2005年 アメリカ 2005年12月公開
原題:Lord of War
監督、脚本:アンドリュー・ニコル
撮影:アミール・M・モクリ
音楽:アントニオ・ピント
出演:ニコラス・ケイジ、イーサン・ホーク、ブリジット・モイナハン、イアン・ホルム
ジャレッド・レト、サミ・ロティビ、イーモン・ウォーカー
自動車と戦車、どっちが頑丈か。答えはいうまでもなく戦車。比較にならないほど頑丈で ある。ではどっちの寿命が長い?平和時はともかく、一旦戦争が始まったら戦車の寿命は相当に短い。だから武器商人はやめられない。戦争が始まれば武器関係の生産が飛躍的に増大する。特に弾薬はいくらあっても十分すぎるということはない。ミサイルともなれば1発で数千万円という単位だ。濡れ手で粟の荒稼ぎ、ぼろ儲け。不況が吹き飛ぶほどだ。何しろ第二次世界大戦の勃発が世界大恐慌を終結させたほどである(一番得したのは直接戦場にならなかったアメリカ)。戦場でうめき泣き叫んでいる人たちがいる一方で、後方で高笑いをしている連中がいる。
「ロード・オブ・ウォー」は「死の商人」すなわち武器の密輸業者の実態をドキュメンタリー・タッチで真正面から描いた映画である。タイトルの「ロード・オブ・ウォー」(「戦争の王」)は劇中でリベリア大統領が「死の商人」を指して言った言葉だが、主人公のユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)がすぐさまそれを言うなら「ウォ-・ロード」だと訂正する。リベリア大統領はアメリカに留学していたので達者な英語を話すが、時々ちょっとした言い間違いをしてそのたびにユーリーに直される。シリアスなこの映画にちょっとした滑稽味を付け加えている。と同時にユーリーたちが暗躍しているのがアフリカなどの紛争地帯であることを暗示している。
冒頭の場面が実に秀逸だ。空薬莢でびっしり埋まった地面の上に背中を向けて立つ男。建物から灰色の煙が上がり、遠くから銃声が響いている。男は振り向き平然と言う。「今世界には5億5千丁の銃がある。ざっと12人に1丁の計算だ。残る課題は“1人1丁の世界”だ。」続いて弾丸が製造されるプロセスがCGを駆使して映し出される。最近読んだ漫画「三丁目の夕日」である下駄の一生が描かれていた。擬人化された下駄が店の前に並べられ、やがて客に買われ、次第に足の部分が擦り切れ、ついには二つに割れてしまい焼却される。ちょうどそんな感じ。銃弾が製造される詳細なプロセスに始まり、銃から発射され男の子の頭に命中するまでが銃弾の視線で描かれる。ぐしゃっという音がして血糊が飛び散る。直後にひしゃげた銃弾の短いカット。
空薬莢の上に立っていた男ユーリー・オルロフは黒いビジネス・スーツに身を固めている。きちんとネクタイを締め、手にはビジネスマンの必需品、黒のアタッシュケースを提げている。どこから見ても普通のビジネスマンだ。そう、実際この男はビジネスマンなのである。ただ扱っている商品が武器弾薬というだけのことだ。実在の武器商人をモデルにして作り上げた架空の人物である。本当にこんな出で立ちで商売していたのかどうか分からない。少なくとも、戦争がビジネスだということを強調するための演出であることは間違いない。
ユーリーの描き方がまた見事だ。この映画の成功の大部分はユーリーという男を矛盾の塊として描いたことにある。ユーリーはソビエト連邦崩壊前夜のウクライナに生まれ。ソ連を出るにはユダヤ人に成りすますのが一番という父親の考えで(ユダヤ人作家バーナード・マラマッド原作の名作「フィクサー」で描かれたようにソ連のユダヤ人差別はひどかった)、ユダヤ人の振りをしてまんまとソ連を脱出してアメリカに渡る。父親(セルゲイ・ボンダルチュックそっくりで、見るからにロシア人という顔立ち)はそれが嵩じてほとんどユダヤ教徒のようになってしまっているのが可笑しい。
不満はあるもののまじめに働いていた彼が武器商人になろうと決意したきっかけはたまたまロシア人ギャングの銃撃戦を目撃したことである。「暴力から逃げるより飛び込むべきなのだ。人の本質だ。何かでかいことをやるのが夢だった。」少々飛躍がある気もするが、そこはフィクションだから深くは追求しないでおこう。ともかく、商才に長けた彼はどんどん頭角を現し、フリーランサーの武器商人として「信頼」を勝ち得る。彼が駆け出しの頃大物武器商人シメオン(イアン・ホルム)に挨拶しようとするが、冷たくあしらわれる。やがて立場が逆転してしまう。常にユーリーの方が先んじて、後から来たシメオンを小ばかにする。まるで「シンシナティ・キッド」のスティーヴ・マックィーンとエドワード・G・ロビンソンのようだ。「俺に勝つには10年早いぜ!」というきめ台詞を久々に思い出した。
ユーリーの才覚は文字通り敏腕ビジネスマンとしての才覚である。儲け話には異常に鼻が利く。戦争や紛争あるところに必ずユーリーの影がある。冷戦終結で一時商売上がったりかと思われたが、武器あまりの状態に目をつけ買いあさる。まさに「武器のバザール」状態。もちろんユーリーばかりか他の商人や組織や国家がハゲタカのように群がった。「″略奪″は続いた。ソ連崩壊後320億ドル相当の兵器がウクライナから消えた。20世紀最大の窃盗だ。」ビジネス・チャンスは逃さない。武器を右から左に転がすだけで巨万の富が転がり込んでくる。象徴的な場面があった。アフガンで兵士が機関銃を撃っている。突然画面がスローに切り替わり、薬莢が飛び出るごとにチーンというレジの音が鳴る。撃てば撃つほど武器商人が儲かり、犠牲者が増える。
もちろん闇の商売だからやばい橋を何度も渡っている。インターポールから付け狙われ、海上で危うく御用になりかかった。乗り込んできたのはしつこくユーリーを追い回すヴァレンタイン(イーサン・ホーク)。ユーリーは機転を利かせてとっさに船の名前を書き換える。オランダの船に早変わり。ストックにオランダの旗がなくて一瞬あわてるが、これまたとっさの機転で乗り切る。フランスの旗を縦にすればオランダの旗になるというわけ。これには笑った。
上で「ユーリーという男を矛盾の塊として描いた」と書いたが、ユーリーの描き方のもっとも秀逸な ところは彼を決して鬼畜のごとき極悪人として描かなかったことである。ヴァレンタインに追い詰められたとき彼は「私は殺し屋じゃない。人を撃ったこともない。戦争で稼いではいるが」と言う。実際そのとおりなのだ。彼はまさにビジネスマンであって、人殺しではない。妻や子供には優しいパパである。眠っている息子のベッドでおもちゃの銃を見つけた時は、そっと取り上げてゴミ箱に捨てた。目の前で人が撃たれた時にはショックを受けて顔を背ける。芝居ではない。本当にそういう男なのだ。自分では虫も殺さない。しかし人殺しの道具を売って生活している。正常な感覚の人間には理解できないこの矛盾。何が彼を駆り立てているのか。
誰でも思いつく理由は金だろう。しかし本人は否定する。妻エヴァ(ブリジット・モイナハン)にそんな商売は「やめて」と懇願された時、彼は「金じゃない」と答える。「じゃ何?」「才能だ。」さらに正当なビジネスをしているに過ぎないと言い募る。妻が吐き捨てるように言う。「たとえ合法でも間違ってる。」
確かにエヴァの言うとおりである。この映画の中では本多勝一風に言えば「武器を売る側の論理」と「それを止める側の論理」がせめぎ合っている。後者の側の代表はインターポールの捜査官ヴァレンタインである。彼の論理は冷静で説得力がある。「戦争犠牲者の9割が銃で殺されてるんだ。核兵器じゃない。AK47こそ真の大量破壊兵器だ。」彼の論理は武器の密売=犠牲者の増大という論理である。「法を盾にとるなら私も24時間拘束の権限を行使する。その理由は・・・お前の動きを24時間封じることで犠牲者たちの死を先送りできる。お前から1日奪うんじゃない。罪のない人に生きられる1日を与えるんだ。」
実に真っ当な考えである。しかしそんなことでユーリーの考えが改まらないことは言うまでもない。彼は自分の売った武器で人が殺されていることは百も承知で(できればそうならないことを望みながらも)武器を売っている男だ。むしろ決して法の則を超えないヴァレンタインを手玉に取っている感がある。むしろ彼に打撃を与えたのはヴァレンタインのような論理を持たない妻だった。ある時ユーリーが家に帰ってくると(その前にバレンタインが来てユーリーがやっていることを全部妻に話して行った)妻が裸でベッドに座っている。異様な雰囲気にさすがのユーリーもはっとする。「どの服もだめ。宝石も、高級車も、この家も。全部血で汚れてる。」これは明らかにシェイクスピアの「マクベス」を意識したせりふだ。
その後のせりふにはさすがのユーリーも心を動かされる。「私の才能は容姿だけ。つまり、そう生まれただけ。女優にも画家にもなれず、いい母親でもない。容姿も衰える一方よ。すべてに失敗してきたわ。でも人間失格はいや。」最後の「でも人間失格はいや」というせりふが強烈だ。さすがに「妻という武器はこたえた。」ユーリーはその後半年間武器の密売をやめる。だが、突然リベリア大統領が自宅に現れ、彼に誘われてあっさりとまた元の商売に手を出してしまう。「どんな勇者も本能には勝てない。」
ヴァレンタインのような冷徹な論理ではないが、やはりユーリーを動揺させた人物がもう一人いる。弟のヴィタリー(ジャレッド・レト)だ。彼は最初兄とパートナーを組んで闇の世界に足を踏み入れた。しかし彼は自分のしていることに悩み、耐え切れず麻薬に逃れる。兄のようにビジネスとして自分のやっていることを割り切れなかったのだ。そういう意味では正常な人間だった。商売に復帰したユーリーに無理やり誘われてヴィタリーは取引に立ち会う。しかし自分たちが売った武器で人が殺されると知った彼は運んできた2台のトラックのうち一台を手榴弾で吹き飛ばしてしまう。無残に撃ち殺された弟を見てユーリーは愕然とする。「神が見捨てた国の指導者と私はいまや同類だ。互いに嫌悪を抱いている。鏡を見ているようだ。」弟の死にショックを受けるが、それでも彼は立ち直らなかった。むしろ吹っ切れたように武器の密売に邁進する。
麻薬におぼれていたヴィタリーを更正施設に送り届ける時、ユーリーは車の中で弟に言われる。「用心しろ。銃に殺される、内面を。」その弟が殺されたとき、ユーリーの内面は確かに死んだ。わずかに残っていた人間らしい感情が完全に押しつぶされてしまった。彼はもはや迷うことはなかった。片手のない女の子に「手はまた生えてくる?」と聞かれても何の感慨も湧かない。そんな人間になってしまう。
完全に「向こう側」に行ってしまった人間をわれわれは説得できるのか?ユーリーのような奴を退散させるにはどんなに理を説いても、情に訴えても、道徳を説いてもだめである。彼のビジネスに善悪は意味がない、儲かるか儲からないかそれだけだ。可能な方法はたった一つ。戦争そのものをなくすこと。それ以外に手はない。ビジネスマンを干上がらせるにはビジネスが成り立たなくすればいい。実に単純な理屈だ。だがこれこそが難しい。金と権力欲に取り付かれた人間や組織や国家がなくならない限り戦争はなくならない。この映画の本当の主題はそこにある。ユーリー個人の問題ではない。彼が鬼畜のごとき極悪人である必用はない。彼は「死に至るシステム」の一部に過ぎない。人間の本源に根ざした「悪循環の車輪」が回り続ける限り、互いに殺しあう人間も彼らに武器を売る人間もなくなりはしない。戦争という「死の歯車」をいかにして止めるのか。われわれに課された最も困難な課題である。「死の歯車」は死者と憎しみを生み出すと同時に富をも生み出す。金こそこの巨大な歯車を動かす原動力である。金が歯車を動かし、その歯車が金を生む。だから止めがたいのだ。
ユーリーはこの巨大な歯車が動かしている巨大なシステムに組み込まれている。彼個人の意思など何ほどの意味もない。むしろ彼は世界の矛盾の中に落ち込んで抜け出せなくなった哀れな男に過ぎない。彼の矛盾は世界の矛盾の表れだった。そのことは映画のラストではっきりと提起される。ついにユーリーを逮捕したヴァレンタインにユーリーが言う。自分はすぐに釈放されると。「最大の武器商人は君のボス。合衆国大統領だ。輸出量は一日で私の1年分。証拠が残るとまずい取引もある。そんな時は私のようなフリーランサーに委託する。だから私を悪と呼ぶのはいい。必要悪なんだ。」その後「本作は実際の出来事に基づく」というクレジットが出て、さらにこう続く。「個人経営も繁栄しているが最大の武器供給者は米・英・露・仏・中である。この5カ国は国連安保理の常任理事国でもある。」
ユーリーのような存在はだいぶ前から知られていた。彼の果たしている役割にはいまさら驚きはしない。しかしその内部に直接携わっていたものでなければ分からない細部の描 写には説得力があった(たとえば、米軍が紛争地帯に送った多くの小火器を自国に持ち帰るより安上がりだという理由で武器商人に払い下げているという実態)。それ以上に、彼をより大きな「死に至るシステム」の一部として描いたことにこの作品の意義がある。彼は複雑に絡まりあうシステムの中のひとつの歯車に過ぎない。歯車として回転し続ける間に人間らしい感情が磨耗してゆくプロセスもリアルに描かれていた。システムは動き続け、大小複雑に絡み合った歯車は回り続ける。たとえその中の小さな歯車がひとつ壊れようと、またすぐに代わりの歯車が現れる。
人間が存在する限り「死の歯車」は回り続けるかのように思える。「死の歯車」は戦争や紛争があるところならどこにでも出現する。歯車が回転する毎に死が生産される。戦場は混乱のきわみだ。しかしそんな中でも人間は必死で生きている。ユーリーが無届飛行で武器を空輸していたときインターポールの飛行機に不時着を命じられる場面がある。空港ではなく道路に緊急着陸したユーリーたちは証拠隠滅のため積んでいた武器を付近の住民に配る。あっという間になくなった。「空港なら1日かかる作業を栄養不良の住民は10分で終えた。」住民たちは不時着した貨物飛行機もほうっては置かなかった。次々にむしり取るようにして奪ってゆく。まるでハゲタカに食べられた動物の残骸のように1日でほとんど何もなくなってしまった。「七人の侍」で村人が刀や槍や鎧をこっそり隠し持っていたのと同じだ。死んだ侍や落ち武者から剥ぎ取った「戦利品」。殺す側も殺される側もハゲタカのようになってゆく。
どうすれば「死に至るシステム」を解体できるのか。いかにして「死の歯車」を止めるのか。この映画が投げかけている問いは重い。この問題を考えるときに「平和ボケ」という言葉を安易に使うべきではない。日本を再び戦争ができる国にしようとしている連中が意図的に使っている言葉だ。戦争漬け状態がいいのか?日本がボスニアやアフガンやイラクやアフリカのようになるのが望ましいのか。そこに軍隊を送り込むアメリカやイギリスのようになることが望ましいのか。「ボケ」ているのは平和だからではなく戦争についてきちんと教育してこなかったからだ。戦争について正しく教えないことで判断力を奪っておいて、その隙をついて自分たちに都合のよい歴史に書き換えようとする。世界で何が起こっていたのか。今何が起きつつあるのか。それを正しく理解することから出発しなければならない。それは平和だからこそできることだ。戦争のさなかでは生きることで精一杯だ。この映画は観て楽しむ映画ではない。観て考えること、そして可能な限り行動すること。それが必用なのだ。「世界を受け継ぐのは武器商人だ。他は殺し合いで忙しい。生き残る秘訣は″戦争に行かないこと″。特に自分からは。」いつまでもユーリーにこんなことを言わせておくべきではない。
最後に音楽について一言。商売を再開したユーリーの後を妻と子供が追跡する場面でジェフ・バックリィの「ハレルヤ」が流れる。何度聴いてもすばらしい曲だ。この曲が収録されているアルバム「グレース」自体が傑作だが、その中で最も優れているのがこの「ハレルヤ」。単純なメロディーを繰り返す構成になっているが、そのため却って祈るような歌が胸に染み入ってくる。ジェフ・バックリィは97年にわずか31歳で夭折した。他に2枚組「素描」もおすすめ。シンガーソングライターだった父親のティム・バックリィも夭折している。親子とも長くは生きられなかった。ティム・バックリーのアルバムは貴重で見つけたら迷わず買うべし。「ティム・バックリー」&「グッドバイ&ハロー」のカップリング版(2in1)と「ブルー・アフターヌーン」をゲットしたときは本当にうれしかった(共に輸入版)。もちろん出来はいい。
■ニコラス・ケイジ おすすめの5本
「マッチスティック・メン」(2003)
「60セカンズ」(2000)
「フェイス/オフ」(1997)
「ワイルド・アット・ハート」(1990)
「月の輝く夜に」(1987)
■気になる未見作品
「アダプテーション」(2002)
「コレリ大尉のマンドリン」(2001)
「赤ちゃん泥棒」(1987)
ニコラス・ケイジの出演作はかなりの本数あるが、どうも作品に恵まれていない気がする。上に挙げた以外に「コットンクラブ」(1984)、「リービング・ラスベガス」(1995)、「ザ・ロック」(1996)、「コン・エアー」(1997)、「スネーク・アイズ」(1998)、「8mm」(1999)、「救命士」(1999)を観たがどれも標準程度のでき。「リービング・ラスベガス」でのニコラス・ケイジの演技はさすがにうまいが、作品自体がたいしたことないので選外に。
個人的には「マッチスティック・メン」のような、何で俺がこんな目にあうんだとあたふた走り回る情けない役柄がぴったりはまると思う。演技力のあるいい俳優なのでこれからもっといい映画と出会ってほしい。
■イーサン・ホーク おすすめの5本
「ロード・オブ・ウォー」(2005)
「ビフォア・サンセット」(2004)
「ガタカ」(1997)
「リアリティ・バイツ」(1994)
「いまを生きる」(1989)
■気になる未見作品
「恋人までの距離」(1995)
イーサン・ホークは「ガタカ」、「ビフォア・サンセット」を観るまではそれほど印象に残る俳優ではなかった。特に「ビフォア・サンセット」は作品そのものが傑作だっただけに強烈に彼の印象が焼きついている。だんだんケビン・ベーコンに似てきて「ロード・オブ・ウォー」では渋さがにじみ出ていい味を出せるようになってきた。個人的には「ビフォア・サンセット」と「ロード・オブ・ウォー」が2大傑作だと思う。美男路線と渋み路線、今後は後者のほうに傾いてゆく気がするが、どうだろう。