緑茶
2002年 中国 2006年4月公開
評価:★★★★
監督:チャン・ユアン
撮影:クリストファー・ドイル
編集:ウー・イーシァン
美術:ハン・ジィアイン
衣装:リー・シゥルゥ
作曲:スゥ・ツォン
出演:ジァン・ウェン、ヴィッキー・チャオ、ファン・リジュン
ワン・ハイジェン、ヤン・ドン、チャン・ユアン、ミー・チゥ
リー・ロン、チャン・チー、フェイフェイ
この5、6年中国映画の公開数が少なかったので本格的なレビューを書いたものは先日の「玲玲の電影日記」の他には「子供たちの王様」、「古井戸」、「わが家の犬は世界一」くらいのものだ。しかし短評を加えれば、「最後の冬」、「涙女」、「思い出の夏」、「黄色い大地」、「ションヤンの酒家」、「HERO」、「至福のとき」、「活きる」、「ハッピー・フューネラル」、「たまゆらの女」、「小さな中国のお針子」、「西洋鏡」、「キープ・クール」と結構書いている。11月から12月にかけて中国映画のDVDがまとまって出るので、年内は「中国映画月間」とするくらい力を入れてみてもいいと思っている。「緑茶」と一緒に「PROMISE」も借りてきたので、こちらも出来がよければレビューを書く予定。時間があれば手持ちの他のDVDも観てレビューを書いてみたい。僕にとって中国映画はイギリス映画と並んで重要な位置づけにあるからだ。
チャン・ヤン監督のオムニバス風映画「スパイシー・ラブスープ」に「麻雀」というエピソードがある。テレビで結婚相手を募集したら候補者が3人現われるという話。親戚や知り合いが仲介をする日本とは違い、ブラインド・デートに近い中国のお見合い風景。テレビで相手を募集することも含めて実に新鮮だった。「緑茶」もこのお見合いで始まる。待ち合わせ場所のティールームで待っていたのは大学院に通うウー・ファン(ヴィッキー・チャオ)という地味な女性。元来は美人なのだが、それをあえて隠すように髪をひっつめにして眼鏡をかけている。服装も地味なスーツ姿。スカートではなくパンツスタイル。そこにやってきたのが気障な感じの男チン・ミンリャン(ジァン・ウェン)。控えめで遠慮がちな女とずうずうしいくらいおしゃべりな男。実はウー・ファンは毎日のように何人もの男とブラインド・デートをしていた。理想の男を求めているのだろうが、ほとんどお見合いオタクのようにも思える。そんなウー・ファンをミンリャンは気に入ってしまう。しかしウー・ファンはつれない態度。逃げるように去ってゆくウー・ファンをミンリャンはしつこく追い回す。ついにはウー・ファンに頬を張られる。
こんな具合に映画は始まる。二人の関係は付かず離れずで、それが最後まで続く。もちろんそれだけでは変化に乏しい。そこで第二の女性が登場する。ある時ミンリャンはバーのラウンジでピアノを弾くランラン(ヴィッキー・チャオの二役)という女性に出会う。ランランは眼鏡こそかけていないがウー・ファンとそっくりだ。しかし性格は全く違う。金で誘えば誰とでも寝る女だ。服装もこちらは艶かしいスカート姿(足がきれいだ!)。さらに言えば第3の女性もいる。ウー・ファンがいつも口にする彼女の友人という女性である。ウー・ファンはデートの際にいつも緑茶を飲んでいるが、それはその「友人」から「恋の行方はグラスの中の茶葉で占える」と教えられたからだという。
姿の見えない「友人」は別にして、主な登場人物はこの3人だけである。全くタイプが違う二人の女性の間で揺れる一人の男。そういう設定だが、ミンリャンの心はウー・ファンに向いていて、ガードの固いウー・ファンにはぐらかされてばかりでなかなか近づけない不満をランランで代わりに満たしているように見える。しかし話が進むに連れて様々な疑問がわいてくる。ウー・ファンとランランは同一人物ではないか。同じ女性の清楚な昼の顔と妖艶な夜の顔。あるいはウー・ファンの「友人」というのも彼女自身ではないのか。これらの謎は最後まで謎のままだ。
