Vフォー・ヴェンデッタ
2005年 イギリス・ドイツ 2006年4月公開
評価:★★★★
原題:V FOR VENDETTA
監督:ジェームズ・マクティーグ
製作:ジョエル・シルヴァー、アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
グラント・ヒル
製作総指揮:ベンジャミン・ウェイスブレン
脚本:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
撮影:エイドリアン・ビドル
プロダクションデザイン:オーウェン・パターソン
衣装:サミー・シェルドン
編集:マーティン・ウォルシュ
音楽:ダリオ・マリアネッリ
出演:ナタリー・ポートマン、ヒューゴ・ウィーヴィング、スティーヴン・レイ
スティーヴン・フライ、ジョン・ハート、ティム・ピゴット=スミス
ルパート・グレイヴス、ロジャー・アラム、ベン・マイルズ
ヴァレリー・ベリー、シニード・キューザック、ナターシャ・ワイトマン
ジョン・スタンディング、エディ・マーサン
観終わってすぐの感想は、この映画にはいろんなものが混じっているというものだ。『20世紀少年』+「ダーク・エンジェル」+「オペラ座の怪人」+「未来世紀ブラジル」。わざとウイルスをばら撒き後でワクチンを「開発」して政府の株を上げるのはまるっきり浦沢直樹の『20世紀少年』と同じ。ウイルスの人体実験に使われサイボーグ化したという設定は「ダーク・エンジェル」を思わせる(731部隊を重ねてもいいだろう)。2020年の独裁国家イギリスの雰囲気は「未来世紀ブラジル」に近い、あるいはオーウェルの『1984年』をこれに加えてもいい。「オペラ座の怪人」との関連は説明するまでもないだろう。
細かな引用にいたっては無数にある。例えば何度も引用されるシェイクスピアの『十二夜』、ゲーテの『ファウスト』、アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯爵』等の文学作品。映画からの引用も結構ある。Vの字を壁のポスターに刻むあたりは「怪傑ゾロ」そっくりだし、体に鉄板をつけて銃弾をさえぎるのは「荒野の用心棒」で使われた手。他にも挙げればきりがないが、最も重要なのはガイ・フォークスとの関連と″V″の象徴的使い方だろう。
Vの文字を壁に刻んだ時、V自身はそれを「復讐(VENDETTA)のV」だと説明した。追われる立場の「ダーク・エンジェル」と逆にVは自分の体を「怪物」に変えた関係者たちに復讐してゆく。自分を『モンテ・クリスト伯爵』のエドモン・ダンテスに重ねている。しかし″V″は人体実験が行われた強制収容所での彼の独房の番号でもある。5号室に入れられていたのである。さらにはVの周りを丸で囲むマークは、アナーキストのシンボル・マークを逆さにしたものである。勝利のVの意味も込められているだろう。アラン・ムーアとデヴィッド・ロイドによる原作コミックスではトマス・ピンチョンの小説『V.』も言及されているそうだ。
アナーキズムはテロにつながり、テロはガイ・フォークスとつながる。詳しいことはWikipediaで調べてもらうとして、とりあえずガイ・フォークスについて簡単にまとめておこう。ガイ・フォークスとは1605年にイギリス国会議事堂を爆破して国王ジェームズ一世を暗殺しようとして逮捕された男である。英国国教会によるカソリック・清教徒への弾圧に対抗したカソリックの一派だ。彼が処刑された11月5日は「ガイ・フォークス・デイ(ナイト)」と呼ばれ、現在では、主にかがり火と打ち上げ花火を楽しむ行事となっている。しかし以前はガイ・フォークスを表す人形を子供らが曳き回し、最後にかがり火に投げ入れて燃やしていた。つまり完全な反逆者扱いであり、花火を上げるのは国王が無事だったことを祝っているのである。ガイ・フォークスの処刑は残虐なもので、「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」という極刑に処せられた。首を刎ねられ四つ裂きにされたが、その前に火中に投じられ、焼かれた。Vが全身やけどを負って仮面と手袋をつけているのは体を焼かれたガイ・フォークスに重ねているのだろう。
