ナイト・ウォッチ
2004年 ロシア 2006年4月公開
原題:NOCHNOI DOZOR
監督:ティムール・ベクマンベトフ
製作:コンスタンティン・エルンスト、アナトリー・マキシモフ
原作:セルゲイ・ルキヤネンコ
撮影:セルゲイ・トロフィモフ
編集:ドミトリー・キセレフ
美術:ワレーリー・ヴィクトロフ、ムクタール・ミルザケイェフ
音楽:ユーリ・ポテイェンコ
出演:コンスタンチン・ハベンスキー、ウラジーミル・メニショフ
マリア・ポロシナ、
ガリーナ・チューニナ、ヴィクトル・ヴェルズビツキー
マリア・ミロノーワ
イリア・ラグテンコ、ジャンナ・フリスケ
ディマ・マルティノフ、
ワレーリー・ゾルツキン、ユーリ・クッシェンコ
最近旧ソ連やロシアの映画をトンと観ていない。僕が何十本ものソ連映画をまとめて観たのは70年代から80年代にかけて。それでも彼の国の膨大な数の傑作群のごく一部を観たに過ぎない。東京から上田に来てからはもっぱらDVDに頼る以外にないのだが、旧ソ連やロシア映画のDVD化が遅々として進まない。それでも少しずつ出てはいるのでコレクションは結構たまってきたが、なかなか観る機会がない。いずれまとめてレビューを書いてみたいと思っている。
さて、先日今借りたいのがないので手持ちの映画を観ようと書いたばかりだが、さすがに古いものばかりではと思って借りてきたのがこの「ナイトウォッチ」。ロシア国内で歴代興行記録を塗り替える大ヒットとなった話題作という触れ込みで、それなりに期待していた。 しかし観てがっかり。この映画を一言で言えば、アメリカ映画をロシア語吹き替えで観た感じ、もうそれで十分だ。ほとんどロシア映画らしさが何も感じられない。監督自身がアメリカ映画に張り合えるロシア映画を作りたかったという意味のことを発言しているらしいが、まったくそういう作り。アメリカ映画自体がオリジナルなものを作れなくなってきて、ヒット作の続編ものや外国のヒット作のリメイクばかり作っているご時勢に(最近やっといいのも出てきたが)、アメリカ映画もどきを作ろうというのではそもそも志が低すぎる。ソ連やヨーロッパ映画は、娯楽映画はアメリカに任せて、自分たちは自分たちの文化に根付いた映画を作るという姿勢を保ってきたのではなかったのか。こんなものを作っているようじゃ、韓国映画界の後追いをすることになってしまうぞ。(ここから先は罵倒しまくりなので、この映画が好きな人はここでやめておくほうがいいでしょう。)
まあ、フランスも「ジェヴォーダンの獣」や「ヴィドック」を作っているし、中国さえも「HERO」や「LOVERS」あるいはまだ未見だが「PROMISE」などを作っているので、何もロシアに限ったことでも今に始まったわけでもないが。それでもそれなりにフランスや中国らしい味付けはあった。しかし「ナイトウォッチ」はまったくのアメリカ映画だ。配給も20世紀フォックスだし、冒頭の字幕も英語である。最初からそういう作り、狙いなのである。
映画の作りも何ら工夫が感じられない。ダーク・ファンタジーと言われているが、実際の作りはホラー映画。血を飲むシーンや豚肉を切り刻む映像が何度も挿入される。むかつく映像のオンパレード。画面が切り替わるごとに突然大きな音を出してドキッとさせる。ホラー映画のありきたりの手口。まるで映画学校の卒業制作で教科書どおりに作ってみましたという感じだ。でかい音と血まみれ、ぬるぬるべとべと映像で驚かせたり気味悪がらせている限りではもう先はない。「フォーガットン」とさして変わらないレベル。
ストーリーも古色蒼然としている。光と闇の対決。もうたくさんですよ、このパターンは。闇は吸血鬼で光は智恵のフクロウというのもお決まりのパターン。SF的な味付けも試みているが、夜のモスクワのシーンなどは「ブレードランナー」そのもの。「強力ワカモト」の電光掲示板がないか探してしまいましたよ。どこをどう切っても、どこかで観た、聞いた、読んだという印象が付きまとう。斬新さなど毛ほどもない。監督はCMやミュージック・ビデオの監督として有名な人らしいが、その手の人は映像にばかりこだわって肝心な内容が伴わないことが多い。この点もパターンどおり。やっぱりそういう人かと納得したしだい。