最先端の北京を舞台に描く、スタイリッシュでミステリアスなラブ・ストーリー。これが一般的なとらえ方だが、確かにそういう面を持っている。主演のヴィッキー・チャオも「緑茶」の見所を聞かれて、「北京のナイトライフ大全のようなものです」と答えている。北京の最先端の場所、バーやホテルやアートスポットなどファッショナブルな場所が意識的に選ばれている。そして上記のような謎を残したミステリアスな展開。あるいはクリストファー・ドイルの何度もはっとさせられるような見事なキャメラワーク。例えばタイトルになっている緑茶。日本と違ってお湯の入ったガラスのコップに直接葉を入れる。次第に葉を広げてゆく茶葉の緑色が鮮烈にとらえられている。かき混ぜた後のぐるぐる回る緑色の茶葉が不安定な3人の関係を象徴しているようだ。
しかしそういうイメージだけで観るとこの映画の本質をとらえそこなうかもしれない。ウォン・カーウァイ作品を連想する人が多いが、似ているようでどこか違う。ウォン・カーウァイの映画は退屈で僕は好きではない。しかしこの映画には引き込まれた。個人的な好みはともかく、比較するならむしろ僕は「ビフォア・サンセット」と「イルマーレ」を取り上げたい。「緑茶」はほとんどミンリャンと二人の女性との間の会話で成り立っている作品である。ひたすら喋りまくる映画なのだ。そういう意味では「ビフォア・サンセット」に近い。「緑茶」は顔のクローズアップが非常に多い映画だが、それは会話中心なので動きではなく表情を追っているからである(観客にはヴィッキー・チャオの美貌をたっぷり眺められるという楽しみもある)。
「玲玲の電影日記」で北京電影学院の教育内容がヨーロッパ映画至上主義だったというシャオ・チアン監督の言葉を引用した。確かに「緑茶」にもヨーロッパ映画の影響があることは明らかである。斬新なキャメラワークや音楽の使い方、そして洒落た雰囲気。明らかに従来の重たい中国映画とは違う。しかし僕はむしろ韓国映画「イルマーレ」に近い感覚を覚えた。ヨーロッパ的な映画を作ること自体に狙いがあったのではなく、むしろ非日常的な異空間を描きたかったのではないか。実際にはありえない設定を設けることで、どこかファンタジーを見るような感覚を作り出す。どこか別世界に連れてゆかれるような快感。ゆらゆら揺らめく茶葉のような幻想的な世界。二つの映画にはそういう共通の感覚を覚える。この映画はアート系映画というよりはむしろファンタジーなのだ。
主人公ミンリャンがどんな職業の男なのか全く分からない(全然働いている様子がない) のもファンタジーらしい。一応働かなくてもいい金持ちという設定になっているようだが、これまたわれわれ庶民にとっては憧れの別世界だ。つまり、現実世界からの脱出という願望を満足させてくれる類の映画なのである。現実逃避と言われれば確かにその通りだが、誰にでもその願望はある。それを満足させるのもフィクションの重要な機能である。だから真っ赤な色で統一されたトイレなどの超モダンな北京の風景が必用なのだ。丁度「イルマーレ」でも青みがかった寒々とした海辺の家というどこか別世界のようなセッティングと”イルマーレ”(海)というスペイン語のエキゾチックな響きが必要だった様に。もちろん主人公たちが出会った喫茶店の近くの路地のような古い街並みも出てくる。しかし日常的な世界を映すからこそ超モダンな「別世界」がいっそう浮き立つのである。
僕は文革時代を扱った重い映画が好きである。しかし「緑茶」のような映画も好きだ。掴みどころのない作品だという批判もあるが、浮遊するように大都会に生きるつかみどころのない人々を描いているのだから、それはそれでいい。しかし、それならそれで、例えば「子猫をお願い」のようなもっと別の描き方があるだろうという反論もあるかも知れない。しかしそこに狙いがあるわけではない。作りたかったのは軽い都会のラブ・ファンタジーなのだ。2時間ほど楽しい「夢」を観させてもらう、そんな風に楽しめばいい。
