クラッシュ
2004年 アメリカ 2006年2月公開
監督:ポール・ハギス
原案:ポール・ハギス
脚本:ポール・ハギス、ボビー・モレスコ
撮影:J・マイケル・ミューロー
プロダクションデザイン:ローレンス・ベネット
衣装デザイン:リンダ・M・バス
編集:ヒューズ・ウィンボーン
音楽:マーク・アイシャム
主題歌:キャスリーン・ヨーク
出演:ドン・チードル、マット・ディロン、サンドラ・ブロック、ウィリアム・フィクトナー
ジェニファー・エスポジート、ブレンダン・フレイザー、テレンス・ハワード
クリス・“リュダクリス”・ブリッジス、サンディ・ニュートン、ノーナ・ゲイ
ライアン・フィリップ、ラレンツ・テイト、キース・デヴィッド、マイケル・ペーニャ
ロレッタ・ディヴァイン、ショーン・トーブ、ビヴァリー・トッド、トニー・ダンザ
バハー・スーメク、アシュリン・サンチェス
タイトルの「クラッシュ」は実に多義的だ。基本の意味は「衝突」。車の追突事故で始まり、追突事故で終わる。「衝突」はまた人種間や夫婦間などの様々なレベルの衝突・対立も意味している。レストランで同じ黒人の女性ウェイトレスに1時間以上も注文の品を待たされた黒人の若者たち。白人の客に対する対応と違うじゃないかと散々毒づく。因縁をつけて女の体中を触りまくる人種差別主義者の白人警官ライアン巡査(マット・ディロン)。「クラッシュ」にはまた「破滅、倒産」の意味もある。被害者意識に凝り固まったペルシャ人の商店主ファハド(ショーン・トーブ)。しょっちゅうアラブ人に間違えられてはからかわれ、いつもいらだっている。店の鍵だけ直してドアそれ自体の修理を怠ったばかりに何者かに店をめちゃくちゃに荒らされてしまう。弱り目に祟り目で、ドアの修理をしていなかったために保険も下りなかった。商店主ファハドは鍵屋のダニエル(マイケル・ペーニャ)を逆恨みして、彼を銃で撃つ。しかしその直前ダニエルの娘のララ(アシュリン・サンチェス)が父親に抱きついてきた。ファハドは自分のしでかしたことの重みに呆然とたたずむ。そこには、もう1つの「クラッシュ」の意味「麻薬が切れた時の虚脱感」が込められているのかもしれない。
移民が多くまた犯罪の絶えない街、ロサンゼルス。「クラッシュ」は同時並行的に何組かの登場人物が互いに絡み合う群像劇である。映画の中ではあちこちで人や車が衝突している。人々の間には絶えず不信感と警戒心が渦巻いている。登場人物たちはいつも何か にイラつき、他人とぶつかり合い、互いを傷つけまた傷つけられ、何かを奪いまた何かを失い、自暴自棄になり、または怒りに身を震わせ、あるいは呆然とたたずんでいる。いらだち、怒り、不安、焦燥感、不信感、虚脱感。裕福な暮らしをしているにもかかわらず絶えず神経がささくれ立ち、付け替えたばかりの玄関の鍵を明日の朝また新しいものに付け替えて欲しいと地方検事の夫リック(ブレンダン・フレイザー)にしつこく要求する神経質な妻ジーン(サンドラ・ブロック)。たまたま車に乗せた黒人の若者がポケットから何かを取り出そうとしたとき、不安に駆られとっさに銃で撃ってしまったハンセン巡査(ライアン・フィリップ)。この映画には警官あるいは警察関係者が多く登場する。ほとんど登場人物の3分の1近くを占めているのではないか。だが、ばたばたと悪人を撃ち倒してゆく颯爽とした英雄のごとき「正義の」警官は一人も登場しない。皆苦悩に顔をゆがめ暗い顔でうつむきがちになっている。ハリウッド大作映画のように激しい銃撃戦もなければ、派手な爆発や破壊もない。終始重たく沈鬱な空気が映画を覆っている。
にもかかわらず、この映画を観終わった時に感じるのは絶望感ではない。むしろ深く重い感動が身をつつむ。様々な対立や犯罪や自暴自棄な行動が描かれるが、死者は一人しか出ない。憎しみや感情の行き違い、差別意識や汚い裏取引が描かれるが、映画はそれらの人々を冷たく突き放して描くのではなく、人間の弱さや、皮肉な運命に翻弄されながらも何とか這い上がろうともがく姿を共感を込めて描いているからだ。そこに「クラッシュ」のもう1つの、そしてもっとも重要な意味がある。それは映画の冒頭で語られる。語るのはこれまた警察関係者、グレアム刑事(ドン・チードル)である。
「街を歩けばよく人と体がぶつかったりするだろ?でもロスじゃ触れ合いは皆無。人々はたいてい車の中にいる。でも触れ合いたいのさ。ぶつかり合って何かを実感したいんだ。」
