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2006年11月19日 (日)

カミュなんて知らない

2006年 日本 1月14日公開
評価:★★★★
監督・脚本:柳町光男
撮影:藤澤順一 
音楽:清水靖晃 
出演:柏原収史、吉川ひなの、前田愛、中泉英雄、黒木メイサ、田口トモロヲ
    玉山鉄二(友情出演)、阿部進之介、鈴木淳評、伊崎充則、金井勇
    たかだゆうこ、柳家小三治、本田博太郎
特別協力:立教大学

  「人を殺す経験をしてみたかった。」2000年5月に愛知県豊川市で起きた男子高校生Sky_window_1 による殺人事件。犯人の少年は神戸の酒鬼薔薇聖斗や西鉄バスジャックの少年と同じ82年生まれだった。当時社会に衝撃を与えたこの事件をほぼ同じ世代の大学生たちが「タイクツな殺人者」というタイトルで映画にしようとしている。「カミュなんて知らない」はある大学で“映像ワークショップ”を受講する学生たちが映画を製作する過程を描いた映画である。

  異様な迫力のある映画だった。特に最後の20分。高校生がふらっと農家に上がりこんで主婦を殴り殺す場面は異様なほど生々しく、鬼気迫るものがあった。この映画を観た時に感じる迫力はこの部分から伝わってくるものである。しかし全体としてみれば中途半端な映画だと言わざるを得ない。

  この映画は様々な要素を持った映画なのだが、どの面から見ても中途半端なのである。まず、若者映画という観点から見た場合。新しいタイプの青春映画という触れ込みだが、本当にそうなのか。多少馬鹿ふざけの場面も出てくるが、大学生たちを描く時にありがちな軽薄でふざけまわるだけの演技をさせていない。その点は評価できる。ただ人間関係はいかにも作り物という感じだ。平板で深みに欠ける。映画作りという中心テーマに学生たちの私生活を絡める展開は悪くないが、そこで展開されるのは恋愛のもつれというお決まりのパターンに過ぎない。群像劇という言葉を使うこともためらわれるようなステレオタイプの若者像。映画製作にかかわる大学生たちの個性をそれなりに描き分けてはいるが、描き方が外面的で心の揺れが伝わらない。最後は殺人場面の強烈な描写にすべてが収斂してしまい、その他の人間関係はあっけなく途中で放り出されてしまう。クライマックスに至るまでの間に合わせのストーリーという感じだ。この点では中学生同士のみずみずしい人間関係を描いた「青空のゆくえ」に及ばない。

  そもそも「青春」という表現が似合う作品ではない。かといって、生活がかかっているわけではないし人間としての生き方を問われているわけでもないので、森川時久監督の「若者たち」のように真剣になって激論を戦わせるわけでもない。たださらっと流れてゆくだけだ。ただし、映画製作は集団作業だから、当然意見の食い違いやクランクインの日を数日後に控えてあせる気持ちなどは描かれている。

  しかしその学生同士の議論も決して深まらない。議論の焦点は”不条理殺人”をめぐるものである。議論のテーマとして充分な題材だが、犯人は犯行時狂っていたのかそうでないのか、犯行場面をどう演出するかがわずかに論じられるばかりで、それ以上には進まない。”不条理殺人”をめぐる討論劇という構成もありえたが、元よりそんな映画を目指しているわけではない。この点は後ほどまた別の角度から検討する。

  次に「劇中劇」を取り入れた作品として見た場合はどうか。これもカルロス・サウラ監督の名作「カルメン」には遥かに及ばない。「カルメン」の優れている点は、演出過程をそのまま劇中に収め、現実に進行している場面と劇の進行の場面の境界線をあえて曖昧にすることによって、舞台からはうかがい知ることのできない演出家や役者たちの実際の人間性や人間関係をも同時に描き出していることにある。「カミュなんて知らない」も形の上ではそれに近いものがあるが、何せ描かれる「人生」が浅すぎるのだから比較にもならない。

  では不条理劇として見た場合はどうか。タイトルにあるカミュとは小説『異邦人』(1940)を書いたアルベール・カミュを指している。僕が大学生だった頃はまだかなり人気のあった作家だ。カミュの『異邦人』はサルトルなどの実存主義が流行した時代にもてはやされたのである。アラブ人を殺害したムルソーが語った「太陽がまぶしかったからだ」という意味不明の動機が物議をかもした。理性では割り切れない何か「不条理」な行動原理が人間の奥底にあるという提起が当時は衝撃的であった。憎しみも利害関係のもつれもない、ただ「太陽がまぶしかったから」という動機は確かに「人を殺す経験をしてみたかった」という高校生の発言と重なる。そういう意味で高校生による殺人事件は論じるに足るテーマである。しかし言うまでもなく、この映画は「カミュなんて知らない」というタイトルが示すように、不条理劇にもなりきれていない。監督と俳優とスタッフの間で犯人は犯行時正常だったのか異常だったのかをめぐってちょっと議論になったというだけで終わってしまう。不条理な殺人の動機について深く追求しているわけではない。そもそも今の学生に議論は似合わない。ただ、殺人犯を演じる池田(中泉英雄)だけが一人役柄に引き込まれるようにしてのめりこんでゆく。犯人になりきった時の彼の目つきが実に不気味だ。彼を中心にして、そこをもっと掘り下げて描いていたらはるかに優れた作品になっていたかも知れない。

