寄せ集め映画短評集 その14
パソコン内をあちこちひっくり返していたら「寄せ集め映画短評集」の原稿がまだ残っているのに気づきました。とっくに使い切ったと思っていたのですが。もう3、4年前の古い原稿なのですが、一般に知られていない韓国映画の古典が何本か含まれているので、一部手を加えてあえて載せることにしました(ほとんどは本館HP「緑の杜のゴブリン」に既に入っています)。これで本当に打ち止め。もう逆さに振っても何も出ません。
「朴さん」(1960年、カン・デジン監督、韓国)
予想をはるかに上回る傑作だった。「誤発弾」と同じでまるで日本映画を観ているようだ。音楽といい話し方といい家族を中心にした人情話的ストーリーといい、どこを取ってもかつての日本映画そっくりだ。昔の韓国映画は日本映画から多くを学んだという印象は確信に近いものになった。
何といっても朴さんの頑固親父振りがいい。こういう頑固親父も昔の日本映画にはよく
出てきた。親孝行の息子と娘2人の三人の子供がいる。それぞれがほぼ同時に恋愛をしている。しかし息子が嫁を取るのは歓迎するが、娘たちが男と付き合うのは断固許さない。娘をあばずれとののしり、挨拶に来た男たちを追い返えそうとする。長女は元やくざと付き合っている。彼はやくざから足を洗い、車の免許を取って運転手になってまじめに働こうとしている。それでも、あれはやくざものだからと朴さんは娘の交際を認めない。次女は会社の上司と恋愛中だが、相手は良家の息子で、その叔母から身分違いだと言われ、朴さんは腹を立てる。ティーバッグの飲み方を知らなかったためにその叔母に笑われる。朴さんは子どもたちを大学にやれなかった自分を悔やむ。
息子は親孝行で順調にやっていたが、社長に見込まれてタイ支店の初代店長に抜擢された。息子は行きたいと思うが父親を残してゆくのが心配だ。果たして父親は反対する。そうこうするうち長女は業を煮やして駆け落ちしてしまう。次女は恋人が徴集されて軍隊に入り、その叔母のちょっかいで結婚が難しくなっている。家族がばらばらになりそうな状態だったが、例の次女の恋人の叔母からバカにされた反動で、朴さんは息子に出世をしろとタイ行きを許す。
息子の結婚式の場面は感動的だ。父親に世話ができなくてすまないと泣きながらわびる息子を朴さんが慰める。今日は父さんと寝たいというファザコン的せりふも出てくるが、ここは親を大事にする韓国の伝統の延長線上にあると解釈すべきだろう。最後は飛行場で息子を見送った後、一足早く飛行場を出た朴さんが道を歩いて帰る場面で終わる。
息子が去ってゆく悲しみを抑えながら、何とか頑張って生きてゆこうと決心する。帰ってくる時には孫の2,3人も連れてこいよとつぶやきながら。この頑固親父を時には叱り、時にはあきれながらいつもそばにいて支えている妻もなかなかいい。どこにでもいる妻/母親だが、この頑固親父とうまく付き合っているところがほほえましい。
日本映画もこの種のホームドラマがなくなって久しい。韓国映画でも事情は同じだろう。この映画を観て良質の現代的ホームドラマを観たくなった。家族がどんどん小さくなったために絶えてしまったジャンルだが、この映画は今でも色あせていない。
「リメンバー・ミー」(2000年、キム・ジョングォン監督、韓国)
韓国映画得意の恋愛映画だが、傑作とはいえない。まあ、あまり期待もしていなかったが。「イルマーレ」と同じような時空を超えた超自然的な恋愛ドラマだが、「イルマーレ」は手紙が媒介で、どこから配達されるのか最後まで分からない。謎のままで終わっているために、逆に破綻がない。「リメンバー・ミー」は無線が媒介だ。1978年ごろの世界に住む女性と1999年の世界に住む男性が無線でつながってしまう。互いに住む時代が違うのだから、交信できるのは何らかの超自然的な現象だということになる。まあ、一種のファンタジーだからそんなことはどうでもいい。
