拝啓天皇陛下様
1963年 松竹
監督:野村芳太郎
製作:白井昌夫
原作:棟田博
撮影:川又昂
音楽:芥川也寸志
出演:渥美清、長門裕之、左幸子、高千穂ひづる、中村メイコ、桂小金治、葵京子
加藤嘉、西村晃、藤山寛美、多々良純、小田切みき、北竹章浩、穂積隆信
井上正彦、森川信、清川虹子、山下清
野村芳太郎監督作品は松本清張原作の「張込み」(58)、「ゼロの焦点」(61)、「砂の器」(74)、「疑惑」(82)、大岡昌平原作の「事件」(78)、横溝正史原作の「八つ墓村」、そして棟田 博原作の「拝啓天皇陛下様」(63)の計7本を観た。野村芳太郎監督と聞いてほとんどの人が最初に思い浮かべる映画は「砂の器」だろう。松本清張原作の映画化作品としても群を抜いた傑作であり、ミステリー・サスペンスものを得意としてきた野村監督の代表作とすることに異論はない。しかし、「拝啓天皇陛下様」もまた「砂の器」に匹敵する傑作であり、彼の喜劇作家としての優れた腕前が存分に発揮されている。最初に観たのは87年。文芸地下で観た。かなりびっくりした映画だった。勝新太郎と田村高廣主演の異色兵隊映画「兵隊やくざ」シリーズとはまた違った軍隊コメディ。よくこんなものが作れたと感心したものだ。
「兵隊やくざ」シリーズが勝新の個性と切り離せないように、「拝啓」もまた主演の渥美清の個性と切り離せない。渥美清といえば「男はつらいよ」シリーズだが、その監督の山田洋次は野村監督の門下生である。寅さんを思わせるせりふや所作が何箇所も出てくるのもうなずける。というより、渥美清はどこを切っても渥美清。彼の持ち味は一貫して変わっていないと言うべきなのかもしれない。渥美清は寅さんの前から寅さんだったのだ。
冒頭、就寝ラッパが鳴る。そのメロディに合わせて「新兵さんは可哀想だねェー また寝て泣くのかよォー」と字幕が入る。面白い工夫だ。導入部としてよく出来ている。訓練中の新兵の中に一人だけリズムが合わない男がいる。山田正助(約してヤマショー)。もちろんこれが渥美清の役。この山正、字が書けず読めない。かろうじて使えるのはカタカナだけ。すぐ同じ初年兵の棟本博(長門裕之)と親しくなる。原作者の名前がそのまま使われている。映画の視点は当然棟本の視点であり、彼の目から見た山正の愚直だが共感を禁じえない人生が描かれる。
山正の人物設定がいい。彼は風呂に浸かりながら自分の生い立ちを棟本に語る。3歳で母親を亡くし、以後一人暮らし。父はいない。親戚は鬼みたいでいやな奴ばかり。馬みたいにこき使われ、13歳の時に村を飛び出した。「沖仲仕、炭鉱夫、土方もやったわ。人夫やってる時にけんかしてのう、臭い飯食わされたんじゃ。そのこと思えば軍隊は天国じゃけえ。」棟本「こんなに絞られてもか?」山正「雨降っても三度三度飯食えるしのう。あと2年は天国暮らしじゃ。」あまりに待遇がいいので、日本軍が南京に入城してこれで戦争が終わるらしいと聞いた山正は、天皇陛下に手紙を書いて自分だけでも軍隊に残して欲しいと訴えようとしたほどだ。「ハイケイ 天ノウヘイカサマ」天以外は全部カタカナなのが可笑しい。しかし天皇に直訴するのは不敬罪だと棟本に止められる。
日本の軍隊映画といえば市川崑監督の「野火」(59)、山本薩夫監督の「真空地帯」(52)などに代表される異常ないじめと狂気が渦巻く暗くじめじめした世界というイメージが浮かぶが、山正はいじめなど物ともせず、むしろ飯に困らないから「天国」だと言う。この逆転の発想が新鮮だった。逆に言えば、軍隊にでも入らなければまともに食っていけないという事情が前提にあるわけだ。もちろん軍隊を美化しているわけではない。高田渡の「自衛隊に入ろう」に通じるパロディ映画である。実際「自衛隊に入ろう」にも″自衛隊に入ればこの世は天国″という歌詞が出てくる。そして「自衛隊に入ろう」の最後に出てくる″祖国のためならどこまでも 素直な人を求めます″という言葉、これがまた「拝啓天皇陛下様」の理解を助ける。山正はまさに愚直なほど「素直」な男なのだ。素直すぎて「現実」が見えないからこそパロディが成り立つのである。ある時山正たちの演習を天皇陛下が視察する場面がある。山正は天皇を間近に見て、感動する。「なんと優しい顔してなさるんかいのう。あれじゃあちっとも怖いことありゃせんわい。」この日から山正は天皇に対して親しみを抱くようになった。その感情は最後まで変わらなかった。だからこそ映画の最後に浮かび出る字幕「拝啓天皇陛下様 陛下よ あなたの最後のひとりの赤子(せきし)がこの夜戦死をいたしました」という言葉がなんとも言えない皮肉になるのである。
