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2006年9月 2日 (土)

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録

1975年 1975年9月公開 150分
監督、製作、構成:新藤兼人
編集:近藤光雄、藤田敬子
出演:川口松太郎、大洞元吾、牛原虚彦、田中栄三、伊藤大輔
    中野英治、入江たか子、三木茂、山田五十鈴、進藤英太郎
    山路ふみ子、田中絹代、中村鴈次郎、乙羽信子、京マチ子
    小沢栄太郎、若尾文子、香川京子、増村保造、浦辺粂子
    小暮美千代、森赫子、荒川大、柳永二郎、内川清一郎
    安東元久、酒井辰雄、依田義賢、宮川一夫

  「愛妻物語」(51)、「原爆の子」(52)、「裸の島」(60)、「地平線」(84)、「午後の遺言状」(95)に続いて、新藤兼人監督作品を観るのはこれが6本目。意外に観ていないと自分でも驚いた。もっとも、「安城家の舞踏会」(47)、「お嬢さん乾杯」」(49)、「女ひとり大地を行く」063802(53)、「しとやかな獣」(62)、「けんかえれじい」(66)、「軍旗はためく下に」(72)等々、彼の脚本作品は結構観ている。一方、溝口健二作品は「折鶴お千」(34)、「浪華悲歌」(36)、「祇園の姉妹」(36)、「夜の女たち」(48)、「武蔵野夫人」(51)、「西鶴一代女」(52)、「雨月物語」(53)、「祇園囃子」(53)、「近松物語」(54)、「赤線地帯」(56)と全部で10本観ている。こちらは逆にこんなに観ていたのかと驚いた。人の記憶とは当てにならないものだ。初めて出会った溝口作品は73年6月13日にフィルムセンターで観た「折鶴お千」。今回映画ノートを調べてみるまで観たことすら忘れていた。

  個人的なことはこれくらいにして本題に入ろう。「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」は、新藤監督が師と仰ぐ溝口健二監督の生涯を新藤監督の視点からまとめ上げた記録映画である。俳優、監督、脚本家、キャメラマンなど、溝口作品にかかわった39人の人たちに新藤監督自らがインタビューしたものである。先月の25日にNHK衛星第2で放送された「シネマの扉 溝口健二特集」で観た映像の一部は、この映画から取られている事が今回観て分かった。いかに貴重なインタビューが詰まっているかそのことでも分かる。

  ところで、「新藤監督の視点からまとめ上げた」と書いたのは、頻繁に新藤監督のナレーションが入り、また質問も監督自身の関心のある話題を中心に取り上げているからである。たとえば、新藤監督が田中絹代に溝口監督との仲をしつこく聞きだしている場面があり、きっとなった田中絹代がいい機会だとばかりにとうとうと反論するあたりは画面に緊張感がみなぎっているが、個人のプライバシーにはまったく関心を持たない僕としては全部カットしてもいいと感じた。しかしだからといって、そのことがこの映画を歪んで偏ったものにしているとは思わない。インタビューに答えた人たちがそれぞれに自分の考えを語ったように、新藤監督も自分の考えを語っただけだ、そう考えればいい。もちろん彼が聞かなかったことや編集の際にカットされた意見もあるわけだが(『ある映画監督の生涯』という本にもなっており、そちらにはインタビューのすべてが載っているようだが)、そもそも周りの人たちからのインタビューで溝口監督のすべてが分かるわけではないので、語られたものは語られたものとして受け止めればいいだろう。

  インタビューの場所は家の前の庭や街頭、果ては駅のホームのベンチなど様々な場所を選んで変化をつけている。インタビューをつなぎ合わせた作りになっているが、溝口監督の生い立ちから「大阪物語」の準備中に亡くなるまで、溝口監督の生涯をたどりながらその時々の出来事や作品に関するインタビューを織り込んでゆくという時系列的構成になっている。ところどころ溝口作品の写真や映画の一場面がインタビューに差し挟まれている。テレビのインタビューなのか、溝口監督自身がインタビューに答えている古い映像も収録されている。

  上に名前を列挙したように、インタビューを受けているのは錚々たる面々である。中でも驚いたのは伊藤大輔監督。生まれは溝口と同じ1898年だからインタビュー当時77歳。まさか動く彼の姿を観られるとは思ってもいなかった。相当に渋い顔になっていて、インタビューの途中でタバコに火をつけてスパスパ吸っている姿が印象的だった。伊藤監督は長生きで、亡くなったのは1981年。溝口監督は56年没だから、何と彼より25年も長く生きている。ちなみに、新藤監督は1912年生まれなので、二人は彼より14歳年上になる。

