2004年 中国 2006年6月公開
評価:★★★★★
原題:可可西里
監督、脚本:ルー・チュ-アン
撮影:カオ・ユー
美術:ルー・ドン、ハン・チュンリン
出演:デュオ・ブジェ、チャン・レイ、キィ・リャン、チャオ・シュエジェン
「ココシリ」は車で眠っていた男が数人の男に捕らえられ、銃で撃たれて殺される場面から始まる。その後に入る字幕が「ココシリ」がどういう映画であるかを端的に語っている。
中国最後の秘境ココシリ、平均海抜4700m。チベットカモシカの生息地だ。1985年以来チベットカモシカの乱獲が横行し、欧米でその毛皮が売りさばかれ、わずか数年で生息数は100万頭から1万頭に激減した。1993年民間パトロール隊が組織された。隊長はチベット族の元軍人リータイ。パトロール隊と密猟者の攻防は内外のメディアに注目された。1997年隊員が任務遂行中に射殺される事件が起きた。私はその事件の取材に来た。
北京からココシリに取材に来たのはガイという若い男である。同じ東洋人だがチベット族の目には明らかによそ者だと分かるようだ。それを一番率直に表していたのは遠慮のない子供たちである。子供たちがこのよそ者に英語で話しかけるのが可笑しい。昔は日本でもそうだった。外国人を見るとアメリカ人だと思ってしまう(実際はフランス人やスウェーデン人だったかも知れないのに)。それはともかく、ここで重要なのは、同じ中国とはいっても北京とチベットでは民族も文化も歴史も違うということである。イギリス映画「ウェールズの山」を思い浮かべるといいかも知れない。ウェールズの小さな村にやってきたイングランド人の測量技師たちが最初に発した言葉は「誰か英語を話せるものはいないか?」である。同じ国の中にある「外国」。「ココシリ」には首都の大都会から来た若者が異文化の中に入り込み、その独特のものの考え方(特に死生観)や生き方を理解してゆくというサブテーマがあることを最初に理解しておくべきだろう。
ガイはココシリに着いて早速「異文化」に遭遇する。鳥葬である。「天空の草原のナンサ」のレビューでも書いたが、遺体を鳥に食べさせるという習慣は残酷な行為に思える。それは北京育ちのガイにとっても同じだった。鉈で死体を切り刻む光景を正視できず顔を背けているガイの姿が映されている。遺体を鳥に与える習慣は輪廻転生の思想と関係しているだろう。「生まれ変わり」という考え方からすれば、人間も動物も平等である。鳥葬は人間と動物が一体化するための儀式なのだろう。ル・チューアン監督も「チベット族は死を非常に平静に受け止めます。なぜなら彼らにとって、人間は必ず生き返るもの。一つの生命の終わりは、次の生命の始まりにつながるのです」と語っている。密漁者たちのボスがリータイに投げかけた「カモシカのほうが人間よりも大事なのか?」という疑問に対する答えは、この鳥葬の儀式に暗示されている。「カモシカも人間も同じように大事だ」、リータイはこう答えていたかも知れない。
鳥葬の後、ガイはマウンテン・パトロール隊の隊長リータイに取材を申し込む。リータイは最初彼を相手にせず追い払おうとする。しかしガイが「自然保護区の設置の取材に来たんです」と言うと隊長が振り返る。以前から国に保護区のことを何度も訴えていたことがこの短いエピソードから読み取れる。この点は重要なことで、後でまた触れる。
ともかく、こうしてガイはパトロール隊に受け入れられる。しかし彼がよそ者扱いされるのは子供だけではなく大人も同じだ。隊員たちと食事をしていた時、ガイが肉を切っているとナイフの方向が逆だとある隊員にチベット語で言われる。ガイはあわてて自分に向けて肉にナイフを入れる。チベット語が分かるのかと隊長に聞かれて、ガイは「父はチベット族だ」と答える。それを聞いて隊長が微笑む。この時はじめてガイは彼らに受け入れられたのだろう。それほど民族意識が強いのだ。
