イギリス小説を読む⑧ 『夏の鳥かご』
<今回のテーマ>人形の家を出た女たち
(1)20世紀イギリスを代表する女性作家
Virginia Woolf(1882-1941) 『灯台へ』(新潮文庫)、『ダロウェイ夫人』(新潮文庫)
Katherine Mansfield(1888-1923) 『マンスフィールド短編集』(新潮社)
Jean Rhys(1890-1979) 『サルガッソーの広い海』(みすず書房)
Elizabeth Bowen(1899-1973) 『パリの家』(集英社文庫)
Daphne du Maurier(1907- ) 『レベッカ』(新潮社文庫)
Muriel Sarah Spark(1918- ) 『死を忘れるな』(白水社)
Doris Lessing(1919- ) 『一人の男と二人の女』(福武文庫)
Iris Murdoch(1919- ) 『鐘』(集英社文庫)
Anita Brookner(1928- ) 『秋のホテル』、『異国の秋』(晶文社)
Edna O'Brien(1932- ) 『カントリー・ガール』(集英社文庫)
Fay Weldon(1933- ) 『ジョアンナ・メイのクローンたち』(集英社)
Emma Tennant(1939- ) 『ペンバリー館』(筑摩書房)
Margaret Drabble(1939- ) 『碾臼』(河出文庫)、『夏の鳥かご』(新潮社)
Margaret Atwood(1939- ) 『浮かびあがる』(新水社)、『サバイバル』(御茶の水書房)
Susan Hill(1942- ) 『その年の春に』(創流社)
Angela Carter(1940-92) 『血染めの部屋』(筑摩文庫)、『ワイズ・チルドレン』(早川文庫)
(2)マーガレット・ドラブル著作年表、および略歴
1963 A Summer Bird-Cage 『夏の鳥かご』(新潮社)
1964 The Garrick Year 『季節のない愛--ギャリックの年』(サンリオ)
1965 The Millstone 『碾臼』(河出文庫)
1967 Jerusalem the Golden 『黄金のイェルサレム』(河出書房新社)
1969 The Waterfall 『滝』(晶文社)
1972 The Needle's Eye 『針の眼』(新潮社)
1975 The Realms of Gold 『黄金の王国』(サンリオ)
1977 The Ice Age 『氷河期』(早川書房)
1980 The Middle Ground
1987 The Radiant Way
1989 A Natural Curiosity
1991 The Gates of Ivory
1996 The Witch of Exmoor
(略歴)
シェフィールド生まれ。ケンブリッジ大学のニューナム・コレッジで英文学を専攻し、最優秀で卒業した。ロイヤル・シェークスピア劇団の俳優であるクライブ・スイフトと結婚。『夏の鳥かご』で作家としてデビューした。自分とほぼ同年代の若い女性をヒロインにし、女性の自立、不倫、未婚の母などのテーマを描くのが得意。妹のアントニア・バイアットも作家で、現代のブロンテ姉妹と言われている。
(3)『夏の鳥かご』と現代的ヒロイン
ヒロインのセアラ・ベネットはオックスフォードを優秀な成績で卒業した若い知的な女性である。物語はセアラが姉ルイーズの結婚式に出席するために、パリからイギリスに戻ってくるところから始まる。姉のルイーズは「くらくらするような美人」で、男にもてはやされているため、セアラはいつも引け目を感じている。姉の方もセアラのことなど眼中になく、二人の仲はよそよそしい関係である。
特に物語の進行に筋らしい筋はない。物語は、姉の結婚式、披露宴、セアラのロンドンへの引っ越し、ジャーナリストと俳優の友人たちが開いたパーティ、姉の新居でのパーティ、姉とその愛人である俳優との逢い引きへの同伴、姉の結婚の破綻と告白、とエピソードの積み重ねだけで進行している。全体として会話が中心の展開となっている。セアラは観察や考察もするが、それも自分自身やごく身の回りのことに関心を向けることが多い。
しかし何らかのテーマがないというわけではない。若い女性のヒロインと周りの人々との会話を通して、ヒロインの価値観と他の人々の価値観のぶつかりあいが浮かび上がってくるのである。そのヒロインを取り巻く人々の中でとりわけ重要なのは姉のルイーズである。ルイーズと彼女の世界を理解しようとすることが中心的テーマになっている。それはまたセアラ自身とその世界を理解することでもある。
