復讐者に憐れみを
2002年 韓国
監督:パク・チャヌク
製作:イ・ジェスン
脚本:イ・ジョンヨン、イ・ジェスン、パク・リダメ
撮影:キム・ビョンイル
音楽:オオブ・プロジェクト
美術:チェ・ジョンファ、オ・ジェウォン
照明:パク・ヒョヌォン
出演:ソン・ガンホ、シン・ハギュン、ペ・ドゥナ
リュ・スンボム、イム・ジウン、
ハン・ボベ
キ・ジュボン、イ・デヨン、キム・セドン
イ・ユンミ、
オ・グァンノク、キム・イク、チ・デハン、ホ・ジョンス
「復讐者に憐れみを」は「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」と続く「復讐三部作」の第1作目。他の2作はまだ観ていない。まったく期待していないし、ただ批判するためだけに観ることになりそうだからさっぱり気が進まない。しかし、特に「オールド・ボーイ」は話題になり、評価も高いだけに観ておかねばならない。とはいえ、ほとんど義務感で観なければならないのはつらい(僕の嫌いなタイプの映画である可能性が9割以上という予測だから)。
ぼやきはさておき、この作品を論じるときにリアリズムとリアルと言う言葉から入るのが良いだろう。なぜならリアルとリアリズムの混同が多く見られるからだ。リアルというのは「いかにもそれらしく見える」という意味で使われる。これはそれでいい。しかし多くの人が「復讐者に憐れみを」をリアリズムの作品と言うときは、どうやらその残酷描写がリアルで、「生身に応えるような痛さ」であるとか、「実感を伴う痛み」が生々しく直に伝わってくるという意味で使っているようだ。文学理論などで使う本来のリアリズムの意味とはだいぶ違うので最初は戸惑った。
別にリアリズムの定義をここでしたいわけではないので、そういう意味で使われているのだろうと確認できればそれでいい。言いたいのは、多くの人がこの作品の特徴として、そしてこの作品を高く評価する理由としてそのリアルな「痛さ」を挙げていることである。最も端的なのはあちこちで見かける「痛い」映画という表現。後はそのヴァリエーション。力強い映像、強烈かつ濃厚、半端じゃない、インパクトがある、アクの強さ、強烈な映画、等々。そしてそれを体現した俳優たちの鬼気迫る熱演を一様にほめる。
確かにソン・ガンホをはじめ、主要な俳優の演技はまことに見事である。そしてこの映画が「痛い」映画だというのもそのとおりである。だがそれだけではこの映画が優れた作品だということを意味しない。単なる「見世物」に過ぎないことをあらわしているだけかも知れない。要するに真の「リアリズム」映画だとほめるのは、単にここまでやるからすごいと言っているだけではないのか。だから耐え難い残酷さに満ちていると言いつつ褒めるのである。そこが実に面白い。この映画をホラー映画だと言う人もいるが、確かにそれに近いものがある。刺激が強烈であればあるほど、ぞっとすればするほどいい映画と言えるジャンル、インパクトの強弱が評価の指標になる珍しいジャンルである。しかも復讐をテーマとしているので、常識的な倫理観をはなから逸脱している。そこに何かただならぬ潔さ、凡百の映画を越える強烈なインパクトを感じているのだ。観る側に明確な価値観がないとホラー映画同様単にインパクトの強弱で価値を計ってしまいかねない。だがそれで価値が計れるなら本物の殺人を映したスナッフ・ビデオはそれこそ傑作に数えられることになる(本当に存在するのかどうか分からんが)。
かくして、まるでお化け屋敷かジェットコースターのように、怖いもの見たさ、刺激の強さを求めて観客はこの映画を見に行くことになる。実際多くのブログがこの「生々しさ」は一度体験したほうが良いと勧めている。たしかにその「生々しさ」は半端じゃない。パク・チャヌク監督は「ハリウッドのスプラッター映画に比べれば全然残酷じゃないです」と言ったそうだが、この認識は間違っている。スプラッターなどは子供だましに過ぎない。それ以上にこの映画の残酷場面が生々しいのは復讐劇だからである。ただ派手に殺せば良いというスプラッターと違い、恨みと怒りがこもっているから憎しみを込めて何度も殴ったり、体を切り刻んだりする。スプラッターは首や腕が飛んだり、血がほとばしったりするが、相手を殺してしまえばそれきりのことである。あるいはギャング映画の殺し屋なら一発で息の根を止めたほうが効率的で、見つかる可能性も少ないので一連の動作がスマートである。しかし、こちらはこれでもかこれでもかと、とことん憎しみを相手の体にぶつける。相手が死んだ後も殴り続け、体を痛めつける。だから「痛い」のだ。映像テクニックもはるかに優れているから、見せ方もうまい。
