ランド・オブ・プレンティ
2004年 アメリカ・ドイツ 2005年10月22日公開
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、マイケル・メレディス
撮影:フランツ・ラスティグ
音楽総監修:アレックス・ステイヤーマーク
音楽監修:リンダ・コーエン
出演:ミシェル・ウィリアムズ、ジョン・ディール、ウェンデル・ピアース
リチャード・エドソン、バート・ヤング、ショーン・トーブ
バーナード・ホワイト、ユーリ・Z・エルヴィン、ジェフ・パリス
ジュエリス・リー・ポインデクスター、ロンダ・スタビンス・ホワイト
ヴィクトリア・トーマス、マシュー・キンブロー、ポール・ウエスト
クリスタ・ラング、ウォレン・スターンズ、グロリア・ステュアート
中年の白人男性が運転する1台のおんぼろ改造ワゴン車が街を巡回している。まるで警察の監視車両のように、監視カメラや様々な機材を満載している。時々屋根から監視カメラを出して、怪しい人物や不審な紙袋などを監視している。ただのアラブ人を、ただ彼がアラブ人だというだけの理由で、怪しいと決め付け追跡する。そのアラブ人がボラックスという洗剤の箱を持っていると、その箱が怪しいと思ってしまう。彼が車で走りながら流しているラジオ番組は超右翼的な番組だ。携帯の着メロはなんとアメリカの国歌。この男、実は警察関係者ではない。母国警備員を自称するポール・ジェフリーズ(ジョン・ディール)という変人である。ベトナム戦争時、特殊部隊にいた男だ。
映画はこの男を捜して一人若い女性が飛行機でアメリカのロサンジェルスへやってくるところから始まる。ポールの姪であるラナ(ミシェル・ウィリアムズ)だ。彼女を空港で出迎えた牧師が車の中でラナに話す一言がその後の展開の予兆となる。「全米で最もホームレスが多いのがロサンジェルスだ。“アメリカの飢餓の中心地”だ。」彼女を乗せた車は、道路端に段ボール箱の「家」を作り物憂げな様子で寝転がる人たちの間を通り過ぎてゆく。豊かであるはずのアメリカの紛れもない実態。オハイオ生まれだが父親が宣教師だったためにアフリカで育ち、パレスチナにも2年いたラナは目を疑う。アフリカやパレスチナと変わらないではないか。
「ランド・オブ・プレンティ」(豊穣の地)というタイトルにもかかわらず、この映画にはロサンジェルスの繁華街はほとんど出てこない。スラム街やロサンジェルスの北東にあるトロナという荒涼とした小さな町が映し出されるばかりである。「ランド・オブ・プレンティ」という題名はラストに流れるレナード・コーエンの曲のタイトルから取られたものである。
僕が立っていなければいけないところに
立つ勇気がない
救いの手を差し伸べる気質も
持ち合わせていない
誰が僕をここに遣わしたのか分からない
声を上げて祈るように
この豊かな国の光がいつの日か
真実を照らしだすように
荒涼とした光景とベトナム後遺症に悩む少々頭のネジが緩んだ男、これら映画が描き出すものに対置すると「ランド・オブ・プレンティ」というタイトルはなんとも皮肉に響く。レナード・コーエンの曲がまた絶品である。カナダの有名な詩人、小説家で、かつシンガー・ソングライター。クリス・レアを思わせる独特の低音が魅力だ。歌はそれほどうまくないが、独特の味がある。いわゆる「へたうま」というやつだ。だみ声のトム・ウェイツと並ぶ「ミュージシャンに尊敬されるミュージシャン」であり、特異な独自路線を歩むカリスマ的存在。彼らの曲を歌のうまい人が取り上げるととてつもない傑作になる。中でもジェニファー・ウォーンズの傑作アルバム『レナード・コーエンを歌う』やロッド・スチュワートの「トム・トラバーツ・ブルース」(トム・ウェイツ作曲、ロッドのアルバム「アンプラグド」所収)は僕の愛聴盤、愛聴曲だ。ちなみに、「ランド・オブ・プレンティ」は『テン・ニュー・ソングス』というレナード・コーエンのアルバムに入っている(もちろんサントラ盤にも収録されている)。
話を映画に戻そう。「ランド・オブ・プレンティ」はそれほど期待して観た映画ではないが、非常に深い感動を覚える傑作だった。9・11後のアメリカ、その精神的ショックと不安そしてそれを乗り越えて前に進もうとする姿勢をこれほど真摯に描いた作品はこれまでなかったのではないか。
