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2006年11月

2006年11月30日 (木)

ポビーとディンガン

2005年 イギリス・オーストラリア 2005年11月公開 Alice4_1
評価:★★★★
原題:Opal Dream
監督:ピーター・カッタネオ
原作:ベン・ライス『ポビーとディンガン』(アーティストハウス)
脚本:ベン・ライス
撮影:ロバート・ハンフリーズ
編集:ジム・クラーク
出演:クリスチャン・ベイヤース 、 サファイア・ボイス
    ヴィンス・コロシモ、ジャクリーン・マッケンジー
    アビゲイル・ガジョン

  子供を主人公にした映画といえば、かつては誰でもフランスの「禁じられた遊び」(51、ルネ・クレマン監督)とスペインの「汚れなき悪戯」(55、ラディスラオ・バホダ監督)を思い浮かべたものだ。前者のナルシソ・イエペスの哀愁切々たるギターで知られる主題曲と後者のやはり哀愁を帯びた「マルセリーノの歌」も映画音楽の名曲として知られる。

  子供を主人公にした映画が増え始めたのは80年代以降だろう。90年代以降は爆発的に増えている。それと同時に一つ目立つ傾向は子供を主人公にしながらも重い社会的テーマを持った映画が増えていることである。エミール・クストリッツァ監督の「パパは出張中!」(1985)、ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」(1987)、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(1987)、ホセ・ルイス・クエルダ監督の「蝶の舌」(1999)、バフマン・ゴバディ監督の「酔っ払った馬の時間」(2000)、チャン・イーモウ監督の「あの子を探して」(2000)、アボルファズル・ジャリリ監督の「少年と砂漠のカフェ」(2001)、ハンダン・イペクチ監督の「少女ヘジャル」(2001)、フェルナンド・メイレレス監督の「シティ・オブ・ゴッド」(2002)、イマノル・ウリベ監督の「キャロルの初恋」(2002)、フィリップ・ノイス監督の「裸足の1500マイル」(2002)、セディク・バルマク監督の「アフガン零年」(2003)、等々。

  もちろん昔もなかったわけではない。ジョセフ・ロージー監督の「緑色の髪の少年」(1948)、サタジット・レイ監督の「大地のうた」(1955)、今井正監督の「キクとイサム」(1959)、アンドレイ・タルコフスキー監督の「僕の村は戦場だった」(1963)などの傑作を思い浮かべればいい。しかし目だって増えてきたのはやはり80年代以降だ。 小説の世界ではハリポタ・シリーズを始めファンタジー系がリアリズム系を圧倒しているが、どうやら映画ではリアリズム系統がファンタジー・コメディ系統と拮抗している。数の上ではファンタジー・コメディ系統のほうが多いだろうが、作品の出来は圧倒的にリアリズム系統のほうが高いので代表作を絞るとリアリズム系統の方が多数派になってしまう。国別に見ると、子供向けの映画やアニメを大量に製作しているアメリカや日本に対して、それ以外の国は子供が主人公でも大人向けのものが比較的多い気がする。恐らく子供をめぐる現実が変わってきていると同時に、子供を見る大人の目が変わっていているのだ。子供も現実の一部である。戦争やテロや貧困や飢えは男も女も老人も子供も区別しない。子供が戦争や飢えで何人死んだ、親が子供を殺した、子供が親を殺した、子供が子供を殺したというニュースが日常的な時代。そんな時代に今の子供たちは生きている。

  イギリスではどうか。世界一のファンタジー王国でありながら、子供を主人公にしたイギリス映画は意外に少ない。70年代までで名前を挙げるに値するのはデヴィッド・リーン監督の「オリヴァ・ツイスト」(1948)、ケン・ローチ監督の「ケス」(1969)、ライオネル・ジェフリーズ監督の「若草の祈り」(1970)、それにワリス・フセイン監督の「小さな恋のメロディ」(1971)くらいではないか。80年代以降でもジョン・ブーアマン監督の「戦場の小さな天使たち」(1987)、ダミアン・オドネル監督の「ぼくの国、パパの国」(1999)、マーク・ハーマン監督の「シーズン・チケット」(2000)、スティーブン・ダルドリー監督の「リトル・ダンサー」(2000)、ダニー・ボイル監督の「ミリオンズ」(2004)、ショーナ・オーバック監督の「Dearフランキー」(2004)、ハリポタ・シリーズ、そして今回取り上げるピーター・カッタネオ監督の「ポビーとディンガン」(2005)くらいである。こちらもやはりファンタジー系統とリアリズム系統の作品が拮抗している。

  ピーター・カッタネオ監督の「ポビーとディンガン」はファンタジー系統の作品である。しかし王道を行く純粋ファンタジー作品ではない。より正確にはリアリズム的要素を含んだファンタジー映画なのである。映画の冒頭で、見事にカットされたオパールがクローズアップで映される。きらきらと輝く美しい宝石だ。オパールの原石自体は特に美しいものではない。Cutbranco_1 それが加工されてはじめて美しい宝石になる。映画の中ほどで、主人公のアシュモル少年 (クリスチャン・ベイヤース)が加工される過程を観察している場面が出てくる。原石から美しく輝くオパールが生まれるのを、文字通り目を輝かして眺めている。恐らく彼は、これはいくらの値がつくなどと考えてはいない。純粋にその美しさに感動している。その点では彼の妹ケリーアン(サファイア・ボイス)も同じだ。彼女は実際には存在しないポビーとディンガンという空想上の友達がいる。ケリーアンによれば、男の子のポビーは恥ずかしがり屋で、赤いマントを着てパンクっぽい髪型をしている。足は義足。女の子のディンガンは背の高い美人。おへそにきれいなオパールをはめている。二人とも平和主義者である。このおへそのオパールも彼女にとっては単なるきれいな飾りなのだろう。それがいくらで売れるなどと値踏みしたりはしない。

  しかし一方でそのオパールを血眼になって探し続けている大人たちがいる。オパールで一山当てようと目論んでいる男たちだ。中には殺気立っている連中もいる。後にアシュモルとケリーアンの父親レックス(ヴィンス・コロシモ)を泥棒だと裁判に訴える男などは、近くでアシュモルガ遊んでいるだけで追い払うほど神経質になっている。つまり、舞台となったオパール採掘場があるオーストラリアのライトニングリッジは、一攫千金を狙う男たちが集まる欲望渦巻く町なのである(レックスもオパール堀りの一人だが、彼の場合はそれほど欲得づくではない)。「荒野の決闘」の主題歌に使われた「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」というアメリカ民謡に”Dwelt a miner, forty-niner, and his daughter Clementine”という歌詞が出てくる。”forty-niner”とは1849年にカリフォルニアで金鉱が発見されてにわかにゴールドラッシュが起こった時に、一攫千金を狙って金鉱に殺到した人たちを指す。金鉱や採掘場というとどこかの会社が採掘権を買い取り、人を雇って採掘しているというイメージが強いが、何とここはゴールドラッシュ時のカリフォルニアさながらに、個人が採掘権を買って掘っているのである。だからいたるところに穴があり、その周りに掘り出した土を積み重ねた三角錘状の小山ができているという独特の景観をなしている。アリ塚の団地のような眺めである。

  これがファンタジーとリアリズムという二つの要素の土台である。オパールを純粋に美しいものとして見ている子供たち(兄のほうはそれが金になるということを知ってはいるが)と金儲けの手段として見る大人たち。そしてこの二つが接触した時事件が起こる。父親とアシュモルが採掘に出かけたときポビーとディンガンを一緒に連れて行った。母アニー(ジャクリーン・マッケンジー)と一緒にクリスマスのパーティに行くケリーアンを彼女の「友達たち」から引き離すためだ。ところがアシュモルたちは帰ってきたときにはポビーとディンガンのことなどすっかり忘れていた。ケリーアンはポビーとディンガンがいないと騒ぎ出す。まだ採掘場にいるかもしれないと夜探しに行く。その時他人の採掘場に踏み込んだため、疑い深い男に泥棒と間違われてしまうのだ。噂が町中に広がり彼らは白い目で見られる。ついには裁判まで起こされてしまう。

  このようにアシュモルたちウィリアムソン一家は街から孤立して行く。母は勤めていたスーパーを首になってしまう。母親のアニーは色白の美人だが、もともと彼女の意思でこんなさびしい田舎町に引っ越してきたわけではない。一家が危機に瀕した時、自分はこんな岩ばかりの奥地に引っ込んでいる人間ではないというそれまで抑えていた気持ちが噴き出しそうになる。一家はばらばらになりかかっていた。それを端的に表している印象的な場面がある。ふとアシュモルが母の部屋を覗いた時、母親のアニーは昔の写真を眺めていた。父と一緒の写真もあったが、彼女がじっと眺めていたのは父と結婚する前の別の恋人との写真だった。今の夫を選んだ自分の選択は正しかったのか?彼女の心にふっと湧いた迷い。アシュモルはそれを見逃さなかった。僕は今のパパが好きだ、ひょっとしたら違っていたかもしれない苗字より今のアシュモル・ウィリアムソンの方が好きだと母に言う。この一言で母親の迷いは吹き飛んだ。今この苦しい時こそ夫と子供たちを信頼しなければならない、彼女はそう思いなおしたはずだ。部屋を出てゆく息子にかけた「おやすみウィリアムソン」という言葉にその思いが込められている。

  この映画全体を通じてもっとも共感するのはアシュモルだろう。彼はそれまで居もしない二人の友達を信じている妹を馬鹿にしていた。困った奴だと思っていた。しかしケリーアンのお気に入りの遊び場だったトレーラーハウスを何者かがダイナマイトを仕掛けて吹き飛ばすなどの嫌がらせが起き、ケリーアンがショックで寝込んでしまうという事態になった時、彼は何としてでも妹のためにポビーとディンガンを見つけようと決意する。そこからの行動が素晴らしい。尋ね人のチラシを作るためにケリーアンにポビーとディンガンの似顔絵を書かせる場面などは「禁じられた遊び」を連想させるいい場面だ。妹が書いた絵をコピーして彼はチラシを町中に張る。そのチラシに「泥棒」という落書きが書かれようが、面と向かって冷やかされようが彼は毅然としていた。ただ慰めの言葉をかけるのではなく迷わず行動したこと、何よりも感動的なのはその点だ。

  ひょっとしたらポビーとディンガンはまだ坑道の中にいるかもしれないと妹が言うので、アシュモルは夜中に一人採掘抗まで行く。そこで彼はポビーとディンガンが好きだったロリポップの包み紙とオパールを発見する。家に戻った彼は妹に二人は坑道の中で「死んでいた」と伝える。

  彼がその時本当にポビーとディンガンの存在を信じる気持ちになったのかどうかは分からない。そう言えば妹が諦めると考えたのかもしれない。原作では発見されたのは加工されたオパールではなくその原石だったらしい。加工されたオパールが坑道に落ちているはずはない。しかしアシュモルが見つけたのはディンガンのへそにはめられていたオパールだとするためには加工されたオパールでなくてはならない。へそにオパールの原石をはめているはずはないからだ。

  この変更は象徴的なことに思える。あるはずのない加工されたオパールが見つかるこのあたりから、急にファンタジー色が濃くなるのである。アシュモルはポビーとディンガンが死んだことを妹に納得させるために二人の葬式を挙げることにする。こういう展開になるとは意外だった。そこまではいいのだが、その後はまさにファンタジーになってしまう。アシュモルの父が他人の穴からオパールを盗もうとしていたという誤解はついに裁判にまで発展する。ところがその裁判にあっけなく勝ってしまうのだ。しかもあれほど差別していた町の人たちが裁判が終わるところっと態度を一変させてしまう。そしてポビーとディンガンの葬式にほとんどの人たちが参加する。このあたりの展開はあまりにも安易ではないか。そう思わざるを得ない。

  どうも中途半端なのだ。ファンタジーの枠組みに盛り込んだリアリスティックな要素がかならずしもファンタジーを支える働きをしていない、むしろせっかく提起した深刻な問題があっさり片付いてしまって逆に物足りなさを感じてしまう結果を招いている。ポビーとディンガンというイマジナリー・フレンズの決着の付け方は予想外の展開で、その点はうまく出来ていると思ったが、その後の結末は容易に予想がついてしまう。いわば「お約束」通りの展開で、このラストも物足りなかった。

  リアリズムとファンタジーを組み合わせること自体がそもそも無理だと言っているわけでClipmaho はない。「ライフ・イズ・ミラクル」や「ククーシュカ」は戦争という現実を土台にすえながら見事なファンタジーの世界を作り上げていた。「ライフ・イズ・ミラクル」はあの気がめいるほど悲惨なボスニア紛争というテーマにコメディの要素を盛り込むことさえやってのけた(同じくボスニア紛争をテーマにしたオムニバス映画「ビューティフル・ピープル」も一部のエピソードはコメディ仕立てである)。問題はリアリズムとファンタジーの組み合わせ方、あるいはファンタジーへのリアリズムの取り込み方なのである。その点で不満が残る。

  この映画は何を描いているのだろうか。「信じることが大切」だというメッセージが込められているという受け止め方が一般的である。しかしそういうとらえ方には疑問がある。アシュモルがポビーとディンガンの葬儀をすることにしたのは二人の存在を信じたからだろうか。あるいは二人の葬式に町の人たちが多数集まったのは同じように二人の存在を信じていたからだろうか。そうは思えない。葬儀の後見えない犬を連れて散歩している人や誰もいない空間に向かって話しかけている人などが増えたわけではないだろう。

  アシュモルの立場は微妙で、妹にある程度感化されているようにも思えるが、少なくとも両親はポビーとディンガンの葬儀をすることでケリーアンが空想の世界から卒業できると期待していたと思われる。町の人々も見えなかった二人が見えるようになったからではなく、妹を思うアシュモルの気持ちに共感したから葬儀に参列したのだろう。また幾分かは両親と同じ期待を持っていたかもしれない。彼らにはポビーとディンガンは見えないし、そもそも実在するとは思っていないが、一心に二人がいると信じているケリーアンの気持ちを理解し、尊重しようとしたのである。ポビーとディンガンは見えないが、妹のために町中にチラシを張り巡らそうと走り回るアシュモルの姿は見えていた。妹を救おうとする兄の気持ちに共感し、町を挙げて彼の妹を救う行動にでた。われわれはそこに感動しているのではないか。「目に見えない大切なもの」とは架空の友達を指すのではなく、人を思いやる心を指すと解釈すべきではないか。

  ケリーアンが空想の友達を作り出したのは寂しかったからだろう。父はオパールを探し出すことに夢中で、母はスーパーに勤めている。兄は友達と遊ぶのに夢中だったのだろう。学校にも彼女の友達はいない。町自体も一攫千金を目当てに集まってきた人たちであふれている。殺伐としていたに違いない。ケリーアンは一人孤立していた。彼女は追い詰められていたのだろう。そしてそのことに誰も気づかなかったのだ。寂しさを紛らすために彼女は自分で「友達」を作り出した。二人の友達が唯一彼女の心の拠り所だったのである。

  ケリーアンは他人への信頼感や思いやりを失った町が知らず知らずのうちにかかっていた病弊の象徴的存在だったのかもしれない。彼女の存在自体が町に対する警鐘だったのだ。彼女の空想はそういう意味で根深いものだった。サンタクロースは実在すると幼い子供が信じているのとは次元が違う。だからこそ彼女の家族だけではなく、町全体が変わらなければ物語は完結しなかったのである。

  だから結末が問題なのではなく、そこに至る過程がもうひとつ説得的に描かれていないということなのである。90分に満たない短い作品だということもあるが、いろんな点でもう少し描きこんでいればという思いが残る。例えば、父親レックスの描き方。オパールを求めて報われない努力をしている父親を決してアシュモルは馬鹿にしていない。町の連中の嫌がらせで有望な土地の採掘権を手に入れられなくなり、誰も見向きもしない土地でダウジングをしながら掘るべき場所を探している父の姿を息子は少しも哀れんでいない。父親自身の描き方としても一攫千金を狙うハゲタカのような人間として描かれてはいない。生活のためでもあるが、むしろ「夢」を追う存在として描かれている。ただその辺が充分映画全体のテーマと関連付けられていない。「夢」はケリーアンの「想像力」とつながってゆくものである。「夢」や「想像力」だけでは食べてゆけないが、少なくとも現実をより豊かにすることはできる。そういう力を持つものとしてもっと丹念に描かれるべきだった。そうすれば、エンドロールで映された様々な子供の絵がより活かされていただろう。

2006年11月27日 (月)

緑茶

2002年 中国 2006年4月公開 0031
評価:★★★★
監督:チャン・ユアン
撮影:クリストファー・ドイル
編集:ウー・イーシァン
美術:ハン・ジィアイン
衣装:リー・シゥルゥ
作曲:スゥ・ツォン
出演:ジァン・ウェン、ヴィッキー・チャオ、ファン・リジュン
    ワン・ハイジェン、ヤン・ドン、チャン・ユアン、ミー・チゥ
    リー・ロン、チャン・チー、フェイフェイ

  この5、6年中国映画の公開数が少なかったので本格的なレビューを書いたものは先日の「玲玲の電影日記」の他には「子供たちの王様」、「古井戸」、「わが家の犬は世界一」くらいのものだ。しかし短評を加えれば、「最後の冬」、「涙女」、「思い出の夏」、「黄色い大地」、「ションヤンの酒家」、「HERO」、「至福のとき」、「活きる」、「ハッピー・フューネラル」、「たまゆらの女」、「小さな中国のお針子」、「西洋鏡」、「キープ・クール」と結構書いている。11月から12月にかけて中国映画のDVDがまとまって出るので、年内は「中国映画月間」とするくらい力を入れてみてもいいと思っている。「緑茶」と一緒に「PROMISE」も借りてきたので、こちらも出来がよければレビューを書く予定。時間があれば手持ちの他のDVDも観てレビューを書いてみたい。僕にとって中国映画はイギリス映画と並んで重要な位置づけにあるからだ。

  チャン・ヤン監督のオムニバス風映画「スパイシー・ラブスープ」に「麻雀」というエピソードがある。テレビで結婚相手を募集したら候補者が3人現われるという話。親戚や知り合いが仲介をする日本とは違い、ブラインド・デートに近い中国のお見合い風景。テレビで相手を募集することも含めて実に新鮮だった。「緑茶」もこのお見合いで始まる。待ち合わせ場所のティールームで待っていたのは大学院に通うウー・ファン(ヴィッキー・チャオ)という地味な女性。元来は美人なのだが、それをあえて隠すように髪をひっつめにして眼鏡をかけている。服装も地味なスーツ姿。スカートではなくパンツスタイル。そこにやってきたのが気障な感じの男チン・ミンリャン(ジァン・ウェン)。控えめで遠慮がちな女とずうずうしいくらいおしゃべりな男。実はウー・ファンは毎日のように何人もの男とブラインド・デートをしていた。理想の男を求めているのだろうが、ほとんどお見合いオタクのようにも思える。そんなウー・ファンをミンリャンは気に入ってしまう。しかしウー・ファンはつれない態度。逃げるように去ってゆくウー・ファンをミンリャンはしつこく追い回す。ついにはウー・ファンに頬を張られる。