だから上の二つの謎ははっきりと明かされなくてもいいのである。謎めいた女性との出会い。それを楽しめばいい。ミンリャンと彼の友人(ファン・リジュン、有名なアーティストだ そうだ)の会話が面白い。友人「あきらめろ。ピアノの女は森林の道のようなものだ。どの道も迷ってしまい、たどり着けない。道と見えて実は道などないのさ。」ミンリャン「なぜ分かる?」友人「俺のほうが先に森林に入ったんだぜ。」ミンリャン「もう一人の女は道がないようで実は道ばかりだ。」すべての道はローマへ続くと友人が結ぶ。ランランではなくウー・ファンを選べと言っているのである。
会話を通して謎めいた雰囲気が強調されている。「人間の運命なんてお茶の葉のようなものよ」というランランの言葉も同じだ。この謎が観客の関心を引っ張るドライブになっている。だから結局真相はどうなのか知りたくなるが、最後まで明らかにはされない。それはそれでもいい。ただ、ヴィッキー・チャオが二役を演じていることの意味は追求してみる価値があるかもしれない。上でクローズアップが多い作品だと書いたが、大写しになるのはほとんどウー・ファンである。ランランは謎の女という設定からかウー・ファンほどは多くない。しかしミンリャンのクローズアップはほとんどない。つまり男の視線で描かれている映画である。ヴィッキー・チャオの二役は女性の持つ二つの顔を描いているのだろうが、それは恐らく男の願望の反映だ。はぐらかされてばかりで煮え切らないウー・ファンに引かれつつも、あっさり彼を受け入れてくれる妖艶なランランにも心移りする。二人の女性の間で煩悶するというよりは、むしろ「両手に花」に近い至福の境地と言えなくもない。同時にそれは女性の願望でもあるかもしれない。自分にないもう一つの面も持ち合わせていたら・・・。これもある種の理想だ。心地よいくすぐり効果も兼ね備えている映画なのである。他のとらえ方もあるだろうが、とりあえず思いつくのはこんなところだ。
男の視点で描かれているので、男の出自は一切問わず、一方的に女性の「正体」を探ろうとする展開になっている。しかしウー・ファンは容易に正体を現さない。彼女には「友人」という絶好の隠れ蓑があるからだ。ミンリャンは何とかウー・ファン自身について聞き出そうとするが、彼女は自分のことは一切語らず「友人」のことばかり語る。会うたびに「友人」の話を断続的に聞く展開になっている。しかしその友人の話がすごい。特にその母親の話。彼女は死体に死に化粧を施す仕事をしていた。夫がそれを知った時、死体の匂いが移ることを嫌い彼女に手袋を付けさせた。それでも収まらず、次第に暴力を振るうようになり、ついにはそれを見かねた娘に殺されてしまう。
ミンリャンもいつの間にかその話に引き込まれ、「それからどうなったんだ?」と何度も先を促すようになる。それほどこの話には人を引き込む力がある。この話は実はランランの身の上話とある接点を持っている。ランランは一度だけ自分の両親の話をする。父は昔作家だったということだが、ウー・ファンの話とつながるのは母親についての話である。「自分は胡桃だと母は私に言ったわ。結婚前はおいしそうで欲しがられたけど、結婚してみたら堅くて黒くてとても噛めない。ずっと後で実を取り出したらまあまあの出来だった。」ミンリャン「君がその実ってわけ?」「そうよ。」「母親の仕事は?」「手袋工場長。」「手袋工場?どうしてまた手袋なんだ?」
ウー・ファンの「友達」が本当に存在するのか、彼女自身のことなのか、あるいは彼女の想像上の人物なのか、真相は最後まで分からない。しかし手袋を手がかりに考えれば、 ウー・ファンとランランとウー・ファンの友達は同一人物であり、手袋をしていた女性はウー・ファンの母親だと考えるのが一番自然だろう。父親の虐待とその父親を殺してしまった過去が彼女の精神を分裂させてしまった。こう考えると実に重たい話になるが、全く真相は違う可能性もある。いずれにしても、エンディングはそういったことは一切問わず、明るい終わり方になっている。ミンリャンはランランを連れてホテルに行く。あちこち廊下を走り回った末に部屋に入る。突然場面はすりガラスのテーブル越しに下から撮った映像に変わる。すりガラスなのではっきりとは見えない。しかしガラスの上にウー・ファンがかけていたメガネが置かれるのは分かる。いつの間にかランランがウー・ファンに変わっている。姿ははっきり見えないが話し声は聞こえる。「本当に私のこと好き?」
