ヒトラー 最期の12日間
2004年 ドイツ
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
原題:DER UNTERGANG
原作:ヨアヒム・フェスト著「ヒトラー ~最後の12日間」
トラウドゥル・ユンゲ著「私はヒトラーの秘書だった」
製作、脚本:ベルント・アイヒンガー
出演:ブルーノ・ガンツ、アレクサンドラ・マリア・ララ
コリンナ・ハルフォーフ、ユリアーネ・ケーラー
トーマス・クレッチマン、ウルリッヒ・マテス、ハイノ・フェルヒ
ウルリッヒ・ノエテン、クリスチャン・ベルケル
ミハエル・メンドル、マティアス・ハービッヒ、ゲッツ・オットー
この映画は、当然のことながら、評価が大きく分かれている。扱う人物が人物であり、自殺にいたる彼の最後の日々をリアルに描いたことが彼の人間性に光を当てることになり、そのことが彼を肯定することにつながるのかどうかにおいて意見が分かれるのである。戦犯に問われた人物などを擁護するよく使われる手は、その人物が果たした歴史的役割を一切排除し、その人物の私生活を描く方法である。家庭では優しい人物だった。他人によく気を配り・・・。こうしてその人物を肯定してしまう。いわば一般論で押し切ってしまうやり方だ。「ヒトラー 最期の12日間」はそうなっているか。結論から言うと、僕はこの映画はその手の映画ではないと思う。この映画のナレーションはヒトラーの秘書だったトラウドゥル・ユンゲである(彼女の著書が原作の一つ)。彼の最期を実際に見聞きした人物として証言しているというかたちである。その際重要なのは、ヒトラーに対する彼女の立場である。ナレーションに出てくるが、彼女は彼を妄信していた若い頃の自分を反省した上で証言している。単に若気の至りというだけではなく、真実を見ようとする意識が欠如していたことを自覚し、反省した上で語っている。――ちなみにそのきっかけは、戦後に強制収容所の被害者の中にゾフィー・ショルがいたことを知ったことである。有名な「白バラ」のゾフィー・ショルである。80年代に観た「白バラは死なず」(1982年:ミヒャエル・ヘルフォーヘン監督)が懐かしいが、偶然か今「白バラの祈り ゾフィ・ショル、最期の日々」(2005年:マルク・ローテムント監督)が公開中である。――
したがってヒトラーは決して美化されていない。思うように戦況が進まないことに腹を立て、将軍たちの無能さにイライラを爆発させ、ありもしない援軍とその反撃に期待を寄せる、追い詰められ正常な判断力を失った人物として描かれている。記録フィルムに残っているしゃんと背筋を伸ばし激越な演説をぶっている彼の姿はもはやなく、前かがみになってよたよたと歩き、背中で左手を絶えず神経質そうにひらひらと動かしている。秘書の彼女たちには優しい言葉をかける一面もあるが、終始イライラをつのらせて怒鳴り散らしている人物として描かれている。
もちろん、ここに描かれたヒトラー像がたとえ真実に近いものだとしても(これがどれだけ真実に近いものなのかはもはや誰にも分からない)、世界中に多大な被害をもたらした独裁者の人間性を描き出すこと自体もってのほかであるという考え方もあるだろう。しかしこれも間違いだと思う。確かにヒトラーが「エイリアン」や「宇宙戦争」のように地球外のエイリアンか何かだったら理解しやすい。しかし彼は普通の人間であり、人を愛し信頼することも出来たのである。一面ではごく普通の優しい人物が一方で歴史的な大罪を犯せるという視点さえぶれていなければ、これはヒトラーという独裁者研究として第一級の資料となりうる。過去の忌まわしい出来事として忘れ去るのではなく、普通の人間からはかけ離れた異常な殺人鬼として片付けてしまうのではなく(そう出来れば気が楽だが、もしそうだとしたらなぜあれだけ崇拝されるカリスマになれたのか説明できない)、冷静にその人物(単に人間性だけではなく彼の思想や実際の行動も含めて)を見極めることは歴史的に重要な作業である。