  こんな具合に映画は始まる。二人の関係は付かず離れずで、それが最後まで続く。もちろんそれだけでは変化に乏しい。そこで第二の女性が登場する。ある時ミンリャンはバーのラウンジでピアノを弾くランラン(ヴィッキー・チャオの二役)という女性に出会う。ランランは眼鏡こそかけていないがウー・ファンとそっくりだ。しかし性格は全く違う。金で誘えば誰とでも寝る女だ。服装もこちらは艶かしいスカート姿(足がきれいだ!)。さらに言えば第3の女性もいる。ウー・ファンがいつも口にする彼女の友人という女性である。ウー・ファンはデートの際にいつも緑茶を飲んでいるが、それはその「友人」から「恋の行方はグラスの中の茶葉で占える」と教えられたからだという。

Cw_s01_43   姿の見えない「友人」は別にして、主な登場人物はこの3人だけである。全くタイプが違う二人の女性の間で揺れる一人の男。そういう設定だが、ミンリャンの心はウー・ファンに向いていて、ガードの固いウー・ファンにはぐらかされてばかりでなかなか近づけない不満をランランで代わりに満たしているように見える。しかし話が進むに連れて様々な疑問がわいてくる。ウー・ファンとランランは同一人物ではないか。同じ女性の清楚な昼の顔と妖艶な夜の顔。あるいはウー・ファンの「友人」というのも彼女自身ではないのか。これらの謎は最後まで謎のままだ。

  最先端の北京を舞台に描く、スタイリッシュでミステリアスなラブ・ストーリー。これが一般的なとらえ方だが、確かにそういう面を持っている。主演のヴィッキー・チャオも「緑茶」の見所を聞かれて、「北京のナイトライフ大全のようなものです」と答えている。北京の最先端の場所、バーやホテルやアートスポットなどファッショナブルな場所が意識的に選ばれている。そして上記のような謎を残したミステリアスな展開。あるいはクリストファー・ドイルの何度もはっとさせられるような見事なキャメラワーク。例えばタイトルになっている緑茶。日本と違ってお湯の入ったガラスのコップに直接葉を入れる。次第に葉を広げてゆく茶葉の緑色が鮮烈にとらえられている。かき混ぜた後のぐるぐる回る緑色の茶葉が不安定な3人の関係を象徴しているようだ。

  しかしそういうイメージだけで観るとこの映画の本質をとらえそこなうかもしれない。ウォン・カーウァイ作品を連想する人が多いが、似ているようでどこか違う。ウォン・カーウァイの映画は退屈で僕は好きではない。しかしこの映画には引き込まれた。個人的な好みはともかく、比較するならむしろ僕は「ビフォア・サンセット」と「イルマーレ」を取り上げたい。「緑茶」はほとんどミンリャンと二人の女性との間の会話で成り立っている作品である。ひたすら喋りまくる映画なのだ。そういう意味では「ビフォア・サンセット」に近い。「緑茶」は顔のクローズアップが非常に多い映画だが、それは会話中心なので動きではなく表情を追っているからである(観客にはヴィッキー・チャオの美貌をたっぷり眺められるという楽しみもある)。

  「玲玲の電影日記」で北京電影学院の教育内容がヨーロッパ映画至上主義だったというシャオ・チアン監督の言葉を引用した。確かに「緑茶」にもヨーロッパ映画の影響があることは明らかである。斬新なキャメラワークや音楽の使い方、そして洒落た雰囲気。明らかに従来の重たい中国映画とは違う。しかし僕はむしろ韓国映画「イルマーレ」に近い感覚を覚えた。ヨーロッパ的な映画を作ること自体に狙いがあったのではなく、むしろ非日常的な異空間を描きたかったのではないか。実際にはありえない設定を設けることで、どこかファンタジーを見るような感覚を作り出す。どこか別世界に連れてゆかれるような快感。ゆらゆら揺らめく茶葉のような幻想的な世界。二つの映画にはそういう共通の感覚を覚える。この映画はアート系映画というよりはむしろファンタジーなのだ。

  主人公ミンリャンがどんな職業の男なのか全く分からない(全然働いている様子がない) のもファンタジーらしい。一応働かなくてもいい金持ちという設定になっているようだが、これまたわれわれ庶民にとっては憧れの別世界だ。つまり、現実世界からの脱出という願望を満足させてくれる類の映画なのである。現実逃避と言われれば確かにその通りだが、誰にでもその願望はある。それを満足させるのもフィクションの重要な機能である。だから真っ赤な色で統一されたトイレなどの超モダンな北京の風景が必用なのだ。丁度「イルマーレ」でも青みがかった寒々とした海辺の家というどこか別世界のようなセッティングと”イルマーレ”(海)というスペイン語のエキゾチックな響きが必要だった様に。もちろん主人公たちが出会った喫茶店の近くの路地のような古い街並みも出てくる。しかし日常的な世界を映すからこそ超モダンな「別世界」がいっそう浮き立つのである。

  僕は文革時代を扱った重い映画が好きである。しかし「緑茶」のような映画も好きだ。掴みどころのない作品だという批判もあるが、浮遊するように大都会に生きるつかみどころのない人々を描いているのだから、それはそれでいい。しかし、それならそれで、例えば「子猫をお願い」のようなもっと別の描き方があるだろうという反論もあるかも知れない。しかしそこに狙いがあるわけではない。作りたかったのは軽い都会のラブ・ファンタジーなのだ。2時間ほど楽しい「夢」を観させてもらう、そんな風に楽しめばいい。

  だから上の二つの謎ははっきりと明かされなくてもいいのである。謎めいた女性との出会い。それを楽しめばいい。ミンリャンと彼の友人(ファン・リジュン、有名なアーティストだShinlyoku_01w そうだ)の会話が面白い。友人「あきらめろ。ピアノの女は森林の道のようなものだ。どの道も迷ってしまい、たどり着けない。道と見えて実は道などないのさ。」ミンリャン「なぜ分かる?」友人「俺のほうが先に森林に入ったんだぜ。」ミンリャン「もう一人の女は道がないようで実は道ばかりだ。」すべての道はローマへ続くと友人が結ぶ。ランランではなくウー・ファンを選べと言っているのである。

  会話を通して謎めいた雰囲気が強調されている。「人間の運命なんてお茶の葉のようなものよ」というランランの言葉も同じだ。この謎が観客の関心を引っ張るドライブになっている。だから結局真相はどうなのか知りたくなるが、最後まで明らかにはされない。それはそれでもいい。ただ、ヴィッキー・チャオが二役を演じていることの意味は追求してみる価値があるかもしれない。上でクローズアップが多い作品だと書いたが、大写しになるのはほとんどウー・ファンである。ランランは謎の女という設定からかウー・ファンほどは多くない。しかしミンリャンのクローズアップはほとんどない。つまり男の視線で描かれている映画である。ヴィッキー・チャオの二役は女性の持つ二つの顔を描いているのだろうが、それは恐らく男の願望の反映だ。はぐらかされてばかりで煮え切らないウー・ファンに引かれつつも、あっさり彼を受け入れてくれる妖艶なランランにも心移りする。二人の女性の間で煩悶するというよりは、むしろ「両手に花」に近い至福の境地と言えなくもない。同時にそれは女性の願望でもあるかもしれない。自分にないもう一つの面も持ち合わせていたら・・・。これもある種の理想だ。心地よいくすぐり効果も兼ね備えている映画なのである。他のとらえ方もあるだろうが、とりあえず思いつくのはこんなところだ。

  男の視点で描かれているので、男の出自は一切問わず、一方的に女性の「正体」を探ろうとする展開になっている。しかしウー・ファンは容易に正体を現さない。彼女には「友人」という絶好の隠れ蓑があるからだ。ミンリャンは何とかウー・ファン自身について聞き出そうとするが、彼女は自分のことは一切語らず「友人」のことばかり語る。会うたびに「友人」の話を断続的に聞く展開になっている。しかしその友人の話がすごい。特にその母親の話。彼女は死体に死に化粧を施す仕事をしていた。夫がそれを知った時、死体の匂いが移ることを嫌い彼女に手袋を付けさせた。それでも収まらず、次第に暴力を振るうようになり、ついにはそれを見かねた娘に殺されてしまう。

  ミンリャンもいつの間にかその話に引き込まれ、「それからどうなったんだ?」と何度も先を促すようになる。それほどこの話には人を引き込む力がある。この話は実はランランの身の上話とある接点を持っている。ランランは一度だけ自分の両親の話をする。父は昔作家だったということだが、ウー・ファンの話とつながるのは母親についての話である。「自分は胡桃だと母は私に言ったわ。結婚前はおいしそうで欲しがられたけど、結婚してみたら堅くて黒くてとても噛めない。ずっと後で実を取り出したらまあまあの出来だった。」ミンリャン「君がその実ってわけ?」「そうよ。」「母親の仕事は?」「手袋工場長。」「手袋工場?どうしてまた手袋なんだ?」

  ウー・ファンの「友達」が本当に存在するのか、彼女自身のことなのか、あるいは彼女の想像上の人物なのか、真相は最後まで分からない。しかし手袋を手がかりに考えれば、 ウー・ファンとランランとウー・ファンの友達は同一人物であり、手袋をしていた女性はウー・ファンの母親だと考えるのが一番自然だろう。父親の虐待とその父親を殺してしまった過去が彼女の精神を分裂させてしまった。こう考えると実に重たい話になるが、全く真相は違う可能性もある。いずれにしても、エンディングはそういったことは一切問わず、明るい終わり方になっている。ミンリャンはランランを連れてホテルに行く。あちこち廊下を走り回った末に部屋に入る。突然場面はすりガラスのテーブル越しに下から撮った映像に変わる。すりガラスなのではっきりとは見えない。しかしガラスの上にウー・ファンがかけていたメガネが置かれるのは分かる。いつの間にかランランがウー・ファンに変わっている。姿ははっきり見えないが話し声は聞こえる。「本当に私のこと好き?」

  このラストはランランとウー・ファンが同一人物だということを暗示しているのだろうか。はっきりしたことは分からない。映画はその可能性を匂わせるだけである。いずれにしても散々てこずったがミンリャンとウー・ファンはどうやらうまくいっているようだ。最後は「過去」を引きずっていない。「目の前に虹があるのに雨に打たれることはない」というウー・ファンの言葉(もともとはミンリャンが使った表現)が示すように、二人は前に向かって歩んでゆくことが暗示されている。謎は残っているが、さわやかな終わり方だと思う。

  二役を演じ分けたヴィッキー・チャオの魅力が全編にあふれている。コン・リーやチャン・ツィイーとはまた違った魅力である。この映画で初めて彼女を観たが、他の出演作も観たいと思わせるほど魅了された。一方、「芙蓉鎮」(1984)、「紅いコーリャン」(1987)、「太陽の少年」(1994)、「宋家の三姉妹」(1997)、「キープ・クール」(1997)、「鬼が来た!」(2000)など、中国映画の名作に次々と出演し監督までこなしているジァン・ウェン(チアン・ウエン)もさすがの存在感。監督としての力量も相当なものだが、やはり役者としての魅力が大きい。のっそりとした男なのだが、登場するだけで観るものを惹きつけてしまう天性の才能を持っている。80年代に観た「芙蓉鎮」と「紅いコーリャン」の圧倒的な迫力は今でも記憶に鮮明だ。

  クリストファー・ドイルによる視覚マジックも実に効果的である。日本映画「空中庭園」の撮影テクニックと演出はこれ見よがしで鼻についたが、「緑茶」の斬新なWindow_cb1tキャメラワークはむしろ作品をより魅力的にしている。作品のテーマや雰囲気から浮き上がっていないから である。テクニックばかりがやけに目立つ映画は「どうだすごいだろう」という作り手の驕りが前面に出ていて不快なものだ。この作品の場合は凝ったキャメラワークが作品の不思議空間にうまく合っている。料理がのったテーブルを真上から撮ったショットは、人物を画面の外に置き話し声だけ入れている。料理には手をつけていない。さっぱり話が弾まないミンリャンとウー・ファンの関係がうまく切り取られている。画面の切り替えの際に、わざと最初は壁を映して話し声だけを入れる。キャメラが移動してようやく二人の姿が映るという映し方も新鮮だった。「子供たちの王様」でチェン・カイコーが試みた映像と音をわざとずらす実験も印象的だったが、映画全体の雰囲気を壊さずむしろより効果的にする映像実験なら歓迎すべきだ。

  特に効果的だと思ったのは分厚い緑色のビニールのすだれのようなものを通してその向こう側にいるランランとミンリャンを映す場面。すだれの向こう側から撮ったと思われる赤い色を背景にした同じ場面が交互にフラッシュバックされる。ビニールすだれを通した間接的描写はランランの謎めいた存在をうまく視覚的に表現しており、真っ赤な場面は内面に渦巻く欲望を表しているようで、実に印象的だった。ちなみに余談だが、あのビニールすだれは中国のデパートや学校など多くの人が出入りする建物の入り口でよく見かける。何でこんな邪魔なものをドア代わりにぶら下げているのかと最初は不思議に思うが、自動ドアのように全面的に開かないので(人はすだれを掻き分けるようにして出入りする)冷気や暖気が外に逃げない。考えてみればこの方が安価である上に合理的なのだ。しかし近代化が急ピッチで進む今の中国ではいずれ消えてゆくのかもしれない。

  監督のチャン・ユアンは「ただいま」や「クレイジー・イングリッシュ」、そして「緑茶」の直前に封切られた「ウォ・アイ・ニー」などが日本で公開されている。僕が観たのは「緑茶」が初めて。いろんな作風の映画が作れるようだ。近くのレンタル店では見かけないのだが、何とか手に入れて他の作品も観てみたいものだ。

2006年11月24日 (金)

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マイ・ベスト・テン
キーラ・ナイトレイ(1985- ) ミドルセックス
<代表作>
「わたしを離さないで」(10)
「つぐない」(07)
「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ(03~)
「ドミノ」(05)
「プライドと偏見」(05)
「パイレーツ・オブ・カリビアン」(03)
「ラブ・アクチュアリー」(03)
「ベッカムに恋して」(02)
「穴」(01)

ケイト・ウィンスレット(1975- ) レディングZt2
<代表作>
「おとなのけんか」(11)
「エターナル・サンシャイン」(04)
「ネバーランド」(04)
「アイリス」(01)
「タイタニック」(97)
「日蔭のふたり」(96)
「いつか晴れた日に」(95)

ヘレナ・ボナム・カーター(1966-) ロンドン
<代表作>
「英国王のスピーチ」(10)
「アリス・イン・ワンダーランド」(10)
「スウィーニー・トッド」(07)
「ハリー・ポッター・シリーズ」(07~10)
「チャーリーとチョコレート工場」(05)
「ビッグ・フィッシュ」(03)
「ファイト・クラブ」(99)
「ヴァージン・フライト」(98)
「鳩の翼」(97)
「フランケンシュタイン」(94)
「ハワーズ・エンド」(92)
「眺めのいい部屋」(86)

エマ・トンプソン(1959- ) ロンドン
<代表作>
「新しい人生のはじめかた」(08)
「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」(05)
「ラブ・アクチュアリー」(03)
「ウィンター・ゲスト」(97)
「いつか晴れた日に」(95)
「キャリントン」(95)
「から騒ぎ」(93)
「日の名残り」(93)
「ハワーズ・エンド」(92)
「ピーターズ・フレンズ」(92)
「ヘンリー五世」(89)

ヘレン・ミレン(1945-) ロンドン
<代表作>
「クィーン」(06)
「カレンダー・ガールズ」(03)
「ゴスフォード・パーク」(01)
「グリーンフィンガーズ」(00)
「英国万歳!」(94)
「コックと泥棒、その妻と愛人」(89)
「エクスカリバー」(81)
「オー!ラッキーマン」(73)
「狂えるメサイア」(72)

ジュリー・クリスティー(1941- )  インド・アッサム州
<代表作>
「ネバーランド」(04)
「シャンプー」(75)
「赤い影」(73)
「恋」(71)
「遥か群衆を離れて」(67)
「華氏451」(66)
「ダーリング」(65)
「ドクトル・ジバゴ」(65)

ヴァネッサ・レッドグレイヴ(1937- )  ロンドン
<代表作>
「もうひとりのシェイクスピア」(11)
「ダロウェイ夫人」(97)
「愛と精霊の家」(93)
「ハワーズ・エンド」(92)
「アガサ愛の失踪事件」(79)
「ジュリア」(77)
「トロイアの女」(71)
「素晴らしき戦争」(69)
「裸足のイサドラ」(68)
「遥かなる戦場」(68)
「わが命つきるとも」(66)
「欲望」(66)

グレンダ・ジャクソン(1936- ) チェシャー州
<代表作>
「レインボウ」(89)
「サロメ」(87)
「ウィークエンド・ラブ」(73)
「クイーン・メリー愛と哀しみの生涯」(71)
「日曜日は別れの時」(71)
「恋する女たち」(69)

ジュディ・デンチ(1934- ) ヨーク
<代表作>
「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」(11)
「ヘンダーソン夫人の贈り物」(05)
「プライドと偏見」(05)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(04)Mirror_2
「シッピング・ニュース」(01)
「アイリス」(01)
「ショコラ」(00)
「恋に落ちたシェイクスピア」(98)
「ムッソリーニとお茶を」(98)
「Queen Victoria 至上の愛」(97)
「ヘンリー五世」(89)
「眺めのいい部屋」(86)

マギー・スミス(1934- ) イルフォード
<代表作>
「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」(11)
「ハリー・ポッター・シリーズ」(01~11)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(04)
「ゴスフォード・パーク」(01)
「ムッソリーニとお茶を」(98)
「天使にラブ・ソングを」(92)
「眺めのいい部屋」(86)
「素晴らしき戦争」(69)
「ミス・ブロディの青春」(68)「三人の女性への招待状」(66)

モア・テン、こちらもおすすめ
サマンサ・モートン(1977-) ノッティンガム
エミリー・モーティマー(1971- ) ロンドン
キャサリン・ゼッタ・ジョーンズ(1969-) ウェールズ
タラ・フィッツジェラルド(1968- ) ロンドン
エミリー・ワトソン(1967- ) ロンドン
シャーロット・ランプリング(1946-)  エセックス州スターナー
ブレンダ・ブレッシン(1946- )  ケント州ラムズゲート
サラ・マイルズ(1941- ) エセックス
スザンナ・ヨーク(1941- ) ロンドン
シリア・ジョンソン(1908-1982) サリー州リッチモンド

 

