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2006年12月

2006年12月31日 (日)

ジャスミンの花開く

2004年 中国 2006年6月公開 Mado_renga_g
評価:★★★☆
原題:茉莉花開
監督:ホウ・ヨン
脚本:ホウ・ヨン、ツァン・シャン
撮影:ヤオ・シャオファン
出演:チャン・ツィイー、ジョアン・チェン、チアン・ウェン
   ルー・イー、リィウ・イェ

 長年映画を観ていると観る前から大体どんな映画か見当がついてくるものである。もちろん予想とかなり違うことも少なくないが、この映画はほぼ予想通りの映画だった。一言で言えばチャン・ツィイーの魅力をたっぷりお見せしますよという映画。チョン・ジヒョン主演の「僕の彼女を紹介します」と同じタイプ。3部構成になっているが、特に第1章ではチャン・ツィイーのかわいらしさが強調され、キャメラがなめるように彼女の体を映し出す。チャイナドレス独特のスリットからのぞく足がやけに何度も映されるのだ。確かにサービス満点。だが、かわいらしさといっても「初恋のきた道」の時の初々しさはさすがにない。かといって大人の女の色気もさほどはない。僕としてはもっと別のサービス、つまりきちんとしたドラマが見たいのだが、女優を見せるための映画だからドラマに厚みはない。チャン・ツィイーが3役、ジョアン・チェンが2役を演じてそれなりに頑張ってはいるのだが、いかんせんドラマ自体が痩せていたのでは凡庸な作品にとどまらざるを得ない。どうも全体にただ原作のストーリーを追っているだけという印象なのだ。だからドラマにあまり味わいがない。

 ドラマの設定自体は決して悪くないと思う。“ジャスミン”にあたる中国語“茉莉花”を三つに分解し、茉(モー)、莉(リー)、花(ホア)という3人の女性の名前に当てている。茉(モー)の物語は電影黄金時代だった1930年代。時代背景として日本軍の侵攻が描かれている。莉(リー)の物語は1950年代から60年代にかけて。後半は文革期に差し掛かっているようだ。花(ホア)の物語は1980年代に設定されている。監督のホウ・ヨンは「初恋の来た道」、「至福のとき」の撮影監督だった人なので、かなり色彩を意識している。茉(モー)の物語は緑、莉(リー)の物語は赤、花(ホア)の物語は青で統一している。一番視覚的に分かるのは服の色。それぞれのヒロインが着る服の色がはっきり色分けされている。ややこしい構成なので最初に分かりやすく各章の登場人物をまとめておこう。

第1章 1930年代
  母(ジョアン・チェン)、茉(チャン・ツィイー)、茉の愛人(チアン・ウェン)
第2章 1950年代から60年代
 茉(ジョアン・チェン)、莉(チャン・ツィイー)、莉の夫(ルー・イー)
第3章 1980年代
 茉(ジョアン・チェン)、花(チャン・ツィイー)、花の夫(リィウ・イェ)

 ほぼ50年にわたる女系家族の物語だが、ユダヤ人一族を3世代にわたって描いたイシュトヴァン・サボー監督「太陽の雫」のような雄大さは感じない。なぜなら歴史的背景が文字通り「背景」にとどまっており、物語の展開にほとんど絡んでいないからである。第1章の茉(モー)の物語に出てくる日本軍の侵攻は、茉のパトロンである映画会社社長(チアン・ウェン)が会社を放り出して香港に脱出するきっかけに使われているに過ぎない。第2章では莉(リー)の夫が共産党員だったために、莉やかつて映画スターになり損ねた母茉(モー)の「ブルジョア意識」が強調される程度。むしろ子供が埋めない莉の苦悩と姑の嫁いびりが強調されている。第3章では上海の現代的な生活が強調されているが、展開されるのはやはり夫との関係である。つまり歴史は背景に退き、女3代の結婚をめぐるドラマが展開されている。第1章も第2章もその間に何年か時間が経過しているはずだが、さっぱり時間の流れが感じられない。

  歴史が退いた代わりに「運」が強調される。娘が母親似だと言われて茉(モー)が言った「私に似てる?だったら運なんていいもんですか」という言葉が象徴的に使われている。生まれたての莉の額にあるあざを見て茉の母(ジョアン・チェン)は「縁起がいい印だ」と言うが、結局莉は不妊症を苦にして自殺してしまう。では何が「運」を左右しているか。男とのめぐり合わせである。第1章で茉はパトロンの社長に逃げられ捨てられた形になる。彼女の母は愛人を作るが、その愛人が茉に手を出したので、母親は自殺してしまう。第2章では不妊のせいで精神に異常をきたした莉に追い詰められ夫が自殺、莉もあとを追うように自殺(?)する。第3章では離れて暮らす花の夫が浮気して、結局離婚。花は雨の中道端で子供を出産する。

  3人の女(茉の母も含めると4人)は皆男とうまくいかない。人が簡単に死んでゆく。それなのにさっぱり葛藤は描かれない。莉の母で花の祖母(花は養子だが)にあたる茉が娘と孫に「男はね、よく選ばないとダメなのよ。安売りしちゃダメよ」とか「子供は軽々しく産むものじゃないわ。私はそのために一生を誤ったんだから」などと意見をするが、彼女自身スターの卵だった若い頃をいつまでも忘れられない女性である。死ぬ時まで自分の写真が表紙を飾った映画雑誌や映画会社の社長にもらったジャスミンの香水瓶を離さない。娘や孫が家に連れてくる恋人をかつて自分があこがれていた映画スターの名前で呼ぶ。どこか現実離れしている。だから娘にも孫にも彼女の言葉は説得力を持たない。常に母と娘(孫)だけの片親家族、言い換えれば常に父親不在である。娘はいつも浅はかで軽はずみな結婚をしてしまう。莉の夫は真面目な人物だから、必ずしも男運が悪いというわけではない。女の方にも原因があり、様々な要因に流されて不幸な道をたどる。不幸が堂々巡りしている。なんだか誰が振っても同じ目しか出ないいんちきサイコロを振っているようで、説得力に欠ける。ドラマとして緊張感がなく、苦悩も通り一遍である。

 ただ、最後まで悲惨なわけではない。第3部の花も離婚や祖母の死を経験するが、自力で子供を出産した彼女は実家の写真館を出て新しい時代を象徴する高層マンションに移る。土砂降りの中で生まれた娘(また娘だ!)も元気に育っている。ここにわずかな希望が描かれている。ホウ・ヨン監督も「幼かった女性がだんだんと成熟していくという過程を〔原題の〕“開”に込めています」とかたっている。確かに映画スターを夢見た世間知らずの茉や、気が強くて後先のことを考えずに行動する莉に比べると、花は落ち着いた聡明そうな感じの娘である(その象徴としてメガネをかけている)。しかし、彼女の幸福を保証するものは何もない。時代が変わって女性が生きてゆく条件はよくなっただろうが、だからといって高層マンションに引っ越せば幸せになれるわけでもないだろう。あるのは漠然とした希望だけである。何が女性の、あるいは家族の幸福を支えるのかをもっと描かなければ、また「運」に流されるだけである。

 母・祖母役のジョアン・チェンはさすがにうまい。ただドラマそのものに厚みがないので彼女を充分活かしきれてはいない。実家の写真館は建物としても重厚感があって、映画の中でひときわ「存在」を主張していた。時代の変化によって装いを変えている(一時1階を葬儀屋に貸していた)。文革の時代から名前を「紅旗写真館」に変えているところは芸が細かい。その時々に映される家族写真も味わい深い。ラストで花が見る家族の幻想よりもこの歴代の写真を次々に映し出す方が効果的だったのではないかと思った。

ユナイテッド93

2006年 英米 2006年8月公開
評価:★★★☆
原題:UNITED 93
監督・製作・脚本:ポール・グリーングラス
脚本:ポール・グリーングラス
撮影:バリー・アクロイド
出演:コーリイ・ジョンソン 、デニー・ディロン、タラ・ヒューゴ 、サイモン・ポーランド
    デヴィッド・ラッシュ、ハリド・アブダラ、ポリー・アダムス、オパル・アラディン

 「アメリカ、家族のいる風景」のレビューを書いたとき、その時点ではまだ観ていなかった「ワールド・トレード・センター」と「ユナイテッド93」について次のように書いた。「限定された状況をどのように描いたか気になる。現場の混乱や緊張感に焦点を絞ればサスペンスや臨場感は盛り上がるが、その分広い社会的視野がスクリーンの外に追いやられる。単なるサスペンス映画、アクション映画に終わっていなければいいが。」結論から言えば「ユナイテッド93」は懸念したとおりの作品だった。

  純粋にサスペンス映画として観れば、結構よくできている。テロリストたちの点描、ごく普通の空港の様子から始まり、予定より30分以上も離陸が遅れている間に、他の2機の飛行機がワールド・トレード・センターに激突、さらにはペンタゴンにも1機が墜落、一方でハイジャックの可能性に気づいた管制塔や軍は必死で情報を集めようとするが事態を掴みきれず大混乱に陥っている。ようやく離陸したユナイテッド航空93便では乗客たちが新聞を広げ、携帯をかけ、食事をしている。やがて爆弾を手に持ったテロリストたちが93便をハイジャックする・・・。

  非常にリアリティのあるドキュメンタリー・タッチで、ハラハラしながら画面に見入ることにDeep_blue_moon3_1 なる。管制センターの巨大スクリーンにはもう何度も見慣れたあの黒煙を上げるワールド・トレード・センターが映し出されている。管制官や軍の関係者たちはあわただしく走り回り、モニター画面を見つめて何度も大声で呼びかけ、緊張した面持ちで打ち合わせをしている。電話を掛けまくり、舌打ちをし、命令を発し、また電話をかける。同時間に数千機もの飛行機が飛んでいて全体を把握しきれないあせり。膨大な量の情報が入ってきていながら肝心なことがつかめない焦燥感。軍との連絡もうまく取れない。軍は軍で戦闘機を飛ばそうにも手配に手間取る。攻撃許可を得ようとしても、判断を下す肝心な高官たちがつかまらない。誰もが混乱していた。映画の特に前半までのドキュメンタリー・タッチの生々しさはかなりの出来ばえである。前編をほぼリアルタイムで描いたことも迫真性を盛り上げる上で効果的だった。また、有名俳優を一人も使わなかったことも功を奏している。特定の人物を英雄的視するのではなく、その場の状況全体に眼を向けられるからである(同時に安上がりでもあるが)。

  しかしこれだけ現場に密着していながら、いや密着しているがゆえに、大状況が何も見えてこない。テロリストが祈りを上げている場面から始まるが、何故に彼らがこのような行動に打って出たのか、なぜかくも多くの一般人が犠牲にならなければならなかったのか、それこそ肝心なことは何も語られない。ただ行動とその推移だけが臨場感たっぷりに映し出される。9・11テロはアメリカばかりかその後の世界情勢を大きく変えてしまった。アフガン、イラクと続いたアメリカのテロ報復攻撃。それに追随したイギリスを始めとする多くの国々。政治面ばかりではない。映画の分野でも昨年から今年にかけて9・11後を反映したシリアスな作品が多数公開された。その中で「ワールド・トレード・センター」(こちらは未見)と「ユナイテッド93」は9・11そのものを描いたという点でユニークな存在である。しかしあれから5年もたつというのに単なる再現ドラマを作るというのはどういうことか。もちろんあの日起こったことは忘れてはならないことである。いや、忘れようにもあの信じがたい映像は今でも眼に焼きついている。だが、9・11を描くのなら、なぜアメリカがそれほどまで憎まれるのかというそれ以前の状況についても、さらには、アフガン、イラク侵攻と続いたその後の状況と混乱も視野に入れるべきだろう。

  犠牲者への鎮魂という意味はあったかもしれない。しかし製作側の意図が何であったにせよ、結果的にはむしろテロへの反撃を助長する映画になっているという見方すら可能である。あの日93便の中で何が起こっていたのか。今となっては誰にも分からない(戦闘機に撃墜されたという説もある)。生存者は一人もいなかった。当然映画の後半は想像である。ドキュメンタリーを観ているようなリアリティは後半薄れる。代わって別のリアリティが現われてくる。想像によって作られたドラマの迫真性である。前半のドキュメンタリーは後半になってドラマに変わる。乗客がテロリストたちに襲いかかるあたりが一番作り物めいている。そのドラマが描いたのは何か。テロリストに対する乗客の反撃である。いつの間にか気づかないうちに典型的なアメリカ映画になってしまっている。この映画が批判したのはいたずらに混乱するばかりで的確に事態を把握できないテロ対応体制の不十分さである。「93便が墜落して4分後に、ハイジャックされたということが判明した」という最後の字幕がそれを示している。テロは許されるべきではないし、それへの充分な対策も必要だ。しかしテロへの反撃と対応策を強調するだけならアフガンやイラクへの侵略行為を追認することになる。

 もちろん、この映画が犠牲者をだしにして単なる娯楽映画を作ったとまで言うつもりはない。理不尽なテロにあったときに、自衛のために反撃する権利は誰にでもある。当然誰もが生き延びようとしただろう。しかし大状況が一切描かれていないために、9・11後の文脈においてみると上記の様な観方が可能になってしまうのである。優れた演出力を示していただけに、現場の臨場感作りに終始したことが惜しまれる。

映画レビュー以外の記事一覧

  映画レビューとそれ以外の記事をはっきり分けることにしました。映画レビューは「映画レビュー一覧 あ~さ行」、「映画レビュー一覧 た~わ行」に収め、80年代までの映画については、また別に「名作の森(日本映画)」、「名作の森(外国映画)」に掲載しています。映画レビュー以外は「映画レビュー以外の記事一覧」として独立させました。
 なお、2007年の10月に別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」を作りました。それ以降に書いた写真日記は一部の記事を除きそちらのブログにのみ掲載しております。 

 

【エッセイ・日記・その他】
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浅間サンライン脇道探索 ワイナリー「ヴィラデスト」
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喫茶店考
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映画レビュー一覧 あ~さ行
映画レビュー一覧 た~わ行
鹿教湯の五台橋を撮る
壁紙を作りました
神川探索
韓国てくてく旅行記①
韓国てくてく旅行記②
韓国旅行に行ってきました
完成間近のリンドウ橋を撮る
心に残る言葉 その1:吉田ルイ子
心に残る言葉 その2:富野由悠季
心に残る言葉 その3:トレヴェニアン、その他
心に残る言葉 その4 豊かさとは何か?
「五十音順記事一覧」の作り方
「小林いと子人形展」を見てきた
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小諸探索① 布引渓谷~布引観音
小諸探索② 大久保橋~「茶房読書の森」再訪~大杭橋
小諸の懐古園へ行く
コレクター人生
最近聞いたCDから
最近CDを買いまくっています
茶房「読書の森」へ行く
産川探索 その1 鞍が淵を撮る
産川探索 その2 沢山湖へ行く
塩田の文教地区を歩く
塩野神社の神橋
私家版 Who’s Who その1 江口のりこ
私家版 Who’s Who その2 ソン・ガンホ
私家版 Who’s Who その3 クリント・イーストウッド
私家版 Who’s Who その4 エイミー・グラント
私家版Who's Who その5 マギー・スミス
シセルとディー・ディー・ブリッジウォーターに酔う
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しばらく北海道に行ってきます
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正月に読んだ本(2006年)
正月は読書三昧(2007年)
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イギリス小説を読む イントロダクション:小説を読む楽しみ
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イギリス小説を読む②『高慢と偏見』
イギリス小説を読む③『ジェーン・エア』
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イギリス小説を読む⑧イギリスとファンタジーの伝統
イギリス小説を読む⑨『土曜の夜と日曜の朝』
イギリス小説を読む⑩『大いなる遺産』
イギリス小説を読む⑪『日陰者ジュード』
イギリス小説を読む⑫『闇の奥』
お気に入り写真集 1
お気に入り写真集 2
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先月観た映画(10年8~12月)
先月観た映画(11年1月)
先月観た映画(11年2月)
先月観た映画 採点表(11年3月~7月)
先月観た映画 採点表(11年8月)
先月観た映画 採点表(11年9月)
先月観た映画 採点表(11年10月)
先月観た映画 採点表(11年11月)
先月観た映画 採点表(11年12月)
先月観た映画 採点表(12年1月)
先月観た映画 採点表(12年2月)
先月観た映画 採点表(12年3月)
先月観た映画 採点表(12年4月)
先月観た映画 採点表(12年5月)
先月観た映画 採点表(12年6月)
先月観た映画 採点表(12年7月)
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先月観た映画 採点表(13年6月)
先月観た映画 採点表(13年7月)
「それでもボクはやってない」を観てきました
「第28回 うえだ城下町映画祭」案内
ただいま「山猫」のレビューを準備中
近頃日本映画が元気だ
「父親たちの星条旗」を観ました
「中国の植物学者の娘たち」を観ました
「長江哀歌」を観ました
DVDを出してほしい映画
DVDを出してほしい映画 その2
ドイツ映画ベスト100
「トゥヤーの結婚」を観ました
「トランシルヴァニア」を観ました
「ドリームガールズ」を観てきました
トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ①
トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ②
2005年公開外国映画の概況
2005年DVD/ビデオ マイ総合ランク
2005年公開映画マイ・ベストテン
2006年公開映画を振り返って
2006年公開映画マイ・ベストテン
2006年に公開された主な日本映画
2006年に公開された主な外国映画
2007年公開映画マイ・ベストテン
2007年に観た主な映画
2008年公開映画マイ・ベストテン
2008年主要公開作品
2009年に観た映画 マイ・ベスト50
2008年に観た主な映画
2010年に観た映画 マイ・ベスト50
2011年に観た映画 マイ・ベスト50
2012年に観た映画 マイ・ベスト60
2013年に観た映画 マイ・ベスト50
2014年に観た映画 マイ・ベスト60
2015年に観た映画 マイ・ベスト65
2016年に観た映画 マイ・ベスト65
2017年に観た映画 マイ・ベスト70
2018年に観た映画 マイ・ベスト65
2019年に観た映画 マイ・ベスト50
2020年に観た映画 マイ・ベスト100
2021年に観たテレビ番組 国別マイ・ベスト
2021年に観た映画 マイ・ベスト① 新作編
2021年に観た映画 マイ・ベスト② 旧作編
2021年に観た映画 マイ・ベスト③ 俳優編
2022年に観た映画 マイ・ベスト① 新作編
2022年に観た映画 マイ・ベスト② 旧作編
2022年に観た映画 マイ・ベスト③ 俳優編
2023年に観た映画 マイベスト① 新作編(2021年以降)
2023年に観た映画 マイベスト② 旧作編(2020年まで)
2023年に観た映画 マイ・ベスト③ 俳優編
2000年代 (2000-2009) 外国映画 マイ・ベスト200
「母たちの村」を観ました
「春にして君を想う」を観ました
「パンズ・ラビリンス」を観ました
BFI 14歳までに見ておくべき映画トップ50
BFIおよびEmpire誌選定イギリス映画ベスト100
BBC選定外国語映画ベスト100
漂流するアメリカの家族
「ヒロシマナガサキ」を観ました
「ファミリー」を観ました
「武士の一分」を観てきました 
「プルートで朝食を」を観ました
「ブロークン・フラワーズ」を観ました
年末から06年新春にかけて出る注目すべきDVD
変貌著しい世界の映画
便利フリーソフト「映画日記」紹介
細田守監督のアニメ「サマーウォーズ」が話題に
HPに「ソ連/ロシア映画作品年表」を掲載
ポール・ニューマン追悼
「迷子の警察音楽隊」を観ました

「マッチポイント」を観ました
「ミス・ポター」と「天然コケッコー」を観てきました
「ミリキタニの猫」を観ました
「麦の穂をゆらす風」を観ました

「夕凪の街 桜の国」を観てきました
ユーリ・ノルシュテイン作品集
4つ星半以上をつけた映画一覧
「ラストゲーム 最後の早慶戦」と「ザ・マジックアワー」を観ました

朗報!ケン・ローチ監督の中期傑作群がついにDVD化
「六ヶ所村ラプソディー」の上映会に行ってきました
「ONCE ダブリンの街角で」を観ました
 

記事別年間アクセス数ベスト20

 「年間」といってもココログでアクセス解析機能が使えるようになったのは今年の6月からなので、正確には集計が始まった5月からの8ヶ月分です。リストを見てもらえば一目瞭然ですが、一番の特徴は上位を日本映画が占めていることです。ベスト5のうち4本、ベスト10のうち6本が日本映画です。その下のベスト20までの10本には3本が入っています。特に「武士の一分」にいたっては12月16日に記事を載せたばかりですから、わずか半月で17位に入ってきています。ついでに言えば、その6日後の12月22日掲載の「ナイロビの蜂」が次点に入っているのも驚きです。

 アクセス数は記事の内容とはあまり関係なく、むしろ人気度や話題性の反映ですから、それだけ日本映画が注目されていたということでしょう。映画のレビューだけに絞れば「父と暮らせば」がベスト10に入ってきますので、その場合はベスト10圏内に日本映画が7本も入っていることになります。2006年は日本映画が映画ファンの間で完全に定着した年だと言えそうです。

 もう一つの顕著な特徴は「イギリス小説を読む」シリーズがいくつか上位に食い込んでいることです。8月と12月に増えていますから、恐らくどこかの英文科でレポート課題が出ているのでしょう。内容はまったくの雑文ですから大して参考にはならなかったと思いますが。「ズール戦争」も間違いなくレポートがらみでしょう。どなたか来年あたり「ゴブリンとは何か?」というレポート出していただけませんかねえ。

 それから人によってはトップページではなく、特定の記事のページをブックマークしている可能性があります(僕自身かつて経験があります)。その場合、僕のブログに入る度にその記事にアクセスすることになりますので、それで上位に来ているものもありそうです。たとえば、″驚異的な″「ロング・セラー」である「ミリオンダラー・ベイビー」(05年11月22日掲載)と「ヒトラー最期の12日間」(06年2月5日)はその可能性があります。2本ともかなり力を入れて書いたレビューなので、長く読まれているのはそのせいだと自分では思いたいのですが、恐らく上記の理由によるものと推察されます。