「イルマーレ」と違うのは、「リメンバー・ミー」では、1970年代にいた女性が2000年にも生存していて、ヒーローと中年になったヒロインが最後に出会う点である。これが興醒めだ。「イルマーレ」のように最後まで謎を残しておくべきだった。2000年には40代になっているはずの女性がメガネをかけただけで少しも老けて見えないのも不自然だ。「黒水仙」でも同じことがあった。顔や若さにこだわっているようじゃ本物の役者とはいえない。「イルマーレ」の様な青色を基調にした色彩感覚や寒々とした映像の魅力もない。ヒロインがどこか軽薄で共感できない。最後の3分の1はそれでもぐいぐい引き込む力があったが、最後に2人が出会う設定に問題がある。
無線を通して主人公2人は次第に惹かれあうのだが、それぞれが自分の世界に恋人がいるという設定が「イルマーレ」と違っていて、かつ工夫を感じるところだ。ヒロインが思いを寄せている相手が実はヒーローの父親であり、母親はヒロインの友達だったという設定も悪くはないが、そのことが双方に引き起こす苦悩が十分掘り下げられていない。「イルマーレ」は最後まで主人公2人の接点はないわけだが、「リメンバー・ミー」は接点を持たせることでファンタジー性を弱めている。「イルマーレ」と比べると「リメンバー・ミー」はテレビ・ドラマに近い感じがする。
「MUSA武士」(2001年、キム・ソンス監督、韓国・中国)
てっきり韓国映画だと思っていたら、韓国と中国の合作だった。高麗の使臣団として明に派遣された一団がスパイ扱いされ流刑にされる。そこに蒙古軍が襲撃してきて明の軍隊を全滅させる。しかし朝鮮民族に恨みはないと彼らの命は見逃す。一団は朝鮮に帰ることにし、砂漠を横切る。しかし蒙古軍が明の姫を捕虜にしていることを知り、彼らは彼女を助けて恩を売り、明の王に拝謁を願おうと考えた。蒙古軍を襲撃しまんまと姫を救う。しかし蒙古軍は姫を取り返そうと追撃してくる。途中漢民族の難民に出会い、姫の意見でやむなく彼らも一緒に連れてゆくことになる。海辺の砦に明の軍隊がいるという姫の意見で一団はそこに向かうが、着いてみると砦には誰もいなかった。そこに蒙古軍が迫り、最後の一戦を迎えることになる。あまりの犠牲者の多さに姫のせいだと責める漢の難民たち。しかし朝鮮の軍隊は最後まで決戦に挑む。激しい戦闘の結果どちらもほぼ全滅。生き残ったのは姫と一人の州鎮軍戦士チン・リプ(アン・ソンギ)、そして数人の難民たちだけだ。チン・リプは船に乗って朝鮮を目指して去ってゆく。
予想以上に迫力のある戦闘場面だった。ストーリーもそれほどご都合主義的ではない。期待以上のいい映画だった。武器が中国のものと似ているせいか、全体に中国の活劇のようだ。日本のように剣を二本の腕で正面に構える方が特殊なのかもしれない。ただし、中国映画のようにワイヤーアクションで空を飛んだりはしない。その分はるかにリアルだ。何となくB級映画だと思っていたが、意外な収穫だった。戦士たちが精悍で、姫役のチャン・ツィイーも相変わらずかわいい。何と言っても姫さまだもの。
明、高麗、元という三つの国が交錯する歴史ドラマだが、使臣団と高麗軍の内部にも対立がある。槍の達人ヨソル(チョン・ウソン)は使臣団副使の奴隷だった。副使が死に際に彼を奴隷から解放したが、その後も他の兵隊からさげすまれている。使臣団の責任者は龍虎軍の将軍チェ・ジョン(チュ・ジンモ)だが、しばしばミスを犯し、指揮をチン・リプに譲る。エリート軍団である龍虎軍にお対し、州鎮軍は下級武士部隊である。立派な鎧を着けた龍虎軍に比べると州鎮軍はみすぼらしい黒っぽい服を着ているだけだ。しかし州鎮軍は一人ひとりが優れた特技を持ち、特にその隊長であるチン・リプは優れた戦略家でもある。彼らは下級武士とさげすまれているが、龍虎軍は林の中での元軍との戦いで将軍のチェ・ジョンを除いて全滅してしまい、最後に残った兵士は州鎮軍だけである。国同士の争いの中に高麗国内の身分問題を描きこみ、ストーリーに奥行きを与えている。解説を読まないとこのあたりの事情はよく分からないのだが、決しておざなりの付け足しではない。
