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2006年7月

2006年7月30日 (日)

ゴブリンのこれがおすすめ 21

95年以降のヨーロッパ映画(北欧・東欧・イギリス・旧ソ連を除く)

■おすすめの50本
「天空の草原のナンサ」(2005) ビャンバスレン・ダバー監督
「ヒトラー 最期の12日間」(2004) オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督
「クレールの刺繍」(2004) エレオノール・フォーシェ監督
「コーラス」(2004) クリストフ・バラティエ監督
「スイミング・プール」(2004) フランソワ・オゾン監督
「みんな誰かの愛しい人」(2004) アニエス・ジャウィ監督
「ロング・エンゲージメント」(2004) ジャン・ピエール・ジュネ監督
「海を飛ぶ夢」(2004) アレハンドロ・アメナーバル監督
「グッバイ・レーニン!」(2003) ヴォルフガング・ベッカー監督
「ピエロの赤い鼻」(2003) ジャン・ベッケル監督
「ぼくセザール10歳半1m39cm」(2003) リシャール・ベリ監督
「ヴェロニカ・ゲリン」(2003) ジョエル・シュマッカー監督
「タッチ・オブ・スパイス」(2003) タソス・ブルメティス監督
「永遠のマリア・カラス」(2002) フランコ・ゼフィレッリ監督
「キャロルの初恋」(2002) イマノル・ウリベ監督
「死ぬまでにしたい10のこと」(2002) イザベル・コヘット監督
「月曜日に乾杯!」(2002) オタール・イオセリアーニ監督
「ベルヴィル・ランデブー」(2002) シルヴァン・ショメ監督 アニメ
「僕のスウィング」(2002) トニー・ガトリフ監督
「トーク・トゥ・ハー」(2002) ペドロ・アルモドバル監督
「靴に恋して」(2002) ラモン・サラサール監督
「マーサの幸せレシピ」(2001) サンドラ・ネットルベック監督
「名もなきアフリカの地で」(2001) カロリーヌ・リンク監督
「ポーリーヌ」(2001) リーフェン・デブローワー監督0379046
「女はみんな生きている」(2001) コリーヌ・セロー監督
「まぼろし」(2001) フランソワ・オゾン監督
「マゴニア」(2001) イネケ・スミツ監督
「アメリ」(2001) ジャン・ピエール・ジュネ監督
「ショコラ」(2000)  ラッセ・ハレストレム監督
「ロゼッタ」(1999) エミリー・ドゥケンヌ監督
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)  ヴィム・ヴェンダース監督
「海の上のピアニスト」(1999) ジュゼッペ・トルナトーレ監督
「蝶の舌」(1999) ホセ・ルイス・クエルダ監督
「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999) ペドロ・アルモドバル監督
「キリクと魔女」(1998) ミッシェル・オスロ監督  アニメ
「永遠と一日」(1998)  テオ・アンゲロプロス監督
「ラン・ローラ・ラン」(1998) トム・ティクヴァ監督
「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」(1997) トーマス・ヤーン監督
「ニノの空」(1997) マニュエル・ポワソエ監督
「踊れトスカーナ!」(1996) レオナルド・ピエラチョーニ監督
「イル・ポスティーノ」(1995) マイケル・ラドフォード監督
「明日を夢見て」(1995)  ジュゼッペ・トルナトーレ監督
「レ・ミゼラブル」(1995) クロード・ルルーシュ監督
「ロスト・チルドレン」(1995) ジャン・ピエール・ジュネ監督
「パトリス・ルコントの大喝采」(1995)  パトリス・ルコント監督
「リディキュール」(1995)  パトリス・ルコント監督
「アパートメント」(1995) ジル・ミモーニ監督
「さまよえる人々」(1995) ヨス・ステリング監督
「アントニアの食卓」(1995) マルレーン・ゴリス監督
「ユリシーズの瞳」(1995)  テオ・アンゲロプロス監督

■気になる未見作品
「エレニの旅」(2004) テオ・アンゲロプロス監督

■追加
「東ベルリンから来た女」(2012、クリスティアン・ペツォールト監督、ドイツ)
「最強のふたり」(2011、エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ監督、仏)
「おとなのけんか」(2011、ロマン・ポランスキー監督、仏・独・ポーランド)
「キリマンジャロの雪」(2011、ロベール・ゲディギャン監督、フランス)
「みんなで一緒に暮らしたら」(2011、ステファン・ロブラン監督、仏・独)
「アーティスト」(2011、ミシェル・アザナヴィシウス監督、フランス)
「最高の人生をあなたと」(2011、ジュリー・ガヴラス監督、仏・ベルギー・英)
「屋根裏部屋のマリアたち」(2010、フィリップ・ル・ゲイ監督、フランス)
「黄色い星の子供たち」(2010、ローズ・ボッシュ監督、フランス・ドイツ・ハンガリー)
「BIUTIFUL」(2010、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督、スペイン・他)
「ペーパーバード 幸せは翼にのって」(2010、エミリオ・アラゴン監督、スペイン)
「愛について、ある土曜日の面会室」(2009、レア・フェネール監督、フランス)
「瞳の奥の秘密」(2009、フアン・ホセ・カンパネラ監督、スペイン・アルゼンチン)
「オーケストラ!」(2009、ラデュ・ミヘイレアニュ監督、フランス)
「さあ帰ろう、ペダルをこいで」(2008、ステファン・コマンダレフ監督、ブルガリア・他)
「人生、ここにあり!」(2008、ジュリオ・マンフレドニア監督、イタリア)
「クリスマス・ストーリー」(2008、アルノー・デプレシャン監督、フランス)
「パリ20区、僕たちのクラス」(2008、ローラン・カンテ監督、フランス)
「セラフィーヌの庭」(2008、マルタン・プロヴォスト監督、仏・ベルギー・独)
「幸せはシャンソニア劇場から」(2008、クリストフ・バラティエ監督、仏・独・チェコ)
「夏時間の庭」(2008、オリヴィエ・アサイヤス監督、フランス)
「木洩れ日の家で」(2007、ドロタ・ケンジェジャフスカ監督、ポーランド)
「画家と庭師とカンパーニュ」(2007、ジャン・ベッケル監督、仏)
「ホルテンさんのはじめての冒険」(2007、ベント・ハーメル監督、ノルウェー)
「ここに幸あり」(2006、オタール・イオセリアーニ監督、仏・伊・露)

 

  こうやってみるとやはりフランス映画が圧倒的に多い。粒ぞろいである。これにイギリス映画を加えると選ぶのに相当苦しい思いをすることになるだろう。今や英仏がヨーロッパの2強。これに続くのがスペイン映画か。ペドロ・アルモドバルを中心に傑作を次々に送り込んでいる。80年代に復活したドイツも一時失速したがまた盛り返してきた。
  ヨーロッパ映画は個性派ぞろい。上記以外の国の秀作もさらに増えることを期待する。「気になる未見作品」は挙げればきりがないので1本だけにした。近くのレンタル店はどこも置いてない。田舎は厳しい。

2006年7月28日 (金)

バロック・コンサート2日目

Dinner1p   今日もコンサートに行った。今日は7時半開演。15分前に着いた。まだリハーサル中だったので会場でしばらく待つ。人数は昨日よりはさすがに少なかった。

  演奏はほぼ時間通りに始まった。今日はリラックスしたムード。どうやら基本的には講習会に参加した人たちを対象にしたコンサートのようだ。チラシには「レクチャー・コンサート」とある。少し演奏家のトークもあって、そこで聴衆に課題を出していた。言葉は忘れたがある技法のことを話していた。私がどんな風に弾くかよく注意して聴いてください、質問があれば後で訊いてくださいと言っていた。

  時々赤ちゃんの泣き声が混じっていたが雰囲気は悪くならなかった。リラックスしたムードだったが、演奏は熱かった。今日の演奏会も素晴らしかった。昨日はドイツ音楽だったが、今日はフランス。すべてマラン・マレの曲だった。この作曲家も初耳だった。やはり素晴らしい曲だと思った。ホールもいいし、演奏者も素晴らしいので何を聴いてもよく聞こえてしまうのかもしれないが。

  演奏者はヴァイオリンの寺神戸亮、ヴィオラ・ダ・ガンバの上村かおりと森川麻子、チェンバロのニコラス・パール。ヴァイオリンが入るとどうしてもガンバは従に回ってしまうが、ガンバとチェンバロだけになると俄然息を吹き返したようになる。地味な楽器だが実にいろんな表情が出せる。上村かおりさんと森川麻子さんの二人は素晴らしかった。同じガンバでも上村さんのはバスなのでぐっと渋い音が出る。弓の弾きかたも二人は微妙に違う。息がぴったりと合った演奏にはぐいぐい引き込まれた。3人の演奏はジャズのピアノトリオのような緊張感がある。ジャズのインプロビゼーションとはまた違った、三者三様に弾き分けながら一糸乱れぬ演奏。講習会の参加者が多かったせいもあるだろうが、観客席にも緊張感があった。僕はまったく楽器が弾けない人間なので技術や楽理的なことは分からないが、硬軟取り合わせた演奏は講習会参加者に大いに参考になっただろう。レクチャーを兼ねた模範演奏的な色彩があったと思われるが(それはおそらく選曲にも反映しているだろう)、部外者にとって何の違和感もなかった。

  演奏の合間のトークから森川さんとニコラス・パールさんがご夫婦だと分かった。自分の演奏がないときに森川さんがニコラスさんの横に立って譜面をめくっている姿が印象的だった。二日間たっぷり楽しませてもらいました。

  東京を離れてから聴きに行くコンサートがガラッと変わってしまった。上田に来てからはほとんどクラシックばかり。東京にいた頃はクラシックも何度か聴きに行ったが、もっぱら通ったのは規模の小さなライブハウスだった。新宿の「ルイード」、「ロフト」、「ピット・イン」、渋谷の「テイク・オフ7」、「エッグマン」、「ジャンジャン」。だめだ、他にもあったが名前を忘れてしまった。六本木や下北沢、銀座にも行ったなあ。悲しいことに名前が出てこない。

  ジャズを別にすると、もっぱら女性歌手ばかり聴きに行っていた。せっかく間近で見られるのだから、聴くだけでなく見る楽しみもないとね。エポ、上田知華とカリョービン、中原めいこ、高橋真梨子、谷山浩子、それにあの頃西島三重子が好きで何度も聴きに行ったな。そうそう「ロフト」では山崎ハコを聴きに行ったっけ。彼女にふさわしい暗い場所だった。こうやって名前を挙げてみると顔が赤くなる。ミ-ハーだったのね。

2006年7月27日 (木)

夏の夜のバロック・コンサート

Photo_3   今日は信州国際音楽村のホール「こだま」で「夏の夜のバロック・コンサート」を聴いてきた。音楽村は小高い山の上にある音楽ホール。舞台は小さく大規模なコンサートはできない。室内楽のコンサートなどにぴったりのサイズ。しかし、市民会館のような多目的ホールではなく音楽専用ホールなので音響は非常によい。小ぢんまりとしていいホールだ。横に野外コンサート・ホール「ひびき」もある。こちらは木の座席がだいぶ腐食していたが、今回来てみたらきれいに改修されていた。下もコンクリを打ってある。前は土だったと思う。かなり整備されてきれいになった。

 周りの環境や眺めがいいので時々ふらっと行くことがある。ぶらぶら散歩して帰ってくる。しかしコンサートを聴くのは久しぶりだ。最後に聞いてから6、7年はたっている気がする。天満敦子さんのコンサートを聞いて以来か。久しぶりだったので今回のコンサートは楽しみだった。

  6時に音楽村に到着。着いてみたら駐車場はがら空き。人はほとんどいない。会場の入り口でチラシを確かめたら6時半開場、7時開演だった。30分間違えた。開場まであたりをぶらついて時間をすごす。ホールの周りは木が多いので涼しい。すぐ横はラヴェンダー畑。ここの名物にしたいらしい。前にラヴェンダー・アイスを食べたことがあるが、結構美味しかった。いけますよ。今日は晴れのような曇りのような微妙な天気だったので、湿気は少しあったが気温はさほど高くない。ぶらぶらするにはちょうどいい気温だった。

  さて、演奏会は素晴らしかった。曲目もかなり聞き応えがあるいい曲がそろっていた。演奏者はソプラノの鈴木美登里、バロック・ヴァイオリンの寺神戸亮、ヴィオラ・ダ・ガンバの上村かおり、森川麻子、坪田一子、坂本龍右、チェンバロのニコラス・パール。

  今日から音楽村で4日間ヴィオラ・ダ・ガンバ協会の夏期講習会があり、せっかく一流の演奏者が集まっているのだから公開で講師演奏会をやろうということになったようだ。宮澤賢治の作品を英語と日本語の対訳で読んでいる読書会のメンバーがガンバを弾くのでコンサートに誘われたしだい。

  演目はディートリヒ・プクステフーデとフランツ・トゥンダーの曲をそれぞれ6曲と3曲ずつ。二人ともまったく知らなかった。しかし曲は素晴らしかった。これまでバロックの演奏会には何度か行ったが、曲がいまひとつ魅力がないといつも思っていた。しかし今回の演目はどれもよかった。これまで聞いたのはイタリアやフランスの曲が多かったが、今回はドイツ。どこかなじみがある感じがした。目をつぶって聞いているとロマン派や古典派あたりの室内楽曲を聴いているような錯覚を起こすほど。演奏としてはヴァイオリンの寺神戸亮さん、ガンバの森川麻子さん(小柄でとてもかわいい人でした)と上村かおりさん、ソプラノの鈴木美登里さんが特によかった。

  前に学生時代はクラシック一辺倒だったとどこかで書いたが、大学院に入ってからジャズやロックを聴くようになって、以来滅多にクラシックは聴かなくなった。それでも一時期朝起きるとバロックのレコードをかけていた時期があった。バロックは朝が似合う(そう言えば、夜寝る前に必ずコルトレーンを聞いていた時期もあった)。その頃聞いていたのはもっぱらバッハやヴィヴァルディ。クープランやラモー、テレマンなどはいまひとつ曲に魅力を感じなかった。ホロヴィッツは当時大好きだったが、彼の「ホロヴィッツ・プレイズ・スカルラッティ」もいまひとつだった。どうもバッハやヴィヴァルディのような華がない。しかし今回知った二人はなかなか魅力的だった。新しい発見。

  早めに入場したので舞台の真正面の席に座れた。楽器の演奏の時はみな下向き加減で演奏するのでいいのだが、ソプラノの鈴木美登里さんは舞台の一番前にこちら向きで立って歌う。僕は真正面に座っていたのでなんだか目が合いそうな気がして落ち着かなかった。まあ、こっちが気にするほど向こうは観客のことなど見ていないだろうが。いや、しかし、なかなかの美人でしたよ。まっすぐ目を見られなかったのはそのせいかも。

  明日も無料コンサートがあるということなので是非行ってみようと思う。( この4日ほど映画を観ていません。現在レンタル中のDVDもなし。今日当たり手持ちのDVDを何か観てみようと思っています。映画レビューは今しばらくお待ちください。)

2006年7月25日 (火)

スタンドアップ

Doll2s 2005年 アメリカ 2006年1月公開
監督:ニキ・カーロ
製作:ニック・ウェクスラー
脚本:マイケル・サイツマン
製作総指揮:ヘレン・バートレット、ナナ・グリーンウォルド
         ダグ・クレイボーン、ジェフ・スコール
原作:クララ・ビンガム、ローラ・リーディー・ガンスラー
撮影:クリス・メンゲス
美術:リチャード・フーバー
編集:デイビッド・コールソン
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
衣装:シンディー・エバンズ
出演:シャーリーズ・セロン、フランシス・マクドーマンド、ショーン・ビーン
   リチャード・ジェンキンズ、ジェレミー・レナー、ミシェル・モナハン
   ウディ・ハレルソン、シシー・スペイセク、ジェイムズ・カーダ
   ラスティー・シュウイマー、リンダ・エモンド

  昨年末から今年の2月にかけてアメリカ映画の力作が集中的に公開された。それらの作品が半年ほど遅れて今次々とレンタル店に並び始めた。さきがけとして昨年末に公開された「ロード・オブ・ウォー」はラディカルな姿勢を最後まで貫いた傑作だった。「ミュンヘン」や「シリアナ」にはがっかりしたが、今回取り上げる「スタンドアップ」はこれまた堂々たる傑作だった。「クラッシュ」、「ジャーヘッド」、「ホテル・ルワンダ」、「アメリカ家族のいる風景」なども期待できそうだ。

  「スタンドアップ」は実話に基づいている。ミネソタ州のエヴェレス鉱山で働いていたロイス・ジェンセンというシングル・マザーがセクハラで鉱山会社を訴えた裁判(アメリカで最初のセクハラをめぐる裁判)が元になっている。原案となったノンフィクション「集団訴訟――セクハラと闘った女たち」は竹書房から文庫版で翻訳が出ている。映画では80年代末頃の設定になっていたと思うが、ロイス・ジェンセンが就業したのは1975年である。訴訟に訴え出たのは80年代のようだが、裁判所で受け付けるかどうか紆余曲折があり、その上会社側の引き伸ばし工作などによってだいぶ長引いたようだ。98年にやっと和解に至った。就業してから20年以上も経過した長い戦いだった。原告が手にした和解金はわずかだったが労働者保護法が作られるという成果を導き出した。

  差別是正措置であるアファーマティブ・アクションは60年代の後半ごろから導入されているはずなので、75年就業のロイス・ジェンセンはその措置で炭鉱に進出した最初の世代ではないと思われる。しかしまだセクシュアル・ハラスメントという言葉も一般的ではなかった頃だから相当な嫌がらせを受けていたと想像できる。

  映画でも炭鉱会社は法律の縛りでいやいやながら女性を受け入れてはいるものの、セクハラは見てみぬ振り。「それくらい我慢しろ、我慢できないなら辞めろ」という姿勢が露骨だ。辞めてくれれば会社の思う壺である。単に従業員だけが野卑で愚かなのではなく、会社ぐるみだという点を見逃してはいけない。労働組合さえ何の頼りにもならない。むしろセクハラ男の味方だ。同じ女性従業員たちですら、仕事を失いたくないあまりに非協力的だ。むしろ主人公の行動を迷惑がっている。その上シングル・マザーで上の子と下の子の父親が違うために父親からも疎んじられている。主人公のジョージー・エイムズ(シャーリーズ・セロン)は孤立無援だったのである。