 個人的にうれしいのは「拝啓天皇陛下様」が16位に入っていること。あまりブログで取り上げられない映画だけに逆に集中したと思われます。過去の優れた作品を継続的に取り上げてゆくことは大事だと思います。僕ぐらいの世代がブログ人口の中で占める割合は少ないでしょうから、過去の名作を取り上げるのはむしろ義務だと考えるべきでしょう。新作に追われてなかなか古い映画を観る機会がないのですが、手元に1000本近いDVDコレクションがあるので、来年からは折を見て「~強化月間」を設けようと思います。ちなみに、今月は「中国映画強化月間」でしたが、あれこれ浮気してしまいましたので来年の1月まで延長します。日本映画(小津安二郎、黒澤明、溝口健二、今井正、木下恵介、成瀬巳喜男などの個人月間も含めて)を始め、やりたい企画は山ほどあります。取り上げられるのは月にせいぜい数本でしょうが無理しない範囲で頑張ってみたいと思っています。

 来年もまたよろしくお願いいたします。

■アクセス数ベスト20(5月1日~12月30日)
1  ALWAYS三丁目の夕日
2  フラガール
3  嫌われ松子の一生
4  イギリス小説を読む『ジェイン・エア』
5  博士の愛した数式
6  カーテンコール
7  プライドと偏見
8  ヒトラー最期の12日間
9  イギリス小説を読む「キーワーズ」
10 かもめ食堂 Dec0302
11 ミリオンダラー・ベイビー
12 父と暮らせば
13 旅するジーンズと16歳の夏
14 ランド・オブ・プレンティ
15 天空の草原のナンサ
16 拝啓天皇陛下様
17 武士の一分
18 イギリス小説を読む『高慢と偏見』
19 ズール戦争
20 スタンドアップ
次点 ナイロビの蜂

2006年12月29日 (金)

歌え!ロレッタ愛のために

1980年 アメリカ 1981年6月 Yuhi
評価:★★★★★
原題:Coal Miner's Daughter
監督:マイケル・アプテッド
製作:バーナード・シュワルツ
原案:ロレッタ・リン、ジョージ・ヴェクシー
脚本:トム・リックマン
撮影:ラルフ・ボード
音楽:オーエン・ブラッドレー
出演:シシー・スペイセク、トミー・リー・ジョーンズ、ビヴァリー・ダンジェロ
   レヴォン・ヘルム、フィリス・ボーエン

  期待をはるかに上回る傑作。最初は短評で扱うつもりだったが、あまりに素晴らしいのでやや短めのレビューに変えた。観ている間ずっとこれはいい映画だと感じ続けていた。迷わず満点を献上。シシー・スペイセクが全曲自分で歌っている。文句なしに素晴らしい。「ビヨンドtheシー」をはるかに上回る出来である。シシー・スペイセクも「リトル・ヴォイス」のジェイン・ホロックスより魅力的だ。ロレッタと夫ドゥーの、波乱を含みながらも決して切れることのなかった絆の描き方も感動的。ドゥーを演じたトミー・リー・ジョーンズはさすがに若いが、やはり存在感のあるうまい俳優だと思った。13歳から恐らく20代後半あたりまでを演じ分けたシシー・スペイセクはそれを上回る出来(13歳を演じて特に違和感を感じさせないところがいかにもシシー・スペイセクらしい)。アカデミー主演女優賞は当然過ぎるほどの結果である。最近の「スタンドアップ」でもいい演技をしていたが、主演級の作品が少ないのがさびしい。さすがに年を取ったし、美人女優ではないからだろう。出演作品で見る限り彼女の絶頂期は80年代である。しかし1949年生まれだからまだ50代半ば。これだけ才能のある女優に90年代以降十分な活躍の場を与えていないとは何たることか。不器用で突出した演技力があるわけでもない笠智衆という無骨な素材からその独特の持ち味を最大限に引き出し、自分の作品になくてはならない存在に出来たのは小津安二郎だけだったように、シシー・スペイセクの魅力と才能を最大限に引き出せたのはこの作品だけだったように思う。惜しいことだ。

  「歌え!ロレッタ愛のために」はカントリー・アンド・ウェスタンの大歌手で、シンガー・ソングライターでもあるロレッタ・リンの伝記映画である。原作はロレッタ・リンとジョージ・ベクシーによるリンの自伝。大歌手といっても日本ではカントリー・ミュージックはあまり人気がないのでなじみのない人かもしれない。ディクシー・チックスやリアン・ライムスが大好きな僕でもさすがにこの時代の曲は滅多に聞かない。しかしこの映画を観て、この時代のカントリーも悪くないと思った。

  「炭鉱夫の娘」という原題どおり、冒頭は炭鉱町とそこに住む炭鉱夫一家の様子が丁寧に描かれる。ケンタッキー州の炭鉱町ブッチャー・ホラー。ロレッタ (シシー・スペイセク)は炭抗夫の父テッド(レヴォン・ヘルム、こんな前から映画に出てたんだ!)、母クララ(フィリス・ボーエンズ)の長女。下に弟と妹が7人もいるという総勢10人の大家族。もうすぐ14歳になる13歳のロレッタは家族に愛され特に不自由も不満もなく暮らしている。しかし炭鉱以外には何もない町だ。酒の密売をしている男がドゥーに言った「ドゥー、山で生まれたら道は3つだぜ。石炭を掘るか、酒を売るか、山を下りるかだ」という言葉がそれをよく表現している。

  「五線譜のラブレター」や「ビヨンドtheシー」などと比べて特徴的なのは、ショービジネス界の華やかさよりむしろ無名の主婦歌手を売り込む段階に時間を割き、ツアーの過酷さ(ロレッタは過労で倒れ一時休業する)をしっかり描いていることである。そして何より感銘深いのは、彼女が6人もの子供を抱える主婦であり炭鉱夫の娘であることを終始意識させていることである。舞台で歌っているシシー・スペイセクはもちろん素晴らしい。しかしこの映画は終始一貫彼女を華やかなスターとして描かなかった。これは賞賛に値する。この映画がドラマとして優れているのはそのためだ。

  ロレッタはドゥーことドゥーリトル(トミー・リー・ジョーンズ)の性急さもあって13歳で結婚する。なにしろドゥーはいきなりロレッタの家に乗り込み、初めて正式に挨拶するロレッタの両親に向って明日ロレッタと結婚させてくれと頼み込むのだ。母親に聞くと「夫に聞いて」と言われ、父親に聞くと「妻に聞いてくれ」と言われ、何度もたらいまわしにされる。このあたりはドゥーの性格Wedd001 がよく出ていて面白い。しかし結婚はしたものの料理は下手、セックスを怖がる(13歳だから無理もない)ですぐ夫婦仲は悪くなる。ドゥーは一人ワシントン州の牧場で働きに行くことになり、妊娠していたロレッタは後から行くことになる。ロレッタがワシントン州へ向う時の、父と駅で抱き合う場面がいい。「いつの間にか大きくなった。昔のお前はもういない。」「次に会うときは母親だな。」列車での別れはお決まりのパターンだが、無口で純朴な父親の優しさと寂しさが伝わってきて実に感動的だ。父親は死に際に娘や孫たちに会うことはなかった(はっきり描かれていないが、ひょっとしたら一度もその後会っていなかったのかも知れない)。結婚を許可した時の言葉、「2つだけ約束しろ。決して殴らず、遠いところへは連れてくな」をこのシーンに重ねてみると、死ぬ前に「娘と会いたかった」と何度も漏らしていたという父のさびしい気持ちが痛いほど伝わってくる。

  駅のすぐ次の場面がまたうまい。いきなり数年時間が飛んでいて、料理をしているロレッタの横に子供がいる。さらにキャメラがパンするとまた子供がいる。こんな風に子供が一人ずつ画面に映り、結局4人もいることが分かる(ロレッタはまだ18歳)。おいおいこんなにいるのかとびっくりさせる演出がうまい。大家族の家系なのだ(この後さらに双子を産んでいる!!)。

  炭鉱関連のエピソードとして、もう一つ駅の場面で印象的なシーンがある。汽車を待っている間身重のロレッタは体重計に乗って体重を計る。その後父にも乗れというが、父は「ムダだよ、どこまでが私でどこまでが石炭粉か分からん」と答える。「フラガール」で引用した『ジェルミナール』の一節を連想させられる。炭鉱の仕事は人体を蝕む。父親は常々頭痛がすると言っていた。炭鉱夫の娘を意識させる場面は他にもある。妻が華々しく活躍する陰で荒れて酒びたりになった夫ドゥーのせりふ、「頭が痛いだろ?お父さんの頭痛の原因は石炭粉だった。君には俺だな。」そしてラストシーン、復帰後の舞台で歌う歌。そのタイトルは「炭鉱夫の娘」だった。

 素晴らしいのはシシー・スペイセクばかりではない。夫役のトミー・リー・ジョーンズの存在が大きい。この2人は浮気をしたりけんかをしたりしながらも最後まで互いを支えあった、そういう描き方が素晴らしい。ドゥーの破天荒な性格を彼はよく演じている。例えば最初に彼が登場する場面。軍を除隊したばかりのドゥーがジープでボタ山のような丘の急な坂を登りきれるかどうか賭けをして、見事に勝ってしまうのだ。周りの連中は「クレイジーだ」とあきれている。ロレッタはそれまで会ったことのないタイプのドゥーに惹かれてしまう。

 普通の主婦がカントリー歌手になるきっかけもいい。誕生日のプレゼントにドゥーがギターを買ってくるのだ。「なぜギターなの?」「君の歌が好きだから。」実にシンプルでいいせりふだ。その後の売込みがすごい。2人で車に乗って次々にラジオ放送局に直接乗り込んで売り込む。このあたりの無鉄砲さが笑いを生んでいいリズムを作っている。音楽業界のことをよく知っているような口を利きながら、デモ版として作ったI'm a Honky-Tonk Girlがいきなりチャートの14位に入ったと言われてドゥーはぽかんとしている。チャートのことを知らなかったのだ。抜かりがないようでいて案外すっとぼけたところがある、そんな描き方が可笑しい。

 売れ始めてからは順風満帆な展開。あまりに順調なので憧れのグランド・オプリで歌うことになったときにロレッタが緊張してしまう。「恐いわ、下積みの苦労をしていないから」と漏らすロレッタにドゥーが言ったのは一言「後でしろ」。この大舞台を乗り切るともう恐いものはない。ついには当時一番人気のパッツィ・クライン(ビバリー・ダンジェロ)と知り合い、ジョイントでツアーに出るまでになる。しかし妻が売れて行けば行くほどマネージャー役のドゥーの存在感が薄れ、彼は酒におぼれて荒れてゆく。しかし彼は自分で立ち直った。上に引用した「俺はお前の頭痛の種だ」というせりふの後に、ドゥーはロレッタに結婚以来彼女の夢だった指輪を贈った。

 崩れそうで崩れない2人の関係。父が死んで落ち込むロレッタを支えたのも、ツアーの過密スケジュールと緊張で倒れた彼女を支えたのもドゥーだった。喧嘩もするけどすぐ仲直り。ラストでドゥーがロレッタを車に乗せて景色のいい丘の上に連れてゆく。そこに新しい家を建てようとドゥーが提案する。すでにヒモで仕切って部屋割りも出来ている。ロレッタは怒り出す。「何でも自分ひとりで勝手に決めないでよ。」こんな山の中に家を建てるなんて冗談じゃないと怒っているのかと思ったら、「寝室がこっち向きでは朝日がまぶしいじゃないの」とのご指摘。尚もああだこうだと言いながら車に戻ってゆく。そんな夫婦なのだ。

[追記]
 ロレッタ・リン(ロレッタは女優のロレッタ・ヤングから取った名前)の最盛期は60年代。70年代に活躍したタニヤ・タッカーやドリー・パートンのひとつ前の世代である。炭鉱夫の娘という出自も関係していると思うが、彼女は60年代のウーマン・リブ運動のシンボルでもあった。カントリーという地味なジャンルではあるが、当時のカリスマ女性ヴォーカリストであったジャニス・ジョプリンや「ジェファーソン・エアプレイン」のグレース・スリックとはまた違った意味で影響力を持っていた。歌手としてはパッツィ・クラインの方が上だったかもしれないが、作詞作曲の能力を持っていた点がロレッタの強みである。

2006年12月28日 (木)

胡同のひまわり

2005年 中国 2006年7月公開 Ataiwan075
評価:★★★★★
原題:向日葵
監督、脚本:チャン・ヤン
脚本:ツァイ・シャンチュン、フォ・シン
撮影:ジョン・リン
音楽:リン・ハイ
出演:スン・ハイイン、ジョアン・チェン、リウ・ツーフォン
    チャン・ファン、ガオ・グー、ワン・ハイディ、チャン・ユエ
    リャン・ジン、リー・ビン

  こういう中国映画が観たかった。「上海家族」(2002、ポン・シャオレン監督)、「こころの湯」(1999、チャン・ヤン監督)、「山の郵便配達」(1999、フォ・ジェンチイ監督)、「スパイシー・ラブスープ」(1998、チャン・ヤン監督)、「活きる」(1994、チャン・イーモウ監督)、「女人、四十」(1995、アン・ホイ監督)、「青い凧」(1993、ティエン・チュアンチュアン監督)、「心の香り」(1992、スン・チョウ監督)、「芙蓉鎮」(1987、シェ・チン監督)。庶民の苦しみ、哀しみ、温かさ、ささやかな幸せ、親子や夫婦や家族の絆と情。こういったテーマを扱って、中国映画は数々の傑作を生み出してきた。ここにもう一つの傑作が加わったことを素直に喜びたい。

  「胡同のひまわり」にはいくつも主題がある。親子の絆、庶民同士の付き合い、文革の傷痕、30年の時間の移り変わり。主人公もシャンヤン(向陽)とその父の2人いる。恐らくそのどちらの立場にたって映画を観るかで印象が大きく異なるのではないか。子供の立場から観ればほとんど耐え難い映画である。遊びたい盛りに遊ぶこと禁じられ、得意ではあるが決して好きではない絵を描くことを強要される。妥協のない父親には(特に同じような経験を持っている人なら)憎しみすら感じるだろう。しかし父親にそってみれば、なぜあそこまで妥協なく厳しくするのか疑問を感じながらも、どういうわけか最後まで引き付けられて観てしまう。つまり、最終的な主人公は父親であって、映画も息子から父親へと視点を変えて描かれているのである。息子は厳しいだけの父親に反発しつつも、彼を見つめながら成長してゆく存在として描かれている。

  なぜ父親はシャンヤンに対してあのように厳しく接したのだろうか。この映画を観ることはこの疑問を解いてゆくことでもある。映画の冒頭、一組の夫婦に赤ん坊が生まれる。夫婦は向日葵のように太陽に向かって生長してほしいという願いを込めて息子に向陽(シャンヤン)という名前を付けた。こうして67年に張向陽は生まれた。映画はすぐそのあと76年に飛ぶ。9歳になったシャンヤン(チャン・ファン)は元気一杯遊びまわっている。余談だが、子供の遊びの中に僕が小学生の頃やったのと全く同じ遊びが出てきてびっくりした。確か僕の田舎では「馬乗り」遊びといっていたと思うが、一人が壁際に立ち、別の子がその立っている子の股に首を突っ込むようにしてかがむ。その後ろにまた別の子が前の子の股の間に頭を入れてかがむ。こうして何人かで「馬」を作り、また別の子が走ってきて跳び箱のように「馬」に飛び乗ってまたがる。上に乗った子たちが体をゆすり、「馬」が崩れたら「馬」の負け。確かそんな遊びだったと思う。映画の中と全く同じだ。あれは中国から来た遊びなのか?あるいはその逆?いずれにしても、何十年かぶりに思い出してとても懐かしかった。

  思い出に浸るのはこれくらいにしておこう。シャンヤンは友達と2人で屋根に上り、パチンコで小石を人に向けて飛ばすいたずらをしている。怒った女の子たちが立ち去った後、知らない大人が通りかかる。もう一度シャンヤンが小石を飛ばすとその男の人の額に当たった。男の人が怒ってこぶしを振り上げると、二人は屋根を降りて逃げる。しかし今度は石をぶつけられた女の子に告げ口されて、シャンヤンは母親(ジョアン・チェン)に追いかけられることになる。狭い通路(胡同)を走り回る母と子。映画はそのようにして映画のもう一つの「主人公」である胡同と四合院を紹介してゆく。

  その時はまだ知らなかったが、シャンヤンが石をぶつけた見知らぬ大人の人は、文革で下方され6年ぶりに帰ってきたシャンヤンの父親だった。6年ぶりということはシャンヤンがまだ3歳の頃に父親がいなくなったことになる。当然父親の記憶はない。シャンヤンの母は夫の突然の帰還を喜ぶが、シャンヤンにすれば突然現われた「知らないおじさん」を父親と呼ばされることになる。

  この出会いがそもそも不幸だった。父親(スン・ハイイン)になじめないシャンヤンの気持ちも理解できる。しかしシャンヤンに絵の才能があると見抜いた父はその日から一切の遊びを禁じ、絵の勉強をシャンヤンに強いる。父親も画家だったが、強制労働の最中に利き腕の親指を折られて絵が描けなくなっていた。自分の夢を息子に投影した父親は厳しく絵を仕込む。その厳しさは異常なほどだ。毎日毎日ひたすら絵を描かせる。時々トイレに行くと言って脱走していたことに気づくと、トイレにも行かせない。ついにシャンヤンはパンツに大便をもらしてしまう。たらいで自分のパンツを洗えという父の命令をシャンヤンは拒否する。木の枝で尻をたたかれたシャンヤンは泣き叫ぶ。「嫌いだ、何で戻ったの?」「嫌うがいい。」

  シャンヤンの不満はつのる。友だちから映画に誘われても絵を描き終らないと行けない。父親が寝込んだ隙に脱走するが、映画は丁度終わるところだった。自分も手が使えなくなれば絵を描かなくて済むと思ってミシンの針で指を傷つけようとしたり、四人組打倒のデモ行進のときにたまたま足元に飛んできた爆竹の不発弾を爆発するまで握っていたりする。その思いつめた行動が何とも哀れで不憫だ(爆竹の時は皮肉にも級友を守ったとして表彰されることになるが)。

  時代が87年に変わり、シャンヤンが20歳になっても父親の「過剰干渉」は続く。シャンHimawari ヤン(ガオ・グー)は、スケート場で年賀状を売ってアルバイトしている時に赤いマフラーを巻いたスケートのうまい女の子(チャン・ユエ)に見とれる。2人は恋人同士になり、シャンヤンの友だちと共に広州へ行こうとするが、直前に父親によって汽車から引き摺り下ろされてしまう。その女の子が妊娠して戻ってきた時には、父親が駅で出迎えて勝手に子供を堕ろさせてしまう。ほとんど暴君のごとき父親の強引なやり方に親子関係は冷え切っている。このあたりまでは観客の共感は当然ながら息子に向けられる。

 なぜそこまでするのか?寡黙な父親はほとんど語らないが、一度だけ心情を息子に語りかけたことがある。「恨んでるだろ。私の息子だから厳しくする。理解できんだろう。しかし、いつか分かるはずだ。私も幼くして絵を始めたが時代が悪かった。私の人生はそうだが、お前は違う。私より才能がある。それに時代も違う。お前はきっと成功する。チャンスは少ない。私の分までお前には頑張ってもらいたい。」息子は神妙に聞いているが当然完全には納得していない。

  これだけひどい行為を描きながら観客は父親を憎みきるところまでは行かない。それは息子も同じで父親とはつかず離れずの関係を保っている。なぜなら、親子の関係が完全には断ち切れていないからだ。父親の理不尽とも思える行為の合間に親子愛を感じさせるシーンがちりばめられている。一つは地震が起きた時のシーン(シャンヤンが9歳の時)。父親に尻をたたかれてふてくされたシャンヤンは屋根に上って隠れている。その時マグニチュード7.5の地震が起きた。家が崩れそうになる。下にいた父親が俺に向って飛び降りろと叫び、飛び降りたシャンヤンを父はしっかりと受け止めた。もう一つは2人で仲良く川で洗濯している時のシーン(同じく9歳の時)。洗濯物が風に飛ばされて川に堕ちて流されるのに気づいた父が川を下って拾いに行く。目が覚めたシャンヤンは父がいないので「父さん」と呼ぶ。初めて「父さん」と呼んだのだ。それを木陰でうれしそうに聞いている父の顔。印象的なシーンである。

  もう一つ、シャンヤンが20歳の時にも印象的なシーンがある。恋人が勝手に堕胎させられたと知ったシャンヤンは父親に親子の縁を切ると宣言して家を飛び出す。スケート場になっていた凍った池の上で、逃げる息子と追う父のレースが始まる。その時半分融けていた池に父親が落ちてしまう。助けるか見殺しにするか、息子は身をよじって煩悶する。結局彼は手を差し伸べた。親子の縁はどうしても断ち切れない。父親の思いと息子の思い。互いにすれ違いながらも接点だけはなくならない。この描き方が父親から観客の関心を引き離さないのだ(父親が息子に送ったパラパラ絵〔ノートをパラパラめくると絵が動いているように見えるやつ〕の使い方も効果的だ)。

  これまでかなり詳しく具体的に内容を書いてきた。なぜなら、これほどわがままで意固地な父親にどうしてわれわれは共感してしまうのか、この映画を深く理解するにはそれを解き明かさなければならないと思うからである。上にその理由の一つを書いたが、さらには恐らくこのあとの第3部、シャンヤンが32歳になった1999年のエピソードが与える印象が大きいと思われる。ラストで流れる父親の残したテープは感動的で、そのため観終わった後の印象を大きく支配してしまう。残されたテープの声というのは実に効果的で、チャン・イーモウ監督の「至福のとき」やイザベル・コヘット監督の「死ぬまでにしたい10のこと」でも使われていた。