「ハンネの昇天」(1977年、ハ・ギルジョン監督、韓国)
もっとシュールな映画かと思っていたが、民族色豊かな、というより土俗的な作品だった。マニョンは仙女滝の下で一人の女性を助ける。天女のように美しい女でハンネと名乗った。マニョンには彼を好いている村の女がいるが、彼女はハンネに激しく嫉妬する。丁度村祭りの直前でよそ者のハンネは村にたたりをもたらすと村人たちは彼女を快く思わ
ない。やがてハンネはマニョンの死んだ母親とそっくりだということが分かる。また村の外にマニョンが出かけたとき出会った女もハンネそっくりだった。誤ってその女をマニョンは殺してしまう。しかし村に戻るとハンネはいつも通りそこにいた。
祭りが始まり、祭主が一人こっそり抜け出してハンネの所に押し入り彼女を犯してしまう。実は20年前にも彼はマニョンの母親を犯していた。マニョンの母親は仙女滝から飛び降りて自殺してしまった。マニョンは祭主に飛び掛かるが、祭主はマニョンにお前の父親は自分だと告げる。マニョンはハンネを追うが、ハンネは仙女滝から飛び降り、彼も後を追ったと思われる。
なんとも不思議な輪廻転生の話だが、手塚治虫の『火の鳥』に出てくる八百比丘尼の話を連想させる。解説には「土俗的な輪廻転生譚を通じて”袋小路”にある時代状況を観念的に表現している」とある。村の祭りは摩訶不思議な祭りだ。モンゴルか中国の少数民族の祭りのように銅鑼や太鼓をジャンジャン鳴らして練り歩く。お面の形も独特だ。韓国にこんな祭りがあったとは。やはり日本と違って大陸につながっているだけあって、大陸的な祭りだ。村の女がオカメ面ばかりなのがおかしい。だからハンネは飛び切りの美人に見える。マニョンが天女かと思うのも無理はない。
「長雨」(79年)同様民族色が濃い映画だが、こちらも77年の映画で、「長雨」と製作時期が近い。偶然か。それともこの時期なにかこのような映画を作らせる何かがあったのか。先ほどの解説では「袋小路」に入っている時代状況が背後にあるという説明になっている。確かにどこか観念的なところがあるが、伝説や昔話にはこのような話は珍しくない。もっと違う事情が背後にありそうだ。
主人公が昔の宍戸錠のようにほっぺたが異常に膨らんでいるのがおかしかった。祭主役はこれまでも何度も見かけたファン・ヘ。大分老けていたのですぐには気づかなかった。
「H」(2002年、イ・ジョンヒョク監督、韓国)
韓国版「羊たちの沈黙」という宣伝文句通り似た設定になってはいる。しかし獄中の殺人犯(「ラブストーリー」で好青年を演じたチョ・スンウが扮している)の位置づけが違う。彼は警察にヒントを与えるのではなく、彼が逮捕された後も続く連続殺人事件を陰で操っているのだ。
作品の雰囲気は予想通り「カル」と同じで血なまぐさく、不気味さを漂わせている。謎解きは二重三重に入り組んでいてそれなりに最後まであきさせない。獄中の殺人鬼を演じたチョ・スンウは不気味さには欠けるが、謎めいたせりふと謎めいたそぶりで刑事たちと観客を煙にまいている。女性刑事を演じたヨム・ジョンアは終始きつい顔を崩さない。事件に絡んで恋人だった刑事が自殺しているからだが、それにしても終始しかめ面では今一魅力に欠ける。もっとも、DVD付録のメイキングではきつい訓練に音を上げて泣き出す場面が映されていて(あまりに情けなくて途中で止めてしまったが)、それと比べれば精悍な(女性に使うのも変だが)刑事像をうまく演じてはいる。「カル」にも出ていたらしいが、まったく印象はない。もう一人の直情型の刑事役を演じるチ・ジニは型どおりの演技。
真相は見てのお楽しみとするが、相当無理な設定であるとだけ言っておこう。先行するアメリカ映画から色々学んでそれを乗り越えようと努力しているのは分かるが、その結果無理な設定を持ち込んでしまっている。この点に難があるが、全体としては平均以上の出来である。