ガイ・フォークスという、日本ではなじみがないがイギリスの歴史上有名な人物が重要な象徴的意味を持たされている。これは注目に値する。「Vフォー・ヴェンデッタ」は配給でワーナーが絡んでいるが実質的にイギリス映画である。舞台は近未来のイギリスであり、原作もイギリスのコミックスである。原作が発表された82年という年が重要だ。「サッチャーの時代とイギリス映画①」にも書いたが、イギリスの80年代は丸まるサッチャーの時代である。「鉄の女」と呼ばれたサッチャーは、それまでの福祉国家を強引にアメリカ型の競争社会に変えていった。社会保障を削り国民には自助努力を説いた。国営企業の民有化を進め、様々な分野に自由競争を導入した。国民に容赦なく「痛み」を押しつけた。その結果国の経済は上向きになったが貧富の差が広がっていった。青年層の失業が激増し麻薬や犯罪がはびこる。出来上がったのは勝ち組と負け組みの差がくっきりと浮かび上がったリトル・アメリカである。90年代のイギリス映画にはこの変化がはっきりと表れている。「貧困、犯罪、麻薬」が新しいイギリス映画の主題となった。
サッチャーの強硬路線の象徴的出来事が「ブラス!」にも描かれた炭鉱ストである。サッチャー路線を進める上で一番の障害は強大な労働組合だった。当時最強といわれたイギリス炭鉱労組のストライキは80年代の最も重要な出来事だったと言っていい。1984年4月から85年3月まで何と丸1年間続いた炭鉱ストは国中を巻き込む大問題となり、文字通り国論を二分した。結局ストライキは組合側の敗北で終わる。この大闘争はまさにサッチャーの鉄の路線を象徴的する出来事だったのである。保守党支配は次のメイジャー首相で終わり、97年に労働党のトニー・ブレアが登場するが、イラク戦争に見るようにほとんどサッチャー路線を転換することは出来なかった。
原作コミックスはこのサッチャー時代の閉塞状況を近未来(1990年代末)のイギリスを支配する独裁国家に置き換えて描いたものである。その近未来も既にすぎてしまった今日新たに映画化するに当たり、脚本を担当したウォシャウスキー兄弟は時代を2020年に設定し、2001年の9.11テロ以後の状況を付け加えた。これを単にアメリカに対する批判だと受け止めるべきではない。直接的には、アメリカに追随してきたイギリス批判なのである。「アメリカ、家族のいる風景」のレビューに書いたように、この間9.11後の鬱屈した状況を意識した一連のアメリカ映画が作られてきたが、ついにイギリスでも9.11後の政治路線を問い直す映画が現れたと捉えるべきなのだ。
こうしてVの存在はさらに多義性を帯びるようになった。あまりに多義的で曖昧ですらある。Vは意図的にその正体を曖昧にされている。Vの仮面は最後まではずされない。仮面は彼の「個」を覆い隠すものである。Vは誰でもないと同時に″everybody″でもある。彼は特定のヒーローではなく、革命的状況を引き起こすための扇動者、触媒に過ぎない。革命は彼が起こすのではなく民衆が起こすのである。だから彼はオールドベイリー(中央刑事裁判所)と国会議事堂前を11月5日の“ガイ・フォークス・デー”に爆破するだけでそれ以上の直接的行動はとらない。国営テレビ局をのっとり、国民に圧政に対し立ち向かうよう扇動するだけである。「人民が政府を恐れるのではない 政府が人民を恐れるのだ。」
しかしこの先は安易だといわざるを得ない。Vの呼びかけにこたえて翌年の11月5日に無数の市民がVと同じ仮面をつけて国会議事堂前に集結してくる。テロに備えて警備していた軍もそのあまりの数に手が出せない。革命は成功したかのように思える。こういう描き方ではほとんど御伽噺である。国民はそんなに簡単に立ち上がらないし、独裁体制との闘争も多大な犠牲を伴う熾烈なものであるはずだ。Vは警官隊に銃で撃たれた時「この服の下には理念しかない。理念を銃弾で殺すのは不可能だ」と言った。確かに彼の中にあったのは「理念(アイディア)」だ。だがそれはかなり抽象的なものだったのではないか。むしろアイディアリズム(理想主義)と言ったほうがいいかもしれない。