ここまではいわばイントロダクションである。「ココシリ」の中心をなすのは山岳パトロール隊による密猟者の追跡劇である。彼らがパトロールに出てからは、息を継ぐ間もないほどの緊張の連続。これまで味わったことのない異様なほどの迫力がある。アメリカ映画のような派手な銃撃戦もないし、巨大なビルをいくつも破壊するような大スペクタクルもない。ではいったいこの迫力はどこから生じるのか。恐らくそれは男たちの執念から来ている。追う者も追われる者も共に執念を持っている。一方には金儲けに対する執着があり、また、どんなことをしてでも生活してゆかねばならないという生への執着がある。一方には何としても祖先から伝えられた生活環境を守ろうという執念がある。執念と執念のぶつかり合い。そこからこの異様な迫力が生まれているのだ。
この映画には未知の世界への探求、あるいは対象への密着した取材というドキュメンタリーの要素と、命を懸けた執念と執念の戦い、追いつ追われつのサスペンスというドラマとしての要素が同時に盛り込まれているのである。密猟者たちもパトロールたちも銃で武装している。双方命がけの戦いである。しかしアメリカ映画のような単純なアクション映画になっていないのは、善と悪を単純に分けていないからであり、「正義」が最後に負けるからである。
ここでちょっと寄り道して、「ココシリ」と共通する特質を持った映画を次に取り上げて見たい。「エレジー」というトルコ映画である。次は「トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ②」からの引用である。
「エレジー」の見所の一つは崖の下での憲兵隊との銃撃シーンである。巨大な岩が次々に転がってくるのを避けながら双方撃ち合う場面のダイナミズムは、まさに圧巻である。特撮など一切用いず、砂煙を上げて落ちてくる本物の岩石の腹を揺るがすような地響きと威圧感を、そのまま小細工なしで映し取ったことと、 俳優たちの命懸けの演技によって、まれに見る壮絶なシーンが作り出されている。だがこの映画を真に価値あるものにしているのは、主人公の「悪党」たちに対する作者の眼である。われわれは、これらの「悪党」たちに人間性を失うギリギリのところまで追い詰められた貧しい魂を見、彼らの密輸行為の中に生活を感じてしまう。どう見ても悪党なのだが、なぜか義賊のようにも思えてくる。それでいて首にかけられた賞金のために村人たちに殺されてしまうラストシーンには、 妥協のない非情さがある。貧しい者どうしが殺し合っている。生きるためには手段を選ばないのは他の人々も同じなのだ。民衆を見る複眼的な眼はここにも生きている。「エレジー」を単なるアクション映画に終わらせていないのは、人間をとらえるこの眼の豊かさである。
「ココシリ」が山岳パトロール隊側から見た映画だとすれば、「エレジー」は密輸団側から描いた映画だと言える。生きんがために密輸に手を染める「悪党」たち。しかしどこか憎めない。彼らとて生きていかなければならない。「人間性を失うギリギリのところまで追い詰められ」、生活のために一線を越えた男たち。そこには「酔っ払った馬の時間」に描かれた、イランとイラクの国境地帯で密輸をして生活を立てている人々と重なるものがある。あるいは、「ロード・オブ・ウォー」で不時着した飛行機があっという間に村人たちによって解体され、使えるものはすべて持ち去られるシーンを思い浮かべてもいい(「骨」だけになった飛行機の残骸は「ココシリ」に出てくる骨だけになったカモシカの死骸を連想させる)。ここではむしろ虐げられた貧しい人たちの「たくましい生活力」が肯定的に描かれている。
「ココシリ」でこれに相当するのが皮剥ぎ職人たちである。密猟者のボスに雇われて殺し
