死刑執行人もまた死す
1943年 アメリカ
監督:フリッツ・ラング
脚本:ベルトルト・ブレヒト、フリッツ・ラング、ジョン・ウェクスリー
撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
出演:ブライアン・ドンレヴィ、ウォルター・ブレナン、アンナ・リー、デニス・オキーフ
ジーン・ロックハート、ビリー・ロイ、アレクサンダー・グラナック
ウィリアム・ファーナム
「死刑執行人もまた死す」を最初に見たのは1987年12月30日。当時三百人劇場で企画されていた「ヨーロッパの名匠たち フリッツ・ラングとジャン・ルノワール」特集の一環だった(「あの頃名画座があった⑧」参照)。この時が日本初公開で、幻の名画がはじめてベールを脱いだのである。
なお、この作品は1999年に「フリッツ・ラング1999」としてリバイバル上映されている。その時上映されたのは「完全版」で、87年公開時にカットされていた14分が付け加えられていた。その頃は既に東京を離れていたのでこの興味深い特集は観ていないが、今回観たDVDはこの完全版である。
改めて観て思ったのは、これがきわめてヨーロッパ的な映画だということだ。単にチェコが舞台というだけではない。ドイツ軍占領下の暗く不安な日々の描写、ゲシュタポの不気味な存在と、何百人もの人質を取られる抑圧的な雰囲気。これはナチスに実際に占領された経験を持つヨーロッパ人でなければ描けないものだ。アメリカ映画に出てくるドイツ軍は戦場で出会う敵に過ぎない。ドイツ軍兵士に顔はない。ただアメリカ軍に撃たれてばたばたと倒れてゆくだけの存在である。この違いは大きい。原案を作ったフリッツ・ラングもベルトルト・ブレヒトも亡命ドイツ人である。「生きるべきか死ぬべきか」のエルンスト・ルビッチもドイツ人である(彼の場合はハリウッドにヘッド・ハンティングされてアメリカに渡った)。だから作れたのだ。日常生活の隅々にまでドイツ軍の存在が意識される、息が詰まるような抑圧状態。外国軍に占領支配されたことがないアメリカン人にはなかなか描けない。
タイトルの死刑執行人とはドイツ軍のハインドリッヒ総督を指していると一般に解釈されているが、英語のタイトルが”Hangmen Also Die”と複数形になっているのが気になる。レジスタンスに紛れ込んだスパイのチャカも含めているのか、あるいはヒトラーをはじめとするナチス全体を暗示しているのかもしれない。
舞台となるのはナチス軍占領下のプラハ。女性が買い物をしている日常の描写から始まる。その女性が不審な動きをする男を見かけたところからストーリーが動き始める。その男は実はハインドリッヒ総督を撃って逃走中の暗殺犯だった。彼を追うゲシュタポが現れた時点で目撃者の女性は事態を察知し、嘘をついてまったく違う方向を教える。ところが、皮肉なことに、進退窮まった暗殺犯は窮余の策でその女性の家にかくまってもらうことになる。こうして何とかゲシュタポの手を逃れるが、かくまったノヴォトニー教授一家は事件に巻き込まれることになる。ゲシュタポは犯人が捕まるまで、市民を人質に取り次々に処刑してゆくという手段に打って出る。いくつもの映画で描かれた、お決まりの卑劣な手段である。連行された人質の中には暗殺犯をかくまった女性マーシャ(アンナ・リー)の父ノヴォトニー教授(ウォルター・ブレナン)も含まれていた。
後半は暗殺犯であるスヴォボダ医師(ブライアン・ドンレビー)にしだいにゲシュタポの手が迫ってゆく過程とレジスタンスによる反撃(ナチスのスパイだったチャカを暗殺犯に仕立てあげる)が描かれ、緊迫した展開が続く。