その不安を象徴するのが奇矯な行動をとるポールである。テロのショックのあまり周りがみな怪しく見えてしまうノイローゼ状態。トロナで特殊部隊さながらに暗視スコープを付けて「怪しい」家に「突入」する様は、さながら風車に突進していったドン・キホーテを思わせる。傍から見ればこっけいな行為だが、根拠のない思い込みから関係ない国に攻撃を仕掛けるという実際にアメリカが行った行為に重ねると、そこには明確な批判的姿勢が見える。ここに別の不安が垣間見える。アメリカのとっている姿勢は今のままでいいのかという不安(ポールはその意味でアメリカの現大統領とも重なる)。ポールの行為は笑って済ませられるが(同時に哀れでもあるが)、もうひとつの不安は現実的な不安である。この二重の不安を描いたところが秀逸だ。ヴェンダース自身この点について、「反アメリカ映画ではなく、あふれかえる混乱や痛みに立ち向おうとする試みで、不正や欺瞞、人を迷わせる愛国主義、誤った情報の操作といったものをこの映画では扱っている」と語っている。
今年の前半に明らかに9・11後を意識した一連の映画が日本に入ってきたが、「ランド・オブ・プレンティ」はアメリカ国民の不安を正面から取り上げた作品として特筆すべきである。ドイツ出身のヴェンダースだか らこそ描けたのかもしれない。ヴェンダース自身も9・11のテロにはショックを受け、「あの事件はわたしたち、世界中の人たちすべての何かを変えた」とインタビューで語っている。しかし一歩後に引いた外国人だからこそ、9・11後のヒステリックな状況を冷静に見られたのだろう。先に触れたように、この映画はドン・キホーテを模している。探せばサンチョ・パンサ(ポールの助手ジミー、ポールを「軍曹」と呼ぶことからかつての部下だと推測される)も痩せ馬ロシナンテ(改造ワゴン車)もいることがわかる。
しかしさらに考えるとサンチョ・パンサはジミーではなく、ラナだとも思えてくる。実際に行動を共にするのはジミーではなくラナだ。ここにヴェンダースの一歩踏み込んだ工夫が見られる。ポールが現実の見えないドン・キホーテだとすれば、ラナはまるでスラム街の掃き溜めに舞い降りた鶴のようだ。段ボールハウスが立ち並ぶロサンジェルスの街を車で走る彼女は、さながらアートフル・ドジャーに案内されてロンドンの薄汚れた裏通りを歩くオリバー・ツイストである。天使のような佇まいでその場からやや浮いている。生まれはアメリカだがアフリカで育ち、父親は牧師という設定をしていることから判断して、これは意図的なものだ。
ポールはラナを伴ってトロナへ、そしてニューヨークのグランド・ゼロへ行く。その過程で彼の「幻想」は消失し、彼は現実に直面させられる。ラストでグランド・セロを目前にして、「意外と狭いんだな、もっとなにか迫ってくると思った」とポールがつぶやくシーンは象徴的である。彼の意識の中ではアメリカ全土がグランド・ゼロのような廃墟に見えたのかもしれない。こんなもんだったのか。彼が現実を認識した瞬間だ。重要なのは彼を変えたのはラナではないということである。ラナは、ピンク剤の影響で時々発作に苦しむポールが「奴らは俺たちの国を破壊し滅亡させるつもりだ。そうはさせない。俺が阻止しなくては」と叫んだときも、ベトナム戦争に勝った、いやベトナムだけではなく冷戦全般に勝ったのだと主張したときも強く反論していない。ただ何か言いたげな表情で見つめるだけだ。ポールを変えたのは現実である。踏み込んではみたもののただ引越しのために段ボールが必要だった「怪しい」家、弟ハッサンの遺体をわざわざ運んできてくれたラナを心からうれしそうに迎えたジョーの笑顔、ラナの母(ポールの妹)からの手紙、そしてグランド・ゼロ、これらこそがポールの妄想を消失させたのである。
ヴェンダースは現在のアメリカが進んでいる方向を批判してはいるが、何かを積極的に提起してはいない。「今はただ耳を澄ませてその声をきこう。」そこにかぶさってくるレナード・コーエンの歌も 「この豊かな国の光がいつの日か真実を照らしだすように」と「祈るように」歌う。そこに浮かび上がるのはかすかな希望である。
