空中庭園
2005年 日本 2005年10月公開
監督、脚本:豊田利晃
原作:角田光代
企画:孫家邦、森恭一
プロデューサー:孫家邦、菊池美世志
録音:上田なりゆき
美術:原田満生
編集:日下部元孝
衣装:宮本まさ江
主題歌:UA
出演:小泉今日子、板尾創路、鈴木杏、広田雅裕、ソニン
大楠道代、今宿麻美
勝地涼、山本吉貴、渋川清彦
中沢青六、千原靖史、鈴木晋介、國村隼
瑛太
永作博美(特別出演)
観ている間はそれなりに引き付けられたが、翌日レビューを書こうと思ったらかなり忘れていることに気づいた。特にストーリーの流れが思い出せなかった。あちこち印象深いシーンがあるのだが、順序がはっきり思い出せない。せりふも誰が言ったものかはっきりしない。主要登場人物がそれぞれの視点で描かれる形式なので、もともとストーリーは複雑に交錯している(「茶の味」に近い感じだ)。そのせいだろうか。調べてみたら、元の原作がそもそも6人の登場人物それぞれのモノローグからなる連作小説だった。
観終わった後の素朴な印象は、これ見よがしでかなりあざとい演出が目立つ作品だということ。特にキャメラワークに凝った作品で、キャメラが、ということは画面が、縦に横に回転するシーンが頻繁に出てくる。豊田利晃監督の作品を見るのはこれが初めてなので、こういう傾向が彼の本来の持ち味なのかは分からない。原作を書いた角田光代もまったく読んだことがない。薬物のせいだろうという観測もあるが、これだって確かなことは分からない(彼が麻薬所持で逮捕されたことは映画を観た後、ネットであれこれ調べていてはじめて知った)。いずれにしても、こういうテクニックに走るタイプの映画は得てして人間に対する後ろ向きで意地の悪い描き方をするか、あるいはいたずらに暴力的だったりげんなりするほど情念的あるいは抽象的だったりする。
しかしやけに目立つ凝った映像を別にすれば、内容は意外なほどオーソドックスである。京橋一家はいわゆる仮面家族で、「何事もつつみ隠さず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合う」という家族の決まりに表面的には従っているが、その実各人ばらばらで、それぞれに秘密を隠し持っている。絵に描いたようなお決まりのパターン。まるで日本中の家庭が同じような崩壊状態にあると言いたげだ。しかし、ラストは一応家族の絆を取り戻すだろうことが暗示されているので、後味は悪くない。何のことはない、よくあるタイプのファミリー再生ドラマである。
したがって家族がばらばらになっている状態がどう描かれているか、家族が再び絆を取り戻す過程が説得的に描かれているかが焦点となる。冒頭、横に回転するキャメラがなめるように「バビロンの空中庭園」を映し出す。「空中庭園」といっても「ラピュタ」のように空に浮いているわけではもちろんなく、要するに屋上庭園のことだが、映画の冒頭に出てくる空中庭園は文字通り宙に浮いている。キャメラが引いて、これが「空中庭園」の形を模した電灯の笠であることが分かる。「空中庭園」というタイトルを意識してのことだろう、キャメラ(画面)はゆらゆらと浮遊し、何度もぐるぐる回る。
夫と子供たちが出かけた後、京橋家の主婦絵里子(小泉今日子)はマンションの庭に出て木や花に水をやる。この庭は“ERIKO GARDEN”と名づけられている。これまた「空中庭園」である。やがて静かな音楽が流れ出し、自然音は消される。キャメラはなめるようにバスに乗っている夫、娘、息子、そして庭にいる絵里子を映してゆく。突然キャメラが一気に引いてマンションの全景が映る。次にマンションが縦に回転し「空中庭園」の文字が空に現れる。のっけから凝った映像を見せ付けられるが、導入部としては悪くない。 もちろん「仮面家族」だから(「空中庭園」というタイトルには実体のない「空中楼閣」という意味がこめられているだろう)最初は一見円満な家庭のように描かれる。