ポビーとディンガン
2005年 イギリス・オーストラリア 2005年11月公開
評価:★★★★
原題:Opal Dream
監督:ピーター・カッタネオ
原作:ベン・ライス『ポビーとディンガン』(アーティストハウス)
脚本:ベン・ライス
撮影:ロバート・ハンフリーズ
編集:ジム・クラーク
出演:クリスチャン・ベイヤース 、 サファイア・ボイス
ヴィンス・コロシモ、ジャクリーン・マッケンジー
アビゲイル・ガジョン
子供を主人公にした映画といえば、かつては誰でもフランスの「禁じられた遊び」(51、ルネ・クレマン監督)とスペインの「汚れなき悪戯」(55、ラディスラオ・バホダ監督)を思い浮かべたものだ。前者のナルシソ・イエペスの哀愁切々たるギターで知られる主題曲と後者のやはり哀愁を帯びた「マルセリーノの歌」も映画音楽の名曲として知られる。
子供を主人公にした映画が増え始めたのは80年代以降だろう。90年代以降は爆発的に増えている。それと同時に一つ目立つ傾向は子供を主人公にしながらも重い社会的テーマを持った映画が増えていることである。エミール・クストリッツァ監督の「パパは出張中!」(1985)、ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」(1987)、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(1987)、ホセ・ルイス・クエルダ監督の「蝶の舌」(1999)、バフマン・ゴバディ監督の「酔っ払った馬の時間」(2000)、チャン・イーモウ監督の「あの子を探して」(2000)、アボルファズル・ジャリリ監督の「少年と砂漠のカフェ」(2001)、ハンダン・イペクチ監督の「少女ヘジャル」(2001)、フェルナンド・メイレレス監督の「シティ・オブ・ゴッド」(2002)、イマノル・ウリベ監督の「キャロルの初恋」(2002)、フィリップ・ノイス監督の「裸足の1500マイル」(2002)、セディク・バルマク監督の「アフガン零年」(2003)、等々。
もちろん昔もなかったわけではない。ジョセフ・ロージー監督の「緑色の髪の少年」(1948)、サタジット・レイ監督の「大地のうた」(1955)、今井正監督の「キクとイサム」(1959)、アンドレイ・タルコフスキー監督の「僕の村は戦場だった」(1963)などの傑作を思い浮かべればいい。しかし目だって増えてきたのはやはり80年代以降だ。 小説の世界ではハリポタ・シリーズを始めファンタジー系がリアリズム系を圧倒しているが、どうやら映画ではリアリズム系統がファンタジー・コメディ系統と拮抗している。数の上ではファンタジー・コメディ系統のほうが多いだろうが、作品の出来は圧倒的にリアリズム系統のほうが高いので代表作を絞るとリアリズム系統の方が多数派になってしまう。国別に見ると、子供向けの映画やアニメを大量に製作しているアメリカや日本に対して、それ以外の国は子供が主人公でも大人向けのものが比較的多い気がする。恐らく子供をめぐる現実が変わってきていると同時に、子供を見る大人の目が変わっていているのだ。子供も現実の一部である。戦争やテロや貧困や飢えは男も女も老人も子供も区別しない。子供が戦争や飢えで何人死んだ、親が子供を殺した、子供が親を殺した、子供が子供を殺したというニュースが日常的な時代。そんな時代に今の子供たちは生きている。
イギリスではどうか。世界一のファンタジー王国でありながら、子供を主人公にしたイギリス映画は意外に少ない。70年代までで名前を挙げるに値するのはデヴィッド・リーン監督の「オリヴァ・ツイスト」(1948)、ケン・ローチ監督の「ケス」(1969)、ライオネル・ジェフリーズ監督の「若草の祈り」(1970)、それにワリス・フセイン監督の「小さな恋のメロディ」(1971)くらいではないか。80年代以降でもジョン・ブーアマン監督の「戦場の小さな天使たち」(1987)、ダミアン・オドネル監督の「ぼくの国、パパの国」(1999)、マーク・ハーマン監督の「シーズン・チケット」(2000)、スティーブン・ダルドリー監督の「リトル・ダンサー」(2000)、ダニー・ボイル監督の「ミリオンズ」(2004)、ショーナ・オーバック監督の「Dearフランキー」(2004)、ハリポタ・シリーズ、そして今回取り上げるピーター・カッタネオ監督の「ポビーとディンガン」(2005)くらいである。こちらもやはりファンタジー系統とリアリズム系統の作品が拮抗している。