  第3部に入る前に少し角度を変えて別の面を見ておこう。シャンヤンが20歳の第2部の最後の頃からアパートの問題が出てくる。シャンヤンの母が何としてもアパートに入居できるくじに当たりたいと必死になる。このあたりから夫婦の間にも軋みが目立ち始める。胡同にこだわる夫と新しい便利な生活にあこがれる妻。この対比の中からも父親像が浮かび上がってくる。付け届けをするなど、どんな手を使ってでもアパートに入りたいという妻に対して、夫はただおとなしく順番を待つだけ。かつての友人ラオ(リュウ・ツー・フォン)が見かねて当選して得た自分の権利を譲ろうと申し出ても断ってしまう。実直で不正を嫌う父親の性格がわかる。第3部はこの夫婦が離婚届を出しているところから始まる。実はアパートに入居しやすくするための偽装離婚だった。妻の提案だろう。夫は胡同に住み続ける。彼はどうしても胡同から離れがたかったのだ。

  99年になると北京の町には近代的な高層ビルが立ち並んでいる。32歳になった息子のシャンヤン(ワン・ハイディ)も今や車に乗っている(父親はずっと自転車だ)。消え行く胡同とどんどん存在が小さくなってゆく父親。この二つがパラレルな関係として描かれてゆく。昔のように息子を怒鳴ってはいるが、もう息子は独り立ちして父親の指示には従わない。父親にはどこか憂愁と寂寥感が漂い始めている。この第3部に入るあたりから観客の気持ちは一気に父親に向う。打ち壊され廃墟になった昔の家に独りたたずむ父親の姿が何度も映される。一方、妻は運動をして生活を楽しんでいる。同じ世代だがなぜこれほど夫婦の間に違いがあるのか。性別や性格の違いもあるだろう。しかしやはり文革時代に6年間も下放させられた夫の苦い経験がここで大きな違いとなって表れてきていると考えるべきだろう。

  父親の孤独感をもっとも感じさせるエピソードは友人だったリウの死である。実は父親が下放させられた原因はリウにあった。わざと売ったのではないが、結果としてそうなってしまった。それが分かってからリウとは一度も声を掛け合っていない。しかし憎みあっていたわけではない。互いに口こそきかないが、2人は同じ将棋版で将棋を交互に指していたのである。しかしある日リウを訪ねると彼はソファの上で死んでいた。友の遺体を前にしたシャンヤンの父の言葉が胸に沁みる。「いいかね、あと1手であんたは負けていた。こうなると知ってれば、詰まない手を指したのに。今となっては私は一人ぼっちだ。誰も将棋を指してくれない。友よ、お互いに苦しんだな。私が仲直りのきっかけを作らせなかった。できれば”待った”をしたい。」片手で顔を覆って泣く姿には、かつて息子にむごいとも思える仕打ちを強いていた暴君の勢いはない。がくんと落とした肩に寂しさがにじんでいる。こうして消え行く胡同のように、かつてあった近所同士の付き合いも絶えて行く。

  第3部では新しい問題が描かれる。子供の出産である。シャンヤンには既に妻(リャン・Honobono2sジン)がいた。両親は早く孫が見たいとせっつくが、シャンヤンまだ早いと断り続ける。何が彼を思いとどまらせているのか。妻がシャンヤンに問う。「なぜ子供を欲しくないの?」「話し合っただろう。今は時期じゃない。」「お義父さんへの意地に思える。反抗に利用している気がして。」「そうかもしれない。父の言うことに体が拒否する。」シャンヤンは妻に頼まれて、まだ産みたくないと父を説得に行く。「もしかして僕たちは親の器じゃないのかもしれない。僕がこだわっているのはいい父親になること。その自信がつくまで子供は作れない。」

  この映画は「エデンの東」や「父 パードレ・パドローネ」のように父親と息子の葛藤を描いてきた。しかし最後まで観てきてそこには「父になること」とはどういうことなのか、「父親とはどういう存在なのか」という隠れたテーマがあることが分かる。シャンヤンになかったのは自信ではない。自分の父親に対する理解である。父親を理解して初めてシャンヤンは自分も父親になれたのである。父親を理解できたのは彼の個展を父親が見に来た時だ。父親は息子の絵を見てその紛れもない才能の開花に確信を持った。その時初めて父は息子と握手する。息子の絵はすべて家族写真を基にしたものだった。このとき初めて家族が一つになったのである。

  最後にもう一度先ほどの課題を取り上げよう。これほどわがままで意固地な父親にどうしてわれわれは共感してしまうのか。少なくとも第3部の前半までは父親に共感できない。どう見ても立派な父親とは思えない。それでも強い反感を持たずに最後まで彼の生き方をわれわれは追ってゆく。これに対する答えはこれまでにいくつか述べた。しかしそれが全てではない。まず前提として彼が文革で得た心の傷がある。文革で踏みにじられ、無理やり絶たれた自分の夢。息子には自分より優れた絵の才能がある。息子には何としても自分のような思いはさせたくない。そういう気持ちは理解できなくもない。

  だが、これだけでもない。シャンヤンになかったのは自信ではないと上で書いた。子供が生まれる前から親としての自信を持っている親などどこにいよう。子供の年齢と親の年齢は同じである。子供が産まれてはじめて人は親になるのだ。子供が6歳になった時、親も親としての経験を6年間積んだのである。親として子供と接し、子供の変化を見つめ続けて初めて親としても成長できる。だがシャンヤンの父にはこの6年間がなかった。本来同じであるはずの親子の年齢が6歳ずれていたのである。失われた6年間。文革が彼から奪ったのは画家の命である指だけではない。それは彼が親として成長するための貴重な6年間をも奪い去ったのだ。このことが持つ重い意味を考えに入れなければならない。親の気持ちは親になってみないとわからないとよく言われる。ましてや親であることを突然止められた親の気持ちは、本当にその当人でなければ分からないだろう。6年たとうが10年たとうが子供への愛情は消え去りはしない。しかし6年間の空白は子供と接する方法を彼から奪った。父親としてではなく「知らないおじさん」としてやり直さなければならなかった。「幼い頃から父の愛情を感じなかったろう。それが私には負い目だった。だから私は家に戻った時こう誓った。お前のために生きようと。世界で一番愛しているは父だと分かってほしくて。だがやり方が分かっていなかった。努力すればいいとだけ思い、間違っているとは少しも思わなかった。お前の言うとおり私は父親不合格だ。」テープに残された父の言葉は苦渋に満ちている。それは彼の奥底から絞り出した心の叫びだった。

  だが、これだけでもまだ説明として不十分だ。これらは後からつけた理屈である。父親への共感を支えた一番の力はまた別にある。この映画を基本的に支えているもの、それはスン・ハイイン演じる父親の佇まいとその存在感だ。どんなに子供をいじめても苦しめても、何かそこに深い理由があるのだと思わせてしまう。あの深みがあり、厳しくもあるが柔和でもある風貌。頑固で考えを曲げないが、ただ意固地で不愉快な存在ではない。棒で尻をたたいて折檻することはあっても、決して暴力は振るわない。どんなに厳しくてもどこか包み込むような温かさを失わない。そんな父親の姿がこの親子の葛藤を最後まで見届けさせるのである。あの寡黙さが逆に多くを「語って」いる。スン・ハイインという類まれな存在感を持った俳優がこの映画を土台で支えているといっても過言ではない。

  「知らないおじさん」としてやり直してから絆が再び結ばれるまで23年かかった。その間に風景や街並みが変わっただけではない。価値観も大きく変わっていったのである。変化についてゆける世代と変化に取り残されてゆく世代。親子の間にもともとあった世代間のギャップが社会の変化によってさらに増幅されてゆく。親子の絆は何とか取り戻せたが、父親は去ってゆく。時代の変化は胡同を消していった。枯れ木が朽ちる ようにしてではなく、枯れる前に切り倒されるようにして消えてゆく胡同。胡同が消えれば人間の付き合いも消える。胡同が消えた時、古い世代の父親も消えてゆく。父親は切り倒される前に新たな自分の人生を始めようと思い立ったのだろう。

  「胡同のひまわり」は、映画の最初と最後に出てくる出産場面のように、古い社会が消え新しい社会が生まれる様を一つの家族の変遷と並行させて描いている。最後に長々と映される老人たち。文革時代を生き抜いてきた人たちだ。シャンヤンの父親はきっとどこかでこういった老人たちに混じって生きているのだろう。彼らの一人ひとりにそれぞれのドラマがある。映画が生まれて百年余。それでも物語は尽きない。一人ひとりに物語があるからだ。

2006年12月26日 (火)

グッドナイト&グッドラック

2005年 アメリカ 2006年4月公開
評価:★★★★☆
監督:ジョージ・クルーニー
脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ
撮影:ロバート・エルスウィット
出演:ジョージ・クルーニー 、デヴィッド・ストラザーン 、フランク・ランジェラ
    ロバート・ダウニー・jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ
    ジェフ・ダニエルズ、テイト・ドノヴァン、トム・マッカーシー、 マット・ロス
    リード・ダイアモンド、ロバート・ジョン・バーク グラント・ヘスロヴ
   アレックス・ボースタイン、グレン・モーシャワー、 ダイアン・リーヴス

  「私のアメリカの友人たちは憲法によって守られていた。ただ、その憲法が守られていなかった。」こう言ったのは確かブレヒトだ。もうだいぶ前に何かで読んだ不確かな記憶だが、赤狩りから逃れてアメリカを離れようとしていたベルトルト・ブレヒトが乗船前の最後のインタビューで残した言葉だったと思う。

  上の言葉は「マッカーシズム」(赤狩り)の本質を言い当てている。あやふやかつ一方的な根拠で共産主義者またはそのシンパとレッテルを張られた人物を強制的に召還して、「あCyoudai3_ なたは共産主義者か、あるいは、かつてそうであったか?」と質問攻めにする。どんなに否定してもしつこく「自白」を迫られる。自分が助かるためには誰か別の疑わしい人物の名を挙げなければならないという卑劣なやり方。何人もの人たちがこれによって職場を追われた。完全な人権無視、憲法違反である。アメリカが国是としてきた民主主義そのものの否定である。アメリカ合衆国憲法の修正第一条では信教、言論、出版、集会などの自由が規定されており(喚問された者の多くはこの修正第一条を盾にとって反論もしくは黙秘した)、修正第十四条では「いかなる州も、正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。またその管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない」と明記されている。マッカーシズムは東西冷戦が生み出したものである。当時東側も重大な人権侵害を行っていた。冷戦は東も西も不幸な状況を生み出していた。対立は悪循環を生むだけだ。

  40年代末から50年代にかけて猛威を振るったマッカーシズムは反共ヒステリーといわれる状態になり、リベラルを含む反体制の人々を追放するところまで広がってゆく。当然その波はハリウッドにも及んだ。有名な「ハリウッドテン」をはじめ、何人もの映画関係者が呼び出され職を失った。日本で一番知られているのは「ジョニーは戦場へ行った」(1971)を監督したダルトン・トランボだろう。追放時代彼は変名で脚本を書き、「ローマの休日」と「黒い牡牛」(1956)でアカデミー原案賞を変名のまま受賞していたのは有名な事実である。

  「黒い牡牛」は30年ほど前「日曜洋画劇場」で放送されたが、淀長さんはその辺の事情をきちんと説明していたと思う。傑作というほどの出来ではないが、感動的なラストには彼らしいヒューマンな姿勢が表れている(可愛がって育ててきた牛が闘牛場に引き出されるという、山本嘉次郎監督の「馬」を思わせるストーリー〔こちらは軍馬に取られる〕の映画だが、実は闘牛場の牛が生き延びるたった一つの条件があったのである)。査問に引き出されたのは脚本家が多い。「陽のあたる場所」、「地の塩」、「友情ある説得」、「戦場にかける橋」、「アラビアのロレンス」、「いそしぎ」、「ゲバラ!」そして「猿の惑星」の脚本家マイケル・ウィルソン、あるいは「風の遺産」の脚本家ネドリック・ヤングについて「風の遺産」のレビューで簡単に触れているので、そちらも参照していただきたい。「風の遺産」は日本未公開だが紛れもない傑作(05年にDVDが出た)。高校で進化論を教えたために裁判に訴えられたという、アメリカの歴史上有名な「スコープス裁判」を正面から描いた重厚な裁判劇である。もちろん脚本家ばかりではない。例えばチャールズ・チャップリンやジョセフ・ロージーはアメリカを離れヨーロッパに渡っている。

  50年代のハリウッドを席巻したマッカーシズムを主題にした映画は「グッドナイト&グッドラック」以外にいくつかある。シドニー・ポラック監督の「追憶」(1973)、アーウィン・ウィンクラー監督の「真実の瞬間」(1991)、フランク・ダボラン監督の「マジェスティック」(2001)。しかし何といっても最高傑作はマーチン・リット監督、ウディ・アレン主演の「ザ・フロント」(1976)。こちらも日本未公開だが堂々たる傑作である。ダルトン・トランボのように赤狩りで追われて本名が出せない脚本家に名前をかした男(「表向きの存在」、これがタイトルの意味)の話だ。近いうちにこれもレビューを書きたいが、12月は中国映画強化月間なので来年になりそうだ。

  さて、「グッドナイト&グッドラック」のような作品が作られると必ず出てくる意見がある。To 非道なマッカーシズムに対する反論としては分かるが、公正なジャーナリズムという道からはそれるのではないか。つまりこれもまた偏った見方を放送で押し付けているというわけだ。しかし「公正な報道」とは一体どんなものか。結局当たり障りのないことを言うだけだろう。日本人は自分の意見を持つ教育を受けてこなかった。ただ暗記する、覚えることだけを教えられてきた。自分の意見を持たないから、様々な考えや意見の価値判断が出来ない。したがって判断は他人に任せてしまう。政治家やテレビのキャスターや解説者の言うことを鵜呑みにしてしまう。「公正な報道」が実際に意味しているのは、はっきり言えば、批判をしないということである。だから何度選挙をやっても自民党が勝つわけだ。そういう仕組みが出来上がっている。批判をしたり、あるいは単に意見を言っただけで、偏っている、公正ではないとみなされてしまう。日本とはそういう不思議な論理(非論理)がまかり通っている奇妙な国である。体制側の人間にとって暗記力だけが発達した人間は少しも怖くない。自分の頭で考え、自分の意見を持ち、偉い人のいうことを鵜呑みにしない人間こそ脅威である。支配者にとって日本は理想的な国なのだ。

  当たり障りのないことを言うだけの報道番組では意味がない。それぞれに意見を出し合ってこそ面白い。誰が言うことが正しいのか、視聴者は判断すればいい。報道とは本来そうあるべきだ、僕はそう思う。事実は特定可能だが、真実は相対的だ。立場や利害関係や考え方によって違った「真実」がある。まるで天気予報のように、「公正な事実」のみを報道する、あるいは政府の見解ばかり報道する番組は面白くもなんともないばかりでなく危険である。報道機関が沈黙した時、恐怖政治がまかり通る。

  マッカーシズムの時代はまさに報道機関が沈黙を余儀なくされ、恐怖政治がまかり通っていた時代である。しかしそんな時代に真っ向からマッカーシーに対抗したテレビ番組があった。エドワード・R・マローをキャスターとしたCBSの報道番組「シー・イット・ナウ」。「グッドナイト&グッドラック」は、空軍中尉ラドゥロヴィッチが赤狩りで除隊処分の危機にあるという新聞記事を番組で取り上げたことをきっかけに、半年にわたって権力と真っ向から対決した人々を描いている。

  これほど「言葉」の重みが全面に出ている映画は少ない。論争自体が主題であり主役である。冒頭、1958年10月25日に開かれた「エドワード・R・マローを讃える会」でエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)が演説する。彼が語ったのはテレビ報道のあり方に対する警告である。「テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。」この言葉が映画全体の狙いを示している。ジョージ・クルーニーがほぼ50年もたってからあえてマッカーシズムを題材にした意味はもう明らかだろう。イラク侵略後のほとんど報道管制といってもいいような状態が念頭にあることは間違いない。今日的な問題であることを意識して観なければならない映画である。エド・マローは言論弾圧に言論で立ち向かったのである。

  マローのマッカーシー批判の基本的論点を一番明確に示しているのは次の言葉である。「”反対”と”忠誠の欠如”とは違い、”疑い”は”事実”とは限らない。有罪を決めるのは証拠と適法手続きです。互いを恐れず恐怖で理性を曇らさず、この国の歴史を振り返って祖先の勇気を思い出しましょう。彼らは何も恐れず書き、そして語った。少数派の意見を守ったのです。・・・(中略)・・・伝統と歴史を捨てるなら結果に責任を持つべきです。自由世界の旗手を名乗り外国を説き回るのはいいが、自国の自由なくして他国の自由は守れません。」

  「反米活動」容疑で証人喚問された人々に対する告発は、きちんとした証拠に基づいた適法な手続きを経てなされたものではないと彼は批判しているのである。つまりちゃんと証拠が挙がっていれば構わないと言っていることになる。国に対する「忠誠」という表現に注目しなければならない。彼は何度も自分は愛国者だと言っている。疑わしいとされた人物がはっきりと共産主義者またはそのシンパだという証拠が挙がれば、その人物は職も名誉も失っていいと言っている。これは明らかに不徹底である。合衆国憲法の規定は(明らかに破壊活動にかかわったのでなければ)主義主張にかかわりなく適用されるはずだ。エド・マローの言葉が彼の本心だったのか、そう言わざるを得なかったのかは分からない。いずれにしてもそれが当時放送できるぎりぎりの線だっただろう。

  「愛国者」という言葉は日本においては今日的問題である。これは為政者にとっては便利な言葉である。愛国者であるかないか、中間項のない二者択一、愛国者でなければ反逆者ということになる。「反逆者」というレッテル、権力者にとって邪魔な存在を追放するにはもってこいの言葉だ。すべての国民に国家への「忠誠」を強制した時代。まさに戦前・戦中の日本と同じだ。マローは、自分は愛国者であるという最低限ぎりぎりの立脚点に立ってマッカーシーの欺瞞を追及した。

  上に述べたように、マローは「根拠薄弱」という論点で反論してゆく。マローはマッカーシーにも反論の機会を与えるが、マッカーシーの反論は、マローは「市民自由連合」という反米組織と関係があるなどといつものレッテル張りに終始する。彼の根拠は「軍部からの情報」や「FBIからの情報」などばかり。マローはこれに次のように反論する。「(マッカーシーは)“市民自由連合は破壊活動団体だ”と二回言った。その発言に何の根拠もない。この団体は2人の大統領(トルーマンとアイゼンハワー)や軍高官から公式に表彰されている。」安易なレッテル張りに事実を積み上げて反論して行くマロー。常に冷静沈着。常に顔の片側をカメラに向けて斜に構えて語りかける。本番でもタバコをくわえながら出演している。

  論戦を中心にすえた「グッドナイト&グッドラック」のもう一つの見所は、当時のテレビスタジオの雰囲気を忠実に再現しているところである。あえて全編白黒の画面にした意図はそこにある。あわただしく立ち回るスタッフ、放送に間に合わせるためのぎりぎりの作業、緊張した雰囲気、もうもうとタバコの煙が立ち込める室内。時々差し挟まれるスポンサーのタバコ会社やアルミニウム会社の宣伝(当時のものを使っているのでその雰囲気がよく伝わってくる)。しかし緊張ばかりでは疲れる。放送が終わった後ふうっとため息をつくようにうつむくマローの姿、何の脈絡もないがところどころ効果的に差し挟まれるダイアン・リーヴス(彼女の動く映像は初めて観た!)がジャズを歌う場面。緊張と弛緩の演出が効果的だ。

  しかし、現場のリアルな再現はスタッフたちを覆っていた「恐怖感」を描きこんで初めて完結する。マッカーシズムの脅威は否応なくスタジオにも入り込んでいる。冒頭で秘密に職場内結婚をしている(当時CBS内では職場内結婚は禁じられていた)ジョー(ロバート・ダKaidan_1 ウニー・Jr)とシャリー(パトリシア・クラークソン)の会話が出てくる。自分は共産主義者やそのシンパではないと誓約する契約書にサインするかどうかもめているのだ。ジョーはしきりに「マローもサインした」と話す。シャーリーは「クビになれば本当のことが言えるわ」と言い捨てて立ち去る。直接的な脅しもある。空軍中尉ラドゥロヴィッチが除隊処分されようとしていることを取り上げたために、二人の空軍将校がマローとプロデューサーのフレンドリー(ジョージ・クルーニー)に面会に来る。その一人がいった言葉。「君らの行く手は危険水域だ。」忠告というよりは脅し。そして追い詰められたマローの友人ホレンベック(レイ・ワイズ)の自殺。

  マロー自身も彼らを覆う恐怖を語っている。「誰一人”危険な本”を読まず、”異端の友人”を持たず、”変革”に興味がなければ、それこそマッカーシーの理想だ。この部屋すら恐怖に支配されている。」この恐怖と緊張感が極限に達するのはマッカーシーの反論にマローが再反論した放送の直後である。視聴者の反応はどうか。スタッフ全員が緊張するが、電話は全く鳴らない。そこへ「電話線をつないでいいか?」の声。つないだとたんに電話が鳴り続く。この緊張と安堵の演出もうまい。

  ラスト近くで局内結婚がばれたジョーとシャーリーがうれしそうに会社を去ってゆく場面がある。エド・マロー達は論争に勝ち、やがてマッカーシーは失脚するが、「シー・イット・ナウ」からスポンサーが離れ、ゴールデンタイムから別の時間帯に移されてしまう。マローが警告したように、テレビはどんどん娯楽に流れ「単なる電子部品が詰まった箱」になって行く。そういう職場になってしまっていたから、そしてもう夫婦であることを隠す必用がないから、去ってゆく二人の顔には解放感があるわけだ。アメリカは本当に自由の国なのかという問いかけがそこにある。