軍隊のパロディだから暗く陰湿な場面は出てこない。もちろんいじめや「狂気」は出てく る。例えば書類整理をしている浦上准尉(多々良純)のエピソード。いつも上官(穂積隆信)にしかられてばかり。ついに彼は精神の平衡を失い、刀を振り回して上官に襲いかかる。だが、全体にこのエピソードはコミカルなドタバタ調で描かれている。初年兵の時山正たちも二年兵からいじめを受ける。彼らをいじめる二年兵が西村晃扮する原一等兵。しかしそれも決して陰湿なものではなく、むしろ彼の除隊の前日に山正が彼と相撲をとって「あだ討ち」する場面が滑稽に描かれる。そしてそのすぐ後の場面では一気に1年後に飛び、山正たちは二年兵になっている。今度は彼らが初年兵に威張り散らしているのだ。こういう展開はコメディの常道で、いじめも笑いになっている。
したがって軍隊はむしろ人間的に描かれている。その典型が加藤嘉扮する堀江中隊長である。二年兵になった山正はある時酔っ払って門限に遅れ、逆切れして門に小便をかけたため重営倉処分になる。独房で正座して「反省」の日々を送るのだが、なんと独房の中に中隊長も一緒に正座している。寒くて鼻風邪をひきながらも中隊長は正座を5日間続けた。足がしびれた中隊長が立ち上がろうとして転がってしまうあたりは滑稽だが、そこには何とかして山正を真人間にしようという中隊長の真心が描かれている。あるいは中隊長が柿内二等兵(藤山寛美)から字を習えと山正に命令する場面も印象的だ。「お前は文字を知らん。それは人生において甚だ損。学を修めるということは人間が正しく生きる道を学ぶことである。」一等兵の自分が初年兵である柿内二等兵から字を習えるかと最初はまじめに習おうとしないが、柿内の言葉は中隊長である自分の言葉であり、ひいては「畏れ多くも」天皇陛下のお言葉でもあると中隊長に言い含められているので、柿内が「畏れ多くも」と言う度に山正はしぶしぶ従う。
柿内の努力の甲斐あって、やがて山正は「のらくろ」が読めるようになる。「のらくろは可哀想じゃのう。わしによう似てるけんのう。」入隊から2年がたち山正が満期除隊を迎えた日、柿内が言った別れの挨拶がまた感動的だ。「落ち着いたら柿内に手紙をください。二年兵どのはもう手紙を書けるようになっておられます。」軍隊には山正のような食い詰め者や家督を継げない農家の次男、三男が多く入隊していた。中には山正のように無学なものも少なくなかっただろう。パロディの中に野村監督は人情話を巧みに織り込み、また教育の大切さを逆説的に描きこんでいる。この点は見逃すべきではない。
堀江中隊長の描き方はコメディタッチなのでそこはかとない笑いを誘う。人情味のある中隊長なのだが、山正は迷惑顔だ。しかし中隊長は後に中国で戦死してしまう。昭和19年、湖南省長沙で山正は元中隊長、堀江正義少佐の墓参りをする。丘いっぱいに立つ無数の粗末な墓標。その1つが堀江元中隊長のものだった。ここで回想が挿入される。山正と向き合って正座している姿、字を学べと命じている姿、山正にだけ特別に餞別を送る姿、へっぴり腰で訓練の指揮をとっている中隊長の姿。この回想場面が実に感動的なのだ。前に出てきた時と同じコミカルな映像なのだが、荒涼とした丘に立つ粗末な墓標とモンタージュされると正反対の効果を発揮する。山正は墓の前でさめざめと泣く。
