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2006年3月28日 (火)

子供たちの王様

043205 1987年 中国 1989年4月公開
監督:チェン・カイコー
原作:阿城(アー・チョン)
脚本:チェン・カイコー、ワン・チー
撮影:クー・チャンウェイ
出演:シエ・ユアン、ヤン・シュエウェン、チェン・シャオホア
    チャン・ツァイメイ、シュー・クオチン、ラー・カン
    クー・チャンウェイ、ウー・シア、リウ・ハイチェン

<チェン・カイコー・フィルモグラフィー>
「PROMISE」(2005) 監督/製作/脚本
「北京ヴァイオリン」(2002) 監督/脚本/出演
「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」(2002) 監督
「キリング・ミー・ソフトリー」(2001) 監督
「始皇帝暗殺」(1998) 監督/製作/脚本/出演
「花の影」(1996) 監督
「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993) 監督/製作
「人生は琴の弦のように」(1991) 監督/脚本
「子供たちの王様」(1987) 監督/脚本
「大閲兵」(1985) 監督
「黄色い大地」(1984) 監督

 僕の映画自伝である「あの頃名画座があった(改訂版)⑧」にも書いたが、僕が最初に観た中国映画はチェン・カイコー監督の「大閲兵」である。文芸座で開催された「中国映画祭‘87」で上映された作品中の一本だった。上映された8本全部を観たわけだから、これが最初というのは上映プログラム上の問題で偶然に過ぎない。順番が違えば他の作品が記念すべき第一作になったわけだ。それはともかく、最初の「大閲兵」でがっかりすれば8本全部観たかどうか分からない。「大閲兵」を観て中国映画のレベルの高さに驚いたからこそ通いつめて全部観たということである。それ以降、すっかり中国映画の魅力に取り付かれ、これまで何十本となく観てきた。

 チェン・カイコーの映画は上記のうち7本観た。マイ・ランクを示せば以下のとおり。なお、参考までに「中国映画マイ・ベスト30」を文末に付けておきます。

1 さらば、わが愛/覇王別姫
2 子供たちの王様
3 大閲兵
4 黄色い大地
5 始皇帝暗殺
6 北京ヴァイオリン
7 人生は琴の弦のように

 この内駄作だと思ったのは「人生は琴の弦のように」のみ。上位2作は名作と呼ぶにふさわしい。「子供たちの王様」は「大閲兵」から遅れること2年、89年5月21日に今はなき「シネヴィヴァン六本木」で観ている。映画ノートを見るとスタッフとキャストは漢字で書いてある。まだ当時は中国人と韓国人の名前は漢字で書いていた。カタカナ表記に切り変わったのは確か90年代の半ば頃だ。

 ストーリーはチェン・カイコー監督自身が文革時代に下放で経験したことを基にしている(チェン・カイコー著『私の紅衛兵時代』講談社現代新書が参考になる)。主人公は雲南省の山村に下放していた”やせっぽち”というあだ名の青年。彼自身が高校教育の途中で下方されたため、たいした教育も受けていないのだが、たまたま中学校の教員として雇われることになる。中学校はなだらかな山の天辺にあるかやぶきの粗末な校舎だ。文革時代の劣悪な教育現場。生徒には教科書もない。教師だけがぼろぼろの教科書を1冊支給される。それを黒板に書き、生徒たちはノートに写す。黒板消しはなく布でふき取る。教師も生徒もみすぼらしい身なりだ。”やせっぽち”は穴だらけのシャツを着ている。日本の今のホームレスでももっといい服を着ている。”やせっぽち”は人に教えた経験がないので最初は戸惑うが、やがて独自の教育方法を編み出してゆく。教科書を教えず、自由作文を書かせるのである。それが上部の者に知れ、同僚から「上が君の授業に目をつけている」と注意される。しかし彼は方針を変えず、ついに党の幹部に呼び出される。”やせっぽち”は教職を追われ山を降りてゆく。

