1987年 中国 87年11月公開
監督:ウー・ティエンミン
原題:老井
原作: チョン・イー(鄭義)著『老井』
脚本: チョン・イー
撮影: チェン・ワンツァイ、チャン・イーモウ
音楽: シュイ・ヨウフー
出演:チャン・イーモウ、リャン・ユイジン、ニウ・シンリー
ルー・リーピン
はじめに
呉天明(ウー・ティエンミン)監督の「古井戸」。懐かしい映画だ。今観てもまったく色褪せていない。個人的には初めて中国映画をまとめてみた中の1本。文芸座で開催された「中国映画祭‘87」で観たのである。僕の映画自伝「あの頃名画座があった(改訂版)⑧」からその辺の事情を引用しておく。
何といっても個人的に思い入れが強いのは文芸座で開催された「中国映画祭‘87」である。10月31日から12月1日までの期間で8本が上映された。もちろん8本全部を観た。料金は一般1500円、学生1300円、前売り1200円。初めて観た中国映画はチェン・カイコーの「大閲兵」である。僕にとって思い出深い映画だ。他に「黒砲事件」、「恋愛季節」、「最後の冬」、「死者の訪問」、「スタンド・イン」、「盗馬賊」、「古井戸」を観た。最後の「古井戸」はこの年の第2回東京国際映画祭のグランプリ作品。
東京国際映画祭は85年の第1回しか観に行っていない。まだ東京にいたにもかかわらず第2回は1度も足を運んでいない。チケットを手に入れるのが面倒だったのか込み合うのを嫌ったのか理由は覚えていない。それはともかく、文芸座で「古井戸」を観たのは87年の11月27日。今から20年近く前になる。情けないことにほとんど忘れていた。あの岩だらけのごつごつした地形、山また山の独特の景観は今回観直して鮮烈に記憶に残ったが、なぜかまったく覚えていなかった。食器を洗う時に使う表面が波状にでこぼこしているスポンジ、その波型を不規則に並べたような地形が見渡す限り続いている奇観。全県山ばかりの長野県でも見たことがない摩訶不思議な景観だ。地面には平べったい石が一面に転がっている。それが全然覚えていない。ただ井戸を掘っていたということと、いい映画だったということしか記憶になかった。いやはや年はとりたくないものだ。
呉天明(ウー・ティエンミン)監督
監督のウー・ティエンミンは、「北京物語」(87年)の鄭洞天(チェン・トンティエン)監督や「北京の思い出」(82年)の呉胎弓(ウー・タイコン)監督と並ぶ中国第四世代を代表する監督。中国の監督や俳優の場合、名前を思い浮かべるときに最初に漢字が浮かぶかカタカナが浮かぶかで世代が分かる。90年代の半ばごろに表記が漢字からカタカナに変わったので、80年代から知っている世代は漢字が先に浮かび、90年代後半から知った名前はカタカナしか知らない。呉天明(ウー・ティエンミン)、謝晋(シエ・チン)、陳凱歌(チェン・カイコー)、張芸謀(チャン・イーモウ)、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)などは僕にとって漢字世代。リー・チーシアン(李継賢)、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)、アン・フー(胡安)、ポン・シャオレン(彭小蓮)など後の世代は逆に漢字で書かれると誰だか分からない。90年代の前半から半ばにかけては表記がだいぶ揺れている。手書きの映画ノートを見ると、例えば同じ91年に観たものでも「桑の葉」はカタカナ表記だが、同じ韓国映画でも「ディープ・ブルー・ナイト」は漢字表記になっている。香港映画「風の輝く朝に」はカタカナ、台湾映画「冬冬の夏休み」は漢字で、韓国映画「旅人は休まない」は漢字の後に括弧してカタカナを付けている。この三つの形式は95年まで混在したままで続いている。96年以降はカタカナで統一されている。僕のノートで見る限り、この頃が切り替えの年ということだろうか。
ウー・ティエンミン監督は寡作である。監督作品は「CEO(最高経営責任者)」(02年)、「變臉 この櫂に手をそえて」(95年)、「古井戸」(87年)、「人生」(84年)、「標識のない河の