  「グッドナイト&グッドラック」はジョン・フランケンハイマー監督の「五月の七日間」(1963)を思わせる重厚な人間ドラマである。マローを英雄に祭り上げていないところがいい。彼は終始批判者として描かれている。それがもっとも彼にふさわしい描き方だろう。CBS出身者には二人の大監督シドニー・ルメットとジョン・フランケンハイマーがいる。ともに57年に映画界入りを果たしている。ジョン・フランケンハイマーはCBS時代に100本を超えるドラマを演出していた。シドニー・ルメットの第一回監督作品、あの有名な「十二人の怒れる男」はテレビ時代に演出した作品を映画化したものである。

  「グッドナイト&グッドラック」は優れた作品ではあるが、一つ不満を言えば当時の恐怖感、生殺与奪の権を一人の人間が握っている恐怖がいまひとつ迫ってこなかったことである。ドラマであればそのぞっとするような恐怖感と不安感がもっと描きこまれるべきだったと思う。そうすれば、それを跳ね除けて自分の信念を貫いたマローたちスタッフの勇気がさらに浮かび上がっていただろう。

  エド・マローを演じたデヴィッド・ストラザーンの渋い存在感は圧倒的である。調べてみると「L.A.コンフィデンシャル」、「ザ・ファーム」、「希望の街」、「パッション・フィッシュ」、「黙秘」、「サイモン・バーチ」、「ツイステッド」、「シルクウッド」、「メイトワン 1920」等々、ずいぶん彼の出演作を観ているのだが、さっぱり印象がない。この映画で初めて観た感じさえした。主演はこれが初めてなのかもしれない。いずれにせよ、これが彼の代表作になることは間違いない。「エド・マローを演じた男」が彼の代名詞になるだろう。パトリシア・クラークソンとレイ・ワイズはどこかで観たと思っていたら、前者は「エイプリルの七面鳥」でエイプリルの母親ジョーイを演じた人、後者は「ツイン・ピークス」のローラー・パーマーの父親役を演じた人だった。そしてジョージ・クルーニー。初めて彼を観た「ER 緊急救命室」ではプレイボーイの小児科医ダグを演じていたが、最近は「シリアナ」やこの「グッドナイト&グッドラック」など意外に硬派でリベラルな面を見せている。最近は俳優が監督も務めることが珍しくないが、彼の監督としての腕もかなりのものだ。当分二足のわらじを履くのだろう。今後がますます楽しみだ。

2006年12月24日 (日)

寄せ集め映画短評集 その15

 

  11月に入院して以来だいぶ力を抜いてブログに接しています。レビューの本数を減らす代わりに映画を観る数を増やしました。ただせっかく観たのだから何も書かない手はない、ということで一旦終わらせた「寄せ集め映画短評集」シリーズを復活させることにしました。

「ヘイフラワーとキルトシュー」(2002年 フィンランド)
2005年10月公開
評価:★★★★
監督:カイサ・ラスティモ
脚本:カイサ・ラスティモ、マルコ・ラウハラ
撮影:ツオモ・ヴィルタネン
出演:カトリーナ・タヴィ、ティルダ・キアンレト、アンティ・ヴィルマヴィルタ
   ミンナ・スローネン、メルヤ・ラリヴァーラ、パイヴィ・アコンペルト
   ロベルト・エンケル、ヘイキ・サンカリ

  イギリス映画「ポビーとディンガン」と同じ子供を主人公にした映画。子供が主人公なのでファンタジー的な要素を持っているのは共通するが、「ポビーとディンガン」の方がよりリアリスティックであり、「ヘイフラワーとキルトシュー」はどちらかというとコメディ調である。小生意気で気分屋の子供に周りが振り回されるという意味では、スウェーデンの「ロッタちゃん」シリーズにむしろ近いと言ったほうがいいかも知れない。
  この映画の魅力はなんといっても二人の子役のかわいらしさである。思いっきりわがまSdang409_2 まな妹のキルトシュー、もうじき学校に上がるので妹の面倒を誰が見るのか心配しているしっかり者の姉ヘイフラワー。両親もユニークだ。毎日ジャガイモの研究に没頭しているパパ、大学出なので自分は家事などせず外で働く女だと思っているママ。この一家に巨大なお尻を持つ(一人が窓にお尻が挟まって動けなくなってしまうシーンが可笑しい)親切な二人の姉妹とおとぼけ警官コンビが絡むというコメディ仕立て。
  キルトシューのわがまま放題のやんちゃ振りが可愛いし、家事が出来ないママと芋しか頭にないパパの代わりに妹の面倒を見るヘイフラワーがけなげ。自分が学校に上がった後が心配で、ヘイフラワーが夜神様にお祈りするシーンには涙が出た。しかしあるきっかけでそのヘイフラワーがへそを曲げて口を利かなくなってしまう。逆に妹が姉に意見するあたりが可笑しい。
  パパの影響で芋ばかり食べているので「スパゲッティが食べたい!」とキルトシューが駄々をこねたり、娘たちのために家事に乗り出したママがぬいぐるみを洗濯機で洗ってしまったりと笑いどころはたっぷり盛りだくさん。ロシア映画「ククーシュカ ラップランドの妖精」、日本映画「かもめ食堂」で描かれたフィンランド。あのゆったりとしたリズムと透明な空気感は当然この映画にもある。さらには家の作りやインテリア、そして自然の美しさも魅力の一つ。他愛がないといえば他愛がないが、まあ、親子で見るのを前提としているような映画なので、あまりうるさいことを言わず楽しめばいい。

「ダ・ヴィンチ・コード」(2006年 アメリカ)
2006年5月公開
評価:★★★☆
監督:ロン・ハワード
脚本:アキヴァ・ゴールズマン
撮影:サルヴァトーレ・トチノ
出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、アルフレッド・モリナ
   ジャン・レノ、ポール・ベタニー、ユルゲン・プロフノウ、エチエンヌ・シコ
   ジャン=ピエール・マリエール

  ダン・ブラウンの原作はめちゃくちゃ面白い。元来僕はこの手の物語が好きだ。今夢中で連載を読んでいる東周斎雅楽原作、魚戸おさむ画『イリヤッド-入矢堂見聞録』や星野之宣の『ヤマタイカ』、『宗像教授伝奇考』シリーズなどは古代の神話や伝説が縦横無尽に駆使されて奇想天外なドラマが展開される。「物語」好きにとっては奇抜なストーリー展開と天翔る空想が入り混じってこたえられない面白さである。原作の『ダ・ヴィンチ・コード』も基本的には同様の面白さである。
  レオナルド・ダ・ヴィンチの名画に隠された暗号の解読から始まり、アーサー王伝説でも 有名な聖杯伝説を経て、キリスト教が長い間ひた隠しにしてきた秘密にいたる展開。これKey_mb3_1 に何重もの暗号解読やアナグラムなどの謎解きが差し挟まれ、クリプテックスという小道具が使われ(原作ではマトリョーシカ人形のように入れ子細工になっているのだが映画では単純化されていた)、さらには秘密結社シオン修道会、オプス・デイ、マグダラのマリアなどが絡んでくるのだから、これが面白くないはずはない。キリスト教にまつわる薀蓄がこれでもかと盛り込まれている。謎解きサスペンスと知的好奇心が両方とも満足させられるまれに見るミステリー小説だ。主人公たちが犯人扱いされ、警察に追われながら彼らも「謎」を追いかけるという展開にしたことも功を奏している。
  しかしこれが映画になるとかなりの部分を割愛しなければならない。展開は急激でしかも説明を入れている余裕がないので原作を読んでいなければ理解しにくいだろう。映画を観る前からそうなることは充分予想できた。だから1週間レンタルになってから観たのである。最初から期待はしていなかった。しかし意外なことに結構楽しめた。1週間レンタルになってから借りたのは正解だった。原作を読んでからだいぶ時間がたっていたからかえって楽しめたのである。この映画を理解するには予備知識が必要なのである。だから原作を先に読んでおく方が望ましい。しかし原作を呼んだ直後に観てはあまりに物足りなくて楽しめなかっただろう。時間がたって記憶が薄れていたから意外に面白く観れたのである。原作の『ダ・ヴィンチ・コード』は、読んでいる間は面白いけれども長く記憶には残らない。そういう類の小説である。したがってこの映画はまず原作を先に読んで、少なくとも半年以上間を空けてから映画を観るべし。これが正しい観方である。

「プロデューサーズ」(2005年、アメリカ)
2006年4月公開
評価:★★★★☆
監督:スーザン・ストローマン
製作:メル・ブルックス 、ジョナサン・サンガー
脚本:メル・ブルックス トーマス・ミーハン
撮影:ジョン・ベイリー 、チャールズ・ミンスキー
振付:スーザン・ストローマン
作詞作曲:メル・ブルックス
出演:ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリック、ユマ・サーマン、ウィル・フェレル
   ゲイリー・ビーチ、ロジャー・バート、マイケル・マッキーン、アイリーン・エッセル
   デヴィッド・ハドルストン、デブラ・モンク、アンドレア・マーティン

  これは楽しめました。僕は、何を隠そう、古典的ミュージカル映画はあまり好きではない。嫌いではないのだが好んで観ることはない。MGMミュージカルの総集編「ザッツ・エンタテインメント」もいまだ観ていない。もちろん、アステア/ロジャース、モーリス・シュバリエ、ジーン・ケリー、ビング・クロスビーなど一通りは観た。観ればそれなりに楽しめる。しかし決して好きなジャンルではない。
 ミュージカルのマイ・ベスト3は「サウンド・オブ・ミュージック」、「ウエスト・サイド物語」そして「屋根の上のバイオリン弾き」。最近のものでは「シカゴ」が楽しめた。しかしどちらかというと「ブルース・ブラザーズ」、「ザ・コミットメンツ」、「歌え!フィッシャーマン」、「SUPER8」、「僕のスウィング」、「風の前奏曲」などのタイプの方が好きだ。
  個人的好みはともかく、「プロデューサーズ」は68年に製作されたメル・ブルックスの処女監督作品を完全リメイクしたもの。今回は監督を舞台版の演出・振付を担当したスーザSdcacarousel01 ン・ストローマンに譲り、自身は製作と作詞作曲を務めている。主人公のマックス・ビアリストック(ネイサン・レイン)はかつてブロードウェイで名を馳せた敏腕プロデューサー。しかし今はすっかり落ちぶれて借金の工面に四苦八苦。そこにやってきたハンカチ王子(意味は観れば分かる)会計士のレオ・ブルーム(マシュー・ブロデリック)。彼が帳簿を見て発見した意外な事実にインスピレーションを受けて、ビアリストックはわざとショウを1日でコケさせて出資金を丸々せしめようと画策する。早速史上最悪の脚本と演出家とキャストをかき集めるのだが、意に反してヒトラー礼賛ミュージカル「スプリングタイム・オブ・ヒトラー」がヒットしてしまう。
  というようなストーリーはどうでもいい。メル・ブルックス作品だから展開はめちゃくちゃ、ハプニングの連続、とにかくこれでもかとばかり笑いと歌と踊りとお色気そして下ネタをてんこ盛り。徹底したサービス振り。エンドロールが終わった後にもまだおまけがあって、最後の最後にメル・ブルックス本人が顔を出してやっと終りを告げる。”It’s over.”
 とにかく主演のネイサン・レインが芸達者。歌も踊りも芝居もうまい。ショウの脚本を書いたヒトラーかぶれのへんてこ男を演じたウィル・フェレルも画面いっぱいに暴れまくっている。マシュー・ブロデリックも線は細いが負けずに頑張っている。ゲイリー・ビーチとロジャー・バートのオカマ2人組みもすごいゲイ達者ぶりを発揮。
  もっぱらお色気を担当するのはユマ・サーマン。突然事務所に押しかけてきてキャストに採用して欲しいと色仕掛けでアピール。「氷の微笑」のシャロン・ストーンよろしく何度も足を組み替えてみせる(魅せる?)チラリズムでビアリストックとブルームをふらふらにさせる。踊り終わった後に感想を聞かれて「下半身はスタンディング・オーベイションです」と答えるお下劣駄洒落が可笑しい。
  いろんな引用も盛りだくさん。マシュー・ブロデリック演じるレオポルド・ブルームという役名はジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ』の主人公の名前。それから、お気づきだろうか、二重帳簿が見つかって刑務所にぶち込まれたビアリストックが鉄格子の中で歌い踊っている時に、突然しんみりと母親を回想する場面がある。あれはトム・ジョーンズの歌で大ヒットした「思い出のグリーングラス」のもじり。この歌は監獄で囚人が故郷の家族や緑の草原or庭の草(グリーン・グラス)を夢に見ているという内容の歌である(語りの部分の最初の言葉は「目が覚めて見回すと四方を灰色の壁に囲まれていた」)。その他ヒトラー関連も含めいろんな面白い引用があります。とことん遊んでいる映画。おすすめです。

2006年12月23日 (土)

浅間サンライン

 休みになるとふと車で走ってみたくなる道がある。浅間サンライン。国道18号線の北側Photo_19 をほぼ18号と並行して走っている道である。この道がドライブしていて気持ちいいのは一つには眺めがいいからである。上田から佐久方面に行く千曲ビューラインも一部眺めのいいところがあるが、サンラインの方がずっと視界は開けている。走っていると日ごろのストレスが消えて行くようだ。もう一つの魅力は途中でいくつも山側に入る道があり、初めての道にわざと入ってみると意外な風景と出会えることである。前に「川沿いを自転車で」というエッセイを書いたことがある(本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の〔エッセイ〕コーナーに収録)。そこで「とにかく一度も行ったことがないところに行ってみたくて、できるだけ色々なコースを取ってみた。狭い路地などがあると無性に入ってみたくなるのである」と書いたように、自転車が車に変わってもやはり意外な出会いが僕は好きなのである。
 これまで何度も日記に浅間サンライン周辺のドライブのことを書いてきた。今日もまたふらっとドライブに出て、稲倉棚田に行ってきた。いい機会なので浅間サンライン周辺ドライブ日記から3篇を選んで掲載してみます。

<「アトリエ・ド・フロマージュ」に行く> 2006年5月22日
 いい天気だったのでドライブに行くことにした。浅間サンラインに出て、別府の信号を山側に入ったところ(上田から行けば左折)にある「アトリエ・ド・フロマージュ」に行く。チーズPhoto_20 工房があってチーズフォンデュで有名なレストランだ。ここで食事したのは1度だけだが、隣の建物にティールームがあるので、時々ふらっと訪れて珈琲を飲みながら本を読んでゆく。今日もティールームに入りアイスコーヒーを飲んだ。『ダ・ヴィンチ・コード』の続きが読みたかったからだ。ゆったりと時間をすごした後店を出る。まだ明るかったので店の裏のほうを歩いてみた。

 なんとものどかな田園風景。草のにおいが鼻にむっと来る。斜面になっているので眺めがいい。家は点々とあるだけ。のんびり田舎道を歩くのは気持ちがいい。花があちこちに咲いている。庭だけではなく田んぼの隅や道端に何気なく咲いている。街中だとこうはいかない。

 いったん引き返して、最初通過した気になる小道を上がってみた。細い上りの道。左側にきれいな家が建っている。玄関の周りに貼ったレンガが素敵だ。デジカメを持って来ればよかったと思うようないい景色だ。しばらく上ると左手に木立が見えてきた。なぜか見覚えがあるとぼんやり感じた。初めて来るはずなのに変だと思っていたら、なんと見覚えのある「もの」が見えてきた。縄文式住居のように萱のようなものを円錐状に立て掛けて作った小屋。これは以前ある知人に連れてこられたところじゃないか!そうかここだったのか。何という偶然。散歩に来てよかった。誰もいなかったが、なんとなく遠慮して林の中には入らなかった。林の横でタバコをすって引き返した。

 横を水路が流れている。最初の道に戻ったが、そのまま道を横切ってさらに水路に沿って小道を下っていった。どこかで「フロマージュ」の駐車場の下を走っている道に出るはずPhoto_24 だから、そこを右に曲がれば「フロマージュ」に戻れると踏んだからだ。そこから先はビニールハウスの中で仕事をしている人を見かけただけで、車も人も通らない。最初は田んぼの中を進むのだが、そのうち両側が木で覆われ視界がふさがれる。だいぶ下ったがまだ道にぶつからない。ずっと右側の「フロマージュ」のある方角を気にしていたのだが、だんだん離れてゆく気がして心細くなってくる。まあ、最悪の場合道を引き返せばいいのだから迷うことはないと自分を慰める。しかしいくら下っても道はさらに先まで続き、「フロマージュ」は遠ざかってゆく。もう日もだいぶ傾いてきてあたりが黄色がかってきた。左側がちょっと開けたところまできたときに、引き返すことにした。

 今度はずっと上りだ。だいぶ歩いたので足も疲れている。早く車のところに戻りたい。自然足取りも速くなる。やっと車に戻りほっとする。駐車場下の道を確かめてみたら、さっき歩いていた小道に出る手前でカーブして下に降りていた。これでは交差しないはずだ。車の運転は別に疲れないが、塩田までの遠いこと。こんなに遠くまで来ていたのかと改めて驚いた。

<金原ダムに行く> 2006年6月17日
  ドライブに行く。どこに行くと決めてはいなかったが、やはり浅間サンラインへ。野竹トンネルを抜けてすぐ左折。ローマン橋が正面に。橋を超えてすぐ左折。道の横に車を停められる広いスペースがあったのでそこに車を停めてタバコを一服。しげしげと橋を眺める。なかなかきれいな形の橋だ。真下まで行って下から橋を見上げる。道路の真ん中に切れ目が入っている。下から見るとただのコンクリートの塊だが不思議な空間になんとなく圧倒される。

  また車に乗って少し戻り左折。坂をどんどん上がってゆく。どこに出るかと思っていたら以前行った児童書専門店「なるに屋」に行く道に出た。まっすぐ行くと菅平に行く道とぶつPhoto_23 かる。交差点のすぐ横が西友。右折してしばらく菅平方面に向かい、「真田の湯」下の交差点で右折。小諸へ行く山道。何度も通った道だがここは走りやすくて好きだ。金原(かなばら)ダムに行こうかと思いついたのはその道を走っているときだった。あまりに暑いので車のクーラーを入れた。しかし案内板が見つからないので浅間サンラインとの交差点まで行ってしまった。途中「すみれ屋」を見つけた。なくなったのかと思っていたがまだあったんだ!しかしこんな坂を下ったところにあったんだっけ?場所を移転したのかもしれない。気づいたのが遅かったので通り過ぎてしまった。また今度行ってみよう。

 浅間サンラインを上田方面へ向かう。途中で金原ダムの看板を見つける。急遽右折して行ってみることにする。どうも前に通ったことがあるような気がする道だ。人家が途絶えてからすぐダムは目に入ってきた。ダムの下でいったん車を停める。珍しいことにコンクリートの塊ではなく、お城の石垣のように大きな石を組んでできている。下から見上げているとダムの上を歩いている人が見えた。どうやらさらに道を登るとダムの横まで行けるようだ。また車に乗ってさらに坂を上る。意外なほどすぐにダムの横に出た。車を止めてダムを眺める。ダムはさほど大きくはなく、ダム湖というより池に近い。水量もわずかで底のほうに少したまっているだけ。水は緑色ににごっていて汚い。3、4人湖面まで降りて釣りをしていた。

 ダムの周りを歩いてみる。正面の急角度で削った山の斜面に黄色い花が一面に咲いていてきれいだ。どういうわけかその斜面を見ていると目の焦点が合わないような不思議な070226_1 感覚に襲われる。平衡感覚がやや失われてまっすぐ歩けない感じ。ふらつくほどではないが、不思議な感覚だった。しかし素晴らしいところだと思った。天空の桃源郷とでも言うのか、人里はなれた理想郷のような空間だ。「天空の草原のナンサ」という映画のタイトルが頭に浮かんだ。ダムの上から見下ろす景色もきれいだ。カメラを持ってくればよかった。きっとダムの壁がコンクリートの塊でないからそう感じるのだろう。放水路のあたりだけコンクリートでできている。しばらく眺める。かなりの高さだ。落ちたらまず助からないな。ほぼ垂直に屹立するコンクリートの壁。ぞっとする。先ほどの黄色い花が咲いている斜面の下まで行くと、黄色い花がレンギョウだと分かった。とんでもない急斜面に斜めに咲いている。黄色い花は目立つのできれいだ。ダムの周りの道はぐるっと1周するように続いているのだが、放水路の横に柵があって先に行けない。また引き返す。ふと反対側を見ると少しダムから上がったところにあずまやが見えた。あそこまで行ってみよう。車に戻ってさらに道を上がる。道が行き止まりになっているところで車を停めた。左側にあずまやがあった。そこまで下りてまたタバコを吸う。他に誰もいない。悪くない空間だが、ハチや虫がたくさん飛んでいてあまり長居はしたくなかった。タバコをすい終わる頃に軽トラックが1台やってきた。入れ替わるように車に乗って坂を下る。

 途中右側に見覚えのあるワイナリーの看板を見かける。そうかここはやはり以前通った070226_7 道だった。浅間サンラインを上田に向って走っていた時右上の崖の上にまるで空中城郭のように高級そうな住宅が建ち並んでいるのが目に入って、急遽右折してそこまで上がっていったことがある。その住宅街を抜けてさらに坂を上がったとき通ったのがこの道だった。ワイナリーの看板はその時見かけた。後日そのワイナリーに行こうと思ってもう一度探したことがあったが見つからなかった因縁の道である。こんなことでまた通るとは。交差点の名前をよく覚えておこう。浅間サンラインに出るが、どうも上ってきたところと違う交差点に出たようだ。交差点の名前は下大川。おそらく先ほどはひとつ隣の海善寺北から登ったのだろう。(金原ダムの写真は07年2月25日に撮ったもの。)

<稲倉棚田に行く> 2006年12月23日
  気持ちのいい天気だったのでドライブに行く。浅間サンラインに出て、芳田のショッピングモールに入った。レストランで食事をした後、「珈琲哲学」に入る。いつも思うがこの店の2 作りはいい。両側に塔が付いている。右側の塔にはベランダのようなものも見える。この塔にはあこがれる。塔に上がれるのかどうかは分からないが、できれば自分の家にも欲しいと思う。僕は狭い自分だけの空間が好きだ。塔があればそんな空間を作りたい。なんだか幽閉されているようにも思えるが。「珈琲哲学」の内装ももちろんいい。しばらく塔のことを考えた後、珈琲を飲みながら『風の影』(下巻)を読む。今佳境に入っている。