天皇陛下に手紙を書いてまで軍隊に残ろうとした山正だが、やがて終戦を迎え彼も除隊する。映画はなおも続く。山正の戦友棟本は一時除隊していた時に「分隊長日記」を書き、一躍流行作家となった。大東亜戦争勃発後は従軍作家として中国を駆け回った。戦 後は茨城県の土浦で妻の秋子(左幸子)と売れない作家として細々と暮らしていた。そこに熊みたいなひげ面で山正が現れる。この後山正と棟本は丁度「浮雲」の森雅之と高峰秀子のように何度も出会いと別れを繰り返す(このあたりの渥美清が一番寅さんに似ている)。その度に山正は職を変えている。夫が戦死した手島の未亡人(高千穂ひづる)に恋をして振られたりするエピソードなどが挟まれる。棟本が最後に山正と出会ったのは東京の立川だった。山正は千住の水道工事の飯場に勤めていた。なんと彼の横には若い女性がいた。おばの飲み屋で手伝いをしていて客の山正と知り合ったという井上せいこ(中村メイコ、若い!)だ。二人は結婚する予定だった。ニコニコとうれしそうな山正。しかし皮肉にも棟本が山正を見たのはこれが最後だった。突然山正の運命は暗転する。戦争が始まるたびにうれしそうに戦場に赴く山正だったが、彼が始めて戦争以外でうれしそうに笑った時、突然悲劇的結末が訪れる。パロディとして始まり、最後は苦いアイロニーで終わる。
人が最も嫌う軍隊こそが唯一幸せが得られる場所という皮肉。彼にとって軍隊は家庭だった。食うに困らない安定した生活、信頼できる友人、家族的なつながり、山正が軍隊に引かれたのはそれまでの彼になかったものがすべてそろっていたからである。軍隊は教育まで与えてくれた。そしてその軍隊の総元締めが天皇だった。彼にとっての天皇とは、そのために一身を投げ打って戦う存在ではない。彼に居心地の良い擬似「家庭」を保証してくれる存在だった。だから彼が戦っている場面は描かれない(あくまで戦争映画ではなく兵隊映画なのだ)。戦闘ではなく、軍隊という居心地のいい組織が彼には必要だったのである。戦争が続くことを彼が願うのは、戦いを望むからではなく、軍隊にいつまでもいたいからである。喜劇化することで軍隊を武装解除し、軍隊を殺人集団、侵略組織ではなく、一種の村社会に変えてしまった。だから山正は戦後も「私は貝になりたい」の主人公のような深い傷を心に負ってはいない。
終戦後、彼はその居心地のいい組織から投げ出されてしまった。軍隊そのものが解体されてしまった。だが、山正は生涯の友と教育を既に手に入れていた。どんなことをしてでも生活してゆける自信もあった。彼は手島少尉の未亡人と結婚したい一心で、華厳の滝から飛び降りた人の死体を引き上げる仕事までやったのだ。それでも、「いるべき場所」を失った天涯孤独の山正は職も住む場所も定まらず、「浮雲」の二人のように漂流し続ける。
彼の漂流が終わるのは本物の家庭を築く時だ。しかしその直前に無残にも彼の命は奪われてしまう。なぜ映画は幸せをつかみかけた彼を死なせたのだろうか。上に引用したように、映画の最後の字幕で彼は天皇の「最後のひとりの赤子」と位置づけられている。つまり、彼の「戦死」とともに確実にあるひとつの時代が終わったのだ。「拝啓天皇陛下様」は終戦からほぼ20年たって作られた。天皇はすでに神ではなくなり、かつての絶対的な権威もなくなった。それでも山正はずっと彼を慕っていた。そうである限り彼は天皇の「赤子」であった。その最後の赤子の死。戦争の時代の息子は最後まで幸福をつかめないまま戦死してゆく運命なのである。
ここに描かれたのは、とにかく生きることに貪欲だった一人の男の一生である。その男の死はひとつの時代の終わりを意味していたが、それでいて新しい時代は見えてこない。われわれは幸福をつかみかけた男の死によって何を失ったのだろうか。それはつらく長い戦争の記憶ではなく、家庭のような人間関係だったのかもしれない。彼にとっての軍隊とはそういうものだったのだから。軍隊という帰るべき場所を奪われ、次に見出した家庭という安定の場も奪われてしまう。最後に映る山正の姿は酔っ払ってふらふら道を歩いている姿である。近くを通る車の音が聞こえるたびに観客はドキッとする。われわれは不安な状況に置き去りにされるのだ。コミカルな映画の苦いラストである。