流れ」(83年)の5本しかない。このうち「CEO」と「人生」は未見。「變臉」はNHKの名作ドラマ「大地の子」で陸一心の育ての親を演じた名優朱旭(チュウ・シュイ)が主演。“變臉"とは「変面」つまり、顔に貼り付けた京劇のような隈取をした面を目にも留まらぬ早業で次々に変えてゆくというもの。両手を使ってやるのだが、1枚ずつ変えているのか最初から何重にも貼り付けてあるのを次々にはがしてゆくのか早すぎて分からない。四川地方に伝わる伝統芸で、まさに仰天もの。一度観たらさすがにこれは忘れない。ただドラマ自体は少々弱いと思った。「標識のない河の流れ」はNHKの教育で観た。もうほとんど覚えていないが、文革時代を背景にしていかだで河を行き来する3人の男たちを描いた作品。ゆったりとした河の流れが心地よいリズムを作っていた。非常に優れた映画だったと記憶している。かつてNHKが地上波で放送していたアジア映画は今となっては実に貴重だ。僕も10本以上ビデオに録画したが(「標識のない河の流れ」も録画してある)、いまだにほとんどDVDになっていない。
「古井戸」
中国は広い。こういう映画を観るとつくづくそう思う。上海などの都市部では大規模な近代化が進んでおり、古い町並みは次々に壊されている。典型はフルーツ・チャン監督の「ハリウッド・ホンコン」のあの有名な場面。画面の手前には香港の貧民街が映っており、その背後の丘の上にはハリウッドという名の同じ形をした5つの超近代的高層ビルが立ち並んでいる。まさに黒澤明の「天国と地獄」。「わが家の犬は世界一」にも似たような場面があった。僕自身去年出張で大連とフフホトに行ったときに近代化と貧困がすぐ隣に並存している様を実際に見てきた(「中国旅行記 中国の旅は驚きの連続だ」、「中国旅行記余話」参照)。
そうかと思うと、映画館ひとつなく移動映画館がたまにやってくるだけの小さな村があったり(「思い出の夏」)、まともな教育を受けていない代用教員が学校で教えている村があったりする(「あの子を探して」、「子供たちの王様」)。「山の郵便配達」や「小さな中国のお針子」の舞台も相当な山奥である。「最後の冬」(呉子牛監督、86年)にいたってはゴビ砂漠にある、地の果てとも思われる場所に設置された犯罪者労働改造農場が舞台。カラカラに乾いた大地以外文字通り何もない。
カラカラ度では「古井戸」も負けてはいない。映画の冒頭あたりに天秤棒に桶を提げて水を運ぶシーンが出てくる。「水を汲むのに10キロ」というせりふが出てくるから想像を絶する大変な労働だ。まさに新藤兼人監督の「裸の島」(60年)の世界。中国の山西省の山奥の村が舞台だが、とにかく岩ばかりでカラカラの大地。平たい岩がごろごろ転がっている。山はその平らな岩が重なってできており、家も平らな岩を積み重ねて作ってある。村のいくつかの家系は代々井戸を掘ってきたが、いまだに空井戸ばかり。石灰岩の地層なので井戸を掘り当てるのが難しいのである。
主人公の家は何代にもわたって井戸を掘り続ける孫一家。犠牲者もこれまでに何人も出してきた。映画の中でもチャン・イーモウ扮する旺泉(ワンチュアン)の父が事故にあう場面が出てくる。井戸に仕掛けた爆薬が不発だったので旺泉の父が井戸にもぐる。中で何か作業をしていたが、カチッカチッと音がしたとたん爆発する。火花が爆薬に引火したのだろう。井戸から炎と埃が吹き上げる場面は覚えていた。真上から覗くように撮っているのでぎょっとする。
水を運ぶ村人の労働、井戸を掘る作業なども含めて、村での生活がリアルに描かれている。水がなければ生き物は生きてゆけない。ひとつの井戸をめぐって二つの村が対立し、ついには乱闘が起こる場面もある。一揆さながら手に手に鍬や棒切れを持って何十人という両村の男たちが本気で殴りあう。女も加わっている。しかもこの井戸は涸れ井戸なのである。水は出なくても井戸を使う権利を奪い合う。水はそれほど大切なもので、文字通り生命線なのである。一部の地域では水問題は今でも過去の問題となっていない。機械でボーリングすればもっと楽なのだろうが、こういう寒村ではそれだけの資金がない。すべて手掘りなのである。