似たようなタイプの映画に「21g」がある。絡まりあう人間関係がどろどろの出口のない方向へどんどん落ちてゆく「21g」に対し、「クラッシュ」は運命に冷酷に翻弄される人々を描きながらも、結末をどうにもならない絶望的な方向へと持っていかなかった。黒人女性にセクハラした人種差別主義者の警官は、同じ女性が車の事故で危うく死にかけたところを必死で救った。ファハドに銃で撃たれた鍵屋の娘ララは、銃でも撃ちぬけない「透明のマント」によって救われた(比喩的な意味でだが)。前夜、銃声におびえてベッドの下に隠れていたララに、父のダニエルが昔天使にもらったものだと言って、「”何も通さない”透明のマント」を娘に渡していたのである。この二つのエピソードは映画全体の中でもとりわけ印象的、かつ象徴的な場面である。「クラッシュ」というタイトルに込められたもっとも重要な意味、それは衝突や対立ではなく「触れ合い」だった。この映画は「ランド・オブ・プレンティ」同様、9.11後の、方向性と自信を見失い、憎しみや怒りばかりが掻き立てられ、絶えず不安に悩まされてさいなまれているアメリカ人の、いらだちささくれ立った心に捧げられたレクイエムなのである。
群像劇である「クラッシュ」が優れているのは一つひとつのエピソードに力がある点だ。単純に不幸だったり幸せだったりするものは一人もいない。善人が罪を犯し、いやな奴に見えた人物にも意外な別の面がある。そういう描き方をしている。典型は人種差別主義者のライアン巡査。裕福な黒人夫婦、TVディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)とその妻クリスティン(サンディ・ニュートン)に難癖をつけて車を止めさせ、妻の体を触りまくった男だ。しかしそんな彼も家に帰れば、病弱の父親をかいがいしく看病している優しい息子である。それだけではない。映画のクライマックスの1つは、このライアン巡査とキャメロンの二度目の出会いである。キャメロンが事故を起こし、さかさまになった車に取り残されているところにたまたまライアン巡査が通りかかったのだ。
彼の行動はすばやかった。運転席にもぐりこみ運転者を助けようとする。その時キャメロンは相手が前日に自分の体を触りまくった巡査だと気づきパニックになる。しかしこの時のライアンは最後まで職務に忠実な勇気ある警官として行動した。おびえるキャメロンをなだめ、もれたガソリンに火が付きそうになる緊迫した状況の下で、必死に彼女を固定しているシートベルトを切ろうとする。ガソリンに引火して車が爆発する直前に彼女を助け出す。この作品の中で最も緊迫した壮絶なシーンだ。身の危険を顧みず必死で彼女を救ったライアンの行為に、キャメロンのかたくなな嫌悪感は消えていた。二人は思わず抱き合う(DVDのジャケット写真になっているのがこの場面)。ここにも「触れ合い」があった。
一方、ライアン巡査の相棒だったハンセン巡査(ライアン・フィリップ)には皮肉な運命が待っていた。正義感の強い彼はあまりのライアンの差別的行動に嫌気がさし、パートナー をはずしてもらった。だがこの正義漢はライアン巡査とは逆に転落して行った。上で触れた、誤って黒人の若者ピーター(ラレンツ・テイト)を射殺してしまったのは彼だったのである。撃たれたピーターもまじめな若者ではなかった。彼は仲間のアンソニー(クリス・“リュダクリス”・ブリッジス)と白人の車を奪って売り払おうとしたのだ。アンソニーは非常に被差別意識が強い男で、白人に深い恨みを抱いていた。1台目が売れなかったために彼等はもう1台小型トラックを盗んできたが、なんと荷台には不法入国と思われる東洋人が何人も乗っていた。ディーラーは、車はいいからこいつらを売り飛ばそうと二人に持ちかける。今度は人身売買にかかわりそうになる。しかし彼等は結局東洋人たちを売らなかった。街中で彼らを解放する。彼等は非道な人間になる一歩手前で踏みとどまった。
もちろんこれだけではまだ人間描写として単純だ。登場人物たちの人間関係やエピソードが複雑に絡み合わされた時、映画の全体像は非常に複雑な様相を帯びる。これが成功した。近頃この手の群像劇が急増しているが、「クラッシュ」はそれらの中でも最も成功したものの1つである。複雑な群像劇の狙いは大きく二種類あるだろう。話を複雑にしてその意外な接点や入り組んだストーリーの展開自体を楽しむタイプ。クエンティン・タランティーノ監督「パルプ・フィクション」、ロドリゴ・ガルシア監督「彼女を見ればわかること」、ガイ・リッチー監督の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」と「スナッチ」、ジョン・クローリー監督の「ダブリン上等!」等々。群像劇を得意とするロバート・アルトマンの「ナッシュビル」、「ショート・カッツ」、「プレタポルテ」、「ゴスフォード・パーク」、あるいは日本の三谷幸喜監督「THE有頂天ホテル」やちょっと変り種だが内田けんじ「運命じゃない人」などもこのタイプに入るのではないか。