僕と未来とブエノスアイレス
2003年 アルゼンチン・スペイン・仏・伊 2006年1月公開
原題:El Abrazo partido
監督:ダニエル・プルマン
製作:ディエゴ・ドゥブコフスキー、ダニエル・ブルマン
脚本:マルセロ・ビルマヘール、ダニエル・ブルマン
製作総指揮:ディエゴ・ドゥブコフスキー
撮影:ラミロ・シビータ
編集:アレハンドロ・ブロデルソン
美術:マリア・エウヘニア・スエイロ
音楽:セサル・レルネル
出演:ダニエル・エンドレール、アドリアーナ・アイゼンベルグ
ホルヘ・デリーア
セルヒオ・ボリス、ディエゴ・コロル
アティリオ・ポソボン、シルビーナ・ボスコ
、イサーク・ファヒン
サロ・パシク、メリナ・ペトリエラ
久しぶりに観るアルゼンチン映画。アルゼンチン映画といえば思い浮かぶのはルイス・プエンソ監督の「オフィシャル・ストーリー」(1985)、エクトル・オリベラ監督の「ナイト・オブ・ペンシルズ」(1986)、そして何といってもフェルナンド・E・ソラナス監督。「タンゴ ガルデルの亡命」(1985)、「スール その先は・・・愛」(1988)、「ラテンアメリカ光と影の詩」(1992)などの優れた作品を放ってきた。アルゼンチンを代表する、いや中南米を代表する監督である。アルゼンチン映画に勢いがあったのは80年代。毎年のように作品が日本で公開されていた。このところひところの勢いがなくなったと思っていたら「僕と未来とブエノスアイレス」がやってきた。傑作というほどではないがさわやかな味わいの佳品である。
メキシコからのアメリカ移民を描いた「スパングリッシュ」や南米で養子を探すアメリカ人女性たちを描いた「カーサ・エスペランサ」、これらのアメリカ映画2本をはさんで、本格的中南米映画を観るのはウルグアイの「ウィスキー」以来だ。「ウィスキー」は僕としては薄味すぎて物足りなかった。もう少し何らかの味付けが欲しかった。「僕と未来とブエノスアイレス」にはしっかり味付けがされている。その味付けは人情味。ねじめ正一の『高円寺純情商店街』をもじって言えば、「ブエノスアイレス人情商店街」といった感じの映画である。かつては政治的な作品が多かったが、最近はより身近な話題をテーマにしたこの種の映画が増えてきているようだ。出てくる人はみんないい人たちばかりで、人情に篤い。典型的な人情話。その意味では新鮮味はうすい(もっとも、中南米映画で人情ものは珍しいと言えるが)。しかしこの映画はただの人情ものではない。人情味を添えて出されるメインの料理はユダヤ人問題と父子の葛藤である。
ガリレアと呼ばれるアーケード商店街はどうやらユダヤ人街の一角にあるらしい。登場人物の多くがユダヤ人だ。映画の冒頭、「ガリレアには物語がある」で始まるラモンのナレーションで登場人物が紹介されてゆく。ラジオ修理店のイタリア人サリガーニ(アティリオ・ポソボン)。彼の奥さんは隣で美容室を経営している。風水グッズの店を営む韓国人のキムと奥さん。生地屋のレビン兄弟(実際はいとこ同士)。インターネットカフェを経営するリタ(シルビーナ・ボスコ)。表向きは旅行代理店、陰で金融商売をしているリトアニア人のミッテルマン(ディエゴ・コロル)。文房具屋のオスワルド(イサーク・ファヒン)。ランジェリー店を営むソニア・マカロフ(アドリアーナ・アイゼンベルグ)と店を手伝っている役立たずの息子アリエル(ダニエル・エンドレール)。兄のジョセフ(セルヒオ・ボリス)はガラクタ雑貨の輸入をしている。祖母(ロシータ・ロンドネル)も近くに住んでいる。しかし父のエリアス(ホルヘ・デリーア)はイスラエルに戦争で行ったきり帰ってこない。紹介の中には入っていないが、ユダヤ教司祭(ノルマン・エルリッチ)も人物リストに加えておこう。
面白いのは、映画の主人公が冒頭でナレーターを務めたラモンではないことである。ラモンによって「役立たず」と紹介されたアリエルが主人公なのである。母のランジェリー店を手伝っているのに、何ゆえ「役立たず」なのか?ラモンの真意は分からないが、推測はできる。アリエルはもともと建築家志望だった。しかし才能がないので諦めて、母の店を手伝いながらぶらぶらと人生を送っている。エステラ(メリナ・ペトリエラ)という恋人がいたが別れてしまい、今はネットカフェを営むリタと熱い仲(どうやらぷりぷりのお尻に惹かれたようだ)。社会の中へ一歩を踏み出せずに宙ぶらりんの状態でだらだらと日常をおくっているすねかじり息子。ラモンはそれを指して「役立たず」と言っているのだろう。