もう少し視点を変えよう。この映画は厳密にはロード・ムービーではない。全体は3部に分けられる。第1部はロサンゼルス。ここではポールの監視行動、一人で国家の安全を守ろうと躍起になっている姿とラナとの出会いが描かれる。第2部はトロナへの旅。ここは確かに旅だが旅自体はさほど重要ではない。車の中でポールとラナが交わす会話に重点が置かれているが、そこは二人をめぐる事情をわれわれに伝える説明的部分である。より重要なのはトロナで二人が経験したことである。死体を兄の下に運んでゆくという設定は「遥かなるクルディスタン」を思わせる。向かう先が荒涼とした土地だという点も似ている。第3部はニューヨークへの旅。時間的には短く、エピローグに近い。ここも旅の過程はほぼ完全に省略されている。ここでもグランド・ゼロで見て感じたことの方が重要である。
この映画にあまり現実への対応を期待すべきではない。そもそもそれは映画の役目ではない。ドン・キホーテの枠組みを借りていることからもわかるように、全体に寓意物語のようなつくりになっている。語りの基本的な視点はラナの視点である。いや「語り」という言い方は正確ではないかもしれない。彼女には語ることよりもむしろ何かをじっと見つめている観察者の印象の方が強い。ポールの「監視」とはまた違った意味での観察。アメリカ人ではあるがほとんどを外国で過ごしてきたという設定がここで重要になってくる。あらかじめある種の「無垢さ」を付与されているわけだ。ロサンジェルス到着のアナウンスを聞いた彼女が「神様、長い間遠く離れていた私を、生まれ故郷に連れ戻してくださってありがとう」とつぶやくシーン、あるいはアメリカについた日の夜、ラナが暗闇の中で目が覚めてお祈りをあげる場面には最初違和感があった。後に彼女が牧師の娘だと分かってようやく納得する。夜の祈りの場面では彼女の戸惑いが強調される。「私は昨日までヨルダン川の西岸地区にいたのに、今はアメリカにいる。私の故郷だけどとても妙な気分。神様どうか味方して。私が間違っていても助けが必要なんです。一人ではできません。」
ラナが敬虔な祈りをささげているシーンに、伯父のポールが車の中で9・11後の世界をののしり、泣いている場面がカットバックで差し挟まれ、二人の姿が交錯する。二人の対比は意図的なものだ。ポールとラナ。ラナのような人は現実にもいるだろうが、ポールのような人はまずいない。しかしあそこまではやらないにしても、アラブ人を見るととっさに警戒心を抱いたりすることは普通の人でも少なからずあっただろう。ましてや実際に見回りをする役目の人たちにはポールに近い感覚があったかもしれない。実際無実の人が何人も拘束されたりしたのである。ラナはおそらく平和と癒しの象徴である。二人のような人物が実際にどれだけいるかを計算しても意味がない。登場人物のリアリティあるいは存在感はそんな数字で計れるものではない。
ロサンジェルスの貧しい街並みにラナが驚くところを見ると、彼女はどうやら大人になって初めてアメリカに来たようだ。なぜラナが必要だったのか。アメリカ中心の考え方しかできないポールに、外からアメリカを見る視点を持った人物を、しかもルーツはアメリカ人であ る人物を対置したかったのだろう。たとえば、ポールはラナから9・11の映像をテロリストではなく一般市民が歓声を上げて見ていたことを聞かされ愕然とする。なぜアメリカが世界中から嫌われ憎まれているのか深く追求はしないが、それでもポールにはショックだった。あるいはグランド・ゼロを眺めながら、あの日テロで亡くなった人たちの声を聞きたいとラナが言う場面もある。その人たちは「報復で人が殺されるのを望まないはずよ。」
ポールの狂気に近い不安とラナの良心と善意。そこから生まれてくるものは特別深い認識ではない。ほとんど狂気に近いポールを否定できても、一般の人たちの不安や怒りを否定はできない。アメリカがイラクで犯した過ちは誰でも知っている。両極端と思える二人の視点は映画に反映されていても、段ボールハウスに住む人たちの視点は盛り込まれていない。確かにその点は弱い。「アメリカのあるべき姿」を母に教えられたとラナが言うと、妹は共産主義にかぶれたとポールが返す。この「アメリカのあるべき姿」という言葉が実に象徴的である。要するに理想論である。理想論は現実を批判できるが、一方で抽象的でもある。明らかに「あるべき姿」ではないアメリカに「あるべき姿」を突きつけるのは確かに批判的効果がある。だが、いかにしてその「あるべき姿」にアメリカを近づけるのかという対案がない(もっとも誰にもないのだが)。しかし1本の映画ですべてを描けるはずはない。ヴェンダース自身も「あの事件を乗り越えるにはもっとたくさんの映画を作らなければならないね」とあるインタビューで語っている。決して十分な映画ではないが、しかしこの映画を無意味だというのもまた思い上がりである。