ピーター・カッタネオ監督の「ポビーとディンガン」はファンタジー系統の作品である。しかし王道を行く純粋ファンタジー作品ではない。より正確にはリアリズム的要素を含んだファンタジー映画なのである。映画の冒頭で、見事にカットされたオパールがクローズアップで映される。きらきらと輝く美しい宝石だ。オパールの原石自体は特に美しいものではない。 それが加工されてはじめて美しい宝石になる。映画の中ほどで、主人公のアシュモル少年 (クリスチャン・ベイヤース)が加工される過程を観察している場面が出てくる。原石から美しく輝くオパールが生まれるのを、文字通り目を輝かして眺めている。恐らく彼は、これはいくらの値がつくなどと考えてはいない。純粋にその美しさに感動している。その点では彼の妹ケリーアン(サファイア・ボイス)も同じだ。彼女は実際には存在しないポビーとディンガンという空想上の友達がいる。ケリーアンによれば、男の子のポビーは恥ずかしがり屋で、赤いマントを着てパンクっぽい髪型をしている。足は義足。女の子のディンガンは背の高い美人。おへそにきれいなオパールをはめている。二人とも平和主義者である。このおへそのオパールも彼女にとっては単なるきれいな飾りなのだろう。それがいくらで売れるなどと値踏みしたりはしない。
しかし一方でそのオパールを血眼になって探し続けている大人たちがいる。オパールで一山当てようと目論んでいる男たちだ。中には殺気立っている連中もいる。後にアシュモルとケリーアンの父親レックス(ヴィンス・コロシモ)を泥棒だと裁判に訴える男などは、近くでアシュモルガ遊んでいるだけで追い払うほど神経質になっている。つまり、舞台となったオパール採掘場があるオーストラリアのライトニングリッジは、一攫千金を狙う男たちが集まる欲望渦巻く町なのである(レックスもオパール堀りの一人だが、彼の場合はそれほど欲得づくではない)。「荒野の決闘」の主題歌に使われた「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」というアメリカ民謡に”Dwelt a miner, forty-niner, and his daughter Clementine”という歌詞が出てくる。”forty-niner”とは1849年にカリフォルニアで金鉱が発見されてにわかにゴールドラッシュが起こった時に、一攫千金を狙って金鉱に殺到した人たちを指す。金鉱や採掘場というとどこかの会社が採掘権を買い取り、人を雇って採掘しているというイメージが強いが、何とここはゴールドラッシュ時のカリフォルニアさながらに、個人が採掘権を買って掘っているのである。だからいたるところに穴があり、その周りに掘り出した土を積み重ねた三角錘状の小山ができているという独特の景観をなしている。アリ塚の団地のような眺めである。
これがファンタジーとリアリズムという二つの要素の土台である。オパールを純粋に美しいものとして見ている子供たち(兄のほうはそれが金になるということを知ってはいるが)と金儲けの手段として見る大人たち。そしてこの二つが接触した時事件が起こる。父親とアシュモルが採掘に出かけたときポビーとディンガンを一緒に連れて行った。母アニー(ジャクリーン・マッケンジー)と一緒にクリスマスのパーティに行くケリーアンを彼女の「友達たち」から引き離すためだ。ところがアシュモルたちは帰ってきたときにはポビーとディンガンのことなどすっかり忘れていた。ケリーアンはポビーとディンガンがいないと騒ぎ出す。まだ採掘場にいるかもしれないと夜探しに行く。その時他人の採掘場に踏み込んだため、疑い深い男に泥棒と間違われてしまうのだ。噂が町中に広がり彼らは白い目で見られる。ついには裁判まで起こされてしまう。