この映画を語る上でどうしても触れておかねばならないのは脚本と演出の見事さである。脚本を担当したのはフリッツ・ラングの他にベルトルト・ブレヒトとジョン・ウェクスリー。「死刑執行人」とあだ名されたドイツ人総督暗殺という事実を元に、一種の倒叙形式で暗殺犯の逃走とゲシュタポの追跡から、ナチスによる人質作戦、そしてレジスタンス側の反撃という緊迫したストーリーを作り上げた。人質をとられても決して犯人を密告しないというチェコ人たちの描き方(「チェコに裏切り者はいない」というせりふが出てくる)、拷問を受けても白を切りとおした老婦人、あるいは処刑場に向かう人質たちの歌う“No surrender!”という歌などはいかにもブレヒトらしい描き方である。このあたりは確かに日本のかつての独立プロ映画、例えば山本薩夫や亀井文夫の作品にもあった生硬さを感じる。しかし紋切り型というほど単純な描き方ではない。実際、「チェコに裏切り者はいない」と言いつつも、チャカという裏切り者も出てくるし、ヒロインのマーシャも父を救いたい一心で一旦は暗殺犯を密告しようと警察に行ったのである。
「死刑執行人もまた死す」が一流のサスペンス映画でもあることは確かである。しかし、この映画を麻薬組織やテロ組織VS警察のような、一般のサスペンス映画と同じレベルで観るべきではない。ファシズムはフィクションではなく現実的な脅威だった。ユダヤ人抹殺計画も含む世界的規模の暴虐行為だった。かつて有名な映画批評家岩崎昶(いわさきあきら)が、さまざまな悪役キャラクターが映画で描かれたがそのほとんどはナチスのイメージに基づいているという意味のことを書いていた。その後「エイリアン」等の地球外生物が現れてやっとナチスのイメージから脱却できるようになった。しかし地球上ではまだナチスのイメージを超える悪役は生まれていない。原爆で脅しをかけるテロ組織など武器の強力さで上回るものはあるが、世界支配をたくらむ組織的な暴虐行為となるとナチスを超えるものはない。岩崎昶はまた制服に対するナチスの異常なほどのこだわりについても語っている。あの独特の制服と鉄兜。人心を束ねる威圧的効果としてはこれ以上のものはいまだに考えられない。片手を挙げかかとを重ねる敬礼の仕方、足を曲げずにまっすぐ上げて行進するスタイルなどは今でもいろいろなところで使われている。これだけのイメージが定着しているのはそれだけの実態があったからである。
「死刑執行人もまた死す」でも実行犯にひたひたと迫るナチスの脅威は見事に描かれている。あの制服が現れるだけで画面に緊張が走る。うまいのはゲシュタポの描き方である。ゲシュタポの警部グリューバー(アレクサンダー・グラナッハ)の人物像は中でも出色だ。決して悪鬼のごとき極悪非道な人物としては描かれていない。むしろ慇懃無礼にねちねちと迫ってくるいやらしさがよく描けている。拷問場面も直接は描いていない。むしろ言葉で追い詰めてゆく。「偉大な民族だなチェコ人は。最後の一人まで頑固だ。損をするぞミス・ノヴォトニー」。一方であの制服で街を威圧し、人質をとって何人かずつ殺してゆくという強硬手段をとりつつ、他方でねちねちと締め上げる。壁に不気味な彼の影が映るあたりはドイツ時代の表現主義的技法がうかがえる。ニヤニヤ笑いを浮かべる本人以上に壁に映った実態のない影の方に底知れない不気味さを感じる。見事な描き方だ。
しかしそれでいて全編を恐怖が支配しているという描き方にはなっていない。後半ははらはらどきどきの連続だが、それはむしろヒッチコック的スリラーに近いもので、恐怖が下敷きにはなっていない。むしろ反撃計画がうまくいくかどうか、うまくゲシュタポをだませるかという緊張感が支配している。それはナチスに対する抵抗を全面に押し出しているからである。人質を取られても誰一人密告するものが現れない、昂然と顔を上げて歌を歌いながら処刑場に向かう人質たち、拷問を受けても口を割らなかった人々。映画はむしろチェコの人々が敢然とナチスに立ち向かう姿勢を英雄的に描いている。暗殺の実行犯だけが英雄なのではない。彼をナチスに引き渡せば人質は帰ってくる(はずだ)が、それはナチスにチェコ人の魂を売り渡すに等しい。“No surrender!”。実際にはチャカのような裏切り者は結構いたはずでその意味では理想的な描き方だが、やはりこの映画の最も感動的な部分は決して屈服しない道を選んだチョコの人々の描き方である。