果てはエスカレートして不必要で不自然な場面まで入れ込んでいる。その典型が娘の司法解剖にドンジン(ソン・ガンホ)が立ち会う場面(韓国では司法解剖に肉親が立ち会えるのか?)とその娘がおぼれる場面。司法解剖の場面はストーリー展開と何の関係もなく、ただ体を切り刻む映像を映したかっただけである。娘が溺れるのも実に不自然で、ましてやその死体が仰向けでもうつ伏せでもなく横になって水に浮かび、顔の左半分が水面から出ているなんてことはありえない。単にそのぞっとする映像(しかも目を開けている)が撮りたかっただけである。このあたりはまさにホラー映画である。石の下から朽ち果てたリュ(シン・ハギュン)の姉の顔が出てくる場面も何の必然性もない。土に埋めなかったのは発見されることを前提にしているからである。ただ気持ち悪い映像を映したかっただけだ。
こういった無理やり入れ込んだ映像もあるが、復讐場面が「痛いほど生々しい」という意味でリアルだという指摘は確かにそのとおりである。だが僕はこの映画を評価しない。この映画は単に刺激の強さで売っているだけの中身のない映画だと思う。その意味でもホラー映画という指摘を否定する気はない。僕がこの映画を観て最初に感じたのは、キム・ギドクと似た作風だということである。どちらも美麗な映像と情念の激烈さで不条理なテーマを描く作風である。見るものはそれに圧倒され、なんとなくすごい映画ではないかと思い込んでしまう。何か「深い」ものがそこにあるのではないかと勘違いしてしまう。
「復讐者に憐れみを」のような作品が生まれてくるのには韓国人の国民性も関与している気がする。感情を隠したがる日本人に比べて、韓国人は大げさとも思えるほど感情をあらわに表現する。肉親に対する親近感も日本人よりずっと強い。日本では「ボラザーフッド」のような映画はまず生まれない。あそこまで入れ込む人間はからかいの対象か煙たがられる対象にしかならない。しかし韓国人はあそこまでやるのだから、それだけ兄弟を愛していたのだと考えるのだろう。
それはともかく、この映画に完成度が高いという評価を与える人は結構多い。完成度と言うからには単に「生々しさ」だけを評価しているわけではないだろう。まるで叙情詩のような美しい自然が映し出されていることを評価する人も多い。臓器密売業者に会うため、廃墟になったビルの階段を登ってゆくリュたちを逆光で撮る場面などは確かに映像テクニックとして見事である。しかしそれだけでは傑作とするには足りない。ではテーマとしては どう評価されたのか。運命や無情な世の中に翻弄される無力な存在である人間、誰も悪人はいないのにもかかわらず、ちょっとした運命のいたずらで歯車が狂い出し、人間の心の奥底に秘めていた激しい怒りと憎しみの感情が噴出して、復讐という終わりのない悲劇の連鎖、不条理な暴力の連鎖が始まって行く。主要登場人物のほとんどは死に絶え、最後にはなにやら人間の哀しみや哀れさ、孤独感、空虚さだけが残る。ここに描かれた人間の負の連鎖には、因果応報という形で現れた、人間の根底にある欲や業が描かれている。とまあこんなことになろうか。最後の「人間の根底にある欲や業」などはまさにキム・ギドクの世界と共通する。当然「欲や業」こそが人間の本質だということになる。
この種の映画をほめるときの常套句、「運命の皮肉とそれに翻弄される人間の卑小さ」、「不条理」、「人間の本質」、「人間の奥底にある感情(あるいは欲や業)」などが総動員されている。なるほど壮観で、これだけ数がそろっていればきっと傑作に違いない。そんな気になるかもしれない。しかし人間の本質と言われるものは本当に本質なのだろうか。だいたい「本質」という言葉自体が抽象的・観念的である。「人間とはこれこれである」と一言で言ってしまえるほど人間は単純ではない。「本質」という言葉が抽象的・観念的だからこそ「人間の業」などという抽象的・観念的な概念と簡単に結びつくのだ。どうせ抽象的なのだから何だって良いのである。ある時には「人間の本質的残酷さ」だったり、「人間の本源的罪意識」だったり、「人間の心の奥底に潜む黒い情念」だったり、その場に応じていくらでも変えられる。人間の特性を「善」と「悪」に分け、「悪」の側に属する特性をとっかえひっかえ持ち出してくるのが共通の特徴である。なぜか「悪」の特性ほど高く評価される。しかしいくらでも入れ替え可能ならば、それを「本質」と言えるのだろうか。僕がこの映画を真のリアリズム映画だと思わないのは、このように抽象・観念的的な概念に行き着いてしまうからだ。