  エリザベス・テイラー、デボラ・カー、ヴィヴィアン・リーなど主にアメリカで活躍した超有名女優はベストテンからはずした。
  この中で特に好きなのはエマ・トンプソンとヘレン・ミレンの二人。「日の名残り」のエマ・トンプソンは実に魅力的だった。「ウィンター・ゲスト」は作品的にはたいしたことはないが、寒々としたスコットランドの海辺に立つ彼女の美しさには崇高さすら感じた。一方のヘレン・ミレンは庶民的なところが魅力。「カレンダー・ガールズ」まではさほど意識しなかった。しかし「カレンダー・ガールズ」ではおばちゃんパワー炸裂。強烈だった。しかし一番彼女の魅力が発揮されているのはTVシリーズの「第一容疑者」かもしれない。周りの男どもの嫌がらせを毅然として跳ね除け、堂々と捜査の指揮をとる彼女のきりっとした姿は(美人女優ではないが)美しいとさえ思った。
  最も優れた女優はと聞かれたらヴァネッサ・レッドグレイヴと答えたい。「ジュリア」での毅然とした美しさは圧倒的だった。大女優と呼ぶに値するのはジュディ・デンチとマギー・スミス。この二人はもはや別格。立派なのは過去の業績だけではない。いまだ現役で活躍し、次々に新しい地平を切り開いている姿勢には心から尊敬を感じる。グレンダ・ジャクソンは美人女優ではないが、彼女の代表作でイギリス映画屈指の名作「日曜日は別れの時」では強烈にひきつけられた。実に不思議な魅力を持った女優だった。女優引退後労働党の議員になり大臣も経験した。ジュリー・クリスティーは「ドクトル・ジバゴ」や「恋」の清楚な印象が強いが、「ネバーランド」で厳格な上流婦人として登場した時には仰天した。この人もすごい女優だ。ヘレナ・ボナム・カーターは、正直言うと、ずっと変な顔の女優だと思っていた。しかし「ヴァージン・フライト」あたりから彼女の魅力を感じ始め、「ビッグ・フィッシュ」で完全に見方が変わった。グレンダ・ジャクソンがD.H.ロレンスを原作とした作品に似合うように、彼女の特異な容貌はティム・バートンの作品が一番似合うと思う。
  ケイト・ウィンスレットは「タイタニック」でブレイクしたが、僕には「日蔭のふたり」や「いつか晴れた日に」の印象が強い。「アイリス」では息を呑むほど美しかったが、しっかりとした演技力を持っており、単なる美人女優でない。キーラ・ナイトレイは一番若い世代の代表として選んだ。「穴」や「ベッカムに恋して」の頃はまだ子供だったが、「プライドと偏見」では目を見張るほどの美人女優に成長していた。若手の中では群を抜いた存在。
  本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「イギリス映画の世界」コーナーに、より網羅的なリストを挙げています。こちらも参照ください。

2006年11月22日 (水)

シャンプー台のむこうに

2000年 イギリス 2001年12月公開
評価:★★★★
原題:Blow Dry
監督:パディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ボーフォイ
製作総指揮:シドニー・ポラック
出演:アラン・リックマン、ジョシュ・ハートネット、レイチェル・グリフィス
   ナターシャ・リチャードソン、レイチェル・リー・クック、ビル・ナイ
   ヒュー・ボネヴィル、ウォーレン・クラーク、ハイジ・クラム
   ローズマリー・ハリス、ピーター・マクドナルド、マイケル・マケルハットン
    デヴィッド・ブラッドリー、レイ・エメット・ブラウン ローズマリー・ハリス

  Artkurione250wa_1 1年くらい前に中古店でDVDを手に入れた作品。退院後の療養期間中なのであまり肩の凝らないものをということで選んでみた。期待以上に面白い映画だった。拾い物の逸品。映画のタイプとしては、一度バラバラになった家族が全英ヘアドレッサー選手権をきっかけに再び絆を取り戻すというよくあるタイプのハートウォーミング・コメディである。したがって、何の変哲もないコメディだと一蹴する向きもないではないのだが、あれこれブログを読んでみると全体としてはすこぶる評判がいい。確かによく出来ているのだ。あっさり先が読めてしまうストーリーに依拠しながらも、これだけ魅力的な映画に仕立てている手腕はむしろ褒められるべきだろう。

  ではどこがありきたりのものと違うのか。一つにはいくつかのジャンル・系統からおいしいところを取ってきて、それらをバランスよく組み合わせていることである。90年代以降のイギリス映画は、「Qeen Victoria 至上の愛」、「エリザベス」、「アイリス」、「いつか晴れた日に」、「日陰のふたり」、「プライドと偏見」、「オリバー・ツイスト」などの文芸映画や歴史劇を別にすれば、大きく3つの系統に分けられるだろう。一つは「ウェールズの山」、「ブラス!」、「フル・モンティ」、「リトルダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「ベッカムに恋して」、「カレンダー・ガールズ」などの系統。努力して困難を乗り越え成功を掴むという、明るい元気が出るタイプの映画だ。二つ目は「リフ・ラフ」、「レディバード・レディバード」、「ボクと空と麦畑」、「人生は、時々晴れ」、「がんばれリアム」、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、「家族のかたち」、「SWEET SIXTEEN」、「やさしくキスをして」などの、イギリスの現状を反映したつらく、厳しく、暗い系統の作品群。社会を反映したもう一つの系統は「シャロウ・グレイブ」、「トレインスポッティング」、「ザ・クリミナル」、「ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「ロンドン・ドッグズ」などの一連のイギリス版犯罪映画である。いずれも、サッチャー時代に福祉国家から競争国家に路線転換し、アル中や薬中や犯罪がはびこるリトル・アメリカ化したイギリス社会の明と暗の反映である。「シャンプー台のむこうに」は明らかに最初の明るい楽天的タイプに入る。観終わった後のさわやかさはこのタイプの作品に共通する要素である。

  もう一つイギリスのテレビ番組でよく見かけるコメディ・ドラマの要素がこれに付け加えられている。おどけた会話や表情や身振り、コンテストに出演したヘアドレッサーや司会を務める町長たちの大げさで滑稽なキャラクター造形などはまさにこの伝統を引き継いでいる。これらにさらに「壊れた家族の再生」というファミリー・ドラマの要素が加えられているところが「シャンプー台のむこうに」のユニークな特徴なのである。これはどちらかというとアメリカ映画が得意とする分野で、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」、「ラスト・マップ 真実を探して」、「エイプリルの七面鳥」、「イン・アメリカ三つの小さな願いごと」、「海辺の家」、「アメリカ、家族のいる風景」、「綴り字のシーズン」、「ドア・イン・ザ・フロア」、「イン・ハー・シューズ」など数え上げればきりがない。イギリスにも「秘密と嘘」や「人生は、時々晴れ」などいくつかあるが、アメリカ映画ほど単純には描かれない。要するに、「シャンプー台のむこうに」はこれらの明るい要素のいいとこ取りなのである。くすくす笑わせながらストーリーが展開し、時々しんみりさせ、最後はお約束の明るいハッピーエンド。そりゃ楽しめますよ。あまり難しいことを言わず映画の流れに乗っかって楽しめばいい。コメディなのだから。普通なら有り得ないことが「自然に」展開されるという特殊な領域はアニメだが、実写版でこれに近いのがコメディ。コメディは既成の枠から外れたところで成り立つジャンルである。既成の枠を踏み越えるから面白いと言ってもいい。少々の無理は笑って済ます。それでいいのである。

  「シャンプー台のむこうに」の魅力はこれにとどまらない。イギリスの牧歌的な風景が楽しめるのも魅力の一つ。舞台はイングランド北部のヨークシャー州。キースリーという田舎町。高い山がなく、なだらかな丘が続くイギリスの田園風景は絵のように美しい。素朴な郊外のファームハウスやそこに住む素朴な人々。羊も出てくるのどかな風景。

  しかし何といっても面白いのは全英ヘアドレッサー選手権そのものとコンテスト出場者のキャラクターである。サイモン・ボーフォイの練りに練った脚本のコミカルな仕掛けがこれに命を吹き込んでいる。全英ヘアドレッサー選手権なるものは恐らく実在しないのだろうArtbasya05200wb が、アメリカには実際あるらしく、スタッフがラスヴェガスまで取材に行ったというコメントがメイキングの中にある。それはともかく、全英ヘアドレッサー選手権は4回戦行われて、その合計点で優勝を争う。「女性ヘア・ブロー部門」、「男性フリースタイル部門」、「ナイト・ヘア部門」そして「トータル・ルック部門」。会場となったキースリーの代表が映画の主人公たちである。かつて2連勝したが3連覇目前に妻に逃げられて挫折、今はすっかりしょぼくれて田舎町のしがない理髪店を営んでいるフィル(アラン・リックマン)。コンテストに出る気など全くない。妻とはこの10年間口もきいていない。不甲斐ない父親に不満を抱きつつ自分はコンテスト出場に前向きなその息子ブライアン(ジョシュ・ハートネット)。フィルの妻シェリー。実はすぐ近くで別の美容院を営んでいる。そしてそのシェリーと駆け落ちした相手サンドラ(レイチェル・グリフィス)。何とシェリーの同棲相手は女性だったのである。元はコンテストの時のモデルだった。

  この真っ二つに割れていた4人が再びチームを組みコンテストに出場する。出だしは不調で回が進むごとに順位が上がり、最終決戦の「トータル・ルック部門」で大逆転という、まるで2004年のアテネ・オリンピックでの男子体操のような展開。否が応でも盛り上がるという仕掛け。しかも1回ごとに登場する髪型がより大胆に、より奇抜になってゆく。優勝をさらった決めのトータル・ルックは小林幸子もあっとのけぞるとんでもない大胆スタイル。うれしさは優勝ばかりではない。優勝と共に4人は家族になった。もともと夫と息子に出場を持ちかけたシェリーの目的は「優勝」ではなく、「私たち4人が家族になること」だった。宙を舞うフィルのハサミは「家族の再生に向けての架け橋だ!」と司会者も思わず興奮して叫んだ、ということはないが、めでたしめでたしのエンディング。こうなると分かっていてもやはり引き込まれてしまう。それだけ映画に力があるということだ。

  小ネタを積み重ねたギャグの用い方も効果抜群。最初のあたりにブライアンが老人の髪を切っているシーンが出てくる。老人にあれこれ話しかけているのを見かけた人が誰に話しかけているのかと問う。ブライアンは老人の足の指に引っ掛けてある名札を観て名前を言う。つまりその老人は死体だったのだ。本物の髪で練習したいためにブライアンは死体置き場の死体を練習用に使っていた!このブラックさがいかにもイギリス映画らしくていい。しかもこれにはもう一つ笑えるエピソードがある。恋人のクリスティーナ(レイチェル・リー・クック)と一緒に死体を使ってカラーリングの練習をしていた時、ひょんなことから外に出たら鍵がかかって戻れなくなってしまう。翌日その老人の葬儀のために集まってきた人たちが窓から覗いて「シド・ヴィシャスだ」と叫ぶところは爆笑ものの傑作。とにかく練習をしたいクリスティーナは羊もまだらに染めてしまう。

  多少不満なのはコンテストに出場したライバルたちがいまひとつ活躍しないこと。強敵があってこそコンテストは盛り上がる。95分という短い映画なので、さすがにそこまでは手が回らなかったということだろう。ただその中でも異彩を放っているのがフィルの最大のライバル、最近2連覇しているレイモンド(通称レイ)。演じているビル・ナイの小悪党ぶりが笑える。中年のおっさんたちがロックバンドを再結成するコミカルな音楽映画「スティル・クレイジー」のくたびれたヴォーカル役で最初に意識した脇役俳優だが、腕は一流なのに下手な小細工ばかりしているこの役柄も見事にぴったりはまっている。まったくの悪人でないところがいい。

  しかし何といってもこの映画を支えているのはアラン・リックマン、レイチェル・グリフィス、ナターシャ・リチャードソンの3人。何をやらせてもうまいアラン・リックマンはさすがの存在感。女房に逃げられてしょぼくれた生活を送っている出だしのやる気のない態度から(チャップリンの「犬の生活」をもじって言えば「負け犬の生活」を送っていた)、カリスマ美容師として復活する最後の「トータル・ルック部門」での颯爽としたハサミ捌きまで(背伸びをすると足の裏のはさみの刺青が見えるのが可笑しい)堂々と演じきっている。「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」でジャクリーヌの姉ヒラリーを演じたレイチェル・グリフィスは、ここでは一転してコメディエンヌぶりを発揮している。ラストの変身振りもすごい。ナターシャ・リチャードソンに言及する人はほとんどいないが、僕はこの可愛いおばちゃん女優が痛く気に入ってしまった。主に舞台やテレビで活躍している人らしい。ここでは不治の病を抱えているという設定だが、湿っぽくならずに明るく前向きに行動する姿がさわやかだ。彼女は何とイギリス映画界の巨匠トニー・リチャードソン監督と大女優ヴァネッサ・レッドグレイヴの娘だそうである。

  しかし登場人物の中でもっとも異彩を放っていたのは町長トニー役のウォーレン・クラーク。キースリーが全英ヘアドレッサー選手権の会場に選ばれた時は町おこしにうってつけの企画とばかりに大喜びで飛びつく。いかにも小さな田舎町らしく、予算をちびって会場は古いダンスホールを改装して使い、駅の電車発着時刻表示板のお古を電光掲示板代わりに使うというけちけちぶりが笑える。自ら司会を買って出るが、最初は選手権のこともヘア ドレッシングのことも分からないので完全に一人会場から浮いている。それが回を追うごとPhoto_21にどんどん板についてきて司会者らしくなってゆく。それに連れて衣装もどんどん派手になってくる。ひたすら町のために選手権を盛り上げようと涙ぐましい努力をする姿に、彼なりに町を愛してるんだといつしか応援したくなってしまう。最後の「トータル・ルック部門」の頃には司会者を越えてすっかりエンターテイナーになっている。もうほとんど自己陶酔の境地に入っている感じだ。選手権終了後も、勢い余ってか、一人ステージに残ってプレスリーのI Just Can’t Help Believingを陶酔したように歌いまくる。どうやら口パクで、歌こそ歌っていないが、その振り付けのはまりっぷりは「ビヨンドtheシー」のケヴィン・スペ イシー並み。いや、お見事でした。

  このように、一見単純なストーリーながら、実に様々な要素が盛りだくさんに詰め込まれている。ほとんど触れなかったが、ブライアンとクリスティーナ(フィルのライバルであるレイの娘)の恋愛も描かれている。恐らく「ロミオとジュリエット」を意識しているのだろう。これだけ色々詰め込んでも展開にもたつきはない。アメリカ映画のようなド派手な演出や豪華さはなくても、アイデアしだいでこれだけ魅力的な作品が作れるのだ。イギリス映画の実力や恐るべし。

2006年11月20日 (月)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年12月)

【新作映画】
11月25日公開
 「赤い鯨と白い蛇」(せんぼんよしこ監督、日本)
12月1日公開
 「武士の一分」(山田洋次監督、日本)
12月2日公開
 「イカとクジラ」(ノア・バームバック監督、アメリカ)
 「ファミリー」(イ・ジョンチョル監督)
12月9日公開
 「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督、アメリカ)
 「人生は、奇跡の詩」(ロベルト・ベニーニ監督、イタリア)
 「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督、ハンガリー、英)
 「王の男」(イ・ジュンイク監督、韓国)
12月16日公開
 「あるいは裏切りという名の犬」(オリビエ・マルシャル監督、仏)
 「オーロラ」(ニルス・タベルニエ監督、フランス)
 「長い散歩」(奥田瑛二監督、日本)
 「愛されるために、ここにいる」(ステファヌ・ブリゼ監督、フランス)
12月23日
 「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督、米)
 「合唱ができるまで」(マリー=クロード・トレユ監督、フランス)

【新作DVD】
11月22日
 「プラハ!」(フィリップ・レンチ監督、チェコ)
 「さよなら、僕らの夏」(ヤコブ・アーロン・エステス監督、アメリカ)
 「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
 「花よりもなお」(是枝裕和監督)
11月25日
 「エドワード・サイード OUT OF PLACE」(佐藤真監督、日本)
11月30日
 「アメリカン・ドリームズ」(ポール・ウエイツ監督、米)
 「おさるのジョージ」(マシュー・オキャラハン監督、米)
12月1日
 「森のリトル・ギャング」(キャリー・カークパトリック監督、米)
12月22日
 「胡同のひまわり」(チャン・ヤン監督、中国・香港)
 「ジャスミンの花開く」(ホウ・ヨン監督、中国)
 「プルートで朝食を」(ニール・ジョーダン監督、アイルランド、英)
 「ハイジ」(ポール・マーカス監督、イギリス)

【旧作DVD】
11月22日
 「パーマネント・バケーション」(80、ジム・ジャームッシュ監督、米)
 「祇園の姉妹」(36、溝口健二監督)
 「夜の女たち」(48、溝口健二監督)
 「残菊物語」(39、溝口健二監督)
 「浪華悲歌」(36、溝口健二監督)
11月24日
 「愛妻物語」(51、新藤兼人監督)
11月25日
 「冬冬の夏休み」(84、ホウ・シャオシェン監督、台湾)
11月27日
 「陽気なドン・カミロ」(51、ジュリアン・デュビビエ監督、仏)
 「ドン・カミロ頑張る」(53、ジュリアン・デュビビエ監督、仏)
11月29日
 「さすらいの二人」(75、ミケンランジェロ・アントニオーニ監督、伊仏、他)
12月8日
 「注目すべき人々との出会い」(79、ピーター・ブルック監督、米)
12月20日
 「フランク・キャプラDVDコレクターズBOX」
12月22日
 「ドライビングMissデイジー」(89、ブルース・ベレスフォード監督、米)

  劇場新作の話題はなんと言っても山田洋次監督の「武士の一分」とクリント・イーストMorinoieb ウッド監督の「硫黄島からの手紙」に尽きる。巨匠二人の新作に期待大。
  新作DVDはいまひとつぱっとしない。ただし中国映画3本がまとまって出るのは朗報。もう1本注目すべきはドキュメンタリー映画「エドワード・サイード OUT OF PLACE」。今年は「三池 終わらない炭鉱の物語」、「六ヶ所村ラプソディー」、「ガーダ パレスチナの詩」、「ヨコハマメリー」、「蟻の兵隊」などドキュメンタリーの力作がそろった。ポレポレ東中野の果たした役割も大きい。特筆すべきことだろう。
  一方旧作DVDは花盛り。なぜか発売が遅れていた新藤兼人監督の「愛妻物語」がついに出る。彼の代表作の一つで必見。溝口のばら売りも続く。特に「祇園の姉妹」と 「浪華悲歌」は日本映画を代表する名作。絶対に観るべし。ピーター・ブルック監督の「注目すべき人々との出会い」は神秘思想家グルジェフの伝記映画。一風変わった摩訶不思議な映画。一見の価値あり。フランク・キャプラ監督のBOXはばらで持っていなければお買い得。「スミス都へ行く」、「或る夜の出来事」、「オペラハット」、「我が家の楽園」等名作ぞろい。デュビビエ監督のコメディ「ドン・カミロ」シリーズも懐かしい。フェルナンデルの馬面にはまれば結構楽しめるかも。

2006年11月19日 (日)

カミュなんて知らない

2006年 日本 1月14日公開
評価:★★★★
監督・脚本:柳町光男
撮影:藤澤順一 
音楽:清水靖晃 
出演:柏原収史、吉川ひなの、前田愛、中泉英雄、黒木メイサ、田口トモロヲ
    玉山鉄二(友情出演)、阿部進之介、鈴木淳評、伊崎充則、金井勇
    たかだゆうこ、柳家小三治、本田博太郎
特別協力:立教大学