これに更に行き詰まり感を加えたのがアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「アモーレス・ペロス」と「21グラム」。この2作はもう1つのタイプに近く、人間描写がぐっと色濃くなる。もうひとつのタイプは社会の縮図として人間関係を重層的にあるいはパノラマ的に描き、そこに様々な社会問題を入れ込むもの。ポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」、ラモン・サラサール監督の「靴に恋して」、ジョン・セイルズ監督の「カーサ・エスペランサ」、ダニエル・プルマン監督の「僕と未来とブエノスアイレス」、山崎貴監督の「ALWAYS三丁目の夕日」等々。思いついたものを挙げただけでもかなりの数だ。うまくいけば非常に見ごたえのあるものになるし、脚本家の腕の振るいがいもあるので好まれるのだろう。
監督、脚本のポール・ハギスは「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本家。監督としての腕もなかなかだが、やはりこの複雑にして濃厚な脚本がしっかりしている。脚本家としての腕は一流である。「クラッシュ」は上の分類で言えば、当然後者である。人種差別、性的虐待、貧富の格差、人身売買などの社会問題を描きこみ、さらに車社会、銃社会になっている現状も象徴的に取り込んでいる。車という閉ざされた空間に閉じこもって社会との接触を避け、信用できない他人から身を守るために銃を持たざるをえない社会。その不安に満ちた社会の中で不安に身を縮め、それでも人間的ぬくもりを得ようともがく個人。もがいても這い上がれない人々、裕福でも心の満足を得られず絶えず不安に悩まされる人々。孤城と化した車はたびたび他の車と衝突する。皮肉なことにぶつかり合いが心のすれ違いを生む。
個人と外界を隔てているのは車だけではない。人々の中にも壁がある。例えば人種差別という壁。グレアム刑事(ドン・チードル)に裏取引を持ちかけたフラナガン検事の言葉が印象的だ。検事である彼は黒人が社会的に不利な立場にあることを一応認める。しかし、それで も「黒人は根本的に犯罪に手を染めやすい、事実無根かも知れないが、ついそう思ってしまう」と語る。警察関係者が多く登場するのは偶然ではないだろう。警察の中にも差別意識を持っている者がいる。何という世界にわれわれは住んでいるのか。そういう問題提起があるだろう。しかしそれもライアン巡査とハンセン巡査の描き方を見ればそう単純ではない。ライアンがハンセンに「お前も何年か警官をやっていればわかる」と言った言葉が重くのしかかる。経験の少ないハンセン巡査が不用意に黒人青年を乗せてしまったことが彼をとんでもない窮地に陥れた。だが、ライアン巡査が理想の警官像というわけでもない。ライアンは確かにロスで警官として命を落とすことなく任務を全うする智恵と経験を持っている。その智恵と経験は多くの人と接し、何度も危険をかいくぐってきたことで得たものである。いわゆるたたき上げの持つ強みだ。だが、差別意識を払拭できなければ、彼もフラナガン検事のようになってゆく可能性がある。
ドン・チードル演じるグレアム刑事、この映画で最も苦渋に満ちた表情を浮かべていたのは彼である。憂いに沈み複雑な顔でじっと前を見つめる彼の表情は、アメリカの苦悩の象徴のように思える。彼の悩みの1つは弟に関するものである。恐らく彼の弟は死刑囚なのである。母親からは何とかして弟を救い出して欲しいと会うたびに言われている。フラナガン検事が持ちかけてきた裏取引は、ある警官の不祥事を見逃してくれれば弟を何とかしてやろうというものだった。正義を取るか、弟を取るか。彼は決断した。しかし彼の出した結論はまた別の悩みを引き出した。彼の苦悩は続く。最初と最後に出てくる彼の姿、ロスでは珍しい雪の降る中でじっと前を見てたたずむ姿。彼の前にはハンセン巡査に撃たれたピーターの死体が横たわっている。
死体を前に立っている、己の悩みに苦しむ刑事。なんとも象徴的だ。立ちすくんでいる彼はどの方向に歩みだすのか。コリン・デクスターの『ウッドストック行最終バス』(早川文庫)に「自殺は非常に多くの他の人々の生活にかかわることだ。重荷は捨てられたのではなく、一人の肩から他の人の肩に移されただけだ」という言葉がある。完璧な人間などいない。誰もが欠点や弱さを持っている。したがって悩みもある。だからこそ「触れ合う」ことが必用なのだ。重荷を分かち合うことが必用なのだ。車の中に閉じこもっていては何も変わらない。本気でぶつかり合うことが必用なのだ。ライアン巡査が車から救い出したキャメロンと抱き合うシーンは象徴的である。ダニエルが娘のララを抱きしめるシーンと共に心に残る。暗い表情で前を見つめたたずむ男と二組の抱き合う人々のイメージ、苦悩と希望、この二つのイメージを共に同じ重みで提起したところにこの映画の際立った特徴と成功の理由がある。