ところで、韓国の俳優は、男優にせよ女優にせよ、日本人の俳優に似ているのはどうしてか。ヨム・ジョンアは秋野暢子似だ。ハン・ソッキュは歌手の小田和正そっくり。「殺人の追憶」のキム・サンギョンは渡部篤郎に似ていた。イ・ヨンエは奥菜恵に瓜二つだし、「ほえる犬は噛まない」のペ・ドゥナは坂井真紀似だ。他にも何人もいる。日本でも韓国でも同じような顔が好まれるということか。
「SSU」(2002年、イ・ジョングク監督、韓国)
韓国海軍所属の海難救助隊の話だが、作りは「シュリ」によく似ていた。男女の恋愛を主軸に、ラストは悲劇的な結末を迎える。いかにもさあ泣いてくださいという作りだ。前半はとても軍隊の話とは思えないほど恋愛中心の話になっている。幼馴染のジュンとテヒョンは同期のスジンを共に愛してしまう。その三角関係が中心に描かれる。やがてテヒョンが先にスジンを好きになったことを知ったジュンは、自ら身を引く。しかしスジンの思いはジュンに向けられていた。
スジンはイギリスに行くが、数年して少佐になって戻ってくる。彼らの直属の上官になった。出世欲にかられ無理やり潜水記録に挑ませようとする上官や、落ちこぼれだがジュンとテヒョンに反抗的な部下の存在が複線として描かれる。いかにも常道的な作りだ。
事故で潜水艦が沈没。救助隊はその救助に向かう。潜水艦の乗組員を潜水艇に乗り移らせるが、潜水艇の定員オーバーのためスジンは例の反抗的な部下と二人で潜水艦に残る。しかしその直後潜水艦がさらに深いところまで滑り落ちてしまう。ジュン(名誉欲にかられた上官の無理な命令に背いたため営倉に入れられていたが、救助のために刈り出される)とテヒョンたちが救助に向かう。しかしジュンはスジンを忘れるために無理な潜水訓練を続けていたため潜水病になっていた。スジンは助かったが、引き上げる際にジュンとテヒョンのパイプが絡まってしまう。ジュンは潜水病のため瀕死の状態だった。上官はパイプを切断せよと迫る。迷った末にテヒョンはパイプを切断する。このあたりはまさに「シュリ」を思わせる。潜水してはならない体になっていたジュン。スジンを助けるためにジュンはもぐり英雄的な死を迎える。いかにもという作りになっている。しかし確かに後半部分は緊張が高まりぐっと観客を引き寄せる力を持っている。キネ旬のベストテンでは選外だったが、決して悪い作品ではない。しかしあざとい展開だと言わざるを得ない。
「荷馬車」(1961年、カン・デジン監督、韓国)
前半はやや退屈だが後半はよかった。馬車引きの父親が雇い主の車にはねられ足を怪我してしまう。雇い主は車の心配はしても馬車引きの心配をするどころかぼんやり歩いているからだと怒鳴りつける。息子が抗議に行っても礼儀知らずだといって追い返す。社会的地位の問題があらわに描かれている。災難は続く。口の利けない長女は夫に暴力を
振るわれ家に逃げ帰っていたが、父親からは情けないと言われ、ついに自殺する。次女は男にだまされ捨てられる。次男は盗みをして警察に捕まる。頼りは長男だけだが、司法試験の結果が出るまで何ヶ月もかかる(勉強部屋の壁に「考査突破」の張り紙が貼ってあるのが日本と同じで笑ってしまう)。
長男は父親に代わって荷馬車を引く。司法試験の発表の日、長男は合格していた。発表会場の前に家族全員が集まる。父親に親切にしていた雇い主の家の家政婦も来ている。息子にお母さんになってほしいといわれ、彼女は父親に寄り添う。
長男の司法試験合格ですべてが解決してしまう結末にはあっけない感じがするが、見終わったときにはいい気分になれる。ホーム・コメディのジャンルに入る作品だが、社会の底辺に生きる人たちを温かい目で描いている点に共感できる。
「夜歩く男」(1948年、アルフレッド・ワーカー監督、アメリカ)
「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。48年の映画だが、画質は心配したほど悪くはない。内容もなかなかだ。ジャケットの「アメリカン・リアリズムの傑作」という言葉に惹かれて買ったのだが、確かによく出来た犯罪捜査ものだ。リアリズムというのは大げさな感じもするが、ロサンゼルスで実際に起こった事件を元に忠実に再現しているからだろう。犯人は最初から出てくる。いわゆる倒叙ものだ。犯人役のリチャード・ベースハートがなんとも不気味な雰囲気を出している。