  「人を殺す経験をしてみたかった。」2000年5月に愛知県豊川市で起きた男子高校生Sky_window_1 による殺人事件。犯人の少年は神戸の酒鬼薔薇聖斗や西鉄バスジャックの少年と同じ82年生まれだった。当時社会に衝撃を与えたこの事件をほぼ同じ世代の大学生たちが「タイクツな殺人者」というタイトルで映画にしようとしている。「カミュなんて知らない」はある大学で“映像ワークショップ”を受講する学生たちが映画を製作する過程を描いた映画である。

  異様な迫力のある映画だった。特に最後の20分。高校生がふらっと農家に上がりこんで主婦を殴り殺す場面は異様なほど生々しく、鬼気迫るものがあった。この映画を観た時に感じる迫力はこの部分から伝わってくるものである。しかし全体としてみれば中途半端な映画だと言わざるを得ない。

  この映画は様々な要素を持った映画なのだが、どの面から見ても中途半端なのである。まず、若者映画という観点から見た場合。新しいタイプの青春映画という触れ込みだが、本当にそうなのか。多少馬鹿ふざけの場面も出てくるが、大学生たちを描く時にありがちな軽薄でふざけまわるだけの演技をさせていない。その点は評価できる。ただ人間関係はいかにも作り物という感じだ。平板で深みに欠ける。映画作りという中心テーマに学生たちの私生活を絡める展開は悪くないが、そこで展開されるのは恋愛のもつれというお決まりのパターンに過ぎない。群像劇という言葉を使うこともためらわれるようなステレオタイプの若者像。映画製作にかかわる大学生たちの個性をそれなりに描き分けてはいるが、描き方が外面的で心の揺れが伝わらない。最後は殺人場面の強烈な描写にすべてが収斂してしまい、その他の人間関係はあっけなく途中で放り出されてしまう。クライマックスに至るまでの間に合わせのストーリーという感じだ。この点では中学生同士のみずみずしい人間関係を描いた「青空のゆくえ」に及ばない。

  そもそも「青春」という表現が似合う作品ではない。かといって、生活がかかっているわけではないし人間としての生き方を問われているわけでもないので、森川時久監督の「若者たち」のように真剣になって激論を戦わせるわけでもない。たださらっと流れてゆくだけだ。ただし、映画製作は集団作業だから、当然意見の食い違いやクランクインの日を数日後に控えてあせる気持ちなどは描かれている。

  しかしその学生同士の議論も決して深まらない。議論の焦点は”不条理殺人”をめぐるものである。議論のテーマとして充分な題材だが、犯人は犯行時狂っていたのかそうでないのか、犯行場面をどう演出するかがわずかに論じられるばかりで、それ以上には進まない。”不条理殺人”をめぐる討論劇という構成もありえたが、元よりそんな映画を目指しているわけではない。この点は後ほどまた別の角度から検討する。

  次に「劇中劇」を取り入れた作品として見た場合はどうか。これもカルロス・サウラ監督の名作「カルメン」には遥かに及ばない。「カルメン」の優れている点は、演出過程をそのまま劇中に収め、現実に進行している場面と劇の進行の場面の境界線をあえて曖昧にすることによって、舞台からはうかがい知ることのできない演出家や役者たちの実際の人間性や人間関係をも同時に描き出していることにある。「カミュなんて知らない」も形の上ではそれに近いものがあるが、何せ描かれる「人生」が浅すぎるのだから比較にもならない。

  では不条理劇として見た場合はどうか。タイトルにあるカミュとは小説『異邦人』(1940)を書いたアルベール・カミュを指している。僕が大学生だった頃はまだかなり人気のあった作家だ。カミュの『異邦人』はサルトルなどの実存主義が流行した時代にもてはやされたのである。アラブ人を殺害したムルソーが語った「太陽がまぶしかったからだ」という意味不明の動機が物議をかもした。理性では割り切れない何か「不条理」な行動原理が人間の奥底にあるという提起が当時は衝撃的であった。憎しみも利害関係のもつれもない、ただ「太陽がまぶしかったから」という動機は確かに「人を殺す経験をしてみたかった」という高校生の発言と重なる。そういう意味で高校生による殺人事件は論じるに足るテーマである。しかし言うまでもなく、この映画は「カミュなんて知らない」というタイトルが示すように、不条理劇にもなりきれていない。監督と俳優とスタッフの間で犯人は犯行時正常だったのか異常だったのかをめぐってちょっと議論になったというだけで終わってしまう。不条理な殺人の動機について深く追求しているわけではない。そもそも今の学生に議論は似合わない。ただ、殺人犯を演じる池田(中泉英雄)だけが一人役柄に引き込まれるようにしてのめりこんでゆく。犯人になりきった時の彼の目つきが実に不気味だ。彼を中心にして、そこをもっと掘り下げて描いていたらはるかに優れた作品になっていたかも知れない。

  結局、監督役の学生が自分の考えを強引に押し通して議論を棚上げにしたまま、一気に殺害場面の撮影へとなだれ込む。この殺害場面が不気味なほどリアルで生々しいのは、しばしば本当に殺しているのかと思わせる演出になっているからである。演じる池田の目が演技を超えて異様なほど不気味な光を放っている。彼は犯人像にのめりこむあまり犯人の意識が彼に乗り移り、本当に主婦を殺してしまったのではないか。しばしばそう思えるように描いている。最後には演出だということが横にカメラが映ることで分かるのだが、この「現実と演出が重なり合う」描き方が水際立っており、ぞっとするような効果を発揮している。

Big_0064_2   最後の異様なほど迫力のある演出はほとんどの人が褒めている。しかし同時に不安を表明する人も多い。なぜなら殺人に対する姿勢が微妙だからだ。もちろん肯定はしていないが、はっきりと否定しているわけではない。殺人場面のリアリティをひたすら追求するばかりで、映画として殺人行為をどう理解するかという観点がすっぽり抜けているのである。殺人犯の心理の奥底には全く踏み込まず、正常なのか狂気なのか、あるいは何が彼を殺人に追いやったのかという議論は棚上げにし、ただ池田が役柄にのめりこんでゆく様をそのまま薄気味悪いほど冷静に描いて、生の「リアリティ」を観客の前に投げ出すばかり。そういう演出だ。

  エンドロールでは畳の上に大量に流れた「血のり」を学生スタッフが黙々と拭き取るシーンを長々と流す。ああいう演出でよかったのかなどの議論はない。ただ黙々と後片付けをするだけ。不気味な血の色だけが最後の印象として残る。これは判断停止を暗示している。だが、映画のリアリティとはただ事実を映し出すことにあるわけではない。そこには、明確であるかはともかく、現実を切り取るある一定の視点があるはずだ。『異邦人』も判断停止はしていない。人間存在の「不条理性」を明確に提起している。「カミュなんて知らない」はただ”不条理殺人”を題材にしただけで、実際に描いたのは「殺人のリアリティ」である。しかも前半の”青春群像”とは直接つながっていない。そういう意味で、不気味な迫力はあるが、完成度が高い映画とは言えない。

  過去の映画に対するオマージュあるいはパロディという点ではどうか。「カミュなんて知らない」は映画製作にかかわる学生を主人公にしているだけに、いかにも映画オタクといったせりふがふんだんに出てくる。溝口健二、ヴィスコンティ、トリュフォー、ゴダール、ヒッチコック、フリッツ・ラングなどの名前がどんどん飛び出してくる。だが、映画談義といっても話題は溝口の長回しがどうのといった技術面の域を出ない。作品のテーマなどそっちのけで、技巧面などの「断片的な知識」にしか目が行っていない。いわゆる「映画検定」に夢中になるような手合、映画の本質とはかけ離れた、膨大だが断片的で細切れの知識を仕入れることに血眼になっている連中(いわゆる「映画通」を自称する連中のほとんどがこの手の輩だ)。もっとも、大学で映画を学んでいる連中なんてそんなものだから、それはそれでリアルだとも言えるが。「キル・ビル」のような、様々な引用を盛り込んだ映画を褒める人がいるが、そんなものは単なるお遊びであり、これはどの映画のもじりだと言い当てたからといって映画をよく理解していることにはならない。そういう基準で映画を考えること自体馬鹿げている。

  それはともかく、「カミュなんて知らない」には様々な過去の作品の場面をもじったシーンがちりばめられている。例えば冒頭場面の長回し。これはロバート・アルトマンの「ザ・プレイヤー」のパクリだと監督自身が説明している。中でももっとも徹底しているのはヴィスコンティの「ベニスに死す」のパロディだ。「タイクツな殺人者」を製作している学生たちがアッシェンバッハと呼んでいる人物がいる。彼らの指導教授で元映画監督である中條教授(本田博太郎)だ。アッシェンバッハとはヴィスコンティの「ベニスに死す」の主人公である作曲家の名前だ(トーマス・マンの原作では作家だったが)。アッシェンバッハが美少年タジオに魅せられたように、中條教授はレイという女子大生(黒木メイサ)に夢中である。中條教授がレイと会う前に顔に白粉を塗る場面、上から下まで白装束で固める場面(この場面は声を出して笑ってしまった)、彼が倒れている場面にマーラーの交響曲5番が流れる場面は、完全に「ベニスに死す」のパロディである(アッシェンバッハを演じたダーク・ボガードが観たら苦笑いするだろう)。それなりに面白いのだが、特に映画のテーマを深めているわけではない。ちょいとしたお遊び程度だ。中條教授はこのパロディのためだけに登場していると言っても過言ではない。

  要するに、「カミュなんて知らない」は主婦殺害場面をメインにして、それに学生たちの私生活や映画の薀蓄を盛り込んだ映画なのである。”不条理殺人”は単なる味付け程度。どの面から見ても中途半端な映画。確かに異様な迫力があるので引き込まれるが、手放しで褒められる作品ではない。

  柳町光男監督の作品を観るのはこれが初めてだ。「十九歳の地図」、「さらば愛しき大地」、「火まつり」など話題になった作品を作ってきた人だが、吉田喜重や今村昌平に近い作風の監督だという印象でいまひとつ心を引かれなかった。「カミュなんて知らない」を観てもその印象は変わらない。ただし、今村昌平に「未帰還兵を追って」という優れたドキュメンタリー・シリーズがあるように、柳町光男監督も「旅するパオジャンフー」という歌や踊りを交えながら薬を売り歩く旅商人たちを映したドキュメンタリーを撮っている。これは機会があれば観てみたい。ひょっとしたら掘り出し物かも知れない。

2006年11月17日 (金)

玲玲の電影日記

2004年 中国 2006年5月公開 Suzu4
評価:★★★★
原題:電影往事(夢影童年)
監督:シャオ・チアン
製作:ホアン・チェンシン、デレク・イー
脚本:シャオ・チアン、チェン・チンソン
撮影:ヤン・ラン
美術監督:フー・トーリン
出演:シア・ユイ、 チアン・イーホン、 クアン・シャオトン、 リー・ハイビン
    ワン・チャンジア、チャン・イージン、チー・チョンヤン

 ここ5、6年中国映画の公開数が減ったと嘆いていたが、今年は結構ちらほらと見かけるようになった。台湾映画も含めて目に付いたものを挙げてみると、「玲玲(リンリン)の電影日記」を除いても12本ある。

「単騎、千里を走る。」(チャン・イーモウ監督、中国・日本)  
「PROMISE」(チェン・カイコー監督、中国・日本・韓国)
「ウォ・アイ・ニー」(チャン・ユアン監督、中国)
「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
「五月の恋」(シュー・シャオミン)台湾・中国
「ココシリ」(ルー・チューアン監督、香港・中国)
「ジャスミンの花開く」(ホウ・ヨン監督、中国)
「胡同(フートン)のひまわり」(チャン・ヤン監督、中国)
「深海」(チェン・ウェンタン監督、台湾)
「楽日」(ツァイ・ミンリャン監督、台湾)
「夢遊ハワイ」(シュー・フーチュン監督、台湾)
「ウィンターソング」(ピーター・チャン監督、香港)

 一般公開された作品とは別に映画祭で上映されたものもある。10月22日から30日にかけて開催された「第18回東京国際映画祭」では「ドジョウも魚である」(ヤン・ヤーチョウ監督)と「私たち」(マー・リーウェン監督)がコンペティション部門に出品された。同「アジアの嵐」特集では台湾映画にスポットが当てられた。もう一つ注目すべきなのは「日中映画祭」。日中国交正常化30周年をきっかけに「中国と日本、それぞれの国においてなかなか公開されることの少ないお互いの国の最新話題作から名作、アニメなどの映画を上映することで日中社会の多様な側面を紹介し合い、日中の友好関係を担っていくことを目的」として開かれている「日中映画祭」は今年で3回目。中国と日本での開催で、6月16日~6月18日に東京の草月ホールで、5月26日~6月1日に中国の杭州(翠苑電影大世界、慶春電影大世界、奥斯卡電影大世界、衆安電影大世界)で開催された。なお来年からは横浜で開催されるようで、それを記念して7月16日に「横浜プレミアム」として中国映画の上映やイベントが行われた。「第7回フィルメックス」(11月17日~26日)では「三峡好人」(ジャ・ジャンクー監督)、「アザー・ハーフ」(イン・リャン監督)、「ワイルドサイドを歩け」(ハン・ジエ監督)など中華圏の作品6本が上映される。2008年の北京オリンピックに向けて中国は国や文化の宣伝に力を入れている。また日本での中国に対する関心もオリンピックが近づくに連れて高まってゆくだろう。来年以降のことはもちろんどうなるか分からないが、ここ数年韓国映画の勢いに押されるように公開本数が激減していた中国や台湾映画が今後幅広く紹介されることを願う。優れた作品が作られているに違いないのだから。

 さて、「玲玲(リンリン)の電影日記」。1972年生まれのシャオ・チャン監督(DVD付録の映像を観ると驚くほど若くまた美人である)のデビュー作である。シャオ・チャン監督は「彼女(リンリン)の物語は私の実体験に基づいて描かれたものではありませんが、子供時代の野外映画館の懐かしい記憶は残っています」と語っている。この野外映画館の懐かしい記憶を中心にシナリオを練り上げたのだろう。リンリンの生まれた年も監督自身と同じ72年に設定されている。リンリンと監督を無理に重ねる必要はないが、リンリンの生きた時代は少なくとも監督自身が生きた時代と重なる。シャオ・チャン監督たちが子供時代に観たであろう懐かしい中国映画の記憶と共に、子供時代の自由奔放な生き方がノスタルジックに語られてゆく。

 野外ステージに映される映画が実に貴重だ。古い時代の中国映画はほとんど日本では観られない。ましてやアルバニアの映画が映されたのには仰天。「超」が付く貴重な映画である。何しろ独特な「社会主義」の道を歩んできた国で、80年ごろまでは鎖国状態だったのだ。72年ごろはわずかに中国と交流があっただけで、外からは全くどうなっているのか分からない謎の国だった。アルバニア映画の使われ方もすごい。リンリンの母シュエホアは周りから白い目で見られて悩んでいた時アルバニア映画を観る。主演のミラを観てから彼女は死のうと思った。しかし近くにいた観客から父親がいない娘を馬鹿にされつかみ合いの喧嘩になる。その日から彼女は死を捨て、ミラのように屈せずに生きることにした。アルバニアの映画を観て生きる決意をする。その当時の中国でもなければ考えられないことだ。

 70年代に焦点が当てられているが、過去だけが描かれるわけではない。映画は現在から始まる。映画の冒頭に登場するのは北京で水の入った巨大なボトルを配達する仕事をしている青年マオ・ダービン(シア・ユイ)。映画が大好きで稼いだ金の大部分を映画につぎ込んでいる。ナレーションによれば映画1本観るのに4日分の給料が必要だ。好きな映画は戦争映画。そのダービンが自転車で走っていた時たまたま事故にあう。地面に転がっていたレンガに車輪を取られ転倒してしまう。そしてその場にいた若い女性にいきなりレンガで頭を殴られる。本人も観客もさっぱり事情が飲み込めない。

  気が付いた時ダービンは病院にいた。彼をレンガで殴った女性(リンリン)は警官から取調べを受けているが、何を聞かれても答えない。問い詰めるダービンに女性は涙を浮かべて「金魚に餌をあげて。餌は卵黄を」と書いたメモと部屋の鍵を彼に渡す(後で判明するが、実は彼女は耳が聞こえなかった)。わけが分からないままに彼女の必死の願いに気おされてダービンは彼女のアパートに行ってみる。中に入ったダービンは仰天する。壁一面に中国映画のスターたちや映画のポスターがびっしりと貼られているのだ。映写機を備え付けたホーム・シアターの設備もある。そして金魚の入った水槽。相当な映画好きであることは分かるが、いったい彼女は何者なのか。その部屋でダービンはフィルムを模したノートに書かれた彼女の日記を見つける。「私は自分の人生の唯一の観客になろう!」という日記の書き出しに魅せられ、いつの間にか彼はその日記を読みふけっていた。そこから回想になる。ここまでは謎を含んだ展開で、導入部分としてはよく出来ている(あんなレンガが転がっている道にそのまま突っ込むだろうかという疑問はあるが)。

 この後にリンリンの回想場面が続く。時代は一気に71年に飛ぶ。まだ文革時代(1966~1976年)だ。舞台は中国の北西部の寧夏。かなりの田舎町。回想画面は黄色身を帯びた色調(しばしばセピア色にも見える)で統一されている。この回想部分が映画全体の中で一番出来がいい。

 中国映画「再見」や日本の「カーテンコール」あるいは先日取り上げた韓国映画「僕が9歳だったころ」もそうだが、過去は懐かしくまた美しい形で記憶されがちである。ノスタルジーのオブラートに包まれた、なんとも甘ったるく美しい「記憶」。その効果をもろに狙ったのが「ALWAYS三丁目の夕日」だ。ワーズワースの詩に「子供は大人の親である」という言葉がある。誰でも子供時代を経ずに大人になることは出来ない。誰でも覚えがあるだけに子供時代は懐かしいものだ。しかし誰の記憶にも甘美な思い出ばかりではなく、哀しみや痛みがある。リンリンの場合もそうだった。幸福だった子供時代がどうしようもなく暗転してゆく苦しみと哀しみ。映画に夢を託すことができた時代から夢を失った現在へ。ノートにつづられていたのは楽しい思い出と悲しい記憶が交じり合った過去。しかし書いているのは北京でひとり暮らしをしている、聴覚を失った大人のリンリンである。日記には「私という爆弾は母の生活を破壊した」などの記述がでてくる。「爆弾」という言葉からは母に寄せるリンリンの苦渋に満ちた心情が読み取れる。回想場面に時々はさまれるリンリンの言葉が切ない。それは一般的なナレーションの客観的な響きを越え、母を思う娘の心情表明になっている。

Ctea  回想はリンリンが生まれる前の年から始まる。最初はリンリンではなく、母親のチアン・シュエホア(チアン・イーホン)が中心に描かれる。彼女は公営放送のアナウンサー。放送でニクソン訪中のニュースを読み上げたりしているあたりは時代を感じさせる。この母親がすごい。あの文革の時代に父親のいない娘を女手一つで育てたのだ。父親のいない子供を産んだということで彼女は「札付き」となり、どこへ行ってもさげすまれた。一度は死のうとまで思った彼女を救ったのが上記のアルバニア映画だったのである。非難がましいことを言う相手がいればひるまずに食って掛かる。文革映画というと悲惨な目にあった主人公たちの苦難をリアルに描きあげたものが多い。それはそれでもちろんすごいのだが、「屈せず」に生きた女性を明るく描いたものは少ないだけに実に強烈な印象を残す。