このラストはランランとウー・ファンが同一人物だということを暗示しているのだろうか。はっきりしたことは分からない。映画はその可能性を匂わせるだけである。いずれにしても散々てこずったがミンリャンとウー・ファンはどうやらうまくいっているようだ。最後は「過去」を引きずっていない。「目の前に虹があるのに雨に打たれることはない」というウー・ファンの言葉(もともとはミンリャンが使った表現)が示すように、二人は前に向かって歩んでゆくことが暗示されている。謎は残っているが、さわやかな終わり方だと思う。
二役を演じ分けたヴィッキー・チャオの魅力が全編にあふれている。コン・リーやチャン・ツィイーとはまた違った魅力である。この映画で初めて彼女を観たが、他の出演作も観たいと思わせるほど魅了された。一方、「芙蓉鎮」(1984)、「紅いコーリャン」(1987)、「太陽の少年」(1994)、「宋家の三姉妹」(1997)、「キープ・クール」(1997)、「鬼が来た!」(2000)など、中国映画の名作に次々と出演し監督までこなしているジァン・ウェン(チアン・ウエン)もさすがの存在感。監督としての力量も相当なものだが、やはり役者としての魅力が大きい。のっそりとした男なのだが、登場するだけで観るものを惹きつけてしまう天性の才能を持っている。80年代に観た「芙蓉鎮」と「紅いコーリャン」の圧倒的な迫力は今でも記憶に鮮明だ。
クリストファー・ドイルによる視覚マジックも実に効果的である。日本映画「空中庭園」の撮影テクニックと演出はこれ見よがしで鼻についたが、「緑茶」の斬新なキャメラワークはむしろ作品をより魅力的にしている。作品のテーマや雰囲気から浮き上がっていないから である。テクニックばかりがやけに目立つ映画は「どうだすごいだろう」という作り手の驕りが前面に出ていて不快なものだ。この作品の場合は凝ったキャメラワークが作品の不思議空間にうまく合っている。料理がのったテーブルを真上から撮ったショットは、人物を画面の外に置き話し声だけ入れている。料理には手をつけていない。さっぱり話が弾まないミンリャンとウー・ファンの関係がうまく切り取られている。画面の切り替えの際に、わざと最初は壁を映して話し声だけを入れる。キャメラが移動してようやく二人の姿が映るという映し方も新鮮だった。「子供たちの王様」でチェン・カイコーが試みた映像と音をわざとずらす実験も印象的だったが、映画全体の雰囲気を壊さずむしろより効果的にする映像実験なら歓迎すべきだ。
特に効果的だと思ったのは分厚い緑色のビニールのすだれのようなものを通してその向こう側にいるランランとミンリャンを映す場面。すだれの向こう側から撮ったと思われる赤い色を背景にした同じ場面が交互にフラッシュバックされる。ビニールすだれを通した間接的描写はランランの謎めいた存在をうまく視覚的に表現しており、真っ赤な場面は内面に渦巻く欲望を表しているようで、実に印象的だった。ちなみに余談だが、あのビニールすだれは中国のデパートや学校など多くの人が出入りする建物の入り口でよく見かける。何でこんな邪魔なものをドア代わりにぶら下げているのかと最初は不思議に思うが、自動ドアのように全面的に開かないので(人はすだれを掻き分けるようにして出入りする)冷気や暖気が外に逃げない。考えてみればこの方が安価である上に合理的なのだ。しかし近代化が急ピッチで進む今の中国ではいずれ消えてゆくのかもしれない。