警察官が不審な人物を尋問中に銃で撃たれた。現場には何の手がかりも残されていなかった。犯人の男は電気技術に詳しいことぐらいしか分からない。その男は盗品を自分の手作り品だとして売っていた。ところがある時その商品を見た客が、これは自分が作ったもので盗まれたものだと言ってきた。そこから警官殺しと盗品転売事件が結びつき始める。警察は盗品を売りにきた男を呼び出し、二人の警官を張り込ませていたが、犯人は警官を撃ち殺して逃走する。彼は地下の排水路を利用して逃げていた。犯人の男はその後も強盗事件を繰り返す。警察は目撃者を集めてモンタージュを作る。今ではおなじみのモンタージュ写真だが、どうやら当時としては初めての試みだったようだ。
ようやく犯人の身元が割れ、犯人の家を警官が取り巻く。犯人は事前に察知し地下排水路に逃走する。真っ暗なトンネルの中で懐中電灯だけがきらめくシーンはなかなかよく出来ている。結局犯人は追い詰められ射殺される。79分の短い映画で地味な配役であるためほとんど知られていなかったが、ちょっとした「幻の傑作」である。監督はアルフレッド・ワーカー。まったく知らない。冒頭の犯人が電気店に押しこもとする辺りの描写は壁に映る影の効果をうまく使っており、ドイツ表現主義映画の影響も感じられる。
「ファインディング・ニモ」(2003年、アンドリュー・スタントン監督、アメリカ)
なかなかよく出来たアニメだ。「モンスターズ・インク」「シュレック」とアメリカ製アニメのレベルはこの2、3年で頂点に達している。CDによる映像はもう実写と比べてもさほど見劣りしない。色鮮やかで美しい珊瑚礁の海底を見事に再現している。しかもアニメだけに実写では映せない描写も可能だ。その力がもっとも発揮されるのはキャラクターの創造だ。実物に似せながらも独特のキャラクターをもった登場人物(登場魚?)の創造。記憶喪失の魚、魚は友達だと言うサメ、まるで漫画のようなタコ。アニメの力がもっとも発揮されるのはこのキャラクターの創造だろう。
ただ主題とストーリーはあくまで子ども向きだ。父と子の愛情が主題であり、さらわれた子どもを必死で探す父親の冒険がストーリーの中心だ。ただ、ニモは人間にさらわれ、地上に連れ去られている。海に住むクマノミが地上の息子を取り戻すにはかなり無理をしなければならない。アニメだからこそその障害を軽々と越えられる。勢い物語はファンタジーの世界に入る。そういう意味でやはり子ども向きのアニメなのだ。
もちろんファンタジーやアニメがすべて子ども向きとは限らない。トールキンの『指輪物語』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は大人の目線で見ても見劣りしないファンタジーだ。前者は大人の知識があってこそ十分その物語を楽しめるようになっている。映
画版「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズはそうでもないが。しかし後者は大人の知識を必要としないように思える。にもかかわらず大人の想像力を刺激して止まない。『不思議の国のアリス』と「ファインディング・ニモ」の違いはどこにあるのか。おそらく前者のナンセンスを支えている皮肉や風刺の質に秘密があるのだろう。『不思議の国のアリス』の風刺は『ガリヴァー旅行記』の風刺とどこか通じるものがあるに違いない。それがおそらく「ファインディング・ニモ」には欠けているのだ(同じアメリカのアニメでも「シュレック」にはディズニー・アニメに対する皮肉が込められている)。だが、だからといって「ファインディング・ニモ」がつまらないわけではない。大人も十分楽しめる。ただ楽しめばいいのだ。毒がないのだからそうするしかない。
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