 シュエホアは相当な美人で映画スターになるという夢があった。結局はかなわない夢だったが、彼女を支えたのが映画だったという描き方がいい。彼女の映画への思いが伝わってくる印象的な場面がある。彼女は病院のシーツを洗う仕事を手に入れた。庭に何本もヒモを張り、真っ白に洗ったシーツを何枚も干している。そのシーツの間をくるくる回りながらシュエホアと娘のリンリン( 娘時代を演じるのはクアン・シャオトン)が踊るシーンである。リンリンはそのシーツが「まるで広場にかかる銀幕のように」見えたとノートに書いている。シュエホアはスクリーンの中で歌い踊っているつもりだったのだろう。「その銀幕が私を育てた」。やがて映画に対する彼女の憧れは娘のリンリンに引き継がれた。

 映画への憧れが娘に引き継がれたことを象徴しているのは「フィルムの切れ端」である。ある映画を観ていた時、リンリンがパパはどこにいるのかと聞いた。母はその時映画に出ていたルオ・ジンパオがパパだと言った。リンリンは疑わなかった。そのことをリンリンが映写技師のパンおじさん(リー・ハイビン)に話すと、彼はルオ・ジンパオが映っているフィルムを切り取り、箱に入れてリンリンにプレゼントした。リンリンは本当の父親だと思ってそのフィルムを大事にしていた。このフィルムは最後に重要な役割を果たすことになる。

 冒頭に出てきたダービンがそのフィルムを持っていたのである。実はダービンはリンリンの「日記」の中に登場するのだ。リンリンが小学一年の時にマオ・シャオピン(ワン・チャンジア)という「とんでもない腕白小僧」が転校してきた。薄汚い格好のいたずらっ子である。登場した時の格好がすさまじい。ボロボロの服を着て、顔は真っ黒。特に鼻の頭がありえないほど黒い。まるで狸のようだ。その鼻の頭から鼻水を垂らしていて、服の袖口で鼻水を拭く。僕の子供時代にはみんな鼻水(青っ洟)をたらしていたものだが、これほどみっともない子供は見たことがない。このシャオピンこそ幼い頃のダービンだったのだ。ここからリンリンとシャオピンが主人公になる。母親の気丈さが描かれた部分もいいが、まだ幼いこの二人の交流が描かれる部分こそこの作品のもっとも優れた部分である。

  リンリンとシャオピンが仲良くなった頃、映写技師のパンは町の広場に「電影大世界」という大きな看板を掲げた。まだテレビが普及する前で、上映時にはいつも広場は観客で満員だ。リンリンとシャオピンはスクリーンの向かいの建物の屋上に上がり、そこから交替で双眼鏡を覗いてスクリーンを眺めていた。「以来この屋上が秘密基地になり、シャオピンがいつも私の脇を掴んでくれていた。」落ちないようリンリンを支えていたシャオピンの姿がなんともけなげで可愛い。

  シャオピンが現れる前は、リンリンの楽しみといえば大好きな母と一緒に歌う歌であり、母と一緒に観に行く野外映画だった。今はシャオピンと映画を見るのが楽しみになった。シャオピンは戦争映画が大好きで、二人で映画の主人公になりきって本物の汽車に飛び乗るシーンを演じたりする(実際に飛び乗りはしないが)。子供はみなあこがれたスターたちのまねをするものだ。シャオピンも映画の真似を何度も演じて見せた。やがて厳しい父親から逃れてきたシャオピンがリンリンの家に住むことになり、二人の幸せは絶頂に達したかのように思えた。「この時がいつまでも続き、子供のままでいたいと思った。」しかしその幸せは長くは続かなかった。まず、小兵は結局父親に連れ戻され、祖父の家に預けられることになった。その時シャオピンはこっそりリンリンの部屋からとった例のフィルムを持っていった。一方彼は別れ際にリンリンに双眼鏡をプレゼントする。いつも彼が肌身離さず持っていた双眼鏡で、それで覗けば好きな映画の好きなシーンが見えるという魔法の双眼鏡だ。これも最後にうまく使われる。この映画は小道具の使い方がなかなかうまい。

 しかしリンリンの本当の不幸はこの後に訪れる。映写技師のパンさんとリンリンの母が結婚することになった。そして1年後弟のピンピン(兵兵)が生まれた。ここからの展開がなんとも痛切である。あれほどリンリンを可愛がっていた母が、弟が生まれたとたん弟ばかり可愛がるようになる。母は自覚していないが、少なくともリンリンにはそう思えてしまう。弟さえいなくなればという方向にリンリンの意識が向いてしまう、そこが憐れだ。最近頻発する親の子殺しやその逆のケースは様々な原因が複雑に絡まりあっているのだろうが、短絡的な行動に出てしまうのは追い詰められた人たちには目の前にいる存在が自分の最大の障害に思えてしまうからだろう。リンリンも同じだった。彼女は弟をバスで遠くにつれて行き、弟を置いてきぼりにしてしまうなどの意地悪をする。ところが無邪気な弟は一貫して姉を慕い、姉をかばう。やがてテレビの普及のせいで映画が斜陽になり、パンの野外劇場も最後の上映会を迎えることになった。その時に不幸な事故が起きる。姉をかばうピンピンの優しい気持ちが結果としてあだになった形だ。かつてリンリンがシャオピンとしたように、建物の屋上からリンリンとピンピンが映画を観ている時にピンピンが誤って地上に落下してしまうのだ。

  映画がリンリンと母親の間の絆を強めていたのに、その映画が不幸をもたらしてしまうという皮肉。世間の圧力に屈せず娘と共に生き抜いてきた母親の目が弟に向いてしまい、自分は家族の中で居場所を失ってしまったのではないかというリンリンの不安。昔のように自分に目を向けてほしいというリンリンの切ない気持ちも痛いほど分かる。それだけにリンリンに嫌われても一心に姉を慕う弟の愛らしさがまた不憫だ。新しい父と弟が出来るという家族の幸せをリンリンは共有できなかったのだ。「二人(リンリンと母)は外見も性格も、悲しい人生まで似ているのです。」このシャオ・チャン監督のコメントが胸に突き刺さる。映画が斜陽になると共に家族関係にも影がさしてくるという描き方が秀逸だ。

 とにかくリンリンとシャオピンを演じた二人の子役(クアン・シャオトンとワン・チャンジア)がすごい。昔も驚くような子役がいたが、最近は子役を見るたびに感心する。「僕が9歳だったころ」のキム・ソク、ナ・アヒョン、イ・セヨン。「ALWAYS三丁目の夕日」の須賀健太、「誰も知らない」の柳楽優弥、「Dear フランキー」のジャック・マケルホーン、「ミリオンズ」のアレックス・エデル、「茶の味」の坂野真弥、「ホテル・ハイビスカス」の蔵下穂波、「クジラの島の少女」のケイシャ・キャッスル=ヒューズ、「キャロルの初恋」のクララ・ラゴとフアン・ホセ・バジェスタ、「裸足の1500マイル」のエヴァーリン・サンピ、「思い出の夏」のウェイ・チーリン。挙げればきりがない。ダコタ・ファニングほど有名ではないが、彼女に勝るとも劣らない子役がゴロゴロいるのだからすごい時代になったものだ。

  最後は現代に戻り、リンリンの老いた両親がリンリンの入院する病院で野外映画を上Anikkingyobati150w_1 映し、リンリンとダービンが寄り添う場面で終わる。このラストシーン自体は悪くないのだが、映画の最後のあたり、特に「現在」の部分がやや展開不足である。丁度「再見」の現在の部分が、家族がそろって幸福だった時代から次第に家族がばらばらになって行くまでを描いた回想部分に遥かに及ばなかったように。老いた両親の住む家に向けられたまま固定された望遠鏡の使い方は確かにうまい。その望遠鏡を通してリンリンは恐らく毎日のように老いた両親を眺めていたに違いない。弟が死んだ後家を飛び出し、戻ることも出来ないが忘れることも出来ない。その切ない気持ちが角度を固定された望遠鏡に込められている。しかしそれだけで家を出た後の彼女がたどってきた人生をすべて語り尽くせはしない。

  成長したリンリンの苦悩が充分伝わってこない。演じた女優の演技力の問題ではなく、彼女が家を出た後どのように生きてきたのか、どのような葛藤を経てきたのかが何も描かれていないのである(彼女は弟の事故があったとき義父のパンに耳を殴られて聴覚を失っていた)。北京に出てきてからも孤独な生活だっただろう。少女の頃の楽しかった記憶だけを心の糧に生きてきたに違いない。それが充分描かれていない。その点が残念だ。

 リンリンとダービンが偶然出会うなど色々と不満はあるが、初監督作品としては立派な出来である。オフィシャル・サイト所収のシャオ・チアン監督のインタビューには興味深い発言がいくつもある。中でも彼女が学んだ時の北京電影学院の教育内容が面白い。

  その当時学院の授業ではいわゆる「巨匠」と呼ばれる監督に焦点が当てられていました。 教員も学生達もヨーロッパ映画至上主義で内容が重ければ重いほどその映画に価値を置きました。私はこの傾向に冷ややかで、いわゆる「名作」と呼ばれるような作品はあまり見ていません。なぜなら退屈すぎるからです。これらを見ることは非常に勉強になるといわれましたが、そうは思えませんでした。

  ただ私は非常に幸運でした。師であるチアン・シーション教授は、良い映画を作るためには自分の趣味や嗜好だけに焦点を置くのではなく、常に中国の観客のことを頭に入れておくべきだ、と教えてくれたのです。学院で学んだ結果、商業的な映画に対する情熱は失ってしまいましたが、それでも私は映画の質は必ず観客に伝わると思っています。だからこそ私は市場での商業価値というものを意識しつつも、個々の登場人物を生きいきと描くドラマを撮りたいと思うようになったのです。

 中国でもやはりヨーロッパ映画至上主義だったのか。こういうことは中にいたものでないと分からない。貴重な証言である。また、それに反発したシャオ・チアン監督が映画の「市場での商業価値」を意識しつつ「個々の登場人物を生きいきと描くドラマ」を撮ろうとしていたという発言は、情に訴える傾向が強い「玲玲の電影日記」の演出方法、シュエホアや幼い頃のリンリンとシャオピンの際立った個性的な描き方に呼応していて興味深い。新しい中国映画の世代が生まれつつある。この世代の作品が今後もっと広く紹介されることを期待したい。

*ブログ内関連記事
「子供たちの王様」 
  「中国映画マイ・ベスト30」を最後に付けてあります。

「ゴブリンのこれがおすすめ 18」
  チェン・カイコー監督、マイ・ベスト5、チャン・イーモウ監督、マイ・ベスト10
  コン・リー、マイ・ベスト5、中国映画おすすめの30本

2006年11月16日 (木)

白目は白い

Lamp3s   久しぶりの更新です。実はしばらく入院しておりました。ある異変を感じて12日の日曜日に病院へ行ったら、そのまま入院させられる羽目に。生まれて初めて胃カメラを飲まされました。出た結果は「胃潰瘍」。予想していた結果です。ストレスがたまっていたのですね。点滴とおかゆで過ごした数日間。今日やっと退院しました。

 おとといあたりから気づいたのは目の白さ。鏡を見ると目がやけに白く見える。逆に言うと、それまではかなり目が充血していたということ。何しろ一旦映画のレビューを書き出したら6、7時間ぶっ続けでパソコンに向かっていることも珍しくなかった。時間を忘れてのめりこんでしまう。目が充血していて当然だ。それが当たり前になっていたので自分では気が付かなかったのだろう。しばらくパソコンを見ない日を過ごしていたら目が白くなっていたというしだい。白目ってこんなに白かったんだ。

 11月1日付の「今日『フラガール』を観てきました」という記事で「前に一度肩の力を抜こうと自分に言い聞かせたことがあるが、いつの間にかまたがむしゃらに突き進んでいた。もう一度肩の力を抜こう」と書いたばかり。病室で寝ながらまたあれこれ考えました。HPとブログは今や生きがいなので止めるつもりはありませんが、もっとペースを落とさねば。体を壊してまで無理して書いていたのでは本末転倒。体を大事にしながら無理せずに書いてゆくことにします。HPとブログを初めて以来映画を観る本数が減っていました。要するに、映画を観る時間を削ってレビューを書いていたわけです。これまた本末転倒。今後は観た映画を全部長々と書くことはやめ、短評を増やそうと考えています。

 とりあえず週末をゆっくり過ごして静養します。書きかけだった「玲玲(リンリン)の電影日記」(★★★★)のレビューはその間ゆっくり時間をかけて書き上げます。なかなか書けなくて苦労していたのですが、やはりどこか調子が悪かったのでしょう。11日の土曜日に観た「カミュなんか知らない」(★★★★)は短評で済ませます。日曜日に観る予定だった「ナイロビの蜂」は哀れ観ないで返却。その上延滞料金まで取られました(悔しい!)。またいずれ借り直して観ます。のんびり気楽に、今後はこれで行きます。

2006年11月 9日 (木)

スティーヴィー

アメリカ 2002年 2006年4月公開 145分
評価:★★★★★
原題STEVIE
監督:スティーヴ・ジェイムス
プロデューサー:スティーヴ・ジェイムス、アダム・シンガー、ゴードン・クィン
製作総指揮:ロバート・メイ、ゴードン・クィン
撮影:デナ・カッパー、ゴードン・クィン、ピーター・ギルバート
編集:スティーヴ・ジェイムス、ウィリアム・ヒュース
共同プロデューサー:ピーター・ギルバート
アソシエイトプロデューサー:キャスリーン・タッカー
音楽監修:リンダ・コーエン
プロダクションマネージャー:カレン・ラースン
出演:スティーヴィー・フィールディング、トーニャ・グレゴリー、ブレンダ・ヒッカム
    ダグ・ヒッカム、ヴァーナ・ハグラー、バニース・ハグラー

  10月21日に長野大学のリブロホールで行われた「スティーヴィー」の無料上映会の参加者はおよそ230名でした。当日は映画のスタッフとして「スティーヴィー」の撮影に参加した有田桃生さんも来場され、上映後に映画の後日談(出演者たちのその後の様子)や撮影現場の様子、スティーヴ・ジェイムス監督のことなど、現場にいた方でなくては知りえない貴重な話をしてくださいました。有田さんは「幻灯舎」で行われた打ち上げパーティーにも参加してくださり、そこでもまた貴重なお話をうかがうことが出来ました。目標の参加人数には届きませんでしたが上映会としては成功だったと思います。

    * * * * * * * * * * *

House04mb_1   「スティーヴィー」は2回観たが、2度目のほうが感銘は深かった。アメリカの現実の一部が赤裸々に映し出された重い映画ではあるが、決してただ重苦しいだけの映画ではない。むしろ感動的な映画だった。それは終始スティーヴィーに対するスティーヴ・ジェイムス監督の冷静だが温かい視線を感じるからであり、特に後半部分では何とか自分を変えようとするスティーヴィーの姿が映し出されているからである。だがもちろん、明るい映画というわけではない。映画が終わった時点でスティーヴィーは自分の姪に対する性的虐待の罪で服役中である。この先スティーヴィーがどうなるのか、「外の世界」に戻ってきた時どんな人間になっているのか、観客にも監督にも、恐らく本人にも分からない。現実には劇映画のようなエンディングはない。現実は続く。立ち直ろう、這い上がろうとしてもその度にまた引き摺り下ろされる。それは彼を虐待した親や周りの人たちのせいでもあり、また彼自身のせいでもある。彼はしばしば自分を抑えられなくなる。映画はそういうスティーヴィーの姿を、彼のやさしい面も不安定な面も含めて、冷静に映し出している。スティーヴィー本人だけではなく、母親、叔母(被害者の母親)、祖母、妹、恋人、近所の友人たちのインタビューをクロスさせ、一人の人間を、その人間存在を多面的に描こうとする。

  私生児だったスティーヴィーは父親には一度も会ったことがなく、母親からは虐待を受けて育った。母親は彼の育児を放棄して、義理の祖母(スティーヴィーから見て)に預けてしまった。スティーヴ・ジェイムス監督は南イリノイ州立大学の学生だった時にこのスティーヴィー・フィールディング少年の「ビッグ・ブラザー」になった。「ビッグ・ブラザー」とは児童虐待や不登校、貧困、家族のトラブルなど様々なリスクを背負った児童の友達となり、よき相談相手として子供たちを精神的に支えその成長を助ける人、またはそのプログラムのことである。アメリカでは昔から知られている制度で、各コミュニティがそれぞれのプログラムを持っているようだ。

  スティーヴ・ジェイムス監督は事情があって一旦スティーヴィーと離れる。「スティーヴィー」は、10年ぶりにスティーヴィーと再会した彼がスティーヴィーのそれまでの10年間の軌跡と姪に対する性的虐待を起こしてから服役するまでを4年半かけて映し出した記録映画である。最初のころ撮っていたビデオも合わせるとフィルムの長さは約150時間にも及んだという。

  全体を通じてわれわれが問わずにいられないのは「スティーヴィーはいかにしてスティーヴィーになったのか?」という疑問である。母親は「生まれてくるべきではなかった」息子に暴力を振るい続けた。その母親バニースもアルコール依存症の父から暴力を受けて育った。しかし、当然ながら、映画はそのことだけに原因を求めてはいない。複数の人たちにインタビューした結果浮かび上がってきたのはスティーヴィーを囲む人間関係の網の目である。虐待された親が子を虐待するという縦線の関係だけではなく、スティーヴィーがかかわった様々な人々との横の関係も描いている。

  養護施設に入れられたスティーヴィーはそこで彼自身レイプされている。スティーヴィーを育てた祖母は養育を放棄した無責任な母親への憎しみを彼に植えつけた。スティーヴィーの妹(父親は違う)も母親に虐待され、親子の縁を切ろうとさえ考えている。スティーヴィーも母親のことが話題になると口を極めてののしりだす。暴力と憎しみの連鎖。それが網の目のように彼に絡みつき、彼自身を自暴自棄にさせ、荒廃させ、周りの人間関係をとげとげしいものにしてゆく。何度も犯罪を犯してきたスティーヴィーを雇う人は少なく、まともな職には就けない。婚約者のトーニャの両親はスティーヴィーとの交際を認めようとしない。スティーヴィーの友人の中には白人優越主義者もいる。彼らは監獄に入ったらとんでもない目にあうぞと散々スティーヴィーを脅すが、あれは彼らなりの言葉でスティーヴィーを「励まして」いるのである。「アーリア人」などという言葉が飛び出すくらいだからほとんどナチスばりの組織だ。KKKのような組織と思われる。網の目の中にはそんな連中もいる。保守的なコミュニティなのである。他にも間接的な関係で言えば警官、弁護士、囚人仲間、教会(母親はここに救いを求める)もこの網の目に絡んでくる。一人の人間にこれだけの人々が関わっているのだ(これとてもすべてではない)。

