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2006年2月18日 (土)

フライ、ダディ、フライ

reath2 2005年 日本 東映
監督:成島出
原作:金城一紀『フライ,ダディ,フライ』(講談社刊)
脚本:金城一紀
撮影:仙元誠三
出演:岡田准一、堤真一、松尾敏伸、須藤元気
    星井七瀬、愛華みれ、塩見三省、渋谷飛鳥
    浅野和之、坂本真、青木崇高、広瀬剛進
    温水洋一、徳井優、大河内浩、田口浩正
    神戸浩、鴻上尚史、モロ師岡

  借りる決心をするまでにずいぶん時間がかかったが、観てよかった。借りるかどうか迷っていた気持ちを最後に後押ししたのは主演が堤真一だという点だった。「ALWAYS三丁目の夕日」で初めて観たのだが、なかなか魅力的な俳優だと思ったからだ。それにしても最近の日本映画のレベルは間違いなく上がっている。そして重要なのはレベルを押し上げている原因のひとつに在日コリアン作家の存在がある事である。「GO」と「フライ、ダディ、フライ」の金城一紀、「血と骨」の梁石日。アニメやコメディタッチのお笑い映画ばかり作っている日本映画に数少ないシリアスな主題を持ち込んでいる。「チルソクの夏」や「パッチギ!」も共通する主題を描いていた。「メゾン・ド・ヒミコ」が出色の作品になったのもやはり差別されているゲイを正面から描いたからである。あるいは、「ナビィの恋」「ホテル・ハイビスカス」「深呼吸の必要」等の沖縄映画もある。独特の歴史と文化を持った沖縄の映画は一般の日本映画にない活力がみなぎっている(同じことは音楽でも言える)。まだまだ政治的なテーマを扱ったものは出てこないが、ほんの数年前に比べれば格段にレベルは上がってきている。

  ただこの作品にも他の作品に共通する不満がある。ゾンビーズの描き方だ。「チルソクの夏」「パッチギ!」もそうだが、どうして高校生を描くとあんなに馬鹿みたいなわざとらしい演技をさせるのか。不思議で仕方がない。朴舜臣(パク・スンシン)役の岡田准一は実に自然に演じていたのに。むしろこっちの方こそ変に斜に構えたり、わざとらしくカッコつけさせたりしがちだが、この映画では実に自然だった。変化をつけたかったのかもしれないが、あまりにも不自然なおちゃらけ演出では芸がないし興醒めだ。原作では沖縄出身でアメリカ人とのハーフの板良敷や4か国分のDNAを持つアギーという興味深いキャラクターになっているようだが、どうしてそれを映画でも活かさなかったのか疑問が残る。

  ストーリーは単純で、石原(須藤元気)という高校生に娘(星井七瀬)を傷つけられた父親が、復讐のために喧嘩の強い高校生から格闘技を習い見事仕返しをするというもの。主人公の鈴木一(堤真一)は平凡なサラリーマン。鈴木というありふれた名前をつけたのは、彼がどこにでもいるなんでもないサラリーマンである事を示している。仕返しをしてやろうと格闘技の訓練に励むのは韓国映画の秀作「反則王」と似たシチュエーションである。どちらもさえないサラリーマンが、バカにされた悔しさをばねに一念発起して必死で強くなろうと励む。いわばサラリーマン哀歌が基調にある。ただコメディの「反則王」に比べるとこちらは幾分説教臭い。後で触れるがスポ根もの的要素があるからだ。「反則王」の方は途中で格闘技の面白さ自体にのめりこみ、きっかけの憎しみはもうほとんどどうでもよくなっていた。しかし「フライ、ダディ、フライ」は最後まで憎しみが原動力になっている。復讐劇という捉えかたが出てくる所以だ。だが「仕返し」を終え、鈴木は何を掴んだのか。彼は自分に対する自信を取り戻し、そして家族の信頼を回復した。「仕返し」そのものよりも、本当に大事なのはこちらの方だ。いつも同じ最終バスに乗るサラリーマンたちはバスと競争して走り出す鈴木の姿に彼ら自身も熱くなり、ついにバスに勝った時は拍手をおくった。彼らが称えたのは鈴木の頑張りだった。詳しい事情を彼らは知らない。

