日曜日には鼠を殺せ
1964年 アメリカ
監督:フレッド・ジンネマン
原作:エメリック・プレスバーガー
撮影:ジャン・バダル
出演:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ
ミルドレッド・ナトウィック、レイモン・ペルグラン
パオロ・ストッパ、
ダニエラ・ロッカ、クリスチャン・マルカン
ペレット・プラディエ、 ミシェル・ロンズデール
フレッド・ジンネマン。社会派というとややずれるが、重厚な持ち味で様々なジャンルに傑作を残した。だが巨匠の割には以外に寡作で、10数本しか監督作品を残していない。おそらく日本ではゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」(1952)が一番有名だろう。僕の個人的評価では「ジュリア」(1977)が最高傑作だと思う。イギリスの大女優ヴァネッサ・レッドグレイヴの毅然とした姿が圧倒的だった。2位が「真昼の決闘」。それに続くのが「わが命つきるとも」(1966)あたりか。次いで本作「日曜日には鼠を殺せ」(1964)、「ジャッカルの日」(1973)、「尼僧物語」(1959) がほぼ横並びという印象である。名作と言われる「地上より永遠に」(1953)は僕にはどうも今一ぴんと来ない。初期の代表作「山河遥かなり」(1947)は未見。このところ大量に出回った廉価版DVDに入っているので、いずれ手に入れたい。
「日曜日には鼠を殺せ」はもう30年以上前に観た映画でずっともう一度観たいと思っていた。なぜか映画ノートにはいくら探しても書いてない。書き漏らしたと思われるが、70年代に観たのは間違いない。淀川長治さんが解説をしていたのを覚えているので、テレビの「日曜洋画劇場」で観たのだろう。サッカーボールが道をぽんぽんと弾んでゆくシーンを見事だと言っていたのを観ているうちに思い出した。今回観直してそのシーンだけかすかに覚えていたのである。それ以外はほとんど忘れていた。
「日曜日には鼠を殺せ」と言うタイトルは映画の原作から取ったものである。インターネットで調べるとRichard Braithwaiteの Barnabee's Journal:に“ I saw a Puritan-one hanging of his cat on Monday, for killing of a mouse on Sunday.”という一節があって、そこから取ったという説が有力である。日曜日に猫がネズミを殺したので、月曜日に猫を吊るしたという意味だ。淀長さんは、神聖な安息日にはネズミすら殺してはいけないが、それをあえて殺せと言うところに主人公の決意が暗示されている、という意味の解説をしていたと思う。しかし映画のタイトルはBehold a Pale Horseになっている。この意味は映画の冒頭に出てくる。「見よ、青白い馬が現れ、乗っているものの名は“死”といい、これに陰府(よみ)が従っていた。」(「黙示録」第6章、第8節)
陰府とは英語では”Hell”、つまり地獄のことである。すぐその後に馬に乗った兵士の列が映され、さらにスペイン戦争の様子がしばらく描かれる。原作と映画のタイトルはどちらも隠喩的であいまいである。劇中にカトリックの神父(オマー・シャリフ)が重要な役で登場する。主人公のマヌエル・アルティゲス(グレゴリー・ペック)はネズミ捕りにかかったネズミのように罠にかかり、害獣のように殺される。どちらのタイトルにも宗教的な意味合いが込められているのは間違いない。