この作品にどこか乾いたところがあると何人かが指摘している。それもそのはず、この映画には人間の葛藤が何も描かれていない。映画は無機質な感じで淡々と進む。人間的悩みや葛藤がないから当然そうなる。まるでロボットが主人公であるかのように、ただ行為だけが示される。その行為を実行するのに何のためらいもない。ただ復讐の情念や怒りだけがある。いやその情念や怒りすら内面化してほとんど描かれない。工場の流れ作業のようにただ復讐行為だけが淡々と進行してゆく。だから「乾いた」という印象が生まれる。ハードボイルドだという指摘もそこから出てくるのだろう。まったくの人工の世界、作り物の世界である。
したがって主人公たちの行動原理にリアリティはない。話は寓話と化す。話の展開の節目節目でパク・チャヌクは「いんちき骰子」を振る。誰が何度ふっても同じ目が出る。駄洒落を言えば「裏目」という目である。何をやっても裏目に出る。その典型が上で指摘した、誘拐された娘が溺れる場面である。あんなわざわざ溺れに行くようなことをするはずがない。遠回りして水のないところを行くか、水に入ったとしても浅いところをたどってゆくはずである。無理やりの展開。だから「いんちき骰子」なのである。運命のいたずらでも、不条理でもない。作者がある集結点に向けてすべてを転がしているだけである。
観ていてまったく引き込まれることもなく、共感することもなく、何のインパクトも受けることもなく、終始覚めて観ていたのは、ストーリーにそういう意味でのリアリティがないからだろう。どうしてもそっちに持っていきたいのね、そう感じるだけ。リアリティがないから当然インパクトもないわけだ。ボリュームを最大にしてつまらない戦争映画をみているようなもので、うっとうしいだけでインパクトが大きくなりはしない(もっともこの映画の場合、音ではなく映像にインパクトを込めているのでうまいたとえではないが)。
障害者、貧富の差、リストラ問題、臓器密売組織の存在などの社会問題を随所にちりばめているにもかかわらず、社会性が欠如している。イギリス映画「人生は、時々晴れ」のような生活や人間関係のリアルな描写がないので、多くの人が「救いがない」と指摘しているにもかかわらず、そんな感じはほとんど受けない。「人生は、時々晴れ」の方がリアルな生活が描かれているだけに、どうしてもその生活から抜け出せないという暗澹とした気持ちになるのである。「復讐者に憐れみを」は所詮作り物だから、そんな深刻な感じは何も残らない。社会性がないから個人の行為の強烈さだけが浮き立ち、いたずらにエスカレートしてゆく。同じ「復讐が復讐を生む悲劇的連鎖」を描くのでも、ボスニアやイラクの泥沼のような状況を描くのなら、「暴力は悲しい人間の性」という命題がはるかに現実味を帯びて迫ってくるだろう(それでも政治的、経済的、歴史的説明は可能だから、必ずしも「性」という抽象的・観念的な捉え方をする必要はないと思うが)。個人レベルの復讐を描いたのでは、ただ陰惨なだけの復讐劇で終わってしまう。ただインパクトの強さだけがあって、何の深みもない。
「JSA」は韓国映画史に残る傑作だったが、「復讐者に憐れみを」は異色作ではあっても優れた作品とはいえない。パク・チャヌク監督は若い頃映画評論家や映画雑誌編集者をしていたようだ。この経歴を見てなんとなく納得がいった。いかにも元映画評論家が作りそうな映画だ。元映画評論家たちが大挙して映画を作ったフランスのヌーヴェルヴァーグ時代はフランス映画のもっとも不幸な時代だった(あの停滞からいまだに完全には立ち直れていない)、僕はそう確信している(もちろん個々には優れた作品もあるが)。しかし映画評論家たちはヌーヴェルヴァーグの映画やキム・ギドクなどの映画をむやみと高く評価するのである。その影響は一般の映画愛好者にも伝染して、「魚と寝る女」のような映画が出るとすごい映画だと褒め上げてしまう。そんなことはない。「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を観て何がいいのか分からなくてお悩みのあなた。悩むことはありません。正しいのはあなたです。この2本は何の価値もないただのクズ映画です。偉い評論家がどう言ったかなんて関係ない。つまらんものはつまらん、はっきりそう言えばいい。
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