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2006年1月26日 (木)

イギリス小説を読む④ 『余計者の女たち』

garbe2 <今回のテーマ> 「新しい女」と世紀末

【1 新しい女】 
  19世紀のイギリス小説--もう少し正確に言うと、1880-90年代のイギリス小説--にはヒロイン像の大きな変化が見られる。従来の良妻賢母型ヒロインに代わって、<新しい女>と呼ばれる一群のヒロインたちが登場してくるのだ。19世紀末のイギリス小説にヒロインの変貌が見られるとすれば、それは理想の女性をめぐるイデオロギーに変化があったからにほかならない。...

  19世紀の中葉以降、結婚して良妻賢母への道を歩むことが、女にとって志向すべき理想の(もしくは、唯一の)生き方ではなくなっていたのだ。換言すれば、現実の社会で女は結婚できなくなって(あるいは、結婚しなくなって)いたのだ...。生涯未婚のままで生きることを、女の正常な生の選択肢の一つとして社会的に認知せざるをえなくなったのだ。となると、良妻賢母の理想にもとづく従来の女性の生のガイドラインは、しだいに有効性を失わざるをえない。結婚しないことが女性の生の選択肢に加わったことによって、結婚は、女のもっとも理想的な、かつ唯一の生き方ではなくなってきたからだ。

  世紀末のイギリス小説には、女の本質や役割の見直しが求められるなかで、新しいヒロインが続々と登場してきたが、こうした<新しい女>の登場をうながしたもっとも大きな要因は、19世紀後半におけるフェミニズム運動の盛り上がりであろう。イギリスの場合、近代フェミニズムの成立はメアリー・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(1792)に求められるものの、この本は結局は一時的衝撃を与えたにすぎず、広く世論を喚起するにはいたらなかった。やはりフェミニズムが一つの組織された運動になっていくのは19世紀中葉からであり、事実、世紀半ばから後半にかけて、妻の財産権の確立や中高等教育の拡大などフェミニズム運動の成果がいろいろなかたちで出てきている。この時期、フェミニズム運動活性化の動機となったのは、直接的には女性の数の過多が招いた未婚女性の経済的困窮、および潜在的には「お上品ぶり」を誇示する「道具立て」の一つに物象化された既婚女性の卑屈感など、ひとえに中産階級の女性の問題であった。

   とくに未婚女性の経済的困窮は、フェミニズム運動の導火線となったものである。19世紀の半ば以降のイギリスでは、適齢期の女の数に見合うだけの適齢期の男の数が大幅に不足し、その結果、夫を見つけられない女--俗にいう<余った女>--が大量に出現した。彼女たちは経済的自立を図る必要に迫られたが、当時レディがレディの身分を失うことなく就ける仕事は、ガヴァネスの仕事しかなかったのである。しかし、かつてないほど大量の未婚女性がガヴァネスの口を求めるとなれば、需要と供給のアンバランスから、雇用条件の悪化は避けられない成り行きだろう。失業、病気、高齢化によるガヴァネスの経済的困窮を背景に、その救済策を模索する動きは、教育の機会および職業の選択における男女不平等の現実を揺さぶる大きなエネルギーを生み出さずにはおかない。こうして、ガヴァネスを中心とする<余った女>の経済的問題を口火としたイギリス・フェミニズムの運動は、やがて高等教育の拡大・選挙権の獲得・道徳におけるダブル・スタンダードの見直しへとめざましい闘いを展開していく。

  この三番目の領域--すなわち、道徳におけるダブル・スタンダードの見直し--におけるフェミニズム意識の盛り上がりこそ、小説が<新しい女>探求に本領発揮の機を得た背景であった。なぜなら、ダブル・スタンダードが問い直され、男と女の関係における新しい性のモラルが求められるとき、<女なるもの>の修正は必然であろう。このとき、小説は、愛や結婚や家族を通して両性関係および<女なるもの>を探求する有効な手段として、欠くべからざる役割を果たすことになる。
  川本静子『<新しい女たち>の世紀末』(みすず書房、1999年)より