村の風俗や風習もリアルに描かれている。「初恋のきた道」でチャン・ツィイーが着ていた厚ぼったくて野暮ったいピンク色の服。この村でも女性はみんな同じような赤かピンクの服を着て、男はブルーの服を着ている。多少でもまともで垢抜けた服を着ているのは町に出て勉強してきた巧英(チャオイン)などのごく一部の人だけである。村で高校を出たのは旺泉と巧英(彼女は大学受験に失敗して村に戻ってきていた)と旺才(ワンツァイ)の外に2、3人いる程度。
そういう村だから当然古いしきたりも残っている。旺泉は巧英と恋仲だが、代々井戸を掘り続けてきた孫家は極度に貧しく、長男である旺泉は無理やり養子に出され、子持ちの寡婦喜鳳と結婚させられる。彼は婿だから毎朝″おまる″(室内便器として使われている壷)の中身を捨てさせられている。不平を言うが聞き入れてもらえない。こういった日常の描写が実にリアルである。
原作者鄭義の作風はしばしば「グロテスク・リアリズム」と評される。原作の『老井』はかなり幻想的な作品のようだ。映画はかなりリアリスティックな作風に変えてあるが、冒頭の場面は原作を意識したのかそこだけ他とは違う独特の映像効果が施された印象的な映像になっている。画面は真っ暗で真ん中の上半身裸の男だけに一部光が当たっている。男は鉄の杭をハンマーで一心に打ち込んでいる。ひたすらハンマーを振り上げ打ち下ろす動作を繰り返す。男の顔は巧妙に映らないようにされているが、チラッと顔の一部が見える
ので主演のチャン・イーモウだと分かる。ただそれだけなのだがぐいぐい引き付けられる力強い映像だった。真っ暗な背景に男の上半身がトルソーのように浮かび上がり、光と影の効果で筋肉の力強い動きが伝わってくる。まるでピカソの彫像が動き出したかのようだ(逆に言えば、優れた彫刻は静止していても動きが見える)。監督になる前に俳優と撮影監督として出発したチャン・イーモウの才能が光る素晴らしい映像美だった。
チャン・イーモウの撮影監督としての才能は随所に発揮されている。井戸の中から入り口を撮った映像も見事だが、何といっても色の使い方が独特だ。「黄色い大地」、「紅いコーリャン」、「菊豆」、「紅夢」などで黄色や赤が効果的に使われていたが、「古井戸」でも赤が意識的に多用されていた。上記の井戸で爆発事故があった場面の後で、井戸の入り口が映される。被害者を運び上げたときに付いたと思われる血痕が井戸の周りに付着している。その後画面が切り替わり一面真っ赤な背景に被害者の戒名が書かれた白い小さな紙が映る。さらに切り替わるとそれが真っ赤に塗られた棺だと分かる。さらにその後に真っ赤な夕日が映る。真っ赤な色の棺桶など実際には使われないと思うのだが(他に2回棺が出てくるが、ひとつは白木のまま、もうひとつは黒い棺だった)、チャン・イーモウのこだわりだったのだろう。
赤い色はいたるところに用いられている。旺泉(チャン・イーモウ)はいつも同じ赤い服を着ているし、旺泉と妻の喜鳳が使う新調した布団も真っ赤だ。色使いの強調もやりすぎるといやみで効果も薄れるが、この映画では実に効果的である。才人チャン・イーモウ、撮影監督としても只者ではない。
全体としてはリアリズムの手法で作り上げている映画だが、随所にユーモアが盛り込まれている。井戸は両村のものだと記された石碑が残っていて村同士の争いはあっけなく決着が付くのだが、その石碑は何とある老婆の家の便所の敷石に使われていた。「証拠品」が運び込まれたときには相手の村の連中が臭いといって見ようとしない。実に滑稽な場面だった。音楽でも工夫が施されている。井戸掘りに飽きた若い連中が盲目の楽団を呼んで音楽を聴く場面。最初は型どおりの曲を弾いているが、退屈でうずうずしている若者たちはもっと楽しい曲をやれとけしかける。党の指導がどうのこうのと言い訳しながらも楽団はもっと色気のある曲を演奏し始める。軽快な曲に乗って踊りまくる若者たち。朝まで踊っていた。この場面は地味な展開が続くこの映画の中でいいアクセントになっていた。