もう少し実際の映画に即して具体的に見てみよう。最後近くでエヴァ・ブラウン(ユリアーネ・ケーラー)とユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)が交わす会話が出てくる。エヴァは言う。「彼、つまり夫とはもう15年よ。でも彼のこと何も分かってない。話はするのに、追ってきたら彼は変わっていた。」それを聞いてユンゲは次のように言う。「総統の内面は謎だわ。つまり、私生活ではお優しい。その一方で冷酷な言い方も。」それを受けてエヴァ。「“総統”の時ね。」ここには私人としてのヒトラーと「総統」としてのヒトラーの二面がくっきりと描き出されている。この視点が重要なのである。総統官邸の地下要塞に閉じこもったヒトラーに焦点を当ててはいるが、決して彼を超人的な英雄としても、誰に対しても優しい人物としても描いてはいない。この視点は映画全体の視点でもある。もちろんユンゲの描き方には、自己反省の上にたっているとはいえ、彼女の自己弁護も入り込んでいるだろう。しかも彼女がナレーションを引き受けているかたちなのでその自己弁護は(もしあったとして)そのまま肯定されている。しかし彼女のナレーションは最初と最後にちょっと出てくるだけである。映画の大きな枠組みを形作ってはいるが、全体としては客観描写が大半を占める。ユンゲが直接見聞きしたこと以外も描かれている。この点が重要だ。
「ヒトラー 最期の12日間」はヒトラー個人だけではなく、その周りの高官たちや一般市民も視野に入れて描いている。一般市民は点景として描かれているだけで十分描きこまれているとは言えないが、映画の視野に入っていることは重要だ。内科医であるエルンスト=ギュンター・シェンク教授(クリスチャン・ベッケル)が見た市民の現実(SS[親衛隊]が市民を殺し、病院には負傷者がすし詰めで、医者はただ患者の手足を切るだけ等々)と少年兵ペーターの視線が差し挟まれている。年端のいかない少年や少女たちが何の疑問も抱かずに第三帝国のために戦おうとし、また惨めに死んでゆく姿には薄ら寒いものを感じる。ドイツの側から第二次世界大戦を描いたドイツ映画の名作「橋」を連想させられる。ドイツ第三帝国の崩壊を目前にしたナチス高官たちの様々な対応も重層的に描かれ、映画は重厚な群像ドラマになっている。睡眠薬で眠らせた5人のわが子に、「ナチ以外の世界で子供は育てられない」とゲッベルス夫人が一人ひとり毒の入ったカプセルを飲ませてゆくシーンには鬼気迫るものがある。あくまで毅然とした態度を崩さず、断固として実行するその姿にわれわれは戦慄する。しかも、子供を殺す一方でヒトラーには「逃げて生きながらえて」と泣いて懇願する姿に、個人崇拝の恐ろしさがよく描かれている。この個人崇拝がどのようにして作り上げられたのかは描かれないが、恐るべき実態は観客の目の前にさらされている。国民的規模で展開された集団催眠、人間性の破壊。ナチスに関して恐ろしいのはこの広がりと徹底ぶりである。多くの考えさせられる材料がここに提示されている。
ヒトラーの思想面もかなり描き込まれている。冒頭、砲声が鳴り響く中、ミニチュア都市を前にヒトラーがそのミニチュアを製作したシュペーアに語る場面がある。「第三帝国は単なる先進国ではない。むろんデパートや工場、摩天楼も必要だ。だが何より芸術文化の宝庫として何千年も栄える今に残る古代都市、アクロポリス、大聖堂のそびえる中世都市、そういうものを築きたい。そうだ、シュペーア、それが私の夢だった。むろん今も。」ヒトラーが頭の中で思い描いた空中楼閣。これが彼の思想面の中核にあるのかどうかはこれだけの引用では分からないが、映画的にはこれがミニチュア模型である事が重要である。人のいない抽象的概念都市。その都市に住む市民の不在。彼の頭の中には市民の占める位置はほとんどなかったのではないか。映画の中の彼は一般市民など軽蔑していた。
ある高官がソ連軍の迫るベルリンからの市民の避難を提案する。ヒトラーは聞き入れない。「戦時に市民など存在せん。」それどころか、「敵がどこへ行っても廃墟しかないように」しろと指示する。高官は説得を試みる。「国民に死ねと?電気もガスも水道も燃料もなく鉄道も運河も港も破壊したなら中世に逆戻りです。国民は生き残れません。」「戦争に負けたら国民がなんになる。無駄な心配だ。国民が生き残れるかどうかなどは。破壊し尽くせばいい。それで生き延びられねば弱者だということだ、仕方ない。」「あなたは国民の総統です。」「クズしか残るまい。最良のものたちは既に死んだ。」彼には市民など眼中にない。
追い詰められたヒトラーの怒りはナチスの高官にまで及ぶ。ふがいない将軍たちを呪ってヒトラーは叫ぶ。「私は士官学校など出てはいないが、それでも独力で欧州を征服したぞ。裏切りども、奴らは最初から私を裏切り、だまし続けた。ドイツ国民への恐るべき裏切りだ。だが見てるがいい、その血で償う時が来る。己の血で溺れるのだ。」ここで怒りの爆 発から、諦めへとトーンが変わる。「私の命令は届かない。こんな状態でもはや指揮は執れない。終わりだ。この戦争は負けだ。だが言っておく、私はベルリンを去るくらいならいっそ頭を打ち抜く。みな好きにしろ。」最後はうつむき加減で弱弱しく語る。ここでの「ドイツ国民への恐るべき裏切り」という台詞は何と空虚な響きがすることか。「国民」を連呼するが、その実彼は国民などバカにしていた。「弱者」で「クズ」にすぎない。要するに彼の演説はこういう性質のものだった。彼の言う「国民」は単なるレトリックに過ぎなかったことが分かる。