  ただしスティーヴィーの育った地域コミュニティを単に保守的で抑圧的だと受け取ってしまうべきではない。舞台となったイリノイ州の小さな町にはまだ共同体意識が残っていて、スティーヴィーのような子をみんなで守り育てようとする気風がある。みんな一生懸命にスティーヴィーを守ろうとしていたが、それぞれ都合が付かなくなってスティーヴィーと離れざるを得なくなる。そういうなんとも間が悪いことが続いてしまったのだ。

  この幾重にも絡まりあった人間関係の網の目を変えるのは簡単ではない。多くの人がButterfly_scho_1 かかわっているからだ。なによりもスティーヴィー自身が変わらなければならない。しかしこれも簡単ではない。充分な判断力が育っていない幼い時期に虐待を受けたスティーヴィーには、暴力と憎しみと人間不信の種が抜きがたく植え付けられている。これを断ち切るのは容易なことではない。しかし、この映画で最も感動的なのはこれほどの虐待を受け、しばしば自分自身を抑えられなくなるスティーヴィーに笑顔が残っていることだ。彼は人間性を失ってはいない。有田さんが言っていたが、スティーヴィーは撮影隊(隊といっても4人だが)が来るのをいつも心待ちにしていたそうだ。彼は監督たちを笑顔で迎えた。スティーヴ・ジェイムス監督や婚約者のトーニャに時々見せる、どこかはにかんだような笑顔。

  スティーヴィーを取り囲む網の目は決して悪意に満ちた包囲網ではない。上に書いたように、彼の周りには彼を励まし支えようとしてきた人たちもいる。終始スティーヴィーを「素材」として映画を撮るべきか葛藤していたスティーヴ・ジェイムス監督ばかりではない。スティーヴィーの犯した性的虐待事件を批判しつつそれでもあなたを支えたいと言った監督の妻、スティーヴィーの最初の里親になった老夫婦、そして婚約者のトーニャ。何といっても彼女の存在が大きい。映画の最初のあたりで彼女が言った「他の人には見えない彼の面が私には見えるの」という言葉が忘れられない。彼女には障害があり、とつとつとした話しかただが、非常に聡明な人だ(それはスティーヴィーも認めていた)。彼女はスティーヴィーの犯した罪を「絶対に許さない」と言いつつも、彼から離れようとはしなかった。

  もう一人彼を冷静に見ていた人物がいる。スティーヴィーに性的虐待を受けた姪の母親、つまり彼の叔母である。この叔母とスティーヴィーの母親が一緒にインタビューを受ける場面はこの映画のハイライトの1つである。分厚いメガネをかけている点を除けば叔母の見かけはスティーヴィーの母親にそっくりだ。しかし全く話している内容は違う。この叔母は一貫して知的で冷静で理性的であり、彼女の話には非常に説得力を感じた。被害者の母親である彼女は当然スティーヴィーの行為を激しく非難する。彼女の娘はスティーヴィーをとても慕っていた。しかし「あのこと」があってからはいつもおびえている。一度やったのだからまた繰り返さないといえるのか?こう厳しく批判しながらも、一方でスティーヴィーを虐待してきた姉バニースを批判する。父親の名前すら教えないのは間違っていると本人がいる前で厳しく指摘する。彼女はスティーヴィーの罪を憎みつつも、そういう行為に走ったのはスティーヴィーが歪んだ育てられ方をしてきたからだという認識も示す。自分は虐待などしていないと終始否定し続けていたバニースとは実に対照的だった。

  この映画を観て強烈に感じたのは、インタビューを受けた人々が思っていることをはっきり語る率直さだ。このドキュメンタリーを支えているのはインタビューで語られた「証言」の重さである。インタビューを受けた人たちが遠慮せずに自分の考えを率直に語っていたからこそ、この映画は優れたドキュメンタリーになりえたのである。それぞれの立場から語っているから当然矛盾しあう証言もある。それがまた複雑な「網の目」の存在を浮かび上がらせているのである。当たり障りのないことしか言えない日本人とはその点は全く違う。日本では作りえないドキュメンタリーなのである。

  率直に語ったといえば、もう一人重要な人物がいる。トーニャの友人、同じ障害者施設にいたパトリシアである。重度の小児マヒであるパトリシアはベッドに寝たきりである。彼女はスティーヴィーを連れて現れたトーニャに優しい言葉をかけ、近々結婚するという二人を祝福する。しかし自分は結婚しないと言う。義理の父親にレイプされた過去を忘れられないからだ。好きな人がいても、どうしてもその時のことがよみがえってきて、男性と深い関係にはなれないのだと。パトリシアの言葉はトーニャ以上に不明瞭だがスティーヴィーの叔母同様その発言内容は明瞭で実に理性的だった。有田さんによると、最初はそんなに長く撮るつもりはなかったが、彼女の言葉に魅せられるようにしてキャメラを止めることができず長々と撮ってしまったそうだ。確かにそれくらい引き付けるものが彼女にはあった。たまたまタバコを吸いに部屋を出ていたスティーヴィーが戻ってきたのはパトリシアがレイプのことを話しているときだった。スティーヴィーは彼女の話を聞いたに違いない。キャメラがとっさにとらえた彼の顔には何の表情も浮かんではいなかった。彼はこの言葉をどう受け止めたのだろうか?シナリオのないドキュメンタリーが意図せずして現実を冷厳にとらえた瞬間だった。

  現実はしばしばフィクションを越えてしまう。昔から「事実は小説よりも奇なり」と言われる。ドキュメンタリー、ルポルタージュなどのノンフィクションがフィクションを超えてしまうのは、現実そのものが人間の想像を超えてしまうからである。このことはフィルムを通してスティーヴィーの世界を観る観客よりも、実際に撮影現場にいた人たちのほうが肌で感じたであろう。有田さんの話では撮影はかなりきつく、まるで日替わりのように4人のうちの誰かが異常な状態になったそうである。スティーヴィーの世界に没入して「戻れなくなりそうに」なり、ものすごく考え込んだり落ち込んだりしたようだ。彼女たちの目の前にあった「現実」は否応なく人を巻き込み、その場にいたものは自分の意思にかかわらずその世界にのめりこんでしまう。「部外者」ではいられなくなってしまう。完全に感情移入してしまうのだろう。

  撮影中様々な思いが彼らの頭の中を駆けめぐったに違いない。どうしてこうなっているのか?自分たちは何をしているのか?自分たちに何が出来るのか?このまま撮影を続けるべきなのか?あるときは何とかこの現実を変えたいと思い、あるときはいや自分たちがGpjg112 やることは冷静に事実を記録することだと思い、撮影中この間を何度も揺れ動いたのではないか。「日替わり」ということは一定期間を置いて繰り返し自分を見失いそうになったということである。客観的立場にいなければと自分に言い聞かせながらも、いつの間にか「対象」と自分の間に距離がなくなっていることに気づく。現実に踏み込めば踏み込むほど現実との距離のとり方が難しくなる。何度も現実にはねつけられ、また幾度も現実にのめりこむ。何度も繰り返し自分を問い直す。「スティーヴィーはいかにしてスティーヴィーになったのか?」という疑問の先には「自分たちはスティーヴィーに何が出来るのか?」、「スティーヴィーは果たして別のスティーヴィーになれるのか?」という問題が必然的に付いて回る。「スティーヴィー」はスティーヴィーの記録であると同時に、ある意味で彼ら撮影スタッフの記録でもある。

  中でも監督であるスティーヴ・ジェイムズの内的葛藤は深刻だったに違いない。監督はスティーヴィーを「対象」として記録することに最後まで悩み続けた。最初は自分が画面に出ることを渋っていたが、スタッフに説得されて画面に出ることにしたそうである。彼がキャメラの後ろではなく目の前にいることでスティーヴィーも心を開くことができたのだろう。監督は自分もキャメラの「対象」となることで避けがたくスティーヴィーの世界に入り込むことを選択したのである。入り込みつつ距離を保つのは言葉では言い尽くせないほど困難なことだったに違いない。他人の生活に踏み込むことへの逡巡、その一方で放っておけないという思い、深い葛藤があっただろう。しかし彼が踏み込むことでスティーヴィーも変わろうとしたのではないか。それまで断絶状態だった家族に細々とではあるが絆が生まれたのは監督たちが踏み込んだからである。もちろん現実は冷酷で、直線的に変わってゆくことなど望むべくもない。あるときはどうしても突き破れない壁に突き当たり跳ね返され、あるときは喜びを共に分かち合う。現実を前にあるときは怒り、あるときは悲しみ、あるときは喜び、あるときは絶望する。そして最後に残るのは、スティーヴィーはいま刑務所の中にいるという冷厳な現実。それでも監督はスティーヴィーのそばにいることを選択した。最後まで彼に寄り添い、見届けることを選んだ。

  最後に、有田さんから聞いた後日談を書いておこう。スティーヴィーの祖母は養老院にあずけられたが、個性の強い人なのでうまくなじめず、今はブレンダ(スティーヴィーの妹)に引き取られている。トーニャはスティーヴィーが監獄に入ってから2年後に二人で話し合って、結局スティーヴィーと分かれたそうだ。今は別の人と付き合っているか結婚している。パトリシアは映画の中ではレイプの記憶のために結婚する気になれないといっていたが、その後結婚したそうである。

  スティーヴィーのその後の経過は思わしくない。10年の刑期を模範囚として早められるかどうかは微妙なところだ。ただ、有田さんは撮影終了直後、編集前に日本に帰ることになったそうだが、そのことをスティーヴィーに伝えたところ、是非この映画を日本でも上映してほしいと言われたそうである。自分の生の姿を撮った映画を日本でも上映してほしいと言ったスティーヴィーに心打たれたが、その約束を果たした有田さんにも感銘を受けた。

  この映画を観た後で印象に残っているスティーヴィーの顔は監督やトーニャと一緒にいる時に時々見せていた優しい笑顔である。あの笑顔に観客はどれだけ救われたことか。あの笑顔が消えない限り彼には立ち直る可能性がある、そう信じたい。

  スティーヴ・ジェイムス監督のことはこの映画を観るまで知らなかった。貧しい黒人少年二人がそれぞれNBA選手を目指して高校、大学へと進んでいく姿を追ったドキュメンタリー「フープ・ドリームス」(94)で注目されるようになった人である。「フープ・ドリームス」は94年に公開され、ドキュメンタリーとしては異例の大ヒットを記録した。

  「スティーヴィー」は彼の長編ドキュメンタリー第2作である。  「スティーヴィー」は「山形国際ドキュメンタリー映画祭2003」で大賞の「鉄西区」(これも観たい!)に次ぐ最優秀賞を受賞した。

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2006年11月 7日 (火)

ククーシュカ ラップランドの妖精

2002年 ロシア 2006年3月公開 Tasogare2
評価:★★★★☆
監督:アレクサンドル・ロゴシュキン
原題:Kukushka
製作:セルゲイ・セリヤノフ
美術:ヴラジーミル・スヴェトザロフ
音楽:ドミトリー・パヴロフ
衣装:マリーナ・ニコラエヴァ
配給:シネカノン
出演:アンニ=クリスティーナ・ユーソ 、 ヴィル・ハーパサロ
    ヴィクトル・ブィチコフ

  久々に手ごたえのあるロシア映画。8月に観た「ナイトウォッチ」は三つ星がやっとの情けない映画だった。その前に観たロシア映画となると恐らくニキータ・ミハルコフの「シベリアの理髪師」(1999)あたりか。「映画日記」(フリーソフト)で調べてみると、観たのは01年10月。もう5年もまともなロシア映画を見ていないことになる。昨年話題になった「父、帰る」は気になりつつもいまだに観ていない。東京にいた頃は「三百人劇場」などのおかげでかなりの数のソ連映画(まだソ連だった)を観ていたが、さすがに地方都市に住むようになってからは疎遠になってしまった。昨年はソ連・ロシア映画のDVD化が少し進んだが、まだまだ氷山の一角。膨大な数の傑作群がいまだ眠っている。しかも、DVD化されていてもレンタル店に置いてあるものは少ない。まだまだ一般にはなじみが薄い存在である。もっと広くソ連・ロシア映画が認知されるようになってほしいものだ。

  さて、本題の「ククーシュカ」。登場人物は実質3人である。ドイツ軍の服を着せられたフィンランド人狙撃兵ヴェイッコ、中年のロシア人兵士イヴァン、サーミ人女性アンニ。フィンランド人兵士とロシア人兵士は敵同士である。フィンランドは39年から40年にかけてソ連と戦った「冬戦争」で国土の一部を失った。第二次世界大戦ではソ連と対抗するためにフィンランドはドイツ側についたのである。

  タイトルの「ククーシュカ」というロシア語は英語のクックー(cuckoo)にあたる。つまりカッコウのことである。同時にロシア語では狙撃兵という意味もある。イヴァンは何度もヴェイッコのことをククーシュカと呼んでいる(また、ヴェイッコをドイツ兵だと思い込んでいるので「ファシスト」とも呼んでいる)。逆にヴェイッコはイヴァンをショルティと呼ぶ。ヴェイッコがイヴァンに名前を聞いたときイヴァンが「バショルティ(くそ食らえ)」と言ったので、それが名前だと思ってショルティと呼んでいるのである。しかも最後にアンニの本当の名前がククーシュカだと分かる。つまり3人とも互いを本名で呼んでいないのだ。

  3人ともロシア語、フィンランド語、サーミ語というそれぞれ違う言葉を話しているので互いを理解できない。しばしば誤解が生じ、誤解の溝は埋まらない。名前をめぐる混乱は一つはここからきている。だがそれだけではなく、個人名など関係ないという面もある。イヴァンにとってヴェイッコはファシストのドイツ人に過ぎないし、同じくヴェイッコにとってイヴァンはしつこく彼の命を狙うロシア人に過ぎない。アンニにとって二人は4年間続いた男日照りの日々の末に現れた「男」に過ぎない。男二人はずっと軍服を着ており、アンニも独特の民族衣装を着ているので、無意識のうちにその国と民族を代表してしまっている(ヴェイッコはドイツ軍の軍服を着たフィンランド人というさらにひねったアイデンティティを持たされているが)。便宜的な呼び名があればそれですむ関係なのだ。いずれも寓意性を帯びているので個性が前面に出る必要がない。

  しかし”ククーシュカ”についてはさらにもう一つの意味がこめられている。アレクサンドル・ロゴシュキン監督はDVDに収録された「メイキング」の中で、カッコーは托卵をするが、アンニは逆に自分の巣に飛び込んできた二人の男を育てたのだと指摘していた。しかもラストシーンではアンニがヴェイッコとイヴァンをそれぞれ父とする二人の息子に父のことを語って聞かせている(子供の名前もショルティとイヴァンだ)。アンニが子供たちに語った父親たちの思い出話には当然誤解が含まれている。しかし彼女が語ることによってそれは「事実」以上に「真実」の物語になる。アンニは最後にすべてを包んでしまう。ここでこの映画の主題が浮かび上がってくる。つまり、アンニはすべてを包む大地のような存在なのだ。命を産み、命をはぐくむ肥沃な母なる大地。アンニがたびたび示す性的な表現は「性」ではなく「生」への欲求を表している。

  「ラップランドの妖精」という副題が邦題に付けられているが、「ククーシュカ」は決しておとぎの国を描いたファンタジーではない。舞台となるのはフィンランドの北部に位置するラップランド。ラップランドはフィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ロシアに跨る広大な森と湖の地域である。そこに自然と共に暮らすサーミ人たち。鈍い色の空とどんよりと低くたれ込めた雲。夏の白夜と冬の極夜。オーロラ、ムーミン、サンタクロース。家畜として飼っているトナカイや魚を獲る巧妙な仕掛けなど、日本人にとっては確かに異国情緒に満ちたファンタジーランドである。確かに美しいのだが、ただ単に美しいとだけとらえては不十分である。一面銀色の世界は自然の厳しさを映し出してもいる。

  映画のテーマは命を奪う戦争と命を育む大地の母の対比である。美しくしいが厳しくもあるラップランドは、また戦場でもある。アンニの家の周りはあたかも戦火を遠く離れた別天地のように見えるが、それは「ノー・マンズ・ランド」に描かれたような一種の中間地帯に過ぎない。危ういバランスの上でかろうじて成り立っている平和地帯。時々ドイツ兵が通りかかり、戦闘機が上空を飛んでゆく。そこはあくまで戦場なのだ。ゆったりとしたテンポやのんびりとした日常生活などはヘルシンキを舞台にした「かもめ食堂」に通じるが、その主題には戦争が絡んでおり「ノー・マンズ・ランド」や韓国映画「トンマッコルへようこそ」により近い。

  アンニの住む世界が決して戦争と無縁の世界でないことは、彼女が最初に登場する場Key_2面で暗示されている。ロシア人の死体を見つけたときの彼女の態度や反応にある種の違和感を感じなかっただろうか。彼女は死体をみても全く動じなかった。のけぞりもしないし、腰を抜かしもしない。むしろそこに死体があることを予期していた感じだ。死体を見つけて引きずってゆき、穴に埋めるまでの一連の動作は実に手馴れている。これはそれまで何度も同じことをやってきたことを暗示している。悲惨な現場を何度も目撃し、悲惨さに慣れてしまっている。だから死体を見ても平気なのだ。この世界は決しておとぎの国のような世界ではない。戦争と死が日常的な世界なのである。彼女の夫も兵隊にとられて(恐らく)戦死している。

  アンニはヴェイッコに「あんた臭いわ、男たちって皆鉄と死の匂いがする」と言っている。ヴェイッコとイヴァンがサウナに入っていた時も、アンニは草の束を差し出して「これで拭いて戦争と死の匂いを落として」と言った。軍服を着た二人の男はアンニの家に「戦争と死の匂い」を持ち込んだのである。

  実際二人の男は共に死ぬ間際まで行っている。アンニがイヴァンを見つけた時、彼女は彼が既に死んでいると思っていた。しかし穴に埋めようとした時イヴァンは「生き返った」。アンニが精をつけさせようとイヴァンに飲ませたトナカイの血を混ぜたミルクは「生命力」の象徴である。ヴェイッコはそのイヴァンに銃で撃たれ瀕死の重傷を負った。彼を死の淵から救ったのもアンニだった。生をもたらす存在としての彼女がもっとも鮮明に立ち現れるのはこの時だ。ヴェイッコのいる幻想的な死の世界とアンニが祈祷師のように太鼓をたたいて祈り、犬の遠吠えをしてヴェイックを生の世界に呼び戻そうとしている現実世界が交互に描かれる。死の世界では白い服を着た白い髪の少年がヴェイックを手招きして深い谷の方へ連れて行こうとする。青暗い色調が強調された、石ころだらけの荒涼とした死の世界。深い谷の底には川が流れている。日本で言う三途の川。しかし犬の遠吠えが聞こえ、危ういところでヴェイッコは少年を振り切って引き返す。

  映画の最初と最後でアンニは二人の男を死からよみがえらせた。この土着的な生と死のとらえ方は日本人の死生観とどこか通じるものがある。モンゴルの草原に生きる人々を描いた「天空の草原のナンサ」にも通じるものがある。二人をよみがえらせたのは魔法や霊術ではなく、むしろアンニが体現する大地の力である。アンニは生命力の象徴なのだ。生命力は生殖力と重なっている。サウナのシーンで見せたアンニの妖艶な顔。「私を押し倒してほしいわ」、「触らないで、ぬれちゃうから」などの露骨なせりふを何度も言うが、それが全くいやらしく聞こえない。それは単なる性欲の表現ではなく生命力と生殖力の表現だからである。突然男が2人も現われたとにんまりする彼女には母なる大地としての彼女のおおらかさと豊穣さが表れているのだ。