さらにストーリー上の工夫は旺泉をめぐる三角関係を織り込んだこと。無理やり結婚させられた喜鳳(ルー・リーピン、高見知佳似)と結婚後も思いを断ち切れない巧英(リャン・ユイジン)の間で旺泉は苦悩する。知的かつ都会的で洗練された巧英と伝統的で保守的だがしっかりとした芯を持った喜鳳。二人の性格もきちんと描き分けている。最初は無理やり婿入りさせられた喜鳳には愛情をもてなかった旺泉だが、ある夜いつまでも抱いてもらえない身を嘆いて喜鳳がベッドで泣き出す。さすがに不憫だと思った旺泉は初めて喜鳳を抱く。ここはいい場面だった。おそらくこの時から妻に対してもほのかな愛情がわいてきただろう。しかし彼は巧英への愛を断ち切れなかった。同じ村で生活しているので喜鳳と巧英はたびたび顔を合わせる。互いに相手を意識していることが微妙に表情に表れる。時には互いの目から火花が散る。
旺泉と巧英の関係は村では誰でも知っていた。その二人をさらに結びつけたのはやはり井戸掘りだった。対立する村との乱闘の際、旺泉はとっさに井戸に飛び込んで英雄になった。それを県の委員に評価されて、県の水利局で行われる水文地質講習会に出るよう誘われる。講習会を終えた旺泉はたまたま町に出ていた巧英と一緒に村に戻ってくる。彼らはトラクターに乗って村に帰ってくる。おんぼろのトラクターで、しかもついでにタンクに水をたっぷり入れて運んでいるので揺れが激しい。今にもひっくり返りそうで、観ているこちらがはらはらする。後で車が出てくる場面があるが、あのトラクターを見ていたせいか普通の自動車が高級車に見えた。村に着くと人々は一斉にバケツなどを持って水のタンクに群がる。そこに羊の群れが乱入してくる。村人の持っているバケツから羊が遠慮なく水を飲んでゆく。数が多すぎてなかなか羊を追い払えない。村は大混乱。コミカルな場面だが、水は人間だけではなく家畜にとっても不可欠なのだということにはっと気づかされた。秀逸な場面だと思う。そういえばこの村には犬や猫がいなかった。家畜はともかく、犬猫にまで水をまわす余裕がないからだろう。
ちょっと話が脱線した。引退を間近にした党の支部書記が「辞める前にこの手で井戸を掘り当てたいんだ」と後押ししたこともあって、村は地質学を学んできた旺泉を中心に若者たちを動員して井戸掘りを始める。それに先立って、村で数少ない高卒の旺才と巧英が旺泉を手伝って地質調査を始めた。三人で散々山を歩き回る。最初に触れた山々の眺めはこの場面で映し出されたものである。垂直にそそり立つ絶壁に作られた狭い道を旺泉と巧英がこわごわ進む場面も出てくる。実際にそこで撮ったと思われる映像で、観ているこっちも背筋がぞくぞくするほど怖くなった。
皮肉な運命によって二人はまた接近してゆく。クライマックスは旺泉と旺才と巧英が井戸に入っているときに起きた落盤事故だ。一瞬画面が真っ暗になる。何も見えない。旺泉がマッチを擦ってやっと見えるようになる。旺泉と巧英は助かったが、旺才は崩れてきた土石の下敷きになってしまった。ランプひとつが光源の暗闇に取り残された二人は、互いの気持ちを確認しあう。そして一度だけ愛し合った。薄暗がりの中で互いに寄り添って横たわる二人の黄色みがかった映像には切なさとはかなさが漂う。非常に美しいシーンだった。
二人は無事救出された。退院した旺泉はまた井戸のところへ行く。彼はまた井戸掘りを始めた。ラストはさらに掘り進めるための資金を村人に訴える場面。「子孫たちに井戸を掘らせるな」という旺泉の叫びが胸に響く。妻の喜鳳は率先してミシンを提供する。井戸から水が出なかった場合お金は返ってこない。でもだめだったらまた掘ればいいと訴える彼女の言葉もまた感動的だった。巧英も友人を介して持ち物を供出したが、本人は既に村を立ち去っていた。一夜限りの思い出を残して旺泉と巧英の悲恋は終わった。
最後に村に建てられた石碑が映される。過去の井戸掘削の歴史が長々とつづられている。何度も刻まれる「水はなし」の文字が目に痛い。そして最後の1行が映る。「83年正月に機械式一号井完成 出水量毎時50トン」。長年村を苦しめた労苦はそのとき終わった。