 ロケは実際に雲南省で行われた。冒頭霧に煙る山の景色が映される。少しずつ霧が晴れて全景が見えてくる。非常に美しい映像で印象的である。その山道を主人公が登ってゆくのだが途中不思議な光景が出現する。小高い丘の上に奇妙な形の杭のようなものが無数に立っている。最初はそれが何かよく分からない。何かサボテンか何かがたっているように見える。映画の最後に学校を追われた主人公がまた同じ場所を通る場面が出てくる。ちょうど野焼きが始まった時期だ。その時点で初めて観客にも合点が行く。その丘はかつて森だったが、野焼きで木が全部焼かれてしまったのだ。焦げた木の幹だけが廃墟に残る柱の残骸のように立っていたのである。

 この映画を観て思い出した映画がある。83年製作のトルコ映画「ハッカリの季節」。86年5月11日に渋谷のユーロスペースで観ている。この映画もすさまじい映画だった。舞台はトルコ南部の山岳地帯にあるハッカリ県。3000メートルを越える山々の渓谷にクルド系遊牧民族が住む村落がある。そこに若い教師が赴任して来る。そこは冬になると雪でうもれて全く外界から隔離されてしまう。電気も水道もなく、郵便も来ない。古い家長制度が厳然として残っている。医者もいないので子供が病気になってもただ死んでゆくのを見守ることしかできない。やがて冬も終わり学校は閉鎖され、教師は子供たちに「私の教えたことは全て忘れてかまわない」という言葉を残し村を去ってゆく。こちらの風景もすごかった。この世のものとも思えない世界。雪に完全に覆われ、わずかに残った柴を刈っては束ね、雪の上に座った姿勢でそれを背中に背負い、そのまま斜面を村まで滑り降りてゆく。美しい自然と前近代的な人間関係。

 この二つの映画は実によく似ている。ほとんど季節が違うだけだ。文革がいかに近代文明を破壊したかがよく分かる。山を焼き尽くす野焼きはその象徴だったのである。「ハッカリの季節」の若い教師が「私の教えたことは全て忘れてかまわない」と言い残したように、”やせっぽち”も王福という生徒に「これからは何も書き写すな、辞書も書き写すな」との書置きを残して去ってゆく。王福は彼のクラスで一番できる子で、辞書を手書きですべて写そうとしていた。中国の教育というのはいまだにそうなのである。教科書丸暗記。論語の暗誦じゃあるまいし。自分の意見を持つ訓練などまったくなされていない。必死で漢字を覚えようとする王福もそういう道にはまり込んでいた。

 「子供たちの王様」とは教師をあざけって呼ぶ言葉だとDVDの解説にあった。”やせっぽち”も最初のうちは生徒に馬鹿にされていた。しかし作文指導を始めるあたりから教室に笑いがあふれ、生徒たちにやる気が出てくる。”やせっぽち”は党の教育方針を無視し生徒の発想を豊かにしようと自由作文に力を入れる。生徒たちは夢中になる。生徒たちがいっせいにノートに鉛筆を走らせる音が教室いっぱいに響く。後に触れるがチェン・カイBig_0278_1 コー監督はこの映画の中でかなり音にこだわっている。音関連でいえば音楽もまた効果的に使われている。彼の知り合いに来妹という女性がおり、歌がうまいので音楽の教師にしてくれとしきりに彼にせがんでいる。彼は自分が詩を書き彼女が作曲した歌を放課後生徒たちに教える。歌詞に「頭は飾り物じゃない、文章を書くのは自分の力♪」という一節がある。これも象徴的な言葉だ。教育の現場なのに教科書も支給されず、まともな教育も行われない。考えることさえ敵視される。そのことに対する痛烈な風刺である。子どもたちを遠景で捉え、夕焼けを背景に空を広く取った映像が美しい。