  インタビュー主体のドキュメンタリー映画で、しかも上映時間は150分もある。一部中だるみするところもあるが、いずれも貴重な証言ばかりなので最後まで引き付けられた。39人の話から浮かび上がってくるのは、撮影所では鬼のように厳しいが、撮影所の外では人Kagaribihotaru1 懐こい性格、演技指導は何も具体的な指示はなく俳優に考えさせる方式、酒と女が大好きで飲むと酒乱の癖があり、女に背中を切りつけられる情痴事件も起こしていた(これはこの映画を観るまで知らなかった)、撮影当日に脚本を検討しなおしてどんどん書き換えてゆく(まったく俳優泣かせだ)、こういった人物像である。もちろんこれは他人が見た溝口健二であって、当然これがすべてではない。あくまで溝口を理解するうえでの参考資料に過ぎない。しかしそれでも、彼の映画に対する人並みはずれた打ち込み具合(何しろテンションが下がるのを嫌って休憩時間でも撮影所から出ず、トイレは尿瓶で済ませていたというからすごい)、彼を鬼のようだと言いながら踏ん張って彼の厳しい要求にこたえた俳優やスタッフたちの情熱と誇りが画面から伝わってくる。

  さらには当時の映画製作をめぐる事情や具体的な撮影方法などがいろんな側面から語られているので、そういう意味でも貴重である。この映画は劇映画ではなくテレビの特別番組のようなものなので、作品の出来をあれこれ批評しても仕方がない。今回のレビューはむしろ様々なインタビューから印象に残った言葉を並べるというかたちをとりたい。

  まずは溝口監督に関する基本データから(引用文は必ずしも語られた言葉そのものではないことをお断りしておきます)。

<溝口健二略歴>
 1898年5月16日、溝口善太郎の長男として生まれる。1956年8月24日永眠。享年58歳。東京の池上本願寺に葬られたが、映画では分骨された京都の満願寺の石碑が映されている。

  映画の世界に入ったのはふとしたはずみ。家が浅草裏にあり、白髭橋の対岸にあった日活向島撮影所に近かったため、監督や俳優と知り合いになり、割合簡単に撮影所に入る。俳優志望だったが、助監督にさせられる。助監督暦2年で監督になる。当時女性は映画に出られず、代わりに女形が演じていた。しかしやがてレンズが女形を受け付けなくなり、それに抗議して18名の監督が辞めてしまう。それで溝口の監督昇任が早まったという事情だったようだ。

  大正12年の関東大震災で向島の撮影所が壊滅。京都の日活大將軍撮影所に引っ越す。「溝口健二が京都に生活を移したことは、その生涯に決定的なものを植えつけることになります。江戸の下町育ちという体質におよそ対照的な関西の風土が溝口健二に新しい血をまじえることになるんですね。この江戸と上方の血のまじわりは後年の溝口健二の基盤となるわけです」(新藤)。

  「赤い夕陽に照らされて」(25)を撮っている時に木屋町の売春婦に背中をかみそりで切りつけられる事件が起こる。入院して半年くらい謹慎していた。その2年後ダンサーの嵯峨千恵子と結婚。

  「都会交響曲」(29)や「しかも彼等は行く」(31)などの傾向映画を何本か作る。溝口の下に一時身を寄せていた、当時プロレタリア文学の先鋭であった林房雄の強い影響があったようだ。日活多摩川で「愛憎峠」(34)を撮った後、第一映画に移り、「浪華悲歌」と「祇園の姉妹」の名作2本を残す。新興キネマで「愛怨峡」を撮り、松竹京都撮影所で「残菊物語」(39)、「浪花女」(40)、「芸道一代男」(41)の、いわゆる「芸道三部作」を撮る。

  戦争時代末期は「戦時色に及び腰で対応した平凡な作品」(新藤)を何本か撮っている。50年代に入り「雨月物語」、「祇園囃子」、「近松物語」、「山椒大夫」(54)、「赤線地帯」等の傑作群を次々に発表。「大阪物語」の準備中に倒れ、永眠。