「日曜日には鼠を殺せ」は決して活劇ではない。スペイン戦争が終わってから20年後を描いている。かつての共和派ゲリラの英雄マヌエル・アルティゲスも中年になり、日々鬱々と無為に暮らしている。そこにある日、パコ・ダゲスという少年がスペインから国境を越えてマヌエルに会いに来る。少年は「ビニョラスを殺して」と彼に頼み込む。彼の父ホセ・ダゲスはマヌエルの親友で、マヌエルの居場所を吐かせようとビニョラス警察署長(アンソニー・クイン)に拷問されて殺されたのだ。「あなたのせいでパパは死んだ」という少年の言葉にマヌエルは一瞬きっとなるが、話にならんと少年を追い出してしまう。しかしスペインに残してきたマヌエルの母が危篤となり、ビニョラス署長はそれを利用してマヌエルを呼び寄せ、罠にかけようとたくらむ。フランスにいるマヌエルはかつての仲間のカルロスから情報を仕入れているが、カルロスと少年の情報が食い違い、それに神父の存在が絡みマヌエルはなかなか決心がつかない。このようにフランスに亡命したかつての闘士と彼を罠にかけようとするビニョラス署長の駆け引きに大部分の時間を費やしている。マヌエルとビニョラス署長の対決、クライマックスの銃撃戦は最後に出てくるだけである。
「真昼の決闘」も決闘シーンは最後に出てくるだけで、大部分は町の人々が協力を拒み保安官がたった一人で悪党たちに立ち向かわざるを得なくなる過程を映画いている。その点では「シェーン」や「荒野の決闘」も同じである。単なる派手なドンパチ映画ではなく、人間ドラマとして描かれているからだ。もちろんマヌエルとビニョラス署長の駆け引きだけではドラマとして弱い。そこで重要になってくるのはフランシスコ神父である。彼はこの作品の中でもっとも深い人間的葛藤を経験する。彼の葛藤とはどんなものだったか。彼は他の神父たちと一緒に聖地ルルド向かう予定だったが、急遽呼び出されてマヌエルの母と最期の会話を交わすことになる。その時神父はある難問を抱え込んでしまう。マヌエルの母は神父に最期の望みを託す。「あなたの神は不信心者の最後の望みもかなえる?ルルドに行くと聞いたわ。ポーを通るわね。息子はポーのスペイン通り17番地にいるの。奴らは罠をかけて息子を待ち伏せてる。」神父「秘蹟を授けましょう。」母「そんなものは要らない。息子を助けて。署長たちに殺される。」神父「法律に背くことはできません。」母「どちらの法に従うの?神の法?署長の法?神父なら私に慈悲を。息子の命を助けて。息子を・・・助けて。」
神の法と署長の法、どちらに従うのか。重い問いかけだった。マヌエルたちはフランスに亡命後もたびたびスペインに侵入し、銀行などを襲ってレジスタンスを繰り返していた。たまたま銀行にいた神父の一人が頭を怪我して今はボケ老人のようになっている。レジスタンスの英雄もスペインではただの強盗、テロリストにすぎない。神父の苦悩は深い。マヌエルの母はその後すぐに息を引き取る。彼女が死んではもはや罠は意味を成さない。悩んだ末、神父は汽車の中でマヌエルに手紙を書き、ポー駅で切手を買って手紙を投函しようとしているうちに汽車が出てしまう。やむなく彼は直接マヌエルを訪ねる。しかし彼は留守で冒頭に出てきたパコ少年が留守番をしていた。神父はスペインに戻ってはいけないとマヌエルに伝えるよう頼み、彼に手紙を渡す。しかし少年は神父が味方なのか確信が持てず(共和派にとってカトリック教会は敵である)、またどうしてもマヌエルに父の敵を討ってほしいので、手紙を破いて捨ててしまう。
その後前述のようにマヌエルは誰の言うことが正しいのか迷うことになる。ルルドに行って神父を捕まえ、無理やり家に連れてくる。そこで神父と二人で話すのだが、この場面もまた重要である。話すうちに二人が同郷であることが分かる。彼は急に打ち解け、酒を酌み交わす。「神父にも故郷はあるんだな。ロルカの男がなぜ神父になった?」神父「内乱の頃、まだ10歳の時のことです。ある晩兵士が来て父を殺した。」マヌエル「なぜだ。」神父「分からない。中立だったのに。」マヌエル「殺したのは?」神父「暗くて分かりませんでした。」マヌエル「人民側じゃない。」神父、顔色を変えて。「何の違いが?命を奪う権利があるとでも?」マヌエルは答えず、「もう行ったほうがいい」とだけ言う。
