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2006年3月 1日 (水)

博士の愛した数式

glass_ht7 2005年 日本
監督・脚本:小泉堯史
原作:小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社刊)
プロデューサー:荒木美也子
撮影:上田正治
撮影:北澤弘之
音楽:加古隆
美術:酒井賢
衣裳コーディネーター:黒澤和子
ソプラノ:森麻季
出演:寺尾聰、深津絵里、吉岡秀隆、浅丘ルリ子、齋藤隆成、井川比佐志、頭師佳孝

上田周辺ロケ地:上田市営野球場、千曲川河川敷運動場、千曲川河川敷緑地公園
           真田町・唐沢の滝、千曲市、坂城町、小諸市、軽井沢別荘地

  映画の冒頭、中学の教室に一人の若い数学教師が入ってくる。黒板には彼のあだ名ルートを揶揄した落書きが書かれている。教師は特に怒ることもなく、自己紹介を兼ねてなぜ自分がルートと呼ばれるようになったかを話し始める。こうして映画の観客は画面の中の生徒たちと一緒にルート先生の授業を受けることになる。

  2時間後にはおそらく数字に対する認識が変わっていることだろう。ただし誤解がないようにはっきりさせておかなければならないが、これを観たからといって数学が楽しい科目に思えてくるわけではない。これを観てもサインやコサイン、微分や積分がわかるようになるわけではない。映画の中で様々な数字や数式にまつわる話が出てくるが、そこで語られるのは科目としての数学ではない。彼も今日は授業はやらないと最初に断っている。むしろ、本来は無機質な数字に「詩的」な意味を読み取る感性、それが磨かれるのであり、そこに魅力がある。ルート先生を通してある数学の天才教授が語ったのは、完全数、素数、友愛数、階乗、オイラーの公式などに彼が感じた感覚的な意味である。ルート先生はそれを生徒たちに伝え、同時に完全数、整数などの意味をわかりやすく説明した。したがってこれは数学そのものというよりは、数学への優れた導入教育だったといえる。僕たちはそういう授業を受けたのだ。

  もちろんルート先生は数字の話だけをしたわけではない。彼が語ったのは80分しか記憶が持たないある数学博士の話であり、また家政婦としてその世話をしたとルート先生の母とルート先生自身がその数学教博士と過ごした楽しい時間についてだった。

  「博士は、何を喋っていいか混乱した時、言葉の代わりに数字を用いた。それが他人と交流するために、彼が編み出した方法だった。」よくこのように説明されるが、これはおそらく原作に基づいた説明だろう。映画の印象は少し違う。彼は普通に会話をしている。言葉に詰まったから数字の話しをしたというよりも、頭の中はほとんど数字が占めていて、何かの数字が出てくるとすぐその数字について彼の考えを語るという描き方になっている。数字が好きで好きで仕方がない、彼は楽しそうに語っており、家政婦の杏子もそれを興味津々で楽しそうに聞いている。そういう関係である。決して苦し紛れに話の矛先を数字に向けたという印象ではない。

  ルートの母杏子(深津絵里)が家政婦として博士の家に行った最初の日、背広のあちこちにクリップでメモ用紙を留めた博士(寺尾聰)がのっそりと玄関に現れた。メモ用紙には忘れてはならない大事な事柄が書かれている。博士はいきなり杏子に名前ではなく靴のサイズを尋ねた。「24です」と答えると、博士は「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」と感心したように言う。杏子もそれを観ている観客もいきなり数字の世界に投げ入れられる。しかし博士は80分しか記憶が持たないので、杏子は翌朝も同じ質問をされ、同じ答えを言う羽目になる。「君の靴のサイズはいくつかね?」で始まる毎日。これまでも9人もの家政婦が代わったと博士の義理の姉(浅丘ルリ子)が面接のとき杏子に話しているが、おそらくこれに嫌気が差したのだろう。しかし杏子はこれを少しも苦にせず、毎日同じ質問を受け、そのうち自分から「4の階乗です」と付け足すようになる。