 子供たちに学習意欲がないわけではない。彼らは知識に飢えている。その典型が優等生の王福である。彼が写していた辞書は来妹のものである。ある時”やせっぽち”は王福と賭けをする。次の日生徒総出で竹を切りに行くのだが、王福は明日のことを今日作文に書けると言う。生徒と賭けをしたことがのちのち「上」からにらまれることになる。ともかく、もし王福が勝ったらなんでも欲しいものをやると”やせっぽち”は約束する。翌朝生徒たちが竹林に行くと竹はすでに王福とその父親によって昨夜のうちにすべて切られていた。王福は作文も昨日のうちに書き上げたと誇らしげに言う。これに対して”やせっぽち”は次のように言う。「王福、辞書はあげるが君の負けだ。今日のことを昨日のうちに書く約束だった。作文は確かに昨日書いたが、中身も昨日のことだ。記録は出来事の後に書くものだ。これが道理だ。君は真面目でクラスのために働いたから、辞書をあげよう。」

 結局、王福は辞書を受け取らず、自分で書き写し始める。このエピソードが印象的なのはそこに知識に対する純粋な渇望があるからだ。少しでも多く字を覚えたい、知識を得たいという願望。まさに教育の原点である。しかし同時にそれは知識の質に対する問いかけでもあった。ただ漢字をたくさん覚えること、言葉を書き写して鵜呑みにすること、果たしてそれが本当の教育なのだろうかという問いかけ。暗記はできても、まともな文章が書けない日本の子どもにも通じる問いかけだ。それはまた、党の方針を鵜呑みにさせるだけの文革の方針に対して疑問を投げかけることでもあった。この二つの主題をうまく結び付けて描いたこと、この映画が傑出しているのはその点である。文革の実態を生々しく描き出し世界中に衝撃をあたえた名作「芙蓉鎮」を始め、「青い凧」、「活きる」、「シュウシュウの季節」、「小さな中国のお針子」等々、文革、下放を描いた中国映画は多い。「子供たちの王様」には「芙蓉鎮」のような衝撃はないけれども、小さな山の学校を舞台にして教育と文化の荒廃という面から、文革という未曾有の野蛮な試みが孕む矛盾を描いて見せた。

 主題ばかりではない。チェン・カイコーは映像と音に関しても大胆な試みを行っていた。それを一言で言えば、映像と音のズレである。冒頭の一場面がその典型だ。ある家の中で一人の老人が太い竹筒のようなものでタバコを吸っている。ごぼごぼという音がするので、水タバコのようなものだろう。その老人はもう一人の男と話をしているのだが相手の男は画面には見えない。相手の男は画面の右側にある戸口の外にいるのだ(老人は画面の左側に座っている)。相手の男(これが主人公の”やせっぽち”なのだが)の声だけが聞こえる。”やせっぽち”もタバコを吸っているのだろう、時々戸口から煙が部屋に入ってくる。なんとも不思議な映像だった。かなり実験的な手法だが、実に効果的である。このように音はするが姿は見えないという「効果」をチェン・カイコーはこの映画のあちこちで用いている。”やせっぽち”が最初に山道を登って学校に行く途中で木が切り倒されている音が聞こえてくる。しかしキャメラは終始”やせっぽち”だけを映している。やがて大きな音を立てて木が倒れるがそれも映されない。あるいはどこかで誰かが歌っている不思議な響きの歌が聞こえてくる。

 ”やせっぽち”がもう一人の教師と校庭で話をしている場面もそうだ。左側に”やせっぽち”がいて、右側にもう一人がいるが、右側の男は時々画面の外に出てゆく。顔でも洗っているのか水音だけが聞こえる。また、上に書いた王福と賭けの約束をする場面だが、画面では古い竹をキャンプファイアーのように燃やしている映像を遠景で撮っており、どこか教室あたりで”やせっぽち”と生徒たちが話している声がこれにかぶせられている。この「映像と音のズレ」のクライマックスがラストの牛が走る音である。最初に触れた焼け残った木の幹が不思議なサボテンのように林立している丘の上に”やせっぽち”が差し掛かったとき、木の陰で牛追いの少年が小便をしていた。そこに突然牛の走る音と牛に付けた鈴の音が迫ってくる。”やせっぽち”も観ている観客も不安になるが、結局牛の群れは現れない。実にシュールな場面だった。