この映画は実に多くのことを抉り出している。たとえば、ラナがある伝道所で食事を配っていたとき、並んでいたハッサン(ポールがテロリストではないかと目を付けていた男だ)に出身はどこかと聞く場面。彼は「俺の故郷は“国”じゃない“民族”だ」と答える。明らかに周りを気にしながら。はっとさせられるせりふだ。後ろに並んでいた黒人女性がそれを聞いて思わず彼の顔を見る。アラブ人であることが分かったからだ。こういう細かい描写が素晴らしい。ハッサンに質問したときのラナは無意識のうちにアメリカ人になっている。ヨルダン川の西岸(イスラエル軍とパレスチナ自治政府によって統治されているパレスチナ自治区)に2年もいたというのに。
あるいは、トロナで、ポールがボラックスの箱を運んでゆく「怪しげな」男たちのあとをつけ、テロリストのアジトだと勝手に思い込んで「怪しい」家に「突入」する例の場面。この場面はラナがハッサンの兄ジョーと家族の写真を楽しげに見ているシーンとカットバックされる。「怪しい」家にいたのはベッドから出られないばあさん一人だった。その婆さんはテレビのリモコンが壊れて、同じチャンネルしか見られない、ヴォリュームしか変えられないとぼやく。皮肉にもそのときテレビではブッシュの演説が流れていた。ポールがテレビをたたくとチャンネルが変わった。まさに大山鳴動ねずみ一匹。ポールの幻想がつぶれるこっけいな場面だが、見たくもないブッシュの演説をチャンネルも替えられずにずっと見ていたばあさんの姿が、一般のアメリカ市民に重なってくる。一方的な情報の垂れ流し。ここも秀逸な場面だと思う。その後ポールはラナと合流する。ジョーからハッサンのことを聞いた後でポールが漏らす言葉が痛々しい。「俺は何を追っていたのか。手がかりを失ってしまった。もう何が何だかわからない。俺がしてきたことは・・・」
その夜、ベッドで彼はうなされる。そこで初めてベトナム後遺症が9・11のテロと結びついていることが明かされる。9・11のテロでタワーが崩れ落ちるのを見て、ベトナムでヘリコプターが撃ち落されたときの悪夢が戻ってきたのである。ポールを駆り立てていたのが漠然とした不安ではなく、むしろ恐怖だったことが分かる。うなされて泣き叫ぶポールの姿に戦争とテロが植えつけた恐怖の根深さがにじみ出ている。アメリカが初めて敗北を経験したベトナム戦争、アメリカが初めて自国内で攻撃を受けた9・11テロ。彼の、そしてアメリカの恐怖は一過性のものではなかった。映画はそう暗示している。常にナンバーワンであることを自認していたアメリカが味わった二度の屈辱と喪失感。どうすればアメリカは立ち直れるのか。
ラストのグランド・ゼロのシーンが暗示的だ。ポールはグランド・ゼロを間近に見てこんなものだったのかと感じる。「もっと心に迫ってくるはず」だった。ヴェンダースはグランド・ゼロをアメリカが再生する原点として描いたのではないだろう。それが原点ではいつまでたっても争いの無限連鎖から逃れられない。いつまでもテロに拘っているべきではないと言っているのではないか。忘れるべきではないが、そこを原点に考えるべきではない。何だこんなものかと拍子抜けしたことが暗示しているのはそういうことではないのか。ではどうすればいいのか。それははっきりと示されてはいない。映画が観客に投げかけた課題である。
僕の考えを最後に書いておこう。この映画は長い間アメリカがとってきた力の路線の犠牲者たちに捧げた鎮魂歌である。ポールは言うまでもなく彼のような身内を抱えたラナもまた犠牲者である。だからこそ最後にたどり着くのはグランド・ゼロでなければならなかった。そこからどういう道に進むのか。これまでの力の政策の延長線上でないのは言うまでもない。だから「再生」ではなく「新生」でなければならない。新しい道に進むためには「犠牲者」という視点からではなく「加害者」であったという視点に立たなければならない。なぜアメリカは世界中から嫌われ、憎まれているのか、それを真剣に考えることから出発するしかない。僕はそう思う。