 珈琲哲学を出て、芳田の交差点を右折して山側に入った。浅間サンラインは両側に家が立ち並んでいないので解放感があって好きだ。ドライブとなると、ついここにきてしまう。Photo_22 今走っている道は何度も通ったことのある道で、そのまままっすぐ行けば144号線に出る。その時道の右側にある「稲倉棚田」の看板が眼に入った。迷わず右折する。前から上田に棚田があることは聞いていたが、実際に行ったことはなかった。細い山道をしばらく上がると山の斜面に狭い駐車スペースがあった。すぐ足元が棚田だった。棚田を上から見下ろしている。左側に山があるので右手に向って斜面が下っており、その斜面にそって棚田が作られていた。冬なので茶色かがった風景だが、夏は緑と水が目にまばゆいだろう。周りに家が一軒もなく、人っ子一人いない。シーンと静まり返った不思議な空間。カメラを持ってこなかったことが悔やまれた。明日も天気がよければデジカメを持ってまた来てみよう。

 そこにいたのは5分程度。さらに上にまで道が続いていたのでどうなっているのか見たくなった。車でさらに道を上がる。ぽつんと一軒だけ家があるのは前から見えていたが、何回か道を曲がると家がたくさん見えた。ついさっきまで何もない空間にいたので、こんな山の上にも「集落」があるのかと驚いた。さらに上ってゆくと比較的大きな道に出た。とりあえず左折する。しばらく走ってそれが真田から小諸に行く真田東部線だと気づいた。ここも何度も通った道だ。そのまま行くと真田に出てしまうので引き返そうか迷ったが、踏ん切りがつかないまま菅平に上る144号線に出た。横沢の信号を左折して上田に戻った。144号線も普段は走っていて気持ちがいいのだが、あの棚田の気分が残っているせいか、両側を家に囲まれた道がいとわしかった。

<ブログ内関連記事>
浅間サンライン脇道探索「せせらぎ公園」を発見
蒼い時と黒い雲
喫茶「すみれ屋」へ行く
不思議な空間のゴブリン

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2006年12月22日 (金)

ナイロビの蜂

2005年 イギリス 2006年5月 128分 Bluebara1
原題:The Constant Gardener
評価:★★★★
監督:フェルナンド・メイレレス
原作:ジョン・ル・カレ 『ナイロビの蜂』(集英社文庫刊)
脚本:ジェフリー・ケイン
撮影:セザール・シャローン
音楽:アルベルト・イグレシアス  
出演:レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ、ユベール・クンデ、ダニー・ヒューストン
   ビル・ナイ、ピート・ポスルスウェイト、ジェラルド・マクソーリー
    ジュリエット・オーブリー、リチャード・マッケーブ、アーチー・パンジャビ

  映画のタイプとしてはサスペンスだが、主題からすれば「ロード・オブ・ウォー」に近い。いわゆる内幕暴露物。「ロード・オブ・ウォー」は武器商人が主人公。「ナイロビの蜂」はイギリスの外交官が主人公で、殺された妻が調べていた製薬会社の疑惑を夫が引き継いで追求してゆく。「ロード・オブ・ウォー」が倒叙物だとすれば、「ナイロビの蜂」は真相究明型の本格的ミステリー・サスペンス物。アフリカが舞台という意味では「ホテル・ルワンダ」にも通じる面がある。

  展開としては製薬会社の疑惑追及という主筋に主人公ジャスティン(レイフ・ファインズ)と妻テッサ(レイチェル・ワイズ)の夫婦愛が絡む。この夫婦が対照的である。英語の原題が示すように、ジャスティンはガーデニングが好きな男で、外交官でありながら面倒なことからは目を背ける事なかれ主義者。一方のテッサはかなりラディカルで、思ったことを率直に言葉にし、行動するアクティブなタイプ。

  二人が出会う冒頭のシーンが二人の性格の違いを明確に描き出している。イギリス外務省一等書記官のジャスティンが外務省アフリカ局長の代理で講演をしている。ほとんど無内容な彼の話を聞いていたテッサが彼に噛み付く。彼女は英米によるイラク侵略を取り上げ、イギリスのアメリカ追従政策を批判する。自分は代理だからと逃げようとするジャスティンに彼女はなおも食い下がる。二人の性格の違いがよく出ているが、このシーンでもう一つ重要なことがある。会場にいた者が誰一人彼女に賛同を示さず、あきれて会場を去ってゆくことだ。あれを観ていて異様だと思った。まともな人間が一人もいない。声高に何かを主張することを嫌う日本ならありうることだがイギリスでも同じなのか。彼女の発言をめぐって会場が賛否両論に分かれて騒然とするという展開にすらならない。終始しらけている。そんな聴衆に向って内容のない話をするジャスティン。その形骸化した催しのむなしさ。冒頭の場面が描いているのは主人公二人の性格の違いだけではなく、テッサ以外誰一人として現実を見ようとせず、表面的な理解で分かったようなつもりになっている現状である。

  テッサは常識をわきまえない過激な人間だとあの場面を観て理解したのでは、映画が伝えようとしたことを充分読み取っていないことになる。「ホテル・ルワンダ」のあの印象的なせりふ、虐殺現場のビデオをテレビで流しても「世界の人々はあの映像を見て”怖いね”と言うだけで、ディナーを続ける」というせりふはこの場面にこそあてはまる。遠い国で起こっている現実に世界がいかに無関心であるか。「ナイロビの蜂」はアフリカの現実に無関心だったジャスティンが妻の死をきっかけに彼女の遣り残した疑惑の追及を引き継ぐという展開になる。テッサがジャスティンに言う「わたしを探求して」という言葉が暗示的だ。テッサの死をきっかけに彼女の足跡をたどることは、そのまま製薬会社がイギリス人外交官ぐるみで行ってきたアフリカ人を使った新薬人体実験の追及につながるのだから。

  アフリカの現状がよく映し出されている。見渡す限り黄色いトタン屋根がぎっしりと立ち並ぶ粗末な家々。「フラガール」に出てきた炭鉱長屋よりさらに粗末で雑然としている。テッサの遺体が発見されたトゥルカナ湖の赤茶けた岸辺の寒々とした光景。そして貧困、政治の不安定、エイズや疫病の蔓延。「ホテル・ルワンダ」は部族間対立による大量虐殺を描いたが、アフリカでは虐殺がなくても日常的に人が死んでいる。国際的な援助やNGO団体のボランティア活動も隅々には行き渡らない。長い間「暗黒大陸」と呼ばれてきたアフリカ。アフリカ人は遺伝子的に劣等だと決め付けられ、西欧の進んだ文明を「施されて」来た人々。奴隷として売られていった人々も数知れない。西欧諸国の植民地にされて食い荒らされてきた長く苦い歴史を持つ国々。

  テッサはこういうアフリカの現状の中に飛び込んでいって、医療ボランティアに従事してTr_06 いた。しかし治療を要する人はあまりにも多く、医療関係の援助物資はあまりにも不足している。送られてきた薬品も使用期限切れで役に立たない。ボランティアに従事している人たちの多くはテッサの様な善意と熱意を持った人たちだろうが、しかしその中にボランティアを装って新薬の人体実験をしている薬品会社があることにテッサは気づく。イギリスの外交筋と癒着した「スリー・ビーズ」(三匹の蜂)である。何人かの患者がその副作用で死んだのが疑いを持ったきっかけである。いつの間にかその死んだ人たちの記録も消されていた。

  映画の冒頭でテッサは彼女の同僚である医師のアーノルドと共に飛行機でロキへと旅立っていった。恐らくその証拠を集めるためだったのだろう。何も知らないジャスティンは2日後にまた会えると思っていた。次にジャスティンが彼女に会ったのは死体安置所だった。そこにあったのは黒く焼け爛れた妻の遺骸だった。あの死体安置所の寒々とした雰囲気、整然と並んでいるいくつもの遺体(中には激しい損傷を受けているものもある)、アフリカの現状のエッセンスを見る思いだった。

  テッサの死は事故扱いされ、彼女とアーノルドの不義も噂される。しかしジャスティンは納得せず、真相は別にあると考え彼女の足跡をたどってゆく。いつの間にか彼女の果たせなかった不正追求を彼が引き継いでいた。その中で「スリー・ビーズ」による新薬の人体実験が明らかになるのだが、おぞましいのはそれ自体よりもその背後にある認識である。例えば、イギリスの製薬会社がイギリス人を使って新薬の実験をするだろうか?アフリカ人なら平気で実験に使える、どうせ普段でも多数の人が死んでいるのだ、少しぐらい増えても疑われはしない。この感覚、しかもそれが医療ボランティアという美名の下で行われていたのである。アフリカ人を奴隷扱いしていた時代とどれほどの違いがあるのか。副作用があると分かっていても、新薬を改良するのにかかる経費と時間を考えればそのまま製品化したほうが安上がりだ。こういう考え方がこの映画を通して抉り出されてゆく。帝国主義時代以来変わっていないのかと疑いたくなるほど露骨な人種的偏見と資本主義の利潤追求が裏腹に結びついている。企業活動の裏には必ず利潤追求があるのはいまさら言われるまでもないが、それが人種的偏見と結びついた時何ともおぞましい事態になる。「カーサ・エスペランサ」「ココシリ」のレビューでも書いたが、途上国の人々を犠牲にして、つまり彼らから搾り取ることで先進国の発展が支えられているという関係はここでも成り立っている。

  テッサが殺されるまでは傍観者だったジャスティンがこの追求を通じて行動的人間に変わって行く。それを象徴するのが「目の前の一人を助けたところでどうなる。ああいう人は、他に何千、何万といるんだ」という言葉。ほぼ同じ言葉が二度繰り返される。最初は患者を見舞いに来た家族が長い道を歩いて家に帰るのを見たテッサが夫に車に乗せてあげようと提案した時ジャスティンが口にする。全員横並びで一人だけ特別扱いは出来ない。まさにお役所的発想である。二度目は一連の真相を知る医師ローピア(ピート・ポスルスウェイト)にジャスティンが会いに行った時。キャンプが別の部族に襲撃され白人たちは飛行機で脱出しようとする。その時一緒にいたアフリカ人の男の子も乗せてくれとジャスティンはパイロットに言うが、パイロットが言ったのは以前ジャスティン本人が言ったのとほぼ同じ言葉だった。二人が言い争っている間に男の子は自分で飛行から下りてしまう。男の子の気持ちは、丁度「ホテル・ルワンダ」で白人だけが乗った脱出用バスをホテルに残されたアフリカ人たちが見送る時の気持ちと一緒だっただろう。何とも痛切な場面である。

  この場面はジャスティンが事なかれ主義からテッサの遺志を受け継いだ行動する人になっていたことを表している。と同時に、一人二人を救っても根本的な解決にはならないことをも示している。それは確かに事実なのだ。アフリカのありよう、アフリカの国々自体の貧しさ、膨大な数の難民、政治体制や社会保障体制の未発達、人権の未確立、植民地支配の残滓、さらには諸外国や諸団体の「援助」のありかた、見直すべき事柄が多すぎ、まTatatemy104た大きすぎて先が見えない。これらの問題を解決しなければアフリカの現状を根本から変えることは出来ない。しかし全く変わっていないわけではない。かつて悪名高きアパルトヘイトで知られた南アフリカは大きく変化した。「アマンドラ!希望の歌」に描かれた体全体を使って歌い踊る人々。彼らの歌は「抑圧の隙間から染み出てきた」。抑えられても抑えられても噴き出してくる民衆の情熱と熱気、生きようとする意欲。ついにはアパルトヘイトを突き崩してしまった。「ナイロビの蜂」でも、様々な問題を抱えながら街角にあふれかえる人々の間には活気があった。彼らは悲惨な状況を生き延びてきた。そこに可能性がある。この映画に物足りないものがあるとすれば、やはりアフリカ人自身が充分描かれていないことだろう。それは恐らく原作自体が抱える問題でもある。この映画は徹頭徹尾西欧人の視点で描かれている。アフリカやアフリカ人の内奥にはどうしても入り込めない。

  ジャスティンがほとんど自殺とも取れる行動をとるエンディングも疑問だ。結局ラブ・ストーリーで終わっているとも言えなくはない。映画のラストはジャスティンのテッサへの愛で終わっている。テッサも夫を愛していたが、彼女の愛はもっと広かった。テッサは彼が彼女の後を追うようにして死ぬことを望んでいただろうか。

  そもそも水と油のテッサとジャスティンが惹かれ合うというのも説得力に欠ける気がするが、まあその点は映画の基本設定として受け入れてもいい。テッサがジャスティンに何も知らせずに行動したのはジャスティンを巻き込みたくなかったからというのも理解できないことはない。ジャスティンがアフリカを覆う黒い霧を調べ始めるきっかけが愛する妻の突然の死という個人的な出来事だったというのも不自然ではない。きっかけは何でもいい。問題はその後の追及の深さなのだから。夫婦の愛を描く場面も悪くはない。中でもジャスティンが妊娠していたテッサと子供の名前について話し合う場面が印象的だ。ジャスティンが「チェ」はどうかと言うとテッサが「そんなの嫌よ!」と答える場面。「チェ」とは恐らくエルネスト・チェ・ゲバラのことを意味しているのだろう。「チェ」はゲバラのあだ名である。君は「革命家」だからという夫の軽い皮肉が込められている。

  ジャスティンは真相にたどり着いたが、自ら告発はしなかった。事件の真相はテッサの従兄弟によって告発された。すべてを彼に預け、自分はむしろ死を選んだ。この結末は何を意味しているのか。結局、西洋人の視点で描かれているこの映画はアフリカに対する西洋人の懺悔のような作品だったのかもしれない。ある意味で彼らの無力感の裏返しだったのだろうか。一つの問題を解決しても、また別の問題が浮かび上がる。根本的な解決などどこにも見出せない。問題をある程度抉り出しながらも、最後は夫婦の愛という口当たりの良いベールで覆って終わらせてしまう。必然性のないジャスティンの死にそんなことを感じた。

   この映画の原題 “The Constant Gardener” はジャスティンのことを直接的には指しているのだろうが、もっと別の意味で受け取ることも可能である。アフリカの現状を変えるには一時しのぎではダメだ。関わり続けなければ、種を蒔き続けなければならないという意味で。甘い蜜に群がる連中は尽きることはない。ブラジル生まれのフェルナンド・メイレレス監督は決してアフリカの人々を意気消沈して生気のない人たちとしては描かなかった。しかし最後は結局西洋人の問題として終わらせてしまう。彼は「シティ・オブ・ゴッド」で社会の底辺に生きる子供たちの現実を冷徹な目で見つめつつも、語り手を抗争に巻き込まれそうになりながらも最後まで決して暴力に走らないカメラマン志望の少年にしていた。そこに救いがあった。「ナイロビの蜂」の劇場用パンフレットには「彼らの未来はどうなるのか?未来への希望を持つのは難しい。だが我々は希望を持たねばならないんだ」という監督の言葉が載っているそうである。しかしこの映画のエンディングはそうなっているだろうか。原作は西洋人が書いたものだが、映画化するときにもっとブラジル人監督らしい別の終わり方に出来なかったのか。その点が疑問として残った。

〔追記〕
 「再出発日記」のkuma0504さんからエンディングの解釈について非常に説得力のあるコメントをいただきました。どうぞそちらもお読みください。

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2006年12月20日 (水)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年1月)

【新作映画】
12月23日公開  
 「ヘンダーソン夫人の贈り物」(スティーブン・フリアーズ監督、英)
 「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン他監督、米)
 「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウパー監督、 オーストリア・ベルギー・フランス)
 「名犬ラッシー」(チャールズ・スターリッジ監督、英・仏・アイルランド)
 「シャーロットのおくりもの」(ゲイリー・ウィニック監督、アメリカ)
12月26日公開
 「早咲きの花」(菅原浩志監督、日本)
12月30日公開
 「みえない雲」(グレゴール・シュニッツラー監督、独)
1月2日公開
 「恋人たちの失われた革命」(フィリップ・ガレル監督、フランス)
1月13日公開
 「ラッキーナンバー7」(ポール・マクギガン監督、米独)
1月20日公開
 「マリー・アントワネット」(ソフィア・コッポラ監督、米仏日)
 「不都合な真実」(デイビス・グッゲンハイム監督、米)
 「筆子・その愛 天使のピアノ」(山田火砂子監督、日本)
 「それでもボクはやってない」(周防正行監督、日本)
1月27日公開
 「グアンタナモ、僕たちが見た真実」(マイケル・ウインターボトム他監督、英)

【新作DVD】
12月21日
 「恋は足手まとい」(ミシェル・ドビル監督、フランス)
12月22日
 「ふたつの恋と砂時計」(コン・ジョンシク監督、韓国)
12月23日
 「パトリス・ルコントのドゴラ」(パトリス・ルコント監督、フランス)
1月11日
 「ダック・シーズン」(フェルナンド・エインビッケ監督、メキシコ)
1月12日
 「夜よ、こんにちは」(マルコ・ベロッキオ監督、イタリア)
 「ハチミツとクローバー」(高田雅博監督、日本)
1月14日
 「花田少年史」(水田伸生監督、日本)
1月24日
 「セレブの種」(スパイク・リー監督、アメリカ)
1月25日
 「ゲルマニウムの夜」(大森立嗣監督、日本)
1月26日
 「グエムル 漢江の怪物」(ポン・ジュノ監督、韓国)
 「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム監督、カナダ・イギリス)
 「カサノバ」(ラッセ・ハルストレム監督、アメリカ)
 「やわらかい生活」(廣木隆一監督、日本)
1月27日
 「フープ・ドリームス」(スティーブ・ジェイムズ監督、アメリカ)
 「トランスアメリカ」(ダンカン・タッカー監督、アメリカ) Snowman02b_1

【旧作DVD】
12月20日
 「長い灰色の線」(55、ジョン・フォード監督、米)
12月22日
 「ヘッドライト」(55、アンリ・ベルヌイユ監督、仏)
 「童年往事」(85、ホウ・シャオシェン監督、台湾)
 「ニーベルンゲン」(24、フリッツ・ラング監督、独)
 「ニューヨーカーの青い鳥」(87、ロバート・アルトマン監督、米)
 「侯孝賢傑作選 DVD-BOX 80年代編②」
 「溝口健二 大映作品集② 1954-1956」
1月17日
 「國語元年 DVD-BOX」(TVドラマ) 1月21日
 「にっぽん泥棒物語」(65、山本薩夫監督、日本)
1月25日
 「川本喜八郎作品集」
1月26日
 「グレース・ケリーDVDコレクション」(「喝采」と「泥棒成金」のパック)

 劇場新作は今のところ様子窺いといったところ。ただ、このところ優れた作品が目立つドキュメンタリーでまた注目すべき作品が公開される。「ダーウィンの悪夢」。舞台はアフリカのヴィクトリア湖。外来種の巨大魚とそれにまつわる環境悪化を描く。貧困や武器の輸出にまで視線が及んでいるということなので期待できそうだ。新作DVDではついに「グエムル 漢江の怪物」が出る。早く観たい。「スティーヴィー」のスティーブ・ジェイムズ監督作品「フープ・ドリームス」にも注目!ドキュメンタリーのDVDは少ないので見つけたら必見。
 旧作DVDでは何といっても「侯孝賢傑作選 DVD-BOX 80年代編②」が目玉。傑作「川の流れに草は青々」が収録されている。「長い灰色の線」「ニーベルンゲン」「にっぽん泥棒物語」も是非。井上ひさし原作のTVドラマ「國語元年」が出るのもうれしい。舞台で一度見たがNHK版の方が出来はずっといいようだ。人形アニメ作家川本喜八郎の作品集が廉価で出るのも朗報である。

2006年12月17日 (日)

