サッチャーの時代とイギリス映画①
第1章:サッチャリズムと1980年代
◇1980年代:サッチャーの時代
19世紀、イギリスは大英帝国として世界に君臨し、繁栄を謳歌した。20世紀に入るとさすがの大英帝国もかつての勢いを失う。イギリスは世界初の福祉国家の道を選択する。第2次世界大戦後次々にかつての植民地が独立して行った。1970年代のオイルショックを契機にして、低成長、経済停滞、インフレと高失業率というスタグフレーションに悩まされ、長期低落の傾向から抜け出せなくなる。いわゆる「英国病」だ。70年代後半は巨大化した福祉国家体制を維持しつつ、長引く深刻な経済的停滞に悩まされる深刻な状況となる。
1979年,「不満の冬」(The Winter of Discontent)と呼ばれる1978年から79年にかけての大労働争議の後に「鉄の女」サッチャー首相が登場。マーガレット・サッチャーは79年から90年まで政権を維持した。つまり80年代のイギリスはまるまるサッチャーの時代なのだ。サッチャー率いる保守党は、福祉国家の理想、大きな政府の可能性を放棄し、これまで国家がコントロールしてきた広範な経済領域を市場と個人に委ねた。この所有と選択の拡大によって競争意識は高まり、経済は活性化した。しかし誰もがその恩恵に与れたわけではない。豊かな南部と貧しい北部という南北の格差、富める者と貧しき者との格差はさらに拡大した。サッチャリズムの功罪を見てみよう。
<1980年代以降のイギリス首相>
・1979年――1990年 マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher、1925-)
・1990年――1997年 ジョン・メイジャー(John Major、1943-)
・1997年―― トニー・ブレア(Tony Blair、1953-)
<サッチャリズム>
サッチャーはイギリス初の女性首相だったが、右翼主義の強硬路線を取った。女性ではあったが、フェミニズムにとは相容れない価値観を持っていた。ヴィクトリア時代の家族像を理想とし、女性が主婦として母親として家庭内にとどまることを美徳とした。
同様に、サッチャーにとっての人間の美徳は自助、独立の精神、努力、簡約、勤勉などであり、福祉政策は人々に国家に頼る体質を植えつけ、労働意欲をそいでいると批判した。怠惰や福祉依存の文化が国民の間に蔓延していると。
◇サッチャリズムの思想
・福祉国家こそが経済停滞の主要原因
→肥大化した福祉国家の解体を図る。
・経済の活力を回復するために強い個人による競争社会を復活させる。
→市場への国家干渉を控え、市場原理を導入し民営化、規制緩和を行う。
・自由主義経済と強い国家を同時に目指す。
・反共思想
◇具体的な政策
①財政支出の削減
→公共住宅供給を抑制、老人ホームを公立から民間セクターへ移管
→社会保障経費(社会保険、公的扶助、児童給付など)の削減
→所得比例の失業給付廃止(1981)
→補足給付金制度の年齢制限引き上げ
→多くの給付金の削減、受給資格の制限強化
→年金の給付水準を大幅に引き下げる→私的年金を奨励
→公営住宅を民間に払い下げる。持ち家の所有を奨励
②国営企業の民営化
→ブリティッシュ・ガス、ブリティッシュ・エアウェイズ民営化(1986年)
→ロールス・ロイス民営化(1987年)
→ブリティッシュ・スティール民営化(1988年)
→メイジャー首相時代に国鉄が民営化された。
③労働組合の抑制
→労働争議やストが国の経済機能を脅かしている。
→労働組合を弱体化させるために雇用法や労働組合法を改正する。
→最大の山場は1984年4月から85年3月まで続いた炭坑スト。最後には警察力を導入して徹底的につぶした。
④金融政策(英国内の通貨量を調整する)によりインフレを抑制する。
→福祉国家型政策であるケインズ主義に対し、マネタリズムを基本に据える。
◇サッチャリズムがもたらしたもの
・フォークランド戦争(1982年、3月-6月)の勝利
西大西洋上のフォークランド諸島の領有をめぐり、イギリスとアルゼンチンとの間で起こった紛争。1982年、アルゼンチンの民間業者が同島に国旗を掲げ、英国政府に退去させられたことをきっかけに、アルゼンチン軍が進攻し、紛争が勃発した。最新型ミサイルも使用されたこの戦闘では、両国とも多くの犠牲者を出し、2ヶ月余りの激戦の末にイギリスが勝利した。