  冒頭でヴェイッコが鎖を杭からはずそうと苦闘する場面が延々と写される。これは生への執念を描きたかったのである。彼は生への執念と智恵を持った男なのだ(メガネのレンズを合わせ、間に水を入れてレンズの代用にする方法はジュール・ヴェルヌが『神秘の島』で用いている、もっともこちらは時計のガラス蓋だが)。一方、イヴァンの方は登場した時からどこか諦めたような表情を見せている。生命への執着心が弱い男だ。傷が癒えた後、イヴァンがアンニのスカートをはいて小屋から出てくるシーンがある。これも象徴的だ。生命力の弱い彼はアンニのスカートをはいて彼女の生命力を分けてもらう必要があったのだ。

  人工的に設定された寓話のような作品であり、主題は超現実的な要素を含んではいるが比較的単純だ。しかしその説得力は並のファンタジーを遥かに超えている。これまで指摘したように無数の寓意や象徴が巧妙に練りこまれている。とりわけ互いに言葉を理解できない三人がどこか滑稽な共同生活をするあたりはエミール・クストリッツァの「ライフ・イズ・ミラクル」を思わせるシュールでユーモラスな世界だ。

 Cut_gelf_non_w300_1 3人はいつまでたっても相手の言葉を理解できない。それでいて三人とも特に意思疎通の努力をしていない。アンニは終始マイペースだが、イヴァンとヴェイッコはいつまでもいがみ合っている(途中から嫉妬が混じる)。誤解は最後まで誤解のままである。イヴァンはラスト近くまでヴェイッコをドイツ兵だと勘違いしているし、詩人であるイヴァンがロシアの女性詩人エセーニンの写真を見せるとアンニはてっきり彼の奥さんだと思い込んでしまう。きのこのスープにこだわるイヴァンときのこは毒だとしきりに止めるアンニのやり取りも滑稽だ。これらの会話が全く互いの意思の疎通なしで行われているところが絶妙の展開である。当事者同士は理解できないが、字幕を観ている観客には理解できる。この二重のずれ(当事者同士のずれ、当事者たちと観客のずれ)を楽しむ映画なのである。

  しかしただ平和でのんきな滑稽話だけが展開されているわけではない。戦争という隠し味が全編にまぶされている。何度もイヴァンはヴェイッコを殺そうとする。だがそれでも決して陰惨にはならない。ユーモラスな語り口のせいもあるが、なによりも象徴的な存在であるアンニが二人の間にいるから対決がリアルにならないのである。そもそも女一人に男二人という状況は普通ならレイプを恐れるはずだが、彼女は全く恐れる様子もない。むしろ彼女から積極的に男たちを誘っている。母なる大地の前では兵士もただの「種馬」なのである。逆に彼女の「豊穣さ」が引き立つことになる。のどかな寓話の中に戦争を無力化する女性の生命力を描きこんでいる。しかし、見方を変えれば、大地のような女性の生命力という神話的力に頼るということは、逆に戦争の現実がいかに打ち消しがたいかを示しているとも言える。イラクの現状を見ればよくわかるだろう。簡単な解決などどこにも見出せない。しかし戦争の脅威にさらされながらも人々がしぶとく生き延びていることもまた事実である。「ククーシュカ」の力強い象徴と寓意の効果を過小評価すべきではない。「ククーシュカ」は「ライフ・イズ・ミラクル」には及ばないが、そのレベルに迫る優れた作品と言える。

  監督のアレクサンドル・ロゴシュキンは2本のコメディ映画、「国民的狩猟の特色」(95)とその続編「国民的漁労の特色」(98)の大ヒットで知られる。ロシアでは有名な監督だが、日本ではこれまで「護送兵」と「チェックポイント」が映画祭等で上映されただけで、映画館で一般公開されたのは「ククーシュカ」が初めてである。なお、配給は「フラガール」と同じシネカノン。相変わらずいい仕事をしている。

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2006年11月 5日 (日)

4つ星半以上をつけた映画一覧

  映画に点数を付け始めたのは2003年の末ごろからです。これまで5つ星、4つ星半を付けた映画のタイトルをすべて挙げておきます。前に「最近観た映画50本の評価点」で取り上げたものは除いてあります。
  4つ星半グループの先頭にある「ククーシュカ ラップランドの妖精」は昨日観た映画です。次回はこの作品を取り上げます。

★★★★★
「子供たちの王様」(87、チェン・カイコー監督)
「コープス・ブライド」(05、ティム・バートン、マイク・ジョンソン監督)
「博士の愛した数式」(05、小泉堯史監督)
「ヒトラー最期の12日間」(04、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督)
「ヴェラ・ドレイク」(04、マイク・リー監督)
「海の牙」(48、ルネ・クレマン監督)
「ストレイト・ストーリー」(99、デビッド・リンチ監督)
「風の遺産」(60、スタンリー・クレイマー監督)
「酔画仙」(02、イム・グォンテク監督)
「アマンドラ!希望の歌」(02、リー・ハーシュ監督)
「ミリオンダラー・ベイビー」(04、クリント・イーストウッド監督)
「タッチ・オブ・スパイス」(03、タソス・ブルメティス監督)
「海を飛ぶ夢」(04、アレハンドロ・アメナーバル監督)
「大統領の理髪師」(04、イム・チャンサン監督)
「この素晴らしき世界」(00、ヤン・フジェベイク監督)
「故郷」(72、:山田洋次監督)
「遥かなるクルディスタン」(99、イエスィム・ウスタオウル監督)
「阿弥陀堂だより」(02、小泉堯史監督)
「家族」(70、山田洋次監督)
「殺人狂時代」(47、チャールズ・チャップリン監督)
「モーターサイクル・ダイアリーズ」(04、ヴァルテル・サレス監督)
「どっこい生きてる」(51、今井正監督) Miniwin1
「にごりえ」(53、今井正監督)
「子猫をお願い」(01、チョン・ジェウン監督)
「永遠の片想い」(02、イ・ハン監督)
「過去のない男」(02、アキ・カウリスマキ監督)
「キッチン・ストーリー」(03、ベント・ハーメル監督)
「ハウルの動く城」(04、宮崎駿監督)
「隠し剣 鬼の爪」(04、山田洋次監督)
「史上最大の作戦」(62、ケン・アナキン監督、他)
「ほえる犬は噛まない」(00、ポン・ジュノ監督)
「シルバー・スタリオン 銀馬将軍は来なかった」(91、チャン・ギルス監督)
「永遠のマリア・カラス」(02、フランコ・ゼフィレッリ監督)
「フリーダ」(02、ジュリー・テイモア監督)
「長雨」(79、ユ・ヒョンモク監督)
「ペパーミント・キャンディ」(99、イ・チャンドン監督)
「八月のクリスマス」(98、ホ・ジノ監督)
「森浦への道」(75、イ・マニ監督)
「トーク・トゥー・ハー」(02、ペドロ・アルモドバル監督)
「おばあちゃんの家」(02、イ・ジョンヒャン監督)
「七人の侍」(54、黒澤明監督)
「シティ・オブ・ゴッド」(02、フェルナンド・メイレレス監督)
「祇園囃子」(53、溝口健二監督)
「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」(03、ピーター・ジャクソン監督)
「酔っ払った馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ監督)
「麦秋」(51、小津安二郎監督)
「風の谷のナウシカ」(84、宮崎駿監督)
「サウンド・オブ・ミュージック」(65、ロバート・ワイズ監督)
「活きる」(94、チャン・イーモウ監督)
「裸足の1500マイル」(02、フィリップ・ノイス監督)
「ボウリング・フォー・コロンバイン」(02、マイケル・ムーア監督)
「戦場のピアニスト」(02、ロマン・ポランスキー監督)
「アラン」(34、ロバート・J・フラハティ監督)
「橋」(59、ベルンハルト・ヴィッキ監督)
「鬼が来た!」(00、チアン・ウェン監督)
「ノー・マンズ・ランド」(01、ダニス・タノビッチ監督)
「大脱走」(63、ジョン・スタージェス監督)
「たそがれ清兵衛」(02、:山田洋次監督)

★★★★☆
「ククーシュカ ラップランドの妖精」(02、アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
「ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ」(93、ニック・パーク監督)
「マラソン」(05、チョン・ユンチョル監督)
「いつか読書する日」(04、緒方明監督)
「Dearフランキー」(04、ショーナ・オーバック監督)
「シンデレラマン」(05、ロン・ハワード監督)
「ALWAYS三丁目の夕日」(05、山崎貴監督)
「THE有頂天ホテル」(05、三谷幸喜監督)
「運命じゃない人」(04、内田けんじ監督)
「サイドウェイ」(04、アレクサンダー・ペイン監督)
「ボーン・スプレマシー」(04、ポール・グリーングラス監督)
「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(85、ラッセ・ハルストレム監督)
「メゾン・ド・ヒミコ」(05、犬童一心監督)
「女が階段を上る時」(60、成瀬巳喜男監督)
「キャロルの初恋」(02、イマノル・ウリベ監督)
「エイプリルの七面鳥」(03、ピーター・ヘッジス監督)
「ベルヴィル・ランデブー」(02、シルヴァン・ショメ監督)
「ロング・エンゲージメント」(04、ジャン・ピエール・ジュネ監督)
「運命を分けたザイル」(03、ケビン・マクドナルド監督)
「ミニミニ大作戦」(68、ピーター・コリンソン監督)
「靴に恋して」(02、ラモン・サラザール監督)
「ピエロの赤い鼻」(03、ジャン・ベッケル監督)
「ディープ・ブルー」(03、アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット監督)
「五線譜のラブレター」(04、アーウィン・ウィンクラー監督)
「駅前旅館」(58、豊田四郎監督)
「女ひとり大地を行く」(53、亀井文夫監督)
「ウォレスとグルミット 危機一髪!」(95、ニック・パーク監督)
「SWEET SIXTEEN」(02、ケン・ローチ監督)
「マーサの幸せレシピ」(01、サンドラ・ネットルベック監督)
「お茶漬けの味」(52、小津安二郎監督)
「茶の味」(03、石井克人監督)
「ヴェロニカ・ゲリン」(03、ジョエル・シュマッカー監督)
「スイミング・プール」(04、フランソワ・オゾン監督)
「ブコバルに手紙は届かない」(94、ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督)
「都会の牙」(50、ルドルフ・マテ監督)
「ゴッドファーザー」(72、フランシス・F・コッポラ監督)
「シュレック2」(04、アンドリュー・アダムソン、ケリー・アズベリー監督)
「飢餓海峡」(64、内田吐夢監督)
「真珠の耳飾の少女」(03、ピーター・ウェーバー監督)
「みなさん、さようなら」(03、ドゥニ・アルカン監督)
「ポセイドン・アドベンチャー」(72、ロナルド・ニーム監督)
「この世の外へ クラブ進駐軍」(03、坂本順治監督)
「フレンチ・コネクション」(71、ウィリアム・フリードキン監督)
「アラバマ物語」(62、ロバート・マリガン監督)
「ビッグ・フィッシュ」(03、ティム・バートン監督)
「カレンダー・ガールズ」(03、ナイジェル・コール監督)
「アメリカン・ラプソディ」(01、エヴァ・ガルドス監督)
「仇討」(64、今井正監督)
「華氏451」(66、フランソワ・トリュフォー監督)
「ブラザーフッド」(04、カン・ジェギュ監督)
「草の乱」(04、神山征二郎監督)
「幸せになるためのイタリア語講座」(00、ロネ・シェルフィグ監督)
「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(76、山田洋次監督)
「女はみんな生きている」(01、コリーヌ・セロー監督)
「GO」(01、行定勲監督)
「ションヤンの酒家」(02、フォ・ジェンチイ監督)
「死ぬまでにしたい10のこと」(02、イザベル・コヘット監督)
「シルミド」(03、カン・ウソク監督)
「コクーン」(85、ロン・ハワード監督)
「本日休診」(52、渋谷実監督)
「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」(02、ピーター・ジャクソン監督)
「薔薇の名前」(86、ジャン・ジャック・アノー監督) Box_sw1
「至福のとき」(02、チャン・イーモウ監督)
「華氏911」(04、マイケル・ムーア監督)
「一人息子」(36、小津安二郎監督)
「悪人と美女」(52、ヴィンセント・ミネリ監督)
「シービスケット」(03、ゲイリー・ロス監督)
「白い恐怖」(45、アルフレッド・ヒッチコック監督)
「1票のラブレター」(01、ババク・パヤミ監督)
「殺人の追憶」(03、ポン・ジュノ監督)
「少女の髪どめ」(01、マジッド・マジディ監督)
「名もなきアフリカの地で」(01、カロリーヌ・リンク監督)
「西洋鏡」(00、アン・フー監督)
「ホワイト・バッジ」(92、チョン・ジヨン監督)
「朴さん」(60、カン・デジン監督)
「誤発弾」(61、ユ・ヒョンモク監督)
「美術館の隣の動物園」(98、イ・ジョンヒャン監督)
「友へ チング」(01、カク・キョンテク監督)
「インファナル・アフェア」(02、アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督)
「ヘンリー八世の私生活」(33、アレクサンダー・コルダ監督)
「ザ・カップ/夢のアンテナ」(99、ケンツェ・ノルブ監督)
「キリクと魔女」(98、ミッシェル・オスロ監督)
「氷海の伝説」(01、ザカリアス・クヌク監督)
「警察日記」(55、久松精児監督)
「アバウト・シュミット」(02、アレクサンダー・ペイン監督)
「クジラの島の少女」(03、ニキ・カーロ監督)
「僕のスウィング」(02、トニー・ガトリフ監督)
「小さな中国のお針子」(02、ダイ・シージエ監督)
「パイレーツ・オブ・カリビアン」(03、ゴア・バービンスキー監督)
「WATARIDORI」(01、ジャック・クルーゾ、ミシェル・デバ監督)
「イルマーレ」(00、イ・ヒョンスン監督)
「猟奇的な彼女」(01、クァク・ジェヨン監督)
「脱走山脈」(68、マイケル・ウィナー監督)
「ベッカムに恋して」(02、グリンダ・チャーダ監督)
「歌え!フィッシャーマン」(01、クヌート・エーリク・イェンセン監督)
「SUPER8」(01、エミール・クストリッツァ監督)
「太陽の雫」(99、イシュトヴァン・サボー監督)
「極北の怪異」(22、ロバート・J・フラハティ監督)
「紅夢」(91、チャン・イーモウ監督)

2006年11月 3日 (金)

フラガール

2006年 日本 2006年9月公開 Rosehome2
監督:李相日
評価:★★★★☆
製作:李鳳宇
脚本:羽原大介
企画・プロデュース:石原仁美
音楽:ジェイク・シマブクロ
出演:松雪泰子、豊川悦司、蒼井優、山崎静代、岸部一徳
    富司純子、池津祥子、徳永えり、寺島進、三宅弘城
    志賀勝、高橋克実、上野なつひ、浅川稚広、池永亜美

  「フラガール」はエネルギー転換(石炭から石油へ)のあおりで炭鉱が次々に閉山の憂き目にあっていたころの話である。福島県磐城市(現いわき市)の常磐炭鉱もその例外ではなかった。町そのものが地盤沈下する危機感の中、起死回生の企画として持ち上がったのが地元にハワイを持って来ようというとんでもない企画。それまで無駄に流していた地元の温泉を活かしてレジャー施設「常磐ハワイアンセンター」を作ろうというわけだ。

  ここでちょっと脱線するが、茨城県の日立市で育ち、60年代に小学生時代を過ごした僕にとって常磐ハワイアンセンターは懐かしい場所だ。ただ、記憶とはあいまいなもので、小学校の3、4年生の頃に子ども会の旅行で行ったように思っていたのだが、調べてみると「常磐ハワイアンセンター」がオープンしたのは66年1月とある。小学校5年生の時だ。2回くらい行ったような気がするので、5年生と6年生の時に行ったのだろうか。不思議なことにフラダンスはほとんど記憶にない。見ていないはずはないから興味がなかったのだろう。覚えているのはプールと温泉と椰子の木が並んだ南国のムードくらいだ。正直言って、もうとっくになくなっていると思っていたが、1990年に「スパリゾートハワイアンズ」と名称を変えてからは一時の低迷を脱して活況を取り戻しているらしい。この映画の大ヒットでまた来場者が増えたかもしれない。

  ちなみに、日立にもかつては日立鉱山があった。日立製作所(地元では地名と区別するために日製”にっせい”と呼んでいる)の企業城下町に成り下がる前は鉱山で栄えた町だったのである。新田次郎の『ある町の高い煙突』という小説があるが、ここで描かれた煙突とは日立鉱山から排出される煙による煙害を軽減するために作られた、当時世界一の高さの大煙突のことである。

  脱線が長くなった。話を元に戻そう。ハワイアンセンターの目玉はもちろんフラダンス・ショー。「フラガール」はその初代フラガールたちを描いた映画である。将来に不安を感じた炭鉱町の女性たちが不安そうに踊り子に志願してくる。しかしビデオを見て裸で踊るなんてとんでもないとほとんどが逃げ去り、残ったのはたったの4人。谷川紀美子(蒼井優)、木村早苗(徳永えり)、「ハワイアンセンター」の庶務係初子(池津祥子)、そして少し遅れてやってきた熊野小百合(山崎静代)。とてもダンスなど出来そうもない面々。しかもダンスを指導するのはさっぱりやる気のない平山まどか(松雪泰子)というダンサー。SKD(松竹歌劇団)で踊っていた元花形ダンサーだが、都落ちした情けなさに自棄酒ばかり飲んでいる。

  話の設定はどこかで観たことがあるようなものだ。やる気のないインストラクターといえば「マラソン」がすぐ思い浮かぶ(未見だが「春が来れば」や「歓びを歌にのせて」も同様)。未経験の人たちが頑張って目標を達成するという展開は「コーラス」「深呼吸の必要」、「ウォーターボーイズ」、「スウィングガールズ」、「シムソンズ」のパターン。炭鉱の閉山との絡みという点では「リトル・ダンサー」、「フルモンティ」、「ブラス!」に通じる。ダンスのレッスンという観点から見ると「フラッシュダンス」や「コーラスガール」が思い浮かぶ。未経験の若者を鍛え上げるというテーマなら中国映画「大閲兵」や「フルメタル・ジャケット」、「あの高地を取れ」などの一連の新兵訓練ものが昔からある。