2006年に公開された主な外国映画

「愛より強い旅」(トニー・ガトリフ監督、フランス)
「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
「明日へのチケット」(E.オルミ、K.ローチ、A.キアロスタミ監督、伊・英)
「アメリカ、家族のいる風景」(ヴィム・ヴェンダース監督)  
「あるいは裏切りという名の犬」(オリビエ・マルシャル監督、仏)
「ある子供」(ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督、フランス・ベルギー)
「家の鍵」(ジャンニ・アメリオ監督、伊仏独)  
「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督、アメリカ)
「イカとクジラ」(ノア・バームバック監督、アメリカ)
「イノセント・ボイス」(ルイス・マンドーキ監督、メキシコ)
「イベリア 魂のフラメンコ」(カルロス・サウラ監督、スペイン・フランス)
「インサイド・マン」(スパイク・リー監督、米)
「ウォ・アイ・ニー」(チャン・ユアン監督)
「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」(ジェームズ・マンゴールド監督)
「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」(ニック・パーク監督)  
「美しい人」(ロドリゴ・ガルシア監督、アメリカ)
「美しき運命の傷痕」(ダニス・タノビッチ監督、伊仏ベルギー)  
「うつせみ」(キム・ギドク)
「王と鳥(やぶにらみの暴君)」(80、ポール・グリモー監督、フランス)
「王の男」(イ・ジュンイク監督、韓国)
「おさるのジョージ」(06、マシュー・オキャラハン監督、米)
「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督、英・チェコ・仏・伊)
「オーロラ」(ニルス・タベルニエ監督、フランス)
「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督、オーストリア他)
「カクタス・ジャック」(アレファンドロ・ロサーノ監督、メキシコ)
「カポーティ」(ベネット・ミラー監督、アメリカ)
「狩人と犬、最後の旅」(04、ニコラス・バニエ監督、仏・他)
「記憶の棘」(ジョナサン・グレイザー監督、アメリカ)
「奇跡の夏」(イム・テヒョン監督、韓国)
「キンキー・ブーツ」(ジュリアン・ジャロルド監督、英米)
「キングス&クイーン」(アルノー・デブレシャン監督、仏)
「グエムル 漢江の怪物」(ポン・ジュノ監督、韓国)
「ククーシュカ ラップランドの妖精」(アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
「薬指の標本」(ディアーヌ・ベルトラン監督、仏・独・英)
「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督、英米仏日)
「クラッシュ」(ポール・ハギス監督、アメリカ)  
「クリムト」(ラウル・ルイス監督、オーストリア、他)
「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督、英・ハンガリー)
「ココシリ」(ルー・チューアン監督、香港・中国)
「ザ・コーポレーション」(マーク・アクバー、ジェニファー・アボット監督)
「サラバンド」(イングマル・ベルイマン監督、スウェーデン、他)
「サンキュー・スモーキング」(ジェイソン・ライトマン監督、アメリカ)
「ジャケット」(ジョン・メイブリー監督、米独)
「ジャスミンの花開く」(ホウ・ヨン監督、中国)
「ジャーヘッド」(サム・メンデス監督、アメリカ)  
「13歳の夏に僕は生まれた」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、伊・仏・英)
「16ブロック」(リチャード・ドナー監督、アメリカ)
「シリアナ」(スティーブン・ギャガン監督)
「白バラの祈り――ゾフィ・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督、独)  
「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督、ハンガリー、英)
「深海」(05、チェン・ウェンタン監督、台湾)
「人生は、奇跡の詩」(ロベルト・ベニーニ監督、イタリア)
「親密すぎるうちあけ話」(パトリス・ルコント監督、仏)
「西瓜」(ツァイ・ミンリャン監督、台湾)
「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督、アメリカ)  
「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督、アメリカ)
「戦場のアリア」(クリスチャン・カリオン監督、仏独他)
「タイフーン」(クァク・キョンテク監督、韓国)
「太陽」(05、アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア・他)
「太陽に恋して」(ファティ・アキン監督、独)
「ダ・ヴィンチ・コード」(ロン・ハワード監督、米)
「ダック・シーズン」(フェルナンド・エインビッケ監督、メキシコ)
「単騎、千里を走る。」(チャン・イーモウ監督、中国・日本)  
「ダンサーの純情」パク・ヨンフン監督、韓国)
「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督、アメリカ)
「トランスアメリカ」(05、ダンカン・タッカー監督、アメリカ)
「トリノ、24時からの恋人たち」(ダビデ・フェラーリオ監督、イタリア)
「トンマッコルへようこそ」(パク・クァンヒョン監督、韓国)
「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス監督、英独)
「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」(カーク・ジョーンズ監督、英米仏)  
「ニキフォル」(クシシュトフ・クラウゼ監督、ポーランド)
「ニュー・ワールド」(テレンス・マリック監督、アメリカ)
「ハイジ」(ポール・マーカス監督、イギリス)
「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」
「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督、フランス・セネガル)
「春が来れば」(リュ・ジャンハ監督、韓国) 
「春の日のクマは好きですか?」(ヨン・イ監督、韓国)
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(デヴィッド・クローネンバーグ監督)
「ファーザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
「ファミリー」(イ・ジョンチョル監督)
「Vフォー・ヴェンデッタ」(ジェイムズ・マクティーグ監督、米独)
「胡同(フートン)のひまわり」(チャン・ヤン監督、中国)
「プラダを着た悪魔」(デビッド・フランケル監督、アメリカ)」
「プラハ!」(フィリプ・レンチ監督、チェコ)
「プルートで朝食を」(ニール・ジョーダン監督、アイルランド・英)
「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」(ジョン・マッデン監督、アメリカ)  
「ブロークバック・マウンテン」(アン・リー監督)
「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ監督、米仏)
「プロデューサーズ」(スーザン・ストローマン監督、アメリカ)
「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督、韓国)
「僕と未来とブエノスアイレス」(ダニエル・プルマン監督、アルゼンチン)
「僕の大事なコレクション」(リーヴ・シュライバー監督、アメリカ)
「ぼくを葬る」(フランソワ・オゾン監督、フランス)
「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督、南ア・米・英・伊)
「マッチポイント」(ウディ・アレン監督、イギリス)
「ママが泣いた日」(マイク・バインダー監督、米・独・英)
「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ監督、アメリカ)
「麦の穂をゆらす風」(ケン・ローチ監督、アイルランド・英、他)
「夢遊ハワイ」(シュー・フーチュン監督、台湾)
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(トミー・リー・ジョーンズ監督)
「森のリトル・ギャング」(06、ティム・ジョンソン他監督、アメリカ)
「ユナイテッド93」(06、ポール・グリーングラス監督、アメリカ)
「夜よ、こんにちは」(マルコ・ベロッキオ監督、イタリア)
「歓びを歌にのせて」(ケイ・ポラック監督、スウェーデン)
「楽日」(ツァイ・ミンリャン監督、台湾)
「力道山」(ソン・ヘソン監督)
「リトル・イタリーの恋」(ジャン・サルディ監督)
「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファレス監督)
「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
「玲玲(リンリン)の電影日記」(シャオ・チアン監督、中国)
「レイヤー・ケーキ」(マシュー・ボーン監督、イギリス)
「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム監督、カナダ・イギリス)
「ワールド・トレード・センター」(オリバー・ストーン監督、アメリカ)

  2006年のアメリカ映画は大きく様変わりした。ターニングポイントの年だったといっても良い。興行的に大きく後退し、アメリカを批判する映画や9・11後のアメリカ社会の揺らぎFuyukodati を描く映画が激増した。年末のイーストウッドの2作は話題性だけでなく、作品的にも期待できる。兵士の英雄化をはっきり否定している点で「ポスト911」映画の範疇に入る。ハリウッドはヒット作のシリーズ物や外国映画の焼き直しばかり作っている安易な製作姿勢を根本から変えなければならない時期に来ている。

  一方韓国映画の好調は続いている。レンタル店には韓国ドラマや恋愛映画があふれかえっている。「うつせみ」「グエムル 漢江の怪物」「トンマッコルへようこそ」「ファミリー」などの強力な作品も生まれ、話題に事欠かない。

  ここしばらく公開本数が減っていた中国や台湾映画がやや上向きになってきたことはうれしい。中でも「ココシリ」は強烈な作品。フランスとイギリスも好調を維持している。特にケン・ローチの「麦の穂をゆらす風」には注目。「ククーシュカ ラップランドの妖精」と「太陽」が話題になったロシア映画も忘れてはいけない。旧作のDVD化がかなり進んだが、まだまだ氷山の一角に過ぎない。

  アフリカを舞台にした「ホテル・ルワンダ」は力作。「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督)もかなり期待できそうだ。第19回東京国際女性映画際では同監督の「モーラーデ」も公開された。ウスマン・センベーヌ監督の「チェド」を岩波ホールで観たのはもう17年も前。アフリカ映画の巨匠が帰ってきたのはうれしい。

  このところ勢いがあったスペイン映画が今年はやや失速気味。一時的なことであればいいが。中南米映画は「僕と未来とブエノスアイレス」など数本が公開されているが、「シティ・オブ・ゴッド」や「セントラル・ステーション」クラスの傑作はなさそうだ。ただ、アメリカ映画だがアメリカからメキシコへの旅を描いた「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」はなかなかの秀作。

  北欧映画やヨーロッパ映画についても書きたいがこの辺にしておこう。詳しくは年末か来年初めに書く予定の「2006年公開映画を振り返って」で書きます。

2006年12月16日 (土)

武士の一分

2006年 日本 2006年12月公開
評価:★★★★☆
監督:山田洋次
原作:藤沢周平 「盲目剣谺返し」(文春文庫刊『隠し剣秋風抄』所収)
脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎
撮影:長沼六男
美術:出川三男
衣裳:黒澤和子
編集:石井巌
音楽:冨田勲
出演:木村拓哉、檀れい、笹野高史、小林稔侍、赤塚真人、綾田俊樹、近藤公園
   岡本信人、左時枝、大地康雄、緒形拳、桃井かおり、坂東三津五郎

  「たそがれ清兵衛」(02)、「隠し剣 鬼の爪」(04)に続く藤沢周平原作の時代劇3作目。前Kagaribihotaru1_1 の2作については「隠し剣 鬼の爪」の短評を書いただけなので、3部作全体の特徴を最初に見ておくのがいいだろう。山田洋次監督の初期の代表作に「家族」(70) と「故郷」(72)という2本の傑作がある。「故郷」と「家族」はそれぞれ別々の物語ではあるが、二本合わせてひとつの大きな物語を形作っている。「故郷」は石舟で苦しい生活を立てていた家族がその生活を捨て、尾道の造船所で働くことを決意するところで終わる。「家族」は炭鉱で食べて行けなくなったある家族が長崎の南端に浮かぶ伊王島から北海道の中標津にある開拓村まで3000キロの旅をする過程を描いた映画だ。「故郷」の結末の部分が「家族」の出発点なのである。

  この2本を通じて描かれているのは時代の波に押し流されていかざるを得ない一つの家族の姿である。その2本に共通するテーマを「故郷」のレビューでこう書いた。

 そのテーマを暗示するのは「故郷」の最後に精一が妻に向かって口にする言葉であ
る。「大きなものとは一体何だ?時代の流れとか、大きなものに負けると言うが、それは一体何を指しているのか」という問いかけ。「家族」を論じたときにも書いたが、ここに描かれたのはたまたま不運にあった不幸な家族ではない。 60年代の高度成長期を経て、日本の産業構造は大きく変化していた。「大きな時代の流れ」は容赦なく弱いものを押し流してゆく。社会や経済の構造変化は個人の意思や一企業などの思惑を超えて作用する。古いものは壊され、次々に新しいものが生まれる。人込みで沸き返っている大阪万博の影で、故郷を失い、時代に押し流されて漂ってゆく人々が無数に生まれていた。「家族」と「故郷」の二つの家族自体が悪いのではない、他人が悪いのでもない。精一が船の修理を頼みに行った男も、時代が変わり彼が作った他の船が先日廃船になって燃やされたと話す。個人や集団の意志を超えて作用する大きな力はかたちを変えつつ常に存在している。無学な精一にはその力が何であるか理解できないが、確かに自分たちの力ではどうすることも出来ない「大きな力」がそこにある事は感じ取っていた。

  「個人や集団の意志を超えて作用する大きな力」とは時代の流れによる産業構造の大規模な変化を指している。この「大きな力」は後の″時代劇三部作″にも働いている。しかし江戸時代を舞台にした後者の場合、「大きな力」は人々を押し流してゆく時代の変化としては現われてこない。武家社会はむしろ固定した世襲社会である。30石の家に生まれたものは30石の家のものとして生まれ育ち死んでゆく。武士たちは戦をしなくなり、体面ばかりを重んじる形骸化した格式や作法が幅を利かせている。したがってこの時代の武家社会における「大きな力」とは固定した社会の抑圧的力として現われる。武士たちは自分の身分を守ることに汲々としている。

  この抑圧的な武家社会を舞台とした″時代劇三部作″の主人公たちは、武家社会の理不尽な制度に絡め取られ呻吟する。武家社会という階級社会の中で冷や飯を食わされ、御家大事の際には捨て駒にされ、切り捨てられる下級武士たち。藤沢周平の原作はこの下級武士たちを主人公にしている。その点に彼の作品のユニークさがある。「水戸黄門」のように権力者が権力を振りかざすことで事件を解決する世界とは対極にある。またお家騒動を描いても、その中心で活躍または暗躍するのではなく、刺客という捨て駒として描かれる。やくざの世界で言えば「鉄砲玉」である。

  変化の乏しい社会だから、多くの時代劇はお家騒動のような大事件を扱うか、または最初から浪人を主人公にして、がんじがらめの武士社会にとらわれない「自由な」生き方を描いてきた。藤沢周平の原作は時代劇で人気の剣客物ではあるが、同時に主人公を下級武士にしているので剣豪物の豪快さではなく、むしろ武家社会という階級社会の中で踏みつけにされる弱い立場にある者の悲哀感が強調される。しかしそんな取るに足らない存在でも守るべき生活や家族がある。下級であっても武士は武士。そんな彼らのささやかな意地と誇りが果し合いへと赴く彼らの姿に重なりわれわれの胸を打つのである。

  藤沢周平原作、山田洋次監督による″時代劇三部作″は武家社会の残酷さが描かれているという意味で、小林正樹監督の「切腹」(62)や「上意討ち」(67)、あるいは今井正監督の「武士道残酷物語」(63)や「仇討」(64)の系統に属する作品である。浪人ではあるが武士の日常を丹念に描いているという意味では山中貞雄監督の「人情紙風船」(37)にも通じる。山田洋次監督の″時代劇三部作″の主人公たちはいずれも剣客だが、剣豪ドラマではないので剣戟が売り物ではない。むしろ下級武士たちの日常生活を丹念に描きこんでいる。その平和な生活が避けようのない事情で破られる様を描く。したがって浪人者を主人公とした黒澤明監督の「七人の侍」(1954)、「用心棒」(1961)、「椿三十郎」(1962)のような胸のすく殺陣は味わえない。また固定した時代を描いているので、幕末の動乱の時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のようなダイナミズムにも欠ける。良くも悪くもそういう作品として観なければならない。

  ここまで確認した上で、さらにもう一つ別の角度から見てみる必要がある。藤沢周平はKaeru1 決して侍ばかりを描いたわけではない。彼の作品の重要な部分として町人物がある。いうまでもなく彼の共感は権力者ではなく庶民や下級武士などの弱い立場の者に寄せられている。しかし当時の人口の大半を占める農民を描いた作品はほとんどない。『義民が駆ける』(未読)という作品もあるが、これも農民ではなく武士に焦点が当てられているようだ。白戸三平の名作『カムイ伝』と比べてみれば、いかに″時代劇三部作″が限られた世界を描いているか分かるだろう。『カムイ伝』は農民の視点を中心に武士や商人の世界も描いている。ここまで描いてこそ本当にその時代を動かしていた「大きな力」が見えてくるのである。例えば『カムイ伝』の第一部1巻″誕生の巻″に次のような会話がある。

伊集院「竜之進どの、なにゆえ剣を学ばれるな?」
竜之進「笹先生が申しております・・・。兵法は、仁・義・礼・智の四徳にもとづくもの、直
  心をもち非心をたつ・・・剣は敵をきるのでなく、おのれの心の非をきる。」
伊集院「わしはこう思うんじゃ。・・・やがて、人間は火を発見し、鉄をしり、自然から物を
  ひろったりとったりするだけでなく、いままで共同でなければえられなかったものを、
  個人的にも作り出すことができるようになってきた。そうすると個人所有が生まれて
  くる。そして、それは個人差をつくり、豊かな者とまずしい者が、うまれてくるわけ
  じゃ。豊かな者はまずしい者を支配し、豊かな者がますます豊になれば、それだけ
  まずしい者がふえ、いまの武士と百姓のように、支配する者と支配される者ができ
  てきたわけじゃ。少数の者が多くの者を支配するには、権力がなければならぬ。そ
  の権力をささえるには武力が必要じゃ。もちろん支配者どうしの戦いも必要じゃろ
  う。しかし、それもより大きな支配力をもつためじゃ。」
竜之進「すると、武術は人が人を支配するためにあるというのですね?」
伊集院「ちがうかな?もっとわかりやすくいえば、武術は人を殺す方法じゃよ。ハハハ
  ハ、じゃから剣の修行はどんな理屈をつけてみても、その本体はひとりで、できるだ
  けおおくのやつを殺すことができるかということの研究と修練ということじゃ。」
<白戸三平『決定版カムイ伝全集 第一部1巻 誕生の巻』」(小学館)>

   「武士の一分」で新之丞が毒味役など早く辞めて隠居し、身分に関係なく子供たちに剣術を教えたいと語る場面がある。「俺はかねがね、考えていることがある。今までの師匠がたとは違った教え方をしたい。つまり、それぞれの子供の人柄や体つきにあった剣術を、例えばそれぞれの身の丈にあった着物を仕立ててやるように教える。これは俺の夢だの。」中間の徳平が百姓の子供でもいいのですかと聞くと新之丞は構わないと答える。ここにわずかに武士以外の存在が垣間見えるが、それ以上には言及されない。やはり閉じられた世界である。「武士の一分」で映されるのはほとんど城内と新之丞の家である。だからダメだと言っているわけではない。ヴィスコンティの「山猫」は貴族社会を描いた作品だが、これは紛れもない傑作である。藤沢周平の世界がどういう世界なのかを最初に理解しておくべきだと言いたいのである。

  山田監督の3部作すべてに通じることだが、決闘シーンは最後に出てくるだけで、映画の大半は日常生活の詳細な描写に当てられる。特にこの3作目にはその傾向が強い。日常描写の焦点は食事のシーンと移り変わる庭の風景である。食事の質素さと無駄のなさは驚くべきである。ご飯に芋がらの煮物や浅漬けの野菜をつけただけの質素な食事。食べ終わった茶碗にお湯をかけ、漬物できれいにふき取るようにしてそのまま箱状のお膳の中に食器をしまう。あの食器入れとお膳を兼ねたような箱(何と呼ぶのか?)の使い方、食べた後きちっと箱の中にしまう几帳面さ。三十石の下級武士の生活が丁寧に描きこまれている。生活の細部の描写がどれだけこの作品のリアリティーを支えていることか。慎ましやかに夫の指示に従う妻加世(檀れい)のなんでもない所作が実に自然である。現代劇のような過剰な愛情表現はほとんど皆無である。にもかかわらずこの夫婦と中間の徳平(笹野高史)のわずか三人で構成される「家族」には愛情があふれている。檀れいは宝塚出身で初めて見る女優だがはっとするほどの美人で、演技に無理を感じさせない。山田監督の演出力にはいまさらながら舌を巻く思いだ。

  日常の綿密な描写を支えるのは細部のリアリティである。寝込んでいる新之丞(木村拓哉)のぼさぼさで汚く見える月代や地味でくたびれた感じの着物、「~でがんす」が多用される方言などは1作目からおなじみだ。今回は君主が現われるのを待っている新之丞たちがしつこい蚊に悩まされる場面やCGで蛍を描くなどの新たな工夫を凝らしている。加世が着物のしわを伸ばすのに使っていた火熨斗にも驚いた。今で言うアイロンだが、鉄の箱に炭火を入れて使っている。形はアイロンとほぼ同じだ。セットで撮影しているので庭の様子が四季に応じて変わってゆく場面はスタッフの手作りなのだろうが、木の新芽や葉っぱの微妙な変化など作り物らしさを感じさせない。物づくりが失われつつある日本で、この撮影現場には「プロジェクトX」の精神がまだ息づいている。

  決闘の場面でも剣と剣がすりあう時の軋るような金属音が実に生々しい。その音を聞いただけで背筋がぞくっとする。あれは本物を使っていたのだろうか、普通の小道具ではあんな音は出せないと思うのだが。蛍のCGも自然だった。CGに頼りすぎないところもいい。セットでありながら様々な工夫を凝らして使い込んだ感じを出すなど、これまで培われてきた技術が基本に置かれ、CGはワンポイントで使う。本来CGはこのように使うべきだという哲学が感じられる。

  画面に映っているあらゆるものに工夫が込められている。日本家屋独特の縁側がうまく使われている。庭と屋内をつなげる特殊な空間。内側から撮れば人物が手前になり庭の様子が見える。蛍が飛び交う庭の様子を向こう側に映しながら、「ホタルはもう出たか」という新之丞の問いに加世が「まだでがんす」と答える会話が描かれる。目の見えない夫を気遣う加世の切ない心情が画面奥の蛍の光に重なる素晴らしい場面である。庭側から撮れば庭の木々が大きく映されると同時に家の中の様子も映せる。手持ち無沙汰そうに縁側に座る新之丞。横にさりげなく置かれたつがいの文鳥の入った鳥かご。いつも変わらぬリズムで変化する庭を手前に配し、身辺に劇的な変化をこうむった侍の姿を客観的に写し取る。不自然さを感じさせない作られた自然と撮影技術の見事な融合。ついキャメラの位置がどうの、光の当て方がどうのと論じがちだが、その前提となる細部のリアリティーにも、もっと注意を向けるべきだ。

  衣装を担当した黒澤和子のコメントが印象的である。「三村新之丞には奥さんがいる。だから上等な着物ではないけれどきちんと手入れがされているという感じが出るようにしてほしい、というのが山田監督の意向でした。ですから、自然素材のものをできるだけ使い、清潔だけど使い込んだ感じを出すようにしました。」このコメントだけではない。山田″時代劇三部作″の劇場用パンフレットはどれも充実している。下手なメイキング映像より映画作りの現場の様子が伝わってくる。本来パンフレットはこうあるべきだと思った。

  新之丞、加世、徳平の描き方がまたいい。新之丞は腕の立つ剣士であり藩校でも秀才といわれるほど学問もあるが、藩に与えられた仕事は毒見役。当然張り合いはない。妻にSen_1 ぶつくさぼやいている。演じた木村拓哉は方言も自然で、テレビ出演で身についたおざなりな演技をすべてこそぎ落として山田組の一員になりきっている。木刀の素振りや果し合いでの身のこなしなどは素人の域を超えている。剣術に関しては1作目の真田広之と並ぶ出来ばえだ。最初のあたりは顔が細く見えるせいか、線が細い感じを受けたが、失明してからの演技は素晴らしい。失明直後の自暴自棄になった凄絶な姿、意を決っして決闘に臨む毅然とした姿、まるで別人のようになってゆく。特に目がすばらしい。盲人の目の動きをかなり研究したのだろう。パンフの写真を見ればわかるが、決闘の場面の目は完全に盲人の目である。焦点が合っていない。「笑の大学」での稲垣吾郎も名優役所公司を相手に懸命に頑張っていたが、「武士の一分」の木村拓哉はそれを上回っている。「どうすればもっと上に行けるのかと考えてしまう。実質的な合格点などないんですけど、リミットもない。上を目指せば目指すほどある、そういう現場でした。」(パンフ)