 これには伏線があって、”やせっぽち”は教室である字の説明を最後にする。日本語にはない字だが、牛という字の下に水と書く字だ。どういう意味の字かはっきりしないが、牛にとっては塩が貴重で、人間が小便をするとそれを飲みに来るという話をする。実はその字はもっと前からでてくる。”やせっぽち”が教科書の文を黒板に書いたところ、その中に王福に読めない字が二つあり、その一つがこの字だったのである。その時なぜか”やせっぽち”はこの字だけを消してしまう。想像するに、それは何か「なくてはならない大事なもの」を意味する字なのではないか。”やせっぽち”は最後にそれを生徒たちに伝えたかったのだろう。

<中国映画マイ・ベスト30>
「標識のない川の流れ」(1983)  ウー・ティエンミン監督
「黄色い大地」(1984) チェン・カイコー監督
「黒砲事件」(1985) ホアン・チェンシン監督
「大閲兵」(1986) チェン・カイコー監督
「紅いコーリャン」(1987)  チャン・イーモウ監督
「子供たちの王様」(1987)  チェン・カイコー監督
「芙蓉鎮」(1987) シェ・チン監督
「古井戸」(1987) ウー・ティエンミン監督
「菊豆」(1990)  チャン・イーモウ監督
「紅夢」(1991)  チャン・イーモウ監督
「心の香り」(1992) スン・チョウ監督
「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993)  チェン・カイコー監督
「青い凧」(1993) ティエン・チュアンチュアン監督
「活きる」(1994)  チャン・イーモウ監督
「女人、四十」(1995) アン・ホイ監督
「宋家の三姉妹」(1997) メイベル・チャン監督
「始皇帝暗殺」(1998)  チェン・カイコー監督
「スパイシー・ラブスープ」(1998) チャン・ヤン監督
「きれいなおかあさん」(1999) スン・ジョウ監督
「山の郵便配達」(1999)  フォ・ジェンチイ監督
「あの子を探して」(2000)  チャン・イーモウ監督
「初恋のきた道」(2000)  チャン・イーモウ監督
「鬼が来た!」(2000) チアン・ウェン監督
「思い出の夏」(2001) リー・チーシアン監督
「涙女」(2002) リュウ・ビンジェン監督
「小さな中国のお針子」(2002) ダイ・シージエ監督(フランス)
「ションヤンの酒家」(2002) フォ・ジェンチイ監督
「至福のとき」(2002) チャン・イーモウ監督
「HERO」(2002) チャン・イーモウ監督
「わが家の犬は世界一」(2002) ルー・シュエチャン監督

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コメント

狗山椀太郎さん TB&コメントありがとうございます。
そうですね、沖縄戦の記述問題はその問題点を象徴的に示していたと思います。「100人の子供たちが列車を待っている」のレビューでも書きましたが、日本の教育はもっと子供たちの創造力や想像力、思考力を伸ばす、あるいは個性を伸ばしつつ仲間意識を育てる方向に向うべきだと思います。まだ観ていませんが「フリーダム・ライターズ」も共通する主題を扱っているようですね。
映画を観て、映画そのものばかりではなく、翻って自分たちの足元を見直し、様々なことを考えることも大事だと思います。
またよろしくお願いいたします。

こんばんは、コメント・TBありがとうございました。
お返事が遅くなってすみません。

確かに、中国だけでなく日本の教育問題も合わせて考えてみるのも意義深いことですね。最近では学力低下の元凶として「ゆとり教育」がやり玉に挙げられているようですが、その反動でかつての「詰め込み教育」に戻ってしまうとすれば、それはそれで考え物だと思います。沖縄戦の記述で右往左往する歴史教科書の問題もまた然りで、結局のところ「教育」とは、子供ではなく大人(国家?)の都合で揺れ動いていくものなんだろうかと、この映画の感想と合わせてあれこれと考えさせられました。

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