たチベットカモシカ(レイヨウ)の皮を剥いでいるが、根っからの悪人ではない。彼らもまた生活のために密漁に手を貸しているのである。皮剥ぎ職人の長が語った言葉が観客の胸に重くのしかかる。「昔は放牧をしていた。羊やヤクやラクダを飼っていたんだ。草原が砂漠になってしまって家畜は死んだり手放したりで、食べるためにしかたなくこんなことをしている。」皮剥ぎ職人一家の長は温厚そうな人物である。草原が砂漠になっていなければ昔通りの生活を営んでいただろう。見渡す限りチベットカモシカの死骸が横たわっているショッキングなシーンは観る者の怒りを掻き立てるが、それを実行した職人たちは決して血も涙もない冷酷な男たちではない。だからこそやりきれないのだ。
一方、密猟者を取り締まる山岳パトロール隊の方も決して潤沢な資金を持っているわけではない。車の中でガイが隊長のリータイに質問する場面がある。ガイ「山岳隊の抱える問題は?」隊長「金もない、人手もない、銃もないことだ。隊員たちはもう1年も無給で働いている。県の組織じゃない。」「経費はどこから出てる?」「自費だ。」「没収した毛皮をどう処分している?」「上納してる。」「毛皮の一部を売って経費にしているのでは?」隊長はにらんで答えない。「毛皮を売るのだって非合法だぞ。これじゃ記事なんてとても書けない。」「だから?マスコミがココシリを守れるとでもいうのか?監獄に入っても構わん。非合法は承知の上だ。そんなことは言ってられん。そうしなければ部下とココシリを守れない。チベットへの巡礼を見たことがあるか?彼らは顔も手も汚れているが、魂は清らかだ。毛皮を売るより他に方法はないんだ。」
「チベットへの巡礼」の例えにあまり説得力はない。しかしそれ以上ガイは追求しない。なぜなら隊長の言うとおりだからだ。この会話を通じて批判されているのは隊長個人ではない。県と国なのだ。山岳パトロール隊の努力に理解を示さず、チベットカモシカが密漁で激減していることに関心を示さない県と国の責任が追及されている。この会話が意味するところはエンディングの字幕と合わせて理解されればさらによく理解できる。
ガイのリポートは中国全土を揺るがせた。生き延びた4人の隊員は毛皮を売った罪で逮捕されたが、起訴は免れた。1年後ココシリは自然保護区に制定され、森林警察が誕生し、山岳パトロール隊は解散した。現在ほとんどの国でチベットカモシカの毛皮の売買は禁止され、ココシリのチベットカモシカの生息数は3万頭に回復した。
ガイは自分が観てきたことを記事にして国と国民に訴えたのだ。国が本腰を挙げて有効な対策を取るべきだと。問題を個人の倫理のレベルに短絡させて描いていないことをしっかりとらえておく必要がある。徴収した罰金を使ったり、また毛皮を闇で売らなければならないところまで隊員たちを追い詰め、放置していた国の無責任な対応こそが追及されているのだ(中国だからそれをストレートに書いたわけではないだろうが)。しかし、隊員たちが止むに止まれずやったこととはいえ、毛皮の売買をしたことは事実だ。だからガイはそのことも報告したのだろう。だが同時に、そうせざるを得ない状況に彼らが追い込まれたのは国がココシリでの乱獲を防ぐ有効な手段を取ってこなかったからだと訴えたに違いない。ガイは事実を事実として報告はしたが、決して彼らを弾劾はしなかったはずだ。そこにどんな事情があったかは一部始終を見届けた彼が一番よく知っている。だから、隊員たちは捕らえられたが起訴はされなかったのである。彼らが私腹を肥やすために法を犯していたのでないことは明らかなのだから。