  新之丞と加世の場面では互いのさりげない愛情が描かれるが、新之丞と徳平との間ではほんわかしたユーモアがかもし出されている。互いに軽口をたたき合う関係なのだ。前の2作にも中間は出てきたがまったくの使い走りに過ぎない。徳平は存在感を持った一人の人間として描かれている。家族の一員に近い。身分の違いをわきまえつつも、どこか口うるさい小姑のような存在でもある(新之丞も彼にわざと悪態をつくが、これは彼なりの愛情表現である)。主人をいさめたりもする。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係に近い。演じた笹野高史が出色の出来。これまではちょいと出てくるだけの端役が多かったが、ここでは準主役。重要な役を見事に演じきった。寅さんシリーズの常連だから顔は知っていたが、彼を俳優として意識したのはつい最近のことだ。「パッチギ!」で演じた在日一世の役。彼が主人公の康介に向って言った台詞、「お前ら日本のガキは何知ってる?」で始まる激烈な言葉はあの映画のハイライトだった。

  「武士の一分」が描いたのは、質素ながらもお互いを思いやって過ごしていたのどかな日常が暗転してゆく様である。藩主の身代わりに毒見をするというモルモット並の非人間的な仕事への反発、平凡でささやかではあるが温かい夫婦生活を無残に奪われた無念さ、そこに観客の共感が向けられる。黒澤の時代劇のようなばっさばっさと敵を切り倒す爽快感ではなく、山田時代劇の決闘シーンにはむしろ悲壮感が漂っている。

  最後にこの映画のユニークさについてもう一度触れておきたい。チャンバラが売りだった時代劇に日常性を大幅に取り込むということがいかにして可能だったのか。山田監督が逆説的な表現でこれを説明している。「昔のすべてが良かったなどとは思っていません。封建時代の人間関係は過酷だったはず。とくに君主と藩士の主従関係。主君に「腹を切れ」と言われたら「承知いたしました」と、頭を下げるしかない怖い時代、自由・平等以前の重苦しい時代なんです。でもそのように身分関係が固定されていて、能力によって出世する、というようなことがまずなかったから、侍たるもの欲を抱かない、貧乏を恥じるどころか、逆に誇りにする――そんなモラルに包まれたつましい暮らしぶりの中に一種の閉ざされたユートピアを藤沢周平さんは見たんじゃないか、という考えです。」(パンフ)

  とにかく時代劇がとっくに廃れた時代に敢えて時代劇を撮ろうとするにはそれなりの工夫が必要である。それまでの時代劇とは違うものを作らねばならない。山田監督にはそういう思いが強烈にあっただろう。「ごく少数の優れた作品を別にすれば従来の時代劇映画、特にテレビの時代劇はいい加減に作られている。僕たちの先祖が生きていたのはどんな時代だったのか?何を思い、どのように感じていたのか?ということを想像する努力を何故しないのかと、つねづね腹立たしく思っていました。」(パンフ)したがって悪役もそれまでのパターンとは違う設定になる。仇役の坂東三津五郎が面白いことを言っている。「監督は、昔の時代劇のように、(仇役が)一目で悪い奴とわかってしまうのはつまらなく、抗いがたい色気を持たせいたいとおっしゃってました。」歌舞伎役者が抜擢された理由はそこにある。

  最後にタイトルにある「一分」について。一分とは面目のことだが、プライドと言い換えた方が分かりやすいかもしれない。監督は最初「愛妻記」というタイトルを考えていたらしい。確かにこの映画は愛情とプライドが主題である。夫を愛するからこそ自害しようとする夫を必死で引きとめ(「死ぬならどうぞ。私もその刀ですぐ後追って死にますさけ」)、夫のことを上役に頼み込もうとして自分をのっぴきならない立場に追い込んでしまった妻、妻を愛するからこそ死を覚悟しつつ決闘に臨んだ夫、主人を愛するからこそ軽口もたたき果し合いの場面にも付き添って最期を見届けようとする中間。

  「武士の一分」ではプライドの二つの面が描かれている。自分の剣の腕を過信し相手を目が見えないと侮る「驕り」と、敢えて死を決意して決闘に臨んだ男のどうしても譲れない武士の「面目」。勝負を分けたのは剣の腕ではないという描き方がいい。

<関連記事>
 今井正監督の「仇討」については、本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の《映画日記》コーナーに短評を載せています。

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2006年12月15日 (金)

2006年に公開された主な日本映画

「あおげば尊し」(市川準監督) Rousoku
「明日の記憶」(堤幸彦監督)
「アタゴオルは猫の森」(西久保瑞穂監督)
「雨の町」(田中誠監督)
「ありがとう」(万田邦敏監督)
「蟻の兵隊」(05、池谷薫監督)
「UDON」(本広克行監督)
「男たちの大和 YAMATO」(佐藤純彌監督)
「ガーダ・パレスチナの詩」(古居みずえ監督)
「風のダドゥ」(中田新一監督)
「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)
「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督)
「かもめ食堂」(荻上直子監督)
「キャッチボール屋」(大崎章監督)
「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)
「THE有頂天ホテル」(三谷幸喜監督)
「佐賀のがばいばあちゃん」(倉内均監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「シムソンズ」(佐藤祐市監督)
「好きだ、」(石川寛監督)
「そうかもしれない」(保坂延彦監督)
「チーズとうじ虫」(加藤治代監督)
「ディア・ピョンヤン」(ヤン・ヨンヒ監督、日本)
「手紙」(生野慈朗監督)
「天使の卵」(富樫森監督)
「時をかける少女」(細田守監督、アニメ)
「長い散歩」(奥田瑛二監督)
「涙そうそう」(土井裕泰監督)
「虹の女神」(岩井俊二監督)
「寝ずの番」(マキノ雅彦監督)
「紀子の食卓」(園子温監督)
「博士の愛した数式」(小泉堯史監督)
「バックダンサーズ!」(永山耕三監督)
「花田少年史」(06、水田伸生監督)
「花よりもなほ」(是枝裕和監督)
「ハリヨの夏」(中村真夕監督)
「ひだるか」(港健二郎監督)
「ビッグ・リバー」(舩橋淳監督、日・米)
「武士の一分」(山田洋次監督)
「フラガール」(李相日監督)
「待合室」(板倉真琴監督)
「間宮兄弟」(森田芳光監督)
「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督)
「水の花」(木下雄介監督)
「ゆれる」(西川美和監督)
「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)
「雪に願うこと」(根岸吉太郎監督)
「夜のピクニック」(長澤雅彦監督)
「ラフ」(大谷健太郎監督)
「六ヶ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督)

 師走は本当に忙しい。「武士の一分」のレビューも半分ほど書いて、その後ほとんど手を付けられないまま今日まで来てしまいました。やっと一山越えたので、何とか明日中には書き上げたいと思っています。そうこうしているうちに年間ベストテンを作る時期になってしまいました。はっきり言って埋め草記事ですが、今年公開された主な作品を日本映画と外国映画に分けて掲載します。またまた味気ないリストで申し訳ありませんが、各自のベストテンを作る参考にでもしてください。

 また年末か1月初めに06年度公開映画をまとめる記事を載せる予定です。そこでも書く事になると思いますが、今年の日本映画の充実振りは特筆すべきです。山田洋次監督が「武士の一分」を撮る時に、自前の撮影所がないので東宝の撮影所を借りるなど、まだまだ日本映画界の課題はたくさん残っていると思います。それでもこれだけ注目作が作られているということは日本の映画人の力量の高さを示しています。日本映画はアニメだけではないことをはっきり証明した1年だったと思います。

 その傾向は僕のブログのアクセス数にも如実に現われていて、年末に記事別年間アクセス数ベスト20を載せるつもりですが、何とベスト5は全部日本映画です。アクセス数は記事の出来とは関係なく、関心の高さを反映するものですからいかに日本映画の関心がこの1年で高まったかが分かります。去年は「日本映画はあまり観ない」という文章を良く見かけましたが、今年は全く見かけません。日本映画を取り巻く環境が大きく変わりつつあります。

 06年はまたドキュメンタリー映画の力作が多く公開された年としても記憶に値するでしょう。僕が目にしたいくつかのベストテンでもドキュメンタリー映画が何本か入っています。アメリカの「スティーヴィ-」と合わせてそのことが持つ意味をじっくり考えてみる必要があると思います。

2006年12月11日 (月)

「武士の一分」を観てきました

Mado_akari1_1   5日から7日までココログのメンテナンスがあり、使いにくかったことをお詫びいたします。また丁度その時期は個人的にも忙しく「ココシリ」のレビューがなかなか書けませんでした。何とか書き終えたのですが、ちびちびと書き続けていたのでだらだらと長い文章になってしまいました。やはり根をつめて一気に書いた方がいいものが書ける気がします。しかしあまり無理してまた潰瘍が出来ても困るので、今後もスローペースで行かざるを得ません。

  土曜日に「武士の一分」を観てきました。山田洋次監督作品ですので安心印、さすがの出来でした。木村拓哉は意外に健闘。特に視力を失ってからの「目の演技」がいい。壇れいは初めて観ましたがなかなかの美人。ただ、いくら3部作とはいっても同じ原作者、同じようなストーリー展開ではさすがに前2作よりインパクトは弱い。もっと工夫が欲しかった。

  他にDVDでベトナム映画「夏至」とスパイク・リー監督の「インサイド・マン」を観ました。ベトナム映画を観るのは「無人の野」(1980)以来2本目。だらだらと何の盛り上がりもなく続くこの手の映画はどうも受け付けない。映像は綺麗だし、女優も美人なのですがさっぱり面白くなかった。一方、「インサイド・マン」はなかなかの出来。スパイク・リーらしさはかなり薄れていますが、この手の映画としては良くできている方だと思いました。デンゼル・ワシントンを観るのは久々。それなりに頑張ってはいましたがかつてのような求心力はない。むしろ光っていたのはクライヴ・オーウェン。あの渋い面構えがいい。たっぷり見ごたえのある作品でした。それぞれの評価点は以下の通り。「武士の一分」はレビューを書きます。(レビューはこちら

 「武士の一分」★★★★☆
 「夏至」★★★
 「インサイド・マン」★★★★

  本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の<miscellany>コーナーに「マイDVDコレクション 今年の成果」という記事を載せました。今年は加速度的に旧作のDVD化が進みました。コレクターとしては喜ばしい限りです。ただ、リストものですし、個人的な趣味で集めたものですからブログには載せませんでした。興味ある方だけどうぞ。

2006年12月 9日 (土)

ココシリ

2004年 中国 2006年6月公開 Moon39
評価:★★★★★ 原題:可可西里
監督、脚本:ルー・チュ-アン
撮影:カオ・ユー
美術:ルー・ドン、ハン・チュンリン
出演:デュオ・ブジェ、チャン・レイ、キィ・リャン、チャオ・シュエジェン

  「ココシリ」は車で眠っていた男が数人の男に捕らえられ、銃で撃たれて殺される場面から始まる。その後に入る字幕が「ココシリ」がどういう映画であるかを端的に語っている。

  中国最後の秘境ココシリ、平均海抜4700m。チベットカモシカの生息地だ。1985年以来チベットカモシカの乱獲が横行し、欧米でその毛皮が売りさばかれ、わずか数年で生息数は100万頭から1万頭に激減した。1993年民間パトロール隊が組織された。隊長はチベット族の元軍人リータイ。パトロール隊と密猟者の攻防は内外のメディアに注目された。1997年隊員が任務遂行中に射殺される事件が起きた。私はその事件の取材に来た。

  北京からココシリに取材に来たのはガイという若い男である。同じ東洋人だがチベット族の目には明らかによそ者だと分かるようだ。それを一番率直に表していたのは遠慮のない子供たちである。子供たちがこのよそ者に英語で話しかけるのが可笑しい。昔は日本でもそうだった。外国人を見るとアメリカ人だと思ってしまう(実際はフランス人やスウェーデン人だったかも知れないのに)。それはともかく、ここで重要なのは、同じ中国とはいっても北京とチベットでは民族も文化も歴史も違うということである。イギリス映画「ウェールズの山」を思い浮かべるといいかも知れない。ウェールズの小さな村にやってきたイングランド人の測量技師たちが最初に発した言葉は「誰か英語を話せるものはいないか?」である。同じ国の中にある「外国」。「ココシリ」には首都の大都会から来た若者が異文化の中に入り込み、その独特のものの考え方(特に死生観)や生き方を理解してゆくというサブテーマがあることを最初に理解しておくべきだろう。

  ガイはココシリに着いて早速「異文化」に遭遇する。鳥葬である。「天空の草原のナンサ」のレビューでも書いたが、遺体を鳥に食べさせるという習慣は残酷な行為に思える。それは北京育ちのガイにとっても同じだった。鉈で死体を切り刻む光景を正視できず顔を背けているガイの姿が映されている。遺体を鳥に与える習慣は輪廻転生の思想と関係しているだろう。「生まれ変わり」という考え方からすれば、人間も動物も平等である。鳥葬は人間と動物が一体化するための儀式なのだろう。ル・チューアン監督も「チベット族は死を非常に平静に受け止めます。なぜなら彼らにとって、人間は必ず生き返るもの。一つの生命の終わりは、次の生命の始まりにつながるのです」と語っている。密漁者たちのボスがリータイに投げかけた「カモシカのほうが人間よりも大事なのか?」という疑問に対する答えは、この鳥葬の儀式に暗示されている。「カモシカも人間も同じように大事だ」、リータイはこう答えていたかも知れない。

  鳥葬の後、ガイはマウンテン・パトロール隊の隊長リータイに取材を申し込む。リータイは最初彼を相手にせず追い払おうとする。しかしガイが「自然保護区の設置の取材に来たんです」と言うと隊長が振り返る。以前から国に保護区のことを何度も訴えていたことがこの短いエピソードから読み取れる。この点は重要なことで、後でまた触れる。

  ともかく、こうしてガイはパトロール隊に受け入れられる。しかし彼がよそ者扱いされるのは子供だけではなく大人も同じだ。隊員たちと食事をしていた時、ガイが肉を切っているとナイフの方向が逆だとある隊員にチベット語で言われる。ガイはあわてて自分に向けて肉にナイフを入れる。チベット語が分かるのかと隊長に聞かれて、ガイは「父はチベット族だ」と答える。それを聞いて隊長が微笑む。この時はじめてガイは彼らに受け入れられたのだろう。それほど民族意識が強いのだ。

  ここまではいわばイントロダクションである。「ココシリ」の中心をなすのは山岳パトロール隊による密猟者の追跡劇である。彼らがパトロールに出てからは、息を継ぐ間もないほどの緊張の連続。これまで味わったことのない異様なほどの迫力がある。アメリカ映画のような派手な銃撃戦もないし、巨大なビルをいくつも破壊するような大スペクタクルもない。ではいったいこの迫力はどこから生じるのか。恐らくそれは男たちの執念から来ている。追う者も追われる者も共に執念を持っている。一方には金儲けに対する執着があり、また、どんなことをしてでも生活してゆかねばならないという生への執着がある。一方には何としても祖先から伝えられた生活環境を守ろうという執念がある。執念と執念のぶつかり合い。そこからこの異様な迫力が生まれているのだ。

  この映画には未知の世界への探求、あるいは対象への密着した取材というドキュメンタリーの要素と、命を懸けた執念と執念の戦い、追いつ追われつのサスペンスというドラマとしての要素が同時に盛り込まれているのである。密猟者たちもパトロールたちも銃で武装している。双方命がけの戦いである。しかしアメリカ映画のような単純なアクション映画になっていないのは、善と悪を単純に分けていないからであり、「正義」が最後に負けるからである。

  ここでちょっと寄り道して、「ココシリ」と共通する特質を持った映画を次に取り上げて見たい。「エレジー」というトルコ映画である。次は「トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ②」からの引用である。

 「エレジー」の見所の一つは崖の下での憲兵隊との銃撃シーンである。巨大な岩が次々に転がってくるのを避けながら双方撃ち合う場面のダイナミズムは、まさに圧巻である。特撮など一切用いず、砂煙を上げて落ちてくる本物の岩石の腹を揺るがすような地響きと威圧感を、そのまま小細工なしで映し取ったことと、 俳優たちの命懸けの演技によって、まれに見る壮絶なシーンが作り出されている。だがこの映画を真に価値あるものにしているのは、主人公の「悪党」たちに対する作者の眼である。われわれは、これらの「悪党」たちに人間性を失うギリギリのところまで追い詰められた貧しい魂を見、彼らの密輸行為の中に生活を感じてしまう。どう見ても悪党なのだが、なぜか義賊のようにも思えてくる。それでいて首にかけられた賞金のために村人たちに殺されてしまうラストシーンには、 妥協のない非情さがある。貧しい者どうしが殺し合っている。生きるためには手段を選ばないのは他の人々も同じなのだ。民衆を見る複眼的な眼はここにも生きている。「エレジー」を単なるアクション映画に終わらせていないのは、人間をとらえるこの眼の豊かさである。

  「ココシリ」が山岳パトロール隊側から見た映画だとすれば、「エレジー」は密輸団側からFan3描いた映画だと言える。生きんがために密輸に手を染める「悪党」たち。しかしどこか憎めない。彼らとて生きていかなければならない。「人間性を失うギリギリのところまで追い詰められ」、生活のために一線を越えた男たち。そこには「酔っ払った馬の時間」に描かれた、イランとイラクの国境地帯で密輸をして生活を立てている人々と重なるものがある。あるいは、「ロード・オブ・ウォー」で不時着した飛行機があっという間に村人たちによって解体され、使えるものはすべて持ち去られるシーンを思い浮かべてもいい(「骨」だけになった飛行機の残骸は「ココシリ」に出てくる骨だけになったカモシカの死骸を連想させる)。ここではむしろ虐げられた貧しい人たちの「たくましい生活力」が肯定的に描かれている。

  「ココシリ」でこれに相当するのが皮剥ぎ職人たちである。密猟者のボスに雇われて殺し たチベットカモシカ(レイヨウ)の皮を剥いでいるが、根っからの悪人ではない。彼らもまた生活のために密漁に手を貸しているのである。皮剥ぎ職人の長が語った言葉が観客の胸に重くのしかかる。「昔は放牧をしていた。羊やヤクやラクダを飼っていたんだ。草原が砂漠になってしまって家畜は死んだり手放したりで、食べるためにしかたなくこんなことをしている。」皮剥ぎ職人一家の長は温厚そうな人物である。草原が砂漠になっていなければ昔通りの生活を営んでいただろう。見渡す限りチベットカモシカの死骸が横たわっているショッキングなシーンは観る者の怒りを掻き立てるが、それを実行した職人たちは決して血も涙もない冷酷な男たちではない。だからこそやりきれないのだ。

  一方、密猟者を取り締まる山岳パトロール隊の方も決して潤沢な資金を持っているわけではない。車の中でガイが隊長のリータイに質問する場面がある。ガイ「山岳隊の抱える問題は?」隊長「金もない、人手もない、銃もないことだ。隊員たちはもう1年も無給で働いている。県の組織じゃない。」「経費はどこから出てる?」「自費だ。」「没収した毛皮をどう処分している?」「上納してる。」「毛皮の一部を売って経費にしているのでは?」隊長はにらんで答えない。「毛皮を売るのだって非合法だぞ。これじゃ記事なんてとても書けない。」「だから?マスコミがココシリを守れるとでもいうのか?監獄に入っても構わん。非合法は承知の上だ。そんなことは言ってられん。そうしなければ部下とココシリを守れない。チベットへの巡礼を見たことがあるか?彼らは顔も手も汚れているが、魂は清らかだ。毛皮を売るより他に方法はないんだ。」

  「チベットへの巡礼」の例えにあまり説得力はない。しかしそれ以上ガイは追求しない。なぜなら隊長の言うとおりだからだ。この会話を通じて批判されているのは隊長個人ではない。県と国なのだ。山岳パトロール隊の努力に理解を示さず、チベットカモシカが密漁で激減していることに関心を示さない県と国の責任が追及されている。この会話が意味するところはエンディングの字幕と合わせて理解されればさらによく理解できる。

  ガイのリポートは中国全土を揺るがせた。生き延びた4人の隊員は毛皮を売った罪で逮捕されたが、起訴は免れた。1年後ココシリは自然保護区に制定され、森林警察が誕生し、山岳パトロール隊は解散した。現在ほとんどの国でチベットカモシカの毛皮の売買は禁止され、ココシリのチベットカモシカの生息数は3万頭に回復した。

  ガイは自分が観てきたことを記事にして国と国民に訴えたのだ。国が本腰を挙げて有効な対策を取るべきだと。問題を個人の倫理のレベルに短絡させて描いていないことをしっかりとらえておく必要がある。徴収した罰金を使ったり、また毛皮を闇で売らなければならないところまで隊員たちを追い詰め、放置していた国の無責任な対応こそが追及されているのだ(中国だからそれをストレートに書いたわけではないだろうが)。しかし、隊員たちが止むに止まれずやったこととはいえ、毛皮の売買をしたことは事実だ。だからガイはそのことも報告したのだろう。だが同時に、そうせざるを得ない状況に彼らが追い込まれたのは国がココシリでの乱獲を防ぐ有効な手段を取ってこなかったからだと訴えたに違いない。ガイは事実を事実として報告はしたが、決して彼らを弾劾はしなかったはずだ。そこにどんな事情があったかは一部始終を見届けた彼が一番よく知っている。だから、隊員たちは捕らえられたが起訴はされなかったのである。彼らが私腹を肥やすために法を犯していたのでないことは明らかなのだから。

  上でアメリカ映画のように「善と悪を単純に分けていない」と書いたが、パトロール隊も裏では汚いことをしていると言って密猟者と同じレベルに引き下げているわけではない。やむなく密漁に手を貸している人たちの事情をきちんと描いているという意味である。雇われている彼らと雇っているボスとをはっきり分けて描いているということだ。パトロール隊の最終的な目標は皮剥ぎ職人たちではなく、その背後にいて彼らを雇っている密猟者のボスである。しかしそのボスを捕まえれば問題が解決するというわけではない。「ココシリ」が提起した問題はもっと根深い問題だ。