【2 イプセンの『人形の家』と魯迅】
  ノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(1828-1892年)の戯曲『人形の家』は1879年に発表され、世紀末のイギリスにも大きな衝撃を与えた。ヒロインのノラ・ヘルメルは平凡な主婦であった。子どもを甘やかし、夫にかわいがられ(「ヒバリ」や「リス」や「かわいいのらくら鳥」などと夫に呼ばれて喜んでいる)、金遣いが荒い。夫のヘルメルも間もなく銀行の頭取になることが決まり、彼女の前途は順風満帆であるかと思われた。そこにクログスタットという男が現れてから、不吉な影がさしはじめる。彼は彼女が書いた借用書に不備があることを理由に、彼女を脅し始めたのである。

  いよいよ夫に知られるという段階になって、彼女は一大決心をする。ノラは、それまでの自分が夫のただの慰みものに過ぎなかったことを悟り、家を出て行くと夫に宣言する。「あたしは実家で父の人形っ子だったように、この家ではあなたの人形妻でした。」お陰で自分は何も知らない、何もできない人間になってしまった。だからまず「自分自身を教育しなければ」ならない。世間を知るために世間に出て行くのだと。夫は妻の「神聖な義務」、つまり夫に対する、そして子どもに対する義務を怠るのかと問い詰めるが、ノラは自分にはもう一つ同じくらい神聖な義務がある、つまり自分に対する義務だと言って引かない。そして「奇跡中の奇跡」、つまり「二人の共同生活が、そのまま本当の夫婦生活になれる時」が訪れない限りは、自分たちは永久に他人だと言い放ってノラは出て行く。
  (新潮文庫版より)

  この作品が発表されると、賛否両論が沸き起こった。ノラの女性としての「目覚め」が唐突すぎる嫌いがあるが、それでも当時としては衝撃的なヒロインの登場だった。しかし、ノラは家出をした後どうなったか。それを取り上げて論じたのは中国の作家魯迅だった。

  魯迅は「ノラは家出してからどうなったか」と題した講演で、ノラには実際二つの道しかなかったと論じた。堕落するか、そうでなければ家に帰るかである。「人生にいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと」である。「夢を見ている人は幸福」だ。確かに道が見suzu4 つからないときは、必要なのは夢である。しかし将来の夢を見ては行けない。必要なのは現在の夢である。実際、ノラは「覚醒した心のほかに、何を持って行」ったのか。何もない。はっきり言えば「金銭が必要」なのだ。「自由は、金で買えるものではありません。しかし、金のために売ることはできるのです。」したがって、経済権が最も大切である。「第一に、家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、第二に、社会にあって、男女平等の力を獲得することが必要です。残念ながら、その力がどうやったら獲得できるか、ということは、私にはわかりません。やはり闘わなければならない、ということがわかっているだけであります。」
  (『魯迅文集3』ちくま文庫)

  魯迅の指摘は極めて示唆的である。魯迅はノラの姿勢を否定したわけではない。どんなに高い志があっても、経済的な裏付けがなければ結局は失敗すると言いたかったのだ。夢も必要だが、夢は闘って実現するのだと言いたかったのである。夫や親に頼る以外、何の経済的基盤も持たない女性の立場がここで示唆されている。ノラや『日陰者ジュード』(トマス・ハーディ)のヒロイン、スーの後にも古い鎖を断ち切ろうとした多くの女性が続いた。しかし「人形の家を出た女たち」の歩んだ道は決して平坦ではなかった。20世紀に入ってもなお「二人の共同生活が、そのまま本当の夫婦生活になれる時」、「家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、社会にあって、男女平等の力を獲得すること」はまだまだ実現が困難なのである。しかしそれでも、女性たちは決して夢を見ることを止めない。夢を現実にする努力は21世紀に至るまで連綿と続けられている。

【3 ギッシングの『余計者の女たち』】
1 ジョージ・ギッシング著作年表
1884  The Unclassed 『無階級の人々』(光陽社出版)
1889  The Nether World 『ネザー・ワールド』(彩流社)
1891  New Grub Street 『三文文士』(秀文インターナショナル)
1892  Born in Exile 『流謫の地に生まれて』(秀文インターナショナル)
1893  The Odd Women 『余計者の女たち』(秀文インターナショナル)
1898  Charles Dickens 『ディケンズ論』(秀文インターナショナル)
1901  By the Ionian Sea 『南イタリア周遊記』(岩波文庫)
1903  The Private Papers of Henry Rycroft 『ヘンリ・ライクロフトの私記』(新潮文庫)
1906  The House of Cobwebs  『蜘蛛の巣の家』(岩波文庫)