「何の違いが?」と問われてマヌエルは答えられなかった。この点が重要だ。神父の詰問
は正当だ。どちらが殺そうが理由もなく父が殺されたことに変わりはない。しかしマヌエルが何も答えられないということはこの映画の主題を著しく弱めている。ファシストの側か共和政府の側か、そんなことは表面的なものに過ぎない、人間という視座から見ればそんなものは相対化されてしまう。そういうことになる。これはこの作品を深めるのではなく、かえって問題を一般化してしまい、映画の底を浅くしてしまっている。スペイン戦争が持っていた歴史的、政治的意味合いを不問にふし、単なる正しい行いか誤った行いかという倫理的判断で終わらせている。単なる良心の問題に一般化されている。
僕はこの映画を改めて観て、思っていたほどの傑作ではないと感じた。それは活劇として物足りないという問題ではない。アクション物ではなく人間ドラマとして作られているのだから。そのドラマの深さ、ドラマの中の葛藤の深さが問題なのだ。こんな一般論で終わらせるのなら、別にスペイン戦争でなくてもよかったことになる。フランシスコ神父とマヌエルのそれぞれの葛藤は傑作と呼ぶのに十分なほど深くはない、それこそが問題なのだ。
マヌエルにも共和派に身を投じた彼なりの理由があったはずだ。何せ相手のフランコはファシストである。いくらでも言い分があったはずだ。互いの考えをぶつけ合い、それぞれになるほどと思わせる根拠があれば葛藤は深まる。ではなぜそうしなかったのか。単に20年が経過して諦めが彼の心を支配したからというのでは情けない。あるいは彼の思想の揺らぎを描きたかったのか。マヌエルが何も言い返せなかったのは、彼の政治的信条が揺らいでいたからだと。そう見ることも確かに可能だ。この映画の暗い色調もそれを裏付けているように見える。しかしそれではやはりスペイン戦争をテーマにした意味はなくなる。思想の揺らぎそれ自体は主題とするに足るものではない。独裁者フランコ対共和派という大きな対立軸がなくなれば、結局マヌエルとビニョラス署長の個人的な憎しみ合いの話に矮小化されてしまう。スペイン戦争そのものは背景に遠のき、個人と個人の対立を描いただけといわざるを得ない。
マヌエルと神父が一夜を明かす場面は白黒画面の特性を生かして、深い陰影に縁取られた映像になっている。もちろん陰をうまく生かした映像はここばかりではない。作品のかなりの部分が暗く重苦しい色調で覆われている。暗闇の中で思い悩むマヌエル。カルロスが裏切り者であることがはっきりするが、それでも罠と知りつつマヌエルはスペインに戻りビニョラス署長を倒すことを決意する。サッカーボールを2階の窓から投げるのはそのときである。ボールは道に沿ってぽんぽんと跳ねてゆく。もう止められない、進むしかないという決意を象徴的に表しているシーンである。そこからが最後の山場。
なぜマヌエルは罠だと知りつつそう決意したのか。マヌエルは埋めてあった銃を掘り出すために昔の仲間を誘ったときこう言う。「銃を掘り出すぞ。」「なぜ。」「母が死んだ。会いに行かねば。」「死んだ?じゃあ、行っても仕方ない。なぜ行くんだ。」「なぜ?」「ああなぜ。」「行くしかない。」「それもそうだな。」
まったく意味のある会話になっていない。要するになぜ彼があえてほとんど自殺行為に近い選択をしたのか何も説明されていないのである。だが何となく分かる気がする。観客にそう思わせてしまうところがこの作品の力である。罠と分かっていて死地に赴く。最初に観たときそこに一番感動した。しかし今回見直していささか驚いたのは、そこにまったく悲壮感が込められていないことだ。昔の仲間と銃を掘り出すあたりからピレネーを越えて単身スペインに向かうあたりまで、ずっと軽快な曲が流れている。少しも悲壮感がない。まるでピクニックにでも行く感じだ。いかにもと言うような悲壮感漂う音楽を派手に流して盛り上げるのではなく、一種の異化効果を狙ったものだろう。しかしこれでよかったのか疑問に思う。むしろ一切の効果音を排して、自然音だけで淡々と客観的に描いたほうが良かったのではないか。穴を掘るスコップの音、銃を手入れするカチャカチャという音、山の斜面を登ってゆく砂利を踏む音。むしろ即物的に描いた方がより緊張感は高まっただろう。
