グッドナイト&グッドラック
2005年 アメリカ 2006年4月公開
評価:★★★★☆
監督:ジョージ・クルーニー
脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ
撮影:ロバート・エルスウィット
出演:ジョージ・クルーニー 、デヴィッド・ストラザーン 、フランク・ランジェラ
ロバート・ダウニー・jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ
ジェフ・ダニエルズ、テイト・ドノヴァン、トム・マッカーシー、
マット・ロス
リード・ダイアモンド、ロバート・ジョン・バーク
グラント・ヘスロヴ
アレックス・ボースタイン、グレン・モーシャワー、
ダイアン・リーヴス
「私のアメリカの友人たちは憲法によって守られていた。ただ、その憲法が守られていなかった。」こう言ったのは確かブレヒトだ。もうだいぶ前に何かで読んだ不確かな記憶だが、赤狩りから逃れてアメリカを離れようとしていたベルトルト・ブレヒトが乗船前の最後のインタビューで残した言葉だったと思う。
上の言葉は「マッカーシズム」(赤狩り)の本質を言い当てている。あやふやかつ一方的な根拠で共産主義者またはそのシンパとレッテルを張られた人物を強制的に召還して、「あ なたは共産主義者か、あるいは、かつてそうであったか?」と質問攻めにする。どんなに否定してもしつこく「自白」を迫られる。自分が助かるためには誰か別の疑わしい人物の名を挙げなければならないという卑劣なやり方。何人もの人たちがこれによって職場を追われた。完全な人権無視、憲法違反である。アメリカが国是としてきた民主主義そのものの否定である。アメリカ合衆国憲法の修正第一条では信教、言論、出版、集会などの自由が規定されており(喚問された者の多くはこの修正第一条を盾にとって反論もしくは黙秘した)、修正第十四条では「いかなる州も、正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。またその管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない」と明記されている。マッカーシズムは東西冷戦が生み出したものである。当時東側も重大な人権侵害を行っていた。冷戦は東も西も不幸な状況を生み出していた。対立は悪循環を生むだけだ。
40年代末から50年代にかけて猛威を振るったマッカーシズムは反共ヒステリーといわれる状態になり、リベラルを含む反体制の人々を追放するところまで広がってゆく。当然その波はハリウッドにも及んだ。有名な「ハリウッドテン」をはじめ、何人もの映画関係者が呼び出され職を失った。日本で一番知られているのは「ジョニーは戦場へ行った」(1971)を監督したダルトン・トランボだろう。追放時代彼は変名で脚本を書き、「ローマの休日」と「黒い牡牛」(1956)でアカデミー原案賞を変名のまま受賞していたのは有名な事実である。
「黒い牡牛」は30年ほど前「日曜洋画劇場」で放送されたが、淀長さんはその辺の事情をきちんと説明していたと思う。傑作というほどの出来ではないが、感動的なラストには彼らしいヒューマンな姿勢が表れている(可愛がって育ててきた牛が闘牛場に引き出されるという、山本嘉次郎監督の「馬」を思わせるストーリー〔こちらは軍馬に取られる〕の映画だが、実は闘牛場の牛が生き延びるたった一つの条件があったのである)。査問に引き出されたのは脚本家が多い。「陽のあたる場所」、「地の塩」、「友情ある説得」、「戦場にかける橋」、「アラビアのロレンス」、「いそしぎ」、「ゲバラ!」そして「猿の惑星」の脚本家マイケル・ウィルソン、あるいは「風の遺産」の脚本家ネドリック・ヤングについて「風の遺産」のレビューで簡単に触れているので、そちらも参照していただきたい。「風の遺産」は日本未公開だが紛れもない傑作(05年にDVDが出た)。高校で進化論を教えたために裁判に訴えられたという、アメリカの歴史上有名な「スコープス裁判」を正面から描いた重厚な裁判劇である。もちろん脚本家ばかりではない。例えばチャールズ・チャップリンやジョセフ・ロージーはアメリカを離れヨーロッパに渡っている。