彼はしかし信念の人だった。誤った信念の。この「誤った」という認識は重要である。ある人物を「信念の人」と描き出すことは、これまたそれがどんな信念であるかを不問に付して、その人物を肯定する手口としてよく使われるからだ。それはともかく、ヒトラーはその「誤った」信念を徹底して追及した。彼がカリスマになれたのはそのためだろう。彼はその信念を実現するために自己の内部にある「弱さ」を徹底して排除した。「弱さには死あるのみ。いわゆる人道など坊主の寝言だ。同情は最大の罪だ。弱者への同情は自然への背理だ。私はこの自然の掟に従い、同情を自らに禁じてきた。内部の敵を押さえつけ、他民族の抵抗を容赦なく粉砕してきた。それしかない。例えば、猿はどんなよそ者も徹底して排除する。猿でさえそうだ。まして人間なら当然。」
あるいはシュペーア相手にこうも語っている。「ドイツと世界のために壮大な構想があった。だが誰も理解しない。最古の同志さえも。つくづく悔やまれる。もう遅い。公然とユダヤ人に立ち向かったことが誇りだ。ユダヤの毒からドイツの地を浄化した。死ぬのは難しくない。ほんの一瞬だ。そして後は永遠の平安。」シュペーア「国民はご容赦を。」ヒトラー「わが国民が試練に負けても私は涙など流さん。それに値しない。彼らが選んだ運命だ。自業自得だろう。」彼の信念のためには個人や他民族への同情などはむしろ排除すべき要素だった。たとえ彼自身が人を銃で撃ち殺すことはしなくても、それを冷酷に命ずることは出来た。彼は同情心を抹殺してしまっているのだから。ユンゲが疑問に思った彼の二面性はこの様な非人間的なまでに徹底した「自己管理」、「自己改造」のなせる業だったのである。常人には出来ないことだ。だからユンゲには「謎」なのである。どうしてあんな優しい人があんな冷酷なことを言えるのか。彼女には理解できない。彼女には、例えば、自殺用の毒薬を彼女たちに渡す時のヒトラーの「すまないね こんな物しかやれん」という優しい話し方が思い浮かんでしまうのだろう。しかし映画は彼女の理解の限界を超えて、この冷酷さ、この二面性を事実として提示している。彼女の視点の限界は映画そのものの限界ではない。映画は彼女自身をも相対化している。この点を理解しておくことは重要である。
恐ろしいのは、国民に対する考え方がヒトラー以外の人々にかなり浸透していることである。モーンケ少将(アンドレ・ヘンニッケ:宮口精二似で実に印象的な俳優だ)は市民軍の投入をやめるよう大臣ゲッベルスに訴える。「市民軍は敵の餌食です。経験も装備も乏しくて。」「その不足は彼らの熱烈な勝利への執念が埋める。」「武器がなければ戦えません。犬死です。」「同情はしないね。彼らが選んだ運命だ。驚くものもいようが、われわれは国民に強制はしていない。彼らがわれわれに委ねたのだ。自業自得さ。」意識的な台詞だろうか。「同情はしない」、「自業自得」という言葉はヒトラーと同じだ。実際ゲッベルスは子供たちを殺した後、夫婦ともどもヒトラーの後を追って自殺する。他にも戦争が終わっているのに自殺する兵隊が後を絶たないことが描かれている。日本でも終戦前後に同じようなことが多発した。何が一体人々をここまで駆り立てるのか。なぜここまで人々は誤った信念を持ってしまうのか。同じ過ちを繰り返さないためにも、この点は徹底して追及される必要がある。
映画はヒトラーの自殺直後で終わらず、第三帝国が瓦解してゆく様をしばらく映して行く。脱出したユンゲとペーター少年が手をつないでソ連兵の間を抜けてゆくシーン、それに続く少年を乗せて自転車で走ってゆくユンゲの映像にはほっとするものを感じた。悪夢の様な映像の後に差し挟まれた希望を感じさせる瞬間。暗澹たる気分で観終わるよりは良いだろう。