アリエルは30歳である。その年になってもまだ自分の生き方に迷っている。その表れが祖父母の国であるポーランドに移住したいという願望。ユダヤ人である祖父母はユダヤ 人狩りを逃れてアルゼンチンにやってきたのである。しかし、そのためには祖父の出生証明書が必要なのだが、祖母は彼女たちを追い払ったかつての祖国をひどく毛嫌いしていて容易に証明書を渡してくれそうもない。「ヨーロッパではユダヤ人は殺される」と信じ込んでいる祖母はアリエルのポーランド移住自体に反対するだろう。それでもアリエルはポーランドに移住すれば新しい生活が始まるだろうという漠然とした希望を捨てきれない。映画は、この希望が実は幻想であることにアリエル自身が気づきアルゼンチンで生きてゆこうと考え直すまでを描いている。一見商店街の人々が交錯する人情話的群像劇に見えるが、この映画の主題はアリエルがアイデンティティを確立してゆく過程にあるのだ。「僕と未来とブエノスアイレス」とはそういう作品である。
となれば、この主題がどれだけ深く、どれだけ説得的に描かれているかがこの作品の評価を大きく左右する。その点を詳しく見てゆく前に公式サイトからこの映画の前提となるいくつかの情報を確認しておこう。まず、アリエルの人物設定にはダニエル・プルマン自身がある程度投影されているようだ。監督の祖父母も「戦前のポーランドでユダヤ人狩りにあってアルゼンチンに逃れてきた」人たちである。ブエノスアイレスのユダヤ人街オンセ地区は南米最大のユダヤ人居住地である。祖父母たちが逃れてきたポーランドに移住しようとアリエルは考えるわけだが、その背景には、数年前にアルゼンチンで経済危機が起き、その時「多くの人がヨーロッパに移民することによって新しい生活を夢見る集団幻想に駆られていた」という事情がある。監督自身もポーランド国籍のパスポートを手に入れたが、その後の葛藤を経てアルゼンチンにとどまったという経験を持つ。監督はアリエルについてこう語っている。「今おかれている状況から逃れようとするうちに、彼は自分の存在、アイデンティティの基盤のようなものとの対峙を余儀なくされるんだ。」
アリエルの「アイデンティティの基盤のようなもの」とは何か。ポーランド移民の血を引くユダヤ人であること、1つはこのことだろう。しかしユダヤ人であることはアリエルにとってそれほど重要な問題ではなかった(少なくとも祖母ほどは)。むしろアリエルにとって重要なのは父親との関係である。彼は自分が生まれてすぐに家を出た父親を恨んでいる。イスラエルから毎月電話をかけてくる父とうれしそうに話している母親にも苛立ちを覚える。さらにアリエルはラビ(神父)から両親が離婚していることを教えられる。離婚証明書によれば、彼の両親は1973年8月に離婚している。父親が参戦した第四次中東戦争が始まった73年10月よりも前である。それだけではない。両親の離婚はアリエルが生まれるよりも前だったのである。アリエルはなぜそのことを隠していたのかと母親を責める。母は、戦争は人の意識を変えるのだと言うだけ。そしてイタリア映画の名作「ひまわり」をたとえに引く。その時アリエルはこの名作を見ていなかった。だから母親の気持ちを理解できない。
映画の後半アリエルは運命の出会いを迎える。ラモンとペルー人が大きな荷物を載せた手押し車を押してゆくレースをしている時に、右腕のない男が現れる。アリエルは、一度も会ったことがないのに一目見てそれが父親だと悟る。この場面は商店街の人々をめぐるエピソード(レース)とアリエル個人の葛藤のテーマとが交差する場面であり、映画の大きな転換点でもある。ここからアリエルと父親の「対話」が始まる。アリエルが友人にビデオを借りて「ひまわり」を観るのはこの出会いの後だ。この映画を機にアリエルの考えは大きく変わる。彼は父親と初めて話をする。その時父親の言った言葉が印象的だ。右手がなくても不自由はないと言った後、父親はこう続ける。「でも一番したかったことができなかった。お前を抱きしめることだ。」しかしまだアリエルの気持ちは父親を受け入れるところまでは整理できていなかった。出会った時と同じように彼は走って父親から逃げる。彼が父親を受け入れられるようになったのは、父が母から去った理由を母から聞いた時だ。
ラストがいい。父親はアリエルにバベルの靴を一緒に買いにいこうと誘う。二人は肩を組み、アルゼンチンで最高の靴屋へと歩いてゆく。この映画の素晴らしいところは決して泣かせる場面を作らなかったことだ。最後までコメディタッチを貫いている。泣かせるせりふ よりも二人で靴を買いに行くという終わり方のほうがずっとしゃれている。その後にアリエルのナレーションが入る。「昨夜自分が父親になる夢を見た。子供は出てこないのに父親の気分だった。空中を浮遊するような不思議な感覚だ。誰かを思い切り抱きしめたくなった。なぜかは分からないが。」自分が父親の立場になって考えられるようになった時、彼は父親を理解できるようになった。心が浮き立つような「浮遊」感の中で、彼はそれまでの目的もなくだらだらと生きていた「浮遊」生活に終止符を打った。