50年代のハリウッドを席巻したマッカーシズムを主題にした映画は「グッドナイト&グッドラック」以外にいくつかある。シドニー・ポラック監督の「追憶」(1973)、アーウィン・ウィンクラー監督の「真実の瞬間」(1991)、フランク・ダボラン監督の「マジェスティック」(2001)。しかし何といっても最高傑作はマーチン・リット監督、ウディ・アレン主演の「ザ・フロント」(1976)。こちらも日本未公開だが堂々たる傑作である。ダルトン・トランボのように赤狩りで追われて本名が出せない脚本家に名前をかした男(「表向きの存在」、これがタイトルの意味)の話だ。近いうちにこれもレビューを書きたいが、12月は中国映画強化月間なので来年になりそうだ。
さて、「グッドナイト&グッドラック」のような作品が作られると必ず出てくる意見がある。 非道なマッカーシズムに対する反論としては分かるが、公正なジャーナリズムという道からはそれるのではないか。つまりこれもまた偏った見方を放送で押し付けているというわけだ。しかし「公正な報道」とは一体どんなものか。結局当たり障りのないことを言うだけだろう。日本人は自分の意見を持つ教育を受けてこなかった。ただ暗記する、覚えることだけを教えられてきた。自分の意見を持たないから、様々な考えや意見の価値判断が出来ない。したがって判断は他人に任せてしまう。政治家やテレビのキャスターや解説者の言うことを鵜呑みにしてしまう。「公正な報道」が実際に意味しているのは、はっきり言えば、批判をしないということである。だから何度選挙をやっても自民党が勝つわけだ。そういう仕組みが出来上がっている。批判をしたり、あるいは単に意見を言っただけで、偏っている、公正ではないとみなされてしまう。日本とはそういう不思議な論理(非論理)がまかり通っている奇妙な国である。体制側の人間にとって暗記力だけが発達した人間は少しも怖くない。自分の頭で考え、自分の意見を持ち、偉い人のいうことを鵜呑みにしない人間こそ脅威である。支配者にとって日本は理想的な国なのだ。
当たり障りのないことを言うだけの報道番組では意味がない。それぞれに意見を出し合ってこそ面白い。誰が言うことが正しいのか、視聴者は判断すればいい。報道とは本来そうあるべきだ、僕はそう思う。事実は特定可能だが、真実は相対的だ。立場や利害関係や考え方によって違った「真実」がある。まるで天気予報のように、「公正な事実」のみを報道する、あるいは政府の見解ばかり報道する番組は面白くもなんともないばかりでなく危険である。報道機関が沈黙した時、恐怖政治がまかり通る。
マッカーシズムの時代はまさに報道機関が沈黙を余儀なくされ、恐怖政治がまかり通っていた時代である。しかしそんな時代に真っ向からマッカーシーに対抗したテレビ番組があった。エドワード・R・マローをキャスターとしたCBSの報道番組「シー・イット・ナウ」。「グッドナイト&グッドラック」は、空軍中尉ラドゥロヴィッチが赤狩りで除隊処分の危機にあるという新聞記事を番組で取り上げたことをきっかけに、半年にわたって権力と真っ向から対決した人々を描いている。
これほど「言葉」の重みが全面に出ている映画は少ない。論争自体が主題であり主役である。冒頭、1958年10月25日に開かれた「エドワード・R・マローを讃える会」でエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)が演説する。彼が語ったのはテレビ報道のあり方に対する警告である。「テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。」この言葉が映画全体の狙いを示している。ジョージ・クルーニーがほぼ50年もたってからあえてマッカーシズムを題材にした意味はもう明らかだろう。イラク侵略後のほとんど報道管制といってもいいような状態が念頭にあることは間違いない。今日的な問題であることを意識して観なければならない映画である。エド・マローは言論弾圧に言論で立ち向かったのである。
マローのマッカーシー批判の基本的論点を一番明確に示しているのは次の言葉である。「”反対”と”忠誠の欠如”とは違い、”疑い”は”事実”とは限らない。有罪を決めるのは証拠と適法手続きです。互いを恐れず恐怖で理性を曇らさず、この国の歴史を振り返って祖先の勇気を思い出しましょう。彼らは何も恐れず書き、そして語った。少数派の意見を守ったのです。・・・(中略)・・・伝統と歴史を捨てるなら結果に責任を持つべきです。自由世界の旗手を名乗り外国を説き回るのはいいが、自国の自由なくして他国の自由は守れません。」
「反米活動」容疑で証人喚問された人々に対する告発は、きちんとした証拠に基づいた適法な手続きを経てなされたものではないと彼は批判しているのである。つまりちゃんと証拠が挙がっていれば構わないと言っていることになる。国に対する「忠誠」という表現に注目しなければならない。彼は何度も自分は愛国者だと言っている。疑わしいとされた人物がはっきりと共産主義者またはそのシンパだという証拠が挙がれば、その人物は職も名誉も失っていいと言っている。これは明らかに不徹底である。合衆国憲法の規定は(明らかに破壊活動にかかわったのでなければ)主義主張にかかわりなく適用されるはずだ。エド・マローの言葉が彼の本心だったのか、そう言わざるを得なかったのかは分からない。いずれにしてもそれが当時放送できるぎりぎりの線だっただろう。
「愛国者」という言葉は日本においては今日的問題である。これは為政者にとっては便利な言葉である。愛国者であるかないか、中間項のない二者択一、愛国者でなければ反逆者ということになる。「反逆者」というレッテル、権力者にとって邪魔な存在を追放するにはもってこいの言葉だ。すべての国民に国家への「忠誠」を強制した時代。まさに戦前・戦中の日本と同じだ。マローは、自分は愛国者であるという最低限ぎりぎりの立脚点に立ってマッカーシーの欺瞞を追及した。
上に述べたように、マローは「根拠薄弱」という論点で反論してゆく。マローはマッカーシーにも反論の機会を与えるが、マッカーシーの反論は、マローは「市民自由連合」という反米組織と関係があるなどといつものレッテル張りに終始する。彼の根拠は「軍部からの情報」や「FBIからの情報」などばかり。マローはこれに次のように反論する。「(マッカーシーは)“市民自由連合は破壊活動団体だ”と二回言った。その発言に何の根拠もない。この団体は2人の大統領(トルーマンとアイゼンハワー)や軍高官から公式に表彰されている。」安易なレッテル張りに事実を積み上げて反論して行くマロー。常に冷静沈着。常に顔の片側をカメラに向けて斜に構えて語りかける。本番でもタバコをくわえながら出演している。
論戦を中心にすえた「グッドナイト&グッドラック」のもう一つの見所は、当時のテレビスタジオの雰囲気を忠実に再現しているところである。あえて全編白黒の画面にした意図はそこにある。あわただしく立ち回るスタッフ、放送に間に合わせるためのぎりぎりの作業、緊張した雰囲気、もうもうとタバコの煙が立ち込める室内。時々差し挟まれるスポンサーのタバコ会社やアルミニウム会社の宣伝(当時のものを使っているのでその雰囲気がよく伝わってくる)。しかし緊張ばかりでは疲れる。放送が終わった後ふうっとため息をつくようにうつむくマローの姿、何の脈絡もないがところどころ効果的に差し挟まれるダイアン・リーヴス(彼女の動く映像は初めて観た!)がジャズを歌う場面。緊張と弛緩の演出が効果的だ。
しかし、現場のリアルな再現はスタッフたちを覆っていた「恐怖感」を描きこんで初めて完結する。マッカーシズムの脅威は否応なくスタジオにも入り込んでいる。冒頭で秘密に職場内結婚をしている(当時CBS内では職場内結婚は禁じられていた)ジョー(ロバート・ダ ウニー・Jr)とシャリー(パトリシア・クラークソン)の会話が出てくる。自分は共産主義者やそのシンパではないと誓約する契約書にサインするかどうかもめているのだ。ジョーはしきりに「マローもサインした」と話す。シャーリーは「クビになれば本当のことが言えるわ」と言い捨てて立ち去る。直接的な脅しもある。空軍中尉ラドゥロヴィッチが除隊処分されようとしていることを取り上げたために、二人の空軍将校がマローとプロデューサーのフレンドリー(ジョージ・クルーニー)に面会に来る。その一人がいった言葉。「君らの行く手は危険水域だ。」忠告というよりは脅し。そして追い詰められたマローの友人ホレンベック(レイ・ワイズ)の自殺。
マロー自身も彼らを覆う恐怖を語っている。「誰一人”危険な本”を読まず、”異端の友人”を持たず、”変革”に興味がなければ、それこそマッカーシーの理想だ。この部屋すら恐怖に支配されている。」この恐怖と緊張感が極限に達するのはマッカーシーの反論にマローが再反論した放送の直後である。視聴者の反応はどうか。スタッフ全員が緊張するが、電話は全く鳴らない。そこへ「電話線をつないでいいか?」の声。つないだとたんに電話が鳴り続く。この緊張と安堵の演出もうまい。
ラスト近くで局内結婚がばれたジョーとシャーリーがうれしそうに会社を去ってゆく場面がある。エド・マロー達は論争に勝ち、やがてマッカーシーは失脚するが、「シー・イット・ナウ」からスポンサーが離れ、ゴールデンタイムから別の時間帯に移されてしまう。マローが警告したように、テレビはどんどん娯楽に流れ「単なる電子部品が詰まった箱」になって行く。そういう職場になってしまっていたから、そしてもう夫婦であることを隠す必用がないから、去ってゆく二人の顔には解放感があるわけだ。アメリカは本当に自由の国なのかという問いかけがそこにある。