基本的にこの映画を肯定してきた。ヒトラーという人物像を描くこと自体を拒否することは、歴史から目をそむけることである。僕はあえてそこまで言いたい。しかし逆の見方をすれば、ヒトラーの最期の日々を描いているために、彼が犯してきた戦争犯罪そのものやなぜどのように彼が権力を手に入れたのかなどはほとんど描かれていない。この映画の真摯さは認めながらも、その点に懸念を感じる人は多い。当然の批判だろう。だが、ヒトラーを肯定していないものであれば、このように彼の個人的な面を描いたものがあってもいいはずだ。全盛時代の彼ではなく自殺直前の彼を描いたことは、国民をひきつけるカリスマではなく打ちひしがれた負け犬の独裁者としての姿を人々の前にさらすことでもある。演壇で手を振り上げて演説する彼の姿に、このうつむき加減の最期の姿を加えることはヒトラーの全体像を捕らえる上で重要な意味を持つ。強制収容所の最高責任者であるヒムラーがほとんど出てこないのは意図的なのか、この点は疑問が残るが。
あるいは、加害者としてではなく、被害者としてのドイツ国民を描いていることに対する批判もある。この考え方には疑問を感じる。被害者としての側面を強調することは必ずしも加害者としての側面を覆い隠すことではない。戦争の場合、純粋な加害者や被害者というものはほとんど存在しない。銃後にいて直接戦場に赴かなかった人でも、何らかの形で戦争に加担している。戦場で何人もの人を殺した兵士も、殺人マシーンに変えられてしまったという意味では(重い戦争後遺症を患うものもいる)被害者だ。勝ち負けにかかわらず、戦争は物質的・精神的に双方の側に多大な被害を及ぼしている。戦争に勝者はいない、そう考えるべきだ。少なくとも、この映画の場合、砲撃にさらされ逃げ惑い、あるいは同じドイツ人に殺されたりするドイツ国民の姿は、例えば強制収容所の蛮行を覆い隠すための隠れ蓑として、あるいは、彼らこそ真の被害者である事を強調する目的で描かれてはいない。
もう一つ、逆に心配なのはヒトラーや第三帝国の末路に同情してしまう見方である。この映画の中のヒトラーを観て悲しくなった、切なくなったという声も一部にある。これは確かに危険である。もちろんその人たちも決してヒトラーを肯定しているわけではないが、この映画に哀れさや悲哀感を感じてしまう。この映画に問題があるとすればこの点だと僕は思う。自分の中に確固としたヒトラーに対する認識が出来上がっていなければ、悲哀感にとらわれてしまう危険性は確かにある。
ヒトラーは「私は世界中から呪われるのだろう・・・」と言い残して死んでいった。最後にソ連映画の傑作「炎/628」のレビューを引用して終わりたい。
主人公の少年は(この時には髪が白くなり、額には皺が深く刻まれ、くちびるは割れてふくれあがり、一日にして老人のようになっている)水溜りに落ちているヒトラーの写真を銃で撃ち続ける。撃つごとに当時のニュースフィルムが逆回転で映される。軍隊は後ろに行進し、投下された爆弾は次々に爆撃機の中に納まる。そしてニュースの中のヒトラーは少しずつ若くなり、最後は母親に抱かれた赤ん坊になる。その時少年は撃つのをやめる。何がこの赤ん坊を誤った信念に取りつかれた独裁者に変えたのか。時間を元にもどしてほしい、失われた家と人々をわれわれに返してほしい、という作者の思いが痛いほど伝わってくる。
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tantanmenさん TB&コメントありがとうございます。
この映画に匹敵する日本映画は確かにありませんね。最近の戦争大作はむしろ戦争を美化しているような気がします。
この映画は、ヒトラーを美化しないのは当然ながら、彼の内面や思想を冷静に抉り出しています。同時に敗北を前にしたナチス高官たちの様々な態度や対応、一般市民の様子などにも目が配られています。敗北直前のベルリンの様子は実にリアルでしたね。
自国の汚点たる歴史を冷静に分析し、同じ過ちを犯すまいとする姿勢に深い共感を覚えました。
投稿: ゴブリン | 2007年10月24日 (水) 01:53
ゴブリンさん,お久し振りです.先週NHK・BSの放送を途中から見て(プロ野球クライマックス・シリーズ観戦のため),慌てて次の日DVDを買って前の部分を見ました.いかにもドイツらしい硬質な作品だったと思います.ヒトラーはフリードリヒ大王の肖像画を飾っていて,奇跡が起きると信じていたようです.この辺りは神風が吹くと幻の戦果を信じたり,スターリンが西郷隆盛に似ているから,ソ連が講和に応じるだろう,と考えた当時の日本とよく似ています.残念ながらこういう映画を日本はまだまだ作れそうにありません.でもドイツも戦後60年を迎え,ようやくタブーを乗り越えヒトラーを真正面から見据えた映画を作ったのですから,日本も頑張って欲しいものです.沖縄戦や,昨年の特攻を扱った映画を見る限り,まだまだ道は遠いのですが.