冒頭の朝の場面で、娘のマナ(鈴木杏)が自分の「出生決定現場」はどこかと絵里子に質問する。普通は答えに言葉を濁す質問だが、何事も隠し事をしない家族をモットーとしているので、絵里子は「野猿」というラブホテルだったとあっさり答える。息子のコウ(広田雅裕)にいたっては家の台所で「仕込まれた」。何でも話せる明るい家庭を最初に映しておいて、すぐその後にそれぞれが隠し事をしている実態が描き出される。マナは学校には行かず、情けない名前のホテルに男友達と早速入ってみる(そのベッドがまた「回転」している)。コウも学校には行かずカメラ片手に街をぶらついている。夫の貴史(板尾創路)はといえば、飯塚麻子(永作博美)とミーナ(ソニン)という二人の愛人に振り回されている。
絵里子も決してまともではない。常に笑顔を振りまいているが、言うまでもなくそれは心からの笑顔ではない。娘のマナがコンビニで立ち読みしている母親に声をかけるシーンが ある。振り向いた絵里子はものすごい怖い顔をしている(「踊る大走査線 THE MOVIE」のあのぞっとする役以来怖い役が似合う気がしてならない)。その顔が徐々にいつものニコニコ顔に変わってゆくところが不気味だ。本当に不気味なのだが、かといって猫の皮をかぶった冷酷な人間というわけでもない。彼女は本当に温かい家庭を創りたいと思っている。ただ彼女の思うとおりに家族がなってくれないのである。子供たちが学校に行っていないことや夫の浮気もうすうす感づいている。しかし何とか明るい家庭を維持しようと見てみぬ振りをしているのだ。
そこまでして彼女が家庭を守ろうとするのは、彼女の母である木ノ崎さと子(大楠道代)との確執があったからだ。大嫌いだった母親を反面教師として、自分の家庭は明るい家庭にしようと彼女なりに努力しているのである。かつてひきこもりだった自分の苦い記憶もわだかまりとして胸の中に残っている。子供たちも根っからの不良ではないし、夫も優柔不断なだけで絵里子を嫌っているわけではない。ここにラストの家族再生への芽がある。そういう設定だ。つまりこの映画は基本的にホーム・コメディーなのである。貴史の愛人ミーナが息子の家庭教師として何食わぬ顔で家に入り込んでいて貴史が仰天する場面、入院している病院でわがまま言い放題のさと子など、こっけいな場面が随所にある。
このコミカルな中心ストーリーだけでは平凡に過ぎると思ったのか、豊田利晃監督は独特のこわ~い演出をまぶしている。貴史役の板尾創路(いたお いつじ)がもっぱらコミカルな場面を引き受けているとすれば、怖い場面の中心はやはり小泉今日子である。彼女はパート先の同僚に「ねえナヨちゃん、何でいつもそうやって完璧な笑顔作れるの?嘘がばれないため?空っぽだから?」とからかわれる。子供の頃引きこもりがちでなよなよしていたので「ナヨ」ちゃんと呼ばれていたのである。その同僚の母親が絵里子の同級生で、母親からその話を仕入れて早速からかったのだ。あるとき絵里子はその同僚の女の子に金を貸せと迫られる。相変わらずニコニコしているのだが、突然フォークを手にとって相手を滅多刺しにするシーンが挿入される。血が飛び散る。もちろん幻想シーンである。豊田監督は血が好きなようだ。ラストで家族の絆が取り戻される直前に、自宅の庭に出た絵里子に血のような真っ赤な雨が降ってくる場面がある。真っ赤にぬれながら「やり直して、繰り返して」と狂ったように叫び続ける絵里子。なんとも気味の悪いシーンだ。
絵里子が仮面をかなぐり捨て家族の危機が頂点に達するのは、ミーナとさと子のバースデー・パーティーの場面である。そのパーティのさなか、絵里子が作った「新しい家族」の実体を見て、ミーナは「そうか学芸会や。これは学芸会なんや。だって幼稚園の学芸会にそっくりやも。みんな分かってるのに幸せな家族の役演じてる。学芸会や」と心の中でつぶやく。仮面をかぶって学芸会を演じる京橋一家。これはなかなか気の利いたせりふだった。重要なのはその後の場面。絵里子とさと子の二人だけが部屋に残る。明かりを消してバースデー・ケーキのローソクに火をともす。そこでまたキャメラがぐるぐる二人の周りを回りだす。さと子が語り始める。さと子が初めて自分の思いを長々と語るシーンだが絵里子はそれを聞いても母親への嫌悪感を変えない。憎々しげに「アンタさぁ……死ねば?」という言葉を母親に投げかける。