その典型がマーシャの父親ノヴォトニー教授である。1回目に見たとき一番記憶に残っていたのは彼だった。西部劇の脇役、それも悪役で知られるウォルター・ブレナンだが、ここでは同じ人かと思うくらい知的で強い意志を持った人物を見事に演じている。彼の一世一代の名演技といって良いのではないか。マーシャは家にかくまったヴァネック(暗殺犯スヴォボダがとっさに使った変名)に父親のことを「昔は革命家で共和国創始者の一人よ」と紹介している。どんな事態に立ち至っても落ち着きを失わず、冷静に対処する姿はただならぬ存在感で、断然他の登場人物を圧倒している。教授が面会に来たマーシャに息子への伝言を託す場面は、実に感動的だった。ブレヒトが一番思いを込めたシーンではないか。
息子よ、これから言う事を大人になったら思い出せ。その頃祖国は既に侵略者
を追い出し、自由の国となり、民衆が主人公となる国になっている。それは至福の
日々。老若男女誰もが飢えを知らぬ世の中。好きな物を読み、そして考え語りあえ
る世の中だ。そんな世の中になったら忘れるな。自由は帽子や菓子のように粗末
にできんのだ。自由は戦い取るものだ。私を思い出すなら父親としてではなく、自
由のために戦った者として思い出せ。
「民衆が主人公となる国」、「老若男女誰もが飢えを知らぬ世の中」などの表現はいかにもコミュニストらしい言葉である。しかし祖国が外国の軍隊の支配下にある現実を思えば、「自由は戦い取るものだ。私を思い出すなら父親としてではなく、自由のために戦った者として思い出せ」という言葉には感動せざるを得ない。
もちろん、ナチス側を演じる俳優たちも強烈な存在感を持っている。冒頭に出てくるハインドリヒ総督を演じたH.H v.トゥオドースキーの、冷酷さが体からにじみ出るほどの威圧感、ゲシュタポの警部グリューバーを演じたアレクサンダー・グラナッハの慇懃ながら虫唾が走るほどしつこいアクの強さ、ジーン・ロックハート扮するスパイの卑劣さ、いずれも有名俳優を使わずこれだけの演技をさせている。この点も特筆ものだ。
たたみ掛けるような後半の演出も見事だが、細かい場面の描き方がまたよくできている。スヴォボダ医師がゲシュタポに追われて映画館に逃げ込むが、そこに総督が撃たれたとの情報が口伝に伝わり、思わず全員が立ち上がって拍手をする場面、スヴォボダ医師とマーシャが盗聴を意識して偽の会話をする場面、あるいはスパイのチャカのイニシャルK.C.が刻まれているライターなどの小道具の使い方もうまい。
最後の終わり方も秀逸だ。87年公開時のエンド・タイトルは「FIN」となっていたが、「完全版」では「NOT THE END」となっている。最初に「NOT」と出て、次に「THE END」が現れる。問題はまだ解決していない、ファシズムとの戦いはまだ続くという決意のようなものが伝わってくる。実際、戦争のさなかに作られたのだからこのメッセージはリアルである。
完全版で復活した場面は、何とか父を救おうとゲシュタポ本部に向かおうとするマーシャを市民が取り囲み祖国を裏切るのかと詰め寄るシーンや人質の青年が“No surrender!”と歌う場面などである。このカットされたシーンがジョン・ウェクスリーによって差し変えられた部分と重なるのかどうかは分からない。しかし、いずれにしても、ナチスに屈しないプラハ市民の誇り高い姿が描かれている部分で、必要なものだったと思う。