投稿: tantanmen | 2007年10月23日 (火) 10:14
ほんやら堂さん TB&コメントありがとうございます。
このコメントをいただいて「あれっ」と思いますた。どうもTBを送った記憶がないのです。そちらのブログをのぞいてみたら確かにTBが入っています。しかし、この記事を書いた時TBとコメントを既に入れているんですよね。自分のTBが二つ並んでいるのを見てびっくりしました。う~ん、いよいよボケが始まったか。
それはともかく、ヒトラーがどのように政権に就き、どのように独裁体制を築いていったのかはこれまでも研究されてきたでしょうが、これからも問われるべき課題でしょうね。同じことを繰り返してはいけない。絶えず反芻し、今を省みなければなりません。あちこちで紛争が続き、テロが横行している今、いつヒトラーのような存在が現れても不思議ではありません。そういう意味でもこの映画は深く検討するに値する素材だと思います。
投稿: ゴブリン | 2007年10月 2日 (火) 23:24
ゴブリン様,TB有り難うございました.
ヒトラーの魅力とは何でしょう?
この狂気の人を憎みながらその引き起こしたあまりに悲惨な殺戮に呆然としながら,それにもかかわらずヒトラーに感じる魅力とは,何なのでしょう?
ヒトラーは選挙で政権についたのです.そのことを忘れることはできません.そのことを考え続けなければと,思います.
投稿: ほんやら堂 | 2007年10月 2日 (火) 22:36
linさん コメントありがとうございます。
僕もだいぶ昔に『わが闘争』は読みました。70年代頃でしょうか。一時ブームになったように思います。この本を読むときもそうですが、こちらに確固とした考えがないと引きずられてしまいます。
「ヒトラー最期の12日間」は重苦しい映画ですが、ファシズムを二度と復活させないためにも、僕らはヒトラーの臨終に立ち会わなければならないと思います。彼の断末魔のあがきを冷静に見る必要があります。そして永遠にファシズムを葬り去らなければなりません。
投稿: ゴブリン | 2006年2月 6日 (月) 20:53
こんばんは。
<逆に心配なのはヒトラーや第三帝国の末路に同情してしまう見方である
全く同感です、そういう感想がやはりちらほら見られることも確かですね。前提条件としてヒトラーという人間が犯した罪過或いはナチズムの狂気というものを肝に銘じつつ観るべき作品だと思いました。史実の1ページに対する「ある視点」という原作の方向性を考えれば、言及できない部分があるのはある程度仕方がないですよね。
個人的にはヒトラーの「わが闘争」同様非常に興味深い作品だったです。
投稿: lin | 2006年2月 6日 (月) 18:41
まいじょさん コメントありがとうございます。
このレビューは力がはいっていたので一気に書き上げました。いつも長い記事なのですが、さらに長くなってしまいました。長い上に硬い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
この映画以外のものとあわせてヒトラーを理解することは大事ですね。これだけしか観なければ誤解も生じるでしょう。ただこのような映画をドイツが作ったことは十分称賛に値すると思います。翻って日本のことを考えればお寒い限りです。
もっと多くの人がこの映画を観て、戦争のこと平和のことを考えてくれることを願います。
投稿: ゴブリン | 2006年2月 6日 (月) 00:10
TBありがとうございました。
長い記事ですが、一気に読ませていただきました。この映画に多様な受け止め方があることに配慮されたうえで、ゴブリンさんがご自分のご意見を展開されていることに感心しました。
この映画は、時間的空間的な制約の中で、描くべきことはきちんと描いていたと思います。私たちは、この映画だけをたよりにすることなく、たとえば「白バラの祈り ゾフィ・ショル、最期の日々」や「戦場のピアニスト」などを観ることにより、あるいは当時を記録する書物を読むことにより、歴史を正しく学ぶ必要があると思います。
投稿: まいじょ | 2006年2月 5日 (日) 22:28