「グッドナイト&グッドラック」はジョン・フランケンハイマー監督の「五月の七日間」(1963)を思わせる重厚な人間ドラマである。マローを英雄に祭り上げていないところがいい。彼は終始批判者として描かれている。それがもっとも彼にふさわしい描き方だろう。CBS出身者には二人の大監督シドニー・ルメットとジョン・フランケンハイマーがいる。ともに57年に映画界入りを果たしている。ジョン・フランケンハイマーはCBS時代に100本を超えるドラマを演出していた。シドニー・ルメットの第一回監督作品、あの有名な「十二人の怒れる男」はテレビ時代に演出した作品を映画化したものである。
「グッドナイト&グッドラック」は優れた作品ではあるが、一つ不満を言えば当時の恐怖感、生殺与奪の権を一人の人間が握っている恐怖がいまひとつ迫ってこなかったことである。ドラマであればそのぞっとするような恐怖感と不安感がもっと描きこまれるべきだったと思う。そうすれば、それを跳ね除けて自分の信念を貫いたマローたちスタッフの勇気がさらに浮かび上がっていただろう。
エド・マローを演じたデヴィッド・ストラザーンの渋い存在感は圧倒的である。調べてみると「L.A.コンフィデンシャル」、「ザ・ファーム」、「希望の街」、「パッション・フィッシュ」、「黙秘」、「サイモン・バーチ」、「ツイステッド」、「シルクウッド」、「メイトワン 1920」等々、ずいぶん彼の出演作を観ているのだが、さっぱり印象がない。この映画で初めて観た感じさえした。主演はこれが初めてなのかもしれない。いずれにせよ、これが彼の代表作になることは間違いない。「エド・マローを演じた男」が彼の代名詞になるだろう。パトリシア・クラークソンとレイ・ワイズはどこかで観たと思っていたら、前者は「エイプリルの七面鳥」でエイプリルの母親ジョーイを演じた人、後者は「ツイン・ピークス」のローラー・パーマーの父親役を演じた人だった。そしてジョージ・クルーニー。初めて彼を観た「ER 緊急救命室」ではプレイボーイの小児科医ダグを演じていたが、最近は「シリアナ」やこの「グッドナイト&グッドラック」など意外に硬派でリベラルな面を見せている。最近は俳優が監督も務めることが珍しくないが、彼の監督としての腕もかなりのものだ。当分二足のわらじを履くのだろう。今後がますます楽しみだ。
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KUMA0504さん いつもTB&コメントありがとうございます。
確かに報道関係者にとってはインパクトは大きいでしょうね。僕も今年一番とまでは思いませんが、いい映画だったと思います。ですから逆にKUMA0504さんの評価しない点がどこにあるのかが気になります。
投稿: ゴブリン | 2006年12月28日 (木) 11:27
『不偏不党』の報道などありえない、とジャーナリストの斉藤貴男氏は言っています。『白虹事件』出朝日新聞が攻撃されたときに出てきた言葉実は『不偏不党』なのです。それから急激に日本は翼賛新聞に変わっていきます。
この映画を私はあまり評価していないのですが、私の所属する映画サークルはジャーナリスト関係が多くいて、今年のナンバーワンだといっていました。彼らの本が本気でこの映画を見ていたようです。
投稿: KUMA0504 | 2006年12月28日 (木) 09:37
真紅さん いつもTB&コメントありがとうございます。
ダイアン・リーヴスは前から好きでCDも5、6枚持っているのですが、まさか映画の中で出合えるとは思っていませんでした。50年代はモダン・ジャズの最盛期。あの時代にはやはりジャズが似合います。
デヴィッド・ストラザーンは出色でしたね。どうして今まで意識しなかったのか、不思議に思いました。あの斜め向きに椅子に座った姿、今度はもう忘れないでしょう。
投稿: ゴブリン | 2006年12月28日 (木) 01:33
ゴブリンさま、TBさせていただきました。
モノクロの映像と、ジャズ・ヴォーカルが効いていましたね。
確かに、恐怖は伝わって来ませんでしたが、デヴィッド・ストラザーンの演技から報道に対する緊張感と真摯な姿勢は十分伝わって来たと思います。
ジョージ・クルーニーの手腕、素晴らしいですね。今後に期待大です。
投稿: 真紅 | 2006年12月27日 (水) 01:27