  映画の冒頭ジョージーは夫のドメスティック・バイオレンスを逃れて実家に避難してくる。彼女を迎える父親ハンク(リチャード・ジェンキンズ)の態度は実に冷たい。殴られた痕が残る娘の顔を見て「浮気がばれて殴られたのか」というような言葉を投げつける。この一言で、ミネソタの田舎町がいかに保守的な気風であるかがいやというほど伝わってくる。特にジョージーの上の子の父親が誰か分からないために、若い頃さんざん遊び歩いたふしだらな娘だと父親は思い込んでいる。彼ばかりか狭い地域社会ではみなそのことを知っている。映画の最後の裁判の場面で明らかになるが、実はそれはまったく根拠のない噂で、彼女には息子の父親を明かせない事情があったのだ。真相を知った父親が法廷で「その男」に殴りかかり退廷させられる場面が出てくる。

  ジョージーは実家に戻ったものの、いつまでも親の厄介になっているわけには行かない。親もそれを望んではいない。日本と違って大人になった子供は親と同居しない。ジョージーは働き口を探す。たまたま町で出会った旧友のグローリー(フランシス・マクドーマンド)から炭鉱で働くことを進められる。だが父親は同じ炭鉱で働いているので反対する。しかし母子家庭で二人の子供を育てるには給料のいい炭鉱で働く以外に道はない。

  同時採用の女性たちと職場を案内されたジョージーは早速男たちからセクハラの洗礼を受ける。すれ違いざまに汚い言葉を浴びせかけられる。それからは苦難の連続だ。ロッカールームで一人涙を流すこともあった。グローリーは「女を追い出す口実を与えちゃだめ」と励ます。グローリーは組合の役員でもあり、持ち前の負けん気で男どもの汚い言葉にやり返す。それができるのは彼女だけだ。他の女性はみなひたすら我慢している。彼女たちがなぜそうまでされてなおこの職場にかじりついているのか詳しく描かれてはいない。それぞれ色んな事情があったのだろうと想像するしかない。グローリーの夫のカイル(ショーン・ビーン)も炭鉱で体を壊して職場を離れている。他の女性たちも母子家庭であったり病気の肉親を抱えているなどの深刻な事情があったと思われる。

  ひどい扱いにジョージーは一人立ち向かおうとする。彼女は最初社長に直訴するが、「辞めるときは通常なら2週間前に申し出なければならないが、君の場合特別に今すぐ辞めていい」と冷たくあしらわれる。果ては息子まで学校で差別されることになる。ついに彼女は決心した。同じ町に住む弁護士のビル・ホワイト(ウディ・ハレルソン)を口説き落とし会社を相手取って訴訟を起こす。

Artyasinokojima250wa   以上が裁判を起こそうと決意するまでの経過である。なぜジョージーにここまでの行動が取れたのだろうか。単に女性は強いというだけでは不十分だろう。我慢している女性従業員もいる。グローリーですら集団裁判に持ってゆくには原告が最低3人必要だと協力を求められた時断っている。あるいは男性の中にも訴訟を引き受けたビル・ホワイトのような勇気ある男もいた。おそらく、ジョージーの強さは守るべきものを持っている人の強さなのだ。もちろん、その強さは彼女に最初同調しなかった他の女性たちにもあった。彼女たちにも守るべき生活があった。だから訴えることもせずじっと我慢していたのだ。あの執拗なセクハラに耐えて職場にかじりついているのは並大抵のことではない。彼女たちの背後には泣く泣く職場を辞めていったその何倍もの女たちがいるに違いないのだ。彼女たちも強い。しかしジョージーはただ受身的に生活を守るだけでは同じことが続くだけで、会社と男たちの考えを改めさせなければ根本的な解決にはならないと考えた。ただ受身的に守るのではなく、改善を求めて立ち上がった。取った方法は違っていたが、共に強かったのはどうしても守りたいものが彼女たちにあったからだ。

  ではジョージーが守りたかったものとは何であったか。ビル・ホワイトに訴訟の依頼をした時の会話に重要なヒントが含まれている。ビルは最初断る。「裁判に勝っても現実は厳しいぞ。」「正しいのに。」「正しくても現実の前では無力だ。アニタ・ヒル(注)を見ろ。法廷は鉱山よりひどいぞ。君をあばずれ呼ばわり。″誇大妄想″だの、″自分で誘った″だのと言われて傷つくだけだ。新しい仕事を見つけてやり直したほうがいい。」「やり直すのは無理よ。」「君は美しい。いくらでも・・・」「″養ってくれる男が見つかる″って?自分でちゃんと稼いで子供を養いたいの。これは女性みんなの問題よ。どうでもいいって?」

  「これは女性みんなの問題よ」というせりふも大事だが、男に養ってもらうのではなく「自分でちゃんと稼いで子供を養いたい」という言葉こそ重要である。実家に帰る前は専業主婦で毎日のように夫に殴られる生活だったのだろう。もう自分は誰の世話にもならない。自分と子供の生活費は自分で稼ぎたい。あちこち壁紙が剥げている家を自分で稼いだ賃金で買ったときの彼女の誇らしげでうれしそうな顔。初めて子供たちとまともなレストランで食事をした時の彼女の顔の輝き。彼女は働くこと、自分の手で生活費を稼ぐことの喜びを初めて味わったのだ。ジョージーは「人形の家」を出て精神的に自立しただけではなく、魯迅が提起したより困難な課題、経済的自立までも手に入れたのである。さらに彼女には守るべき子供が二人いた。そもそも炭鉱のきつい仕事を選んだのも子供たちのためだ。子供のためならどんなことでもする。彼女は何度もそう言った。だが、彼女が求めたものは何も特別なことではなかった。それは当たり前の、なんでもないささやかな幸せに過ぎない。自分たちの家を持ち、仕事をして収入を得、子供を守り育てる。平凡だが幸せな生活。そのささやかな生活(もはや「夢」ではない、現実の生活)を会社と職場の男どもは許さなかったのだ。だからこそ、彼女は敢然と立ち上がったのである。ここで諦めたらやっと手に入れた自分たちの生活ばかりか人間としての誇りまでも失うことになる。

  組合の集会で父親が立ち上がって娘を誇りに思うと発言した場面も感動的だが、僕が最も素晴らしいと思うのは、ジョージーが自分で働いて生きることに喜びを感じてゆく姿を丁寧に描いたことである。会社はそれを許さなかった。執拗であからさまなセクハラにも観ていて腹が立ったが、会社と同僚の男たちがジョージーからこの生きる喜びを奪おうとしていることにより強い怒りを覚える。男から職を奪うのをやめて、女はおとなしく家庭に戻って男に「養われて」いればいい。そうすればかわいがってやるよ。女性従業員のシェリーが中に入っている簡易トイレをゆすってひっくり返し糞まみれにしてしまう、すれ違うたびに、「あばずれ、メス豚」などの汚い言葉を浴びせる、弁当箱の中にペニスの形のおもちゃを入れるなどの子供じみたいじめ(何という心の貧しさ)以上に問題なのは、その背後にあるこういう考え方だ。家庭も大事だが、女性が働きたい時や働く必用があるときにそれを保障することも大事だ。男たちが投げつけるシモネタ満載の言葉の裏に「お前らは家に引っ込んでろ」という本音が潜んでいる。

  後半は裁判の行方と同時に、一人また一人と彼女の仲間が増え、一時ずたずたになっていた家族の絆が取り戻される過程を描く。彼女はたった一人で立ち上がった。しかし一人では戦えないのだ。この後半部分は感動的だ。果敢に汚れ役に挑んだ主演のシャーリーズ・セロンも素晴らしいが(美人すぎるのでまだ汚れたりない気はするが、迷いながらもうつむかずにきっと前を見つめる姿が魅力的である)、彼女を脇で支える助演陣がまた見事だ。中でも群を抜く存在感を示したのはジョージーをずっと支え続けたグローリー役に扮したフランシス・マクドーマンド。素晴らしい女優だ。彼女をめぐるビルとカイルの会話が面白い。ビル「なぜグローリーは迫害されないんだ?」カイル「グローリーは組合の代表だった。信頼を勝ち得ていたのさ。群れに迎合しないし、誇り高い。」ビル「群れは安全だ。群れれば生きArtkazamidori01250wc_1残れるが孤立したら餌食になる。」

  女性版ウィレム・デフォーという感じの渋い顔がここでは何ともどっしりとした信頼感と力強さを与える。ジョージーに「まず男にならないとダメ」と忠告したのは彼女だった。彼女自身その言葉どおりに実践していた。だが彼女はある病気のため職場を離れてしまう。ALS(筋萎縮性側索硬化症)で体の機能が次第に奪われてゆく。それでも気丈に普段どおりに振舞おうとする姿勢に強く胸を打たれる。その彼女を温かく世話し見守る夫のカイルがまたいい。ともに辛い状況に置かれながら、ジョージーにカイルの秘密を打ち明けて愉快そうに笑ったりと陽気に振舞っている姿に胸が熱くなる。カイルはまたジョージーの息子サミーとの関係でも重要な役割を果たした。裁判でサミーは自分の父親が母親のレイプ犯だと知ってしまう。はじめて事実を知ったサミーはジョージーを憎む。カイルの元に逃げてきたサミーをカイルは決して叱らなかった。彼は「人を憎むことはキツイぞ。その覚悟はあるのか」と語りかけるのだ。彼の言葉にサミーの憎しみが解けてゆく。別れる時にカイルはサミーに「友達として」腕時計を渡す。このシーンが実に見事だった。その後のサミーとジョージーが抱き合う場面よりも素晴らしいと思う。

  カイルとビルは最初から町の男たちとは異質だった。炭鉱の男たちに迎合しようとしない。町の良心とも言うべき二人をショーン・ビーンとウディ・ハレルソンが味わい深く演じている。この二人は最初から安心してみていられる。グローリーとカイルとビル、ジョージーを支えたのはこの三人である。

  だが、町の雰囲気を一変させたのはジョージーの父親のハンクだった。組合大会に乗り込んで演説する彼女に男たちが汚い野次を浴びせかける。それをじっと聞いていた父親がやにわに立ち上がり発言を求める。下がろうとする娘を脇に立たせ、彼は言葉を噛み締めるようにゆっくりとこう発言した。「君らを仲間だと、兄弟だと思ってた。だがここに友はいない。ここで誇れる人間は娘だけだ。」

  父親は父親の言葉で、すなわち同じ炭鉱で働く男として語った。お前たちは仲間ではなかったのか?ジョージーの訴えよりも炭鉱の男たちにはこの言葉がこたえた。同じ職場で働く男たちの連帯感に訴えたのだ。彼らは下卑た無教養な男たちだが、それでもヤマの男たちだった。演壇を降りて退場する二人に何人もの男たちが立ち上がり拍手を送る。この描き方がいい。一方、後列に固まっていた女性たちは拍手もせず呆然と二人を見送っていた。

  よく指摘されるが、 あれほど娘に冷たい態度をとっていたハンクが急に態度を変えたのは確かに唐突である。しかし一応の説明はされている。妻のアリスが彼を変えたのだ。娘に対する夫のあまりの無理解にアリスは家を出る。娘ばかりか母親も「人形の家」を出たのだ!口では娘に我慢しなさいと言いながら、肝心な時に娘を支えたのは母親だった。この描き方もいい。これにはさすがのハンクもこたえた。そう描かれている。しかし、そもそもハンクは心からジョージーを嫌っていたわけではないと考えるべきだろう。父親とは本心を隠して往々にしてああいう態度をとるものだ。この頑固親父を演じたリチャード・ジェンキンズが渋い。そして陰で娘を支え続ける母親を演じたシシー・スペイセクがまたすばらしい。いつの間にかすっかりばあさんになってしまったが、あの目立たないようでしっかりと家族を見守っているアリスの佇まいは彼女だからこそ表現できたものだろう。アカデミー主演女優賞を受賞した「歌え!ロレッタ愛のために」(80)や、地味ながら「ミッシング」(82)、「ザ・リバー」(84)、「ロング・ウォーク・ホーム」(90)などは一見をすすめたい。

  監督を務めたのは「クジラの島の少女」の女性監督ニキ・カーロ。ハリウッドに渡ってつまらない映画を作らされないかと心配していたが、うれしいことに杞憂だった。今後も素晴らしい作品を送り出してくれるに違いない。願わくばスウェーデンからアメリカに渡った後も傑作を作り続けているラッセ・ハルストレム監督のようになって欲しい。

  ラストで流れるボブ・ディランの「スウィートハート・ライク・ユー」とキャット・パワーの「パス・オブ・ヴィクトリー」(ボブ・ディラン作曲)も耳に残った。

(注) アニタ・ヒル
  ブッシュ大統領によって最高裁判事に推薦された黒人裁判官クラレンス・トーマスの選任を決める上院司法委員会の審理で、かつてトーマス判事の部下であったアニタ・ヒル教授が彼にセクハラを受けたと証言した事件。彼女の話題がテレビで放映されている様子が映画の中で何度か映されていた。

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2006年7月23日 (日)

久々の温泉

Earth1_1   お昼過ぎに「OUT」のレビュー完成。ホームページとブログにアップする。昼飯を食べてからいくつかの本屋を回る。徳田秋声の『あらくれ』(講談社文庫)を探していたのだがどこにも置いてない。しかし代わりにオリーヴ・シュライナーの『アフリカ農場物語』の上巻が岩波文庫から出ているのを発見。イギリスの「ニュー・ウーマン・ノヴェル」の代表作の一つ。こんなものが翻訳で出るとは!いい時代になったものだ。その後家に帰るつもりだったが、急に温泉に入りたくなった。急遽「ささらの湯」に向かう。久々だ。

  レビューを書き上げたので心の余裕ができたこともあるが、このところ車を代えてからドライブがしたくて仕方がない(「待望の連休」参照)。まっすぐ家に帰らずにわざわざ遠回りしたりしている。きのうの夕方も芸術村までふらっと車で行った。久々に温泉に行こうと思ったのもそういう気持ちの延長だろう。新しく中古で買ったインプレッサは年式が4年違うだけでこれだけ車のグレードが違うのかと驚くほど乗り心地がいいし、サニーにはなかったいろいろな装備が付いている。買ってしばらくはずっと雨だったのでまだ遠出はしていないがとにかく走るのが楽しい。ただ燃費は悪い気がする。まだガソリンを入れ替えていないので燃費を計算できないが。

  春から秋にかけては風呂に入らずシャワーで済ませているので、しばらくゆっくりと湯船に浸かっていない。温泉は広いし気分的にもゆったりとできる。特に露天風呂は気持ちがいい。のんびりした気分になれる。「ささらの湯」は家から車で20分ほど。市内には家から車で10分もかからないところに有名な別所温泉があり(「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」や「卓球温泉」などのロケ地)外湯も4つほどあるが、こちらは最近とんとご無沙汰。「ささらの湯」は職場の組合から回数券がもらえるので只で入れる。だからどうしてもそっちに足が向いてしまう。上田近辺には車があれば1時間以内に行ける日帰り温泉が「ささらの湯」以外にも6つほどある。別所温泉などの温泉郷も4つくらいある。いや、よく考えればもっとあるかもしれない。あまりに身近なので普段はありがたみも感じず、滅多に利用しない。最近は面倒で温泉券をもらいに行きもしない(4つくらいの温泉から1箇所選べる)。近くに温泉がない人には「何を贅沢な、ばちが当たる」と言われそうだ。でも実際はそんなもんです。

  家に帰るとアマゾンで注文していたDVDがどさっと届いていた。「これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年6月)」で紹介した「ドン・キホーテ」が手に入ったのがうれしい。チェコの人形アニメ作家イジー・トルンカも2本ゲット。つい先日も待望の「タヴィアーニ兄弟傑作選DVD-BOX」と「ひょっこりひょうたん島」のDVD-BOX2セットを入手。「OUT」もブックオフで買ってその日に観たのである。覚悟していた値段の半分で車が買えたのでこのところ気が大きくなっている。そろそろ気を引き締めねば。

  さあ、今日はこれから「スタンドアップ」を観るぞ。またアメリカ映画。このところ充実している。楽しみ、楽しみ。

OUT

La6s 2002年 日本 2002年10月公開
原作:桐野夏生
監督:平山秀幸
脚本:鄭義信
製作:古澤利夫 木村典代 
製作総指揮:諸橋健一 
プロデューサー:中條秀勝 藤田義則 福島総司
撮影:柴崎幸三 
美術:中沢克己 
音楽:安川午朗
出演:原田美枝子、倍賞美津子、室井滋、西田尚美、香川照之
    間寛平、大森南朋  千石規子、吉田日出子、小木茂光

  平山秀幸監督の作品を観るのはこれが3本目。「愛を乞うひと」(1998)、「学校の怪談4」(1999)そして「OUT」(2002)。「学校の怪談4」は「映画の小道具」という記事で紹介した講座で取り上げられた時に観た。舞台となった小学校が上田の旧西塩田小学校なのである。講座の後、暗くなってから旧西塩田小学校を見学に行った。もう廃校になって長いので夜は不気味だ。特に理科室だったところは一人だったら入れない感じ。隣の体育館も回ったが、ここは映画「卓球温泉」で卓球をする場面に使われたところだ。見学(というよりほとんど肝試し)が終わって会場に戻ると、留守番の人が新潟で震度6の大きな地震があったと興奮していた。いわゆる中越地震。日記で確かめてみると2004年10月23日。地震があったのは僕らがちょうど車で移動していた時だった。上田も結構揺れたらしいが、車に乗っていた人は誰も気づかなかった。会場にいる間に2回余震を感じた。

  「学校の怪談4」は意外なほどよくできた映画だった。日記には「予想以上に立派な映画だった。何か『トイレの花子さん』の様な子供だましの映画だと思っていたが、ジーンとさせる映画だった」と書いてある。平山秀幸監督が「愛を乞うひと」の監督だと知ったのもその時だった。「愛を乞うひと」は強烈な映画だった。娘を虐待する原田美枝子にはまさに鬼気迫るものがあった(母と大人になった娘の二役)。若いころは「巨乳」(まだそんな言葉はなかったと思うが)で知られる若手女優だった。「あゝ野麦峠」(1979)、「乱」(1985)、「火宅の人」(1986)、「釣りバカ日誌2」(1989)、「夢」(1990)、「息子」(1991)と観てきたが、「火宅の人」以外はほとんど印象が残っていない。なぜ「火宅の人」が印象に残っているかというと、見るからに枯れた当時70代の知人が「火宅の人」の原田美枝子はものすごく「そそる」と言っているのを聞いて、わざわざ観に行った映画だからである。映画そのものはまあまあだったが、確かにあの頃の原田美枝子はぴちぴちで魅力的だった。その後「胸」のことばかり言われるので嫌気がさしていた時期があった様だが(当時はかたせ梨乃と並んで双璧だったように思う)、「絵の中のぼくの村」(1996)では見事な演技派女優になっていた。彼女を優れた女優として意識したのはこの映画が最初である。その後に続いて観たのが「愛を乞うひと」。もはや疑いようはない。今や40代の女優としては最も魅力と実力を兼ね備えた女優ではないか。若い頃より美人になった気がする。大人の女性として20代、30代の女優には出せない落ち着きと色香を放っている。

  その後も「雨あがる」(1999)、「学校の怪談4」、「OUT」(2002)、「半落ち」(2003)、「THE有頂天ホテル」(2005)、「蝉しぐれ」(2005)と観てきた。どの映画でも確かな存在感を示している。81年と02年に2回出演した「北の国から」でも強い印象を残した。中でも女優としての魅力が最も発揮されているのは今回取り上げる「OUT」である。

  原作はベストセラーになった桐野夏生の小説。彼女の小説は1冊も読んでいない。だいぶ原作とは違うようなので、小説との違いをいくつかのブログ等から拾ってみた。まず原作は映画より遥かに暗く重い内容である。邦子や雅子の夫も佐竹に惨殺される。邦子の死体も解体させられるようだ。また、原作では南に逃げる事を匂わせて終わるのに映画では北に向かっている。映画では不可解に映った弥生の行動も原作やTV版ではもっと丁寧に描かれている。

  最後にTV版に触れたが、TV版では田中美佐子、渡辺えり子、高田聖子、原沙知絵が4人の主婦を演じていたようだ。香川照之の役は哀川翔、間寛平の役を柄本明が演じていた。TV版はともかく、原作と映画は相当に違っているようだ。これは意図的なもので、平山監督は「単に事件を追いかけるだけならば、ノンフィクションにはかなわない。あくまでも、大人の娯楽を目指した作品に仕上げたい」と言っている。脚本を担当した鄭義信も重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したようだ。

  暗く重苦しい原作を「大人の娯楽」に変えた結果はどうか。おそらくこのあたりが評価の分かれ目だろう。映画化作品はどうしても原作のすべてを盛り込めないのでかなりの部分を大胆に削り落とさなければならない。多く不満が出されるのは4人のパート主婦たち(原田美枝子/香取雅子、倍賞美津子/吾妻ヨシエ、室井滋/城之内邦子、西田尚美/山本弥生)が抱える苦悩、出口の見出せない潤いのない日常、牢獄のようにがんじがらめにされた彼女たちの閉塞感が十分描かれていないこと。罪をかぶさられた佐竹が彼女たちに迫ってくる不気味な緊張感と恐怖が十分伝わってこないことなどである(間寛平の不気味さが足りないという指摘は多い)。夫を殺した後あっけらかんとして死体処理を雅子に任せる弥生(演じる西田尚美は深津絵里にそっくりだ)の無責任さに腹が立つのも描き込みが足りないからだ。彼女が発作的に夫の首を絞めて殺してしまうこと自体は十分理解できる。バカラ賭博にふけり家に帰れば妊娠している弥生の腹を殴りつける夫の暴力が詳しく描かれているからだ。4人の中で弥生の苦悩が一番リアルで身に迫ってくる。最も切迫していたからこそ衝動殺人に走ってしまった。殺人は殺人だが、切羽詰った状況に追い込まれた彼女にも同情できる。しかしその後の対処の仕方の部分で、なぜ彼女が無責任な態度をとるのかが理解できない。彼女の内面が十分描かれていないからだ。同様に他の3人がなぜあそこまでして死体処理にかかわるのかも十分納得できない。最初死体処理を持ちかけられた雅子は当然ながら警察に知らせるようすすめた。その彼女が気持ちを変えたのは弥生が彼女に自分の腹を触らせたからである。この子を刑務所の中で生むわけにはいかない。この無言の訴えに負けたからである。

  これとても無理があるが、女性としてこのことを重く受け止めたという一応の説明は可能である。しかし、それならそれでなぜ死体を埋めるなどの対策を考えなかったのか理解できない。自分の家の風呂場で死体を解体するなどというのは一番ありそうもない設定だ。死体は車のトランクに入っていたのである。だったら人に見られないところに運んで埋めるのが普通の発想だろう。あるいは、死体解体に巻き込まれるヨシエや邦子の側の事情も説得的に描かれてはいない。おそらく原作ではそうせざるを得ないそれぞれの事情をきちんと描いているに違いない。

  いずれにしてもこのあたりを境に映画はリアリズムから遠ざかってゆく。原作ではおそらく状況に押し出されるようにして望まざる方向へ避けようもなく押し流されてゆく女たちを描いていたと思われる。映画では、原作になかったであろうコミカルな味付けを加え、かつシュールな展開になってゆく。3人の女がまるで弁当の盛り付けをするように結構楽しみながら死体の解体を進めてゆくなどという図は本来ありえない話だ。

  では映画は小説を離れて何を描こうとしたのか。それは逆に映画的表現として新たに付け加えられた部分を見ればわかる。原作では南に逃げるはずが、映画では雅子と邦子と弥生の3人で北に向かう。北に設定を変えたのはヨシエが「知床のオーロラが見たい」と語っていたからである。一人罪を背負って自首する道を選んだヨシエに代わって雅子がその夢を引き継ぐ。雅子たちが北海道へ向かったのはオーロラを見るためである。

  途中で産気づいた弥生を病院に置いてきたので最後は雅子と邦子の二人でアラスカを目指す。最後に二人を拾うトラックの運転手として吉田日出子が出てくる。アラスカにオーロラを見に行くという二人の話を聞いて、彼女は豪快に笑う。「いやいやいや、なまら(?)でっかい夢でないかい!ハハハハハハ。」映画はこの結末にもっていきたかったのだ。荒唐無稽な二人の計画を吉田日出子が豪快に笑って受け止めることによって、映画は二人の夢を肯定的に受け入れている。

  要するに、原作はともかく映画は閉塞状況を打ち破って牢獄のような日常生活から抜け出してゆく(OUT)女たちをユーモアをこめて温かく描き出すことに主題があった。女の解放と再生を描きたかったのである。北へ向かう彼女たちには夢以外何もない。たとえオーロラを見ることができても、その後の生活の保証はない。最後にはファンタジーになってしまう。この点も評価の分かれ目だろう。

Sizuka2   このラストに説得力がないという批判も少なくない。確かにそのとおりである。しかし全面的に否定するつもりもない。問題は彼女たちを支えていた夢の質である。ヨシエの語った夢はどんな夢だったか。毎日10円ずつ貯金してゆけば、10年で3万6500円になる。その金で知床のオーロラを見に行きたかったと彼女は語ったのである。しかしついにその夢は実現することはなかった。彼女には世話をしなければならない姑(千石規子)がいる。彼女を置いてはいけないし、金をためることもできなかった。どんなに空を見上げ夢を見ようとも、彼女の足は現実という鎖につながれていた。それはリストラされ毎日を無為に過ごしている夫良樹(小木茂光)やまったく口も利かない息子と暮らしている雅子も同じだった。一人暮らしのむなしさを補うためにブランド品を買い捲り借金取りに追われている邦子も同様だ。ヨシエの語った夢はそんなむなしい日常に縛られている自分を励ますささやかな希望だった。それは彼女たちがおかれている生活がいかに無味乾燥で抑圧的であるかを逆に映し出している。ばかげた夢だが笑うべきではない。

  死体処理に嬉々として励む彼女たちに不思議な開放感があるのは(もちろん最初は顔を背けていたが)、非日常的なスリルを彼女たちが楽しんでいるよう描きたかったからだ。北海道の病院の前で弥生と雅子が交わす言葉にそれが表れている。「雅子さん、何でここまで付き合ってくれたんですか。」「巻き込まれたの、あんたに。楽しかったよ。ドキドキした。久しぶりだったそういうの。」彼女たちを追う佐竹に期待ほどの凄みがないのは迫り来る恐怖ではなく、それを乗り越えて現実から脱出して行く彼女たちのバイタリティを描きたかったからだ。吉田日出子が豪快に笑ったのはこの奇妙な女二人連れにこのバイタリティーを感じたからである。毎日10円ずつためてゆくというささやかな夢が最後には「でっかい夢」になる。

  偶然共犯者になってしまった4人の女たちは不思議な連帯感で結ばれてゆく。ただの行き掛かり上の共犯者仲間から同士になった。一人でできなかったことが力をあわせればできたからだ。あれほど自己中心的でいい加減だった邦子(工場での働きっぷりにそれが現れている)も弥生と分かれる時に大事なバッグを渡す。「これ本物だから。お金ないけどあげる。出産祝い。」初めて夢を持つことができた邦子にはもうブランド物のバッグはいらなくなったということだろう。これが実は象徴的だ。つまり、繰り返すが、彼女たちは夢以外何も持たずにアラスカに向けて旅立ったのだ。

  ここまで来て、やはり思い出されるのは魯迅の言葉である。魯迅は『人形の家』を論じた「ノラは家出してからどうなったか」と題した講演で、ノラには実際二つの道しかなかったと論じた。堕落するか、そうでなければ家に帰るかである。「人生にいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」である。「夢を見ている人は幸福」だ。確かに道が見つからない時に必要なのは夢である。しかし将来の夢を見ては行けない。必要なのは現在の夢であると。

  「OUT」のラストには希望がある。警察から逃げているはずの彼女たちに悲壮感は漂っていない。むしろ開放感や爽快感がある。しかしこの映画は上で指摘したように、すでに早い段階でファンタジーになってしまっている。ファンタジーは幻想でもある。この先彼女たちはどうなるのか。鎖は断ち切り開放されたが、彼女たちを待っている未来は不確定だ。なぜなら現実は変わっていないからだ。彼女たちは現実から逃避したのであって、現実を変えたわけではない。彼女たちの前向きの姿勢が生む爽快感は『人形の家』に通じるが、開放感が幻滅に変わるかもしれない不安が絶えず付きまとっている、つまり逃避しただけで終わっている点もまた『人形の家』と同じなのである。

  雅子は師匠と慕うヨシエが警察に自首する直前に彼女と最後の言葉を交わす。「師匠、あたしやってける。何もなしでやってける。」「やってけるよ。案外しぶといもんさ、人間って。」しかしこの言葉を裏付けるものは何もない。あるのは夢と漠然とした希望だけ。この言葉と自信だけでは魯迅が指摘した「夢から覚めた後の現実」を乗り切れる保証はない。

  リストラ、老人介護、カード破産、ドメスティック・バイオレンス。彼女たちが逃げ出した後もこれらの現実は消えうせはしない。弥生の夫、雅子の夫と息子、映画の中で男たちはだらしなく無気力だ。それは単に彼ら個人の問題ではなく、社会の矛盾の現れでもある。「OUT」では、これらの矛盾がほかならぬ女性問題として表れる。男たちが行動しないから女がそれらを引き受けて処理しなければならない。付けが全部女性に回ってくるわけだ。そして女たちはそれらを処理した。その結果警察に追われることになったが、彼女たちは逃げるのではなく向かっていた。夢に。

  現実社会の恐怖に正面から向き合うのではなく、ファンタジーに逃げてしまった描き方に不満も残る。それでもこれだけは言っておくべきだろう。生気を失い、ただ無為に過ごす無気力な男たちと違って女たちは少なくとも行動した。その行動力が生きる力を生み出すかもしれない。途中で夢破れるものもいるかもしれない。だが生きがいを見つけるものもいるかもしれない。さすがに1879年に書かれた『人形の家』から100年以上たっている。『人形の家』のノラは夫の財産の一部のように扱われ自分では何も判断できなかった。最後にようやく自分の意思を持ち、決然として「人形の家」を出てゆく。それが今や、無気力な夫と息子を励まし生計を維持しているのは雅子である(何かと口やかましい雅子に男たちが却ってうんざりしてしょげ返る気持ちも分からなくもないが)。いずれにしても人生はそれぞれ自分で掴み取るものだ(4人がカラオケで歌った「人生いろいろ」が暗示的だ)。そして彼女たちに掴み取れるチャンスは100年前よりずっと広がっている。少なくともその点は変わった。この100年の間に。

  原田美枝子、倍賞美津子、室井滋、西田尚美の4人はそれぞれに持ち味を発揮していて素晴らしかった。ローン会社の男を演じた香川照之もまた出色。間寛平は確かに凄みが足りなかったが懸命に役に打ち込んでいた。撮影日記に記された「間は、セットにじっと佇んでいる。飾らず、作らず、ただ存在することが佐竹の狂気を表現する方法であることを、舞台人でもある間は本能で身に付けた。間の迫真の演技に、倍賞にも緊迫感が漲る。」という言葉をきちんと受け止めておきたい。

原田美枝子出演作品
■おすすめの5本(「OUT」を除く)
 「THE有頂天ホテル」(2005)
 「愛を乞うひと」(1998)
 「絵の中のぼくの村」(1996)
 「息子」(1991)
 「火宅の人」(1986)

■こちらも要チェック
 「学校の怪談4」(1999)

香川照之出演作品
■おすすめの5本(「OUT」を除く)
 「嫌われ松子の一生」(2006)
 「いつか読書する日」(2004)
 「刑務所の中」(2002)
 「美しい夏キリシマ」(2002)
 「鬼が来た!」(2000)

■気になる未見作品  
 「故郷の香り」(2003)

2006年7月21日 (金)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年8月)

058356   新作ではアニメが健闘。何と名作「やぶにらみの暴君」の完全版「王と鳥」が公開される。宮崎駿の息子が始めて監督した「ゲド戦記」も楽しみだ。果たしてどの程度の出来か。「太陽」は先にイギリス版DVDで観たが、さほど感心せず。ただ話題の作品なので挙げておきます。ソクーロフのDVD-BOXも月末に出る。
 DVDではいよいよ「THE有頂天ホテル」が出る。他に「イノセント・ボイス」、「PROMISE」、「ホテル・ルワンダ」、「力道山」、「アメリカ家族のいる風景」、「ウォレスとグルミット野菜畑で大ピンチ!」など注目作が続々。
  旧作では(ガッツ石松感涙!)「OK牧場の決斗」が初DVD化。「拝啓天皇陛下様」もぜひ。

【新作映画】
7月22日公開
 「おさるのジョージ」(06、マシュー・オキャラハン監督、米)
 「蟻の兵隊」(05、池谷薫監督、日本)
 「トランスアメリカ」(05、ダンカン・タッカー監督、アメリカ)
7月29日公開
 「ゲド戦記」(宮崎吾朗監督、日本)
 「王と鳥(やぶにらみの暴君)」(80、ポール・グリモー監督、フランス)
 「カクタス・ジャック」(アレファンドロ・ロサーノ監督、メキシコ)
8月5日 公開
 「太陽」(05、アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア・他)
 「森のリトル・ギャング」(06、ティム・ジョンソン他監督、アメリカ)
8月12日公開
 「狩人と犬、最後の旅」(04、ニコラス・バニエ監督、仏・他)
 「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督、日本)
 「ユナイテッド93」(06、ポール・グリーングラス監督、アメリカ)
8月19日公開
 「花田少年史」(06、水田伸生監督、日本)
 「深海」(05、チェン・ウェンタン監督、台湾)
8月26日公開
 「ディア・ピョンヤン」(ヤン・ヨンヒ監督、日本)

【新作DVD】
7月21日
 「サウンド・オブ・サンダー」(05、ピーター・ハイアムズ監督、米・他)
 「マサイ」(04、パスカル・ブリッソン監督、フランス)
7月25日
 「忘れえぬ想い」(イー・トンシン監督、香港)
7月28日
 「イノセント・ボイス」((04、ルイス・マンドーキ監督、メキシコ・他)
 「シムソンズ」(06、佐藤祐市監督、日本)
7月29日
 「埋もれ木」(小栗康平監督、日本)
8月4日
 「THE有頂天ホテル」(06、三谷幸喜監督、日本)
 「PROMISE」(05、チェン・カイコー監督、中国・他)
 「プリティ・ヘレン」(04、ゲイリー・マーシャル監督、米)
 「力道山」(04、ソン・ヘソン監督、日本・韓国)
8月11日
 「ウォレスとグルミット野菜畑で大ピンチ!」(05、ニック・パーク監督、英)
8月25日
 「ホテル・ルワンダ」(04、テリー・ジョージ監督、米・英・他)
 「僕と未来とブエノスアイレス」(03、ダニエル・ブルマン監督、アルゼンチン・他)
 「イベリア 魂のフラメンコ」(05、カルロス・サウラ監督、スペイン・仏)
 「アメリカ家族のいる風景」(05、ヴィム・ヴェンダ-ス監督、仏・独・米)

【旧作DVD】
7月21日
 「OK牧場の決斗」(57、ジョン・スタージェス監督、米)
7月28日
 「ロバと女王」(70、ジャック・ドゥミ監督、フランス)
7月29日
 「ルイス・ブニュエルDVD-BOX②」(ルイス・ブニュエル監督、メキシコ・他)
 「拝啓天皇陛下様」(63、野村芳太郎監督、日本)
 「あゝ声なき友」(72、今井正監督、日本)
8月4日
 「純愛物語」(57、今井正監督、日本)

2006年7月20日 (木)

シン・シティ

2005年 アメリカ 2005年10月公開
原題:Sin City
監督・脚本:ロバート・ロドリゲス&フランク・ミラー
特別監督:クエンティン・タランティーノ
原作コミック:フランク・ミラー
撮影・編集:ロバート・ロドリゲス
製作総指揮:ボブ・ワインスタイン&ハーヴェイ・ワインスタイン
製作:エリザベス・アベラン&ロバート・ロドリゲス&フランク・ミラー
音楽:エリザベス・アベラン&ロバート・ロドリゲス&フランク・ミラー
美術:ジャネット・スコット
特殊効果メイク:K.N.B.エフェクツ・グループ
出演:ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジェシカ・アルバ
   ベニチオ・デル・トロ、イライジャ・ウッド、ジョシュ・ハートネット
   ブリタニー・マーフィ、デヴォン青木、ロザリオ・ドーソン、ニック・スタール
   マイケル・クラーク・ダンカン、ルトガー・ハウアー、マイケル・マドセン
   ジェイミー・キング、アレクシス・ブレデル、カーラ・グギノ、パワーズ・ブース

  「プライドと偏見」、「ミリオンズ」とイギリス映画を続けて観た後、「ロード・オブ・ウォー」、「シリアナ」、「シン・シティ」と今度はアメリカ映画を続けざまに3本観た。順番としては「シリアナ」のレビューが「シン・シティ」の先に来るのだが、あまりに期待はずれでがっかりしたのでレビューを書く気にもなれない。あんな細切れにしてつなぎ合わせたのではさっぱり状況が理解できない。観客は置いてきぼりだ。ということで、今回取り上げるのは「シン・シティ」。

  最初にロバート・ロドリゲス監督のマイ・ベスト5を挙げておこう。037550
1位「シン・シティ」(2005)
2位「フォー・ルームス」(1995)
3位「デスペラード」(1995)
4位「パラサイト」(1998)
5位「フロム・ダスク・ティル・ドーン」(1996)

  なぜこの5本かというと、理由は簡単。これだけしか観ていないから。1位は文句なしでしょう。群を抜いている。2位の「フォー・ルームス」はオムニバス。ロドリゲスのパートだけで判断すべきだろうが、パートごとの出来・不出来までは覚えていないので、作品全体で判断した。傑作の一歩手前という出来だったと思う。「デスペラード」はアントニオ・バンデラスが魅力的だった。結構楽しめたので3位。「パラサイト」はエイリアンものとしては平均のでき。観たことすら忘れていて、ネットでDVDのジャケット写真を見て思い出した。イライジャ・ウッドが出ていたが、この頃はまだ無名だった。「フロム・ダスク・ティル・ドーン」は滅茶苦茶な映画だった。前半はまずまずのサスペンス映画だったが、後半いきなり「スターシップ・トゥルーパーズ」になってしまう。映画館で観たのだが、併映は「12モンキーズ」。2本とも見事にはずれ。お金をドブに捨てたようなものだ。

  「シン・シティ」はロバート・ロドリゲスが放った唯一の傑作。まるで突然変異のように出来がいい。その魅力は何といっても独特のスタイルにある。これだけユニークなスタイルを持ったアメリカ映画を観るのは「メメント」以来だ。いや、スタイルという言葉では弱い。独特の「美学」を感じる。「パイレーツ・オブ・カリビアン」のレビューで「アニメの動きや味わいを生かしつつ最初から実写として」撮られた映画だと書いた。そういう意味でユニークな成功を収めた映画だった。一方「シン・シティ」はフランク・ミラーの原作(アメリカン・コミックス、要するに漫画)を映像に置き換えたものである。「置き換えた」と書いたのは原作漫画のタッチをそのまま活かしコマ割りまでもかなり忠実に再現しているらしいからだ。フランク・ミラーはこの映画を観るまで名前も知らなかった。絵のタッチからして明らかに劇画調である。「パイレーツ・オブ・カリビアン」がアニメ調実写版なら、こちらは劇画調実写版。アニメ調の前者が当然ファンタジーに向かうように、劇画調の後者はこれまた当然のごとくハード・ボイルド路線に傾く。

  ハード・ボイルドといえばフィルム・ノワール。フィルム・ノワールといえばモノクロのイメージ。さらに一連のイメージがついてくる。怪しい美女と危険な香り。酒とタバコの匂い。怪しい男たちで込み合うけだるい雰囲気のバー。主人公の男はコートを着ていなければならない(もちろん「刑事コロンボ」ではなくハンフリー・ボガートのイメージ)。効果的にさしはさまれるモノローグ。売春婦とアウトロー。犯罪と暴力。血の色と血の香り。男はみな男っぽく、女はみな女っぽい。主人公はドライで苦みばしった渋い男。「女を守る」男の美学。

  「シン・シティ」はこれらの要素をほとんど全部兼ね備えている。全編モノクロで渋い男とセクシーな美女のオンパレード。男のコートが風にひらめくシーンがやけに目立つ。酒とタバコと血と暴力。男はみな女のために命を投げ出す。

  「スーパーマン」、「バットマン」、「スパイダーマン」、「超人ハルク」、「X-MEN」、「メン・イン・ブラック」、「ファンタスティック・フォー」等々。アメコミの映画化作品というとお子様向けのしょうもない作品ばかり連想されるが、「シン・シティ」がこれらの映画と比べてひときわ際立っているのはダークで渋い大人の世界を描いているからである。そしてその大人の世界を表現するのにあえて用いたモノクロの映像がまた効果的なのだ。全体に暗いトーンなのだが、明暗のコントラストが鮮明である。陰影の施し方が実にうまい。映像がスタイリッシュなので視覚的に先鋭である。そしてモノクロを基本にしながら女性の輝くブロンドの髪や真っ赤なドレスや口紅、真っ赤なハート型のベッド、青い瞳の色、イエロー・バスタードの不気味な黄色い肌などを部分的に色付けした色使いが独特である。モノクロの色合い自体も昔の白黒フィルムとは鮮やかさが違う。カラーで撮った映像をモノクロに加工した感じの色合いである。黒がコールタールで塗ったようなべっとりとした黒色なのである。その分白が引き立つ。実にうまい。映像感覚に美学を感じる。

Moon1   白黒画面にパートカラーを挿入すること自体は珍しくない。「シンドラーのリスト」の赤い服、「天国と地獄」のピンク色の煙、白黒の世界からカラーの世界に変わってゆく過程が面白い「カラー・オブ・ハート」、イギリス映画の名作「天国への階段」では天国は白黒、地上はカラーに色分けされている。「ランブル・フィッシュ」や「5時から7時までのクレオ」にもワンポイントでパートカラーが出てくる。様々な試みがなされてきたが、「シン・シティ」は色使いという点では文字通り出色である。かなりの残酷描写も出てくるが、生々しい血の色ではないのでスプラッターのようになってしまうのを抑える効果もある。

  キャラクターがまたよくできている。モノクロの映像とキャラクターの設定の妙、この映画の成功を支えているのはこの二つだと言ってよい。主人公の中年3人組、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ブルース・ウィリスがそれぞれ違う味を出している。この3人をそれぞれ主人公にした3つの話からなるオムニバス構成だが、観ていて混乱することはない。構成もよく練られている。

  3人の中で一番インパクトがあったのはミッキー・ローク。特殊メイクを施して超人ハルクを思わせる「不死身」の大男に変身。顔はどちらかというとフランケンシュタインに近い。銃で撃たれても車に轢かれても平気。ブルース・ウィリスは強靭さよりも中年の渋さ、衰え行く中年の悲哀(心臓に爆弾を抱えている)が強調されている。クライヴ・オーウェンはこの中では一番地味。最初に登場したときの間男のような間の抜けた印象がしばらく尾を引くが、オールド・タウンに場所を移してからはどんどん頼もしくなってゆく。もっともオールド・タウンでは女が主役。銃を持って男どもに立ち向かう勇姿がまぶしい。二刀流でスパスパ人を切り倒すデボン青木が中でも目を引く。このあたりの立ち回りはまるっきり「キル・ビル」の世界。タランティーノのノリだ。「旅するジーンズと16歳の夏」のアレクシス・ブレーデルが出ているのには驚いた。今一つ彼女らしさが出ていない役柄が残念。

  一方の悪党どもも個性派ぞろい。有力者を親に持つ殺人鬼ニック・スタール、最初と最後に出てくる殺人鬼ジョシュ・ハートネット、メガネだけが不気味に光るイライジャ・ウッド。殺人鬼3人組はみな若い(ニック・スタールは後半醜い太鼓腹のイエロー・バスタードに変身してしまうが)。もちろん悪党にだって中年はいる。特殊メイクで一回り顔がでかくなった感じのベニチオ・デル・トロ、悪の枢機卿を演じた凄みのあるルトガー・ハウアー、片目が金色のマイケル・クラーク・ダンカン、ブルース・ウィリスを裏切る相棒マイケル・マドセン。いやはや皆個性的だ。

  これらの男たちに比べると女性陣はデボン青木を除いて若干個性に欠ける。それでもジェシカ・アルバ、ジェイミー・キング、ブリタニー・マーフィ、アレクシス・ブレデルと、これだけ豪華に美女をそろえれば壮観だ。ジェシカ・アルバは「ダーク・エンジェル」の頃とは少し顔が変わった気がする。なんだか個性のない顔になってしまった。相変わらず美人ではあるが。

  とにかくこれだけの豪華キャストがモノクロ画面で絡み合うのだから何とも贅沢な映画だ。しかし不満もある。いくつかのレビューを読んでいてびっくりする事実に気づいた。マーヴとハーティガンが最後に死んでしまうとある。えっ、そうだったっけ?そんなことはまったく忘れていた。二人が死ぬ場面はどうしても思い出せない。観て2、3日で忘れてしまうとは!つまり、ストーリーが弱いのだ。凝った映像とあくの強いキャラクターを描くことに主眼があって、ストーリー展開は観て数日で忘れてしまう程度のものなのである。テクニック的には斬新だが、ストーリーにはあまり新しい工夫や新鮮味を感じられない。映像には美学を感じたが、描かれた「男の美学」は古風といえば古風だ。原作者がかつてのクライム・ノヴェルやフィルム・ノワールに強いこだわりを持っているのだろう。今観ると逆に新鮮に感じる人もいるかも知れないが。オールド・タウンの鉄火肌姉ちゃんたちが出ては来るが、女に男のような戦闘性を持たせただけという感じは否めない。その辺がやや物足りない。まあ、エンターテインメントだからあまりうるさいことを言うこともないか。

  最後にタイトルについて一言。「シン・シティ」というのはもちろん正式な名前ではない。正式にはベイシン・シティ(Basin City)。実際ベイシン・シティという呼び方が何度も使われていた(ベイシンとは「洗面器、たらい」という意味)。しかし、おそらく「シン・シティ」こそ犯罪者があふれた退廃的なこの街に似つかわしい名前だと考えたいたずら者がいたのだろう。ベイシン・シティと書かれた標識のベイが消されて「シン・シティ」になっていた。確かにこの街の名前としては「罪深き町」の方がお似合いだ。

2006年7月17日 (月)

ロード・オブ・ウォー

2005年 アメリカ 2005年12月公開
原題:Lord of War
監督、脚本:アンドリュー・ニコル
撮影:アミール・M・モクリ
音楽:アントニオ・ピント
出演:ニコラス・ケイジ、イーサン・ホーク、ブリジット・モイナハン、イアン・ホルム
   ジャレッド・レト、サミ・ロティビ、イーモン・ウォーカー

  自動車と戦車、どっちが頑丈か。答えはいうまでもなく戦車。比較にならないほど頑丈でPhoto_1 ある。ではどっちの寿命が長い?平和時はともかく、一旦戦争が始まったら戦車の寿命は相当に短い。だから武器商人はやめられない。戦争が始まれば武器関係の生産が飛躍的に増大する。特に弾薬はいくらあっても十分すぎるということはない。ミサイルともなれば1発で数千万円という単位だ。濡れ手で粟の荒稼ぎ、ぼろ儲け。不況が吹き飛ぶほどだ。何しろ第二次世界大戦の勃発が世界大恐慌を終結させたほどである(一番得したのは直接戦場にならなかったアメリカ)。戦場でうめき泣き叫んでいる人たちがいる一方で、後方で高笑いをしている連中がいる。

  「ロード・オブ・ウォー」は「死の商人」すなわち武器の密輸業者の実態をドキュメンタリー・タッチで真正面から描いた映画である。タイトルの「ロード・オブ・ウォー」(「戦争の王」)は劇中でリベリア大統領が「死の商人」を指して言った言葉だが、主人公のユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)がすぐさまそれを言うなら「ウォ-・ロード」だと訂正する。リベリア大統領はアメリカに留学していたので達者な英語を話すが、時々ちょっとした言い間違いをしてそのたびにユーリーに直される。シリアスなこの映画にちょっとした滑稽味を付け加えている。と同時にユーリーたちが暗躍しているのがアフリカなどの紛争地帯であることを暗示している。

  冒頭の場面が実に秀逸だ。空薬莢でびっしり埋まった地面の上に背中を向けて立つ男。建物から灰色の煙が上がり、遠くから銃声が響いている。男は振り向き平然と言う。「今世界には5億5千丁の銃がある。ざっと12人に1丁の計算だ。残る課題は“1人1丁の世界”だ。」続いて弾丸が製造されるプロセスがCGを駆使して映し出される。最近読んだ漫画「三丁目の夕日」である下駄の一生が描かれていた。擬人化された下駄が店の前に並べられ、やがて客に買われ、次第に足の部分が擦り切れ、ついには二つに割れてしまい焼却される。ちょうどそんな感じ。銃弾が製造される詳細なプロセスに始まり、銃から発射され男の子の頭に命中するまでが銃弾の視線で描かれる。ぐしゃっという音がして血糊が飛び散る。直後にひしゃげた銃弾の短いカット。

  空薬莢の上に立っていた男ユーリー・オルロフは黒いビジネス・スーツに身を固めている。きちんとネクタイを締め、手にはビジネスマンの必需品、黒のアタッシュケースを提げている。どこから見ても普通のビジネスマンだ。そう、実際この男はビジネスマンなのである。ただ扱っている商品が武器弾薬というだけのことだ。実在の武器商人をモデルにして作り上げた架空の人物である。本当にこんな出で立ちで商売していたのかどうか分からない。少なくとも、戦争がビジネスだということを強調するための演出であることは間違いない。

  ユーリーの描き方がまた見事だ。この映画の成功の大部分はユーリーという男を矛盾の塊として描いたことにある。ユーリーはソビエト連邦崩壊前夜のウクライナに生まれ。ソ連を出るにはユダヤ人に成りすますのが一番という父親の考えで(ユダヤ人作家バーナード・マラマッド原作の名作「フィクサー」で描かれたようにソ連のユダヤ人差別はひどかった)、ユダヤ人の振りをしてまんまとソ連を脱出してアメリカに渡る。父親(セルゲイ・ボンダルチュックそっくりで、見るからにロシア人という顔立ち)はそれが嵩じてほとんどユダヤ教徒のようになってしまっているのが可笑しい。

  不満はあるもののまじめに働いていた彼が武器商人になろうと決意したきっかけはたまたまロシア人ギャングの銃撃戦を目撃したことである。「暴力から逃げるより飛び込むべきなのだ。人の本質だ。何かでかいことをやるのが夢だった。」少々飛躍がある気もするが、そこはフィクションだから深くは追求しないでおこう。ともかく、商才に長けた彼はどんどん頭角を現し、フリーランサーの武器商人として「信頼」を勝ち得る。彼が駆け出しの頃大物武器商人シメオン(イアン・ホルム)に挨拶しようとするが、冷たくあしらわれる。やがて立場が逆転してしまう。常にユーリーの方が先んじて、後から来たシメオンを小ばかにする。まるで「シンシナティ・キッド」のスティーヴ・マックィーンとエドワード・G・ロビンソンのようだ。「俺に勝つには10年早いぜ!」というきめ台詞を久々に思い出した。

  ユーリーの才覚は文字通り敏腕ビジネスマンとしての才覚である。儲け話には異常に鼻が利く。戦争や紛争あるところに必ずユーリーの影がある。冷戦終結で一時商売上がったりかと思われたが、武器あまりの状態に目をつけ買いあさる。まさに「武器のバザール」状態。もちろんユーリーばかりか他の商人や組織や国家がハゲタカのように群がった。「″略奪″は続いた。ソ連崩壊後320億ドル相当の兵器がウクライナから消えた。20世紀最大の窃盗だ。」ビジネス・チャンスは逃さない。武器を右から左に転がすだけで巨万の富が転がり込んでくる。象徴的な場面があった。アフガンで兵士が機関銃を撃っている。突然画面がスローに切り替わり、薬莢が飛び出るごとにチーンというレジの音が鳴る。撃てば撃つほど武器商人が儲かり、犠牲者が増える。

  もちろん闇の商売だからやばい橋を何度も渡っている。インターポールから付け狙われ、海上で危うく御用になりかかった。乗り込んできたのはしつこくユーリーを追い回すヴァレンタイン(イーサン・ホーク)。ユーリーは機転を利かせてとっさに船の名前を書き換える。オランダの船に早変わり。ストックにオランダの旗がなくて一瞬あわてるが、これまたとっさの機転で乗り切る。フランスの旗を縦にすればオランダの旗になるというわけ。これには笑った。

  上で「ユーリーという男を矛盾の塊として描いた」と書いたが、ユーリーの描き方のもっとも秀逸なPhoto_2 ところは彼を決して鬼畜のごとき極悪人として描かなかったことである。ヴァレンタインに追い詰められたとき彼は「私は殺し屋じゃない。人を撃ったこともない。戦争で稼いではいるが」と言う。実際そのとおりなのだ。彼はまさにビジネスマンであって、人殺しではない。妻や子供には優しいパパである。眠っている息子のベッドでおもちゃの銃を見つけた時は、そっと取り上げてゴミ箱に捨てた。目の前で人が撃たれた時にはショックを受けて顔を背ける。芝居ではない。本当にそういう男なのだ。自分では虫も殺さない。しかし人殺しの道具を売って生活している。正常な感覚の人間には理解できないこの矛盾。何が彼を駆り立てているのか。

  誰でも思いつく理由は金だろう。しかし本人は否定する。妻エヴァ(ブリジット・モイナハン)にそんな商売は「やめて」と懇願された時、彼は「金じゃない」と答える。「じゃ何?」「才能だ。」さらに正当なビジネスをしているに過ぎないと言い募る。妻が吐き捨てるように言う。「たとえ合法でも間違ってる。」

  確かにエヴァの言うとおりである。この映画の中では本多勝一風に言えば「武器を売る側の論理」と「それを止める側の論理」がせめぎ合っている。後者の側の代表はインターポールの捜査官ヴァレンタインである。彼の論理は冷静で説得力がある。「戦争犠牲者の9割が銃で殺されてるんだ。核兵器じゃない。AK47こそ真の大量破壊兵器だ。」彼の論理は武器の密売=犠牲者の増大という論理である。「法を盾にとるなら私も24時間拘束の権限を行使する。その理由は・・・お前の動きを24時間封じることで犠牲者たちの死を先送りできる。お前から1日奪うんじゃない。罪のない人に生きられる1日を与えるんだ。」

  実に真っ当な考えである。しかしそんなことでユーリーの考えが改まらないことは言うまでもない。彼は自分の売った武器で人が殺されていることは百も承知で(できればそうならないことを望みながらも)武器を売っている男だ。むしろ決して法の則を超えないヴァレンタインを手玉に取っている感がある。むしろ彼に打撃を与えたのはヴァレンタインのような論理を持たない妻だった。ある時ユーリーが家に帰ってくると(その前にバレンタインが来てユーリーがやっていることを全部妻に話して行った)妻が裸でベッドに座っている。異様な雰囲気にさすがのユーリーもはっとする。「どの服もだめ。宝石も、高級車も、この家も。全部血で汚れてる。」これは明らかにシェイクスピアの「マクベス」を意識したせりふだ。

  その後のせりふにはさすがのユーリーも心を動かされる。「私の才能は容姿だけ。つまり、そう生まれただけ。女優にも画家にもなれず、いい母親でもない。容姿も衰える一方よ。すべてに失敗してきたわ。でも人間失格はいや。」最後の「でも人間失格はいや」というせりふが強烈だ。さすがに「妻という武器はこたえた。」ユーリーはその後半年間武器の密売をやめる。だが、突然リベリア大統領が自宅に現れ、彼に誘われてあっさりとまた元の商売に手を出してしまう。「どんな勇者も本能には勝てない。」

  ヴァレンタインのような冷徹な論理ではないが、やはりユーリーを動揺させた人物がもう一人いる。弟のヴィタリー(ジャレッド・レト)だ。彼は最初兄とパートナーを組んで闇の世界に足を踏み入れた。しかし彼は自分のしていることに悩み、耐え切れず麻薬に逃れる。兄のようにビジネスとして自分のやっていることを割り切れなかったのだ。そういう意味では正常な人間だった。商売に復帰したユーリーに無理やり誘われてヴィタリーは取引に立ち会う。しかし自分たちが売った武器で人が殺されると知った彼は運んできた2台のトラックのうち一台を手榴弾で吹き飛ばしてしまう。無残に撃ち殺された弟を見てユーリーは愕然とする。「神が見捨てた国の指導者と私はいまや同類だ。互いに嫌悪を抱いている。鏡を見ているようだ。」弟の死にショックを受けるが、それでも彼は立ち直らなかった。むしろ吹っ切れたように武器の密売に邁進する。

  麻薬におぼれていたヴィタリーを更正施設に送り届ける時、ユーリーは車の中で弟に言われる。「用心しろ。銃に殺される、内面を。」その弟が殺されたとき、ユーリーの内面は確かに死んだ。わずかに残っていた人間らしい感情が完全に押しつぶされてしまった。彼はもはや迷うことはなかった。片手のない女の子に「手はまた生えてくる?」と聞かれても何の感慨も湧かない。そんな人間になってしまう。

  完全に「向こう側」に行ってしまった人間をわれわれは説得できるのか?ユーリーのような奴を退散させるにはどんなに理を説いても、情に訴えても、道徳を説いてもだめである。彼のビジネスに善悪は意味がない、儲かるか儲からないかそれだけだ。可能な方法はたった一つ。戦争そのものをなくすこと。それ以外に手はない。ビジネスマンを干上がらせるにはビジネスが成り立たなくすればいい。実に単純な理屈だ。だがこれこそが難しい。金と権力欲に取り付かれた人間や組織や国家がなくならない限り戦争はなくならない。この映画の本当の主題はそこにある。ユーリー個人の問題ではない。彼が鬼畜のごとき極悪人である必用はない。彼は「死に至るシステム」の一部に過ぎない。人間の本源に根ざした「悪循環の車輪」が回り続ける限り、互いに殺しあう人間も彼らに武器を売る人間もなくなりはしない。戦争という「死の歯車」をいかにして止めるのか。われわれに課された最も困難な課題である。「死の歯車」は死者と憎しみを生み出すと同時に富をも生み出す。金こそこの巨大な歯車を動かす原動力である。金が歯車を動かし、その歯車が金を生む。だから止めがたいのだ。

  ユーリーはこの巨大な歯車が動かしている巨大なシステムに組み込まれている。彼個人の意思など何ほどの意味もない。むしろ彼は世界の矛盾の中に落ち込んで抜け出せなくなった哀れな男に過ぎない。彼の矛盾は世界の矛盾の表れだった。そのことは映画のラストではっきりと提起される。ついにユーリーを逮捕したヴァレンタインにユーリーが言う。自分はすぐに釈放されると。「最大の武器商人は君のボス。合衆国大統領だ。輸出量は一日で私の1年分。証拠が残るとまずい取引もある。そんな時は私のようなフリーランサーに委託する。だから私を悪と呼ぶのはいい。必要悪なんだ。」その後「本作は実際の出来事に基づく」というクレジットが出て、さらにこう続く。「個人経営も繁栄しているが最大の武器供給者は米・英・露・仏・中である。この5カ国は国連安保理の常任理事国でもある。」

  ユーリーのような存在はだいぶ前から知られていた。彼の果たしている役割にはいまさら驚きはしない。しかしその内部に直接携わっていたものでなければ分からない細部の描Ht1 写には説得力があった(たとえば、米軍が紛争地帯に送った多くの小火器を自国に持ち帰るより安上がりだという理由で武器商人に払い下げているという実態)。それ以上に、彼をより大きな「死に至るシステム」の一部として描いたことにこの作品の意義がある。彼は複雑に絡まりあうシステムの中のひとつの歯車に過ぎない。歯車として回転し続ける間に人間らしい感情が磨耗してゆくプロセスもリアルに描かれていた。システムは動き続け、大小複雑に絡み合った歯車は回り続ける。たとえその中の小さな歯車がひとつ壊れようと、またすぐに代わりの歯車が現れる。

  人間が存在する限り「死の歯車」は回り続けるかのように思える。「死の歯車」は戦争や紛争があるところならどこにでも出現する。歯車が回転する毎に死が生産される。戦場は混乱のきわみだ。しかしそんな中でも人間は必死で生きている。ユーリーが無届飛行で武器を空輸していたときインターポールの飛行機に不時着を命じられる場面がある。空港ではなく道路に緊急着陸したユーリーたちは証拠隠滅のため積んでいた武器を付近の住民に配る。あっという間になくなった。「空港なら1日かかる作業を栄養不良の住民は10分で終えた。」住民たちは不時着した貨物飛行機もほうっては置かなかった。次々にむしり取るようにして奪ってゆく。まるでハゲタカに食べられた動物の残骸のように1日でほとんど何もなくなってしまった。「七人の侍」で村人が刀や槍や鎧をこっそり隠し持っていたのと同じだ。死んだ侍や落ち武者から剥ぎ取った「戦利品」。殺す側も殺される側もハゲタカのようになってゆく。

  どうすれば「死に至るシステム」を解体できるのか。いかにして「死の歯車」を止めるのか。この映画が投げかけている問いは重い。この問題を考えるときに「平和ボケ」という言葉を安易に使うべきではない。日本を再び戦争ができる国にしようとしている連中が意図的に使っている言葉だ。戦争漬け状態がいいのか?日本がボスニアやアフガンやイラクやアフリカのようになるのが望ましいのか。そこに軍隊を送り込むアメリカやイギリスのようになることが望ましいのか。「ボケ」ているのは平和だからではなく戦争についてきちんと教育してこなかったからだ。戦争について正しく教えないことで判断力を奪っておいて、その隙をついて自分たちに都合のよい歴史に書き換えようとする。世界で何が起こっていたのか。今何が起きつつあるのか。それを正しく理解することから出発しなければならない。それは平和だからこそできることだ。戦争のさなかでは生きることで精一杯だ。この映画は観て楽しむ映画ではない。観て考えること、そして可能な限り行動すること。それが必用なのだ。「世界を受け継ぐのは武器商人だ。他は殺し合いで忙しい。生き残る秘訣は″戦争に行かないこと″。特に自分からは。」いつまでもユーリーにこんなことを言わせておくべきではない。

  最後に音楽について一言。商売を再開したユーリーの後を妻と子供が追跡する場面でジェフ・バックリィの「ハレルヤ」が流れる。何度聴いてもすばらしい曲だ。この曲が収録されているアルバム「グレース」自体が傑作だが、その中で最も優れているのがこの「ハレルヤ」。単純なメロディーを繰り返す構成になっているが、そのため却って祈るような歌が胸に染み入ってくる。ジェフ・バックリィは97年にわずか31歳で夭折した。他に2枚組「素描」もおすすめ。シンガーソングライターだった父親のティム・バックリィも夭折している。親子とも長くは生きられなかった。ティム・バックリーのアルバムは貴重で見つけたら迷わず買うべし。「ティム・バックリー」&「グッドバイ&ハロー」のカップリング版(2in1)と「ブルー・アフターヌーン」をゲットしたときは本当にうれしかった(共に輸入版)。もちろん出来はいい。

■ニコラス・ケイジ おすすめの5本
「マッチスティック・メン」(2003)
「60セカンズ」(2000)
「フェイス/オフ」(1997)
「ワイルド・アット・ハート」(1990)
「月の輝く夜に」(1987)

■気になる未見作品
「アダプテーション」(2002)
「コレリ大尉のマンドリン」(2001)
「赤ちゃん泥棒」(1987)

  ニコラス・ケイジの出演作はかなりの本数あるが、どうも作品に恵まれていない気がする。上に挙げた以外に「コットンクラブ」(1984)、「リービング・ラスベガス」(1995)、「ザ・ロック」(1996)、「コン・エアー」(1997)、「スネーク・アイズ」(1998)、「8mm」(1999)、「救命士」(1999)を観たがどれも標準程度のでき。「リービング・ラスベガス」でのニコラス・ケイジの演技はさすがにうまいが、作品自体がたいしたことないので選外に。
 個人的には「マッチスティック・メン」のような、何で俺がこんな目にあうんだとあたふた走り回る情けない役柄がぴったりはまると思う。演技力のあるいい俳優なのでこれからもっといい映画と出会ってほしい。

■イーサン・ホーク おすすめの5本
「ロード・オブ・ウォー」(2005)
「ビフォア・サンセット」(2004)
「ガタカ」(1997)
「リアリティ・バイツ」(1994)
「いまを生きる」(1989)

■気になる未見作品
「恋人までの距離」(1995)

 イーサン・ホークは「ガタカ」、「ビフォア・サンセット」を観るまではそれほど印象に残る俳優ではなかった。特に「ビフォア・サンセット」は作品そのものが傑作だっただけに強烈に彼の印象が焼きついている。だんだんケビン・ベーコンに似てきて「ロード・オブ・ウォー」では渋さがにじみ出ていい味を出せるようになってきた。個人的には「ビフォア・サンセット」と「ロード・オブ・ウォー」が2大傑作だと思う。美男路線と渋み路線、今後は後者のほうに傾いてゆく気がするが、どうだろう。

 

2006年7月15日 (土)

ミリオンズ

Fuukeiga01 2004年 アメリカ・イギリス 2005年11月公開
監督:ダニー・ボイル
脚本:フランク・コットレル・ボイス
撮影:アンソニー・ドッド・マントル
美術:マーク・ティルデスリー
音楽:ジョン・マーフィー
出演:アレックス・エデル、ルイス・マクギボン、ジェームス・ネスビット
   デイジー・ドノヴァン、クリストファー・フルフォード

  ダニー・ボイル監督。最初はTVで活躍していたが、「シャロウ・グレイブ」(1995)で映画界に鮮烈デビュー、「トレインスポッティング」(1996)で一躍有名になる。その後アメリカに渡り、「普通じゃない」(1997)、「ザ・ビーチ」(1999)、「28日後」(2002)を撮るがどれも凡作。アメリカに渡ってだめになった監督の典型かと思われたが、「ザ・ビーチ」と「28日後」の合間にイギリスで撮ったTVドラマ「ストランペット」(2001、本館HP「緑の杜のゴブリン」の「映画日記」コーナーにレビューがあります)と「ヴァキューミング」(2001)は以前の疾走感と毒気とエグみを幾分取り戻していた。やっぱりイギリスでないとこの人はだめなのね。それじゃとばかりに「28日後」は舞台をロンドンに設定してみたが、作りはアメリカのB級映画。ボロボロの駄作だった(いいのは出だしだけ)。それでもめげずに、新作「ミリオンズ」ではまたまたイギリスに舞台を設定し、これでもかとイギリスらしさを前面に押し出した。結果は久々の快作。「トレインスポッティング」ほどの毒気はないが、映画の出来とすれば「トレインスポッティング」と並ぶ彼の代表作となった。もっと早く過去の成功作の呪縛から脱して新しい「芸風」を身につけるべきだったと思うが、改めるのに遅すぎることはない。よしよし。金に目がくらんでアメリカに渡ったのかもしれないが、これからはちゃっかり金だけアメリカに出してもらって、映画はイギリスで撮るがよろしい。

  この映画の魅力は何といっても主人公のそばかす少年ダニエル(アレックス・エデル)にある。いまどき珍しいほどの純粋な心を持った少年だ。その少年が思わぬ大金を手にすることになる。それにはある予兆があった。イギリスでは家に名前を付けることがよくある(日本でも昔の風流人が「○○庵」などと付けていたことはあるが一般的ではない)。ダニエルの家の名はserendipity(思わぬ発見)。もちろん空から大金が降ってくることを暗示している。引越しと同時にダニエルが空き地に作った段ボールハウスの上にある日大金の詰まったバッグが降ってくるのだ。兄のアンソニー(ルイス・マクギボン)と数えてみると22万9320ポンドも入っていた。アンソニーはぱっと使ってしまおうとするが、ダニエルは拾ったお金を貧しい人に上げようと言う。アンソニーは「そんなのどこにいる。ここは高級住宅地だぞ」と反対する。それでもダニエルは考えを変えず、会う人毎に「あなた貧しいですか?」と聞いて回るところが何とも可笑しい。子供は単刀直入だ。ついには質問にイエスと答えた近所のモルモン教徒の家にこっそり「贈りもの」をする。贅沢を嫌うモルモン教徒が大きな包みを抱えてスクーター(これも買ったもの、前は自転車に乗っていた)で帰ってくるところも滑稽だ。急にぜいたく品を買いだしたので怪しまれ、警察に職務質問されたときも終始ニコニコ顔を崩さない。

  全編を貫くこのコミカルな演出が効果的である。見つけた大金を役所に届けると言ってArthuusya150awいた弟に、アンソニーがそんなことをすると税金を40%も取られると話す。「どれくらいか分かるか。ほとんど全部だ。」おいおい。ちゃんと算数習ったのか(笑)。このアンソニー、まだ10歳なのだが妙に世故に長けている。「お母さんは死んじゃった」と言うと大人から色々な物を貰えるとダニエルに教えたのも彼だ。始めのうちは舞い上がってホームレスたちにピザをおごって168ポンドも使ったりするが、そのうち不動産を買えば値上がりして利益が上がると言い出す。ドラえもんのような弟とホリエモンのような兄。このあたりの兄弟の描き分けも見事だ。

  もうひとつ全体の基調をなすのはシュールな演出。新居が建つ予定地に兄弟で横たわり、新しい家を想像する場面がある。するとたちまち壁が立ち上がり家具が出現し屋根が付けられて家が出来てゆく。子供の想像力とCGの技術がマッチした面白い場面である。もっともシュールなのはダニエルにいろんな聖人が見えること。何人も現れてはダニエルにアドバイスをしてゆく。いろんな守護聖人がいるのが可笑しい。鍵や防犯対策の守護聖人なんてのもいた。八百万の神様じゃあるまいし、そんな聖人本当にいるのか?アッシジのフランチェスコやナザレのヨセフなど聖人の名前はみな本物だが、その逸話にはダニエルの創作が入っている気もする(正確なところはわからない)。それはともかく、転校先の学校で先生が尊敬する人を挙げなさいというと、ほとんどの生徒はマンチェスターUの選手名を挙げるが(ダニー・ボイル監督の出身地であるマンチェスターが舞台)、ダニエルは次々に聖人の名前を挙げ周りをうんざりさせる。どこか滑稽でシュールなのだが、この背 景には悲しい事実があった。ダニエルはどの聖人にも必ず「聖モーリーンに会ったことがありますか」と尋ねる。聖ニコラスにも同じ質問をすると、彼は「何をした?」と聞き返す。「セルフリッジの化粧品売場で働いていました」と答えるダミアン。変な聖人だと一瞬思うが、何せ「鍵や防犯対策の守護聖人」がいるくらいだからそれほど奇妙だとは思わない。だいぶ後の方でダニエルがある化粧品売り場に行ったときすべてが分かる。引っ越す直前になくなったダニエルの母親がそこで働いていたのである。そこまで来て、モーリーンが母親の名前だったことがやっと観客に分かるのである。憎いほどうまい演出だ。おそらく彼に聖人が見えるようになったのは母親が亡くなってからなのだ。母親は聖人になれたのか、新入りの聖人が天国で元気でやっているのかずっと気にかけていたのである。

  ダニエルのソバカス顔と無邪気でけなげな発想が何ともかわいい。それがこの映画の一番の魅力である。しかし映画全体はそう単純で優しいばかりの作品ではない。ファンタジーの系統に入る作品だが、かなり辛らつな皮肉が込められたファンタジーである。そもそも降ってきた現金はユーロの切り替え前に回収されたポンド札だった。強盗団がその金を奪って、列車から仲間に向かって投げ落としたバッグがたまたまダニエルの段ボールハウスの上に落ちてきたのだ。ポンドからユーロへの切り替えはもちろん架空の話だが、奪われたポンド札をめぐって大人たちが右往左往する様を描く視線は皮肉たっぷりだ。大金が父親(ジェームス・ネスビット)に見つかり、神様の贈り物かと思ったとダミアンが言うと、父親は「神様が現金なんか配るか」と一蹴し、現金を警察に届けようとする。しかし家が強盗段に荒らされているのを見たとたん、あっさりと猫糞を決め込むパパ。そのパパが仲良くなってしまうチャリティーワーカーのドロシー(デイジー・ドノヴァン)も、学校でチャリティー資金を集めている場面はどことなく胡散臭げに描かれている。結局はいい人だったのだが。そして彼女がエチオピア救済チャリティのボランティアをしていたことがラストに繋がってくる。

  これにさらに付け加えられているのはサスペンスの要素。奪った金を横取りされた間抜けな強盗がダミアンに迫ってくる一方で、その金の横取りを決めたダミアンの父たちがポンドをユーロに換金しようと必死で走り回る。強盗の男(クリストファー・フルフォード)は凄みがあるが、行動はどこか間が抜けている。ハラハラドキドキというより「ホーム・アローン」の乗りだ。最初にその男に気づかれそうになったとき(ダミアンがうっかりその貧乏そうArtkurione250waな男にお金をたくさん持っていると話してしまう)、兄が気をきかせてビンに小銭をつめて大金だけどあげるよと男に渡してごまかすエピソードは秀逸だった。

  後半はドタバタ調になるが、ラストはまたファンタジーに戻る。いろんな要素を盛り込んではいるが、やはり基本はファンタジー。ダニエルはひとり家を抜け出して線路でお金を燃やしてしまう。その上を列車が走り抜けてゆく。列車が通り過ぎると、線路の向かい側にママが座っていた。5分間だけの邂逅。ママが「髪にコンディショナーを付けなさい」とダミアン に言うせりふは実に自然でいい。いつもそんな風に子供に話しかけていたのだろう。記憶の中で美化された美人の母親ではなく、ごく普通のおばさんなのがまたいい。ダミアンは聞く。「ママは聖人なの?」「厳しい審査があるの。善を行うだけではダメで、奇跡を起こさないといけないのよ。」「それで?」「ママはもちろん合格。」「どんな奇跡を起こしたの?」母親の答えは書かないでおこう。最後はアフリカに飛ぶ。文字どおり飛ぶのだ。

  初期の2作とはだいぶ作風が違うが、久々にダニー・ボイル監督の本領が発揮されている。様々なタイプの映画を撮れてこそ一流の証。監督はインタビューで「28日後」の後「なんでも好きなことができるようになれたのはとても幸運だった」と語っている。逆に言うとそれまでは制限があったということになる。ハリウッドで気にそまない作品を作らされていたということだろう。ある意味で初心に帰った作品なのだ。本人も「ミリオンズ」は「シャロウ・グレイブ」と同様誠実に作った映画だと言っている。ダミアンの描き方には敬虔なカトリック教徒だった母親の影響もあるようだ。「ダミアンの母親は、人を信じることができる人間にダミアンを育てた。ぼく自身も、母親にそう育てられたんだ。人が誰かを信じれば、その誰かも別の誰かを信じることができる。そうやって、人を信じる心は、波紋のように伝わっていくと思うんだ。今の時代に、人を信じろなんて言うのは、時代錯誤かもしれない。でも、ぼくは、楽天的な人間なんだ。そして、今こんな時代だからこそ、楽天的な映画が作りたかったというのもある。実際世の中で起こっているのは暗い出来事が多い。そんな中で、希望を示せればいいなって。」

  金に縛られているこの世界に対抗するダミアンの武器は想像力だった。「ダミアンと聖人の関係で重要なのは、彼の信仰心ではなくて、彼の想像力のほうだ。それが、聖人と彼をつなげている。彼は明らかに、アーティストになるべき人なんだ。彼の想像力は、あらゆることに対抗できる。お金とか、悪事とか、物質主義社会の誘惑とかね。」監督自身「トレインスポッティング」のように子供の頃電車を眺めてはロマンを感じていたという。「電車が夢を運んで来るという考えが入っている映画なんだ。」

  脚本は「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を書いたフランク・コットレル・ボイス。ダニー・ボイル監督の意見もだいぶ取り入れたようだ。「ブラス!」、「グリーン・フィンガーズ」、「シーズン・チケット」、「リトル・ダンサー」、「ベッカムに恋して」「カレンダー・ガールズ」などの系統に属する前向きで楽観的な作品。いかにもクリスマスにふさわしい映画に仕上った。この映画自体が贈り物だ。

待望の連休

059259   このところ記事の更新が遅れて申し訳ありません。この2週間は猛烈に忙しかったのです。もう体も精神もボロボロ。映画を観る気力もなく、観てもレビューを書く気力はさらにありませんでした。おまけにココログが11日から13日の昼間にかけて大手術メンテナンスを施したので、その数日前から駆け込みラッシュで管理画面の操作が異常に重たくなり、どうにもなりませんでした。かろうじて1本だけ書いた「プライドと偏見」のレビューもTBを1本送っただけで断念。いやあ辛かった。長いトンネルを抜けてほっと一息。

  今日からは3連休。映画観まくるぞ。レビューも書きまくるぞ、ってこっちはなかなかそうも行かない。やっぱり時間がかかる。実は9日に「ミリオンズ」を観ていたのですが、忙しくてレビューがまだ書けていません。さわやかないい映画だったので忘れないうちに早く書きたかったのですが、とても書ける状態ではありませんでした。昨日の夜書こうと思っていたのですが、1週間レンタルで借りていた「ロード・オブ・ウォー」の返却期限が昨日までだと判明。あわててそっちを観ました。無事延滞することなく返してきましたが(代わって「シリアナ」をレンタル)、これは「ミリオンズ」を上回るとてつもない傑作。今年のベスト1かと早すぎる結論を下しそうになるほど素晴らしい映画でした。あっ、よく調べたら公開は去年の12月。去年の映画だったか。まあ、いずれにしてもすごい映画であることに変わりはない。ゴブリン大絶賛。

  今月のレンタルDVDは「シリアナ」に加えて「クラッシュ」、「ジャーヘッド」と充実したアメリカ映画が次々にリリースされ、他にも「歓びを歌にのせて」、「ヘイフラワーとキルトシュー」、そしてロシアで大ヒットした「ナイト・ウォッチ」などの話題作が出ます。さらにアメリカ映画では前月から積み残した「スタンドアップ」、「スパングリッシュ」、「シン・シティ」もあるので、久しぶりにたっぷりアメリカ映画が楽しめそうです。ボブ・ディランのドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」も楽しみ。そうそう「ある子供」もあった。ダルデンヌ監督はやや苦手なのだが、評価が高いので観ておかねばならない。

  ともかくまず「ミリオンズ」のレビューを書き上げなくては。でも今日は「新しい」車が手に入る予定だ。ドライブに行ってしまうかも。いつの間にか11年も乗ってしまったサニーに代えて、まだ製造されてから7年しかたっていないピカピカの中古インプレッサに乗り換える。欲しかったのは他の車種だが、そこは中古の悲しさ。業者に頼んでから半年たっても見つからない。痺れを切らして店頭にあった中から選んだのがインプレッサだったというしだい。まあ、後4、5年も乗れば迷わず成仏してくれるでしょう。それからまた「新しい」中古を探せばいい。CDやDVDや本ばかりではなく車も中古なのかと驚くなかれ。何を隠そう、僕は中古の車以外買ったことはありません!もちろん安いから。数百万円以上出して車を買う人の気持ちが僕には理解できない。ただの移動手段ではないか?僕は何事につけブランドというものに一切興味がない。いいじゃないか、形が気に入って、安全に走れる車ならば。

  まあ、読者の中には車好きの方もいらっしゃるでしょうからこれ以上は言いません。「うだうだ言ってないで早うレビューを書け!」って?はいはい、すぐ取り掛かります。冷たいやつを一杯やってから。

2006年7月13日 (木)

ゴブリンのこれがおすすめ 20

ファンタジー映画

■おすすめの15本(本格的ファンタジー)
「ロード・オブ・ザ・リング・シリーズ」(ピーター・ジャクソン監督、01~3)
「ハリー・ポッター・シリーズ」(クリス・コロンバス監督、他、01~)
「チャーリーとチョコレート工場」(ティム・バートン監督、05)
「パイレーツ・オブ・カリビアン」(ゴア・バービンスキー監督、03)
「ビッグ・フィッシュ」(ティム・バートン監督、03)
「スリーピー・ホロウ」(ティム・バートン監督、99)
「ロスト・チルドレン」(ジャン・ピエール・ジュネ、95)
「フィオナの海」(ジョン・セイルズ監督、94)
「シザーハンズ」(ティム・バートン監督、90)
「コクーン」(ロン・ハワード監督、85)
「ルカじいさんと苗木」(レゾ・チヘイーゼ監督、73、ソ連)
「メリー・ポピンズ」(ロバート・スティーヴンソン監督、64)
「石の花」(アレクサンドル・プトゥシコ監督、46)
「美女と野獣」(ジャン・コクトー監督、46)
「オズの魔法使い」(ヴィクター・フレミング監督、39)

■おすすめの40本(大人のファンタジー、他)
「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン監督・他、06)
「トンマッコルへようこそ」(パク・クァンヒョン監督、05)
「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム監督、05) Piano1s
「下妻物語」(中島哲也監督、04)
「父と暮らせば」(黒木和雄監督、04)
「ミリオンズ」(ダニー・ボイル監督、04)
「クジラの島の少女」(ニキ・カーロ監督、03)
「春夏秋冬そして春」(キム・キドク監督、03)
「ホテル・ハイビスカス」(中江裕司監督、03)
「茶の味」(石井克人監督、03)
「ククーシュカ ラップランドの妖精」(アレクサンドル・ロゴシュキン監督、02)
「至福のとき」(チャン・イーモウ監督、02)
「マゴニア」(イネケ・スミツ監督、01)
「イルマーレ」(イ・ヒョンスン監督、00)
「ギャラクシー・クエスト」(ディーン・パリーゾー監督、99)
「マルコヴィッチの穴」(スパイク・ジョーンズ監督、99)
「ルナ・パパ」(バフティヤル・フドイナザーロフ監督、99)
「グース」(キャロル・バラード監督、96)
「Shall we ダンス?」(周防正行監督、95)
「熱帯魚」(チェン・ユーシュン監督、95)
「はるか、ノスタルジィ」(大林宣彦監督、94)
「パリ空港の人々」(フィリップ・リオレ監督、93)
「ラテンアメリカ光と影の詩」(フェルナンド・E・ソラナス監督、92)
「天使にラブ・ソングを」(エミール・アルドリーノ監督、92)
「大誘拐」(岡本喜八監督、91)
「春にして君を想う」(フレドリック・トール・フリドリクソン監督、91)
「ふたり」(大林宣彦監督、91)
「ゴースト ニューヨークの幻」(ジェリー・ザッカー監督、90)
「ベルリン・天使の詩」(ヴィム・ヴェンダース監督、87)
「夢見るように眠りたい」(林海象監督、86)
「未来世紀ブラジル」(テリー・ギリアム監督、85)
「エクスカリバー」(ジョン・ブアマン監督、81)
「光年のかなた」(アラン・タネール監督、80)
「ミツバチのささやき」(ヴィクトル・エリセ監督、73)
「華氏451」(フランソワ・トリュフォー監督、66)
「黒いオルフェ」(マルセル・カミュ監督、59)
「赤い風船」(アルベール・ラモリス監督、56)
「オルフェ」(ジャン・コクトー監督、49)
「天国への階段」(マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー監督、46)
「天国は待ってくれる」(エルンスト・ルビッチ監督、43)
「悪魔が夜来る」(マルセル・カルネ監督、42)

■追加
「シルク・ドゥ・ソレイユ 彼方からの物語」(2012、アンドリュー・アダムソン監督、米)
「フランケン・ウィニー」(2012、ティム・バートン監督、アメリカ)
「ホビット 思いがけない冒険」(2012、ピーター・ジャクソン監督、米・ニュージーランド)
「砂漠でサーモン・フィッシング」(2011、ラッセ・ハルストレム監督、英)
「ミッドナイト・イン・パリ」(2011、ウディ・アレン監督、スペイン・アメリカ)
「ヒューゴの不思議な発明」(2011、マーティン・スコセッシ監督、アメリカ)
「アリス・イン・ワンダーランド」(2010、ティム・バートン監督、アメリカ)
「ラブリーボーン」(2009、ピーター・ジャクソン監督、米・英・ニュージーランド)
「パンズ・ラビリンス」(2007、ギレルモ・デル・トロ監督、メキシコ・スペイン・他)
「迷子の警察隊」(2007、エラン・コリリン監督、イスラエル・他)
「嫌われ松子の一生」(2006、中島哲也監督、日本)
「かもめ食堂」(2005、荻上直子監督、日本)

 このジャンルはアニメにぴったりで、したがってアニメに傑作が多い。しかし「コープス・ブライド」のレビューに「お勧めアニメ」のリストを挙げているので、ここではアニメ作品をはずしました(いずれこのコーナーでも改めて取り上げます)。アニメをはずしてみるとさすがに該当作品は少ない。このジャンルのほとんどはお子様向け。そこで、大人向けのファンタジーやSF作品を代わりに取り込んでみました。
  こうやってまとめてみると「幽霊」ものが多いことに気づきます。竹内結子主演の「黄泉がえり」、「いま、会いにゆきます」など一時は流行にすらなっていました。この手の作品としては「父と暮らせば」と「ゴースト ニューヨークの幻」あたりが代表作でしょう。
  「ET」や「未知との遭遇」なども考えましたが僕自身の評価があまり高くないので上げませんでした。一般的には当然リストに入る作品でしょう。「チャーリーとチョコレート工場」の評価もさほど高くないのですがジャンルにぴったりの作品なので取り上げました。

2006年7月 9日 (日)

プライドと偏見

2005年 イギリス 2006年1月公開
監督:ジョー・ライト
原作:ジェイン・オースティン『高慢と偏見』
出演:キーラ・ナイトレイ、 マシュー・マクファディン 、ドナルド・サザーランド
    ブレンダ・ブレッシン、ロザムンド・パイク、ジュディ・デンチ、サイモン・ウッズ
    ルパート・フレンド、トム・ホランダー、クローディー・ブレイクリー、 ジェナ・マローン
    キャリー・マリガン、タルラ・ライリー

 『高慢と偏見』はイギリスの女性作家ジェイン・オースティン(1775-1817)の最も有名な小説である。彼女は全部で6冊の長編小説を残している。作品の出来にほとんど差はない。

Sense and Sensibility (1811) 『いつか晴れた日に』(キネマ旬報社)  
Pride and Prejudice (1813)『高慢と偏見』(岩波文庫、他)  
Mansfield Park (1814)『マンスフィールド・パーク』(集英社)     
Emma (1815)『エマ』(中公文庫、他)     
Northanger Abbey (1818) 『ノーサンガー・アベイ』(キネマ旬報社)     
Persuasion (1818)『説きふせられて』(岩波文庫)

  ジェイン・オースティンはジョージ・エリオットやブロンテ姉妹などと並んでイギリスで最も尊敬されている女性作家である。国民的作家だけあって、イングリッシュ・ローズの中にNois ジェイン・オースティンと名付けられた黄色いバラもある。彼女の小説はすべて映画化されているが、有名なのは比較的最近のものである。アン・リー監督、エマ・トンプソン主演の「いつか晴れた日に」(95年)、ダグラス・マクグラス監督、グウィネス・パルトロウ主演の「エマ」。『高慢と偏見』はBBCにより95年にジェニファー・イーリーとコリン・ファース主演でドラマ化されている(残念ながら未見)。BBCのイギリス文学ドラマ化作品はいずれも質が高く、かなり原作に忠実なので必見である。

  映画化作品としては「いつか晴れた日に」の出来が抜群によい。エマ・トンプソンは名優ひしめくイギリス映画・演劇界にあって、中堅女優としてはダントツだろう。他に比肩すべき女優が思い当たらない。「エマ」は水準の出来だが、悪くはない。「プライドと偏見」(何という中途半端な邦題だ)はその中間あたりの出来か。ヒロインのエリザベス・ベネットを演じたキーラ・ナイトレイがなかなか魅力的だった。イギリスのミドルセックス出身。「穴」で始めて観たときはソーラ・バーチに隠れてあまり印象に残らなかったが、「ベッカムに恋して」では(主演のパーミンダ・ナーグラの親友の役)なかなかかわいい女優だと思った。その後「パイレーツ・オブ・カリビアン」でブレイク。「キング・アーサー」は映画そのものが今一だったが、「ドミノ」(未見だが近々観る予定)の評判は良く、着実にキャリアを重ねている。一方、ミスタ・ダーシーに扮したマシュー・マクファディンには相当違和感があった。うつむきがちで寡黙な男というイメージになっており、彼の高慢さがさっぱり感じられなかった。エリザベスとの出会いの場面では、人を見下したような彼の高慢さがいやらしいほど出ていなければならない。もっと高慢で不機嫌な男に「見え」なければならない。原作では強烈な経験なのである。そうでなければ彼に対するエリザベスの激しい嫌悪感が十分描けない。かなり後のほうになるまでエリザベスは彼に嫌悪感を持ち続けていたのである。それは実際ダーシーがいやな奴だからである。もっとも、自分だけが物事を正しく見ているという彼女の慢心が彼への偏見を生み、彼の本当の姿を見失わせてもいるわけだが。猛烈な嫌悪感があったからこそ彼の真意を知ったときのエリザベスの驚き、自分の偏見と思い上がりに対する反省がリアルに伝わってくるのである。あんな暗い目立たない男ではダーシーらしさがまったく感じられない。

  何せ彼は年収1万ポンドの大地主なのである。J.P.ブラウン著『19世紀イギリスの小説と社会事情』(英宝社、昭和62年)によれば、「貴族階級とは、1万エーカー(約18平方マイル)をこえる私有地をもつ大地主から成っていて、彼らは大部分がいわゆる爵位貴族階級に属していた。年間1万ポンドを上まわる収入を産み出す資産をもち、絶大な権力を備えたこの一握りのグループの数は、3百世帯から4百世帯程度であった。」ダーシーは爵位こそ持っていないが、彼の年収1万ポンドは貴族に匹敵する。彼の領地ペンバリーにいたっては目で見える範囲すべてが彼の領地という広大さ。とにかく、英国貴族の領地の広大さは日本では想像できないほどで、子供が庭で迷子になることもあるほどである。そういう身分である彼の態度には本人が自覚していなくても高慢さ(特に身分の低いものを見下す態度)がにじみ出てしまうのだ。それがマシュー・マクファディンからはさっぱり感じられない。その点が残念だった。

  原作『高慢と偏見』はいわば「婿探し物語」であり、その主題は「結婚」である。だが、決して単なるラブ・ロマンスではない。ヒロインのエリザベスは自分の周りの人物たちをいつJane_austen も観察している。彼女の周りの人たちの性格や行動が彼女の目を通して描かれる。小さな田舎町に暮らすアパー・ミドルの人たちの暮らしをリアルに描いた小説なのである。その人間観察、人物描写の的確さ、見事さがこの小説の価値を支えている。だが、映画は人間観察からラブ・ロマンスに重点を移している。2時間という映画の枠に収めるためには仕方のない処理なのかもしれない。むしろ原作の雰囲気を結構残していることを褒めてもいい。

  ストーリーの中心にいるのはエリザベスの家族、ベネット一家。エリザベスの両親を演じたドナルド・サザーランドとブレンダ・ブレッシンが出色。対照的な夫婦だ。その性格の違いは原作の冒頭で見事に描き出されている。英文学史上有名な書き出しである。近所に大地主が越してくるから挨拶に行ってくれと大騒ぎをする母親。われ関せずとそ知らぬふりをする父親。最初の2、3ページで早くも読者はこの小説の世界にすっかりはまり込んでいる。ミスタ・ベネットはやや世間を斜に構えて見ている男だが、分別のある好人物。ドナルド・サザーランドが飄々とした演技でいい味を出している。息子のキーファーが大活躍だが、まだまだこの親父も負けていない。

  母親のミセス・ベネットは5人の娘に何とか良縁を見つけようとそればかり気にかけている女性。原作も皮肉を交えてこっけいに描いている。「秘密と嘘」、「ガールズ・ナイト」、「リトル・ヴォイス」のブレンダ・ブレッシンはこういう役柄を演じさせたらまさにぴったり。かなりこっけいに描かれているが、彼女があれだけ婿探しに夢中になるには切羽詰った事情もある。いうまでもなく子供が5人とも娘ばかりで相続人がいないのである。映画の途中で従兄弟のコリンズ(トム・ホランダー)という男が出てくる。限定相続なので財産は男系親族であるコリンズが相続することになる。相続権のない娘たちは裕福な男と結婚する以外生きる道がない(働くなど問題外だ)。もし売れ残ろうものなら身内の情けにすがって、周りから軽蔑されながら細々と食いつないでゆくしかない。せいぜい残されているのはガヴァネス(住み込みで上流の子弟を教える家庭教師)になる道くらいである。実際に遠縁の男に財産を奪われ惨めな境遇に転落した一家を描いたのが『いつか晴れた日に』である。夫を失った妻と三人の娘(妻にすら相続権はないのだ!)が屋敷まで奪われ、狭苦しい家で細々と暮らしている。

  だから娘たちも婿探しに血道を上げるのである。映画ではハンサムな軍人や裕福な地主が現れるたびにキャピキャピ騒ぎまわる様子が描かれている。原作もそう大差はない。 コミカルな持ち味は原作にもある。社会学的な関心がオースティンにあるわけではない。あくまである状況下に置かれた人物たちの性格や振る舞いを事細かに描くことに関心がある。生活描写と性格描写が命なのだ。その焦点はほとんど娘たちに当てられる。無権利状態に置かれていた娘たちはたとえ男の兄弟がいる場合でも結婚する以外に「幸せをつかむ」道はなかったのである。相手が見つからなければ、相続者となった兄弟の家に厄介者のオールド・スピンスター(昔は「老譲」というすさまじい訳語が当てられていた、オールド・ミスのことだがこれも今や死語?)として肩身の狭い思いで暮らしてゆくしかないのである。

  5人姉妹の下3人はまだ子供だが、長女のジェイン(ロザムンド・パイク)と次女のエリザベスはさすがに落ち着きがある。ジェインはしとやかで控えめな、いかにも長女タイプ。一方エリザベスは自分の考えをしっかりと持ち、はっきりと意見を言う女性。結婚という人生のゴールは変わらないが、とにかく自分の理想にあった人物をじっくり探そうとするところが他の姉妹と違う。当時の倫理的枠組みを踏み越えてはいないが、はっきりとした自覚と意思を持った女性であって、その点が一番の魅力である。映画ではキーラ・ナイトレイの美貌にだいぶ頼ってはいるが、彼女の自由ではつらつとした振る舞いは確かに魅力的だ。

  ダーシーがエリザベスに心を惹かれていると知ったキャサリン夫人(ダーシーの叔母)がものすごい剣幕で怒鳴り込んでくる場面がある。演じるは大女優ジュディ・デンチ。「アイリス」でボケが進んだ晩年のアイリス・マードックを演じ、「ラヴェンダーの咲く庭で」では孫ほどの男性に恋してしまう繊細な老女に扮した彼女が、ここでは一転して威圧感辺りを払う暴君のごとき上流婦人として登場する。頭からエリザベスを見下し散々彼女に圧力をかけてゆくが、エリザベスは一歩も後に引かない。負Artbasya05200waけずにやり返す。ここは原作でもクライマックスのひとつ。自分だけは物事の理非をわきまえていると自信過剰気味で、幾分分別臭いところのあるエリザベスだが(映画ではさほど強調されてはいないが)、この場面では読者・観客全員の共感を得てしまう。権威に屈せず、自分の気持ちを曲げようとしないからだ。エリザベスの面目躍如たる場面だ。

  「エマ」はイギリス映画ではあるが、アメリカ人女優グウィネス・パルトロウをヒロインに据えたためだろう、ほとんどラブ・ロマンスになってしまった。「プライドと偏見」は、その中途半端な邦題から同様の不安を持っていたが、イギリスが徹底した階級社会であり、性のダブル・スタンダードが支配していた社会であることをきちんと描いているため、単なるラブ・ロマンスには堕さなかった。その意味で「エマ」より優れている。一方、ダーシーの描き方に不満が残る分「いつか晴れた日に」には及ばなかった。

  登場人物ばかりではない。イギリスの景観と壮麗な大邸宅も魅力の一部。実際の映像で見せられるのは小説には出来ない映画の長所。パーティでのダンス・シーンなども映像の力を駆使している。映像面ではたっぷり楽しめる。

  古典を映画化する場合、古臭さを嫌って現代ものに置き換えてしまうことがよくある。しかし小説も戯曲も作品の中には時代が反映されている。その時代ならではの苦悩もある。現代劇に置き換えたとたん元の作品が持っていた重要な要素が抜け落ちてしまう。ただ筋だけが似ている魂の抜け落ちたような作品になってしまいがちである。アメリカ版「大いなる遺産」(アルフォンソ・キュアロン監督、97年)はその悲惨な失敗例。デヴィッド・リーン版(47年)に遠く及ばない。ごくまれにシェイクスピア劇などに優れた翻案が生まれることはあるが、よほどの工夫をしなければ大概は失敗に終わる。「いつか晴れた日に」も「エマ」も「プライドと偏見」も無理やり現代版に置き換えようとはしなかった。これはひとつの見識だと思う。

  なお、「プライドと偏見」の原作『高慢と偏見』については「イギリス小説を読む② 『高慢と偏見』」で簡単に紹介しているので、興味のある方はそちらもどうぞ。時代背景などを知る上では「イギリス小説を読む① キー・ワーズ」も多少参考になるかもしれない。また、イギリスでは階級によって話す言葉まで違うことを分かりやすく説明した『不機嫌なメアリー・ポピンズ』(平凡社新書)もイギリス社会を理解する上で絶好の入門書。これは必読。

■ドナルド・サザーランド出演作 おすすめの10本
「コールド・マウンテン」(2003)
「ハッピー・フューネラル」(2001)
「評決の時」(1996)
「JFK」(1991)
「白く乾いた季節」(1989)
「普通の人々」(1980)
「1900年」(1976)
「ジョニーは戦場へ行った」(1971)
「M★A★S★H マッシュ」(1970)
「駆逐艦ベッドフォード作戦」(1965)

■ジュディ・デンチ出演作 おすすめの10本
「プライドと偏見」(2005)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(2004)
「アイリス」(2001)
「シッピング・ニュース」(2001)
「ショコラ」(2000)
「ムッソリーニとお茶を」(1999)
「恋に落ちたシェイクスピア」(1998)
「Queen Victoria 至上の愛」(1997)
「ヘンリー五世」(1989)
「眺めのいい部屋」(1986)

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2006年7月 2日 (日)

天空の草原のナンサ

2005年 ドイツ 2005年12月公開
監督・脚本:ビャンバスレン・ダバー
プロデューサー:シュテファン・シュシュ
エグゼグティブ・プロデューサー:マーレン・リューチェ、フローリアン・シュナイダー
モンゴル製作主任:バットバヤル・ダバグドルジ
撮影:ダニエル・シェーンアウアー
録音:アンスガー・フレーリヒ、フランク・レゲンテ
編集:ザラ・クララ・ヴェーバー
音楽:ベーテ・グループ
作曲:グンプレブ・ダグバン、ムンフエルデネ・チュルーンバット
出演:ナンサル・バットチュルーン 、ウルジンドルジ・バットチュルーン
    ツォーホル バヤンドラム・ダラムダッディ・バットチュルーン
    ツェレンプンツァグ・イシ ナンサルマー・バットチュルーン
    バトバヤー・バットチュルーン

  劇場公開された時からずっと観たいと思っていた映画である。モンゴルの草原を舞台にした映画といえば真っ先に思い浮かぶのはニキータ・ミハルコフ監督の傑作「ウルガ」(91Arttuioku200aw 年)。それともう1本ある。椎名誠監督の「白い馬」(95年)。当時椎名誠と野田知佑が大好きで、片っ端から彼らの本を読みふけっていたので目に入ってきた映画だ。椎名誠の監督作品は他に「ガクの冒険」(90年)と「うみ・そら・さんごのいいつたえ」(91年)を観ている。彼の原作を映画化した「白い手」(90年)と「中国の鳥人」(98年)も観た。「天空の草原のナンサ」を観たいと思ったときに思い浮かべていたイメージは「ウルガ」と「白い馬」のイメージである。そしてまさにそのイメージ通りの映画であった。もっとも、一面草原しかない世界なので、他のイメージが入り込む余地はないのだが。

  去年出張で中国内モンゴルのフフホト(人口200万の大都市だ)に行ったとき、現地の人から草原を見に行かないかと誘われた。日程が詰まっていてお断りしたが、今も残念でならない。調べてみると内モンゴルで撮影された中国映画「天上草原」(03年)やモンゴル人とベルギー人が監督した「ステイト・オブ・ドッグス」(98年)というモンゴル・ベルギー映画もあることが分かった。まったく知らなかった。

  さて、肝心の「天空の草原のナンサ」。これはモンゴルの草原に暮らす一家の日常生活を淡々と綴った映画である。最初から期待度は高かったが、期待以上に感動した。冒頭の場面から引き込まれる。丘の斜面の上に低く垂れ込めた雲。夕暮れ時。二つの影が現れ何か(どうやら犬だったようだ)を埋葬する。遊牧民たちは死んだ動物が次は人間に生まれ変わるように、尻尾を切り落として葬るようだ。この場面が象徴的である。人間も動物も特に区別はない。たまたま現世でそうなっているだけであって、生まれ変わったときはまた違う姿になる。だから人間は動物と一緒に自然の中で暮らす。輪廻転生。モンゴルではまだこの思想が生活の中で生きている。町の学校からバスに乗って草原の家に帰ってきたばかりのナンサ。このかわいい主人公のマイ・ブームは前世を考えること。母親や近く(実際にはかなり離れているのだろうが、草原ではお隣の感覚だろう)に住むおばあさんに生まれ変わりのことをしきりに質問する。

  ナンサの家族は両親と妹とまだ幼い弟の5人家族。彼らの生活拠点であるテントのような移動住居ゲル(パオは中国語、モンゴル語ではゲルと言う)があるのは見渡す限りの大草原の中。標高2000メートルを越える高原にあるこの大草原は文字通り「天空の草原」。大地は緑に輝き、清らかな水が流れ、天はすぐ手が届きそうなところにある。「天空の城ラピュタ」は地上にあった! まさにそんな感じだ。だが、もちろんそこは空に浮かぶ廃墟ではない。そこは生活の場。家族は子供も協力して家畜の面倒を見たり、牛の乳を搾って牛乳やチーズや作り、燃料には牛の糞を集めてくる。食料も燃料も自前だ。風力による自家発電をしているので電気もあるが、もっぱら夜間に電灯をつけるための電力で、テレビもラジオも電話もない。文明らしさを感じさせるのは1台のオートバイのみ。

  自然の中で動物たちと一緒に暮らしているから成り立つ自給自足の生活である。当然生活は厳しい。母親は新しいひしゃくが欲しいが、近くのスーパーでちょいと買ってくるというわけには行かない。父親が何かの機会に町に出たときに必要な道具などを買ってくる生活である。ちなみに、父親が黄緑色のきれいなプラスチック製ヒシャクを町で買ってくるが、ちょっと目を離した隙になべの熱で溶けてしまう。近代文明は壊れたら捨てて買いなおす使い捨て文明であることが暗示されている。後で父親が古いひしゃくを修理していた。生活が不便で苦しい分みんな一生懸命に働く。お母さんは特に大車輪の活躍である。まだ6歳のナンサでさえ馬に乗って羊たちの世話ができる。おもちゃがなくても牛糞で遊ぶ。画面に映っているすべてが生活なのである。ナンサが母親に言われて牛糞を集めに行く場面が面白い。ナンサは背中に籠を背負って出かける。先端に平べったいヘラのようなものをつけた棒で牛糞をすくってはヒョイと後ろに投げるのだが、これがうまく籠に入らない。それでもそんなことに無頓着なそぶりでどんどん先に行く姿がなんとも可笑しい。

  とにかくあわてない。日本とは違う時間が流れているのだ。父親は町へ羊の毛皮を売りにオートバイで出かけるが、それでも帰るまで何日もかかる。オートバイのスピードもゆっくりだ。父の留守中、代わりに馬に乗って羊を追うナンサも実にゆっくりと進む。馬は走っていない、歩いている。だが、そんな草原の暮らしにもある脅威が密かに進入してきている。最初のあたりで飼っていた羊が2頭狼に襲われて殺される場面が出てくる。狼自体は昔か043205_2 らいたのだが、近頃数が増えてきていることが父親と猟師の話からわかる。狼が増えているだけではなく、人がどんどん都会に出てゆくので、捨て犬が増え、狼の群れに加わっているというのだ。モンゴルにも文明化の波が押し寄せ、人々は草原を出て行き始めた。狼化する捨て犬。

  ここにこの映画の主題が示されている。ただ草原で営まれている伝統的な生活を写し取るだけが狙いではない。この一家の子や孫の時代にはもうこの生活が消滅しているかもしれないという危機感。ビャンバスレン・ダバー監督が克明に遊牧民一家の生活を記録する背後にはこの危機感がある。だからこの映画にはなんとしても今記録しておかねばという使命感に近い情熱が感じられる。だいぶ古い本なのだが、アメリカ研究の古典でレオ・マークス著『楽園と機械文明』(研究社)という本がある。「田園観念」がアメリカ的経験を解釈する上でどう用いられてきたか、その観念が産業社会の影響を受けながらどのように変容して行ったかをたどった歴史的名著である。その冒頭にナサニエル・ホーソーンの『ノートブック』からの一説が引用されている。ホーソーンがスリーピー・ホローを訪ねたときの経験を書いたものだ。彼は森閑とした森の中で瞑想にふけっている。と突然あたりの空気を引き裂くような音が響き渡る。ホーソーンが「不快な悲鳴」と記したその音は汽車の汽笛だった。神聖な処女地に踏み込んでくる近代機械文明。汽車はその機械文明の象徴である。アメリカの歴史は ある意味で西部開拓の歴史だった。自然あふれるアメリカの処女地に文明が入り込み開発されてゆく。自然は切り取られ踏み荒されてゆき(「ダンス・ウィズ・ウルブズ」に出てくる皮をはがれたバッファローの死体が画面の果てまで累々と横たわるシーンは象徴的な場面である)、早くも1920年代には摩天楼が出現する。南北戦争のわずか100年後にはアメリカは世界一の超大国となり、世界一の文明国になっていた。

  西洋人がどかどかと入り込んでくる前にその大陸に住んでいたネイティブ・アメリカンたちは、モンゴルの草原の民と同じように、自然を食いつぶすのではなく自然からの恵みを感謝しながら分け与えてもらって生活していた。いやかつては日本だってそうだっただろう。矢口高雄の名作「マタギ」に描かれた人間と動物と自然の関係は驚くほどモンゴルの草原の生活に似ている。自然に感謝しつつ自然の恵みをいただく。必要以上には狩をしない。獲物をしとめたときには感謝の祈りを捧げる。映画でもゲルを作っていた跡が残る地面(そこだけ草が生えていない)でお礼の祈りを挙げる場面が出てくる。

  「天空の草原のナンサ」に印象的な場面がある。父親は狼に殺された羊の皮を剥ぐ。殺された2頭のうち1頭を草原に置き、鳥たちに捧げる。ハゲワシたちがたちまち群がってきて肉をつつく。おそらく家族だけでは2頭分の肉は多すぎるのだ。あまった食料は動物たちに分け与える。これも自然と動物たちとともに生きてきた彼らの知恵であり儀式なのだろう。チベットに鳥葬という習慣がある。遺体を郊外の荒地に運び、細かく裁断して鳥に食べさせる。「魂の抜け出た遺体を“天へと送り届ける”ため」の儀式である。題名は忘れたが以前中国映画に鳥葬の場面が出てきたのを見たことがある。日本人の感覚からすると遺体を鳥に食べさせるのは残酷な気がするが、生き物はみなどこかで繋がっているという輪廻転生の思想と関係していると思われる。「天空の草原のナンサ」で父親が羊の肉を鳥に与えたのは宗教的な儀式というよりも普段の生活の延長線上にある行為だったのだろう。鳥葬には「多くの生命を奪うことによって生きてきた人間が、せめて死後の魂が抜け出た肉体を、他の生命のために布施しようという思想もあるといわれている」(Wikipediaより)。

  この映画はフィクションであるがノンフィクションを観ている趣がある。監督も演出するとGreen_hillいうよりも自然に撮りたい場面が現れるのを待つという方法で撮影に臨んだようだ。「私の撮り方は「今日はこうしよう」といって撮るのではなく、今の動きを見て、撮りたいと思った時に撮る。それをつなげて、完成させました。やらせではなく粘って粘って撮ったのです。ドキュメンタリーの手法の、良い瞬間を待つ、というやり方で撮りました。子供の動きも私が思いもしなかった、計画していなかったものがどんどん出てきたので満足しています。」

  この映画の魅力は生活そのものが持つ魅力だ。馬車の車輪の下において馬車の重みで押し固めて作ったチーズ。そのチーズを糸で器用に切り取ってゆく場面は思わず引き寄せられるように見入ってしまった。そういう具体的な生活行為ばかりではない。輪廻転生のような考え方が生活の中にしみこんでいる様もしっかりと捉えられている。ナンサがたまたま見つけてきた捨て犬を飼いたいというと父親が狼をひきつけるから捨てろという場面がある。羊が2頭も犠牲になった直後だから無理もない。しかも捨て犬だとすると狼の仲間で ある可能性もある。ナンサは納得できない。「どうしてか分からない」とナンサが母親に言うと、母親は「手のひらを噛んでみなさい」と言う。ナンサは何とか噛もうとするが、どうやっても噛めない。すかさず母親が言う。「全部思い通りにはならないのよ。」あるいは「黄色い犬の伝説」を話してくれたおばあさんにナンサが「私も人間に生まれ変われるかな」と聞くと、おばあさんは針に米粒をかけ始める。針に米粒を乗せてごらんとナンサに言うが、いくらやってもうまくいかない。おばあさんは人になるのはそれくらい難しいことだという。このように言葉を使って理屈で説明するのではなく、実際の行動を通じて理解させる方法には感銘を受けた。おそらく昔から伝えられてきた智恵なのだろう。脚本家が考え出したものではなく、昔の人の智恵が生活に根付いていることに感動する。

  こういう世界で育った子供はなんとも溌剌としている。冒頭休みで町の学校からバスで帰ってきたナンサが母親に学校で字を習ったのを誇らしげに語る場面がある。勉強を嫌がる日本人の子供にはまず見られない姿だ。おそらく強制されていないのだ。知識を得るのが楽しくて仕方がない。子供の本来の姿を見た気がする(昔の子供はこれはどういう意味かと親を質問攻めにしたものだ)。あるいは子供たちが雲を眺めてその形からいろいろなものを連想する場面。ゾウ、キリン、ラクダに乗った子供、馬。どこまでも想像が広がる。僕が一番感動したのはこの場面だ。自然が教室なのである。草原の暮らしの「豊かさ」はここにあるのだと思った。

  この映画はノンフィクションに近いがフィクションでもあるから主題や一応のストーリーもある。記録性と主題がクロスした素晴らしい場面はゲルを解体するシーンだ。真上から見下ろしたショットが見事だった。こんな風になっていたのか。誰もがこのシーンには賞賛の声を惜しまない。ビャンバスレン・ダバー監督はこのシーンにある思いをこめていた。「人と人との絆は細く、切れてしまいやすいものだけれど遊牧民はより深い結びつきをもっていると思います。それがなくなるのは残念なことです。ゲルの解体シーンは、絆が強く結ばれているものが解体されて、遊牧民と共に移動し、移動先でまた強く結び直される----そこに家族の絆を描きたかった。輪廻転生の意味も含めて撮りました。」その意図がうまく伝わったかどうかはともかく、長々と一部始終を写し取った一連の映像は記憶に焼きついている。

  ゲル解体の場面を観ていてロバート・フラハティが撮った記録映画の名作「極北の怪異」(22年)で氷の家を作るシーンを思い出した。解体と逆の作業だが、鋭いナイフでその辺の固めた雪をスッスッとまるで豆腐でも切るように切り分けて、それを重ねて家を作ってゆく。その手つきの鮮やかさ、家の構造の見事さに驚嘆した。ドーム型の家ができると、今度は雪ではなく氷を四角く切り取ってくる。ドームの適当な高さに切込みを入れて、先ほどの氷と同じ大きさに四角く切り抜く。そこに氷をはめ込むと窓ガラスになる。切り抜いた部分も無駄にはしなTm1_1 い。窓の横に縦に突き出すように貼り付ける。初めは日よけかと思ったが、なんとそれは反射板だった。そこで光が反射し窓から家の中に光が入る仕組み。これには本当に感心した。このキャメラの視線には「天空の草原のナンサ」と同じ視線を感じる。まったく自分たちとはかけ離れた世界の生活を驚嘆の気持ちと畏敬の念をこめて記録しようとする視線である。

   「天空の草原のナンサ」にはっきりしたストーリーはこれといってないのだが、ナンサと彼女が拾ってきた子犬ツォーホルが中心に話は進んでゆく。父親は犬を捨てろという。ナンサは捨てる気はない。果たしてどうなるのか。それがストーリーを進めてゆく主たる関心となる。もちろん劇的な展開などないのだが、それでも感心したのは観客をハラハラドキドキさせる場面が二つあることだ。一つはツォーホルがいなくなる場面、もう一つは弟がいなくなる場面。どちらもナンサが犬のツォーホルに気を取られて面倒を見なければならない羊や弟から目を離してしまうことになる。何か重大な事故が起こるのではないか。そんな気がして観客はハラハラするのだ。前者は何事もなく済んだが(むしろ例のおばあさんと出会うきっかけとなる)、後者は馬車に乗っているはずの弟がいなくなるという大変な事態となる。結末は言わないでおこう。どちらも淡々とした中にメリハリをつける効果を持っている。ただ後者はいかにも演出という感じであり、またうまく話をまとめるための手段という感じで、いまひとつ感心しないが。

  監督のビャンバスレン・ダバーはモンゴル出身。もっともウランバートル生まれだから遊牧民の暮らしは直接知らない。ただ彼女の祖母は遊牧民の生活をしていたようである。ウランバートルの映画芸術大学で学んだ後、奨学金制度が充実しているドイツに渡り、ミュンヘン映像映画大学ドキュメンタリー科でさらに映画を学んだ。卒業制作として撮った「らくだの涙」が注目を集めたが、残念ながらまだ観ていない。何度も手には取ったのだが借りる決心が付かなかった。

  考えてみれば、「天空の草原のナンサ」のような映画を歓迎するのは先進国や都市部に住む人たちではないか。実際に草原で暮らしている人たちは却ってハリウッド映画のようなものを面白がって観ているかもしれない。ちょうど日本で高く評価されているイラン映画が一般のイラン人には退屈な映画だと思われているのと同じように。

  何もない草原での生活は映画で観ている分にはあこがれるほど素晴らしく見えるが、実際に1ヶ月も暮らしてみれば辛くて退屈で死にそうになるだろう。ごみごみした街に暮らし、せわしない生活に追われる日本人にはこの種の映画は一種の癒しのような効果を持つ。そういうつもりではなくても、実際には無意識のうちにそういう文脈の中で観ている。現地の人にとってはなんでもない当たり前のことがわれわれにはどれをとっても魅力的なものに見えてしまう。ただ日常のことを描き綴っているだけの「天空の草原のナンサ」を素晴らしいとほめるのは、都会人の現状脱出願望の裏返しに過ぎない、そう言えないこともない。いや実際その通りで、これは否定できない。しかしこの映画を観ながらわれわれはやはり自分たちの日々の生活や自国の文化を見つめなおしている。それは意味のあることだ。現実には実現できない夢を与えるのは映画が果たす重要な機能の一つでもある。夢を見るのは悪くないことだ。

2006年7月 1日 (土)

ふたりの5つの分かれ路

2004年 フランス 2005年8月公開 Sea22
原題:5×2
監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン、アマニュエル・ベルンエイム
撮影:ヨリック・ルソー
音楽:フィリップ・ロンビ
出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、ステファン・フレイス
   ジェラルディン・ペラス、フランソワーズ・ファビアン
    アントワーヌ・シャピー、マイケル・ロンズデール
    マルク・ルシュマン

  アレキサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」とフランソワ・オゾン監督の「ふたりの5つの分かれ路」を同じ日に観た。結論から言うと、2本ともどうということのない映画だった。ソクーロフの映画を観たのは初めて。と思っていたが、なんといつものフリーソフト「映画日記」に記入していたらソクーロフの名前がすでに入っているではないか(すでに入力済の名前は数文字打ったところで候補として表示される)。何を観たかと調べてみたら「孤独の声」を観ていた。まったく記憶にない。手書きの映画ノートを観たら周辺の事情を少し思い出した。88年に「高田馬場東映パラス」でソ連映画特集が組まれ、11月4日に「翌日戦争が始まった」と「メッセンジャー・ボーイ」、11月6日に「死者からの手紙」と「孤独な声」を観ていたのである。他の3本は多少なりとも記憶が残っているが、「孤独の声」(78年)はタイトルも含めまったく忘れていた。タイトルすら忘れているところをみるとあまり印象に残る映画ではなかったようだ。

  「太陽」は終戦の直前と直後の天皇裕仁を描いた映画。第55回ベルリン国際映画祭のコンペ部門に出品され話題を呼び、ロシアの第13回サンクトペテルブルク映画祭でグランプリを受賞した。しかし主題が主題だけに日本公開が危ぶまれていたが、今年の8月に公開されるようになったようだ(この日は知り合いが持ってきたイギリス版DVDで観た)。ヒトラーを描いた「モレク神」、レーニンを描いた「牡牛座」と合わせて3部作になっている(79年に「ヒトラーのためのソナタ」という作品も撮っている)。もっとも、次や次の次も考えているようなので最終的に何部作になるかは分からない。裕仁を演じるのはイッセー尾形。あの独特の口の動きや身のこなしをよく再現している。終戦前後の数日間を淡々と描いたもので、ただそれだけ。裕仁個人に焦点を絞り、歴史的・政治的視点などは一切捨象している描き方には疑問を感じた。まあ、数人で食事をしながらああだこうだと言いながら観たので、しっかりと鑑賞したわけではない。だからレビューは書かない。

  フランソワ・オゾン監督は「まぼろし」(01)、「8人の女たち」(02)、「スイミング・プール」(03)に続いてこれが4本目。「まぼろし」と「スイミング・プール」は、満点は付けられないがなかなかよくできた映画だった。「8人の女たち」はまあまあの出来。「ふたりの5つの分かれ路」はさらにそれを下回る平凡なでき。監督自身「恋人との別れを経験した直後で、その原因を知りたかったのが、映画を作ろうと思ったきっかけ。失恋すると、みんな過去を振り返るじゃないか。あの時のあの言葉が原因だろうか、それとも……、と。その心の軌跡を、そのまま映画にしたんだ」と語っているが、文字通りそういう映画。ただそれだけ。だから何なの?

  まあ、これではあまりにそっけないのでもう少し書いておこう。映画はジルとマリオンの離婚が成立するところから始まり、別れ、特別なディナー、出産、結婚式、出会い、という5つのエピソードを通して時間を逆にさかのぼって出会いまでを描いている。形式としては韓国の名作「ペパーミント・キャンディー」とほぼ同じ。後者は自殺した男が自殺にいたる経過を過去に戻りながらたどってゆく。次々に男の過去が明らかになってゆく。浮き沈みの激しい人生。男が転落してゆくプロセスがよく描かれており、その根底にはベトナムでの悲惨な経験があったことが明かされてゆく。語られる内容と形式がうまくかみ合っていて、この時間の逆転という手法が十分に効果を発揮している。しかし「ふたりの5つの分かれ路」の場合、時間を逆転させた必然性が何も感じられない。

  それもそのはず、結局は個人的な恋愛のもつれの範囲から一歩も出ていないのだから、単なる個人的な問題に過ぎない。他人にはどうでもいいことである。何が原因かはっきりしないし、そもそも当事者以外には分からないことだ。いや分かったからといって何がどうということもないし、元の鞘に収まるわけではない。終わりがあるから愛は美しいなどという宣伝文句も空疎に響く(ところでこういう終わり方はハッピーエンドというのだろうか?)。

  あるいは、あれほど愛し合っていた二人がどうして分かれてしまうことになるのか、それFutari3c を真摯に追求した作品だと言うかも知れない。しかし出会いの頃の熱々状態のままで20年も30年も暮らしている夫婦が一組でもいるだろうか?二人は結婚してその後幸せに暮らしました、というのは御伽噺だけの世界だということは誰でも知っている。「愛の真実」とか「愛の本質」などという大げさなものではなく、ただ分かりきった当たり前のことを当たり前に描いただけに過ぎない。芸能人の離婚報道で結婚当時の幸せそうな映像が流されるようなものだ。

  「5つの分かれ路」というタイトルは、あの時こうしていれば、こうしなければと思い当たるポイントを5つ取り上げたという意味だろう(原題は「5×2」、当事者は二人だから)。しかし、観ていると分かれるチャンスが何度もあった、あのときに分かれておけば、いやあの時だって分かれるチャンスだったのに、という意味合いに思えてくる。なぜならジルはあまりにだらしない男だし、二人とも関係を改善する努力を何もしていないのだから、ある時点でうまく対応したとしても、いずれどこかの時点で破局に至るのは目に見えているからだ。

 オゾン監督は「愛というものをあれこれ説明することなしに、別の角度から捉えたかったのです。日常的なことが愛を失わせると語るのは、たやすいことのように思えますが、2人を別れさせる本当の理由は表面的なものよりももっとずっと深淵なものであり、そのことに注目しました」と語っているが、一体どこに深遠な理由があるのか。些細なことの一つひとつが実は大きく影響するのだと言いたいのだろうか。だとしたら「深遠な」という言葉の使い方が間違っている。過去にさかのぼる形式がどうの、キャメラワークがどうの、甘く切ないイタリアン・ポップスがどうのという前に、内容が空疎ではいくらテクニックを駆使してもやはり「焼け石に水」である。あるいは説明の付かない行動をとってしまう人間のどうしようもない愚かさを描きたかったのかもしれないが、しかし話の展開には意図的に壊れてゆくよう仕向ける作為を感じた。

  原題は「5×2」となっているが、視点は一貫してマリオン寄りであると感じる。出産したマリオンが夜中に病室を抜け出し保育器の中にいる我が子を見る場面(寄り付こうとしなかったジルと対照的だ)、ジルが乱交パーティーの話を得意げにする横でマリオンの笑顔が消えて行く場面などは印象的だ。初夜に夫のジルが酔いつぶれて寝てしまったため満たされない気持ちを抱いていたマリオンが、強引に迫ってきたアメリカ人と浮気をしてしまう気持ちも理解できなくはない。一方ジルの心中は一貫して明確にされない。なぜ子供を避けたがるのか、なぜマリオンを傷つけると分かっていて乱交パーティーの話をしたのか、最後まではっきりとはわからない。もちろん推測することは可能だ。例えば、ジルが赤ん坊に嫌悪感を示すのは父親が自分ではなく、マリオンが初夜の日に寝た外国人だと知っているから。ジルが兄やマチューの前でこれ見よがしに乱交パーティーの話をするのはそのことに対するあてつけ。そういう解釈も成り立つ。だがもしそうだとして、それがどうだというのか。二人とも関係改善に何の努力もしていない。ただ互いに傷つけあっているだけ。何ともしょうがない夫婦。そう思うだけだ。

  ジルの兄クリストフ(アントワーヌ・シャピー)と兄のゲイの恋人マチュー(マルク・ルシュマン)を登場させて自由恋愛の話題を持ち込んでいるが、いまさら結婚制度が自由を縛るなどと言ってみたところで何の新鮮味もない。テーマとして深められるわけでもなく、ただ話題として流れてゆくだけ。

  唯一興味を引かれたのはカーラ・ブルーニの姉ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ。カーラ・ブルーニの傑作CD「ケルカン・マ・ディ」の解説で姉が女優だと知った。ひょっとして観たことがあるかもしれないと思ってインターネットで調べた記憶がある。ヴァレリアは「ミュンヘン」に出ていたようだがほとんど印象がない。だが主演したこの映画ではなかなか印象的だった。「ラクダと針の穴」では出演だけではなく監督と脚本も兼ねているようだ。才能のある人なのだろう。俳優としてはどちらかというと脇役向きと思われるが、今後の出会いが楽しみだ。

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