ラストが甘いと感じるのは、1つには独裁体制が通り一遍にしか描かれていないからである。2020年のイギリスでは全ての自由は剥奪され、同性愛者、移民、重度障害者、異教徒、信仰無き者、不治の病人などあらゆる異端者は社会から排除され、そうではないものも監視カメラで管理されている。秘密警察が暗躍し、マスメディアは政府の都合のいいように事実を歪曲して報道している。しかしこれがリアルな恐怖として観客に伝わってこない。具体的に描かれるのは冒頭でイヴィーが外出禁止令に背いて外を歩いていて秘密警察につかまるエピソードだけだ。彼女の父が秘密警察に殺されたという話も出てくるが、これもイヴィーの口から伝えられるだけに過ぎない。ウィルス・テロ事件やそれに関連する人体実験も話としては出てくるが、本当の恐怖と不安は日常の中にあるはずだ。それが伝わってこない。だからラストで民衆が集結するところがどこか真実味に欠けるのである。
さらにV自身の描き方も曖昧だ。彼の理念の中身はほとんど語られないし、そもそも彼のなかには個人的な復讐とアナーキーなテロリズムが同居している。そもそもアナーキズムは革命思想と同じではない。革命家は人民の政府の樹立を目指すが、アナーキストは国家や政府そのものを否定する。独裁国家を否定するのは革命家もアナーキストも一緒だが、その先の未来像は同じではない。しかもVの場合私怨がそれに絡んでいる。厳密な意味で彼をアナーキストと呼べるかどうかすら判然としない。テロリストが皆アナーキストというわけではないからだ。
イヴィーの存在が重要になってくるのは恐らくそこだ。原作では少女になっているようだが、映画では大人である。彼女はVの影響を受けて彼のあとを継ぐ存在になる。子供では無理がある。Vはイヴィーをだまして拷問にかけた。拷問にかけたのは信念を曲げない強さを身に付けさせるためだった。重要なのは、Vはイヴィーに社会の束縛から自由になるよう説くが、復讐を引き継がせはしなかった。Vはイヴィーに自分を乗り越えさせたかったのだ。復讐にとりつかれた自分を乗り越えてほしかったのだ。
こう書くと実にきれいにまとまるが、実際にはいくつも疑問がある。なぜイヴィーなのか。いくら助けられたとはいえ、何故イヴィーはあれほど簡単にVに共鳴してしまうのか。彼女の変わり方も都合のいいものであり、リアルとはいえない。
しかしあまり多くを求めるべきではないだろう。この映画は圧制とそこからの解放をテー マにしてはいるが、シリアスな政治劇というものではない。基本はエンターテインメントである。だが、単なる活劇というわけでもない。明確な社会批判が込められているのは確かだ。あえて言えば、冒頭に触れた「未来世紀ブラジル」の系譜に属する作品である。「未来世紀ブラジル」が描いたのはコンピューターに支配された社会だが、「Vフォー・ヴェンデッタ」の原作コミックスも「フェイト」というスーパーコンピューターが国を治めているという設定になっていたようだ。
マスクをつけた黒ずくめの男というVのビジュアルにこだわり、またところどころ「マトリックス」ばりのスローモーションを駆使したアクション・シーンを取り入れており、全体としてはエンターテインメント寄りになっている。Vの人物像は不徹底だが、映画的には魅力もある。表情が変わらない仮面をつけながらも、仮面の角度や体の動きや声で表情を表現していたヒューゴ・ウィーヴィングの演技は賞賛に値する。善と悪の境界線上にある矛盾した人物でありながらどこか人を引き付ける魅力も持っている。シェイクスピアなどを次々に引用するあたりは知的好奇心も刺激する。映画の完成度としては「未来世紀ブラジル」に及ばないが、政治批判をエンターテインメントの枠組みの中に取り込んだ意欲的な企ては評価できる。独裁国家やラストでの民衆の行動の描き方はステレオタイプ的だが、物足りなさはあっても破綻はしていない。