・経済停滞からの脱却
→1987年国家財政が黒字に転じる。
→90年代後半に入ると、経済は徐々に上向きはじめ、今やアメリカ風の大量消費社会へと変化を遂げた。
・労組の弱体化
組合組織率 1979年55%→1990年36%
スト発生件数 1979年約2500件→1990年300件弱
・平均世帯収入 10年間で25%アップ
・持ち家率の急増
・国民生活が豊かに
・アメリカとの関係の強化
◇サッチャリズムの負の面
・二極化・貧富の差の拡大
→富裕層はより豊かに、貧困層はより貧しく
→中流階級の中以上の層の税制を優遇、税率の引き下げ
→1980年代失業者は300万人を越えた。その後低下したものの93年に再び大台に乗った。
・アンダークラス(最下層)の増加
→失業者、ホームレス、小額給付受給者、マイノリティ、障害者、片親家族、女性貧困層、貧しい年金生活者
→英国では、サッチャー政権下、1979年から82年までの3年間で、製造分野の雇用者数の4分の1が喪失、失業者率は上昇した。当時、イギリスの若年者(25歳未満)の失業率は10%から20%超まで高まった。
・イギリス社会の小型アメリカ化
→非寛容、貪欲、非人間的、利己的、物質主義的な社会になってしまった。
→労働争議への国家介入、警察の権限の強化、福祉・教育への公共支出の削減、地方自治の弱体化。
→麻薬、犯罪の蔓延。
→犯罪防止を学ぶテーマパーク
1998年11月、観光都市ボーンマスに安全教育を目的とした室内テーマパーク「ストリートワイズ」がオープンした。身の回りに潜む事故や犯罪などの危険を子供が楽しみながら学ぶテーマパークだ。高学年の子供は麻薬の売人に遭遇したりした場合の回避方法などを学んでいる。
英国では離婚や十代での妊娠の増加に伴い、子供の23%が片親で、EU15か国中最も比率が高い。
→人種差別(ロレンス事件)の激化
1993年黒人学生スティーブン・ロレンス(当時18歳)が白人少年5人に襲われ、ナイフで刺殺される。警察は当初黒人同士のけんかと思い込み被害者の友人(黒人)を容疑者扱いした。
→「憲章88」の結成
マグナ・カルタの精神を受け継ぎ、「国民の自由と権利を保障する憲法を作ろう」と1988年に結成された団体。当時のサッチャー政権は労働組合への攻撃、ロンドン市制の廃止、教育の中央直結化、人頭税の強行導入など強硬政策を極めていた。
→1997年に「ニュー・レイバー」を掲げた労働党のトニー・ブレアが勝利。
しかしサッチャリズムからの脱却を果たせていない。
ブレア首相の下で大麻の自由化が進められている。
イギリスは表面上確かに豊かになったが、その一方でアメリカ的な消費生活が急速に拡大し、金の有無だけがその人間関係を決定する社会に変貌していった。競争意識が高まることによって経済は好転したが、極端な上昇志向や拝金主義が蔓延し、弱者は切り捨てられることになった。サッチャー時代の自助努力による立身出世というイデオロギーは、上昇志向の個人が他人を踏みにじって這いあがろうとする風潮を生み、そのあおりでかつてのコミュニティという人のつながりは解体されてゆく。這い上がる余地のない失業者や社会の最底辺にいる者たちは、出口のない閉塞した社会の中に捕らわれて抜け出せない。社会が人々を外から蝕み、酒とドラッグが中から蝕(むしば)んでゆく。
サッチャーがイギリスをこのような社会に変える際に、乗り越えなければならなかった最大の障害は強大な労働組合である。アーサー・スカーギル率いるイギリスの炭坑労組はかつて最強を誇った組合だった。しかし1年間の闘争の末に、労働組合のナショナル・センターが政府との妥協を図って炭坑労組を見殺しにしたことと、警察力の武力行使によって、炭坑労組はついに敗北する。その後は見る影もない弱小組織になってしまった。これに勢いを得てサッチャー政権は労働争議への国家介入、警察の権限の強化、福祉・教育への公共支出の削減、地方自治の弱体化等を次々と推し進めていった。
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