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カゴメさん 本当に久しぶりです。TB&コメントありがとうございます。
「ランド・オブ・プレンティ」の時もそうでしたが、どうやらこの種の映画が一番好みが分かれるようですね。カゴメさんの手厳しい批評にちょっと腰が引けてTBを遠慮していました(汗)。
差別という問題は大きな問題ですから描くのが難しい。問題を深くえぐらなければなりませんが、それを突き詰めると絶望にいたるか、テロリストの論理に近いものになって行きます。あれだけ巨大な国の方向を変えるのは簡単ではありません。
最近の映画はとことん踏み込むことはせずに、問題提起にとどめ最後に希望を示すという描き方をしていますね。したがって「ロード・オブ・ウォー」のようにとことん実態を突き詰めて描いて安易な希望を付け加えない映画の方が、作品としては一貫していると言えるかも知れません。9.11後を描いた一連の映画の中では今のところ「ロード・オブ・ウォー」が最高傑作だと思います。
投稿: ゴブリン | 2006年9月26日 (火) 20:27
ゴブリンさん、お久しぶりであります。
この作品を観て、ここまでアケスケに差別の実態を再現し得るアメリカはたいしたものだと思う気持ちと、
「いやいや、これだって一種の粉飾があるに違いなし」と思う気持ちとが錯綜し、
あんまり素直には受け入れられなかったであります。
まず、西海岸のロスで、事ほど左様に差別が常態化・偏在してるのかなぁぁ、ともちょっと疑問に思えるし。
ただ、仰る通り、群像劇としてはかなりの上作ですね、これは。
ハギスが今度手掛ける「父親たちの星条旗」がいよいよ楽しみになって来ました。
そうそう、実は先ほどまで「ミュンヘン」のレビューを半ばまで書いていたのに、
パソコンの調子が悪くて敢無く“クラッシュ”(泣)。
いずれ傷心が癒えたら書き直すので、その時はTBさせてくらさいませ。
(ちなみにあの作品にはガッカリさせられたですよ。苦笑)
投稿: カゴメ | 2006年9月19日 (火) 15:08
TB&コメントありがとうございます。
そうか、こっちが誤解していたかもしれませんね。でもピーターだと時間的に合わない気がします。でも、死刑囚では母親に会ってから死ぬまで早すぎる気もするし・・・。うーん分からなくなってしまった。もう時間がないので、後でゆっくり考えてみます。
投稿: ゴブリン | 2006年9月17日 (日) 07:32
コメ&TBありがとう。
本当に心を打たれた映画でした。
おっしゃるように、「クラッシュ」というタイトルに多義的な意味が込められていましたね。
ところで、僕は、グレアム刑事の弟のこと、誤解していて、獄中にいるんですね。あの、殺されちゃったピーターが、弟なんだと思ってしまいました(笑)
投稿: kimion20002000 | 2006年9月17日 (日) 03:21
よろ川長TOMさん TB&コメントありがとうございます。
「クラッシュ」とはだいぶ違うタイプですが、「十二人の怒れる男」は古典的な群像劇の代表作ですね。僕も最初に観た時は、もう30年以上前ですが、あのヒューマンな姿勢に感動しました。
法廷を描くと弁護士と検事が丁々発止とせめぎ合うところに焦点が当てられますが、こちらは陪審員ですから群像劇になります。一人ひとりの描き分けと、1対11から12人全員一致の結論に至るまで、息を呑む迫力でした。これほど見ごたえのある映画もそうないでしょう。
「クラッシュ」は同じ群像劇でもずっと複雑ですね。もう昔のように民主主義一本でまとめられる時代ではなくなったのでしょう。社会は進んでいるのか、後退しているのか、複雑な気持ちです。
投稿: ゴブリン | 2006年9月16日 (土) 02:22
毎度です。『W&G』では失礼いたしました。
フト見ると、この作品が新記事としてアップされていたので早速こちらへも押しかけトラバさせていただきました。
私がもっとも大好きな群像劇は『十二人の怒れる男』なのですが、『クラッシュ』は全体がひとつのループになって最初に戻ってくるカラクリの見事さに舌を巻きました。
これをアカデミー賞としたところなど、まだまだハリウッドも棄てたもんじゃないな、と思ってすごく嬉しかったです。
投稿: よろ川長TOM | 2006年9月16日 (土) 01:40