このようにアシュモルたちウィリアムソン一家は街から孤立して行く。母は勤めていたスーパーを首になってしまう。母親のアニーは色白の美人だが、もともと彼女の意思でこんなさびしい田舎町に引っ越してきたわけではない。一家が危機に瀕した時、自分はこんな岩ばかりの奥地に引っ込んでいる人間ではないというそれまで抑えていた気持ちが噴き出しそうになる。一家はばらばらになりかかっていた。それを端的に表している印象的な場面がある。ふとアシュモルが母の部屋を覗いた時、母親のアニーは昔の写真を眺めていた。父と一緒の写真もあったが、彼女がじっと眺めていたのは父と結婚する前の別の恋人との写真だった。今の夫を選んだ自分の選択は正しかったのか?彼女の心にふっと湧いた迷い。アシュモルはそれを見逃さなかった。僕は今のパパが好きだ、ひょっとしたら違っていたかもしれない苗字より今のアシュモル・ウィリアムソンの方が好きだと母に言う。この一言で母親の迷いは吹き飛んだ。今この苦しい時こそ夫と子供たちを信頼しなければならない、彼女はそう思いなおしたはずだ。部屋を出てゆく息子にかけた「おやすみウィリアムソン」という言葉にその思いが込められている。
この映画全体を通じてもっとも共感するのはアシュモルだろう。彼はそれまで居もしない二人の友達を信じている妹を馬鹿にしていた。困った奴だと思っていた。しかしケリーアンのお気に入りの遊び場だったトレーラーハウスを何者かがダイナマイトを仕掛けて吹き飛ばすなどの嫌がらせが起き、ケリーアンがショックで寝込んでしまうという事態になった時、彼は何としてでも妹のためにポビーとディンガンを見つけようと決意する。そこからの行動が素晴らしい。尋ね人のチラシを作るためにケリーアンにポビーとディンガンの似顔絵を書かせる場面などは「禁じられた遊び」を連想させるいい場面だ。妹が書いた絵をコピーして彼はチラシを町中に張る。そのチラシに「泥棒」という落書きが書かれようが、面と向かって冷やかされようが彼は毅然としていた。ただ慰めの言葉をかけるのではなく迷わず行動したこと、何よりも感動的なのはその点だ。
ひょっとしたらポビーとディンガンはまだ坑道の中にいるかもしれないと妹が言うので、アシュモルは夜中に一人採掘抗まで行く。そこで彼はポビーとディンガンが好きだったロリポップの包み紙とオパールを発見する。家に戻った彼は妹に二人は坑道の中で「死んでいた」と伝える。
彼がその時本当にポビーとディンガンの存在を信じる気持ちになったのかどうかは分からない。そう言えば妹が諦めると考えたのかもしれない。原作では発見されたのは加工されたオパールではなくその原石だったらしい。加工されたオパールが坑道に落ちているはずはない。しかしアシュモルが見つけたのはディンガンのへそにはめられていたオパールだとするためには加工されたオパールでなくてはならない。へそにオパールの原石をはめているはずはないからだ。
この変更は象徴的なことに思える。あるはずのない加工されたオパールが見つかるこのあたりから、急にファンタジー色が濃くなるのである。アシュモルはポビーとディンガンが死んだことを妹に納得させるために二人の葬式を挙げることにする。こういう展開になるとは意外だった。そこまではいいのだが、その後はまさにファンタジーになってしまう。アシュモルの父が他人の穴からオパールを盗もうとしていたという誤解はついに裁判にまで発展する。ところがその裁判にあっけなく勝ってしまうのだ。しかもあれほど差別していた町の人たちが裁判が終わるところっと態度を一変させてしまう。そしてポビーとディンガンの葬式にほとんどの人たちが参加する。このあたりの展開はあまりにも安易ではないか。そう思わざるを得ない。
どうも中途半端なのだ。ファンタジーの枠組みに盛り込んだリアリスティックな要素がかならずしもファンタジーを支える働きをしていない、むしろせっかく提起した深刻な問題があっさり片付いてしまって逆に物足りなさを感じてしまう結果を招いている。ポビーとディンガンというイマジナリー・フレンズの決着の付け方は予想外の展開で、その点はうまく出来ていると思ったが、その後の結末は容易に予想がついてしまう。いわば「お約束」通りの展開で、このラストも物足りなかった。