この場面では絵里子の考えは変わらないが、赤い雨が降る直前に絵里子にかかってきたさと子の電話が変化のきっかけになる。その電話で自分の間違った思い込みに気づく。息子のコウが言った「思い込んでいると、本当の物が見えない」という言葉がここで効いてくる。母親を恨むあまりに絵里子は自分で自分を追いこんでいた。幸せな家庭への憧れが逆に強迫観念となっていた。絵里子はようやくそのことに気づく。その後に続く赤い雨が降る場面で語られる「人は誰でも皆、血まみれで泣き叫びながら生まれてくる」という台詞が示唆的だ。画面の印象は不気味だが、要するに絵里子は赤い雨に打たれて赤子として生まれ変わったことが暗示されている。そしてその後に続くもうひとつの誕生日の場面。そこでやっと家族はひとつにまとまる兆しを見せる。
一応筋は通っている。しかし観終わった後特に深い感銘を覚えるわけではない。基本がホーム・コメディだけに、家族崩壊という問題に深く踏み込んでいるわけではないし、人物造形もかなり紋切り型だ。その平板さを補うために原作以上に絵里子の「狂気」を強調するあざとい演出を試みたが、コメディにホラーの味付けをしたようなものでややちぐはぐな印象が残る。もっとコメディに徹した方がよかったかもしれない。普通に秘密を持つ普通の家族、それでいい。
あのマンションはおそらくバブル期に建てられたのだろう。濡れ手で粟の安易な金儲けを経験してしまってから、勤勉だった日本人がおかしくなってしまった。堅実なものづくりができなくなってしまった。三菱の欠陥車、ホリエモンや村上ファンドの事件も明らかにバブル以降の傾向の延長線上に起きた事件である。家族の変質はもっと前から徐々に進行していたが、バブル以降一気に加速したように思う。家族崩壊を本気で論じるならもっと広い社会的、歴史的視野で論じるべきである。そうしないのならコメディでいい。
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kimion20002000さん コメントありがとうございます。
僕は原作の方を読んでいないので映画の感想しか言えません。モンスター・ペアレントという言葉も定着しつつあるくらいですから、「普通の家族がいちばん怖い」という指摘も理解は出来ます。
ただこの映画はどうもあざとい演出に走りすぎてしまったように思ったわけです。そのためコメディともつかず、現代の病巣を鋭く抉った作品ともつかない中途半端な作品になってしまったと感じました。
作る側に社会問題に正面から切り込むことに対する照れがあると思うのです。あの血なまぐさい演出はその照れ隠しだという気がしました。せっかくいい題材を取り上げながらもったいないと感じたしだいです。
投稿: ゴブリン | 2008年5月30日 (金) 00:57
僕はこの「空中庭園」という原作が、時代的には画期的な作品だと評価しているところがあります。
岩村さんという方が、新潮社から「普通の家族がいちばん怖い」という調査レポートをもとにした本をだしておられて、とても衝撃的な内容なんです。
で、そこで調査しているママたちは、まさにこの作品(映画)の絵里子の世代なんですね。
「空中庭園」の家族は、特異かもしれないけど、一方でこの世代を戯画化している面もあって、絵里子を演じる小泉今日子をみながら、考え込んでしまったところがあります。
例によって、僕のレヴューは、映画から遠く離れてしまっていますが・・・(笑)
投稿: kimion20002000 | 2008年5月28日 (水) 23:35