  彼らが追跡しているのは密猟者のボスだが、彼らが真に相手にしているのは密猟者個人ではない。パトロール隊が立ち向かっていたのは国際的な毛皮の売買という巨大なシステムである。一人のボスを捕まえてもまた別の密猟者が現われる。チベットカモシカの毛皮が商売になる限り密猟者が尽きることはない。毛皮を求める(買う)者がいて、毛皮を密猟するものがいて、その間に売りさばく商人がいる。そういった巨大なシステムと彼らは戦っているのである。もちろん彼らに出来るのはそのシステムそのものを解体することではない。彼らにはそんな力はない。彼らに出来るのは密漁の現場でぎりぎりの水際作戦を展開することだけである。衝撃的なラストが表現しているのは、豊富な資金を持つ密猟者こそがココシリを支配しているということ、資金も人手も銃も足りないボランティアだけではそれに対抗できないということである。ココシリを支配しているのは資本主義の冷徹な論理なのである。

  だからこそ「自然保護区の設置の取材に」北京から来た若者を隊長は受け入れたのだ。国が動かなければ根本的な解決は図れない。「マスコミがココシリを守れるとでもいうのか?」と言いつつもマスコミに頼らなければ国や世論を動かせないのも事実である。それほど問題は根深いものなのである。その点で映画の姿勢は徹頭徹尾一貫している。問題の核心を個人の善悪のレベルにすり替えてはいない。国内でココシリを自然保護区にするだけではなく、毛皮の国際的売買を禁止するところまでこぎつけて、やっと解決に向かって大きく前進したのである。

  放牧が成り立たなくなり仕方なく皮剥ぎを商売にしている貧しい農民の背後に彼らを雇っているボスがおり、その背後には国際的な取引関係がある。ぼろもうけになることがSabakuasa2あれば、どこにでも欲得ずくの人間が群がってくる。飢えた国で食料にならない珈琲豆を作り、豊かな国の人々がそれを嗜好品として飲む、そういう関係がある。貧しい国の森林を伐採し豊かな国の人々がそれで家を建てる、あるいは、飢えた人たちが生きるために自分の血を売り、その血が豊かな国の人たちに輸血される、そういう関係がある。その点を見落としてはいけない。そこまで考えをめぐらさなければ「ココシリ」を観た意味がない。監督自身そのことをしっかり理解してこの映画を作っている。「彼らは密漁さえしていなければごく普通の農民です。貧しいがゆえに密漁に手を染めてしまったのです。特に密漁を職業にしているわけではなく、生活の糧のためにやむなく密漁をしてしまったのです。罪を負うべきは彼らではなく、密漁に彼らを追い込んだ環境が問題だ、と思うようになりました。」  

 密漁問題はまだ解決したわけではない。この記事を書く時に自然保護NGO組織WWFのHPを見てみた。2006年7月11日付けの記事に「チベットのチャンタン自然保護区で最近実施されたWWFの調査の結果によると、保護区での狩猟全面禁止措置にもかかわらず、密猟は減らずにいる」と書かれていた。需要がある限り密漁は続く。「わが家の犬は世界一」のレビューでも書いたように、取締りが強化されれば闇屋が跋扈するのは道理。密猟者との戦いは決して終わってはいない。まだ現在進行形なのである。

  密猟者の追跡中何人もの犠牲者を出し、隊長自身も最後に殺されてしまう。パトロール隊はなぜそこまでしてチベットカモシカを守ろうとするのか。これは監督自身の疑問でもあったようだ。ルー・チュ-アン監督は「山岳パトロール隊の初代と二代目の隊長が、パトロール中に命を落としたのを知り、彼らがなぜ無償でそこまでするのかを理解するために、自分はこの映画を作った」と語っている。彼は現地の俳優と素人を使って「ココシリ」を撮った。じっくりと時間をかけて彼らと親しくなるようつとめたそうである。彼らと接し、実際にココシリで撮影をしてチベット族の文化や考え方が次第に理解できたようだ。

  チベット族の文化や考え方を理解することが「ココシリ」の理解につながる。チベット族の俳優で隊長を演じたデュオ・ブジェ(実に精悍で圧倒的存在感を持った俳優だ)は「チベッ ト族にとって、生命あるものはみんな神の子、人間もカモシカも同じなのです」とインタビューで発言している。殺された隊員の鳥葬で始まり、隊長の鳥葬で終わる。彼らにとっては人間もカモシカも一時的な現世の姿にすぎない。彼らを包む自然という大きな懐の中で彼らは生かされ、生まれ変わってゆく。人間もカモシカも自然も一体なのだ。そういう思想が人数も資金も武器も充分ではない山岳パトロール隊の活動を支えている。恐らくそういうことなのだ。資本主義社会の中で生活し、すべてを利潤や利害関係で判断・理解してしまうわれわれとは全く違った価値観がそこにある。

  しかし「ココシリ」はその価値観や死生観をはっきりと言葉では表現しない。鳥葬のような儀式、黙々とチベットカモシカの骨を集め葬る行為、あるいはパトロール隊の行動そのものによって語らせる。そういう描き方こそが自然なのだろう。監督は「人との付き合い方が全く都会の人間と違います。都会の人間のコミュニケーションはまず会話ですよね。でも彼らはほとんどしゃべらない。お酒を飲み、歌を歌い、という人との付き合い方は、まるで石のよう」と語っている。

 「ココシリ」が説得力を持つのは、中国の大都市に住む若者の目を通してはいるが、彼の価値観ではなくチベット族の価値観を尊重し、その行動をありのままに描いたからである。ある学者がチベットを中国最後の秘境だと言ったというエピソードをリータイ隊長が皮肉な口調でガイに話している。その皮肉な口調に注意しなければいけない。チベット族にとってココシリは秘境でもなんでもない。人跡未踏の場所でもない。彼らが実際に暮らしている生活の場なのである。一貫してそういう視点で描いていることがこの映画を価値あるものにしている。

  リータイ隊長はかなり強引とも思える追跡を遂行するが、それを通じて表現していることは人間の価値よりカモシカや自然の価値が重いということではない。仲間が肺気腫になったとき、彼は最後の手段として押収したチベットカモシカの毛皮を闇で売ってまで仲間の命を救おうとした。彼は決して人間の命を軽視してはいない。追跡の途中で油が切れて動けなくなった車とそれに乗っている隊員たちを置き去りにしてゆくが、それは決して彼らを冷酷に見捨てていったわけではない。またリータイの個人的な独裁的判断でもない。追跡を続行したのは密猟者に追いつくことが可能だと判断したからだ。しかし1台しかない車に乗れる人数は限られている。動く車1台とそれに乗れる人数で追跡するのは理にかなった判断である。もちろんそこで引き返すという判断もありうるが、追跡を続行するのは隊員全員の意思だった。隊員は誰一人その決定に反対はしていない。彼ら自身も納得づくのことなのだ。仲間を信頼しているからこそ仲間を置いてゆけるのであり、仲間の更なる追跡を見送ることができるのだ。助かるか助からないかは運しだい。広大で何もない地域に足を踏み入れた段階ですでに、自然に命を預ける状況に彼らは身をおいているのである。それは出発の時に彼らの家族や恋人たちが泣きながら見送ったのと同じである。彼らを抱きしめ涙を流しながらも誰も彼らを引きとめはしない。なぜ彼らが行かなければならないかを理解しているからである。

  いや、密猟者たちに対してもその態度は同じだった。途中で食料と燃料がなくなり、捕まえた密猟者のマーたちを置いてゆかざるを得なくなった。その時隊長はただ彼らを無慈悲に放り出したのではない。運がよければ300キロ先の崑崙にたどり着けると話し、去り際に「仏のご加護を」とつぶやく。その後彼らが生き抜けるかどうかは運と彼らの生命力しだいだ。生き残るためには自然に勝つしかない。それが厳しい自然に足を踏み入れた者の掟なのだ。

  彼らの追跡行が熾烈だったのは密猟者との戦いだけではなく自然の厳しさとも戦わなければならなかったからである。いやむしろ「戦う」よりも「耐える」と言った方がいいのかもしれない。ココシリの自然は決して豊かではない。無防備のままでうっかり人間が足を踏み入れるべき場所ではない。平均標高が4700メートルという富士山よりも1000メートルも高い山地。森林限界をとっくに超えているから草も木もない。土と砂と岩だけの世界。容易に人間を寄せ付けない。とにかく何もないのだ。時々発射される銃の音が乾いた小さな音に聞こえる。恐らく周りに何もない広大な平原なので音が反響しないからだろう。追跡5日目にトラックが狙撃された時、銃の音は聞こえなかった。音が拡散してしまうのだ。なぜ車が急停車し、人が車から飛び降りるのか観客にはしばらく理解できない。あの聞こえない銃声、あるいは聞こえたとしてもタタタタタという乾いた小さな音しか聞こえないことが、人を飲み込んでしまいそうなこの地域の広大さを雄弁に示している。自然が厳しいからこそ、夜中にふと見上げた星空が凄絶なほど美しい。

  ココシリの自然は厳しく容易に人間を寄せ付けない。だからこそ人間の強いつながりがKamome 大切になる。ココシリを知り尽くしているつもりのパトロール隊員でも、一人で行動すれば大地に飲み込まれる。流砂に飲み込まれていったリウのように。仲間がいたら彼は助かったかもしれない。仲間同士力を寄せ合わなければ自然の中で生きてゆけない。だから、人と会ったとき彼らはまるで5年ぶりの再会であるかのように抱き合い、人と別れるときにも今生の別れのように固く抱き合う。パトロール隊が仲間と歌い踊るシーンが印象的だ。吹雪に閉じ込められた人たちが互いを抱きしめあって寒さから身を守るように、彼らは歌い踊ることで互いのぬくもりを求め合う。

  一日の間にころころと天気が変わる荒々しい自然の中だからこそ人間関係が濃密なのである。追うものと追われるものの執念のぶつかり合い、それぞれに生きるための論理がありそれがぶつかり合うことによって生じる強烈なドラマ、その人間同士の戦いに自然との闘いがかぶさる。並外れた重厚なドラマである。この映画の上映時間がわずか88分だとは信じられないほどだ。「ココシリ」は陸上で展開された『白鯨』である。リータイ隊長がエイハブ船長に重なってくる。しかしこの映画は個人の執念では終わらない。結局最後に勝つのは資本主義の論理である。資本主義の論理がパトロール隊の執念をねじ伏せてゆく冷徹なドラマ。それは人間に牙を剥く荒々しい自然をも「征服」してゆく。人間の経済活動が草原を消失させ、チベットカモシカを絶滅寸前にまで追いやる。

  しかし隊長の死で密猟者との戦いが終わったわけではない。最後に描かれるリータイの鳥葬の儀式は暗示的だ。チベット族の死生観のように、彼の死はガイを生まれ変わらせた。彼の書いた記事が世論を動かした。個人やボランティアの小さな集団が始めた戦いを国が引き継いだ。これによって密猟者との力関係が劇的に変わった。しかしそれでも戦いは終わっていない。撮影中にも1000頭ものチベットカモシカが殺される事態が発生したという。最後にもう一度書く。密猟者との戦いはまだ現在進行形なのである。

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2006年12月 3日 (日)

3人の映画人を偲んで

  残念なことだが今年も何人かの映画人の訃報に接することになった。ここでは最近なくなった2人の監督と一人の俳優を取り上げ、生前の思い出を偲びたい。イタリアのジッロ・ポンテコルヴォ監督(10月12日逝去)とアメリカの巨匠ロバート・アルトマン監督(11月20日逝去)、そして「ニュー・シネマ・パラダイス」の名演で日本でもファンの多いフィリップ・ノワレ(11月23日逝去)の3人である。

ジッロ・ポンテコルヴォ監督(1919-2006)

<フィルモグラフィー>
「青い大きな海」(1957)     未見
「ゼロ地帯」(1959)      ★★★★
「アルジェの戦い」(1966)   ★★★★★
「ケマダの戦い」(1969)    ★★★

  最初に観た作品は「アルジェの戦い」。72年に観た。フランスからの独立闘争を描いた映画史に残る傑作である。光と影のコントラストをうまく生かした鮮烈な映像、特にくっきりと明暗に分かれた人物の顔が印象的だ。平べったい顔の東洋人ではああいう映像は撮れない。一旦は鎮圧されたかに見えたが、ラストの一面真っ白い霧の中からまず群衆の声が聞こえ、次第に霧を突き破るようにしてデモ隊の姿が現われてくる映像は鳥肌が立つほど感動的だった。いかにもロッセリーニにあこがれて映画を撮り始めた人らしい、ネオレアリスモの伝統を汲む力強い作品である。彼自身レジスタンスの経験を持っていたそうである。

  「ケマダの戦い」はカリブ海のケマダ島が舞台。大英帝国に対する住民たちの反植民地闘争を描いた。しかし、まるで二匹目のドジョウを狙ったような作品で、同じ人が作ったのかと首を傾げたくなるほど凡庸な映画でがっかり。

  監督第2作の「ゼロ地帯」は東京に出てきたばかりの73年に京橋の「国立フィルムセンター」で観た(当時入場料70円)。5月9日から6月5日にかけて上映された「イタリア映画の特集(2)」の一環として上映されていた。ナチスの強制収容所を描いた作品である。原題の“KAPO”とはもともと収容所の秩序を維持するために囚人の「班長」が使う棍棒のことだが、そこから「班長」 そのものも指すようになった。KAPOは特にナチスに協力的な囚人の中から選ばれるので、囚人たちからはナチス以上に嫌われている。

  この映画は傑作になりそこなった映画だ。前半の酷烈なタッチはまれに見るほど強烈で、「アルジェの戦い」に匹敵するほどである。しかし後半は下手に恋愛を絡ませたために残念ながら甘くなってしまった。

  恐らく観た人は数えるほどしかいないと思われるので、少し詳しく紹介しておこう。原作は女性作家エディト・ブリュックの自伝小説『汝をかく愛する者』。その原作を監督自身が映画用に脚色した。主演はアメリカの女優スーザン・ストラスバーグ(懐かしい!)。その他主だった役はイタリア人俳優ではなくフランス人俳優を使っている。

  強制収容所に送られた主人公のエディトはユダヤ人だったが、その身分を隠して一般女囚ニコーレとして一般収容所に送られた。彼女の家族はガス室に送られ、彼女自身も危うくガス室送りになるところだったが、必死の思いでドイツ兵に体を与え何とか助かる。ドイツ兵に気に入られた彼女は囚人仲間からは嫌われ、ついには「カポ」を渡されて女囚を監視する側に回る。生き延びるために”裏切り者”になったのである。

 やがてその収容所にソ連兵たちが送られてくる。その中にサーシャという捕虜がいた。それまで何かとニコーレを助けてくれたテレーザという女性がそのサーシャを救おうとして電流が流れる有刺鉄線に自ら身を投げて死んだ時、ニコーレは自分を取り戻す。彼女は捕虜たちの脱走計画に協力する決意をする。しかしその計画を実行しようとすればニコーレは犠牲にならざるを得ない。その頃にはニコーレと相愛の仲になっていたサーシャは思い悩む・・・。

 

ロバート・アルトマン(1925-2006)

<おすすめの10本>
「ゴスフォード・パーク」 (2001)060214sozai1
「カンザス・シティ」 (1996)
「ショート・カッツ」 (1994)
「プレタポルテ」 (1994)
「ザ・プレイヤー」 (1992)
「ナッシュビル」 (1975)
「ボウイ&キーチ」 (1974)
「ロング・グッドバイ」 (1973)
「ロバート・アルトマンのイメージズ」 (1972)
「M★A★S★H」 (1970)

  アルトマンといえば「M★A★S★H」である。朝鮮戦争時の野戦病院を描いたあのブラックな笑いは実に新鮮だった。この映画と共にロバート・アルトマンとドナルド・サザーランドの名前が僕の記憶に刻まれた。そしてアルトマンといえば「ナッシュビル」に代表される群像劇である。カントリーのメッカでのフェスティバルと大統領選挙のキャンペーンが入り混じって人間模様が渦巻く。その後これは彼の得意とするスタイルとなり、「ショート・カッツ」、「プレタポルテ」、「ゴスフォード・パーク」など、晩年の作品の多くは群像劇になっている。

  「ナッシュビル」の後しばらく不調が続くが、「ザ・プレイヤー」で復活。彼らしい反骨ぶりがハリウッドの内幕物という格好の題材を得て甦った。その後は上記のような佳作、傑作を立て続けに製作する。キャリアの前半よりも後半のほうが充実していたように思う。イギリスの上流社会を風刺した「ゴスフォード・パーク」は最晩年の作品とは思えない充実した傑作。使用人たちが住む地下室とその上にある上流の世界が階段で結び付けられている。この対比が見事だった。

  イギリスのブライトンにいたときプレストン・マナーを見学したことがあるが(マナーハウスとは上流階級が自分の領地内に建てたお屋敷のこと)、帰りがけに地下室を見て行けと言われた。階段を下りてみて仰天。そこは別世界だった。見事に何もない寒々とした空間。同じ国に住む「二つの国民」という言葉は自分でも時々引用していたが、実際に自分の目で見て初めて「実感」した。「ゴスフォード・パーク」が描いたのはそういう世界である。いわば下層社会と対比的に描かれた上流社会の内幕物。この内幕物も彼の得意とする分野だった。

 

フィリップ・ノワレ(1931-2006)

<おすすめの10本>
「パトリス・ルコントの大喝采」 (1996)
「イル・ポスティーノ」 (1994)
「タンゴ」 (1992)Bara15_1_1
「ニュー・シネマ・パラダイス」 (1989)
「追想」 (1975)
「エスピオナージ」 (1973)
「最後の晩餐」 (1973)
「マーフィの戦い」 (1971)
「将軍たちの夜」 (1966)
「地下鉄のザジ」 (1960)

<こちらも要チェック>
「魚のスープ」 (1992)
「夜ごとの夢/イタリア幻想譚」 (1991)
「料理長(シェフ)殿、ご用心」 (1978)

<気になる未見作品>
「素顔の貴婦人」(1989)

  学生の頃はなぜかフランソワ・ペリエとよく混同した。よく出てくる脇役というイメージが重なったのかもしれない。俳優としてはだいぶ違うタイプなのだが。結構有名な作品に出ているのだが、彼自身の印象は薄い。初期から中期の作品で最も強烈に印象に残っているのは「追想」である。ドイツ兵に娘を撃ち殺され妻を火炎放射器で焼き殺された男の復讐劇。ドイツ軍を相手に古城の中で展開される一人ゲリラ戦。命乞いをしていたのか、跪いた姿勢のまま黒焦げになっているロミー・シュナイダーの無残な姿が最後まで観客の脳裏に焼きつき、復讐鬼となった男の異様な執念を最後まで見届けさせる。70年代フランス映画が生んだ名作の一つ。

  そして何といってもフィリップ・ノワレの代名詞のようになった作品は「ニュー・シネマ・パラダイス」である。ほとんどの人にとってフィリップ・ノワレと聞いて思い浮かぶのは、この映画で演じた映写技師アルフレードの柔和な顔だろう。僕はこの作品をそれほど傑出した作品だとは思わないが、似た主題を扱った日本の「カーテン・コール」、イタリアの「スプレンドール」(89、エトーレ・スコラ監督)、あるいは中国映画「玲玲の電影日記」などよりはずっと優れた作品であることは間違いない。なお、3人の監督によるオムニバス「夜ごとの夢/イタリア幻想譚」で彼はトルナトーレ監督と再び組んでいるが、こちらは短編ということもあって出来はいまひとつだった。

  基本的にはコミカルな作品が似合う俳優で「パトリス・ルコントの大喝采」などはまさにぴったり。しかし「イル・ポスティーノ」で演じたチリの大詩人パブロ・ネルーダ役(パブロ・ピカソ、パブロ・カザルスと並ぶ、3大パブロの一人)も彼の長い俳優歴の中で特別な位置を占めるだろう。作品自体がその美しい映像と共に長く記憶されるべき名品である。

2006年12月 2日 (土)

HPに「ソ連/ロシア映画作品年表」を掲載

  連載記事「あの頃名画座があった」や「ゴブリンのこれがおすすめ」シリーズを見てもらえば分かるように、僕は記録魔です。したがってリスト・マニアでもあります。今までも本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の<miscellany>コーナーに資料として「イラン映画作品年表」と「中国映画作品年表」、それから<イギリス映画の世界>コーナーに「イギリス映画作品年表」を載せていました。それに加えて、今日新たに「ソ連/ロシア映画作品年表」をHPに載せました。以前からソ連/ロシア映画が一般にはほとんど知られていないことを残念に思っていました。しかし知られていないだけで、実際は優れた作品がたくさんあります。決してエイゼンシュテインやタルコフスキーやミハルコフだけではありません。文芸映画や重厚なリアリズム映画ばかりでもありません。作品名が挙がっているだけの面白くもないリストですが、少しでもこの知られざる世界に関心を持ってもらえたら苦労して作った甲斐があります。観た作品の評価点つきで<miscellany>コーナーに入れてありますので、興味がある方は覗いてみてください。

 この間「ポセイドン」(三つ星半)、「PROMISE」(三つ星半)、「ココシリ」(五つ星)を観ました。「ココシリ」の出来が群を抜いています。「ヴェロニカ・ゲリン」を観た時のように、体中から怒りが噴出す思いで観ました。これまで観た映画は基本的にレビューを書くという姿勢でやってきましたが、前にも書いたように、映画を観る時間を削ってレビューを書いている有様でした。今後は観た中から作品を絞ってレビューを書くことにしました。これまではレビューを書くことを想定して、レビューを書くに値するものだけを選んで観ていました。路線を変更したおかげで「ポセイドン」や「PROMISE」を観る余裕が出来たわけです。当面このスタイルで行こうと思っています。

  そうそう、「ココシリ」は丁度今年観た100本目の映画でもあります。12月を「中国映画強化月間」にしましたので、「玲玲の電影日記」、「緑茶」に続いて「ココシリ」のレビューを近々載せます。

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