「死刑執行人もまた死す」は戦時中に作られたために反ナチ色が強く出ているとよく言われる。しかしそれはおかしい。「ゴブリンのこれがおすすめ 9」で取り上げた40本の大部分は戦後に作られたものである。90年代以降、ナチスやヒットラーを描いた映画はむしろ増えているのである。製作時期は関係ない。いつどんな時代でもファシズムは否定されなければならない。国策映画だから戦意高揚映画を作ったというようなことではない。ナチスに追われてアメリカに亡命してきたラングとブレヒトは、ヨーロッパで勢いを増しているファシズムに心底危機感を覚えたからこそこの映画を作ったのである。
追記
岩崎昶の正確な文章を調べようと書棚から久しぶりに『ヒトラーと映画』(1975年、朝日選書)を引っ張り出してきた。問題の箇所はこうなっている。
ヒトラーとその党がドイツを制覇するにいたった一つの有力な手段として制服があ
る。ナチのユニフォーム、ドイツ軍のそれはついこの間日本において三島由紀夫と
その「楯の会」の若いメンバーたちに魅力的に見えたくらいであるのだから、性来ユ
ニフォーム好きで、心理的にユニフォーミティー、コンフォーミズムに弱いドイツ国民
に強烈にアピールしたことは想像に余りがある。
制服、祭典、儀式、この三つのものはヒトラーのもっとも得意とするものであり、そ
れはまた映画にもっともたくみに演出され反映した。その代表的な例は、後に詳説
するが、レーニー・リーフェンシュタールの天才によって作られた「意志の勝利」「オリ
ンピア」などである。
ぱらぱらとめくってみただけなので、「ナチスを超える悪役のイメージはない」云々の部分は見つからなかった。しかし、ぱらぱらと見ただけでも、面白い記述が随所に見られる。たとえば、「ナチ党はどこの分野でもまず『組織』の整備確立からはじめたが、それが・・・実際的な効果を・・・あげたのは、ドイツ人の持っている無比の組織的天才のなすところといわなければならない。組織的天才、ということばのなかに、私は組織する天分だけではなく、組織される天分をもふくめて考える。元来この二つのものはたがいに補完するものとしてしか存在しえない。規格と命令によっていっせいに同一の行動をとることをドイツ人と日本人ほど好きな国民はいない。」
フリッツ・ラング関連で面白かったのは第2章の第3節「フリッツ・ラング亡命する」だ。ここは面白いので全部読んだ(読んだのはもう20年以上前なのですっかり忘れていた)。かいつまんで紹介しておこう。彼の「ニ―ベルンゲン」はヒトラーやゲッベルスに絶賛された。しかし「マブーゼ博士の遺書」はゲッベルスの命令で上映禁止にされた。あるとき友人にゲッベルスがラングを高く評価しているようなので、直に会って禁止を解くよう頼んでみてはどうかと助言される。半信半疑で会いに行ったラングを果たしてゲッベルスは大歓迎した。これに気を良くしたラングは例の件を持ち出すが、ゲッベルスはそれには答えず、まったく別の仰天すべき提案を持ち出した。
「ヒトラー総統もあなたの熱烈なファンです。・・・あなたに私の直属で協力していただきたい。ドイツ映画のすべてをあげて、あなたの采配にまかせます。」あわ立つ心を顔に出さず、ラングはこれは一刻の猶予もできないと腹を決める。10分以内にここを出れば銀行の窓口締め切りに間に合う。預金を全部引き出してすぐ駅に向かおう。しかしこんな好条件をラングが断るなどと思ってもいない上機嫌のゲッベルスは、ユダヤ人ボイコット運動などのことをとうとうとまくし立てている。このあたりはヒッチコック映画さながらだ。じりじりしながら待たされたラングがやっと開放されたときには、銀行はとっくに閉まっていた。もう手遅れだ。しかし危機感に追われるようにラングは家にとってかえすと、有り金だけを持ってパリ行きの寝台車に飛び乗った。
とまあ、こんなしだい。そのうちゆっくりと読み直してみたい。機会があればブログでも紹介します。
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