監督のチャン・ユアンは「ただいま」や「クレイジー・イングリッシュ」、そして「緑茶」の直前に封切られた「ウォ・アイ・ニー」などが日本で公開されている。僕が観たのは「緑茶」が初めて。いろんな作風の映画が作れるようだ。近くのレンタル店では見かけないのだが、何とか手に入れて他の作品も観てみたいものだ。
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sannkenekoさん コメントありがとうございます。
メンテナンスが3日間にわたったためにだいぶお待たせしてしまいました、申し訳ありません。
そもそも人物の設定と物語の展開に無理がある話しなので、ファンタジーとして観られるかどうかで評価が分かれてしまうということなのでしょう。リアリティーを求められると確かに苦しい映画ですよね。
僕の場合、ヴィッキー・チャオの魅力があふれている映画なので、それだけで評価点がかなり上がっているきらいもあります。初めて観た女優さんですがとても魅力的でした。そしてあのグラスに入れた緑茶の鮮烈な緑色。驚きでした。
投稿: ゴブリン | 2006年12月 8日 (金) 18:36
ゴブリンさん、こんばんは。
ココログさんのメンテナンス長かったですねぇ。
ところで私にはミンリャンというキャラクターが
最後まで掴みきれないままでした。
「イルマーレ」(韓国版)のように
主人公の背景が描かれていなかったからかもしれません。
理想の男性を探し続けるウー・ファンの気持ちは
褒められたやり方ではないにせよ、
わかる気がするのですが。
ラブ・ファンタジーとは感じなかったのですが、
でも映像の美しさとランランの艶やかさはため息モノでした。
投稿: sannkeneko | 2006年12月 7日 (木) 19:34
meihuaさん 詳しい情報をありがとうございます。
いくつかのフィルモグラフィーを見てみましたが完全なものはありませんね。特に初期の頃の作品はどこも掴みきれていないようです。「息子」という作品があることもこのリストで初めて知りました。
監督はコワモテでしたか。でもこういう映画を作るのですから根は優しい人なのでしょうね。
色々とありがとうございました。また何か機会があれば教えてください。こちらからも時々訪問させていただきます。
投稿: ゴブリン | 2006年11月27日 (月) 21:06
張元監督
2000年に監督にお会いした時に、頂いた小冊子が手元にあります。見かけはコワモテですが、きちんとお話に付き合って下さる方でした。最近の作品は Yes Asia などでも検索できると思います。
参考までに、昔の作品をさらっと並べておきますね。
1991 MAMA
1993 北京雑種(北京バスターズ)
1994 広場 the squqre
1995 息子 sons
1996 東宮西宮
1998 DEMOLITION AND RELOCATION
1999 CRAZY ENGLISH
1999 ただいま
2000 金星小姐 MISS JIN XING
投稿: meihua | 2006年11月27日 (月) 19:36
meihuaさん TB&コメントありがとうございます。
「ただいま」は見かけたような気もするのですが、レンタル店でよく探してみます。「北京バスターズ」もチャン・ユアン監督の作品なんですね。不思議なことにネットでフィルモグラフィーを見てもなぜか載っていません。それで気づかなかったのですね。個別に「北京バスターズ」を調べれば確かにチャン・ユアン監督となっています。面白い現象ですね。
投稿: ゴブリン | 2006年11月27日 (月) 10:56
TBありがとうございました。レビュー大変興味深く拝見させ頂きました。張元監督の作品は「北京バスターズ」のツイジェンが好きで観始めました。「ただいま」は彼の作品の中では分かり易く、比較的日本でも探しやすいのではないかと思います。私は今度「もしも愛がなかったら。如果没有愛」ジョウシュンの短編を見ようと思っています。
投稿: meihua | 2006年11月27日 (月) 05:11