<昔の映画撮影の様子>
 昔はグラス・ステージ(総ガラス張りの撮影所)などなくテントだった。時々風でテントがめくれて光が差し込む。それでも無理に撮っていた。その後グラス・ステージができた。当時は今のように照明を当てて撮るのではなく、天然の光で撮影していた。だからガラス張りの撮影所が必要だった。キャメラマンは照明から現像にいたるまで全部自分でやった。1週間から10日で1本撮り上げていた。(大洞元吾、キャメラマン)

  上野なら上野でロケをするとシナリオを2本持ってゆく。同じ役者が衣装を変えて2本分別々に撮る。当時は2本立てでロケーションをやるのは別に不思議なことではなかった。(牛原虚彦、監督)

  当時はキャメラの横で監督がせりふを読み上げる。女形がそれに応じてせりふを言い、演じる。そういうやり方だったのです。(伊藤大輔、監督)

<溝口健二:人と映画の撮り方>
   同じ映画会社の村田実監督が男性をよく描いた。だから会社からお前は女を描けと言われた。最初は会社の方針だったわけです。いろいろ撮っているうちに自然と女性に興味がわいてきた。(溝口健二)〔女性映画を得意とされていますね、という質問に答えて〕

  「滝の白糸」は脚本がなかった。その日その日に脚本を書いてくる。溝口さんの演出方法というのはね1カットの中に何カット分も入っているわけですよ。だから1カットを撮り終えた時にね、ふっとこうなっちゃうんだなあ。それはくたびれる。カットがいくら多くてもね、いTudumi_fue1 い加減にやっている監督の場合は体が疲れない。溝口さんの1カットてのは疲れる。(三木茂、キャメラマン)

  泉鏡花もの、明治ものにとらわれて呪縛されていた。これから解き放たれなければならないと自覚していたんだと思います。〔一時のスランプを脱して「浪華悲歌」や「祇園の姉妹」を作った頃を振り返って〕(依田義賢、脚本家)

  一生女優として生き抜いてゆこうと思いましたのはね「浪華悲歌」がきっかけでした。 「あっ、スキヤキや、うちもよばれよう」というせりふがうまく言えなくて2、3日かかったことがありました。リハーサル中もずっと寒くてぶるぶる震えながら橋の上に立っていた。ある時先生が後ろから近づいてきて自分のオーバーをかけてくださった。普段厳しいだけに涙がじっとたまってきましてね。(山田五十鈴)

  自分が朝一番先に撮影所に行ったと思ったら、真っ暗な中に監督が一人で座っていました。(山路ふみ子)

  とにかく戦後の民主主義というものはね、あの人まあつかめなかったね。階級意識が強かったよ。どこか官尊民卑の考え方があった。(川口松太郎)〔ベニス映画祭の時に溝口が日蓮上人の画像を持ち歩いていて、審査発表当日は必死で祈っていたことなどは依田義賢や田中絹代も触れている。〕

  「雨月物語」のある有名なシーンを撮り終えた時、緊張が解けてどっと疲れが出ました。普段は撮影中にタバコなど呑む余裕はないのですが、ほっとした森雅之さんがタバコを周りの人から1本もらった。しかしマッチがない。それを探すそぶりをした。そこへ溝口監督がたったと走って近づいてライターで火をつけてあげた。その顔はこの上もなく満足げでした。初めて俳優に平伏したという感じでした。(京マチ子)

  「楊貴妃」は溝口さんのまったく知らない世界なので戸惑っていた。正直に狼狽して、正直にめちゃくちゃなことをやっていた。そこがまた溝口さんらしい。  自分の分からない不得手なものにあったら最後、逆上して分からなくなってしまう。大騒動になっちゃう。(増村保造、監督)

  女性関係では人生の下積みで苦労したような人に特に興味を持たれ、関係されたりしていたわけですけど。(新藤兼人)

<その他>
  どうにもならない役者の持ってるものってありますよ。「そこんとこテンポもう少し上げてリズミカルに」なんて言ったってね、その役者にはそれはできない。別の良さはあるけれども、それはできないというものはありますね。それを持っている役者ははじめから持っていて、つーと言えばつーと。それが良い悪いじゃなくてね。AならAの持ち味と、Bの持ち味を組み合わせてゆく、そこにまあ演出があるわけですわね。(小沢栄太郎)

  「近松物語」の時、歴史劇は初めてで京都弁も裾の長い着物の引きずり方も分からない。浪花千恵子さんに頼み込んでいろいろ教えてもらいました。浪花千恵子さんは付きっ切りで教えてくれました。(香川京子)

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