リアリズムとファンタジーを組み合わせること自体がそもそも無理だと言っているわけで はない。「ライフ・イズ・ミラクル」や「ククーシュカ」は戦争という現実を土台にすえながら見事なファンタジーの世界を作り上げていた。「ライフ・イズ・ミラクル」はあの気がめいるほど悲惨なボスニア紛争というテーマにコメディの要素を盛り込むことさえやってのけた(同じくボスニア紛争をテーマにしたオムニバス映画「ビューティフル・ピープル」も一部のエピソードはコメディ仕立てである)。問題はリアリズムとファンタジーの組み合わせ方、あるいはファンタジーへのリアリズムの取り込み方なのである。その点で不満が残る。
この映画は何を描いているのだろうか。「信じることが大切」だというメッセージが込められているという受け止め方が一般的である。しかしそういうとらえ方には疑問がある。アシュモルがポビーとディンガンの葬儀をすることにしたのは二人の存在を信じたからだろうか。あるいは二人の葬式に町の人たちが多数集まったのは同じように二人の存在を信じていたからだろうか。そうは思えない。葬儀の後見えない犬を連れて散歩している人や誰もいない空間に向かって話しかけている人などが増えたわけではないだろう。
アシュモルの立場は微妙で、妹にある程度感化されているようにも思えるが、少なくとも両親はポビーとディンガンの葬儀をすることでケリーアンが空想の世界から卒業できると期待していたと思われる。町の人々も見えなかった二人が見えるようになったからではなく、妹を思うアシュモルの気持ちに共感したから葬儀に参列したのだろう。また幾分かは両親と同じ期待を持っていたかもしれない。彼らにはポビーとディンガンは見えないし、そもそも実在するとは思っていないが、一心に二人がいると信じているケリーアンの気持ちを理解し、尊重しようとしたのである。ポビーとディンガンは見えないが、妹のために町中にチラシを張り巡らそうと走り回るアシュモルの姿は見えていた。妹を救おうとする兄の気持ちに共感し、町を挙げて彼の妹を救う行動にでた。われわれはそこに感動しているのではないか。「目に見えない大切なもの」とは架空の友達を指すのではなく、人を思いやる心を指すと解釈すべきではないか。
ケリーアンが空想の友達を作り出したのは寂しかったからだろう。父はオパールを探し出すことに夢中で、母はスーパーに勤めている。兄は友達と遊ぶのに夢中だったのだろう。学校にも彼女の友達はいない。町自体も一攫千金を目当てに集まってきた人たちであふれている。殺伐としていたに違いない。ケリーアンは一人孤立していた。彼女は追い詰められていたのだろう。そしてそのことに誰も気づかなかったのだ。寂しさを紛らすために彼女は自分で「友達」を作り出した。二人の友達が唯一彼女の心の拠り所だったのである。
ケリーアンは他人への信頼感や思いやりを失った町が知らず知らずのうちにかかっていた病弊の象徴的存在だったのかもしれない。彼女の存在自体が町に対する警鐘だったのだ。彼女の空想はそういう意味で根深いものだった。サンタクロースは実在すると幼い子供が信じているのとは次元が違う。だからこそ彼女の家族だけではなく、町全体が変わらなければ物語は完結しなかったのである。
だから結末が問題なのではなく、そこに至る過程がもうひとつ説得的に描かれていないということなのである。90分に満たない短い作品だということもあるが、いろんな点でもう少し描きこんでいればという思いが残る。例えば、父親レックスの描き方。オパールを求めて報われない努力をしている父親を決してアシュモルは馬鹿にしていない。町の連中の嫌がらせで有望な土地の採掘権を手に入れられなくなり、誰も見向きもしない土地でダウジングをしながら掘るべき場所を探している父の姿を息子は少しも哀れんでいない。父親自身の描き方としても一攫千金を狙うハゲタカのような人間として描かれてはいない。生活のためでもあるが、むしろ「夢」を追う存在として描かれている。ただその辺が充分映画全体のテーマと関連付けられていない。「夢」はケリーアンの「想像力」とつながってゆくものである。「夢」や「想像力」だけでは食べてゆけないが、少なくとも現実をより豊かにすることはできる。そういう力を持つものとしてもっと丹念に描かれるべきだった。そうすれば、エンドロールで映された様々な子供の絵がより活かされていただろう。