自分の人生を見出したのはアリエルばかりではない。父親も過去を吹っ切れたからブエノスアイレスに戻ってこれたのだ。元夫が戻ってきたことで母親にも明るさが戻ってきた。そして辛い過去を乗り越えた人物がもう一人いる。アリエルの祖母だ。彼女は元歌手で、ワルシャワのクラブで歌っていた。しかし辛い過去を思い出したくないために歌うことをやめてしまった。彼女は祖父の出生証明書が欲しいと頼みにきたアリエルに意外なほどあっさりと証明書を渡す。そして同時に歌の封印を解き、歌い始める。その時から彼女に歌が戻ってきた。それまで避け続けてきた祖国にあえて行こうとする孫に、彼女は何かを託そうとしたのだろう。その時彼女も過去を乗り越えたのだ。エンドロールが流れる中、歌手に戻った彼女がステージで歌っている。その最後の歌詞が心に残る。「残された手で生きていこう」。「ひまわり」のような、胸を揺さぶる感動はこの映画にない。しかし親子の絆を結びなおし、過去へのこだわりを乗り越えることでそれぞれに生きる道を見出して行くこの映画のラストは実にさわやかだ。
作品の出来という点で言えば、アリエルの葛藤が充分深く掘り下げられていないので傑作にはいたらなかった。アリエルの葛藤が掘り下げられないのは、彼の葛藤が父親との関係に収斂しているからである。父親と和解した時にポーランドに移住するという彼の夢は自然に消えていった。その夢は恐らく社会に根を張っていないという漠然とした自覚から発したもので、その意味では一種の逃避だった。不在だった父親が戻り彼と家族の絆はしっかりとしたものになった。家族の絆を通し社会との絆もよりしっかりとしたものになる。だからアリエルはブエノスアイレスにとどまる決心ができた。そう言いたいのだろう。父親の不在、映画の描き方では問題の根本はそこにあったことになる。そういう意味でアリエルが父親になった夢を見たと語ることが必要だったのである。しかし父親の不在ですべてが説明されてしまうのではあまりに単純すぎる。そう思わざるをえない。もっと様々な要因が絡んでいるはずだし、仮に主たる原因が父親の不在にあるのだとしたらもっとその点を描きこむべきだ。どうしても物足りない思いが残る。
父親というテーマも充分追求されているとは言えない。子供と親の年齢は同じだという考え方がある。つまり、子どもができて初めて人は親になるのである。30年間エリアスには事実上子供はいなかった。しかし、たとえ片腕しかなくても息子を抱きしめたいと思ったとき、エリアスは初めて「親」になった。30年間の彼の思いは何も説明されていないが、アリエルを見る彼の視線は確かに親の視線だった。しかしアリエルはどうか。彼の心の変化は「ひまわり」や母親の告白を通して間接的に描かれているだけだ。彼に子供はいない。親になった夢を見ただけだ。アリエルの場合、「親」になることはモラトリアムの段階を脱し一人前の「大人」になるという比喩だろう。映画で示されたのはその可能性だけだ。父親を得ることはできたが、これからどう人生を選び取ってゆくのかまだ示されていない。この点も不満はあるが、しかし底が浅いとはいえない。悩まずに成長できる者などいない。人生に目的を見出せない若者が悩みながらも何に悩んでいるのか分からないというのは、それはそれでリアルである。父親は見出せたが、まだ自分を見出せていない。これからの人生をどう生きてゆくのか、それは今後の彼の課題なのだ。
そもそも、この作品の魅力はアリエルの葛藤を人情コメディという枠組みの中にうまくはめ込んで描いたことにある。アルゼンチン社会のエッセンスを凝縮したような、職種も出身国もごちゃまぜの商店街の人たちがみな魅力的だ。このあたりを充分書くスペースはないが、アリエルの母ソニアを演じたアドリアーナ・アイゼンベルグについてだけ言っておこう。美人ではないが、実に魅力のある女優である。表情が豊かで、人間味にあふれている。分かれた夫エリアス役のホルヘ・デリーアと並んで、一番印象に残った俳優だ。
商店街が適度にうらぶれている様がまたいい。見ているとあまり外から客がやってくるようには思えない。商店街の人たちが互いに利用しあっている感じなのだ。悪く言えば寂れている、よく言えば隣人同士としての連帯感のようなものが感じられる。この街の佇まいと雰囲気がまたいい味を出しているのだ。庶民による庶民のための人情劇。悪くない味わいだ。
ああ、久しぶりにピアフの「バラ色の人生」が聴きたくなった。