イギリスを舞台にしながらアメリカ映画的な演出が一部に入っていた。それでもVをアメリカ映画のように、一人で世の中の悪を倒すスーパーマンとしては描かなかった。ラストのフィンチ警視(スティーヴン・レイ、渋くていい味を出していた)とイヴィーとの会話は印象に残る。フィンチ警視「″V″とは何者だ?」イヴィー「エドモン・ダンテス、私の父、私の弟、友人、そしてあなた、私。彼は″みんな″よ。」
イヴィーがVから受け継いだものに「私怨」は含まれていなかった。ここで語られているのは虐げられた者同士の連帯感である。拷問を受けた彼女を支えていたのは、独房のネズミ穴に隠されていたヴァレリーという名の女優が残した手記だった。同性愛者だったために投獄され処刑されたのだ。会ったことはないが、同じ境遇の者に対して深い共感を抱いた。だから彼女は政府に協力しろと迫られても屈しなかったのである。
テロがテロを生み泥沼化してゆくのは復讐の連鎖が作り出されてゆくからである。「Vフォー・ヴェンデッタ」はテロリズムを最終的には肯定しなかった。最後に国会議事堂が爆破されるが、それも民衆の決起を呼びかける狼煙のようなものだ。誰かを暗殺する目的ではない(前もって予告してあるので無人だったはずだ)。連帯が復讐に取って代わったのである。
イヴィーの言葉にはスタインベックの『怒りの葡萄』の一説を連想させる響きがある。ラスト近くでトム・ジョードが母親に言った有名なせりふである。
「つまり、おれは暗闇のどこにでもいるってことになるんだ。どこにでも――おっ母が見さえすりゃ、どこにでもいるんだ。パンを食わせろと騒ぎを起こせば、どこであろうと、その騒ぎのなかにいる。警官が、おれたちの仲間をなぐってりゃ、そこにもおれはいるよ。ケーシーが知ったら、何ていうかわからねえが、仲間が怒って大声を出しゃそこにもおれはいるだろう――お腹のすいた子供たちが、食事の用意ができたというんで、声をあげて笑ってれば、そこにもおれはいる。それに、おれたちの仲間が、自分の手で育てたものを食べ、自分の手で建てた家に住むようになれば、そのときにも――うん、そこにもおれはいるだろうよ。わかるかい?」
『怒りの葡萄』(新潮文庫、下巻) 注:一部表現を変えてある。
Vの仮面をつけた無数の人々が立ち上がるラストの描き方は理想主義的だが、社会変革の可能性は確かにこの連帯感の延長線上にある。
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どおりで私には理解できないハズだ(笑)。
イギリスの独裁者が、古今東西の、
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W・Rさん コメントありがとうございます。
「ルース・チェインジ」という映画のことは全く知りませんでした。アメリカ政府がテロを事前に知りながら意図的に見逃していたという噂は前からありましたが、ついにこういう映画が現われましたか。観てみないことにはなんともいえませんが、既にネットでは賛否両論が出ているようですね。
ベトナム戦争のときのトンキン湾事件がありますからありえない話ではないですが、今のところなんともコメントのしようがありません。
投稿: ゴブリン | 2006年11月28日 (火) 22:41
ゴブリンさん、はじめまして。 長文失礼します。深い考察、参考にさせて貰いました。
私はコミックの映画化で期待せずに観ましたが、思っていたよりもしっかりした映画で
「自由や情報操作」など深いテーマがいい感じでしたね。ツッコミ所も多いですが。
「革命」ではなく単なる「復讐」との評判もあるようですが、根っこは同じでしょうか。
>「なぜイヴィーなのか。」+「共鳴してしまうのか」+「リアルとはいえない。」
「美しさや陰に惹かれる。。。」 愛や恋とはそういうものではないでしょうか。
実は、この映画の中で起きた「テロ事件」を「9.11」に置き換えるとみると