  しかし妻(愛華みれ)と娘を絡ませるとまた少し違った意味合いを帯びる。妻は彼が決闘することを全く止めようとはしなかった。むしろ当然とばかりに応援していた感じだ。不自然な感じはぬぐえない。これは、強い父親がか弱い妻と娘を守るという昔からの考え方が勝利したということか。これは強い父親を称える映画だろうか。いや、そう単純ではないだろう。石原を羽交い絞めにした時、鈴木は一瞬石原を殺そうと思った。しかし彼は腕を緩めた。彼は暴力と復讐のむなしさを悟ったのである。その時スンシンが彼に語ったある言葉が彼の頭に響いていたのではないか。「ちょっと疲れたなあ。誰かを殴れば殴るほどさ、こぶしの間から大切なものがこぼれて落ちて行くような気がするんだ。」喧嘩を教えるスンシン自身が暴力のむなしさに気づきつつあった。果し合いが終わった時二人は抱き合い、一緒に駆けた。鈴木に向かって叫んだ「飛べ」というスンシンの言葉には憎しみを越える何かがあった。そこにあった絆はどんな絆だったのか。

  スンシンが上のせりふを言ったのは鈴木が初めて木に登れた時である(ロープを伝って木に登る訓練をしていた)。やっと課題をやり遂げた鈴木にスンシンは気を許したのか、珍しく自分を語ったのである(ロープをよじ登る鈴木を映しながらさりげなくスンシンがはいている運動靴を映しているが、それは鈴木が彼にプレゼントしたものだ)。高い木から街を見下ろす。夕焼けの空が美しい。そこで語られた話はこの映画の中でもっとも印象的で深みを感じさせる。しかし、スンシンが最後に言った「早く強くなって、俺を守ってくれよ」という台詞は無理やりくっつけた感じがする。いくら親しくなっても彼が言tori1 いそうもない言葉だ。たとえそう思っていたとしても。なぜそこまで無理をしてこんなことを言わせたのか。それはそこにこそ主題があるからだろう。息子のいない鈴木と父親のいないスンシンが互いに欠けている物を求める。鈴木はあの木の上で父親のようにスンシンの頭を抱いた。その時二人は親子として抱き合った。まさに「ミリオンダラー・ベイビー」と同じ関係だった。おそらくそれが描きたかったのだ。

  スンシンが家に帰っても母親はいつもいない。食事は用意されているから何か夜の仕事をしているのだろう。冷え切った家、冷え切った食事。スンシンは父親を求めていたのかも知れない。最初は鈴木を馬鹿にしていたスンシンが本気で彼を応援し鍛えたのは、初めて父親の資格を持った男と出合ったからだ。最初二人の関係は逆転していた。丹下段平やヨーダを例に出すまでもなく、通常は経験豊富な年配者が若者にアドバイスをする。しかしこの映画の場合はその逆である。若者が年上の男を訓練し教訓をたれる。「おっさんは背中に中身のいっぱい詰まった透明なリュックを背負ってる。石原の背中には何もない。どんなことがあっても自分を信じるんだ。」年上のサラリーマンも若き師の前ではただの「おっさん」に過ぎない。そしてスンシンには年上のサラリーマンに対して恨みがあった。彼が木の上で語ったのはその話だ。「リストラされてとち狂ったサラリーマンのおっさんがいきなり刺してきたんだよ。自分が首になったのは外国人労働者のせいだと思って。」

  病院に入院していた時のスンシンは今の鈴木の娘と同じで怖くて病院の外に出られなかった。「俺さ、傷が治ってからもしばらくは病院から出られなかったんだ。外の世界が怖くてさ。俺を刺したそのおっさんが夢ん中まで出てきて俺のこと追っかけまわすんだよ。真っ赤に光った目でさ。俺はある日突然ヒーローみたいな誰かが現れて、俺のこと病院から連れ出してくれると信じてたんだ。まあ、そんな都合のいいことは起こりゃしねえんだよ。・・・病院から外の世界に戻る時、二度と刺されないように俺は強くなることに決めたんだ。」しかし今スンシンはそのことのむなしさに気づいている。

  彼が在日コリアンであることがはっきり語られるのはここだけである。その分「GO」と比べれば民族問題よりももっと親子関係や男としての葛藤の側面に重点が置かれている。アイデンティティの追求という点では共通するが光の当て方が違う。