  この始まりが暗示するように、この映画で描かれるのはなんでもない日常の事柄である。ほとんどが同じことの繰り返し。もちろんただそれを繰り返したのでは退屈なものになるから、繰り返しの部分は暗示するにとどめ、繰り返しではない部分を拾ってつなげてゆく。しかしそれでも描かれているのはごく日常の事柄である。主要登場人物はたったの4人(子供を一人にしておくのはいけないとの博士の勧めで、途中から杏子の息子も学校が終わると博士の家に来ることになる)。ほとんど博士の家の中で話は展開され、家の外が描かれるのは散歩をする場面と野球の場面程度である。それでも退屈しないのはなぜか、観客は何にひきつけられるのか。

  この映画の雰囲気はルートが登場する前と後ではがらりと変わる。杏子が来た最初のうちは会話もあまり弾まない。博士はおそらく杏子の前の家政婦とはあまり会話を交わさなかっただろう。博士が会話を交わすのは数字相手のときだけだった。彼のそばにはいつも数字があった。数字と向き合っている間はじゃまされるのを許さない。杏子も一度不用意に声をかけて怒鳴られた。それが数字を介して少しずつ杏子とも会話が交わされるようになる。ルートが来てからはさらに大きく変わる。ルートにその名前をつけたのは博士だった。「どんな数字でも嫌がらずに自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだよ。」ルートが訪れるようになってから離れには絶え間なく笑い声が溢れるようになった。

  博士と杏子とルートが食卓を囲んで談笑している場面が何度も出てくるようになる。ここにこの映画の魅力が暗示されている。観客はそこにひとつの理想的な「家庭」を見るから心を癒されるのだ。毎日リセットされ、絶えずリフレッシュされる「家族」。杏子と博士の間には深い親密感があるが、決してそれ以上には踏み込まない。一定の距離を保つことによってtree3 常に新鮮さが保たれた「家族」。この映画に感じるやさしさ、いとおしさ、懐かしさは「家族」、「家庭」という言葉が持っている本源的なものがそこに描かれているからである。ありそうでいて現実にはなかなか存在しない理想の家族像。喧嘩もしながらしかし仲良く暮らす寅さんシリーズの「とらや」のような家族関係。日常生活さえも懐かしく思えてくる。昔子供のころに遊びから帰ってくるときに、どの家庭でも見られた食卓を囲んだ家族の光景。夕餉の煙と子供たちの笑い声。

  この「家族」を囲む風景がまた美しい。杏子が毎日自転車で通う田舎道のなんと美しいことか。田園風景、夕焼け、信州の美しい山と川、桜の咲いている散歩道(小諸の懐古園と思われる)、庭の木々。いずれも日常の風景である。自然の中で暮らす家族。笑いにあふれ暖かさに包まれた「家族のような」三人の交流。エプロンをして家事をテキパキとこなす杏子の姿ですら清々しいものを感じさせる。この映画の成功は、日々の生活の中に美しさや豊かさを見つけたことにある。このことは深津絵里が語った言葉にも示されている。

  「風に花が揺れていたり、きれいな夕日が映っていたり。そういう日本的な自然の中に人間がたたずんでいる“絵”を、どっしり構えて撮る。私たちは、大きな自然の中で、かき消されないように存在しなければいけない、と常に考えていました。」

  この日常生活の美しさははっきりいって作られた美しさである。この映画はわれわれに懐かしさを感じさせるが、庶民を描いた昔の日本映画はもっと猥雑な活気にあふれていた。ここには代わりに静かでほのぼのとした暖かさがある。主要登場人物が4人しかいないという事情もある。ルートの父親は他に家庭を持っている男であるとか、博士と義理の姉は過去に何かいわくがあるといった事柄は軽く触れられるだけで、暗示されるにとどめられている。そのかわりに何気ない日常に輝きが与えられるのである。周辺をそぎ落とした、家族の原点。「阿弥陀堂だより」同様、「静謐な」という言葉が似合う映画になっている。そして日常生活の潤いの発見は数字の美しさの発見と重ねられている。生活の安らぎと数字の美しさが与える心の安らぎ、そこからうまれる暖かく潤いのある生活が周囲の風景に溶け合い調和して、たゆたうようなリズムを生み出してゆく。