思いもよらなかった事柄や、今の時期に公開された「真意」が見えてくるかもしれません。
ディラン・エイヴリー監督・23歳が作り、カリスマ人気を得ている911検証映画の
「LOOSE CHANGE = ルース・チェインジ」が「9/11 Truthムーブメント」現象を
世界規模にしていますが、ご存知でしょうか? 改良作の「LC 2ND Recut」などで、
Vのように「集まろう」呼び掛けました。「仮面」の代わりが「黒のTシャツ」です。
06年の9月11日の再調査要求デモ動画と、次の日にその様子を伝えたはずニュース。
冒頭で「人々が集った」と言っていますが、参加者の人数の違いに注目…。
http://www.911podcasts.com/files/video/TalkingAboutaRevolution.wmv
http://www.911podcasts.com/files/video/Zahn_LC.wmv
12月の? DVDの発売前から「LC2」の「無料」配信が早くも開始されたようです。
日本語版の検索語「LOOSEチェンジ」の世界的な反響などは、下記BBSの11/22を。
ご参考になればと。 尚、本文内容やLINK先とは利害関係はありません。
http://www.wa3w.com/911/index.html
http://bbs9.fc2.com/php/e.php/cinepro/
http://www.harmonicslife.net/gallery/main.php?g2_itemId=775
投稿: W・R | 2006年11月28日 (火) 15:09
ほんやら堂さん、KUMA0504さん TB&コメントありがとうございます。
ほんやら堂さん
全体にアメリカ的なテイストが混じっている映画ですが、イギリスらしさも色濃く出ていて、ハリウッド映画とは一味も二味も違っていましたね。
近年は複数の国が出資して製作するケースが多いですが、無国籍的な映画よりもその国らしさがはっきり出ている映画のほうが結局は広く共感を得るのではないでしょうか。
KUMA0504さん
今の日本は本当にアメリカとイギリスの後追いをしている感じで、いつ一線を越えるかと非常に不安です。
しかしそれを食い止めるために実際に一歩踏み出すには勇気が要ります。僕に出来ることはヒューマンな視点を備えた映画を紹介することぐらいです。ですから、きちんと自分の考えを主張し、行動を呼びかけている貴ブログに敬意を表します。
これからもどうぞよろしくお願いします。
投稿: ゴブリン | 2006年10月17日 (火) 22:38
ゴブリンさんTBありがとうございました。
傑作ではないけれども、訴えるものがある今年を象徴する映画でした。私の中のもやもやしたものをきちんと言葉にして描いてくれて感謝です。
私も「V」のようにこの作品を使って「煽動」をしてみました。上映当時、今にも国会を通りそうだった現代の治安維持法「共謀罪」を知らせるツールとしてこの作品を使ったのです。実際最初に私がTBしたのは50ほど。(それでも私にしてはかつてない数です)結果は次々とBlogらしくTBが繋がっていき、今では105を数えます。共謀罪も紆余曲折の末、継続審議になりました。
Vからイヴィーに想いを受け継いでいくというのはよく分かります。まさにBlogはそういう機能を持ったツールではないかという気もします。
投稿: KUMA0504 | 2006年10月17日 (火) 21:37
ゴブリンさん,TB&コメントありがとうございました.
奇しくも同じ日にアップされた「Vフォー・ヴェンデッタ」の記事ですが,こちらは超弩級戦艦,僕のはせいぜい魚雷艇という感じですね.
おっしゃるとおり,9/11の影響を受けているにも拘わらず,アメリカ映画とひと味違った寓話的な味わいがあるようです.フィンチ警部なんて如何にもイギリス映画らしい.
映画は見てみなければ判らないもんだと思いました.
投稿: ほんやら堂 | 2006年10月17日 (火) 21:05