 このように書いてくるとかなり重たい主題のように思えるが、実際は軽いタッチで描かれている。上で年齢関係が逆転していると書いたが、この映画はある意味でスポ根漫画や映画で言えば「ロッキー」などのパロディである。それは鈴木一の格好を観ただけで分かる。寸詰まりの緑色のジャージに運動靴。背中には砂を詰めた赤いキティちゃんのリュックを背負い、爪先立ちでふらふらと石段を登る。上ではスンシンがバナナを持ってここまで来いとせきたてる。「俺は猿かよ」とぼやきながらふらつく足で階段を上るへこたれ堤真一の背中はすっかりしょぼくれている。誇らしげに子供に見せる「親父の背中」からは程遠い。ロープに掴まって木に登ろうとしても途中で落下してしまう。ランニングでへなへなになり、最初のうちは歩いている二人にすら置いていかれる。高校生たちは三日もすれば音を上げてやめるだろうと思っていた。しかし彼はまた次の日もやってきた。そしてそのまた次の日も。そのうちあえてバスにも乗らずバス停まで走ってゆく。ついにはバスに勝ってしまう。

  いつも乗る最終バスの運転手と乗客が彼に気づき次第に応援してゆく様が面白い。シンデレラマンが大恐慌にあえぐ庶民の星だったように、走っている鈴木はサラリーマンの星だった。このあたりはコメディ調になる。運転手と乗客には「豪華」な役者を配した。運転手に温水洋一、乗客に浅野和之、徳井優、大河内浩、田口浩正、神戸浩、鴻上尚史。いずれも覇気のないおっさんばかり。鈴木一は自分のため、あるいは娘や妻のためだけではなく、スンシンやゾンビーズ(60年代のイギリスに同名のロック・バンドがあったなあ)のメンバーたちやこの「おっさん」たちのためにも「飛んだ」のである。果し合いに臨む鈴木は自信を取り戻し、「灰とダイヤモンド」の有名な台詞を口ずさんで自分を励ます。戸惑うスンシンに「灰とダイヤモンド」も知らないのかとやり返す(前に「燃えよドラゴン」を知らないと言って馬鹿にされた)。鈴木は若いスンシンに鍛えられたが、無理に若ぶるのではなく、「おっさん」の底力を示すことでやり返したのだ。

  まあ、話自体はほとんどありえない話である。だいたい相手の石原という男は3年連続ボクシングの高校チャンピオンである。いくら鈴木が練習をつんでも勝てるはずはない。だからこれはスポ根パロディ調ファンタジーである。加害者である石原や威圧的な態度を見せる教頭(塩見三省)は全くのステレオタイプ。ほとんどリアリティがない。

  いろいろと不満はあるがさわやかな映画である事は確かである。最後の「鷹の舞」も妙にひきつけるものがある。「真の王者は鷹となって大空を羽ばたき、限りない自由へと近づく。」こちらが恥ずかしくなるような臭い台詞だが、それをあえて言ってしまうところが潔い。「あんな風に重力を飼いならしたら本当に飛べるような気がしません?有り得ないとか出来ないとか、そんなちっぽけな常識から解放されて羽ばたけるような気がするんですよね。」「飛ぶ」とは解放されることである。何から?それを考えるのは観客の側の課題だろう。

  堤真一と岡田准一のキャスティングは成功だった。岡田准一は本当にかっこいい。かっこよさを自然に表現することはなかなか出来ないことだ。注目すべき若手である。

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コメント

 HANAさん いつもコメントありがとうございます。
 分かりますよ、岡田准一は男の目から見ても本当にかっこいい。僕はこの映画で初めて観たのですが、こんないい若手がいたのかと驚きました。
 ドタバタ調の味付けをしながらも、本質はとてもまじめな映画だと思いました。最近の日本映画が好調なのは、ほとんどがコメディですが、芯の部分に共感できる人間的な要素があるからだと思います。

ブログに映画の記事を書くと
まずゴブリンさんのところへお邪魔してしまいます。
今回は割りと近くに?あってすぐ探せました。
でも、ちゃんと検索できるのでとても助かります。

大笑いするわけでもなく、かといって涙に暮れるわけでもないけど、
見終わった後とてもさわやかでした。

といっても私は岡田准一に見とれていただけだけど・・・。

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» 「フライ、ダディ、フライ」 [HANAのしみじみデジタル日記]
 「君に読む物語」を借りた頃に「ミリオンダラーベイビー」も借りたかったのですが、こちらも貸し出し中でした。そろそろいいかと借りに行ったら、なんと、ミリオンダラーベイビーの「特別レンタル中!」ですべて貸し出し中・・・。  そこで「フライ、ダディ、フライ」を借りてきました。  堤真一は結構好きなのでこの映画も前から気になっていました。  ところが、堤真一以上にかっこよかったのが岡田準一�... [続きを読む]

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