上でアメリカ映画のように「善と悪を単純に分けていない」と書いたが、パトロール隊も裏では汚いことをしていると言って密猟者と同じレベルに引き下げているわけではない。やむなく密漁に手を貸している人たちの事情をきちんと描いているという意味である。雇われている彼らと雇っているボスとをはっきり分けて描いているということだ。パトロール隊の最終的な目標は皮剥ぎ職人たちではなく、その背後にいて彼らを雇っている密猟者のボスである。しかしそのボスを捕まえれば問題が解決するというわけではない。「ココシリ」が提起した問題はもっと根深い問題だ。
彼らが追跡しているのは密猟者のボスだが、彼らが真に相手にしているのは密猟者個人ではない。パトロール隊が立ち向かっていたのは国際的な毛皮の売買という巨大なシステムである。一人のボスを捕まえてもまた別の密猟者が現われる。チベットカモシカの毛皮が商売になる限り密猟者が尽きることはない。毛皮を求める(買う)者がいて、毛皮を密猟するものがいて、その間に売りさばく商人がいる。そういった巨大なシステムと彼らは戦っているのである。もちろん彼らに出来るのはそのシステムそのものを解体することではない。彼らにはそんな力はない。彼らに出来るのは密漁の現場でぎりぎりの水際作戦を展開することだけである。衝撃的なラストが表現しているのは、豊富な資金を持つ密猟者こそがココシリを支配しているということ、資金も人手も銃も足りないボランティアだけではそれに対抗できないということである。ココシリを支配しているのは資本主義の冷徹な論理なのである。
だからこそ「自然保護区の設置の取材に」北京から来た若者を隊長は受け入れたのだ。国が動かなければ根本的な解決は図れない。「マスコミがココシリを守れるとでもいうのか?」と言いつつもマスコミに頼らなければ国や世論を動かせないのも事実である。それほど問題は根深いものなのである。その点で映画の姿勢は徹頭徹尾一貫している。問題の核心を個人の善悪のレベルにすり替えてはいない。国内でココシリを自然保護区にするだけではなく、毛皮の国際的売買を禁止するところまでこぎつけて、やっと解決に向かって大きく前進したのである。
放牧が成り立たなくなり仕方なく皮剥ぎを商売にしている貧しい農民の背後に彼らを雇っているボスがおり、その背後には国際的な取引関係がある。ぼろもうけになることがあれば、どこにでも欲得ずくの人間が群がってくる。飢えた国で食料にならない珈琲豆を作り、豊かな国の人々がそれを嗜好品として飲む、そういう関係がある。貧しい国の森林を伐採し豊かな国の人々がそれで家を建てる、あるいは、飢えた人たちが生きるために自分の血を売り、その血が豊かな国の人たちに輸血される、そういう関係がある。その点を見落としてはいけない。そこまで考えをめぐらさなければ「ココシリ」を観た意味がない。監督自身そのことをしっかり理解してこの映画を作っている。「彼らは密漁さえしていなければごく普通の農民です。貧しいがゆえに密漁に手を染めてしまったのです。特に密漁を職業にしているわけではなく、生活の糧のためにやむなく密漁をしてしまったのです。罪を負うべきは彼らではなく、密漁に彼らを追い込んだ環境が問題だ、と思うようになりました。」
密漁問題はまだ解決したわけではない。この記事を書く時に自然保護NGO組織WWFのHPを見てみた。2006年7月11日付けの記事に「チベットのチャンタン自然保護区で最近実施されたWWFの調査の結果によると、保護区での狩猟全面禁止措置にもかかわらず、密猟は減らずにいる」と書かれていた。需要がある限り密漁は続く。「わが家の犬は世界一」のレビューでも書いたように、取締りが強化されれば闇屋が跋扈するのは道理。密猟者との戦いは決して終わってはいない。まだ現在進行形なのである。