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tantanmenさん コメント&TBありがとうございます。また、以前から見ていただいていたとのことで、重ねてお礼申し上げます。
本当に豊かな時代の映画だと思います。絶頂期の50年代をすぎ、緩やかな下降線をたどり始めた60年代初頭の映画ですが、今の日本映画にない活気と活力にあふれています。喜劇映画が非常に多く作られていたことがそのひとつの表れだと考えています。耐乏生活を余儀なくされた戦時中から終戦直後の暗い時代を生き抜いた人たちが、笑いと豊かさを求めだしていた時代。笑いは武器となります。既成の概念を笑い飛ばして行く。
敗戦によりすべてをゼロにリセットされた状況から、彼らは這い上がってゆきました。何もなければ作り出せばいい。アイデアと想像力を駆使して新しいものを作り出してゆく、まさにプロジェクトXの世代。この映画にもその手作りの豊かさが感じられます。
ただ今日の視点から振り返ると、笑いは享楽の方向にも向かいます。その頂点が80年代のバブル景気。豊かさとは何かという問題は、常に振り返り捉えなおされなければならない課題だと思います。
投稿: ゴブリン | 2006年8月17日 (木) 12:02
トラックバックありがとう御座います.実は以前からこのブログは拝見させていただいておりました.トラックバック先を見て驚いた次第です.この映画について云えば,何と豊かな映画,何と豊かな時代だったか,ということに尽きます.俳優,監督,脚本,ロケ,全てが現代では望み得ないものばかりです.今ならコンピューターグラフィックスや海外ロケということになるのでしょうが,俳優や製作陣のイマジネーションの豊かさでは,この時代を凌駕できないのではないか,豊かさとは一体何だろう,と思ってしまいました.
投稿: tantanmen | 2006年8月17日 (木) 06:50
KUMA0504さん コメント&TBありがとうございます。
面白い指摘だと思いました。「天皇陛下万歳」と言って死ぬべきだと山正がこだわる場面は確かにアイロニカルですね。愚直なほど「素直」な山正が典型的に描かれている場面です。
山正が死ぬことで残された人たちが生まれ変わろうとするという指摘も面白い解釈だと思いました。彼の死が残された人たちにとって何を意味するのかについて僕は明言を避けました。はっきりとは描かれておらず、むしろ映画を突然投げ出したように終わらせてしまうことによって、それを問いかけるかたちにしたかったのだろうと思ったからです。
この映画が作られてからさらに40年以上がたちました。今なおこの映画はわれわれに戦争と戦後について問いかけていると思います。それはとりもなおさず、山正の愚直な生き方をどう捉えるのかということでもあります。
投稿: ゴブリン | 2006年8月17日 (木) 01:19
TBありがとうございます。詳しい解説で、また見直した気分になりました。
「喜劇化することで軍隊を武装解除し、軍隊を殺人集団、侵略組織ではなく、一種の村社会に変えてしまった」というのはその通りなのですが、この映画が上映された当時は、充分一つか二つのシーンで、殺人と狂気は感じることの出来る人ばかりだったのだと思います。だから中国戦線で、『天皇陛下万歳』といって死なない兵隊を叱る山正にアイロニーを感じるのであり、戦後平気で農村から物を盗んでくる山正が中国戦線の徴用のことを全然悪いことと思っていないことに棟本は返ってあたふたとしてしまうのである。そこにこの映画の批判精神がある。棟本は戦前は従軍作家、戦後は少年少女雑誌の作家として、いわば世渡りの上手い人間として描かれている。山正は死ななくてはならなかった。『あんないい人が死ぬ』ことで、棟本たちが生き残ることで、当時、映画を観ているほとんどの軍隊経験のある人間は、もう一度生まれ変わって生きていこうとしたのだと思います。そういう意味ではこの映画は、当時の人たちにとっては相当残酷な映画だったのではないかと推測します。
TBさせてもらいます。
投稿: KUMA0504 | 2006年8月17日 (木) 00:34