敵地に忍び込んだマヌエルは屋根に上り、狙撃用の銃を持った警官を襲う。その銃を使ってビニョラス署長に狙いをつける。するとその横に裏切り者のカルロスが現れた。銃は一発しか撃てない。周りには警官が大勢潜んでいる。2発目を撃つ前に集中砲火を浴びる。どっちを撃つか?結果は言わないでおこう。いずれにしてもマヌエルは撃たれて死ぬ。出発したときからそれは分かっていた。遺体安置所の母の遺骸の隣にマヌエルの遺体が並べられる。なるほどこれが彼の目的だったのかもしれない。神父に「何の違いが」あるのかと問われて答えられなかった時、ある意味で彼の運命は決していた。大儀を失ってしまえばもう何もこだわることはない。彼は母の元に戻りたかったのだ。そう思えてくる。
主演のグレゴリー・ペックはなかなか渋い味を出して好演している。オマー・シャリフは実に印象的な役だ。「アラビアのロレンス」と「ドクトル・ジバゴ」が代表作だが、この作品も記憶にとどめる価値がある。アンソニー・クインは残念ながら今ひとつあくが強くない。原作はエメリック・プレスバーガーの小説である。マイケル・パウエルとの共同監督で、「赤い靴」、「ホフマン物語」、「黒水仙」、「天国への階段」などイギリス映画史上有名な作品を何本も作り出してきた人だ。特にその鮮やかな色彩の美しさ、鮮明さは今見ても色あせない。
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日曜日には鼠を殺せ [DVD] 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 発売日: 2006/08/04 メディア: DVD 監督:フレッド・ジンネマン 主演:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ ずいぶん昔にTVで見た時はあまり感心しませんでした。... [続きを読む]
ほんやら堂さん コメント&TBありがとうございます。
かつてのレジスタンスの英雄も今は日々を無為に過ごすただの中年。このもっさりとした男がラストで死を決意して祖国に帰る時には、きりっとした引き締まった顔になる。罠と知りつつ死地に赴く彼の姿にはしかし悲壮感はない。この描き方は今見ても素晴らしいと思います。
神聖であるべき日曜日にあえて鼠を殺すことは、その罰としての自分の死をも意味する。死を決意して長年の対決の決着をつけるために故郷に赴く。タイトルにはこのような意味も込められているのでしょうね。
投稿: ゴブリン | 2006年10月22日 (日) 18:12
ゴブリンさん,こんにちは.
TBしたのですが,反映されるでしょうか?
この映画は中学生の頃から題名と音楽は知っていて,音楽の方はずっと印象に残っていました.
40年以上経って初めて見た映画は,なかなか面白いものでした.
40年前の自分だったらもっと類型的なものの見方(マヌエル=正義,署長=悪党)で見ていたでしょうね.今は両者をかなりイーブンに見ることができるようです.
僕も20年前と比べて今の自分を振り返ると,人生を無為に過ごしてきたのでは?,もう自分に残された時間は少ないのでは?という感じを持つことがあります.マヌエルに親近感を持つところが無くはない.
ではまた.
投稿: ほんやら堂 | 2006年10月21日 (土) 13:11