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2006年2月

2006年2月27日 (月)

ビューティフル・ピープル

relief 1999年 イギリス
監督:ジャスミン・ディズダー
原題:Beautiful People
製作:ベン・ウールフォード
脚本:ジャスミン・ディズダー
撮影:バリー・アクロイド
美術:ジョン・ヘンソン
音楽:ゲイリー・ベル
出演:シャーロット・コールマン、チャールズ・ケイ
    ロザリンド・アイルズ、 ロジャー・ソロモン
    ヘザー・トビアス、ダニー・ナスバウム
    ショパン・レッドモンド、ギルバート・マーティン
    スティーブ・スウィーニィ リンダ・バセット、ニコラス・ファレル
    ファルーク・ブルティ、ダード・イェハン、 エディ・ジャンジャーノヴィテ

  ボスニア紛争。ベトナム戦争以来さまざまな戦争や地域紛争がテレビなどで報道されてきたが、ボスニア紛争ほど見ていて気の滅入るものはなかった。ついこの間まで近所付き合いをしていた同士が敵味方に分かれて殺しあっている。街がそのまま戦場と化し、双方の狙撃兵が潜んでいるためにちょっと買い物に行こうと道をわたるのも命がけになる。狙撃兵に撃たれて道に倒れている人を助けに行くことすらできない。テレビ画面に映る破壊されたビル、物陰に隠れながら腰をかがめ一気に道を駆け抜ける人々。絶えず遠くや近くで銃声や砲声が鳴り響いている。老人も子供も関係ない無差別の殺戮。そこに映っているのは映画やテレビドラマの作られた映像ではない。まさにその時地球上のある場所で起こっていた現実である。

  冷戦が終わった頃、次は民族や宗教がらみの地域紛争が多発するだろうとテレビで専門家が話していた。残念ながらその予想は現実になってしまった。多民族が共存していたユーゴスラビアの内戦は中でも深刻だった。また、ボスニア後も民族紛争は絶えない。この現実をどう受け止めるのか。報道関係者は現地に入り、「現実」をカメラに写し取った。自分の目で見たこと、市民が語ったことを記事に書いてきた。では映画はこれをどう描くのか。

  アメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵には顔がない。ただ銃弾や砲弾を受けてばたばたと倒れるだけである。たとえ戦闘後に倒れているドイツ兵の顔を身近に見たとしても、そこに何の感慨も沸かない。彼らは単に「敵」という文字で一括りにできてしまうからだ。顔がないというのはそういう意味である。これがボスニアだったらどうか。あちこちに倒れている「敵」の死体の顔をのぞいたら、隣の雑貨屋の親父さんだったり、いつもパンを買いに行く店の長男だったり、前を通るといつも声をかけてくれた花屋の若奥さんだったりするかもしれない。だからやりきれないのだ。

  もちろん顔のない「敵」なら殺してもいいということではない。どんな戦争でも悲惨でないものはない。隣人だったものが互いに争うというのは第二次大戦末期のトスカーナ地方を舞台にした「サン★ロレンツォの夜」にも出てくる。「ブコバルに手紙は届かない」の主人公であるセルビア人トーマの妻、クロアチア人のアナを戦時の混乱の最中にレイプしていったのは同じクロアチア人だった。あるいは、だいぶ前に新聞の投書欄に載っていた話はさらに悲惨だ。中国からの引き上げの最中にたまたま井戸の近くを通ったら、井戸の中から子供の声がする。中をのぞくと「おかあちゃん、何でも言うことを聞くから助けて頂戴」と子供が泣き叫んでいる。子供を抱えては逃げ切れないと思った親たちが、敵兵に殺されるよりはと胸を引き裂かれる思いで子供たちを井戸に投げ込んでいったのだろう。最後に捨てられて子供はかろうじて水面から頭が出せたので死ななかったのである。発見した人は助けてやってほしいといったが、彼らとてこれ以上の負担は背負えない。一人の兵隊が断腸の思いで井戸に手りゅう弾を投げ込んだ。

  これは悪夢ではない。悪夢であってくれたらどんなに気が楽か。悪夢なら覚めることができる。現実に起きた出来事は消したくても消せない(もっとも悪夢もそれを生み出したおぞましい記憶が消えない限りいつまでも付きまとうのだが)。ルポルタージュの迫真性と迫力を感じ、フィクションの無力さを感じるのはこういう現実を前にしたときだ。人間はこの悲しみを乗り越えられるのか?フィクションはこれを乗り越える力を人間に与えられるのか?われわれはこの問題を真剣に問い続けなければならない。

  ボスニア紛争を題材にした映画は、僕が観ただけでも「ブコバルに手紙は届かない」(94)、「ビフォア・ザ・レイン」(94)、「ユリシーズの瞳」(96)、「パーフェクト・サークル」(97)、「ノー・マンズ・ランド」(01)などがある。他に未見のもので「ボスニア」(96)と「ウェルカム・トウ・サラエボ」(97)がある。いずれも観終わった後に暗澹たる気持ちにならないものはない。哲学的に考察を深めようが、怒りに体を振るわせようが、観ている自分たちにはどうすることもできないもどかしさ。戦慄すべき現実。どこにも逃げ場がない恐怖と絶望感。どうしても断ち切れない憎しみの連鎖。

  作品の出来具合にかかわらず、現実の重みはひしひしと伝わってくる。それでもフィクションの限界はある。この種の作品には現実の悲惨さはそんなものではないという批判が常にある。現実をリアルに描くことはもちろん必要だ。現地で生活している人たちは自分た066429 ちの置かれている悲惨な現状を知ってほしいと思うだろう。しかしだからといって悲惨な現実をただ悲惨に描けばいいのか。あなたたちの悲惨さはわかった、お気の毒に。こう言ってくれれば心は癒されるのか。彼らに必要なのは希望である。絶望とともに人間は生きられない。希望がなければ現実の厳しさに耐えられない。フィクションの可能性はそこにある。

  人間に耐えられないような悲惨さを描くときの描き方には様々なアプローチがありうる。悲劇として描く方法。この場合はカタルシスがうまく伴わなければ暗澹たる結末となる。人間の愚かさを徹底して批判的に描く方法。この場合は批判するものの寄って立つ立場が重要となる。なまくらな刀で切るには相手が固すぎる。あるいは批判ではなく風刺する方法。これは文字通り人間の愚かさというバカの壁をあぶりだす。しかし救いは少ない。そして悲劇的現実を通過した後の希望を描く方法。バカの壁は人間の作った壁である。人間の作った壁なら人間の手で突き崩すこともできるはずだ。これは描き方によっては喜劇になる。「ビューティフル・ピープル」はその最後のカテゴリーに属する作品である。

  「ビューティフル・ピープル」はロンドンを舞台に、戦乱を逃れてイギリスにやってきたボスニアの人々とイギリスの人々との出会いを描いたコメディ調の映画である。ボスニア問題を喜劇として描いた作品は僕の知る限り他にない。ナチス占領時代のチェコスロバキアを描いた「この素晴らしき世界」や韓国の軍事政権時代を描いた「大統領の理髪師」がコメディ・タッチを作品にこめられたのは、描かれた時代との距離があったからである。「ビューティフル・ピープル」の場合は時間ではなく地理的な距離があった。ボスニア問題を現地ではなくロンドンで描いた。地理的な距離を置くことによって悲劇を喜劇的に描くことが可能になったのである。この点をジャスミン・ディズダー監督自身(1961年ボスニア生まれ、1993年に英国に帰化)は次のように語っている。

  「確かに深刻な問題を扱ってはいるけど、声高に戦争反対を叫ぶような作品じゃない。僕が描きたかったのは、ロンドンに住んでいる人間群像、ボスニア戦争に対するこの街の反応なんです。自分では悲劇についてのコメディー、人間喜劇と思っている。カンヌ映画祭でも、観客は心から笑ったり、感動してくれました」

  「ビューティフル・ピープル」のストーリーの展開は、5つのエピソードが互いに幾分重なり合いながら並行して進行するという、最近よく見かける形式をとっている。その結節点となっているのはロンドンとボスニアの二つの病院である。キーワードは「ケイオス(混沌)」と「ライフ」。この2つを結び、かつ5つの中で最も感動的なのは子供を堕ろして欲しいと医者に頼むボスニア難民夫婦のエピソードである。産婦人科医モルディ(ニコラス・ファレル)は不審に思い二人に理由を聞く。夫は自分の子ではないというだけでなかなか真相を言わない。実はこの子供はボスニアにいるときに相手の兵士にレイプされてできた子だったのである。なんという人生なのか。祖国で悲惨な経験をした難民たちは、たとえロンドンに移り住んでいたとしても、祖国で身と心に刻まれた傷と苦悩を引きずってゆかざるを得ない。彼らは体と一緒に苦悩と悲しみをロンドンに持ってきたのである。戦争は人間の心の中に憎しみと苦悩の種を植え付けるのだ。

  モルディ(彼自身も妻と離婚し、二人の子供を妻に奪われるという苦悩を背負っている)は二人に産む事をすすめる。悩んだ末夫婦は子供を産む決心をする。彼らはおそらくボスニアで多くの肉親や友人たちを失ってきたのだ。どんな子であれ生き、そして幸せになる権利がある。彼らは新しい命とともに生きてゆかねばならない。生まれた子供は「ケイオス(混沌)」と名づけられた。モルディはこの夫婦を自分の家に引き取る。ケイオスという象徴的な名前をつけられたこの子の眼に世界はどう映るのか。複雑な血を受け継いでいるという意味でも、彼の誕生は世界のねじれの結果であるという意味でも、彼の存在自体が混沌である。にもかかわらず、われわれはこの子に希望を託したい気持ちになる。この子はすでに奇跡を起こしている。苦悩していた両親に生きる希望を与えたのだ。彼の誕生は両親の体から「憎しみと苦悩の種」を消し去ったのである。

  どれほど悲惨な目にあっても人生は生きるに値する、人生は変えることができる、ボスニア難民の夫婦はこういう結論に達した。同じように「人生」の意味を問うたのはやはりユーゴからの難民であるペロ(エディ・ジンジャーノヴィテ)である。役所で生活保護手帳を受け取ったとき、役人が「これはあなたのLIFEですよ」と念を押す。英語がよくわからないペロは周りの人に「LIFE」とはどういう意味かと聞いて回る。しかし誰も教えてくれない。相手にもしてくれない。これは単に英語の問題ではなく、観るものに「生命」とは、「人生」とは、「生活」とは何かを問いかけている。秀逸な設定である。

  ペロは車にぶつけられ入院する羽目になる。そこでインターンのポーシャ(シャーロット・コールマン)と出会い、恋に落ちる。ここから彼の人生は変わり始める。ポーシャの父親は議員で、家は上流家庭である。父親がテレビで語っている言葉にはまったく実質がない。彼はポーシャの家に招かれるが、ポーシャの家族はみすぼらしい身なりの彼を小馬鹿にしたxclip-r1 ような目で見ている。「ビューティフル・ピープル」はボスニア難民ばかりではなく、イギリスの階級社会も視野に入れ、民族、階級、貧富の差、世代間のギャップ、そして難民に対する偏見や差別なども抉り出してゆく。

  二人は何とか結婚にこぎつける。結婚式のスピーチでペロは、自分はボスニアで人を殺したと告白する。いっせいに身を引く参列者たち。「LIFE」と書かれた紙切れを内ポケットから取り出して、「僕はみんなと一緒だ」と話すが、周りの人たちは銃を取り出したと思って後ずさる。

  ペロは唯一の理解者ポーシャと出会い、自分の人生を変えた。だが周りは簡単には変わらない。ペロがユーゴスラビアの地図と昔の写真を示しながらポーシャに語るシーンが印象的だ。ユーゴスラビアはもう存在しない。兵士だった自分の姿も過去のものだ。彼は今ロンドンに住み、新しい人生に踏み出し、自分の生活を変えようとしている。何人もの命を過去に奪ったことを認めつつ、いつまでも過去を引きずっていないその姿勢に共感できる。人生は作ってゆくものなのだというメッセージがここに込められている。彼の生きる姿勢に様々な意味の「LIFE」が表れている。

  残りの3つのエピソードは簡単にまとめよう。3つ目のエピソードはボスニアが舞台。BBCの特派員ジェリー(ギルバート・マーティン)がボスニアの野戦病院を取材した時、麻酔なしで足を切断する場面に出くわす。帰国後彼は重いボスニア症候群にかかってしまう。自分を過度にボスニアと同化させた結果、彼は精神のバランスを失い、自分も足を切ると言い出して周囲を困惑させる。幸い催眠術による治療を受けて彼は回復する。ここではボスニアでの現実をわれわれがどう受け止めるのかという問題が提起されている。

  その野戦病院に一人のイギリス人青年がいた。親からどうしようもないバカ息子と思われているジャンキー青年グリフィン(ダニー・ナスバウム)である。オランダまでサッカー観戦に行ったあげくパブで麻薬を打ってフラフラになる。空港で飛行機ではなく国連軍機の救援物資のカーゴにもぐりこんで熟睡してしまい、ボスニアの真只中に投下される。目が覚めたらそこはボスニアだった。わけがわからないまま例の野戦病院まで来て、手術に立ち会うが、たまたま持っていたヘロインを麻酔代わりに提供する。それをその場にいたBBC特派員のジェリーが特種として報道して話題になってしまう。ボスニアでの悲惨な現実にグリフィンの人生観が変わってしまい、帰国の際にはボスニアから目を負傷した孤児の少年を引き取って連れてくる。それまでバカ息子扱いしていた親たちも彼をヒーロー扱いする。彼のジャンキー仲間までグリフィンが連れてきた子供に親切に接するようになる。これが4つ目のエピソード。

  5つ目のエピソードは映画の冒頭から展開される。ロンドンのバスのなかでたまたま出会ったクロアチア人(ファルーク・プルティ)とセルビア人(ダード・イェハン)が突然喧嘩を始める。同郷で顔見知り同士だったのだろうが、その後の紛争で敵同士になったものと思われる。結局二人は大怪我をして同じ病院に運ばれ、同じ病室に入院する。たまたまイングランド人に憎しみを抱くウェールズ人爆弾魔も同室だった。最初に喧嘩を仕掛けた男は病室の中でも相手の男が体につけている装置の管をはずして殺そうとする。しかし温厚なイギリス人看護婦が間に入り、最後には仲良く4人でトランプをする。

  最後の二つのエピソードがもっぱらコメディ的な要素を担っている。互いに憎みあっていた同士が、ウェールズ人爆弾魔も含め、仲良くトランプをしているラストをどう受け止めるのか。ボスニアで地獄を見てきたグリフィンばかりでなく、彼の不良仲間まで優しくなってしまうことをできすぎだと受け止めるのか。最初の二つのエピソードがハッピー・エンディングになるのは比較的自然である。したがって、最初に提起した悲惨な現実を描きつつ、そこにとってつけたものではない希望をどう描くのかというテーマの試金石となるのは、最後の二つのエピソード、特に5つ目のエピソードである。これをあまりに都合のいいありえないエンディングと取るのか、希望を込めた感動的な終わり方と取るのか、最終的には観る側の判断になる。それが実際にはありえない結末であることはおそらく誰も否定しないだろう。憎しみ会う二人の男たちに埋め込まれた「憎しみと苦悩の種」はそんなに簡単に消え去りはしない。問題はあえてありえないエンディングにした製作者たちの意図にわれわれがどれだけ共感できるかである。製作者たちは仲良くトランプに興じる4人の姿に憎しみと対立を超えた平和共存の可能性を描きこもうとしている。希望は作り出してゆかなければならない。憎しみは克服出来る。これをどう受け止めるのか。

  この映画を甘いとする批判を僕は否定しない。映画の構成もいろんな問題を入れ込みすぎて必ずしもうまく消化し切れていない。映画の出来としても決して完璧ではない。やはり結論を急いでいることは否めないからだ。しかし互いに並んで病床に横たわりながらもなおも相手を殺そうとする男を見て、何とかその憎しみを断ち切れないものかと僕は思った。だから最後に4人がトランプをしているシーンはさわやかだった。僕は思う。この作品が決して完璧ではないことを認めつつも、そして現実がそれほど甘くないことを認めつつも、やはりここに込められた希望に託してみたいと。「ほんのちょっと運が味方すれば、人生は美しくなる」というモルディ医師の最後のセリフを僕は信じたい。悲劇を知っているからこそ希望が必要なのだ。

2006年2月26日 (日)

リンダ リンダ リンダ

fuwa_heart1 2005年 日本
監督:山下敦弘
脚本:向井康介、宮下和雅子、山下敦弘
プロデューサー:根岸洋之、定井勇二
音楽プロデューサー:北原京子
撮影:池内義浩 
美術:松尾文子 
バンドプロデュース:白井良明
出演:ぺ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織
    三村恭代、湯川潮音、山崎優子、甲本雅裕
    松山ケンイチ、小林且弥、小出恵介、三浦誠己
    りりィ、藤井かほり、近藤公園、ピエール瀧
    山本浩司、山本剛史

 

  「リンダ リンダ リンダ」は「スウィングガールズ」同様ラストのコンサートで山場を迎える。ブルーハーツの「リンダリンダ」を爆発的に熱唱するのだが、途中の練習場面では最後まで歌わない。おいしいところは最後までとっておきましょう、という感じでお預けにされてしまう。最後まで引っ張りに引っ張って山場に突入するという形になっている。いや本番のコンサートでも肝心の主人公たちは連日の徹夜での練習がたたって家で寝過ごしてしまう。その間今村繭(湯川潮音)と中島田花子(山崎優子)が間を持たせるために歌を歌う。しかしこれがまたすばらしい。山場はすでにここから始まっていたと言ってもよい。山崎優子が野太いハスキー・ボイスで歌うフォーク調の曲がなかなか聞かせる。何年か留年しているという設定で、その堂々とした落ち着きぶりは到底高校生には見えないのがご愛嬌。ステージでの歌いっぷりもプロ並みの(実際プロだが)落ち着きと迫力。

  また、湯川潮音の歌う”The Water Is Wide”がこれまた絶品。透き通るような声が柔らかなこの曲に見事にマッチしている。この曲はもともと作者不詳のアイルランド民謡で、僕の高校時代のアイドルだったPPM(ピーター・ポール&マリー)が”There Is a Ship”というタイトルで歌ってヒットさせた。高校生のときに買ったレコード「ベスト・オブ・ピーター・ポール&マリー 第二集」に入っていて、あの頃何度も聞いたものだ。ずっとCDを探しているが、いまだに見つからない。同じものは出ていないのかもしれない。ただこのレコードの収録曲の一部はライブ音源で、それらはPPMの2枚組みCD「イン・コンサート」に収録されている。”There Is a Ship”もその中に入っている。中古店で見つけたときは飛び上がるほどうれしかった。もう1枚挙げるならカーラ・ボノフの名盤「ささやく夜」に収められた"The Water Is Wide"。こちらもしっとりとした味わいでおすすめ。

