皇帝ペンギン
2005年 フランス
監督・脚本:リュック・ジャケ
母ペンギンの声:ロマーヌ・ボーランジェ
父ペンギンの声:シャルル・ベルリング
子ペンギンの声:ジュール・シトリュック
僕は自然や動植物を描いたドキュメンタリーが大好きである。NHKで放送されるBBC製作のドキュメンタリーなどは見つけたら大体観ている。日常から遠く離れた驚異の世界、見たくてもなかなか見られない未知の世界、そこに引きつけられるのだろう。もう20年以上前か、テレビカメラが初めて入って撮った中国奥地のドキュメンタリーには心底驚いた。山水画によく描かれるあのとがったかたちの山が本当に実在している。あんな形の山が本当にあるとは!コナン・ドイルの『失われた世界』にも描かれたギアナ高地の映像も背筋がぞくぞくするほどすごかった。そそり立つ垂直の絶壁。テーブルのように平らな頂上から落ちる滝の水は、あまりの高さに途中で霧のように分散して消えてしまう!そして頂上にぽっかりと口を開けた大穴の中の映像。まさに神秘の世界。あるいはオーストラリアに点在する地下の湖にもぐった映像。子どもの頃に何度も読み返したジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を思い出しながらぞくぞくする思いで観ていたものだ。
神秘的という意味では深海ものもすごい。摩訶不思議な生物たち、温水が噴出している地獄の様な映像。未知の世界にたっぷり浸れる。屋久島を流れる川をずっと源流近くまで遡ったフィルムも圧巻だった。実際に行くことは極めて困難な場所の映像をこの眼で眺められる快感。グランド・キャニオンなどの奇観を眺めると、実際にそこにいる自分を想像してしまうことがよくある。ドキュメンタリーの映像はそれを疑似体験させてくれる。ドキュメンタリーの魅力はそこにあるのだろう。
植物ものも面白い。花粉をどうやって運ばせるか。ほとんど信じられないような様々な工夫をそれぞれの植物がしている。昔天才的な植物がいて、考えに考え抜いて作ったのかと思いたくなるほどの巧妙な仕組み。これまた驚異の世界だった。動物ものも好きだ。頭に角をはやした幻のイッカクの映像、愛くるしいビーバーの生態・・・。
同じ動物ものでもちょっと違う感覚で眺める映像がある。例えば、猿が入浴することで知られる地獄谷の温泉。瞑想するように目を閉じて風呂に浸かっている猿たちの姿を観ているとまるっきり人間と同じである。風呂から上がり、背中を丸めてハアっと一息ついている中年の猿の姿などは、風呂上りのおばさんさながら。あるいは、新聞の書評に誰かが書いていたが、その人が山の斜面に座って夕焼けを眺めていた時、ふと何かの気配に気付いて後ろを振り返ったら、すぐ上の岩に猿が座っており、同じようにじっと夕焼けを眺めていたという話。
これらの猿の話には「皇帝ペンギン」に共通する要素がある。それを一言で言えば動物を人間になぞらえてみてしまうことである。「アトランティス」、「WATARIDORI」、「ディープ・ブルー」、あるいは変わったところでは雲ばかりの映像を集めたベルギー映画「雲 息子への手紙」などと「皇帝ペンギン」が違うのは、「皇帝ペンギン」の場合動物を人間になぞらえてみる意識をうまく映画に取り入れていることにある。動物園で猿山をいくら眺めていても飽きないのは彼らの行動、身振りが人間そっくりだからである。猿は一番人間と比べやすい。以前、死んだ小猿をどうしてもあきらめきれずにいつまでも手から離さない母猿の映像を観て、思わず涙を流したことがあった(興味深いことに「皇帝ペンギン」にも似たような行動が記録されている)。どうしても人間になぞらえて観てしまうからである。ペンギンもあの歩いている姿などは人間そっくりである。時々、足を滑らせてすてーんと転ぶところも人間みたいだ(しかし体が丸いから怪我はしない感じ)。腹ばいからどうやって立ち上がるのかと見ていると、羽根を手のように使って立ち上がっている。これも人間みたいだ。
映画「皇帝ペンギン」はある特定の場面だけを撮るのではなく、ほぼ1年近くを通して子育てをメインにずっとその行動を追っている。そこにストーリーが生まれる。子育ては一番共感しやすいテーマである。しかも天敵から子供を守る戦い、過酷な自然との闘いの厳しさは人間世界の比ではない。子供を必死で守り育てる父ペンギンと母ペンギンの行動には思わず引き込まれてしまわずにはいられない。お父さんたちや子育て中のお母さんたちは必見という感想があちこちででてくるのは、知らず知らずのうちにこの「なぞらえ効果」にすっかりはまっているからである。ストーリー仕立てのナレーションを不必要だという人は多いが、 こう見てくるとあながち不要だとも言い切れない。ナレーションによってペンギンたちの世界が擬人化され、その理解がより容易になるからである。もちろんストーリー化されたナレーションなどなくても、映像を観ているだけで十分彼らの世界に入り込める。なくてもよかっただろうが、あっても僕はそれほど邪魔には感じなかった。ナレーションを用いたもう一つの理由は、親子での鑑賞を想定していて、子供を意識していたからだろう。子供には擬人化したほうがその世界に入りやすい。絵本や児童文学でよく用いられる技法である。他のドキュメンタリー映画と違って、「皇帝ペンギン」には人間の感情を動かす作用がある。ただ観察するだけではなく、感情移入してしまうのである。