  結局、監督役の学生が自分の考えを強引に押し通して議論を棚上げにしたまま、一気に殺害場面の撮影へとなだれ込む。この殺害場面が不気味なほどリアルで生々しいのは、しばしば本当に殺しているのかと思わせる演出になっているからである。演じる池田の目が演技を超えて異様なほど不気味な光を放っている。彼は犯人像にのめりこむあまり犯人の意識が彼に乗り移り、本当に主婦を殺してしまったのではないか。しばしばそう思えるように描いている。最後には演出だということが横にカメラが映ることで分かるのだが、この「現実と演出が重なり合う」描き方が水際立っており、ぞっとするような効果を発揮している。

Big_0064_2   最後の異様なほど迫力のある演出はほとんどの人が褒めている。しかし同時に不安を表明する人も多い。なぜなら殺人に対する姿勢が微妙だからだ。もちろん肯定はしていないが、はっきりと否定しているわけではない。殺人場面のリアリティをひたすら追求するばかりで、映画として殺人行為をどう理解するかという観点がすっぽり抜けているのである。殺人犯の心理の奥底には全く踏み込まず、正常なのか狂気なのか、あるいは何が彼を殺人に追いやったのかという議論は棚上げにし、ただ池田が役柄にのめりこんでゆく様をそのまま薄気味悪いほど冷静に描いて、生の「リアリティ」を観客の前に投げ出すばかり。そういう演出だ。

  エンドロールでは畳の上に大量に流れた「血のり」を学生スタッフが黙々と拭き取るシーンを長々と流す。ああいう演出でよかったのかなどの議論はない。ただ黙々と後片付けをするだけ。不気味な血の色だけが最後の印象として残る。これは判断停止を暗示している。だが、映画のリアリティとはただ事実を映し出すことにあるわけではない。そこには、明確であるかはともかく、現実を切り取るある一定の視点があるはずだ。『異邦人』も判断停止はしていない。人間存在の「不条理性」を明確に提起している。「カミュなんて知らない」はただ”不条理殺人”を題材にしただけで、実際に描いたのは「殺人のリアリティ」である。しかも前半の”青春群像”とは直接つながっていない。そういう意味で、不気味な迫力はあるが、完成度が高い映画とは言えない。

  過去の映画に対するオマージュあるいはパロディという点ではどうか。「カミュなんて知らない」は映画製作にかかわる学生を主人公にしているだけに、いかにも映画オタクといったせりふがふんだんに出てくる。溝口健二、ヴィスコンティ、トリュフォー、ゴダール、ヒッチコック、フリッツ・ラングなどの名前がどんどん飛び出してくる。だが、映画談義といっても話題は溝口の長回しがどうのといった技術面の域を出ない。作品のテーマなどそっちのけで、技巧面などの「断片的な知識」にしか目が行っていない。いわゆる「映画検定」に夢中になるような手合、映画の本質とはかけ離れた、膨大だが断片的で細切れの知識を仕入れることに血眼になっている連中(いわゆる「映画通」を自称する連中のほとんどがこの手の輩だ)。もっとも、大学で映画を学んでいる連中なんてそんなものだから、それはそれでリアルだとも言えるが。「キル・ビル」のような、様々な引用を盛り込んだ映画を褒める人がいるが、そんなものは単なるお遊びであり、これはどの映画のもじりだと言い当てたからといって映画をよく理解していることにはならない。そういう基準で映画を考えること自体馬鹿げている。

  それはともかく、「カミュなんて知らない」には様々な過去の作品の場面をもじったシーンがちりばめられている。例えば冒頭場面の長回し。これはロバート・アルトマンの「ザ・プレイヤー」のパクリだと監督自身が説明している。中でももっとも徹底しているのはヴィスコンティの「ベニスに死す」のパロディだ。「タイクツな殺人者」を製作している学生たちがアッシェンバッハと呼んでいる人物がいる。彼らの指導教授で元映画監督である中條教授(本田博太郎)だ。アッシェンバッハとはヴィスコンティの「ベニスに死す」の主人公である作曲家の名前だ(トーマス・マンの原作では作家だったが)。アッシェンバッハが美少年タジオに魅せられたように、中條教授はレイという女子大生(黒木メイサ)に夢中である。中條教授がレイと会う前に顔に白粉を塗る場面、上から下まで白装束で固める場面(この場面は声を出して笑ってしまった)、彼が倒れている場面にマーラーの交響曲5番が流れる場面は、完全に「ベニスに死す」のパロディである(アッシェンバッハを演じたダーク・ボガードが観たら苦笑いするだろう)。それなりに面白いのだが、特に映画のテーマを深めているわけではない。ちょいとしたお遊び程度だ。中條教授はこのパロディのためだけに登場していると言っても過言ではない。

  要するに、「カミュなんて知らない」は主婦殺害場面をメインにして、それに学生たちの私生活や映画の薀蓄を盛り込んだ映画なのである。”不条理殺人”は単なる味付け程度。どの面から見ても中途半端な映画。確かに異様な迫力があるので引き込まれるが、手放しで褒められる作品ではない。

  柳町光男監督の作品を観るのはこれが初めてだ。「十九歳の地図」、「さらば愛しき大地」、「火まつり」など話題になった作品を作ってきた人だが、吉田喜重や今村昌平に近い作風の監督だという印象でいまひとつ心を引かれなかった。「カミュなんて知らない」を観てもその印象は変わらない。ただし、今村昌平に「未帰還兵を追って」という優れたドキュメンタリー・シリーズがあるように、柳町光男監督も「旅するパオジャンフー」という歌や踊りを交えながら薬を売り歩く旅商人たちを映したドキュメンタリーを撮っている。これは機会があれば観てみたい。ひょっとしたら掘り出し物かも知れない。

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