  湯川潮音は名前しか知らなかった。実際に歌を聞いたのはこの映画が最初。映画だけの印象で言えば第二の白鳥英美子という感じだ。「天使の歌声」という呼び名がともに似合う。そういえば白鳥英美子の「Re-voice 白鳥英美子ベスト」に収録されている「ソレアード」という曲も”There Is a Ship”を思わせる、ゆったりとした美しいバラードである。彼女がソロになったのはもうだいぶ前だが、僕が高校生のころは(70年代初頭)「トワ・エ・モア」というデュオを組んでいた。PPM、「トワ・エ・モア」、そして「リンダ リンダ リンダ」に出てくる文化祭でのコンサートとくれば、いやでも僕の高校時代が思い出される。僕は高校のとき音楽部に属していた。いろいろな催しがあるとよく体育館のステージで歌ったものだ。ビートルズ、サイモンとガーファンクル、トニー・オーランド&ドーン、フィフス・ディメンションそしてPPMなどをよく歌っていた。僕の高校ではどういうわけか文化祭は3年に1回で、僕の場合1年生のときに回ってきた。部室を黒い紙で覆って真っ暗にしてレコード・コンサートをやった。今思えばただレコードをかけているだけの単純なものだったが、部室に泊り込んで同輩や先輩たちと一晩中話し合っていたことが懐かしい(そういえば「リンダ リンダ リンダ」にも主人公たちが夜部室に忍び込んで音を立てずに静かに練習する場面が出てきた)。

  さて、肝心の「リンダ リンダ リンダ」。ひょんなことからバンドのヴォーカルを務めることになった留学生のソン(ペ・ドゥナ)、短気だがリーダーとしてしっかりしているギターの立花恵(香椎由宇)、ほんわか・のほほんムードの愛らしいドラマー山田響子(前田亜季)、ベーシストらしい控えめで縁の下の力持ち的存在である白河望(関根史織)。4者4様の個性をうまく描き分けている。しかしなんといっても「リンダ リンダ リンダ」を支えているのはペ・ドゥナだ。日本映画に韓国人俳優が出演するのは小栗康平監督の「眠る男」で眠る男を演じたアン・ソンギくらいだったが、山下監督のオファーでついにペ・ドゥナの日本映画出演が実現した。特筆すべきことである。ペ・ドゥナは「ほえる犬は噛まない」と「子猫をお願い」それに「リンダ リンダ リンダ」しか観ていないが、もう7、8本は観ている感じがする。それほど一度観たら忘れられない独特の存在感を持っている。もともと少しテンポのずれた感覚が持ち味だが、日本語がうまく話せない留学生という設定がそれを増幅している。そこからいろいろ独特の笑いが生まれる。たとえば、カラオケの店員とのやり取り。歌いにきたのだからドリンクはいらないと粘るソン(水のペットボトル持参)、店員も飲まないと歌えないんですよと頑張る。何とか入れたと思ったら、「リンダリンダ」ではなく韓国語で「Can you celebrate?」を陶酔した感じで熱唱している(笑)。男子生徒に告白されても、何それって感じでさっぱり反応を示さない場面も面白い。それでいて他人の恋路には興味深々。しっかりと覗き見している。

  可笑しさだけではなく感動的な場面もある。たとえば、ソンが初めて「リンダリンダ」をヘッドホンで聞いて涙を流す場面。とても印象的だ。あるいは仲間から一人抜け出して本番の舞台shelfとなる体育館のステージに上がり、誰もいない大きな空間を眺めるシーン。おそらく彼女はこれほど充実した日を日本に来てから送ったことはなかったのだ。うまく歌えるか不安
であると同時にうれしくて興奮してもいる。彼女の背中にそれが表れている。ソンは誰もいない観客席に向かってバンドのメンバーを紹介し始める。「ドラム!練習さぼるけど、かわいい響子!・・・そしてボーカル。ソン!イエィ、行くぞ~」そして歌い始める。「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真にはうつらない美しさがあるから~♪」この映画で最も感動的な場面だ。

  本番の日、眠気覚ましに恵とソンがトイレで顔を洗うシーンもいい場面だ。先に声をかけたのはソンだ。「ありがとう。バンド誘ってくれて。」恵「ありがとうね。ソン。メンバーになってくれて。」ソン「ありがとう同士だ。」ペ・ドゥナはあるインタビューで「韓国の女子高生たちは勉強することに忙しくて私も青春を謳歌したことがない。映画で実際とは異なる女子高生を体験できてよかった」と答えている。文化祭では「日韓交流のブース」を任されているが、ほかの生徒はさっぱり関心を向けず、ソンはいやいやながらやっている。交流の部屋では居眠りばかり。バンド仲間は留学して初めてできた日本人の友達だった。彼女の感謝の気持ちは心からのものだろう。

  ブルーハーツをやることになったきっかけもまた面白い。古いダンボール箱を開けてみるとカセットテープがたくさん入っていた。ジッタリンジンの「あなたが私にくれたもの キリンが逆立ちしたピアス」という歌詞が話題になり、テープを聴いてみることにしたが、なんと流れてきたのはブルーハーツの「リンダリンダ」だった。一気に彼女たちは乗りまくってしまうという展開。ジッタリンジンが懐かしい。僕が東京から長野県に移る前後に爆発的にはやっていたTV番組「イカ天」(正式には「平成名物TV・いかすバンド天国」)で出てきたグループだ。司会は三宅裕司と相原勇。この番組のおかげで当時ものすごいバンドブームになった。沖縄のバンド「ビギン」もこの番組で出てきたグループだ。

  いい場面があちこちにちりばめられているが、全体としてみるとかなり中だるみしていると言わざるを得ない。「リアリズムの宿」で見せた独特の「間合い」やズレた感覚の笑い(よく「オフ・ビート感覚」と言われる)はここでは必ずしも効果を発揮していない。不思議空間ではなく女子高校生のごく日常的な感覚をリアルに描こうとしているからであり、最後の最後に盛り上がりを持ってきているので途中が間延びしているように感じてしまうからである。この辺は実に微妙だ。日常のリアルな生活感と間延びしたダラダラ感は紙一重だ。最後の山場までの描写は「犬猫」に近い。「珈琲時光」ほど何事もなく淡々としてはいないが、一方で「リアリズムの宿」のような非日常的な日常性、あのまっこと不思議な感覚でもない。無駄だと思える描写も多い。たとえば、冒頭と最後の頃に出てくる、文化祭実行委員と思われる男子生徒が女の子のビデオを撮っているシーン。なくても一向に差し支えない。終始淡々と乾いた笑いを交えつつ描くのならいいが、クライマックスを最後に設定しているだけに途中の盛り上がりも必要だった。ダラダラしたシーンをもっと切り詰め、その分何かを付け加えるべきだった。最後の盛り上がりを除いて全体にテンポが遅い。そこに山場での盛り上がりとの齟齬がある。たとえば、「ボレロ」のように少しずつテンポが速まり、次第に盛り上がってゆく演出にすればもっと引き締まった作品になったのではないか。テーマ・ソングであるブルーハーツの「リンダリンダ」は最初ゆっくりと始まり「リンダリンダ」で一気に盛り上がる。それが何回か繰り返されつつしだいに盛り上がってゆく構成だ。映画もそれに合わせるとよかったかもしれない。逆に日常のリアルな生活感を強調したかったならば本番の場面はさっと流し、文化祭後の場面も入れて終始淡々と描くべきだ。やたらと小ネタを交えて大げさに描いた「スウィング・ガールズ」に比べると、「リンダ リンダ リンダ」はなんでもないあたりまえな感覚や雰囲気にあふれ、格段にリアリティがある。その一方でダラダラとした展開が間延びした感覚を覚えさせる。やはり全体の構成に問題があるのだ。

 「スウィングガールズ」や「リンダ リンダ リンダ」のような元気な女の子がはじける映画が出てきたのはある意味で現実を反映しているのだろう。現実世界でも映画の中でも若い男たちは押しなべて脱力系である。女の子のほうが元気だ。音楽系の映画では「青春デンデケデケデケ」という映画があったが、これは時代がだいぶさかのぼる。男の子にまだ夢があった時代だ。今の男子はでれでれダラダラと情けないことこの上ない。そうしている間に女性がそれまで男子だけだった世界にどんどん入り込んでくる。

 この傾向は「リンダリンダ」をテーマ曲に選んだことにも反映している。「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真にはうつらない美しさがあるから~♪」と女の子たちが大声で歌う。ドブネズミを美しいという感覚。「写真にはうつらない美しさ」とは外面とは違う美しさを指している。カッコばかりにこだわるやわな男どもを尻目に女の子たちは目標を持ち着実にそれに向かって前進している。男どもがでれでれぐずぐずしているのは目標がないからだ。テレビドラマにそういう男がやたら出てくる。何かというとすぐ怒鳴ったり切れたりするのは弱さの表れだ。言い方を変えれば、女子のほうが大人なのだ。

  バンドのリーダー格である香椎由宇がその辺をよく体現している。バンドの創設メンバーでリードギターを務めていた丸本凛子(三村恭代)との確執を乗り越えて(いずれ仲直りする気配だ)、練習場を確保したり仲間を束ねたりと頑張っている。それでいてシャカリキでないところがいい。肩の力が抜けているということであって、決して脱力系ではない(「あ~あ、もうやめようよ」なんて誰も言い出さない)。顔がでかくやや太めの足がどっしりとした安定感を与える。しかもなかなかの美人だ。ギターを弾いている姿も結構様になっている。他のメンバーを含め、普通の女子高校生として実に自然に見える。「チルソクの夏」で感じた演技の未熟さはまったくない。これだけ様々なタイプの女の子をそろえ、しかもどの子も他の子の中に埋もれていない。この映画の成功の一部はキャスティングにあると言ってもいいだろう。

2006年2月24日 (金)

最近観た映画とドラマより

edamame2   22日に「エターナル・サンシャイン」を観た。いつ行ってもレンタル中でなかなか借りられなくて、観るのがこんなに遅くなってしまった。散々待たされた分ずいぶん期待して観たのだが、これまた「チャーリーとチョコレート工場」同様期待を大きく下回ってしまった。しかしレビューをまだ載せていないのは、観たときのコンディションが悪く、期待したほどではないという印象がコンディションのせいなのか映画のせいなのかはっきりしないからだ。このところ忙しくて疲れがたまっていたので、「エターナル・サンシャイン」は二日に分けて観た。しかもビールを飲みながら二日とも夜中に観ていたので、観終わった翌日にはかなり記憶が薄れていた。大筋はおぼえているのだが、細かいところがはっきりしない。どうやら夜中に「ラクーナ社」の連中が来て、頭にあのヘルメットの様なものをかぶせて記憶を半分くらい消して行ったようだ。これではとてもレビューをかけないので、そのうちもう一度「素面の状態で」観直してからレビューを書くことにした。

  23日の夜中は、懲りずにビールを飲みながら、「ER」第10シーズンの5、6巻を観た。ロマノが死ぬ回はすごかった。病院の屋上のヘリポートからヘリが飛び立った後、バランスを崩して地上に墜落。ロマノはその下敷きになった。普段から猛烈に混み合っているERだが、病院の目の前にヘリが墜落したのだからたまらない。滅茶苦茶な大混乱、てんてこ舞いのすさまじい状況になってしまう。長いシリーズ中でも傑作として記憶に残る回となった。

  次の巻の冒頭でロマノの死が話題になっているが誰も無関心。葬儀の挨拶を頼まれた者は次々に人に回してしまう。結局ほとんど誰も葬儀には行かなかった。ただひとり、葬儀委員長を引き受けたエリザベスだけが病院前に置かれた花束の前にじっとたたずんでいる場面が印象的だった。ロマノは本当にいやな奴だったが、ここまで冷たくするのはあんまりだと思った。日本人なら形だけでも参列しただろう。そういえば、死ぬ前の彼はいつにもまして毒舌をあたり構わず吐きちらしていた。ほとんど性格破綻者になっていた。いろんな意味でもう限界だったのかもしれない。  

 それにしても第10シーズンまでドラマとしての水準を維持しているのは奇跡的だと言っていい。最初のメンバーのうち残っているのはカーターとスーザンだけ。主要メンバーはごっそり入れ替わったが、ドラマは少しも陳腐化していない。驚くべきことだ。よほど脚本がしっかりしているのだろう。ER内ばかりではなく、各登場人物の私生活や恋愛も絡ませ、ドラマに厚みを持たせている。第9シーズンあたりからコバッチュとカーターがコンゴに行くなど、新しい展開もみせている。コンゴのシーンは観ていてつらくなることが多い。内乱が続きボランティア医師たちは命の危険を冒して医療に従事する。薬も医療機器も資金も不足している。物があふれたアメリカと意識的に対比されている。この展開が見事である。

  新しいインターンとしてインド系の女の子が出てくるが、なんとこの子は「ベッカムに恋して」で主演したパーミンダ・ナーグラだった。友人に指摘されて初めて気づいた。すっかり大人になり、綺麗になっていたので全く気づかなかった。順調にキャリアを伸ばしているようなのでとてもうれしい。ドン・チードルがパーキンソン病にかかっているインターン役で一時出てきたりと、配役にも工夫を凝らしている。このシリーズ一体いつまで続くのか。アメリカ製TVドラマの質の高さにただただ驚嘆するばかりだ。

  今日は「リンダ リンダ リンダ」を観た。最近新作のレンタル料金が安くなったので結構新作で借りてくることが多くなった。これもDVDが出るのを心待ちにしていた映画。期待通り最後のライブでぐっと盛り上がった。ただ途中は中だるみを感じた。クライマックスを最後に持ってくるために思いっきり歌う場面は最後までお預けという形になっている。したがって練習風景もそれほど多くはない。必要ないと思えるカットが結構あると感じた。「リアリズムの宿」にあったあの独特の間はここでは生かされていない。しかし映画としての出来はなかなかいい。「スウィング・ガールズ」と並ぶ「青春女の子バンド映画」の代表作になった。といってもこの2本しか知らないが。どこから見ても美人に見えないペ・ドゥナと顔が大きく足が太めの香椎由宇がいい。これは「素面」で観たので近々レビューを書きます。

2006年2月22日 (水)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(06年3月)

【新作映画】
 「アメリカ、家族のいる風景」(ヴィム・ヴェンダース監督)  
 「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」(ニック・パーク監督)  
 「ザ・コーポレーション」(マーク・アクバー、ジェニファー・アボット監督)
 「シリアナ」(スティーブン・ギャガン監督)
 「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(トミー・リー・ジョーンズ監督)
 「力道山」(ソン・ヘソン監督)
 「ブロークバック・マウンテン」(アン・リー監督)
 「春が来れば」(リュ・ジャンハ監督)
 「雨の町」(田中誠監督)
 「ククーシュカ ラップランドの妖精」(アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
 「リトル・イタリーの恋」(ジャン・サルディ監督)

【新作DVD】
3月3日
 「メゾン・ド・ヒミコ」(犬童一心監督)
 「コープス・ブライド」(ティム・バートン監督・製作)
3月10日
 「レオポルド・ブルームへの手紙」(メヒディ・ノロウジアン監督)
 「私の頭の中の消しゴム」(イ・ジェハン監督)
3月17日
 「銀河ヒッチハイク・ガイド」(ガース・ジェニングス監督) kagami_piano_01
3月24日
 「記憶の扉」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)
 「クレールの刺繍」(エレオノール・フォーシェ監督)
 「親切なクムジャさん」(パク・チャヌク監督)
3月25日
 「ニワトリはハダシだ」(森崎東監督)
3月30日
 「愛についてのキンゼイ・レポート」(ビル・コンドン監督)

【旧作DVD】
3月10日
 「洲崎パラダイス 赤信号」(川島雄三監督)
 「天国は待ってくれる」(エルンスト・ルビッチ監督) 
 「メル・ブルックスのサイレント・ムービー」(メル・ブルックス監督)
 「メル・ブルックスの大脱走」(メル・ブルックス監督)
3月25日
 「結婚哲学」(エルンスト・ルビッチ監督)  
 「ベリッシマ」(ルキノ・ヴィスコンティ監督)
 「メリィ・ウィドゥ」(エルンスト・ルビッチ監督)
 「ルイス・ブニュエルDVD-BOX①」(ルイス・ブニュエル監督)

2006年2月21日 (火)

チャーリーとチョコレート工場

hana_300 2005年 アメリカ・イギリス
監督:ティム・バートン
原作:ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』
脚本:ジョン・オーガスト
撮影:フィリップ・ルースロ
美術:アレックス・マクダウェル
音楽:ダニー・エルフマン
出演:ジョニー・デップ、フレディ・ハイモア、デヴィッド・ケリー
    ヘレナ・ボナム・カーター、ノア・テイラー、ミッシー・パイル
    ジェームズ・フォックス、ディープ・ロイ、クリストファー・リー
    アダム・ゴドリー、アンナソフィア・ロブ、ジュリア・ウィンター
   ジョーダン・フライ、フィリップ・ウィーグラッツ、リズ・スミス
    アイリーン・エッセル 、デヴィッド・モリス

  ティム・バートンに関して最初に言っておきたいことがある。彼はまるでオタクの代表みたいに言われることがよくある。しかしこれは正確な捉え方ではないと思う。そういう印象が生まれるのは彼の独特のスタイルから来ている。怪異な登場人物やクリーチャーが次々と現れ、どこかゴシック小説を思わせる(「スリーピー・ホロウ」の原作はゴシック小説の代表作のひとつ)独特の幻想的なスタイルを持っており、また徹底的に細部にこだわるからである。しかし、独特のスタイルを持っているというのならヒッチコックだって、デヴィッド・リンチだって、黒澤や小津だって、宮崎駿だって、いやひとかどの名声を得た人なら誰でも持っていて当然である。ある特定の分野だけオタクの範疇に入るというわけではないだろう。細部へのこだわりだって、それこそ小津や黒澤は徹底して細部にこだわった。いや、わざわざ大監督の名を出さなくても、例えば美術部を取り上げれば、ある建物をセットで再現する場合にどれだけ細部に徹底してこだわるか考えてみればいい。「エイリアン」シリーズだって「スター・ウォーズ」シリーズだって相当凝っている。細部へのこだわりは当たり前のことにすぎない。

  オタクというのは他の人から見たらどうでもいいようなことにとことんこだわる人のことを指すのではないか。だとしたら幅広いファンがいるティム・バートンはどう考えてもオタクではない。彼の映画はオタク仲間だけがどこかに集まって内輪で楽しんでいる類の映画ではない。もしそうだったらハリウッドのメジャースタジオで仕事ができるわけがない(独立系ではなくメジャーにいるのは豊富な資金が使えるからではないか)。むしろ彼がそれだけ独自のスタイルを作り出しているということなのである。そう考えるべきだ。もっともその点ではニック・パークの方がこだわり度は高いと思うが。

  さて、前置きはこれくらいにして、「チャーリーとチョコレート工場」に話を向けよう。次に示すように、正直言ってこの作品に対する僕の評価は高くない。平凡な出来だと思う。いろんなブログを見てみたが、驚いたことにどこも絶賛の嵐。もちろん、楽しめたのならそれに越したことはないし、せっかく楽しんできた人に、あれを楽しいと思うのは間違っていると冷や水を浴びせるつもりもない。ただ自分で観てそれほど楽しめなかった以上、そう書くしかない。この映画を楽しんだ人はここから先は不愉快でしょうから、この先は読まない方がいいと思います。

ティム・バートン作品、マイ・ランキング  
 1 ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(製作・原案)  
 2 ビッグ・フィッシュ  
 3 シザーハンズ  
 4 チャーリーとチョコレート工場  
 5 マーズ・アタック  
 6 スリーピー・ホロウ  
 7 プラネット・オブ・ザ・エイプス  
 8 エド・ウッド
3位までは傑作の部類。3位と4位の間は大きく開いている。4位から8位まではほぼ横一線。つまりどれも平凡な出来。

  僕は児童文学が大好きで、80年代には新作も含めかなり買い集めていた。有名な作品は大方読んだが、C.S.ルイスの『ナルニア国物語』やロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』は気になりつつもまだ読んでいない。後者は映画のほうを先に観ることになってしまったし、前者もそうなりそうだ。

  「チャーリーとチョコレート工場」は『チョコレート工場の秘密』の二度目の映画化作品。評判がよかったのでかなり期待して観たのだが、結果は期待をだいぶ下回った。内容的には悪い子には罰を、よい子にはご褒美をという単純なもの。原作がそうなっているのだろうが、ティム・バートンらしいひねりが欲しかった。映画の視覚的効果という点でも肝心なチョコレート工場の部分が今ひとつだ。どうも期待したほどわくわくさせてもらえなかった。チャーリーの貧しい家の方がよほどファンタスティックだと思う。屋根が崩れそうに落ち窪み、壁は倒れそうなほど傾いている。屋根には穴が開いており、屋根裏部屋のチャーリーのベッドには雪が舞い降りてくる。

  テーブルに布団をかぶせているのか、大きなコタツのようなものに足を入れて動かないチャーリーの4人の祖父母たちのキャラクターがまたいい。できるだけ漫画チックな顔の人を集めてきましたという感じで何ともシュールだ。このオンボロ家屋の中で展開される部分がいちばんよく出来ていた。

  しかし、全体としてみると話の展開があまりに単純すぎる。ストーリーの展開の主筋は「ゴールデン・チケット」を手にした5人の子供のうち誰がご褒美をもらえるかというものである。しかしチャーリー以外の4人の子供たちはいずれも誰の目にも明らかな「問題児」ばかり。大食らいでパンパンに太ったオーガスタス、見るからにわがままなベルーカ・サルト、なんでも一番でないと気がすまないバイオレット・ボールガード、TVゲームおたくで何でも計算ずくで手に入ると思っているマイク・テービー。さながら子供版「七つの大罪」だ。傲慢、強欲、暴食の三つを幾分混ぜ合わせながら4人に振り分けた感じだ。唯一チャーリーだけがbottleg 普通の男の子だ。これでは先が見えすぎている。たとえて言えば、80を超えた老人たちとでっぷりと太った兄ちゃんたちばかりの中に高橋尚子が混じってマラソンレースをするようなものだ。これじゃあ走る前から結果が見えている。賭けも成立しない。しかも予想通りの結果に終わってしまう。それではさすがに芸がないから、ティム・バートンらしいいろいろな工夫をするのだが、それがまたどうも今ひとつなのだ。話の大筋が初めから見えているのでどうしても意外性に欠ける。

  もし意外なことがあるとしたら、ほのぼのファンタジー的要素が大きな要素として入りこんでいることだろう。チャーリーの家族の部分がそれに当たる。家族愛がテーマだという指摘もあるほどで、これは確かに意外だった。ティム・バートンともあろうものがこんな「当たり前の」テーマを扱うのか?正直そう思った。もっとも、考えてみれば「ビッグ・フィッシュ」もほのぼのとした味わいがあって、作風が変わったのかと思ったわけだが。

  これに対して別の声が聞こえてくる。いやいや、本当のお楽しみは他にある。この映画の目玉はチョコレート工場の秘密そのものだ。一体誰がどのようにしてチョコレートを作っているのか。ウィリー・ウォンカとはどんな人物なのか。本当に面白いのはここだと。しかしチョコレート工場もあまり楽しめなかった。チョコレート工場で一番問題なのは、チョコレートが少しもうまそうに見えないことである。ギラギラギトギトの原色で色づけされているので、どれを見ても無機質なプラスティックの作り物に見えてしまう。全く食欲がわかない。子どもの頃グリム童話の『お菓子の家』で育っているだけに(あれは本当に食べてみたかった)、なんとも拍子抜け。あのギトギトの色彩は「オズの魔法使い」にかなり近い。しかしあれは別に食べ物で出来ているわけではない。イエロー・ブリック・ロードを食べてみろと言われてもとてもそんな気にはなれない(芋虫のスープを食わされるようなものか)。どうもティム・バートンはテクニックに溺れたなと感じた。しかも「お菓子の家」らしさが出てくるのは最初だけ。あとはさらに無機質な機械仕掛けや実験室が出てくるだけ。今度は「フランケンシュタイン」の世界に突入してしまう。もっとも「フランケンシュタイン」の実験室の雰囲気は最初のチョコレート・ガーデンにも出ているが。大食いのオーガスタスが詰まってしまう透明の管なんかはまさにそうだ。ただ不思議なことに、同じ無機質な感じでも、冒頭に出てくる、機械がチョコレートを次々に製造してゆくプロセスは非常に印象的だった。これは仮定の話だが、このチョコレート製造機の置かれたところが工場見学の終点で、それまで散々チョコレートを食い散らかしてきて体がチョコレートに同化してしまった子供たちは機械の中に投げ込まれチョコレートにされてしまう、もしもこういう展開だったら面白かっただろう。こういうグリム的残酷童話なら僕は好きだ。

  また別の声が聞こえてくる。いやいや、本当の本当に見所なのはウンパルンパの歌や踊りと全編に盛り込まれているブラックな笑いだよ。しかしそれもねえ。ウンパルンパは一度か二度でやめておけばよかったものを、何度も出てきたので飽きてしまった。あまりにしつこい。だいたい、散々チョコレート工場の謎が明らかにされるぞと期待させておいて、チョコレートを作っていたのはウンパルンパでしたというのは、まるで犯人は宇宙人でしたという「フォーガットン」とほとんど同じレベルじゃないか。それじゃあんまりだろう。まあ、はたを織っていたのはツルでしたという話もあるからいいのかも知れないが。ブラックユーモアだってほとんど駄洒落のレベル。はなから「問題児」と分かっている子供を散々なぶってみてもねえ。ぶくぶくにふくれあがったり、逆のぺしゃんこにされるだけで十分だろうに(ただそこまでされても全然反省していないところが可笑しい)。

  というわけで、せっかく楽しもうとして期待して観たのにちっとも楽しませてくれない。その上、あろうことか途中で眠くなる始末(まあ夜中に観たせいもあるだろうが)。ティム・バートンのイマジネーションはこの程度だったのか。あの「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」の全く斬新なアイデアはどこに行ったのか。工場の入り口で人形が踊りだして歓迎するが、火がついて燃えてしまうあたりはディズニーに対する風刺があるが、その点では「シュレック」の方がずっと優れている。

  ティム・バートンが本領を発揮できないのは原作に問題があるのかもしれない。恐らく原作は教訓物語で、欲張りな子供を批判する一方で「家族愛」を称揚する作品なのだろう。どうもティム・バートンはその原作をもてあましている感じだ。彼の作風にはあまり合わない。会社から無理やり作らされてるのだろうか。それはともかく、同じこの映画を観て、家族愛に共鳴する観客とシュールなブラックさに魅力を感じる観客とはっきり別れるのはこのせいだろう。どちらが本筋だと遣り合っても仕方がない。どちらもあるのだ。「家族愛」を消し去るわけにはいかないので、勢い無理やり派手なティム・バートン色をこてこてに塗り込もうとして結果的には中途半端になってしまった。どうもそんな感じだ。煎じ詰めると、おそらくその不徹底さに僕の不満の根源があるのかもしれない。

  それでもジョニー・デップはよく頑張ったと思う。この手の役はお手の物とはいえ、下手な受けないジョークを連発したり、ガラスに思い切り激突したりと大健闘。おかっぱ頭にシルクハットをかぶった青白い顔は忘れがたい。その父親を演じたクリストファー・リーも出番は少ないがさすがの存在感(原作には出てこないそうだが)。ただ、チャーリー役のフレディ・ハイモアは家族といる時はいいのだが、一旦工場の中に入ってしまうと存在が薄くなってしまうのが残念。

  この辺でやめておくけれども、一つ気になったことがある。ウォンカは「両親」という言葉を発音しようとすると必ず口ごもる。何か親に対してわだかまりがある事を示しているが、どういうわけか母親は最初から不在である。これは一体何を意味するのか。これがどうも最後まではっきりしない。歯医者をしていてチョコレートを禁じていた父親への恨みは理解できるが、何で母親は出てこないのか。なぜ父親ではなく「両親」で口ごもるのか。原作には書いてあるのだろうか。やはり一度読んでみる必要があるな。

2006年2月20日 (月)

名作の森(外国映画)

  ブログの左上に表示してあるア-カイブのコーナーに「名作の森」を追加することにしました。80年代までの映画はこのコーナーに収録しています。
  90年代以降の映画タイトルは「映画レビュー一覧 あ~さ行」、「映画レビュー一覧 た~わ行」をご覧ください。


赤い風船(短評)
悪人と美女
アクメッド王子の冒険(短評)
アスファルト・ジャングル(短評)
アラバマ物語
歌え!ロレッタ愛のために
海の牙

エル・スール
エル・ノルテ 約束の地
王と鳥
男の争い 
男の闘い
帰らざる海兵
風の遺産
カルメン
黄色い大地
黒いオルフェ
子供たちの王様
誤発弾
最後の冬
殺人狂時代
サルバドル~遥かなる日々
森浦(サンポ)への道
死刑執行人もまた死す
史上最大の作戦
シシリーの黒い霧(短評)
白い恐怖

ズール戦争
黄昏の恋
脱走山脈
探偵物語(短評)
ディメンシャ13
道中の点検
都会の牙
長雨
日曜日には鼠を殺せ
荷馬車
朴さん
バレンチナ物語
犯罪河岸
ハンネの昇天
100人の子供たちが列車を待っている
ふくろうの河(短評)
芙蓉鎮
古井戸
ポセイドン・アドベンチャー
炎/628
マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ
ミニミニ大作戦(68年版)
山猫
雪の女王
Uボート
夜歩く男
レンブラント 描かれた人生

名作の森(日本映画)

  ブログの左上に表示してあるア-カイブのコーナーに「名作の森」を追加することにしました。80年代までの映画はこのコーナーに収録しています。
  90年代以降の映画タイトルは「映画レビュー一覧 あ~さ行」、「映画レビュー一覧 た~わ行」をご覧ください。

有りがたうさん(短評)
ある映画監督の生涯 溝口健二の記録
浮雲
駅前旅館
男はつらいよ 寅次郎純情詩集
女が階段を上る時
女ひとり大地を行く
家族
祇園囃子
姉妹(きょうだい)
警察日記
故郷
座頭市物語
さびしんぼう
洲崎パラダイス
丹下左膳餘話 百万両の壷
タンポポ
TOMORROW 明日
どっこい生きてる
にごりえ
拝啓天皇陛下様
本日休診
夫婦善哉
柳川掘割物語
酔いどれ天使
用心棒(短評)

2006年2月19日 (日)

残念、上映時間を間違えた!

043205   レンタル店で「チャーリーとチョコレート工場」のDVDを返却。今日は「博士の愛した数式」を観るつもりなので新たにDVDを借りることはしなかった。海野町の駐車場に車を止め、「上田映劇」へ。今は5時ちょっと過ぎ。「博士の愛した数式」の上映は6時からのはず。ところが入り口で上映時間を確かめたら何と16時だった。1時間前に来たつもりが逆に1時間遅かった。今日の上映は4時からで最後。せっかく映画館まで来たのに、がっかり。上映時間を頭で記憶するのではなく手帳にメモしておくべきだった。う~ん、悔しい。上田や小諸の懐古園でロケをしたこともあってどうしても観たかったのに。ただ、3月5日から「電気館」に会場を変えて(経営者は同じ)引き続き上映すると書いてあるので、客はそれなりに入っているようだ。まだ観る機会はあるだろう。

  仕方がないのでもう1軒の映画館「電気館」に行く。何かいい映画が予定されていたら前売り券を買うつもりだった。入口のポスターを見てびっくり。何と「ミュンヘン」と「オリバー・ツイスト」が3月に上映予定である。昨年末からいい日本映画がずいぶんまとまって来るようになったが、洋画も充実してきた。昨年は映画館で観た洋画は一本もなかった。この調子でこれからも注目作を上田でも上映して欲しいものだ。上映時期が首都圏より遅れるのは仕方ない。映画館が2館・3スクリーンしかないので上映作品も限られる(88年に上田に来たときには5館あった)。それでもできるなら映画館で映画を観たい。まだ上田に来て年間に10本以上映画館で観たことはない。このペースが続いてくれれば今年は年間10本突破も夢じゃない(今年はもう既に3本観ている、驚異的なハイペースだ)。いつ行っても客席はまばらなので経営は大変だろうが、上田にも熱心な映画ファンがいることを忘れないで欲しい。「映劇」、「電気館」頑張れ!

 「ミュンヘン」と「オリバー・ツイスト」の前売り券はまだ発売していないとのことだった。いつも上映直前にならないと前売り券が発売されない。何とかならないものか。それはともかく、2月25日から「県庁の星」が予定されている。前売り券を買おうか迷った。館長に評判はどうかと聞いたが、はっきりとした答えはなかった。ただ、ロケのためのスーパーを探すのに苦労したこと、スーパーの裏の事情も描かれるので、協力を渋るところが多かったらしいという話をしてくれた。それはそうだろうけれど、映画の出来はどうなのか。相変わらずコメディタッチの映画のようだが、このところ「運命じゃない人」「THE有頂天ホテル」と優れたコメディをこの映画館で観ているので期待できそうな気がする。「メゾン・ド・ヒミコ」の柴崎コウが出ているので、その意味でもかなり気持ちが惹かれる。ただ、不安なのは織田裕二が出ていること。彼の出演作で傑作は観たことない。まだ上映まで日があるのでインターネットで調べてみよう。よさそうだったら前売り券を買うつもりだ。

  もう一本、「プライドと偏見」も現在上映中。ジェーン・オースティン原作『高慢と偏見』の映画化なので気にはなるが、今一だという評価をブログで読んだことがあるのでどうも手が出ない。しかしせっかく映画館で上映するのだからもう一度これもネットで調べてみよう。それにしても、これだけ全部観られるのかと逆に心配になるほどいい映画が来るようになった。まさかこんな贅沢な悩みを上田で抱える日が来ようとは。「映劇」、「電気館」本当に頑張れ!

2006年2月18日 (土)

フライ、ダディ、フライ

reath2 2005年 日本 東映
監督:成島出
原作:金城一紀『フライ,ダディ,フライ』(講談社刊)
脚本:金城一紀
撮影:仙元誠三
出演:岡田准一、堤真一、松尾敏伸、須藤元気
    星井七瀬、愛華みれ、塩見三省、渋谷飛鳥
    浅野和之、坂本真、青木崇高、広瀬剛進
    温水洋一、徳井優、大河内浩、田口浩正
    神戸浩、鴻上尚史、モロ師岡

  借りる決心をするまでにずいぶん時間がかかったが、観てよかった。借りるかどうか迷っていた気持ちを最後に後押ししたのは主演が堤真一だという点だった。「ALWAYS三丁目の夕日」で初めて観たのだが、なかなか魅力的な俳優だと思ったからだ。それにしても最近の日本映画のレベルは間違いなく上がっている。そして重要なのはレベルを押し上げている原因のひとつに在日コリアン作家の存在がある事である。「GO」と「フライ、ダディ、フライ」の金城一紀、「血と骨」の梁石日。アニメやコメディタッチのお笑い映画ばかり作っている日本映画に数少ないシリアスな主題を持ち込んでいる。「チルソクの夏」や「パッチギ!」も共通する主題を描いていた。「メゾン・ド・ヒミコ」が出色の作品になったのもやはり差別されているゲイを正面から描いたからである。あるいは、「ナビィの恋」「ホテル・ハイビスカス」「深呼吸の必要」等の沖縄映画もある。独特の歴史と文化を持った沖縄の映画は一般の日本映画にない活力がみなぎっている(同じことは音楽でも言える)。まだまだ政治的なテーマを扱ったものは出てこないが、ほんの数年前に比べれば格段にレベルは上がってきている。

  ただこの作品にも他の作品に共通する不満がある。ゾンビーズの描き方だ。「チルソクの夏」「パッチギ!」もそうだが、どうして高校生を描くとあんなに馬鹿みたいなわざとらしい演技をさせるのか。不思議で仕方がない。朴舜臣(パク・スンシン)役の岡田准一は実に自然に演じていたのに。むしろこっちの方こそ変に斜に構えたり、わざとらしくカッコつけさせたりしがちだが、この映画では実に自然だった。変化をつけたかったのかもしれないが、あまりにも不自然なおちゃらけ演出では芸がないし興醒めだ。原作では沖縄出身でアメリカ人とのハーフの板良敷や4か国分のDNAを持つアギーという興味深いキャラクターになっているようだが、どうしてそれを映画でも活かさなかったのか疑問が残る。

  ストーリーは単純で、石原(須藤元気)という高校生に娘(星井七瀬)を傷つけられた父親が、復讐のために喧嘩の強い高校生から格闘技を習い見事仕返しをするというもの。主人公の鈴木一(堤真一)は平凡なサラリーマン。鈴木というありふれた名前をつけたのは、彼がどこにでもいるなんでもないサラリーマンである事を示している。仕返しをしてやろうと格闘技の訓練に励むのは韓国映画の秀作「反則王」と似たシチュエーションである。どちらもさえないサラリーマンが、バカにされた悔しさをばねに一念発起して必死で強くなろうと励む。いわばサラリーマン哀歌が基調にある。ただコメディの「反則王」に比べるとこちらは幾分説教臭い。後で触れるがスポ根もの的要素があるからだ。「反則王」の方は途中で格闘技の面白さ自体にのめりこみ、きっかけの憎しみはもうほとんどどうでもよくなっていた。しかし「フライ、ダディ、フライ」は最後まで憎しみが原動力になっている。復讐劇という捉えかたが出てくる所以だ。だが「仕返し」を終え、鈴木は何を掴んだのか。彼は自分に対する自信を取り戻し、そして家族の信頼を回復した。「仕返し」そのものよりも、本当に大事なのはこちらの方だ。いつも同じ最終バスに乗るサラリーマンたちはバスと競争して走り出す鈴木の姿に彼ら自身も熱くなり、ついにバスに勝った時は拍手をおくった。彼らが称えたのは鈴木の頑張りだった。詳しい事情を彼らは知らない。

  しかし妻(愛華みれ)と娘を絡ませるとまた少し違った意味合いを帯びる。妻は彼が決闘することを全く止めようとはしなかった。むしろ当然とばかりに応援していた感じだ。不自然な感じはぬぐえない。これは、強い父親がか弱い妻と娘を守るという昔からの考え方が勝利したということか。これは強い父親を称える映画だろうか。いや、そう単純ではないだろう。石原を羽交い絞めにした時、鈴木は一瞬石原を殺そうと思った。しかし彼は腕を緩めた。彼は暴力と復讐のむなしさを悟ったのである。その時スンシンが彼に語ったある言葉が彼の頭に響いていたのではないか。「ちょっと疲れたなあ。誰かを殴れば殴るほどさ、こぶしの間から大切なものがこぼれて落ちて行くような気がするんだ。」喧嘩を教えるスンシン自身が暴力のむなしさに気づきつつあった。果し合いが終わった時二人は抱き合い、一緒に駆けた。鈴木に向かって叫んだ「飛べ」というスンシンの言葉には憎しみを越える何かがあった。そこにあった絆はどんな絆だったのか。

  スンシンが上のせりふを言ったのは鈴木が初めて木に登れた時である(ロープを伝って木に登る訓練をしていた)。やっと課題をやり遂げた鈴木にスンシンは気を許したのか、珍しく自分を語ったのである(ロープをよじ登る鈴木を映しながらさりげなくスンシンがはいている運動靴を映しているが、それは鈴木が彼にプレゼントしたものだ)。高い木から街を見下ろす。夕焼けの空が美しい。そこで語られた話はこの映画の中でもっとも印象的で深みを感じさせる。しかし、スンシンが最後に言った「早く強くなって、俺を守ってくれよ」という台詞は無理やりくっつけた感じがする。いくら親しくなっても彼が言tori1 いそうもない言葉だ。たとえそう思っていたとしても。なぜそこまで無理をしてこんなことを言わせたのか。それはそこにこそ主題があるからだろう。息子のいない鈴木と父親のいないスンシンが互いに欠けている物を求める。鈴木はあの木の上で父親のようにスンシンの頭を抱いた。その時二人は親子として抱き合った。まさに「ミリオンダラー・ベイビー」と同じ関係だった。おそらくそれが描きたかったのだ。

  スンシンが家に帰っても母親はいつもいない。食事は用意されているから何か夜の仕事をしているのだろう。冷え切った家、冷え切った食事。スンシンは父親を求めていたのかも知れない。最初は鈴木を馬鹿にしていたスンシンが本気で彼を応援し鍛えたのは、初めて父親の資格を持った男と出合ったからだ。最初二人の関係は逆転していた。丹下段平やヨーダを例に出すまでもなく、通常は経験豊富な年配者が若者にアドバイスをする。しかしこの映画の場合はその逆である。若者が年上の男を訓練し教訓をたれる。「おっさんは背中に中身のいっぱい詰まった透明なリュックを背負ってる。石原の背中には何もない。どんなことがあっても自分を信じるんだ。」年上のサラリーマンも若き師の前ではただの「おっさん」に過ぎない。そしてスンシンには年上のサラリーマンに対して恨みがあった。彼が木の上で語ったのはその話だ。「リストラされてとち狂ったサラリーマンのおっさんがいきなり刺してきたんだよ。自分が首になったのは外国人労働者のせいだと思って。」

  病院に入院していた時のスンシンは今の鈴木の娘と同じで怖くて病院の外に出られなかった。「俺さ、傷が治ってからもしばらくは病院から出られなかったんだ。外の世界が怖くてさ。俺を刺したそのおっさんが夢ん中まで出てきて俺のこと追っかけまわすんだよ。真っ赤に光った目でさ。俺はある日突然ヒーローみたいな誰かが現れて、俺のこと病院から連れ出してくれると信じてたんだ。まあ、そんな都合のいいことは起こりゃしねえんだよ。・・・病院から外の世界に戻る時、二度と刺されないように俺は強くなることに決めたんだ。」しかし今スンシンはそのことのむなしさに気づいている。

  彼が在日コリアンであることがはっきり語られるのはここだけである。その分「GO」と比べれば民族問題よりももっと親子関係や男としての葛藤の側面に重点が置かれている。アイデンティティの追求という点では共通するが光の当て方が違う。

 このように書いてくるとかなり重たい主題のように思えるが、実際は軽いタッチで描かれている。上で年齢関係が逆転していると書いたが、この映画はある意味でスポ根漫画や映画で言えば「ロッキー」などのパロディである。それは鈴木一の格好を観ただけで分かる。寸詰まりの緑色のジャージに運動靴。背中には砂を詰めた赤いキティちゃんのリュックを背負い、爪先立ちでふらふらと石段を登る。上ではスンシンがバナナを持ってここまで来いとせきたてる。「俺は猿かよ」とぼやきながらふらつく足で階段を上るへこたれ堤真一の背中はすっかりしょぼくれている。誇らしげに子供に見せる「親父の背中」からは程遠い。ロープに掴まって木に登ろうとしても途中で落下してしまう。ランニングでへなへなになり、最初のうちは歩いている二人にすら置いていかれる。高校生たちは三日もすれば音を上げてやめるだろうと思っていた。しかし彼はまた次の日もやってきた。そしてそのまた次の日も。そのうちあえてバスにも乗らずバス停まで走ってゆく。ついにはバスに勝ってしまう。

  いつも乗る最終バスの運転手と乗客が彼に気づき次第に応援してゆく様が面白い。シンデレラマンが大恐慌にあえぐ庶民の星だったように、走っている鈴木はサラリーマンの星だった。このあたりはコメディ調になる。運転手と乗客には「豪華」な役者を配した。運転手に温水洋一、乗客に浅野和之、徳井優、大河内浩、田口浩正、神戸浩、鴻上尚史。いずれも覇気のないおっさんばかり。鈴木一は自分のため、あるいは娘や妻のためだけではなく、スンシンやゾンビーズ(60年代のイギリスに同名のロック・バンドがあったなあ)のメンバーたちやこの「おっさん」たちのためにも「飛んだ」のである。果し合いに臨む鈴木は自信を取り戻し、「灰とダイヤモンド」の有名な台詞を口ずさんで自分を励ます。戸惑うスンシンに「灰とダイヤモンド」も知らないのかとやり返す(前に「燃えよドラゴン」を知らないと言って馬鹿にされた)。鈴木は若いスンシンに鍛えられたが、無理に若ぶるのではなく、「おっさん」の底力を示すことでやり返したのだ。

  まあ、話自体はほとんどありえない話である。だいたい相手の石原という男は3年連続ボクシングの高校チャンピオンである。いくら鈴木が練習をつんでも勝てるはずはない。だからこれはスポ根パロディ調ファンタジーである。加害者である石原や威圧的な態度を見せる教頭(塩見三省)は全くのステレオタイプ。ほとんどリアリティがない。

  いろいろと不満はあるがさわやかな映画である事は確かである。最後の「鷹の舞」も妙にひきつけるものがある。「真の王者は鷹となって大空を羽ばたき、限りない自由へと近づく。」こちらが恥ずかしくなるような臭い台詞だが、それをあえて言ってしまうところが潔い。「あんな風に重力を飼いならしたら本当に飛べるような気がしません?有り得ないとか出来ないとか、そんなちっぽけな常識から解放されて羽ばたけるような気がするんですよね。」「飛ぶ」とは解放されることである。何から?それを考えるのは観客の側の課題だろう。

  堤真一と岡田准一のキャスティングは成功だった。岡田准一は本当にかっこいい。かっこよさを自然に表現することはなかなか出来ないことだ。注目すべき若手である。

2006年2月15日 (水)

ラヴェンダーの咲く庭で

paris38 2004年 イギリス
原題:Ladies in Lavender
原作:ウィリアム・J・ロック、Faraway Stories
監督:チャールズ・ダンス
脚本:チャールズ・ダンス
音楽:ナイジェル・ヘス
撮影:ピーター・ビジウ
出演:ジュディ・デンチ、マギー・スミス、ダニエル・ブリュール、ナターシャ・マケルホーン、ミリアム・マーゴリーズ
   デヴィッド・ワーナー、トビー・ジョーンズ、クライヴ・ラッセル、リチャード・ピアーズ、ジョアンナ・ディケンズ
   フレディ・ジョンズ

  「ラヴェンダーの咲く庭で」という邦題は映画のイメージにはあっているものの、原題の“Ladies in Lavender”とは「ラヴェンダー色の服を着たレディーたち」という意味である。

  僕はずっとこの映画を観たくて仕方がなかった。もちろんその理由はジュディ・デンチとマギー・スミスというイギリスの2大女優が競演しているからである。イギリスはシェイクスピアの国。俳優はみな舞台で経験と実力を積み、それから映画やテレビに進出するというのが一般的なパターンである。二人とも演劇界で多くの業績を残した。OBE、DBEの勲位を両方受勲し、デイムの称号を授けられた数少ない名女優である。ジュディ・デンチを最初に観たのは「眺めのいい部屋」だと思うが、最初に大女優として意識したのは97年の9月にイギリスのブライトンで「Queen Victoria至上の恋」を観た時である(滞在中ダイアナ妃が亡くなる悲劇が起き、その日にケンジントン・パレスまで行って人々が献花している様子を見てきた)。ジュディ・デンチはヴィクトリア女王に扮した。日本公開時はあまり話題にならなかったがなかなかの秀作だった。その後は「ヘンリー五世」「恋におちたシェイクスピア」「ムッソリーニとお茶を」「ショコラ」「アイリス」「シッピング・ニュース」と何本も観てきた。「ムッソリーニとお茶を」はフランコ・ゼフィレッリ監督晩年の傑作で、マギー・スミスとここでも競演している。

  マギー・スミスを最初に観たのは「予期せぬ出来事」か「三人の女性への招待状」あたりだろうが、恐らく端役だろうからその頃は全く意識していなかった。有名な「ミス・ブロディの青春」や「眺めのいい部屋」(ジュディ・デンチと競演)を観た時もさほど意識していなかったと思う。彼女をはっきりと意識したのはあの「天使にラブソングを・・・」と「天使にラブソングを2」のきつい顔をした修道院長役である。その後は「ゴスフォード・パーク」や「ハリポタ」シリーズのプロフェッサー・マクゴナガル役でおなじみ。

  「ラヴェンダーの咲く庭で」は二人の老女と一人の若いバイオリニストが主役である。老人たちを主役にした映画は古くはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「旅路の果て」など幾つもあるが、比較的最近のものでは「コクーン」、「森の中の淑女たち」、「八月の鯨」、「歌え!フィッシャーマン」「きみに読む物語」「ウィスキー」など優れた作品が多い。しかし老女が若い男性にほのかな恋心を持つという微妙な主題を共感をこめて描いた映画はこれまでなかったかもしれない。

  もっともこの映画の中では村で唯一の医者であるミード医師(デヴィッド・ワーナー)が美貌の女流画家オルガ(ナターシャ・マケルホーン)にほれてストーカーのように付きまとう話も描かれているので、老人が若い男女に恋をする二つのパターンが描かれていると言った方が正確である。しかしそれにしてもこの二つの描かれ方は対照的だ。爺さんが若い女にほれるのはどこかいやらしさが付きまとい、老女が若い男性にほれるのは美しいものとして描かれている。女性の感想のほとんどはアーシュラ(ジュディ・デンチ)を「可愛い」と言う。そして必ず「女性は何時までたっても女性」、「いくつになっても女性は恋をする」と付け加える。ミード医師は、アンドレアを密告したりすることもあって、すこぶる印象が悪い。「男はいつまでたっても男である」と言えば、いつまでも女の尻を追い掛け回しているという意味にしかならない。情けない。

  時代設定は大戦間の1936年。ラジオを通して不穏な情勢が伝えられる。舞台は英国のコーンウォール地方のランズ・エンド。イギリスの本土、グレート・ブリテン島の一番南西にある半島部分がコーンウォール地方で、その先端にあるのがランズ・エンド。文字通り「地の果て」である。コーンウォール地方はイングランドの中でもケルト文化が色濃く残っている地域で、アーサー王伝説のふるさとである。白亜の崖が続く南部から南東部にかけての海岸地帯と違って、コーンウォールあたりは映画で見るように赤茶色の崖になる。観光地としてトーキーやペンザンスが有名だ。そういえば「コーンウォールの森へ」という映画もあったが、これはどうということもない凡作。

  映画はあの話題になった「ピアノ男」を思わせる出来事から始まる。アーシュラ(ジュディ・デンチ)とジャネット(マギー・スミス)姉妹は海辺の屋敷で静かに暮らしていた。家政婦のドーカス(ミリアム・マーゴリーズ)が二人の世話をしている。ジャネットは前の大戦で夫を亡くし、アーシュラはずっと独身を通しているらしい。恐らく裕福な家柄の生まれだろうが、ちょっとした買い物にも金の心配をしているから地主の娘ではなさそうだ。家もカントリー・ハウスと呼ばれる地方地主のお屋敷の様な立派なものではない。地代もなく他の収入もないので、親の残した遺産を少しずつ食い潰しながらつつましく暮らしているのだろう。苦しい家計ながら家政婦を雇っているのはやはり上層中流階級出身だからである。時代は違うが、ジェイン・オースティンの小説世界に出てきそうな姉妹だ。

  ある夏の朝、ちょっとした「事件」がおきる。嵐が去った翌日、二人が海岸に打ち上げられた若い男(ダニエル・ブリュール、「グッバイ・レーニン」の時よりもぽっちゃりしていた)を見つけるのだ。足に怪我をしていたが、幸い命に別状はなかった。男は徐々に快復して行くが、言葉が通じない。ようやく彼がアンドレアという名前のポーランド人で、渡米途中に難破したという事情が分かってくる。姉妹の看病によりアンドレアは次第に回復してゆく。やがて彼には非凡なヴァイオリンの才能がある事が分かってくる。

  アンドレアという若い男が女ばかりの所帯に入り込むことによって小さな異変が起きる。いつのまにか彼はジャネットとアーシュラにとって不可欠の存在になっていたのだ。特に結婚の経験を持たないアーシュラの心には、彼に対するほのかな恋の感情が生まれていく。そこにオルガという若い美人画家が現れ、結局アンドレアをロンドンに連れて行ってしまう。二人はまたいつもの静かな生活に戻ってゆく。アンドレアという青年の出現が静かだった姉m000650gd 妹の生活にほのかなときめきをもたらす。ひと時の浮き立った季節が終わりまた静寂が訪れ、普段の生活に戻る。どこか小津安二郎の世界を思わせる映画である。老女たちの心の中を吹き抜けた小さな嵐を細やかな演出で描いた美しくも、切ない物語。女性の細やかな心理を丁寧に描いた淡いラブストーリー。これはまさにジェイン・オースティンを生んだ国の映画なのである。ほのかな海と花の香りに淡くまた苦いロマンスの香りが交じり合う。地方色豊かないかにもイギリスらしい味わいのある作品である。

  とにかくアンドレアに対するアーシュラとジャネットの微妙な感情の描き方が見事だ。一度も結婚経験のないアーシュラはいつしか若いアンドレアに心を魅かれてゆく。年甲斐もないと分かっていてもどうしようもなく抑えがたい感情。最初はさりげない表れ方をする。例えば、家政婦のドーカスがアンドレアに運んでゆく朝食のお盆にアーシュラが庭の花を一輪さっと置くシーン。こういう細やかでさりげない場面がいくつも積み重ねられてゆく。小さな波紋がどんどん広がってゆく。そのうちジャネットに気持ちを見抜かれちょっとしたいさかいも起こる。気付かれないようにジャネットの後ろからチラッとアンドレアを見るアーシュラの目つき。若い美人のオルガがずけずけと彼女たちの家に入り込んできたときの複雑な表情(二人はオルガを魔女にたとえるが、実際そう思えたのに違いない)。もちろん、常に冷静で落ち着きを失わない姉のジャネットもアンドレアが現れて以来心が浮き立っている。ドイツ語が話せると分かればドイツ語の辞書を引いて一生懸命勉強する。一方アーシュラは家具に英語のつづりを書いた札をつけ、アンドレアに英語を教えようとする。アーシュラは行動が先に出てしまう。行動的だがどこか危なっかしいアーシュラ、その妹を気遣う冷静で理性的なジャネット。性格の違いからくる行動や気持ちの表現の仕方の違いまで丁寧に描き分けている。

  大人のおとぎ話という意味では「Dearフランキー」に通じるものがある。この映画には白馬にまたがった王子様のイメージが何回か出てくる。しかし、まだ若い主婦のリジーには十分その可能性があるのに対して、アーシュラの場合はほとんど可能性がないだけにその恋心は悲痛なものになる。夜中にアンドレアの部屋に行って寝ているアンドレアに触れようとしてジャネットに見つかった時のうろたえぶり。観ていて哀れを誘う。

  やがていつか来るはずの日がついにやってきた。アンドレアはオルガに説得され、彼女の兄である高名なヴァイオリニスト、ボリス・ダニロフに会うために二人に知らせる暇もなく突然村を去った。心の支えを失ったアーシュラの落胆ぶりはなんとも哀れだ。アーシュラはアンドレアのベッドに丸まるように横たわって泣く。アーシュラの痛ましいほどの悲しみ、自分の中にもある悲しみを抑えつつ妹をなぐさめる気丈なジャネット。老女たちの恋をただ美しく描くのではなく、その残酷さも描いていることがこの作品に奥行きを与えている。

  老女たちの秘められた感情を描いているので全体に淡々とした話なのだが、単調さをすくうためにコミカルな味付けが施されている。もっぱら笑いを担当するのはでっぷりと太った家政婦のドーカスである。姉妹を描く時は細やかなタッチだが、それに対してこちらはおおらかでユーモラスなタッチになる。彼女の見るからに庶民的な性格が強調される。ドアはばたんと大きな音を立てて閉めるし、歩く時もどたどたとやかましい。傑作なのはイワシのパイ。パイ生地からイワシの頭や尻尾が飛び出ている。スターゲイジー・パイというコーンウォール地方の名物料理だが、正直言ってとても食欲がわく絵ではない。それを姉妹がうまそうに食べるところが面白い。もっとも気がふさいでいるアーシュラは全部食べずに残してしまうのだが。イワシを買い付ける時のドーカスの表情も滑稽だ。ジャガイモの皮むきのシーンも笑える。アンドレアの茶目っ気が描かれる数少ないシーンである。

  回復したアンドレアは村の酒場に出入りする。ここで村人たちが登場する。狭い女所帯から抜け出して息抜きが出来る貴重な場所。ほっとする場面である。田舎の人たちの風情がよく出ている。アンドレアにヴァイオリンを貸した村の男は見るからに田舎の男という素朴な顔立ち。あの顔が実にいい。庶民たちとの交流を描いておいたからこそ、最後にアンドレアの演奏をラジオで聞くために村人たちが姉妹の家に集まってくるシーンが生きてくるのである。ただこの酒場にも美人の「魔女」オルガが現れて不穏な空気が入り込んでくる。

  ラストはロンドンでの演奏会。ボリス・ダニロフに見出されたアンドレアはヴァイオリンのソリストとして登場する。その会場にジャネットとアーシュラがいた。演奏会の終了後二人はアンドレアに再会する。彼は再会を喜ぶが、すぐ誰かに呼ばれ中座してしまう。姉妹は彼を待たず静かに去ってゆく。長い廊下を歩き会場を後にするアーシュラとジャネット。「笑の大学」のラストを連想させる。すぐその後にいつもの海岸を散歩する二人が短く映され幕。海岸の場面で始まり海岸の場面で終わる。二人はまた日常に戻ったのだ。しかし冒頭の場面と同じ二人ではない。アーシュラもジャネットでさえも短いが楽しい思い出を心に刻んだ。特にアーシュラにとってはつらく切ない思い出だが、その切なさを一生知らずに過ごすよりはきっとよかったのだ。余韻を残さないラストが逆に余韻を残す。いい終わり方だと思った。

  美しいコーンウォールの風景、甘美なヴァイオリンのメロディ、淡いロマンス。どれも素晴らしいのだが、どういうわけか映画全体としてみると何か物足りない。今ひとつのところで傑作には至らなかった。細やかな演出は出色なのだが、どうも全体に淡々としすぎてドラマ性に欠ける。別にハリウッド映画の様な劇的な展開を望んでいるわけではないのだが、もう少し起伏に富んだドラマ展開が欲しかった。しっとりとした良い映画だけに、そういう印象が残ってしまうのは残念だ。

2006年2月12日 (日)

ラスト・マップ/真実を探して

kikyou004 2004年 アメリカ
原題:Around the Bend
監督、脚本:ジョーダン・ロバーツ
製作総指揮:マーク・ギル
撮影:マイケル・グラッディ
出演:ジョシュ・ルーカス、クルストファー・ウォーケン
    マイケル・ケイン、ジョナ・ボボ、グレン・ヘドリー
    デヴィッド・エイゲンバーグ、ロバート・ダグラス

  フランス映画にジャン=シャルル・タケラ監督の「C階段」(1985)という作品がある。パリのアパルトマンの一角にあるC階段と呼ばれる棟。そこに住む美術評論家フォステールはルノアールの絵をくそみそにこき下ろすようなひねくれた男だ。彼は同じアパートに住むユダヤ系の老婦人がある日突然自殺しているのを発見する。行きがかり上、老婦人を彼女の生前の望み通りイスラエルに埋葬してやろうとして、彼はいろいろと奔走する。イスラエルのある丘の上で彼が彼女の遺灰を撒いているラスト・シーンは感銘深い。なかなかの佳作であり、いかにもフランス映画らしい薫りをもった作品である。

  トルコ映画の傑作「遥かなるクルディスタン」(1999)では、映画の後半、トルコ人の青年がクルド人の友人の亡骸を故郷に埋葬してやろうと棺に入れて運んでゆく。しかしやっとの思いで着いた友人の故郷は、何とダム湖に沈んでいた。家や電柱などの上部だけがかろうじて水面に顔を出している。主人公の青年はしばし呆然としていたが、やがて決意したように棺を湖に流す。

  死者を故郷に葬ろうと他人が努力する。同時に、二つの映画ともそこに至る過程を通して主人公たちの心の変化を描いている。祖父の遺灰をまくために主人公が父と息子と共に旅に出る「ラスト・マップ/真実を探して」もよく似た主題を描いている。親子4代の物語だが、映画が始まった時この家族には亀裂が入っていた。

  レア家の男性4世代。遺跡発掘に情熱を燃やした変わり者の家長ヘンリー(マイケル・ケイン)、30年ぶりに突然帰ってきたその息子ターナー(クリストファー・ウォーケン)、銀行員でスクエアな性格である孫のジェイソン(ジョシュ・ルーカス)、そしてひ孫のザック(ジョナ・ボボ)。

  冒頭の場面はヘンリー、ジェイソン、ザックの日常生活を描いている。マイケル・ケインが独特の飄々とした味を出している。若い頃はさっそうとして、いかにも上流育ちという役が似合っていたが、すっかり爺さんになった最近は「サイダーハウス・ルール」や「ウォルター少年と、夏の休日」などで温かみのあるキャラクターを演じてきた。もっとも、「リトル・ヴォイス」ではどこか胡散臭いプロモーターを演じていたが。とにかく何をやらせてもうまい。ここではどこか憎めない偏屈爺さんぶりを発揮している。デンマークから来た家政婦のカトリーナ(グレン・ヘドリー)に身の回りを看て貰っているが、どうやらちょくちょく手を出しているようだ。生意気盛りのひ孫のザックに変な言葉を教えたりして、まじめなジェイソンにしょっちゅうたしなめられている。カトリーナもホラー映画を観ながら涙を流す変わった人物。このあたりはコミカルな演出が効果を発揮している。

  ところが突然ジェイソンの父ターナーが30年ぶりに家に帰ってきて、家族の空気が一変してしまう。どうやら過去に何かいきさつがあるようだ。ヘンリーは彼を歓迎するものの、ジェイソンは彼に何かわだかまりを持っている。彼らを包む空気は重い。

  ジェイソンが友人と酒場で酒を飲むシーンで事情が少し明らかになる。ジェイソンは友人にターナーを親じゃないと言い放つ。「2歳の時の事故で僕は足を怪我し、母は死んだ。その後ターナーはヤク中になって消えた。」友達は「ダース・ベイダーはルークを育てなかったけれど、それでも心で繋がっていた」といってとりなそうとするが、ジェイソンの暗い表情は変わらない。

  そのターナーを演じるクルストファー・ウォーケンがこれまた独特の渋さを発揮して抜群の存在感である。どこか謎を秘めた暗く深みのある表情。ずいぶん皺が増えたが、女優と違って男優の場合年齢を重ねると人生の重みの様なものが加わり、若い頃よりも役者としての深みが加わる。マイケル・ケインの飄々とした持ち味とはまた違うが、クルストファー・ウォーケンのどこか不気味で、食いつくような凄みのある顔と底知れない謎を秘めたような佇まいは映画の中盤から後半を引き締めている。ジェイソンを演じたジョシュ・ルーカスは「ビューティフル・マインド」、「メラニーは行く!」、「ウォルター少年と、夏の休日」、そして「ステルス」などに出演している上昇株。しかし名優二人に囲まれてはさすがに分が悪い。何とか無難にこなしたという印象だ。

  ターナーは一晩だけ泊まってまた去ってゆくつもりだったが、とんでもない出来事のためにジェイソンとザックを連れて旅に出るはめになる。ヘンリーが突然死んでしまうのだ。ターナーに露骨な嫌悪感を示すジェイソンに「支え合うのが家族だ」と言い聞かせたヘンリーは、レストラン(KFC)で遺書を書き残して死ぬ。ヘンリーの遺書には、彼と彼の愛犬スカイの遺灰を持って幾つかの場所へ行き、そこである儀式をして彼とスカイの遺灰を撒けとあった。それと前後して一つの伏線が張られている。どうやらヘンリーとターナーの間には「階段」をめぐる何かがあるらしい。アルバカーキの階段。それが何を意味するのか最後に明らかになる(途中である程度予測できてしまうが)。観客は最後までその謎に引きずられることになる。

  ターナーとジェイソンとその息子のザックは日本ではまず見かけないものすごいオンボロ車で旅に出る。錆だらけの車だ。ここから作品の基調がロード・ムービーに変わる。運転しながらターナーは球形のラジカセで昔の曲をがんがん大音量でかける。食事はいつもケンpocketwatch3 タッキーFCだ。これもヘンリーの遺言で指示されている。ヘンリーの遺書に振り回される奇妙な弔い旅行。最初に指定された場所はヘンリーの妻の墓、次はヘンリーと妻が出会った農場・・・。行動を共にしつつもジェイソンとターナーの仲は冷え切っている。ジェイソンはモーテルに泊まった時ターナーを別の部屋の泊まらせる。その翌日、ジェイソンはターナーの財布から幼い頃のジェイソンの写真を見つける。裏には「マイ・ボーイ」と書いてあった。その時からターナーに対するジェイソンの態度は変わる(ありがちなエピソードでうまい展開とはいえないが)。

  この映画はしばしばロード・ムービーと評されるが、ロード・ムービーとしてはさほどいい出来ではない。次々に訪れる場所にジェイソンたちも観客も何の感慨も持てない。ヘンリー個人の思い出の場所だからだ。途中のエピソードも、あるホテルで別の遺灰をまいてくれと頼まれたり、その次のところで犬をひろったり(灰と引き換え)するだけで、これといって意味があるシーンはない。シナリオを練るのに10年かけたというわりには、あちこち穴が目立つ。却ってあちこち書き直しすぎてストーリーの流れがずたずたになっていたのかもしれない。あるホテルでターナーがピアノを弾く場面は印象的だが、映画のテーマやストーリーの流れと十分深いかかわりを持っていないので(要するに説明不足)孤立したエピソードで終わっている。

  最終目的地であるニューメキシコ州のアルバカーキで「階段」の意味が明かされる。ターナーの言った「父は過去を掘り返したがる」という言葉、ヘンリーが残したメモに書かれた言葉、わざわざアルバカーキまで旅をしてきたこと、警察がターナーを探して留守宅を訪ねてきたこと、これらが最後に一点で交わる。思えばずっとヘンリーに操られた旅だった。彼ら3人の背後には終始ヘンリーの影があった。そして「支え合うのが家族だ」という彼の遺志が。ヘンリーがレストランで書き残した言葉:ターナー、ジェイソンそれぞれにあてた手紙とメモ、場所を示す赤いメモ、そこで行う儀式を示した青いメモ、最終目的地が示された地図。すべてはこれに沿って進んでいった。彼らの旅は封印された過去へ向かう旅であり、同時に家族の絆の再生という未来に向かう旅でもあった。家族の間にあったわだかまりがこの旅によって徐々に剥がれ落ちてゆく。

  過去を知り、それを乗りこえたジェイソンはターナーを乗せてメキシコ方面に向かう。ある岩を目指していた。突然家に帰ってきたターナーの最終的な目的地はそこだった。それはターナーの思い出の岩だった。「かつてあの場所(岩盤)で最愛の女と最高の夜を過ごした。」しかしその岩に行き着く前にターナーは死ぬ。彼の腎臓はもう機能を果たしていなかったのである。透析治療を受けていたのだが、抜け出してきたのだ。後日ジェイソンは息子のザックを連れて再びこの岩のところにやってくる。二人はターナーの遺灰をその岩盤の上から撒く。夕暮れの空に浮かび上がる巨大な岩盤。「C階段」を思わせる、深く心に残るシーンである。

  ラストシーンに至る最後の部分は美しい夕焼けの映像の効果もあってなかなか感動的である。見終わった直後は拾い物の傑作だと思った。しかしレビューを書いているうちにいろいろ欠点が見えてきた。マイケル・ケインとクリストファー・ウォーケンという名優を二人もそろえ、しかもそれぞれに素晴らしい働きをしたにもかかわらず傑作に至らなかったとしたら、やはり脚本が弱いのである。ファミリー・ドラマはアメリカ映画の定番である。たくさんの傑作が作られてきた。新たな傑作を生むためには新しい工夫を盛り込んだ脚本が必要である。ヘンリーの残した謎めいた遺書とメモは道具立てとしては悪くないが、肝心の謎の核心があまりに単純で底が浅い。散々その謎で引っ張ってきておいてありきたりの結末。クライマックスの持っていきかたを誤ったと言っていい。脚本の一番の問題はそこにある。むしろもっとロード・ムービーとしての性格を強くして、旅の終点ではなく、旅のプロセスでそれぞれが何かを発見するという展開にしたほうが良かったのではないか。例の謎は旅の途中で早々に明らかにしてしまった方がいい。家族の再生はそこから始まるのだから。互いに傷を背負いながらそれを乗り越え、何かを求めてさすらう旅。それぞれの思いは離れたり、また交錯したり。そして旅の終わりに何らかの結論が待っていなくてもいい。旅は終わっても人生は続くのだから。

  家族の絆というテーマでは、例えばジェイソン以外の3人がそれぞれ踊るシーンが出てくる。ここに家族の絆が暗示されている。世代が違うから踊りも違う。最後に踊るのはひ孫のザックだ。岩の上で彼が踊るラストシーンは家族の血のつながりを示している。映画の中でtribeという言葉が何度も使われていた。familyという同時共存的響きのある言葉に対して、tribeは先祖から代々受け継がれてきた血のつながりを強調した言葉だ。「家族」よりも「一族」に近い響きを持った言葉である。代々伝えられてきた踊りという絆。この描き方は悪くない。だが、もう一つ効果的ではない。映画全体のテーマの流れに今ひとつうまくはめ込まれていないからだ。先ほどのピアノのシーンと同様、そこだけが浮き立ってしまっている。

  監督のジョーダン・ロバーツはこれが初監督作品。脚本も担当している。いろいろ不満を書いたが、第1作としては決して悪くない。もっと直線的でないひねりの効いた脚本が書ければいずれ傑作を生み出すかもしれない。

2006年2月11日 (土)

皇帝ペンギン

penguin01 2005年 フランス
監督・脚本:リュック・ジャケ
母ペンギンの声:ロマーヌ・ボーランジェ 
父ペンギンの声:シャルル・ベルリング 
子ペンギンの声:ジュール・シトリュック

  僕は自然や動植物を描いたドキュメンタリーが大好きである。NHKで放送されるBBC製作のドキュメンタリーなどは見つけたら大体観ている。日常から遠く離れた驚異の世界、見たくてもなかなか見られない未知の世界、そこに引きつけられるのだろう。もう20年以上前か、テレビカメラが初めて入って撮った中国奥地のドキュメンタリーには心底驚いた。山水画によく描かれるあのとがったかたちの山が本当に実在している。あんな形の山が本当にあるとは!コナン・ドイルの『失われた世界』にも描かれたギアナ高地の映像も背筋がぞくぞくするほどすごかった。そそり立つ垂直の絶壁。テーブルのように平らな頂上から落ちる滝の水は、あまりの高さに途中で霧のように分散して消えてしまう!そして頂上にぽっかりと口を開けた大穴の中の映像。まさに神秘の世界。あるいはオーストラリアに点在する地下の湖にもぐった映像。子どもの頃に何度も読み返したジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を思い出しながらぞくぞくする思いで観ていたものだ。

  神秘的という意味では深海ものもすごい。摩訶不思議な生物たち、温水が噴出している地獄の様な映像。未知の世界にたっぷり浸れる。屋久島を流れる川をずっと源流近くまで遡ったフィルムも圧巻だった。実際に行くことは極めて困難な場所の映像をこの眼で眺められる快感。グランド・キャニオンなどの奇観を眺めると、実際にそこにいる自分を想像してしまうことがよくある。ドキュメンタリーの映像はそれを疑似体験させてくれる。ドキュメンタリーの魅力はそこにあるのだろう。

  植物ものも面白い。花粉をどうやって運ばせるか。ほとんど信じられないような様々な工夫をそれぞれの植物がしている。昔天才的な植物がいて、考えに考え抜いて作ったのかと思いたくなるほどの巧妙な仕組み。これまた驚異の世界だった。動物ものも好きだ。頭に角をはやした幻のイッカクの映像、愛くるしいビーバーの生態・・・。

  同じ動物ものでもちょっと違う感覚で眺める映像がある。例えば、猿が入浴することで知られる地獄谷の温泉。瞑想するように目を閉じて風呂に浸かっている猿たちの姿を観ているとまるっきり人間と同じである。風呂から上がり、背中を丸めてハアっと一息ついている中年の猿の姿などは、風呂上りのおばさんさながら。あるいは、新聞の書評に誰かが書いていたが、その人が山の斜面に座って夕焼けを眺めていた時、ふと何かの気配に気付いて後ろを振り返ったら、すぐ上の岩に猿が座っており、同じようにじっと夕焼けを眺めていたという話。

  これらの猿の話には「皇帝ペンギン」に共通する要素がある。それを一言で言えば動物を人間になぞらえてみてしまうことである。「アトランティス」、「WATARIDORI」、「ディープ・ブルー」、あるいは変わったところでは雲ばかりの映像を集めたベルギー映画「雲 息子への手紙」などと「皇帝ペンギン」が違うのは、「皇帝ペンギン」の場合動物を人間になぞらえてみる意識をうまく映画に取り入れていることにある。動物園で猿山をいくら眺めていても飽きないのは彼らの行動、身振りが人間そっくりだからである。猿は一番人間と比べやすい。以前、死んだ小猿をどうしてもあきらめきれずにいつまでも手から離さない母猿の映像を観て、思わず涙を流したことがあった(興味深いことに「皇帝ペンギン」にも似たような行動が記録されている)。どうしても人間になぞらえて観てしまうからである。ペンギンもあの歩いている姿などは人間そっくりである。時々、足を滑らせてすてーんと転ぶところも人間みたいだ(しかし体が丸いから怪我はしない感じ)。腹ばいからどうやって立ち上がるのかと見ていると、羽根を手のように使って立ち上がっている。これも人間みたいだ。

  映画「皇帝ペンギン」はある特定の場面だけを撮るのではなく、ほぼ1年近くを通して子育てをメインにずっとその行動を追っている。そこにストーリーが生まれる。子育ては一番共感しやすいテーマである。しかも天敵から子供を守る戦い、過酷な自然との闘いの厳しさは人間世界の比ではない。子供を必死で守り育てる父ペンギンと母ペンギンの行動には思わず引き込まれてしまわずにはいられない。お父さんたちや子育て中のお母さんたちは必見という感想があちこちででてくるのは、知らず知らずのうちにこの「なぞらえ効果」にすっかりはまっているからである。ストーリー仕立てのナレーションを不必要だという人は多いが、006 こう見てくるとあながち不要だとも言い切れない。ナレーションによってペンギンたちの世界が擬人化され、その理解がより容易になるからである。もちろんストーリー化されたナレーションなどなくても、映像を観ているだけで十分彼らの世界に入り込める。なくてもよかっただろうが、あっても僕はそれほど邪魔には感じなかった。ナレーションを用いたもう一つの理由は、親子での鑑賞を想定していて、子供を意識していたからだろう。子供には擬人化したほうがその世界に入りやすい。絵本や児童文学でよく用いられる技法である。他のドキュメンタリー映画と違って、「皇帝ペンギン」には人間の感情を動かす作用がある。ただ観察するだけではなく、感情移入してしまうのである。

  もちろん、擬人化は人間の勝手な思い込みである。ペンギンはペンギンの本能に従って昔からの営みを続けているだけだ。ペンギンたちの営みはもう何度もテレビのドキュメンタリーで観てきたのでそれほど驚きはない。だから正直言ってこの映画に付ける点数は高くはない。標準程度である。そうは言っても何度観てもすさまじい世界なのだ。初めて観る人には驚異の映像だろう。あの延々続く行進。何もあんな遠くまで行かなくてもと思うが、安全を考えるとそこまで行かざるを得ないのだろう。短い足でただひたすら歩いている姿を見ると、「誰か送り迎えのバスを出してやれ!」と叫びたくなる。「猫バス」ならぬ、ペンギン様専用冬季限定無料循環バス「ペンギン・エクスプレス」。車内には何十頭ものペンギンが通勤電車のように押し合いへし合いしながら押し黙って立っている。想像しただけで楽しい。

  撮影は相当な困難を伴っただろう。牙をむき出したアザラシがカメラに向かって突進してくる映像には思わず身を引いた。あんな映像は初めて観た。アザラシも愛嬌のある生き物だが、ペンギンにとってはライオンの様な恐ろしい天敵だということがぞっとするほどリアルに体験できる。

  押しくら饅頭のようにペンギンたちが体を寄せ合って互いを暖め合う姿は何度観てもほほえましい。交代制になっているのには感心する。ペンギンの社会ではまだ「ご近所の力」がちゃんと機能しているのだ。中にはズルをする奴もいるのだろうか?いかん、擬人化のしすぎか。自分と卵の命がかかっているのだから厳しいルールがあるのだろう。

  とにかく、彼らの一番の問題は営巣地と餌場が離れすぎているということである。なにしろ片道100キロを歩いて行き来するのだから、観ているこっちがもどかしくなるほど不便だ。これに比べたら「裸の島」(新藤兼人監督)の水汲み労働など楽なものに思えてくる。

 求愛シーンもこれまたなんとも愛らしい。オスとメスが向かい合ってくちばしの先を合わせているシーンはしばらくストップモーションで観ていたいと思うほど素晴らしい絵になっている。人間のキスシーンそっくりで、「ET」の指と指をあわせるシーンよりも感動的だ。

  南極の自然の美しさと過酷さ、雛たちの可愛らしさ(親の腹の下からちょこっと顔を出す雛の愛らしいこと)と非情な生存への戦い(鳥に食べられた雛の映像に「あの子は海を見ることができないんだ」のナレーション)、涙ぐましい親たちの努力(片道100キロの旅、マイナス40℃という信じられない寒さ、時速250kmのブリザード、120日間の絶食、天敵との戦い、等々)。過酷な条件を無事生き抜いた雛たちは初めて見る海に次々と飛び込んでいく。ばたばたしていて泳ぎがぎこちない。その海で生き残ったものたちはまた親たちと同じように海から上がり、長い旅に出る。ペンギンたちはこの危険で長い旅を毎年毎年繰り返してきた。命を生み育てるという行動が人間を含めたすべての生き物の本源的営みである事にあらためて気付かされる。いろいろなことを学べる映画である。現実こそが何よりも雄弁な教科書なのである。

2006年2月10日 (金)

これから観たい映画・おすすめDVD(06年1~2月)

■新作映画
【外国映画】
「愛より強い旅」(トニー・ガトリフ監督、フランス)
「ある子供」(ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督、フランス・ベルギー)
「イノセント・ボイス」(ルイス・マンドーキ監督、メキシコ)
「イベリア 魂のフラメンコ」(カルロス・サウラ監督、スペイン・フランス)
「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督、英・チェコ・仏・伊)
「クラッシュ」(ポール・ハギス監督、アメリカ)  
「ジャーヘッド」(サム・メンデス監督、アメリカ)  
「白バラの祈り――ゾフィ・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督、独)  
「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督、アメリカ)  
「単騎、千里を走る。」(チャン・イーモウ監督、中国・日本)  
「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」(ジョン・マッデン監督、アメリカ)  
「PROMISE」(チェン・カイコー監督、中国・日本・韓国)
「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督、韓国)
「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督、南ア・米・英・伊)
「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ監督、アメリカ)
「歓びを歌にのせて」(ケイ・ポラック監督、スウェーデン)

【日本映画】yukiusagi
「あおげば尊し」(市川準監督)
「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「シムソンズ」(佐藤祐市監督)
「博士の愛した数式」(小泉堯史監督)

■ 新作DVD(1月下旬~2月)
【外国映画】
「ヴェラ・ドレイク」(マイク・リー監督、英・仏・ニュージーランド)
「大いなる休暇」(ジャン・フランソワ・プリオ監督、カナダ)
「チャーリーとチョコレート工場」(ティム・バートン監督、アメリカ)
「南極日誌」(イム・ピルソン監督、韓国)
「ビューティフル・ボーイ」(エカチャイ・エアクロンタム監督、タイ)
「ふたりの5つの分かれ路」(フランソワ・オゾン監督、フランス)
「ベルベット・レイン」(ウゾン・ジンポー監督、香港)
「やさしくキスをして」(ケン・ローチ監督、英・ベルギー他)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(チャールズ・ダンス監督、イギリス)

【日本映画】
「いつか読書する日」(緒方明監督)
「運命じゃない人」(内田けんじ監督)
「亀は意外と速く泳ぐ」(三木聡監督)
「樹の海」(瀧本智行監督)
「サマータイムマシン・ブルース」(本広克行監督)
「リンダ・リンダ・リンダ」(山下敦弘監督)

■ 旧作DVD
「パンドラの箱」(G.W.パプスト監督、ドイツ)
「揺れる大地」(ルキノ・ヴィスコンティ監督、イタリア)
「我は海の子」(ヴィクター・フレミング監督、アメリカ)

2006年2月 8日 (水)

Dearフランキー

sky_window 2004年 イギリス
原題:Dear Frankie
製作:キャロライン・ウッド
脚本:アンドレア・ギブ
監督:ショーナ・オーバック
音楽:アレックス・ヘッフェス
撮影:ショーナ・オーバック
美術:ジェニファー・カ-ンキ
出演:エミリー・モーティマー、ジェラルド・バトラー
    ジャック・マケルホーン、 シャロン・スモール
    メアリー・リガンズ、ショーン・ブラウン
    ジェイド・ジョンソン、カティ・マーフィ、アン・マリー・ティモニー

  イギリス映画には「ボクと空と麦畑」、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、「がんばれリアム」、「マグダレンの祈り」のような行き詰まり感の強い暗澹たる気分になる映画がある一方で、「ブラス!」、「フルモンティ」、「リトル・ダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「ベッカムに恋して」、「カレンダー・ガールズ」のような、頑張れば道は開かれるという明るい色調の映画がある。「Dear フランキー」は後者の部類に入る。

 舞台はスコットランド。ロケがおこなわれたのは、スコットランドはグラスゴー近郊のグリーノックという港町。そこは何と主演の一人ジェラルド・バトラーの故郷の近くだそうである。「ロケ地がスコットランドの、僕が育ったところから7マイルくらいの場所なんだ。場面によっては3マイルのところもあった。信じられない思いだよ。」スコットランドのどんよりとした空とその下のもやったような美しい景色が効果的に映し出されている。これが長編第一作になるショーナ・オーバック監督は元々写真家だったそうで、撮影も彼女が担当した。とにかく海の景色が素晴らしい。丘の上から町を見渡すシーンは確か映画の中でマリーが「世界一だ」と言っていたが、そういいたくなる気持ちが分かるほど美しい。

  主人公のリジーを演じるのはエミリー・モーティマー。「キッド」、「ケミカル51」に続いて彼女を観るのはこれが三作目。特に「ケミカル51」の印象が鮮明だ。殺し屋の役だが、いきなり冒頭の結婚式の場面で花嫁のような白い衣装を着て登場する。教会で突然ハシゴを登り機関銃を組み立て始める。首尾よく参列者の一人を撃ち殺し、教会の鐘撞きロープを伝って下に降り、何食わぬ顔で脱出する。「キルビル」さながらで、なかなか色気もあってすっかり魅了された。本作では細身の体を生かして、繊細だが芯の強い母親役を好演している。彼女の息子フランキー役はジャック・マケルホーン。耳の聞こえない子供の役だが、言葉ではなく目や表情で感情を表現する難しい役を見事にこなしていた。

  話は単純である。夫の暴力に耐えかねて家を飛び出したリジーは母のネル(メアリー・リガンズ)と息子のフランキーと3人で転々と住所を変えながらひっそりと暮らしていた。フランキーは夫の暴力のせいで耳が聞こえない。幸い幼い頃の出来事で、フランキー本人はその事情を知らない。父親を知らないフランキーに、父親は「ずっとACCRA号で世界中を航海しているので会えないのよ」とリジーは説明していた。父を慕うフランキーは父親に手紙を書き、リジーは父親のふりをして自分で手紙に返事を書いていた。しかしたまたまACCRA号という船が近くの港に寄港することが分かる。リジーは辻褄を合わせるために一日だけ父親役を演じてくれる男を探す羽目になる。

  リジーは口紅を塗り、慣れないマニキュアをつけて、1日だけの父親になってくれる男を探すために夜酒場に出かける。しかし娼婦と間違えられ「ここで商売をしてもらっちゃ困る」と言われてしまう。逃げるように店を出たリジーは、海岸近くのベンチで泣きながら夜を明かす。口紅を塗るシーンをじっくり映すことで、普段はそんなものを塗っていないことが逆に分かる。夫の暴力に懲りて、男性に恐怖感を持つようになっていたのだろう。久しく女としての自分を忘れていたのに違いない。さりげない描写がそれをうまく表現していた。

  父親役として友達のマリー(シャロン・スモール)が紹介してくれた男(ジェラルド・バトラー)は寡黙で暗い感じの男だった。どうせ一日だけの父親役だから「過去も現在も未来もない男」でよかった。リジーはその男の名前も知らず、彼も言わない。とりあえずフランキーの実の父親の名前デイビー・モリスンを名乗らせる。

  ところが父親と会う当日になってフランキーが見つからない。港にいるところが発見され、マリーに連れられて家に戻ってくる。なぜか暗い表情をしている。あれほど父親に思いを寄せていながら、いざ会う段になると、はじめて会う父親にどう接していいかわからなかったのだろう。手紙でしか知らない父親。一体どんな人なのか。合いたい気持ちと合いたくない気持ちが相半ばして、気持ちが整理できなかったのではないか。フランキーの不安な気持ちは十分われわれにも理解できる。さりげないひとこまだが大事なシーンだ。

  初めて「父親」と対面した時は双方ぎこちない。「父」は前からフランキーが欲しがっていた熱帯魚の図鑑をプレゼントする。それは手紙を読んでいなければ分からないことだった。この人は本当のパパだとようやく納得したフランキーは、にこっと笑って「父」に抱きつく。びっくりした「父」は最初手を広げたままだが、やがて大きな手でしっかりとフランキーを抱きしめる。ここは本当に素晴らしい場面だった。ぎこちなさから自然な感情の発露に変わる微妙な空気の変化、張り詰めた緊張が少しずつ溶けてゆく。二人を見つめていたおばあちゃんの顔もすてきだった。

  実は、フランキーのことを知ってもらおうと、リジーは「臨時の」父親にフランキーからの手紙を渡してあったのである。彼はその手紙をしっかり読んでいた。フランキーの手紙は間違いなく「父親」に届いていたのである。この伏線の使い方が見事だ。

 父 親を演じるジェラルド・バトラーが実に魅力的である。がっしりとした体つきで、いつも硬い表情を崩さないが、フランキーを見る目には優しさがこもっている。渋い表情の寡黙なmado_hito_01 男。最後まで謎めいているが、忘れがたい印象を残す。  「父親」との出会いに戸惑っていたのはフランキーだけではない。ほとんど実の夫以外男を知らない感じのリジーも、この初めて出会うタイプの男に戸惑っていた。「父親」と出会いフランキーはどんどん明るく変わってゆくが、同時に母親のリジーも男へのかたくなな警戒心を少しずつ解いてゆくのである。この気持ちの変化がストレートに愛情に変わらないところに演出の見事さを感じる。むしろ最初のうちは、あまりにも息子と親しくなる「父親」に対して、リジーは息子を取られるのではないかとはらはらするのである。

  約束の一日が終わった時、男はもう一日フランキーと会わせてほしいとリジーに頼む。あくまで単なる契約として片付けたいリジーは最初断る。男は「 フランキーは(父親を)待っていた。君自身も待っていたんだろう?」と説得する。彼は彼女の中の微妙な気持ちの変化を既に読み取っていたのだ。結局リジーが折れて次の日も会えることになる。

  二日目、リジーは仮の「夫」と並んで海岸沿いの道を歩いている。すっかり警戒心を解いていたリジーは彼にいろいろな事情を打ち明ける。夫のこと、暴力のこと、そして手紙のこと。「偽の手紙はやめようといつも思うの。手紙が途絶えればあの子もあきらめるわ。でも実は私自身があの子の返事を欲しがっているの。唯一聞ける“声”よ。」この映画で最も感動的な台詞だ。

  たった二日の出会いだが、男はリジーとフランキーを大きく変えてしまった。彼を介してフランキーとリジーの複雑でもどかしいほどの気持ちの揺れが描かれている。フランキーの気持ちをとらえた男は、リジーの気持ちもとらえかけていた。二日目が終わりいよいよ別れの時、男とリジーは戸口で長いこと見つめあい軽くキスを交わす。男は去ってゆく。いかにもという展開だが、しかしこのまま予想される結論にはまっすぐ進んで行かない。これと前後して実の夫が介入してくる。彼の姉が、弟が病気で先が長くないので息子に会わせてやってほしいと懇願してきたのだ。リジーの気持ちはさらに揺れ動く。結末は書かないが、この展開が絶妙だ。

  ストレートな映画だが、決してあざとい演出で泣かそうとはしていない。ストーリーも名作「一日だけの淑女」を思わせるところがあり、そう目新しいものではない。しかし深い感動を伴う映画に仕上がっている。ありきたりの映画と何が違うのか。違いを説明するのは難しいが、恐らくこの映画がわれわれに感動を与えるのはそこに成長が描かれているからだろう。たとえ息子を思いやる気持ちから発したこととはいえ、偽りの手紙を書き続けるリジーはやはり現実から逃げていた。この映画が感動的なのはリジーとフランキーが二人とも逃げることを止め、現実を見つめ、それを乗り越えてゆこうとするからである。母も子も前に進む道を選択したのだ。一時しのぎの二日間が過ぎた後、母子はまた元の状態に戻ったのではない。ラストでリジーが受け取ったフランキーの手紙は彼の最後の手紙である。もう手紙は必要なくなったのだ。手紙がなくても二人は寄り添って歩いてゆける。二日間だけの「父親」は二人の絆をより強くするための触媒だった。役目が終われば彼は去ってゆくのである。「シェーン」のアラン・ラッドのように。リジーとフランキーが二人で寄り添いながら霧に煙る夕暮れの海を見つめるラスト・シーンが素晴らしいのは、単に景色の美しさだけのせいではない。

  いや、偽の「父」もフランキーと接することで変わっていったのだ。もう一日会わせてほしいと頼んだのは彼の方である。最初受け取った謝礼も最後に全部返す。お金以上に大切なものをフランキーから受け取ったからだ(フランキーがタツノオトシゴの粘土細工を彼に贈るシーンは感動的だが、もちろんそれだけを指して言っているのではない)。それは丁度フランキーにとって「父」からもらった平らな石が何物にも代えがたい宝であったのと同じである。

  しかしフランキーはその石をいつまでもとっておきはしなかった。大事にしていたその石を彼は水きり遊びに使う。その石は今までになく何度も水の上をはねた。石はあくまで石に過ぎない。フランキーはそんなものがなくても生きてゆける強さをいつの間にか身につけていたのである。以前は石を何回投げても1回でドボンと沈んでいた。あの平らの石を投げた時は見事に水を切って何度もはねた。石が平らだったからだが、それだけではない。フランキーが正しい投げ方を学び、遠くまで石を投げられるほど成長していたからでもある。フランキーは確かに成長していた。もう思い出の石は必要ない。もはや手紙を必要としなくなっていたのと同じように。なぜなら彼は「心の父」を得たのだから。

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2006年2月 7日 (火)

2005年公開外国映画の概況

tuki_gura_250_03   以前、現在の世界映画界のランク付けをして、アメリカ、韓国、中国が横綱、フランス、イギリス、イランが大関だと書いたことがある。このなかで中国映画の公開数がこの2、3年激減している。昨年公開されたのは「世界」と「故郷の香り」、「わが家の犬は世界一」程度。「PTU」、「ワン・ナイト・イン・モンコック」等の香港映画を加えても両手に余る。おそらくレベルが落ちているわけではないだろう。韓国映画に勢いがあるので、配給会社が地味な中国映画よりも儲かる韓国映画の輸入に力を入れているせいではないか。ただ90年代以降数々の傑作を放ってきているので、長いタイムスパンで考えればまだ横綱から陥落させるほどではないと思う。

  イラン映画も昨年話題になったのは「亀も空を飛ぶ」だけ。しかしイラン映画はもともと公開数が少ない。しかも「亀も空を飛ぶ」は「酔っ払った馬の時間」のバフマン・ゴバディ監督作品だけに傑作に違いない。大いに期待している。イラン映画も中国映画と同じ理由でまだ大関からはずすほどではないと思っている。

  逆にこの間力をつけてきたのはスペインとドイツである。まだ公開数は少ないが作品のレベルは驚くほど高い。スペインの「海を飛ぶ夢」、「バッド・エデュケーション」、「キャロルの初恋」、ドイツの「ヒトラー 最期の12日間」、「天空の草原のナンサ」、「ベルリン・僕らの革命」。いずれも傑作、注目作ぞろい。どちらも80年代に復活し、90年代後半は世代交代で一時低迷したが、2000年代に入ってからまた傑作を次々に生み出している。現在は関脇クラスという感じか。これからもどんどん傑作を送ってくるだろう。

  2003年ほどではないが、これらの国以外からの映画も結構入ってきている。特に注目されるのは初めて日本で公開されたウルグアイ映画「ウィスキー」である。退屈な映画なので僕はあまり評価しなかったが、キネ旬の7位に入っている。ギリシャからはベストテン常連のテオ・アンゲロプロス監督作品「エレニの旅」が2位に入っているばかりか、「タッチ・オブ・スパイス」という傑作も公開された。そろそろアンゲロプロス以外の才能が育ってきてもいい頃だろう。最近話題になることが多いタイ映画では「風の前奏曲」に注目!未見だが十分期待できそうだ。珍しいボリビア映画「最後の庭の息子たち」も楽しみだ。オランダの「マゴニア」、アイルランドの「ダブリン上等!」もなかなかの出来。

  かつての映画大国イタリアは長い間低迷が続いている。昨年は「輝ける青春」くらいしか注目作がなかった。寂しい限りだ。ただこれはなかなかの大作らしいので期待できそうだ。ベルギーは常連ダルデンヌ兄弟による「輝ける青春」が話題だ。80~90年代に絶頂期を迎えた台湾映画も昨年は「生命 希望の贈り物」程度で、めっきり勢いが衰えたのは残念である。そのほか、アルゼンチン、ブラジル、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ハンガリー、ロシア、ポーランド、オーストラリアなどにはめぼしいものはなかった。

  アメリカ映画は、「シンデレラマン」のレビューに書いたように、昨年は一時の低迷から回復した。これまで観た中でも、「ミリオンダラー・ベイビー」、「サイドウェイ」、「シンデレラマン」、「きみに読む物語」、「ビフォア・サンセット」など傑作クラスがかなりある。まだ観ていないものでも期待できそうな作品はいくつかある。ただ、相変わらず外国映画の再映画化やヒット作の続編物が多く、行き詰まり感はぬぐえない。「スター・ウォーズ エピソード3」などはドラマが貧弱で、アナキンが闇の勢力に落ちて行くあたりの説得力がまったくなかった。ベストテンの上位に入ったのはシリーズ完結のご祝儀としか思えない。アメリカの現状に対する批判的姿勢を貫いた作品がほとんどなかったのも残念だ。

xclip-r1   韓国映画はまさに日の出の勢い。怒涛のように入ってきた。ものすごい勢いだが、「彼女を信じないでください」のレビューに書いたように、かなり粗製濫造の気配が顕著になってきて心配だ。ジャンル的には相変わらずラブ・ロマンスが花盛り。ただ、軍事政権時代を正面から描いた「大統領の理髪師」という異色の傑作が生まれたことは韓国映画のレベルの高さを物語っている。キム・ギドクやパク・チャヌクなどの常連の他に監督第一作を引っさげて登場した人も多く、引き続き新進監督の養成がうまく行っていることが伺える。粗製濫造気味とはいえ、次からつぎから新しい監督がデビューしてくる韓国にはやはり勢いが感じられる。スター中心の映画作りが目立ってきており、だんだんハリウッドの様になって行くのが気がかりだが、しばらくこの勢いは続くだろう。

  フランス映画は「ロング・エンゲージメント」と「コーラス」と「皇帝ペンギン」しかまだ観ていないが、他にも「ライフ・イズ・ミラクル」、「そして、ひと粒のひかり」、「ソン・フレール 兄との約束」、「クレールの刺繍」、「真夜中のピアニスト」、「愛より強い旅」、「灯台守の恋」などが50位以内に食い込んでいる。ユーゴスラビア出身のエミール・クストリッツァやアルジェリア出身で一貫してロマ民族を描いてきたトニー・ガトリフなどがフランスで撮っていることは、かなりフランス映画の幅を広げている。おなじみフランソワ・オゾン監督の「ふたりの5つの分かれ道」も86位と下位ながらランクされている。ただ、フランス映画は皆そこそこいい線を行っているのだが、どうしても10位以内には食い込めない。この10年くらいはそんな印象だ。「アメリ」クラスの映画がなかなか現れない。しかし層が厚いので、いつか群を抜く傑作が現れるだろう。

  イギリス映画は90年代の爆発的勢いを失ってしまったが、昨年はここ数年で一番充実していた。「ヴェラ・ドレイク」、「Dearフランキー」、「愛をつづる詩」、「ラヴェンダーの咲く庭で」、「ミリオンズ」、「運命を分けたザイル」、「やさしくキスをして」と7本もランクイン。「Dearフランキー」と「運命を分けたザイル」は傑作だった。「ヴェラ・ドレイク」と「ラヴェンダーの咲く庭で」は、イラン映画「亀も空を飛ぶ」やドイツ映画「天空の草原のナンサ」と並んで、今一番見たい映画である。昔から才能ある映画人がアメリカに流出してしまう傾向があるが、今は数カ国が出資して映画を作ることが当たり前の時代。それほど問題にしなくてもいいのかもしれない。それでも、傑作と呼べるのはイギリスらしさを色濃く持った作品が多い。アメリカに飲み込まれずに今後もイギリスらしい映画を作り続けてほしい。

2006年2月 6日 (月)

2005年公開映画マイ・ベストテン

kabin_hana_03   今日『キネマ旬報』のベストテン号が発売された。毎年必ずベストテン号だけは買っている。もう20年以上そうしている。普段はよほどいい特集でもなければ買うことはない。

 映画のベストテンは各種あるが、『キネマ旬報』のベストテンが有用なのは得票が入ったすべての映画が掲載されている点である。他のベストテンは文字通り10位までしか示されていない。これでは資料としての価値はない。僕は『キネマ旬報』のベストテンを、見逃した映画のチェックとその年の傾向を確認する材料に使っている。ここにほぼ見る価値のある作品が網羅されているからである。当然入ってしかるべきものが選外になっていることもあるが(例えば今回の「マラソン」)、それはほんのわずかである。ここに載っていなければほとんど無視して差し支えないだろう。順位そのものは大して意味は無い。納得の行く順序で並んでいたことなど一度もないのだから。

  僕は映画館で映画を観ることは滅多にない。ほとんど9割以上はDVDで観ている。したがって2005年公開映画でめぼしいものをほぼ観終わるには、今年の夏ごろまでかかるだろう。しかしその頃に2005年のベストテンを出しても遅すぎる。そこで『キネマ旬報』ベストテン号の発売にあわせて、とりあえず2005年前半期のマイ・ベストテンを載せることにした。当然暫定的なベストテンで、順位は順次入れ替えてゆくことにする。

  なお、今年ははじめて日本映画のベストテンを付けた。近年になく充実した年だったのでベストテンをつけてみたくなったしだい。2005年公開外国映画の概況については、あらためて別に書くことにする。

【2005年外国映画マイ・ベストテン】

1 亀も空を飛ぶ           バフマン・ゴバディ監督
2 大統領の理髪師         イム・チャンサン監督
3 ヒトラー 最期の12日間    オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督
4 海を飛ぶ夢             アレハンドロ・アメナーバル監督
5 ライフ・イズ・ミラクル       エミール・クストリッツァ監督
6 ロード・オブ・ウォー       アンドリュー・ニコル監督
7 天空の草原のナンサ      ビャンバスレン・ダバー監督
8 タッチ・オブ・スパイス      タソス・ブルメティス監督
9 キャロルの初恋         イマノル・ウリベ監督
10 ミリオンダラー・ベイビー    クリント・イーストウッド監督
次 サイドウェイ           アレクサンダー・ペイン監督
次 風の前奏曲           イッティスーントーン・ウィチャイラック監督

 シンデレラマン           ロン・ハワード監督
 ヴェラ・ドレイク           マイク・リー監督
 コープス・ブライド         ティム・バートン監督・製作
 シン・シティ             ロバート・ロドリゲス監督
 ミリオンズ              ダニー・ボイル監督
 ランド・オブ・プレンティ      ヴィム・ヴェンダース監督
 Dearフランキー            ショーナ・オーバック監督
 やさしくキスをして         ケン・ローチ監督
 旅するジーンズと16歳の夏      ケン・クワピス監督
 運命を分けたザイル         ケビン・マクドナルド監督
 ロング・エンゲージメント     ジャン・ピエール・ジュネ監督
 ビフォア・サンセット             リチャード・リンクレイター監督
 きみに読む物語           ニック・カサヴェテス監督
 ラヴェンダーの咲く庭で      チャールズ・ダンス監督
 ボーン・スプレマシー        ポール・グリーングラス監督
 マゴニア               イネケ・スミツ監督
 コーラス                クリストフ・バラティエ監督
 わが家の犬は世界一       ルー・シュエチャン監督                  

 

【2005年日本映画マイ・ベストテン】

 日本映画は10位までほとんど横一線。どれが一位でもおかしくない。とりあえず並べてみただけ。

1 メゾン・ド・ヒミコ          犬童一心監督
2 運命じゃない人                    内田けんじ監督
3 ALWAYS三丁目の夕日         山崎貴監督
4 パッチギ                            井筒和幸監督
5 村の写真集                        三原光尋監督
6 フライ、ダディ、フライ             成島出監督
7 リンダ リンダ リンダ     山下敦弘監督
8 いつか読書する日       緒方明監督
9 青空のゆくえ          長澤雅彦監督
10 カーテンコール         佐々部清監督
次 NANA             大谷健太郎監督

  空中庭園             豊田利晃監督
  亀は意外と速く泳ぐ       三木聡監督

2006年2月 5日 (日)

ヒトラー 最期の12日間

clip-lo4 2004年 ドイツ
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
原題:DER UNTERGANG
原作:ヨアヒム・フェスト著「ヒトラー ~最後の12日間」
    トラウドゥル・ユンゲ著「私はヒトラーの秘書だった」
製作、脚本:ベルント・アイヒンガー
出演:ブルーノ・ガンツ、アレクサンドラ・マリア・ララ
    コリンナ・ハルフォーフ、ユリアーネ・ケーラー
    トーマス・クレッチマン、ウルリッヒ・マテス、ハイノ・フェルヒ
    ウルリッヒ・ノエテン、クリスチャン・ベルケル
    ミハエル・メンドル、マティアス・ハービッヒ、ゲッツ・オットー

  この映画は、当然のことながら、評価が大きく分かれている。扱う人物が人物であり、自殺にいたる彼の最後の日々をリアルに描いたことが彼の人間性に光を当てることになり、そのことが彼を肯定することにつながるのかどうかにおいて意見が分かれるのである。戦犯に問われた人物などを擁護するよく使われる手は、その人物が果たした歴史的役割を一切排除し、その人物の私生活を描く方法である。家庭では優しい人物だった。他人によく気を配り・・・。こうしてその人物を肯定してしまう。いわば一般論で押し切ってしまうやり方だ。「ヒトラー 最期の12日間」はそうなっているか。結論から言うと、僕はこの映画はその手の映画ではないと思う。この映画のナレーションはヒトラーの秘書だったトラウドゥル・ユンゲである(彼女の著書が原作の一つ)。彼の最期を実際に見聞きした人物として証言しているというかたちである。その際重要なのは、ヒトラーに対する彼女の立場である。ナレーションに出てくるが、彼女は彼を妄信していた若い頃の自分を反省した上で証言している。単に若気の至りというだけではなく、真実を見ようとする意識が欠如していたことを自覚し、反省した上で語っている。――ちなみにそのきっかけは、戦後に強制収容所の被害者の中にゾフィー・ショルがいたことを知ったことである。有名な「白バラ」のゾフィー・ショルである。80年代に観た「白バラは死なず」(1982年:ミヒャエル・ヘルフォーヘン監督)が懐かしいが、偶然か今「白バラの祈り ゾフィ・ショル、最期の日々」(2005年:マルク・ローテムント監督)が公開中である。――

  したがってヒトラーは決して美化されていない。思うように戦況が進まないことに腹を立て、将軍たちの無能さにイライラを爆発させ、ありもしない援軍とその反撃に期待を寄せる、追い詰められ正常な判断力を失った人物として描かれている。記録フィルムに残っているしゃんと背筋を伸ばし激越な演説をぶっている彼の姿はもはやなく、前かがみになってよたよたと歩き、背中で左手を絶えず神経質そうにひらひらと動かしている。秘書の彼女たちには優しい言葉をかける一面もあるが、終始イライラをつのらせて怒鳴り散らしている人物として描かれている。

  もちろん、ここに描かれたヒトラー像がたとえ真実に近いものだとしても(これがどれだけ真実に近いものなのかはもはや誰にも分からない)、世界中に多大な被害をもたらした独裁者の人間性を描き出すこと自体もってのほかであるという考え方もあるだろう。しかしこれも間違いだと思う。確かにヒトラーが「エイリアン」や「宇宙戦争」のように地球外のエイリアンか何かだったら理解しやすい。しかし彼は普通の人間であり、人を愛し信頼することも出来たのである。一面ではごく普通の優しい人物が一方で歴史的な大罪を犯せるという視点さえぶれていなければ、これはヒトラーという独裁者研究として第一級の資料となりうる。過去の忌まわしい出来事として忘れ去るのではなく、普通の人間からはかけ離れた異常な殺人鬼として片付けてしまうのではなく(そう出来れば気が楽だが、もしそうだとしたらなぜあれだけ崇拝されるカリスマになれたのか説明できない)、冷静にその人物(単に人間性だけではなく彼の思想や実際の行動も含めて)を見極めることは歴史的に重要な作業である。

  もう少し実際の映画に即して具体的に見てみよう。最後近くでエヴァ・ブラウン(ユリアーネ・ケーラー)とユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)が交わす会話が出てくる。エヴァは言う。「彼、つまり夫とはもう15年よ。でも彼のこと何も分かってない。話はするのに、追ってきたら彼は変わっていた。」それを聞いてユンゲは次のように言う。「総統の内面は謎だわ。つまり、私生活ではお優しい。その一方で冷酷な言い方も。」それを受けてエヴァ。「“総統”の時ね。」ここには私人としてのヒトラーと「総統」としてのヒトラーの二面がくっきりと描き出されている。この視点が重要なのである。総統官邸の地下要塞に閉じこもったヒトラーに焦点を当ててはいるが、決して彼を超人的な英雄としても、誰に対しても優しい人物としても描いてはいない。この視点は映画全体の視点でもある。もちろんユンゲの描き方には、自己反省の上にたっているとはいえ、彼女の自己弁護も入り込んでいるだろう。しかも彼女がナレーションを引き受けているかたちなのでその自己弁護は(もしあったとして)そのまま肯定されている。しかし彼女のナレーションは最初と最後にちょっと出てくるだけである。映画の大きな枠組みを形作ってはいるが、全体としては客観描写が大半を占める。ユンゲが直接見聞きしたこと以外も描かれている。この点が重要だ。

  「ヒトラー 最期の12日間」はヒトラー個人だけではなく、その周りの高官たちや一般市民も視野に入れて描いている。一般市民は点景として描かれているだけで十分描きこまれているとは言えないが、映画の視野に入っていることは重要だ。内科医であるエルンスト=ギュンター・シェンク教授(クリスチャン・ベッケル)が見た市民の現実(SS[親衛隊]が市民を殺し、病院には負傷者がすし詰めで、医者はただ患者の手足を切るだけ等々)と少年兵ペーターの視線が差し挟まれている。年端のいかない少年や少女たちが何の疑問も抱かずに第三帝国のために戦おうとし、また惨めに死んでゆく姿には薄ら寒いものを感じる。ドイツの側から第二次世界大戦を描いたドイツ映画の名作「橋」を連想させられる。ドイツ第三帝国の崩壊を目前にしたナチス高官たちの様々な対応も重層的に描かれ、映画は重厚な群像ドラマになっている。睡眠薬で眠らせた5人のわが子に、「ナチ以外の世界で子供は育てられない」とゲッベルス夫人が一人ひとり毒の入ったカプセルを飲ませてゆくシーンには鬼気迫るものがある。あくまで毅然とした態度を崩さず、断固として実行するその姿にわれわれは戦慄する。しかも、子供を殺す一方でヒトラーには「逃げて生きながらえて」と泣いて懇願する姿に、個人崇拝の恐ろしさがよく描かれている。この個人崇拝がどのようにして作り上げられたのかは描かれないが、恐るべき実態は観客の目の前にさらされている。国民的規模で展開された集団催眠、人間性の破壊。ナチスに関して恐ろしいのはこの広がりと徹底ぶりである。多くの考えさせられる材料がここに提示されている。

  ヒトラーの思想面もかなり描き込まれている。冒頭、砲声が鳴り響く中、ミニチュア都市を前にヒトラーがそのミニチュアを製作したシュペーアに語る場面がある。「第三帝国は単なる先進国ではない。むろんデパートや工場、摩天楼も必要だ。だが何より芸術文化の宝庫として何千年も栄える今に残る古代都市、アクロポリス、大聖堂のそびえる中世都市、そういうものを築きたい。そうだ、シュペーア、それが私の夢だった。むろん今も。」ヒトラーが頭の中で思い描いた空中楼閣。これが彼の思想面の中核にあるのかどうかはこれだけの引用では分からないが、映画的にはこれがミニチュア模型である事が重要である。人のいない抽象的概念都市。その都市に住む市民の不在。彼の頭の中には市民の占める位置はほとんどなかったのではないか。映画の中の彼は一般市民など軽蔑していた。

  ある高官がソ連軍の迫るベルリンからの市民の避難を提案する。ヒトラーは聞き入れない。「戦時に市民など存在せん。」それどころか、「敵がどこへ行っても廃墟しかないように」しろと指示する。高官は説得を試みる。「国民に死ねと?電気もガスも水道も燃料もなく鉄道も運河も港も破壊したなら中世に逆戻りです。国民は生き残れません。」「戦争に負けたら国民がなんになる。無駄な心配だ。国民が生き残れるかどうかなどは。破壊し尽くせばいい。それで生き延びられねば弱者だということだ、仕方ない。」「あなたは国民の総統です。」「クズしか残るまい。最良のものたちは既に死んだ。」彼には市民など眼中にない。

  追い詰められたヒトラーの怒りはナチスの高官にまで及ぶ。ふがいない将軍たちを呪ってヒトラーは叫ぶ。「私は士官学校など出てはいないが、それでも独力で欧州を征服したぞ。裏切りども、奴らは最初から私を裏切り、だまし続けた。ドイツ国民への恐るべき裏切りだ。だが見てるがいい、その血で償う時が来る。己の血で溺れるのだ。」ここで怒りの爆wi00 発から、諦めへとトーンが変わる。「私の命令は届かない。こんな状態でもはや指揮は執れない。終わりだ。この戦争は負けだ。だが言っておく、私はベルリンを去るくらいならいっそ頭を打ち抜く。みな好きにしろ。」最後はうつむき加減で弱弱しく語る。ここでの「ドイツ国民への恐るべき裏切り」という台詞は何と空虚な響きがすることか。「国民」を連呼するが、その実彼は国民などバカにしていた。「弱者」で「クズ」にすぎない。要するに彼の演説はこういう性質のものだった。彼の言う「国民」は単なるレトリックに過ぎなかったことが分かる。

  彼はしかし信念の人だった。誤った信念の。この「誤った」という認識は重要である。ある人物を「信念の人」と描き出すことは、これまたそれがどんな信念であるかを不問に付して、その人物を肯定する手口としてよく使われるからだ。それはともかく、ヒトラーはその「誤った」信念を徹底して追及した。彼がカリスマになれたのはそのためだろう。彼はその信念を実現するために自己の内部にある「弱さ」を徹底して排除した。「弱さには死あるのみ。いわゆる人道など坊主の寝言だ。同情は最大の罪だ。弱者への同情は自然への背理だ。私はこの自然の掟に従い、同情を自らに禁じてきた。内部の敵を押さえつけ、他民族の抵抗を容赦なく粉砕してきた。それしかない。例えば、猿はどんなよそ者も徹底して排除する。猿でさえそうだ。まして人間なら当然。」

  あるいはシュペーア相手にこうも語っている。「ドイツと世界のために壮大な構想があった。だが誰も理解しない。最古の同志さえも。つくづく悔やまれる。もう遅い。公然とユダヤ人に立ち向かったことが誇りだ。ユダヤの毒からドイツの地を浄化した。死ぬのは難しくない。ほんの一瞬だ。そして後は永遠の平安。」シュペーア「国民はご容赦を。」ヒトラー「わが国民が試練に負けても私は涙など流さん。それに値しない。彼らが選んだ運命だ。自業自得だろう。」彼の信念のためには個人や他民族への同情などはむしろ排除すべき要素だった。たとえ彼自身が人を銃で撃ち殺すことはしなくても、それを冷酷に命ずることは出来た。彼は同情心を抹殺してしまっているのだから。ユンゲが疑問に思った彼の二面性はこの様な非人間的なまでに徹底した「自己管理」、「自己改造」のなせる業だったのである。常人には出来ないことだ。だからユンゲには「謎」なのである。どうしてあんな優しい人があんな冷酷なことを言えるのか。彼女には理解できない。彼女には、例えば、自殺用の毒薬を彼女たちに渡す時のヒトラーの「すまないね こんな物しかやれん」という優しい話し方が思い浮かんでしまうのだろう。しかし映画は彼女の理解の限界を超えて、この冷酷さ、この二面性を事実として提示している。彼女の視点の限界は映画そのものの限界ではない。映画は彼女自身をも相対化している。この点を理解しておくことは重要である。

  恐ろしいのは、国民に対する考え方がヒトラー以外の人々にかなり浸透していることである。モーンケ少将(アンドレ・ヘンニッケ:宮口精二似で実に印象的な俳優だ)は市民軍の投入をやめるよう大臣ゲッベルスに訴える。「市民軍は敵の餌食です。経験も装備も乏しくて。」「その不足は彼らの熱烈な勝利への執念が埋める。」「武器がなければ戦えません。犬死です。」「同情はしないね。彼らが選んだ運命だ。驚くものもいようが、われわれは国民に強制はしていない。彼らがわれわれに委ねたのだ。自業自得さ。」意識的な台詞だろうか。「同情はしない」、「自業自得」という言葉はヒトラーと同じだ。実際ゲッベルスは子供たちを殺した後、夫婦ともどもヒトラーの後を追って自殺する。他にも戦争が終わっているのに自殺する兵隊が後を絶たないことが描かれている。日本でも終戦前後に同じようなことが多発した。何が一体人々をここまで駆り立てるのか。なぜここまで人々は誤った信念を持ってしまうのか。同じ過ちを繰り返さないためにも、この点は徹底して追及される必要がある。

  映画はヒトラーの自殺直後で終わらず、第三帝国が瓦解してゆく様をしばらく映して行く。脱出したユンゲとペーター少年が手をつないでソ連兵の間を抜けてゆくシーン、それに続く少年を乗せて自転車で走ってゆくユンゲの映像にはほっとするものを感じた。悪夢の様な映像の後に差し挟まれた希望を感じさせる瞬間。暗澹たる気分で観終わるよりは良いだろう。

  基本的にこの映画を肯定してきた。ヒトラーという人物像を描くこと自体を拒否することは、歴史から目をそむけることである。僕はあえてそこまで言いたい。しかし逆の見方をすれば、ヒトラーの最期の日々を描いているために、彼が犯してきた戦争犯罪そのものやなぜどのように彼が権力を手に入れたのかなどはほとんど描かれていない。この映画の真摯さは認めながらも、その点に懸念を感じる人は多い。当然の批判だろう。だが、ヒトラーを肯定していないものであれば、このように彼の個人的な面を描いたものがあってもいいはずだ。全盛時代の彼ではなく自殺直前の彼を描いたことは、国民をひきつけるカリスマではなく打ちひしがれた負け犬の独裁者としての姿を人々の前にさらすことでもある。演壇で手を振り上げて演説する彼の姿に、このうつむき加減の最期の姿を加えることはヒトラーの全体像を捕らえる上で重要な意味を持つ。強制収容所の最高責任者であるヒムラーがほとんど出てこないのは意図的なのか、この点は疑問が残るが。

  あるいは、加害者としてではなく、被害者としてのドイツ国民を描いていることに対する批判もある。この考え方には疑問を感じる。被害者としての側面を強調することは必ずしも加害者としての側面を覆い隠すことではない。戦争の場合、純粋な加害者や被害者というものはほとんど存在しない。銃後にいて直接戦場に赴かなかった人でも、何らかの形で戦争に加担している。戦場で何人もの人を殺した兵士も、殺人マシーンに変えられてしまったという意味では(重い戦争後遺症を患うものもいる)被害者だ。勝ち負けにかかわらず、戦争は物質的・精神的に双方の側に多大な被害を及ぼしている。戦争に勝者はいない、そう考えるべきだ。少なくとも、この映画の場合、砲撃にさらされ逃げ惑い、あるいは同じドイツ人に殺されたりするドイツ国民の姿は、例えば強制収容所の蛮行を覆い隠すための隠れ蓑として、あるいは、彼らこそ真の被害者である事を強調する目的で描かれてはいない。

  もう一つ、逆に心配なのはヒトラーや第三帝国の末路に同情してしまう見方である。この映画の中のヒトラーを観て悲しくなった、切なくなったという声も一部にある。これは確かに危険である。もちろんその人たちも決してヒトラーを肯定しているわけではないが、この映画に哀れさや悲哀感を感じてしまう。この映画に問題があるとすればこの点だと僕は思う。自分の中に確固としたヒトラーに対する認識が出来上がっていなければ、悲哀感にとらわれてしまう危険性は確かにある。

  ヒトラーは「私は世界中から呪われるのだろう・・・」と言い残して死んでいった。最後にソ連映画の傑作「炎/628」のレビューを引用して終わりたい。

  主人公の少年は(この時には髪が白くなり、額には皺が深く刻まれ、くちびるは割れてふくれあがり、一日にして老人のようになっている)水溜りに落ちているヒトラーの写真を銃で撃ち続ける。撃つごとに当時のニュースフィルムが逆回転で映される。軍隊は後ろに行進し、投下された爆弾は次々に爆撃機の中に納まる。そしてニュースの中のヒトラーは少しずつ若くなり、最後は母親に抱かれた赤ん坊になる。その時少年は撃つのをやめる。何がこの赤ん坊を誤った信念に取りつかれた独裁者に変えたのか。時間を元にもどしてほしい、失われた家と人々をわれわれに返してほしい、という作者の思いが痛いほど伝わってくる。

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2006年2月 4日 (土)

シンデレラマン

car1 2005年 アメリカ

監督:ロン・ハワード

原案:クリフ・ホリングワース

脚本:アキヴァ・ゴールズマン、クリフ・ホリングワース

撮影:サルヴァトーレ・トチノ

音楽:トーマス・ニューマン

出演:ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウィガー、ポール・ジアマッティ
    クレイグ・ビアーコ、ブルース・マッギル、パディ・コンシダイン
    コナー・プライス、アリエル・ウォーラー
、パトリック・ルイス
    ロン・カナダ、デヴィッド・ヒューバンド、リンダ・カッシュ
    ローズマリー・デウィット、ニコラス・キャンベル

 

  2、3年前から続いていたアメリカ映画の不振は昨年あたりから徐々に回復に向かってきている。「五線譜のラブレター」「サイドウェイ」「ミリオン・ダラー・ベイビー」「アビエイター」「宇宙戦争」「エイプリルの七面鳥」「君に読む物語」「カーサ・エスペランサ」「舞台よりすてきな生活」「ビフォア・サンセット」、そしてこの「シンデレラマン」と、充実した作品が少なからず作られてきた。未見のものでも、「エリザベスタウン」、「ヴェニスの商人」、「エターナル・サンシャイン」、「さよなら、さよならハリウッド」、「シン・シティ」、「チャーリーとチョコレート工場」、「コープス・ブライド」、「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」、「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」、「スタンドアップ」など、これまた楽しみな作品がずいぶんある。

 

  恐らくここ2、3年のアメリカ映画の不振は9.11以後の状況となんらかの関係があると思われる。喪失感と闇雲なイラク攻撃への反撥と泥沼化したイラク情勢への不安、ブッシュへの不信。一種の自信喪失に襲われ、進むべき方向を見失っていたのではないか。回復後の秀作の多くが過去に目を向けていることはその表れだろう。それも有名人の伝記ものが目立つ。「五線譜のラブレター」、「ビヨンドtheシー」、「RAY」、「アビエイター」、「シンデレラマン」。まだアメリカに夢があった時代に成功した人々、彼らの努力と成功を見ることでもう一度自分たちは偉大な国民なのだと自信をとりもどしたい、そんな願望が込められている気がする。「シンデレラマン」は「シービスケット」同様大恐慌時代が背景で、苦境を乗り越えてゆく主人公たちの姿に今の落ち込んだアメリカ人たちはとりわけ身につまされるものを感じるのではないか。まだアメリカン・ドリームが信じられた時代。かつてアメリカは「夢の国」だった。あの国なら成功をつかめるかもしれない。世界中から食い詰めた人たちがアメリカに渡ってきた。もちろん、成功を掴んだのはそのうちのほんの一握りの人たちにすぎないのだが、喪失感にさいなまれる今のアメリカ人たちには夢が必要なのである。同じボクシング映画でも、現代ものの「ミリオン・ダラー・ベイビー」は「シンデレラマン」や「ロッキー」のようにチャンピオンに上り詰めることなく挫折してゆく。とっくにアメリカン・ドリームから覚め、現実に打ちのめされている人々にはそのほうがリアルなのだ。だから過去に向かう。

 

  一方で、アメリカを今のようにしてしまったアメリカの政治路線やブッシュに対する批判も噴き出してきた。いずれも未見だが、「ジャーヘッド」、「シリアナ」、「ミュンヘン」など、湾岸戦争、中東での米石油企業とCIAの暗躍、テロ反撃への疑問を描いた映画が続々作られてきている。傑作「クジラの島の少女」のニキ・カーロが監督した「スタンドアップ」のような性差別に痛烈な一撃を加えた力作も生まれている。米国に支援されたエルサルバドル政府軍による弾圧を描いたメキシコ映画「イノセント・ボイス 12歳の戦場」なども公開されている(オリバー・ストーン監督の「サルバドル」もアメリカ人の目からアメリカを批判した骨太な傑作だった)。大量に作られる娯楽映画と少数の良作がともに充実してこそ本来のアメリカ映画である。しかしこれから徐々に変わってゆくだろう。ハリウッド大手の大作は少なくなり、独立プロダクションが製作する地味だが良質の低予算映画が増えてゆくのではないか。いつまでも脳天気な娯楽映画ばかり大量に作っている時代は終わるべきだし、そうなりつつあるのではないか。

 

  また前置きが長くなってしまった。大恐慌時代に身を挺して貧困から這い上がった実在の人物を描いた「シンデレラマン」が登場してきた背景を探ってみたかったからだ。一度リングを離れたボクサーが中年になってまた再起し、ついにはチャンピオンになるという全くのパターン通りの映画に見えるが、この映画の最も重要な点はまさに大恐慌時代を背景にしているということである。父親の稼ぎが悪く子供をよそに預けた友達のことを話す息子に、主人公のジェイムズ・J・ブラドック(ラッセル・クロウ)は「お前は決してよそにやらない」と息子に誓う。これが彼の原動力になっている。そんな誓いをしなければならない時代だったのである。この映画にはそんな時代の雰囲気がよく描かれている。そしてそれは単なる雰囲気でも背景でもなく、主題と密接に絡み合っているのである。

 

  電気代が払えず、妻がお祈りをしようとしても、ジミーは無表情に「祈りもつきた」と言う。あるいは久しぶりの試合の直前に空腹のあまり腹が鳴ってしまう。日雇い仲間のマイク・ウィルソンはニューヨークのセントラル・パークに出来たフーヴァー村(Hooverville:大恐慌で家や仕事を失った人たちが掘っ立て小屋やテントを張って住み着いて出来た村。大恐慌に何の手も打たなかったフーヴァー大統領の名を皮肉ってつけられた名前)へ組合のオルグに行き、事故にあって死ぬ。その状況を一言で言い表しているのが、チャンピオンとの試合を前に、ジミーが新聞記者の「以前とどこが変わったのか」という質問に答えた言葉だ。昔は不運続きだった、今は戦う目的がはっきりしているからだと。その目的とは何かと聞かれて、彼は「ミルク」だと答える。彼は文字通り家族を養うために体を張って戦ったのである。この点を軽く見てはこの映画の本質を見失うことになる。彼の戦いは生きるための、そして家族を生かすための戦いだったのである。だからこそ民衆は「食糧の無料配給に並んだ男」に声援を送ったのである。だからこそ彼の通う教会に試合当日大勢の人たちが詰めかけ神に祈ったのである(「ジミーが彼らのために戦うと信じている」という神父の言葉が印象的)。彼を「シンデレラマン」と名づけた記事がこのあたりの事情をうまく表現している。「J・ブラドックは国民に勇気を呼び起こすために甦った。彼の復帰は暗く沈むアメリカ人に希望を与える。敗北寸前の国民は英雄ブラドックに天啓を見た。デイモン・ラニアンが書いたように彼こそ真のシンデレラマンだ。」新聞のタイトルは ”Fairy Tale Fight for James J. Braddock?” 暗い時代に振ってわいた「御伽噺」に民衆は一抹の光明を見出し熱狂したのである。

 

  1929年10月24日(木曜日)、ニューヨーク、ウォール街の株式市場で株が大暴落した。「暗黒の木曜日(ブラック・サースデイ)」)と呼ばれるこの悪夢の日に端を発し、恐慌の波は全資本主義諸国に波及した。価格暴落、破産、失業。瞬く間に恐慌は人類がかつて経験したことのない未曾有の「世界大恐慌」に発展してゆく。アメリカの実質 GNP は33年にかけて30%も低下し、卸売物価も年に10%以上も下落した。閉鎖された銀行数はこの間およそ1万行に達し、33年の失業率は24%に達した。何と4人に1人は職がなかったことになる! 全財産を一夜で失い、何人もの人々が首をつり、頭を銃で撃ちぬいた。91年のバブル崩壊など比べものにならないほどの社会崩壊現象。人々はただ今日をどう生きるかしか考えられなかった。
1933年3月、ルーズベルトは有名なニューディール政策を開始する。これは一種の限定された社会主義政策だった。資本主義に幻滅した知識人は一斉に左傾化してゆく。この大恐慌からアメリカを立ち直らせたのは皮肉にも第二次世界大戦であった。戦争特需で景気が回復する。直接の戦場にならなかったアメリカは50年代に空前の繁栄を享受する。戦争で疲弊したヨーロッパの列強を大きく引き離して、世界一の超大国にのし上がったのである。折からの冷戦状態のさなか、マッカーシーは赤狩りで左翼たちを追放し始める。赤狩りは30年代からの「負の遺産」の「清算」だった。

 

  このへんで「シンデレラマン」に戻ろう。1933年、ジミー・ブラドック(ラッセル・クロウ)はかつて連戦連勝で稼いだ大金を大恐慌によってすべて失ってしまった。いまは港湾の日雇い仕事とボクシングの試合(昔のようには勝てないが)で細々と食いつないでいる。仕事場の柵の前に集まった男たちはその日の仕事に必要な人数だけ雇われる。ジミーも雇われreath1 る日もあれば空振りの日もある。仕事にあぶれた男たちが立ち去ってゆく足元には「失業者1500万人に達する」という見出しを掲げた新聞が捨てられている。わずかな仕事に群がる失業者たち。どこの国でも変わらないよく見かける光景。「怒りの葡萄」や今井正の「どっこい生きてる」など、これまで世界中の多くの映画に映し出された場面。面白いのはこの労働が結果的にジミーに幸運をもたらしていることである。全盛期の彼は強烈な右のパンチが武器だった。しかし試合で手の指を骨折したために右手をかばって荷揚げ仕事をしていたおかげで、いつの間にか左手が強くなっていたのである。日雇い労働で鍛えた体力と左右ともに強力になったパンチ、中年ボクサーであったにもかかわらず、彼がヘビー級の世界チャンピオンに上り詰められたのは、日々の労働のおかげだった、こういう描き方に共感が持てる。

 

  しかしこれほど働いても家計は苦しい。妻のメイ(レニー・ゼルウィガー)も縫い物をして家計を助けているが当然わずかな稼ぎしかない。3人の子供をかかえた家族5人、苦しい生活が続く。映画は彼を高潔な人物として描いてゆく。彼は酒におぼれはしなかった。鬱憤晴らしに妻や子供にあたったりもしない。長男が肉屋からサラミを盗んできた時には、「いくら苦しいからといって、他人ものを盗んではいけない。それは悪いことだよ」と優しく諭す。「お前は決してよそにやらない」と息子に誓ったのはこの時だ。典型的な家族思いのやさしい父親像。これがいやみにならないのは彼の必死な生活との闘いが描かれているからだ。手の指を骨折した時にはギブスを雇用者に見咎められないために靴墨で黒く塗ってまで仕事を求めに行った。電気が止められ、寒さのあまりに体調を崩していく子供たちを見かねて妻のメイが一時的に父や妹の元に預けた時、ジミーは恥を偲んで救済所で金を受け取り、それでも足りないのでボクシング委員会を訪れ金を無心する。屈辱の行為。本当に家族のことを思っていなければ出来ないことだ。家族のためならプライドも捨てる、彼の強さはここにあったと言っていいだろう。比ゆ的ではなく、文字通りのハングリー精神。信念のボクサー。

 

  彼の苦しい家計をさらに追い詰めていたのは手を怪我しているにもかかわらず試合をしたためにライセンスを取り上げられたことだ。その時彼も失業者の仲間入りをしたのである。そんなある日、元マネージャーのジョー・グールド(ポール・ジアマッティ)から一夜限りの復帰試合の話が持ち込まれる。ヘビー級2位の強豪との対戦。勝ち負けに拘わらずファイトマネーは250ドル。賞金の250ドルは今の彼にとっては大金である。ジムは家族を救えるという一心で試合を引き受ける。既にガウンもシューズもグローブも売り払って金に替えていたジミーは一式全部借りてリングに上がる。こういう細かいところまで描きこんでいるところがこの映画のリアリティを支えている。ところが、負けて当然のこの試合で左のパンチ力が上がっていたジムはなんとKO勝ちしてしまう。ここから彼の運が向いてきた。

 

  その試合後の日雇いの仕事場での会話が実にいい。「賞金250ドル。俺の取り分は123ドル。借金が118ドル。残りは5ドル。」雇い主が言う、「金持ちだな。」ジム、「この辺ではね。」せっかくの賞金も借金の返済でほとんど消え、残ったのはわずか5ドル。それでも「金持ち」とは!そういう時代だったのだ。

 

  その後ライセンスを取り戻し、ジミーは勝ち続けついにヘビー級のタイトルマッチに臨むことになる。このあたりでは妻のメイとマネージャーのジョーが重要な役割を果たしている。特にポール・ジアマッティが素晴らしい。「サイドウェイ」でも素晴らしい演技を見せたが、ここでもまた全く違うキャラクターを演じてみせた。心からジミーの才能を信頼し、最後まで彼とともに戦った。はげた顔が「サイドウェイ」では情けない男役にぴったりだったが、ここではどこか愛嬌のある顔になる。しかし試合中のセコンド役になると大声でジミーを励まし怒鳴りつける。ほとんどアドリブなのだそうだが、昔からセコンドをやっていたかのように見えるところはさすが。名優だ。

 

  メイとの絡みもいい。メイは夫のことを心配して試合をやめさせようと(今度は手の骨折ではすまないかもしれない)マネージャーのジョーに直接掛け合いに行く。夫に殴り合いをさせておいて、自分だけはヒルのようにうまい血をすすっているんだろうとジョーを怒鳴りつける。しかしその部屋に入ってみて彼女は愕然とする。大きな部屋だがなんと家具はテーブル一つしかなかった。ジミーにトレーニング代の175ドルを渡すために最後の家具を売り払ったのだ。内実は苦しくても外面は見栄を張らざるを得ないマネージャー稼業。そこまでしてジミーを支えているジョーに対するメイの気持ちは変わる。ジョーの言う「夢は大切だ」と言う言葉に時代の雰囲気が響いている。

 

  しかし試合をやめさせたいというメイの気持ち自体は変わらない。必死でジミーを説得する彼女の気持が真摯であるだけに胸を打つ。大怪我して帰ってくるかもしれない夫を家でじっと待っている彼女の気持ちはどんなだったろう。彼女は心から訴える。「試合のたびにほどほどの怪我でボクシングが出来なくなってほしいと祈っていたの。ライセンスを取り上げられた時は神に感謝したわ。今度は殺される。」そう説得するメイに、ジムは「人生をこの手で変えられると信じたいんだ。つらい境遇をよくすることができると」と答える。メイは引き下がらない。「私はあなたに無事でいてほしいの。」どちらの気持ちも理解できる。理解できるだけにこちらも切ない。このあたりの描き方は見事だ。

 

  試合当日の家族との別れの場面も秀逸だ。ジミーは女の子と次男にキスをする。長男には握手する。次男もまた握手をせがむ。心配で見ていられない妻にはあえてキスもせず言葉もかけない。振り切るようにして車に乗り込む。こういうさりげない描写が実に効いている。

 

 実はメイはこのときには気持ちを既に入れ替えていた。控え室にメイがやってくる。「私の支えがないと勝てないわ。」この言葉にはぐっと来た。ジミーを励ますメイの言葉がいい。「バーゲン郡のブラドック、ニュージャージー州の誇り、国民のみんなの星」、ここまでは彼につけられた称号だ。さらにメイは続ける。「子供たちのヒーロー、私の心のチャンピオン。」この映画が家族の愛と絆を描いたことがこの言葉に象徴されている。

 

  試合に臨むジミーは決して精悍な感じではない。これが実にリアルでいい。頬がこけ、背中が丸まった姿勢に中年の雰囲気が漂っている。つやの失せた、どこか疲れたような、やつれた中年ボクサー。彼はリングに上る。ここから最後の死闘が始まる。最終ラウンドまでもつれ込んだすさまじい試合だった。相手役を演じたのは現役ボクサーである。ラッセル・クロウは撮影中けがをしたり入院までしたようだ。その甲斐あって試合の緊迫感・スピード感はかなりのものに仕上がっている。

 

  ブラドックは勝った。映画はその後の彼の経歴を字幕で伝えて終わる。金もなくプライドまで捨てて家族のために生きた男。持っていたものは自分の体一つと家族への愛と希望だけ。生活援助を受けていた男が熊の様なチャンピオンを倒し、多くの人たちに夢と希望を与えた。彼がリングで打ち倒したものは貧困と喪失感だったのかもしれない。彼はミルクのために時代と戦ったのである。

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