  「フラガール」を「クール・ランニング」と比較してみるとその基本的特徴が浮き上がってくる。「クール・ランニング」はジャマイカ史上初のボブスレー・チームの奮戦ぶりを描いたコメディだが、その笑いは意地悪なあるいは皮肉な笑いではない。「スイング・ガールズ」の小ネタを集めたようなただ滑稽な笑いでもない。様々な滑稽な失敗が描かれるが、それらは何かに最初に挑んだ開拓者たちが必ず経験する失敗である。困難を乗り越え苦悩を突き抜けて初めて人は向上する。「クール・ランニング」で描かれた笑いは、そういう「初めて」に挑んだ人たちが出会う困難や周囲の無理解のなかで起こる戸惑いや失敗にまつわる笑いであり、映画はそれらのエピソードを温かい目で描いている。数あるスポーツ映画の中でも「クール・ランニング」が際立っているのはその点だ。「フラガール」の姿勢はこの「クール・ランニング」と基本的に同じだと言っていい。もっとも、ボブスレーが簡単に手に入らないのでバスタブに入って練習するというようなユニークでユーモラスな工夫などは見られないが。また、困難を笑いで乗り越えるラテン気質の「クール・ランニング」に対し、泣かせの要素がふんだんに入ってくるところはいかにも日本的だ。

Isu4_1   「フラガール」はすすけてほとんど色のない鉱山のシーンから始まる。ボタ山を背景に木村早苗がフラガール募集の広告を見つめている。決心したように早苗はポスターをはがす。次はボタ山のシーン。ボタ山の上で早苗が紀美子に一緒にフラガールの募集に応じないかと誘っている。ここでこの映画のテーマが語られる。炭鉱以外何もない町。男であれ女であれ、何らかの形で炭鉱とかかわって生きていかざるを得ない。先が見えないのではなく、あまりに先が見えすぎている「未来」。二人は閉塞感を感じていたに違いない。降って湧いたような「ハワイアン・ダンサー」の求人は二人にとって炭坑から抜け出せるまたとないチャンスだった。ハワイアン・ダンスそれ自体が魅力だったのではなく、それが象徴しているもの、すなわち「先が決まっている未来」からの脱出というイメージが彼女たちをひきつけたのである。

  しかし「フラガール」は単に古い体制から抜け出そうとする若い世代の熱意と願望だけを描いたのではない。閉山の不安を抱えつつも炭鉱で生きてゆくしかない人々、何代にもわたって続けてきた仕事への誇りを抱く人々も決してただ保守的で変化に対応できない愚直な人々として描かれてはいない。「フラガール」は新しい未来にかけた女性たちと閉山に抵抗し自分たちの生活を守ろうとする人々の価値観のぶつかり合いを描いている。そのテーマが集中的に描かれているのが紀美子の家族である。紀美子の母千代(富司純子)はフラガールになりたいという紀美子に強硬に反対する。映画は決して彼女を頑迷固陋な人物として描いてはいない。夫をなくし、男たちに混じって炭鉱で必死に働いて子供たちを養ってきた彼女の「強さ」と「信念」がむしろ強調されている。富司純子が演じた千代は独立プロの名作「女ひとり大地を行く」(53年、亀井文夫監督)で山田五十鈴が演じたヒロイン・サヨを彷彿とさせるキャラクターである。その息子の洋二朗(豊川悦司)も炭鉱を捨てられない。映画のラストでヘルメットをつかみトロッコに乗り込んで行く彼の姿はすがすがしく(つまり肯定的に)描かれている。彼は最後までヤマを捨てなかった。

  映画は決して新しい道を選択した人々を「善」、「いい人たち」、古い生き方を守ろうとしている人々を「悪」、「ダメな人たち」として描いてはいない。洋二朗は炭鉱と共に生きる道を選ぶが、母ほど強硬に妹の生き方に反対しなかった。むしろ母親と妹の橋渡しをする重要な役割を担っている。ダンスの教師平山まどかに妹を頼むと伝えた彼の無骨な言葉は、「スタンドアップ」で演壇に立ち娘を擁護するためにヤマの男たちにヤマの男の言葉で語りかけた無骨な父親ハンク(リチャード・ジェンキンズ)に共通するものを感じた。安易な作品ならば洋二朗とまどかを恋愛関係に持ってゆくだろうが、そうさせずに二人の関係をさらりと描いたところは賞賛していい。

  母と娘と息子。それぞれに違った考えを持ち、違った行動を取ったが、彼らの間には寂れつつある炭鉱町という共通の基盤があった。一度だけ彼らの住む炭鉱長屋の全景が映される。同じ造りの粗末な平屋が画面いっぱいに並んで建っている。息を呑むシーンだ。「女ひとり大地を行く」の炭鉱長屋がこの時代にもそっくりそのまま残っている、そんな感じだ。まるで時代に取り残されたような町。北海道の夕張炭鉱で撮影された「女ひとり大地を行く」では斜面にびっしりと長屋が立ち並び、下から見るとまるで戦艦の様に見えた。一方、「フラガール」では平らな土地に整然と家が並んでいる。カラーなのに一面灰色でまるで白黒映画のように見える。

  この色のない町から娘は這い出そうと決意し、母親は最後までプライドをもって炭鉱でArthituji3502 生きようとし、息子は炭鉱に踏みとどまりながらも妹をひそかに応援する(母も最後には応援する側に回るが)。現状から抜け出そうとする若い娘たちのパワーだけを単純に押し出すのではなく、それぞれの信念に従い自分の生き方を選んで行く人々を複線的に描いたことがこの映画に奥行きを持たせている。炭鉱町は彼らの生活の場であった。時代の波に押し流されそうな貧弱な長屋でもそこに彼らの生活があった。彼らはそこで生まれ、そこで育ち、そこで死んでゆくのである。それがどんなに平板で単調な生活であったにしても、それが彼らの生活である以上簡単に放棄することは出来ない。さっぱり頼りにならない組合を罵倒しながらも何とか自分たちの生活を死守しようとする人々を笑うことは出来ない。紀美子の母千代が体現しているのはそういう人たちであり、その点で「女ひとり大地を行く」のサヨと重なるのだ。

  そうは言っても時代の波は炭鉱町の人々を容赦なく押し流してゆく。炭鉱を首になり止む無く町を出てゆく人々もいる。冒頭でフラガール募集の広告を剥ぎ取った早苗の一家は北海道の夕張に引っ越していった(早苗の父親を高橋克実が”真面目に”演じている)。夕張が陥っている悲惨な現状を思えば、早苗の一家がその後おくった生活が容易なものでなかったことは想像に難くない。

  地元に残った人は炭鉱に踏みとどまるか人員整理のために考案された「ハワイアンセンター」に移るか選択を迫られた。炭鉱夫たちから罵倒されたのはフラガールたちばかりではなかった。早々に炭鉱に見切りをつけ「ハワイアンセンター」に職場を移した男(三宅弘城)も紀美子や早苗同様町の人々の冷たい目にさらされていた。忘れてならないのは、フラダンスにかける紀美子の情熱と同じように、「ハワイアンセンター」に運び込まれた熱帯植物を守るこの男の愛情も共感を込めて描かれていることである。フラダンスへの無理解は「ハワイアンセンター」そのものに対する無理解と結びついていた。紀美子やインストラクターのまどか同様、彼もまた反対派の圧力に耐えて自分の生活を守りぬいたのである。センター内に移植された椰子の木にいとおしそうに自分の上着をかけるときの彼の思いは、苦しいダンスのレッスンに耐える娘たちの情熱に劣らない。まるで自分の子供をいつくしむような彼の表情をキャメラが温かくとらえている。

  ホテルの温室設備が間に合わないために熱帯植物が枯れそうになり、センターの男たちが炭鉱町の人々にストーブを貸してほしいと土下座するシーンはこの映画のもう一つのクライマックスである。冷たい対応をする男たちを尻目に、あれほど紀美子たちに反対していた紀美子の母親が長屋の人々に頭を下げストーブを借りてくる。ストーブをリヤカーに乗せて運ぶ彼女の姿は感動的だ。彼女を変えたのは偶然見かけた娘の姿だった。一心にダンスを練習するその姿とそのダンスの見事さに彼女の頑なな心も融け始めていたのだ。「リトル・ダンサー」を連想させる見事なシーン。その時紀美子が踊っていたのはインストラクターのまどか踊っていたのと同じ踊り、まだフラダンスなど見たこともなかった紀美子たちが窓の外から覗いて驚嘆していたあの踊りと同じものだった(松雪泰子の動きや身のこなしは本当のプロかと思わせるほど見事だった)。練習に練習を重ねた紀美子のフラはまどかに近いレベルにまで達していたのである。男たちの土下座からリヤカーに至るシーンは、紀美子、まどか、紀美子の母千代、センターの男などの、それまで別々だったそれぞれのベクトルが一点で交わる重要なシーンなのである。母親のヤマの女としてのプライドが、「娘っこだち」の夢や椰子の木を抱きしめたままうれしそうに眠っている男の夢と一本につながったのだ。

  東京から逃げるようにしてまどかがやってきた時、彼女はこのすすけて色彩のない炭鉱町に色を持ち込んだ。彼女が現れる前は石炭のススが町全体を覆っていた。エミール・ゾラの『ジェルミナール』という小説がある。ジェラール・ドパルデュー主演で映画化されたのでご存知の方も多いだろう。その小説の冒頭に極めて印象的な一節がある。昔炭鉱夫だった老人が痰を吐く場面だ。その痰は真っ黒だった。炭鉱の仕事を離れて5年もたっているというのに、彼の体の中には炭鉱の石炭がこびりつくようにまだ残っているのだ。「骨の中にしこたま詰めこんどるんで、死ぬまで暖まれるってわけだ。坑内にゃもう5年も足をいれてねえ。こりゃ知らねえうちに貯めこんどったもんらしい。」(中公文庫)鉱夫の仕事がいかに人体を蝕む過酷なものであるかを簡潔にして完璧に描き出している。まどかが町にやってきた時、町そのものがこの老鉱夫の肺のようになっていたのだ。だから彼女の派手でカラフルな服は完全に町から浮き上がっていた。当然町の人たちの嫌がらせに合う。

  元より好んでこの寂れた田舎町にやってきたわけではない。借金さえなかったら喜んで逃げ出しただろう。彼女が押し込められた家がまたひどい。ふすまは穴だらけ。畳はボロボロでささくれ立っている。しかもそのダンスが人前でへそを見せて踊る扇情的なものときては、応募してきた娘たちすら「ストリップ」まがいと感じて逃げ去ってゆく。

  まどかを演じた松雪泰子が出色の出来。これまでほとんど意識したことがなかった女優だが(常盤貴子と長いことイメージが重なっていた)、「フラガール」での彼女は見違えるように素晴らしかった。掃き溜めの鶴のような存在で、プライドが邪魔して町に溶け込めない。住人たちを「田舎者」と馬鹿にして、こんなド素人にダンスを教えるより「本場のダンサーを呼ぶべき」だとハワイアンセンターの吉本部長(岸部一徳がここでもいい味を出している)に食って掛かる。岸部一徳がこれに福島弁で長々と言い返す場面がすごい。後半は隣の茨城出身の僕でもほとんど聞き取れなかったが、彼なりに「ハワイアンセンター」にかけた情熱が伝わってきた。

  冷淡で見下すような元一流ダンサーの顔、磐城に連れてこられた日のべろべろに酔っ払った「やってらんねえよ」的態度と表情、それがひたむきな娘たちに出会って徐々に変わって行き、ついには「センター」での初舞台の日に「あんた達と一緒に踊りたい!」と言うようになるまでをぐいぐい観客をひきつけて演じきっている。炭鉱を首になっていらだっていた父親(高橋克実)に早苗が殴られた時には、怒り狂って銭湯の男湯に殴り込みをかける。湯船に飛び込んで素っ裸の男の首を締め上げている彼女はもはや登場した時の「ふて腐れインストラクター」ではなかった。ブチギレ松雪泰子がなかなかはまっている。

  やってきたばかりのまどかは灰色の画用紙に一滴だけたらした赤い絵の具に過ぎなかった。彼女が紀美子たちと出会い、彼女たちの情熱に心を動かされまどか自身が自分を取り戻した時、画用紙に色があふれ始めた。最後にはまどかの色が他の色と混じりあい溶け合う。ここからが見せ場だ。そう、この映画の最大の魅力はフラガールたちであり、彼女たちが踊るハワイアンやタヒチアン・ダンスである。練習を積み重ねた成果を披露するラストのダンスは素人芸をはるかに超えた素晴らしいものだった。「スウィングガールズ」や「リンダ リンダ リンダ」のラストの演奏をしのぐ見事なダンスだった。なかでもリーダー格の紀美子の踊りは圧巻だった。彼女のダンスは最後には師匠のまどかに匹敵するレベルに達していた。細面で美人顔の蒼井優だが、単なる可愛い子ちゃんという描かれ方ではない。ソロを踊れるまでにフラをものにした彼女のプロ根性はたいしたものだ。バレエを習っていたということだが、それだけでこれだけのダンスは踊れまい。「亀は意外と速く泳ぐ」では磨けば光ると感じたが、「フラガール」で女優としての才能は満開。末恐ろしいほどの可能性を感じる。

  紀美子のソロも素晴らしいが、彼女一人だけが目立っていないところがいい。「ハワイアンセンター」の事務員で最初に躍って見せた時は見事に盆踊りだった初子(池津祥子)、Cinderella05g のっそりとでっかくて動きの鈍かった小百合(山崎静代)、二人とも頑張ってるじゃないか、成長してるじゃないか。後から加わった子たちもしっかり動きがそろってる。一人ひとりの性格は「みんな違ってみんないい」が、踊る時は一糸乱れぬシンクロぶり。誰もがそこにいた。舞台の袖で固唾を呑んで「生徒」たちの踊りを見つめていたまどか先生だけではない。ひそかに娘の自立を支えていた千代も隠れるようにして見守っていた。夢半ばにして去って行った親友早苗も、紀美子の髪に挿された赤い花の形でそこにいた。会場にいない人たちも心はそこにあった。

  まどかにとって炭鉱町の娘たちにフラを教えることは自己再生への道であった。紀美子たちにとってダンスを踊ることは新しい人生への道だった。先行き不安な炭鉱町に出現したたった一つの新しい可能性。最初は半分「定められた人生」から逃げるような気持ちで飛びついたに違いない。しかし踊り続けるうちに踊ることそのものに喜びを見出してゆく。その象徴的な出来事が最初の公演直前に小百合の父親が亡くなるというハプニングだ。常々「プロのダンサー」としての心得を説いていたまどかもさすがにこのときは公演をやめようと思うが、小百合自身がやりたいと言い出す。父もそれを望むはずだと。その時彼女たちはプロになった。と同時に、彼女たちは努力して掴み取る価値のある目標を見出したのである。ハワイアン・ダンスは決して見世物ではないという思い。だからその公演が散々な結果に終わっても、親の死に目に会わなかったと親戚の人たちに怒鳴られても、彼女たちは自分たちの生き方を変えなかったのである。しかし踊りへの情熱だけが彼女たちを支えていたのではない。炭鉱が寂れて家族の暮らしが苦しくなる、自分はダンスでその家族を支えるのだという気持ちが根底にあったはずだ。独りよがりではないからこそわれわれの胸を打つのだ。

  ダンスは人と人との絆になる。ハワイアン・ダンスはそれにふさわしいダンスだった。まどかはハワイアン・ダンスの手の動きにはそれぞれ意味があるのだと生徒たちに教えた。フラダンスは手話と同じなのだと。まどかが町の人々に追い出されるようにして去ろうとした時、彼女を引き止めたのは「手の動き」が伝えた「言葉」だった。そんな描き方がいい。

  全体としてみれば、泣かせようとする演出がところどころで目立つのが気になる。ストーリーの展開も「スウィングガールズ」や「リンダ リンダ リンダ」のようにラストのクライマックスへと一直線に進んでゆくパターン通りの展開である。その意味で完璧な作品ではない。しかしそれでも、最近の日本映画の好調さを裏付ける優れた作品の一つだと言っていいだろう。作品として「スウィングガールズ」や「リンダ リンダ リンダ」より優れている。今年の日本映画は昨年よりもさらに前進している。

  最後に「フラガール」を製作、配給したシネカノンについて一言触れておきたい。シネカノンは1989年に李鳳宇(リ・ボンウ)により設立された。当初は配給会社だったが93年に最初に製作した「月はどっちに出ている」がヒット。その後「風の丘を越えて~西便制」や「シュリ」などの韓国映画を積極的に配給する。「シュリ」の大ヒットは韓国映画に対する日本人の意識を大きく変えた画期的出来事だった。2005年にはシネカノンコリアを設立、ソウル市内に日本映画上映館をオープンした。このようにシネカノンは日本映画と韓国映画の橋渡しのような役割を担ってきた。今後もその動きに注目したい。(Wikipedia参照)

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2006年11月 1日 (水)

今日「フラガール」を観てきました

 今日映画館で「フラガール」を観てきた。今日が初日で、しかも幸いなことに「映画の日」Natunohi に当たるので数日前から楽しみにしていた。映画館で映画を観るのは久しぶり。6月に「嫌われ松子の一生」を観て以来だ。本数は「フラガール」で7本目。それでも上田では多いほうだ。今年中にもう2、3本は映画館で観たい。二けた台に乗ったら画期的なことだ。

  「フラガール」はかなり期待して観に行ったが、その高い期待をさらに上回った。いや実にいい映画だ。笑いあり、泣かせる場面あり、そして見事なダンスありで充分満喫できた。昨年から今年にかけての日本映画の充実ぶりは相当なものである。特に今年の勢いは目を見張るほどだ。「THE有頂天ホテル」、「博士の愛した数式」、「嫌われ松子の一生」、「かもめ食堂」そして「フラガール」。僕がこれまで観た限りでも傑作がこれだけある。「博士の愛した数式」、「嫌われ松子の一生」、「かもめ食堂」は5つ星、「THE有頂天ホテル」と「フラガール」は4つ星半。去年も秀作ぞろいだったが(去年初めて日本映画の年間ベストテンをつけた)、満点をつけたものは1つもなかった。この2、3年は間違いなく上り調子で、ひところの韓国映画に匹敵する勢い。70年代から90年代の半ばごろまであれほど低調だった日本映画がこれだけの作品を作れるまで復調したのか。何とも感慨深いものがある。ひょっとして日本映画は50年代以来の黄金期を再び迎えつつあるのかもしれない。

 実はこのところ疲れがたまっていたのか、レビューを書く気力が減退していた。映画を観ていなかったわけではない。期待していた「白バラの祈り ゾフィ・ショル、最期の日々」にがっかりし、「ブロークバック・マウンテン」は悪くはないが(評価★★★★)どうもレビューを書く気になれない。似た題材でも「トーチソング・トリロジー」、「オール・アバウト・マイ・マザー」、「メゾン・ド・ヒミコ」ほどの感動を得られなかったからか。「スティーヴィー」や「風の前奏曲」はさすがに感動したので一気に書いたが、どうも気力を奮い立たせる映画に出会わないと最近書けなくなってきたようだ。もう1年以上レビューを書き続けてきたので、ゴムが伸び切ってしまっているのかも知れない。前に一度肩の力を抜こうと自分に言い聞かせたことがあるが、いつの間にかまたがむしゃらに突き進んでいた。もう一度肩の力を抜こう。書きたい時に書けばいい。書きにくければ以前やっていたように短評でもいいじゃないか。これからも書き続けるのだから、無理せず細く長くやってゆこう。でも、「フラガール」は面白かったのですぐにレビューを書きます(おいおい!)。

「フラガール」レビュー

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