2 『余計者の女たち』:二人のフェミニストと堕ちた女
  『余計者の女たち』の主人公は3人の女性たちである。ローダ・ナンとメアリー・バーフットという二人のフェミニストとモニカ・マドンである。モニカ・マドンは医師の娘で、6人姉妹(アリス、ヴァージニア、ガートルード、マーサ、イザベル、モニカ)の末娘である。父が800ポンドを残して早く亡くなった時から、姉妹たちの苦労は始まる。いずれも結婚前であったため、ガヴァネスなどをして暮らしを立てていた。800ポンドの遺産は少ない額ではないが、6人では足らず、将来への不安から元金には手をつけずに利子で細々と暮らしていたのである。ガートルードとマーサは苦労の末に亡くなり、イザベルは自殺してしまう。アリスとヴァージニアはガヴァネスやコンパニオンをしていたが、ともにオールド・ミスで一生を送る。ヴァージニアは人生の悲惨さに耐え切れず、アル中になってしまう。

  姉妹たちの希望は末の妹で、一番の美人のモニカだった。彼女だけは結婚する。しかし、彼女の早まった結婚は結局失敗だった。彼女は姉たちのようになりたくなくて良く考えずに結婚してしまったのである。「姉たちはとても惨めで、彼女たちのようにつらい人生を生きなければならないのかと思うと、ぞっとしてしまったんです...」夫のエドマンド・ウィドソンは異常なほど嫉妬深いうえに(ほとんど今で言うストーカーである)、古い価値観の持ち主だった。「妻とは権利と義務を持った個人でもあるのだということは、ウィドソンには考えもつかないことだった。彼が言うことは、すべて自分が一段上なのだということを前提としていた。命令するのは自分で、従うのは彼女である、それが当然だと思っていた。」

  彼は「女の世界は家庭だよ、モニカ」と妻に言い聞かせ、彼女に読みたい本も読ませず、結婚前からの友人との交際も認めない。「家庭の天使」は「牢獄の女囚」にほかならなかった。彼女はあまりの窮屈さに、自由を求め始める。そんな彼女を感化したのは先の二人のフェミニストたちだった。彼女は必死に夫に訴える。「エドマンド、男と女の間には本質的な相違は大してないと思ってますの。」「もっと自由がないとそのうち人生が重荷になってしまいます。」夫は法を法とも思わぬのかと詰め寄る。彼の言う「法」とは「夫たる者の指導に従うように命じている法律」である。このような夫からモニカの心は離れ、ビーヴィスという若い男に引かれて行く。駆け落ちする寸前まで行くが、結局ビーヴィスは遊び程度のつもりだったので、逃げてしまう。失意のモニカは夫の「家を出て」姉の元に行く。その時彼女の中には夫の子どもが宿っていた。夫の疑念が解けないまま、モニカは女の子を産んで死んでしまう。

  ローダ・ナンはモニカよりも10歳年上である。自信と知性にあふれ、挑戦的な表情をした女性だ。彼女もガヴァネスをしていたが、うんざりして止めてしまう。代わりに速記、簿記、ビジネスレター、さらにはタイプライターまで習った。ついには女子のための職業訓練所の共同経営者になってしまう。そのもう一人の経営者がメアリ・バーフットである。二人とも当時の最先端のフェミニストだが、ローダ・ナンの方がより過激である。メアリー・バーフットは温和な改良主義者だが、ローダ・ナンは結婚を否定する女性である。この二人の会話は当時のフェミニストたちの考え方や振る舞い方をよく伝えている。二人の論争場面などはそれまでの小説では考えられなかったものである。

 ローダはメアリー・バーフットのいとこであるエヴァラード・バーフットに言い寄られるうちに、しだいに彼に引かれて行く。しかしある誤解がきっかけでローダの気持ちが変わり、結局彼女はバーフットの求婚を断る。バーフットは遺産が入り、1500ポンドの年収がある。玉の輿のケースだ。しかしローダは結婚しないことを選んだ。ここに結婚を拒否し、自分の信念に従い独身を通すヒロインがついに登場したのである。

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