まあ、けなしてばかりでは何なので、一応ストーリーを説明しておきましょう。人類の中に特殊な能力を持った「異種」と呼ばれる者たちがいた。彼らは “光”と“闇”の勢力に別れ太古の時代より激しい対立を繰り返していた。ある時橋の上で両軍が激突し激しい戦闘になる。力は互角で、このままでは両方とも全滅してしまう。そこでボス同士がさしで話し合い、「かくて光と闇は休戦協定を結んだ。光の代表ゲンサー、闇の代表ザヴロン。協定内容はこうだ。善につくか悪につくかは本人が決める。光の戦士は″夜の番人(ナイトウォッチ)″として闇の異種の行動を監視、闇の戦士は″昼の番人(デイ・ウォッチ)″として光の異種を監視。こうして善悪の均衡は何世紀も保たれた。だがある日一人の異種が驚異の力を備えて現れる。彼も光か闇かを選ばねばならない。その選択で均衡は崩れる。」
どことなく冷戦時代の暗喩とも取れるのだが、仮にそうだとしても今さらそれがどうしたという感じは免れない。光が「善」で闇が「悪」という設定もありきたりだ。描き方としてはどちらも悪みたいで、単純な二分法でもない感じではあるが、それが却って話の展開をごたごたしたものに感じさせる。どうも話に深みがない。
そういう設定なので、伝説の“偉大なる異種”とは誰なのか、彼もしくは彼女はどちらの側につくのかがストーリー展開の焦点となる。古代から続く戦いとなれば、何か古文書(あるいは預言書)のようなものが出てくるのがお決まりのパターンだが、ご心配なく、ちゃんとお約束のものが出てきます。『ビザンチウム伝説』という本。ここに(ちっとも古くなく、真新しい本なのはご愛嬌だが)″災いを招く乙女″に関する記述がある。″災いを招く乙女″とは、呪いをかけられた女で、いつも頭上に不幸が渦巻いている。彼女が出現すると呪いは広まり、光と闇の戦いが始まる。「すべては一人の人間の呪いゆえである。伝説によれば乙女は再び世に現れて再び呪われ、それが戦いの前兆となる。善と悪の最終戦争が始まり均衡が崩れ去る時、偉大なる異種が現れる。彼が光の側につけば光が勝利する。だが予言によれば彼は闇を選ぶ。闇を追い払うより光を消すほうが簡単だからだ。」世界の運命を決する選択をそんな単純な理由で決めていいのか、と突っ込みを入れたくなるが、ここは我慢しよう。それにしても何の工夫もない話だ。定石どおりにしか駒を動かせないようプログラミングされたロボット同士の将棋を見ているようだ。こう定番そのものではさっぱり面白みがない。
この″災いを招く乙女″はメガネをかけたインテリ風女性なのだが、彼女の上には巨大な竜巻ができている。何百羽というカラスがその竜巻の中を飛び回っている。まるで「ヴァン・ヘルシング」だ。浦沢直樹の『プルートウ』に出てくる竜巻のほうがずっと怖いぞ。しかし″災いを招く乙女″のエピソードは文字通りの羊頭狗肉、その結末は拍子抜けするほどしょぼい。呪いの正体というのが聞いてあきれる。母さえいなければ自分は結婚できると思ったというそれだけ。腎不全の母親に臓器の提供を申し出たが、母親は拒否。そうなることが分かっていて自分はそうしたのだ、私など呪われろ。っておいおい、それだけかよ!自分で自分を呪っていましたという落ち(それが分かったとたんに呪いが解けましたとさ)、そりゃああまりといえばあまりだろう。そんなんで竜巻が出来るのなら、ブッシュ一人で日本も含めて全部沈没だぞ!
いやあ、散々な目にあった。こんなにひどいとは思わなかった。せいぜい褒めて「B級カルト映画」ってとこか。二作目の「デイ・ウォッチ」もすでに作られ、ロシアでこれまた大ヒットしているそうだが、もう結構。お代わりはいりません。ああ、下痢しそうだ。
« TOMORROW 明日 | トップページ | イギリス小説を読む⑧ イギリスとファンタジーの伝統 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント