどうしてわれわれは共感してしまうのか。少なくとも第3部の前半までは父親に共感できない。どう見ても立派な父親とは思えない。それでも強い反感を持たずに最後まで彼の生き方をわれわれは追ってゆく。これに対する答えはこれまでにいくつか述べた。しかしそれが全てではない。まず前提として彼が文革で得た心の傷がある。文革で踏みにじられ、無理やり絶たれた自分の夢。息子には自分より優れた絵の才能がある。息子には何としても自分のような思いはさせたくない。そういう気持ちは理解できなくもない。

  だが、これだけでもない。シャンヤンになかったのは自信ではないと上で書いた。子供が生まれる前から親としての自信を持っている親などどこにいよう。子供の年齢と親の年齢は同じである。子供が産まれてはじめて人は親になるのだ。子供が6歳になった時、親も親としての経験を6年間積んだのである。親として子供と接し、子供の変化を見つめ続けて初めて親としても成長できる。だがシャンヤンの父にはこの6年間がなかった。本来同じであるはずの親子の年齢が6歳ずれていたのである。失われた6年間。文革が彼から奪ったのは画家の命である指だけではない。それは彼が親として成長するための貴重な6年間をも奪い去ったのだ。このことが持つ重い意味を考えに入れなければならない。親の気持ちは親になってみないとわからないとよく言われる。ましてや親であることを突然止められた親の気持ちは、本当にその当人でなければ分からないだろう。6年たとうが10年たとうが子供への愛情は消え去りはしない。しかし6年間の空白は子供と接する方法を彼から奪った。父親としてではなく「知らないおじさん」としてやり直さなければならなかった。「幼い頃から父の愛情を感じなかったろう。それが私には負い目だった。だから私は家に戻った時こう誓った。お前のために生きようと。世界で一番愛しているは父だと分かってほしくて。だがやり方が分かっていなかった。努力すればいいとだけ思い、間違っているとは少しも思わなかった。お前の言うとおり私は父親不合格だ。」テープに残された父の言葉は苦渋に満ちている。それは彼の奥底から絞り出した心の叫びだった。

  だが、これだけでもまだ説明として不十分だ。これらは後からつけた理屈である。父親への共感を支えた一番の力はまた別にある。この映画を基本的に支えているもの、それはスン・ハイイン演じる父親の佇まいとその存在感だ。どんなに子供をいじめても苦しめても、何かそこに深い理由があるのだと思わせてしまう。あの深みがあり、厳しくもあるが柔和でもある風貌。頑固で考えを曲げないが、ただ意固地で不愉快な存在ではない。棒で尻をたたいて折檻することはあっても、決して暴力は振るわない。どんなに厳しくてもどこか包み込むような温かさを失わない。そんな父親の姿がこの親子の葛藤を最後まで見届けさせるのである。あの寡黙さが逆に多くを「語って」いる。スン・ハイインという類まれな存在感を持った俳優がこの映画を土台で支えているといっても過言ではない。

  「知らないおじさん」としてやり直してから絆が再び結ばれるまで23年かかった。その間に風景や街並みが変わっただけではない。価値観も大きく変わっていったのである。変化についてゆける世代と変化に取り残されてゆく世代。親子の間にもともとあった世代間のギャップが社会の変化によってさらに増幅されてゆく。親子の絆は何とか取り戻せたが、父親は去ってゆく。時代の変化は胡同を消していった。枯れ木が朽ちる ようにしてではなく、枯れる前に切り倒されるようにして消えてゆく胡同。胡同が消えれば人間の付き合いも消える。胡同が消えた時、古い世代の父親も消えてゆく。父親は切り倒される前に新たな自分の人生を始めようと思い立ったのだろう。

  「胡同のひまわり」は、映画の最初と最後に出てくる出産場面のように、古い社会が消え新しい社会が生まれる様を一つの家族の変遷と並行させて描いている。最後に長々と映される老人たち。文革時代を生き抜いてきた人たちだ。シャンヤンの父親はきっとどこかでこういった老人たちに混じって生きているのだろう。彼らの一人ひとりにそれぞれのドラマがある。映画が生まれて百年余。それでも物語は尽きない。一人ひとりに物語があるからだ。

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コメント

冨田弘嗣さん TB&コメントありがとうございます。そして、明けましておめでとうございます。

「マーホー売りの女」と「宝物の椅子」はまだ観ていません。東京にいた頃は文芸座の中国映画際や三百人劇場の中国映画特集などをよく観に行っていました。でも地方に引っ込んでしまうと各種映画祭などで上映された作品などはまず観られないので残念です。DVDになっているものしか観られないのです。もっと上映作品も増えて欲しいですし、映画祭などで公開されたものはどんどんDVDを出して欲しいですね。

今年もよろしくお願いいたします。

 トラックバック、ありがとうございます。とても長い読み応えのある評論ですね。書く熱というものが伝わってきました。私も中国映画が大好きで、中国映画祭がなくなってしまったのが残念。観た中で、今でも「マーホー売りの女」「宝物の椅子」が最高傑作だと思っています。テレビも知らないような辺境、庶民を扱った中国映画をもっともっと観たいと思うのですが・・・なかなか輸入されなくなりました。どんな名作が中国には眠っているのか気になります。読ませてもらい、ありがとうございます。  冨田弘嗣

sakuraiさん TB&コメントありがとうございます。

確かに今の日本ではあれだけの頑固親父は胡同のように消えてしまいましたね。むしろ厭われる存在でしょう。ですから否定的な意見があることは不思議ではありません。

ただ、例えばチャップリンの「殺人狂時代」のように、主人公に共感することはないが、映画として優れていることはありうることです。そういうものとして僕は捉えてみようと思いました。

TBありがとうございました。
丁寧なレビューですね。
父親に関しては、かなり賛否両論あったみたいです。父親をどうしても理解出来ない、という立場と、あの父親があったからの映画。。。あたりで。
今時、あそこまで物分り悪そうな頑固な父親はあまり見ないですが、昔は普通にいたよな、と思った私は、さもありなんだったのですが、若い方々には理解しがたい存在だったようです。
父性の難しさも一緒に描いた作品だったではとも思いました。

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