密猟者の追跡中何人もの犠牲者を出し、隊長自身も最後に殺されてしまう。パトロール隊はなぜそこまでしてチベットカモシカを守ろうとするのか。これは監督自身の疑問でもあったようだ。ルー・チュ-アン監督は「山岳パトロール隊の初代と二代目の隊長が、パトロール中に命を落としたのを知り、彼らがなぜ無償でそこまでするのかを理解するために、自分はこの映画を作った」と語っている。彼は現地の俳優と素人を使って「ココシリ」を撮った。じっくりと時間をかけて彼らと親しくなるようつとめたそうである。彼らと接し、実際にココシリで撮影をしてチベット族の文化や考え方が次第に理解できたようだ。
チベット族の文化や考え方を理解することが「ココシリ」の理解につながる。チベット族の俳優で隊長を演じたデュオ・ブジェ(実に精悍で圧倒的存在感を持った俳優だ)は「チベッ
ト族にとって、生命あるものはみんな神の子、人間もカモシカも同じなのです」とインタビューで発言している。殺された隊員の鳥葬で始まり、隊長の鳥葬で終わる。彼らにとっては人間もカモシカも一時的な現世の姿にすぎない。彼らを包む自然という大きな懐の中で彼らは生かされ、生まれ変わってゆく。人間もカモシカも自然も一体なのだ。そういう思想が人数も資金も武器も充分ではない山岳パトロール隊の活動を支えている。恐らくそういうことなのだ。資本主義社会の中で生活し、すべてを利潤や利害関係で判断・理解してしまうわれわれとは全く違った価値観がそこにある。
しかし「ココシリ」はその価値観や死生観をはっきりと言葉では表現しない。鳥葬のような儀式、黙々とチベットカモシカの骨を集め葬る行為、あるいはパトロール隊の行動そのものによって語らせる。そういう描き方こそが自然なのだろう。監督は「人との付き合い方が全く都会の人間と違います。都会の人間のコミュニケーションはまず会話ですよね。でも彼らはほとんどしゃべらない。お酒を飲み、歌を歌い、という人との付き合い方は、まるで石のよう」と語っている。
「ココシリ」が説得力を持つのは、中国の大都市に住む若者の目を通してはいるが、彼の価値観ではなくチベット族の価値観を尊重し、その行動をありのままに描いたからである。ある学者がチベットを中国最後の秘境だと言ったというエピソードをリータイ隊長が皮肉な口調でガイに話している。その皮肉な口調に注意しなければいけない。チベット族にとってココシリは秘境でもなんでもない。人跡未踏の場所でもない。彼らが実際に暮らしている生活の場なのである。一貫してそういう視点で描いていることがこの映画を価値あるものにしている。
リータイ隊長はかなり強引とも思える追跡を遂行するが、それを通じて表現していることは人間の価値よりカモシカや自然の価値が重いということではない。仲間が肺気腫になったとき、彼は最後の手段として押収したチベットカモシカの毛皮を闇で売ってまで仲間の命を救おうとした。彼は決して人間の命を軽視してはいない。追跡の途中で油が切れて動けなくなった車とそれに乗っている隊員たちを置き去りにしてゆくが、それは決して彼らを冷酷に見捨てていったわけではない。またリータイの個人的な独裁的判断でもない。追跡を続行したのは密猟者に追いつくことが可能だと判断したからだ。しかし1台しかない車に乗れる人数は限られている。動く車1台とそれに乗れる人数で追跡するのは理にかなった判断である。もちろんそこで引き返すという判断もありうるが、追跡を続行するのは隊員全員の意思だった。隊員は誰一人その決定に反対はしていない。彼ら自身も納得づくのことなのだ。仲間を信頼しているからこそ仲間を置いてゆけるのであり、仲間の更なる追跡を見送ることができるのだ。助かるか助からないかは運しだい。広大で何もない地域に足を踏み入れた段階ですでに、自然に命を預ける状況に彼らは身をおいているのである。それは出発の時に彼らの家族や恋人たちが泣きながら見送ったのと同じである。彼らを抱きしめ涙を流しながらも誰も彼らを引きとめはしない。なぜ彼らが行かなければならないかを理解しているからである。