  この生活を杏子の前の9人の家政婦たちは作り出せなかった。杏子にあって他の家政婦たちになかったものは何だろうか。おそらくそれは博士を変わり者と見るのではなく広い心で受け止めることができる彼女の人柄だろう。息子をはじめて博士の住む離れに連れてきたときも、博士の記憶力のことを前もって話して聞かせ、同じ事を何度聞かれても「それはもう聞きました」と言わない様にしようねと息子に話す。こういう心遣いができる人なのだ。

  しかし障害を持った人物を主人公にしたこの映画は、そんな彼女でも全く偏見を持っていないわけではないことをきちんと描いている。ルートが野球で怪我をしたとき思わず杏子はコーチに向かって「どうして博士にルートを任せたのですか?」と問い詰めた。この言葉に博士は気の毒なほど落ち込む。帰り道ルートはどうしてあんなひどいことを博士の前で言ったのかと母を責める。深く反省していた杏子は率直に謝る。思わず口をついて出た自分の言葉に、彼女は自分にも偏見があったことを悟ったのである。しかし彼女は、たとえ相手が子供であっても、過ちを過ちとして素直に認める柔軟性と勇気を持っていた。杏子役に深津絵里を選んだのはまったくぴったりのキャスティングだった。家政婦の役なので特別美しく映っているわけではないが、他のどの映画やドラマよりも彼女は輝いていた。彼女の持っている透明感が一番うまく生かされた映画ではないだろうか。

  杏子にさして教養があるわけではない。しかし心優しい彼女には博士の語る数字の美しさを受け入れる素地があった。それは息子も同じだった。博士が杏子たちに語った数字の魅力。この映画の中心的魅力の一つはこれである。「直線を引いてごらん。本当の直線は始めと終わりが無いんだ。でも直線はとりあえず目に見える形で引かなくちゃいけない。目に見えない世界が、目に見える世界を支えているんだよ。」完全数については「神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい?」と語る。素数を孤独だが孤高な数字と捉える。一見、無機質で無味乾燥に思える数字が博士の言葉を通すとわくわくする世界に思えてくる。そこに数学に対する純粋な愛を感じるからだ。博士にとって江夏豊本人に対する愛情と彼の背番号である完全数28への愛情は分かちがたいものである。無機質な数字が「潔い」「孤高」「素直さ」などの美しい日本語とクロスオーバーした時、そこに新しい世界が生まれる。人との交わりを長い間絶って、常に数字のそばから離れようとはしなかった博士は数字や数式に人間的な価値観を見出した。数字が美しい日本語と重なり合う。だから博士の言葉は観る者の胸に響くのである。

  この数字が人間関係と重なったときもっとも深い感動が生まれる。ルートと杏子の暖かさに触れて、常に冷たく突き放す態度を保っていた博士の義理の姉が気持ちを変えてゆく。それを象徴するのが母屋と離れの間の木戸である。彼女の中にあったわだかまりが解けたとき、彼女は「この木戸はこれからはいつでも開いています」と告げる。そのとき博士が姉に渡した紙切れにはe(πi)+1=0という数字が書かれていた。これはe(πi)=-1というオイラーの公式に1をプラスした式である。マイナス1からゼロへ。それまでは何かが欠けていた。戸口は閉ざされていた。義理の姉が心を開き、母屋と離れの間の木戸を開け放ったとき、そのマイナスは埋められた。「ゼロ」を無だと博士は言ったが、むしろこの場合ゼロは「輪」を表しているのかもしれない。心が通じ合ったとき、彼らはまるで完全数のように家族という一つの結晶になったのである。