もちろん、擬人化は人間の勝手な思い込みである。ペンギンはペンギンの本能に従って昔からの営みを続けているだけだ。ペンギンたちの営みはもう何度もテレビのドキュメンタリーで観てきたのでそれほど驚きはない。だから正直言ってこの映画に付ける点数は高くはない。標準程度である。そうは言っても何度観てもすさまじい世界なのだ。初めて観る人には驚異の映像だろう。あの延々続く行進。何もあんな遠くまで行かなくてもと思うが、安全を考えるとそこまで行かざるを得ないのだろう。短い足でただひたすら歩いている姿を見ると、「誰か送り迎えのバスを出してやれ!」と叫びたくなる。「猫バス」ならぬ、ペンギン様専用冬季限定無料循環バス「ペンギン・エクスプレス」。車内には何十頭ものペンギンが通勤電車のように押し合いへし合いしながら押し黙って立っている。想像しただけで楽しい。
撮影は相当な困難を伴っただろう。牙をむき出したアザラシがカメラに向かって突進してくる映像には思わず身を引いた。あんな映像は初めて観た。アザラシも愛嬌のある生き物だが、ペンギンにとってはライオンの様な恐ろしい天敵だということがぞっとするほどリアルに体験できる。
押しくら饅頭のようにペンギンたちが体を寄せ合って互いを暖め合う姿は何度観てもほほえましい。交代制になっているのには感心する。ペンギンの社会ではまだ「ご近所の力」がちゃんと機能しているのだ。中にはズルをする奴もいるのだろうか?いかん、擬人化のしすぎか。自分と卵の命がかかっているのだから厳しいルールがあるのだろう。
とにかく、彼らの一番の問題は営巣地と餌場が離れすぎているということである。なにしろ片道100キロを歩いて行き来するのだから、観ているこっちがもどかしくなるほど不便だ。これに比べたら「裸の島」(新藤兼人監督)の水汲み労働など楽なものに思えてくる。
求愛シーンもこれまたなんとも愛らしい。オスとメスが向かい合ってくちばしの先を合わせているシーンはしばらくストップモーションで観ていたいと思うほど素晴らしい絵になっている。人間のキスシーンそっくりで、「ET」の指と指をあわせるシーンよりも感動的だ。
南極の自然の美しさと過酷さ、雛たちの可愛らしさ(親の腹の下からちょこっと顔を出す雛の愛らしいこと)と非情な生存への戦い(鳥に食べられた雛の映像に「あの子は海を見ることができないんだ」のナレーション)、涙ぐましい親たちの努力(片道100キロの旅、マイナス40℃という信じられない寒さ、時速250kmのブリザード、120日間の絶食、天敵との戦い、等々)。過酷な条件を無事生き抜いた雛たちは初めて見る海に次々と飛び込んでいく。ばたばたしていて泳ぎがぎこちない。その海で生き残ったものたちはまた親たちと同じように海から上がり、長い旅に出る。ペンギンたちはこの危険で長い旅を毎年毎年繰り返してきた。命を生み育てるという行動が人間を含めたすべての生き物の本源的営みである事にあらためて気付かされる。いろいろなことを学べる映画である。現実こそが何よりも雄弁な教科書なのである。
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コメント
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YOUさん はじめまして。コメントありがとうございます。
確かにペンギンはパンダやコアラのような「スター」ではないですが、サル山と同じで足を止めて眺めてしまいますね。あのよちよち歩く愛らしい姿が見る人をひきつけるのでしょう。その可愛いペンギンたちが南極であのような過酷な子育てをしている!愛らしさだけではなく命がけの子育てを描いたことがこの映画の魅力ですね。
投稿: ゴブリン | 2006年3月 6日 (月) 21:05
はじめまして私YOUと申します。
ペンギン、水族館にいくとかなりペンギンというのは人気のある動物のような気がします。たいていの人が足を止めてペンギンの行動を見てしまいますよね。私もその中の一人だったりしますが・・・(笑)
投稿: YOU | 2006年3月 6日 (月) 05:05