いや、密猟者たちに対してもその態度は同じだった。途中で食料と燃料がなくなり、捕まえた密猟者のマーたちを置いてゆかざるを得なくなった。その時隊長はただ彼らを無慈悲に放り出したのではない。運がよければ300キロ先の崑崙にたどり着けると話し、去り際に「仏のご加護を」とつぶやく。その後彼らが生き抜けるかどうかは運と彼らの生命力しだいだ。生き残るためには自然に勝つしかない。それが厳しい自然に足を踏み入れた者の掟なのだ。
彼らの追跡行が熾烈だったのは密猟者との戦いだけではなく自然の厳しさとも戦わなければならなかったからである。いやむしろ「戦う」よりも「耐える」と言った方がいいのかもしれない。ココシリの自然は決して豊かではない。無防備のままでうっかり人間が足を踏み入れるべき場所ではない。平均標高が4700メートルという富士山よりも1000メートルも高い山地。森林限界をとっくに超えているから草も木もない。土と砂と岩だけの世界。容易に人間を寄せ付けない。とにかく何もないのだ。時々発射される銃の音が乾いた小さな音に聞こえる。恐らく周りに何もない広大な平原なので音が反響しないからだろう。追跡5日目にトラックが狙撃された時、銃の音は聞こえなかった。音が拡散してしまうのだ。なぜ車が急停車し、人が車から飛び降りるのか観客にはしばらく理解できない。あの聞こえない銃声、あるいは聞こえたとしてもタタタタタという乾いた小さな音しか聞こえないことが、人を飲み込んでしまいそうなこの地域の広大さを雄弁に示している。自然が厳しいからこそ、夜中にふと見上げた星空が凄絶なほど美しい。
ココシリの自然は厳しく容易に人間を寄せ付けない。だからこそ人間の強いつながりが
大切になる。ココシリを知り尽くしているつもりのパトロール隊員でも、一人で行動すれば大地に飲み込まれる。流砂に飲み込まれていったリウのように。仲間がいたら彼は助かったかもしれない。仲間同士力を寄せ合わなければ自然の中で生きてゆけない。だから、人と会ったとき彼らはまるで5年ぶりの再会であるかのように抱き合い、人と別れるときにも今生の別れのように固く抱き合う。パトロール隊が仲間と歌い踊るシーンが印象的だ。吹雪に閉じ込められた人たちが互いを抱きしめあって寒さから身を守るように、彼らは歌い踊ることで互いのぬくもりを求め合う。
一日の間にころころと天気が変わる荒々しい自然の中だからこそ人間関係が濃密なのである。追うものと追われるものの執念のぶつかり合い、それぞれに生きるための論理がありそれがぶつかり合うことによって生じる強烈なドラマ、その人間同士の戦いに自然との闘いがかぶさる。並外れた重厚なドラマである。この映画の上映時間がわずか88分だとは信じられないほどだ。「ココシリ」は陸上で展開された『白鯨』である。リータイ隊長がエイハブ船長に重なってくる。しかしこの映画は個人の執念では終わらない。結局最後に勝つのは資本主義の論理である。資本主義の論理がパトロール隊の執念をねじ伏せてゆく冷徹なドラマ。それは人間に牙を剥く荒々しい自然をも「征服」してゆく。人間の経済活動が草原を消失させ、チベットカモシカを絶滅寸前にまで追いやる。
しかし隊長の死で密猟者との戦いが終わったわけではない。最後に描かれるリータイの鳥葬の儀式は暗示的だ。チベット族の死生観のように、彼の死はガイを生まれ変わらせた。彼の書いた記事が世論を動かした。個人やボランティアの小さな集団が始めた戦いを国が引き継いだ。これによって密猟者との力関係が劇的に変わった。しかしそれでも戦いは終わっていない。撮影中にも1000頭ものチベットカモシカが殺される事態が発生したという。最後にもう一度書く。密猟者との戦いはまだ現在進行形なのである。
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