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コメント

 HANAさん 二度もコメントいただきありがとうございます。
 そう、本当に残念です。あの時は変なタイトルの映画だなという程度の認識だったのです。まさかこんな傑作に仕上がるとは思ってもいませんでした。もったいないことをしました。

私の方にもTB、コメントありがとうございます。
TBはおそらく私のgooの方の具合が悪いのだと思います。
時々あるので・・・。

エキストラで出演されたかもしれないんですね。
残念。出られていたら映画の楽しみが一つ増えたのに。

ゴブリンさんの地元でもロケだったのですね。
本当に美しい風景でした。映画も美しかった。

 HANAさん コメントありがとうございます。
 これまではコメントが入れにくかったようですが、今度はTBがダメですか。使いにくくて申し訳ありません。
 人間関係と風景の美しさを兼ね備えた映画はいくつもありますが、それに数字の美しさが加えられた映画は今までありませんでした。まさに稀有な美しさを湛えた作品だと思います。
 博士の家に使われた建物は長野県にあるのではないそうですが、外の風景は長野県でロケしました。杏子が自転車で毎日通う道は千曲川の畔だそうです。正確な場所は分からないのですが。信州の美しさを見直した映画でもありました。
 

TBしたんですが、まだ反映してないみたいです。URL入れておきましたので、もし反映していなかったら、そこから来てみて下さい。最新の記事なのですぐ分かると思います。

いつものことですが、表面的にサーッと書いた私の文章が恥ずかしくなります。ここへ来ると、「ああ、そうか!」とか「なるほど・・・」とか、いっぱい発見があります。

舞台は軽井沢かなあなんて思っていたんですが、懐古園ってことは小諸ですか?きれいな風景でした。誰もが心の底に持っている風景のような気がしました。

 あしあとさん コメントありがとうございます。
 原作を読んでいないので知りませんでしたが、原作には数式は一つしか出てこないのですね。おそらく公式そのもののほうでしょうから、ゼロになるほうは映画の創作ということですね。そうなるとますます素晴らしい創造だと思えてきます。もっとも、原作が素晴らしいからこのような一工夫が生まれてくるのでしょうね。

遅くなりましたが、コメント、TBありがとうございました。
e(πi)+1=0とe(πi)=-1、私も2回目に観たときこれに注目しました。昔博士が未亡人に送った手紙にはe(πi)=-1と記されています。いろんな困難をー1という負の数に込めたのかもしれません。そして後半に未亡人にそっと渡すのはe(πi)+1=0。未亡人の「1日1日プラス1。」という台詞が中盤にあるだけに、プラスの表現と今までの困難やわだかまりを「無」にするという意味合いがあるのかなと思って観ていました。おっしゃるとおり「輪」という意味もあるのかもしれませんね。

数学的には等価な二つの式。心情にあわせた使い分け。原作には一つの式しかでてこないので、原作を題材に映画として上手く租借していると思いました。

COOさん コメントありがとうございます。
 僕もこの映画を観るまでは数字に特に関心はありませんでした。人間はよく動物を擬人化しますが、無機物にも何かの意味を付与せずにはいられないのですね。
 ゼロを「輪」あるいは「和」と捉えるのは僕の勝手な解釈ですが、マイナス1に1を加えることには明らかに積極的な意味があると思います。ゼロは無ではなく、プラスでもマイナスでもないバランスの取れた状態を意味しているのではないでしょうか。

TBありがとうございました。

博士のように数字の持つ美しさや神秘性を、心浮き立つものとして伝えられる教師に出会わなかったことが残念です(笑
>ゼロは「輪」
>家族という一つの結晶
この解釈に、一つの答えを見出せたように思います。

(TB、重複してしまいました
  すみません。)

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