この小説の一つの特徴は女性特有の視点や会話が満ちあふれていることである。19世紀にも多くの女性作家が活躍していたが、その文体は基本的には男の文体で、考え方や行動も当時の社会的規範からそれほど大きくはみ出してはいなかった。一方、『夏の鳥かご』はさすがに20世紀の小説ということもあって、ヒロインの考え方や行動や話し方は現実の若い女性のそれに非常に近い。衣服や靴などに目が行く、相手や自分が口にしたことをいちいちあれこれと気にする、矛盾したり、本音とは裏腹のことを言ったりする。作者のドラブル自身この点を明確に表明している。 「ケンブリッジを卒業したとき、小説という形態は未来ではなく過去に属するものだと考えておりました。...ところが...ソール・ベローの『雨の王ヘンダーソン』...J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』...を読んでみたら、突然小説は20世紀に属するものなのだ、自分自身の声で語り、自分自身の声で書くことが可能なのだ、と思われました。」『女性小説の伝統』(1982)
しかし、20世紀に入って女性の生き方はどれだけましになったのだろうか。『人形の家』のノラが家を出た後にたどる運命は、魯迅が予言したとおりこの20世紀のヒロインに当てはまるのか。この点についても検討していきたい。
<ヒロイン・セアラの性格分析>
登場したときからセアラは人生の目標を見いだせないでいる。オックスフォード卒業後すぐにパリに行ったが、ただ暇つぶしに出掛けただけで、特に何をしたわけでもない。パリからイギリスに戻る汽車の中で、セアラは「仕事とか、真剣さとか、教育を受け過ぎて使命感を失った若い女性は自分をどう扱うべきかといった問題を」ずっと考え続けていた。せっかく優秀な成績で大学を出ても、彼女には人生の目的が見いだせていなかった。そこには人生のさまざまなやっかいな問題から遠ざかっていたいというヒロインの意識が現れていると言える。彼女は「わたしって、適応しないものが好きなのよ。...社会的な関わりのない人が好きなんだわ」とはっきり言う。彼女は親友のシモーヌが好きなのだが、それは彼女のような「無責任になりたい」からである。ここで言う「無責任」とはいろんな束縛から自由でいられるという意味だと思われる。セアラは自由にあこがれているのだ。しかし、彼女は決していいかげんな女性ではない。むしろ自分を「退屈な勉強家」だと卑下しているくらいである。にもかかわらず、セアラは「卒業後何をやるか考えていない」「自分が何をしたいのかわからない」と言うのである。彼女は大学卒業後結局BBCに勤めるが、そこでの様子は一切描かれない。仕事をする彼女の姿が全く描かれていないのである。まるで生活のためにとりあえずやっているだけの仕事であるかのように。そして、実際そうなのだ。「お勤めなんてひまつぶしのひとつだわ」と彼女は公言してはばからない。恐らく彼女のこの不安定な状態は、「人形の家」から飛び出したものの、まだ十分女性の社会的地位が固まっていないため、自分の生きがいを見いだすに至っていなかった当時の女性の現状の反映と言えるかもしれない。何をやりたいかは分からないが、古い価値観という束縛には縛られるのはいやだ。とにかく自由でいたい。この心理は今の女性でもある程度は共感できるのではないか。逆に言えば、今日でも1963年当時とさほど大きな違いはないということになる。
一方姉のルイーズは「とびきりの美人」で「彼女が街を歩くと、みんなが振り替える」ほどである。しかし三つ年下の妹のことは全く相手にもしていない。8歳から13歳まではセアラは「ルイーズを追い回し、まめまめしく仕え、ほんの親しみのひとかけらでも恵んでもらおうと努めた時代もあった。」ルイーズが全寮制の学校に入った頃は、彼女が休暇で帰ってくる前から「毎日カレンダーの日付を斜線で消し」今か今かと待ち望んでいたのだが、いざ汽車が着いてみるとルイーズはセアラの存在を無視して両親にキスをしたのだった。13歳をすぎたころに、セアラは「自分の威厳を取り戻し、ついにはルイーズに背を向けてしまった」のである。今では互いに冷淡になっており、ほとんど会うこともない。だが、ルイーズの結婚後何度か彼女と会ったり、知り合いたちと話したりするうちに、実は自分はルイーズと似ているのだとセアラは気づかされたり、自分で気づいたりすることになる。ジョンには「きみは彼女に似ているね」「二人とも釘のように頑丈だ」と言われ、自分でもあるとき「二人とも真面目な人間なのだ」と気づく。姉自身からも「わたしたち肉食性だと思わない?わたしたち食べられるより食べる方がいい。」「わたしたちは同類なのよ、あなたもわたしも」とはっきり言われる。
似ているがゆえに互いに反発しあうということはよくあることだ。ましてや、ともに「肉食性」であればなおさら歩み寄れない。ルイーズに対するセアラの反発の根底には、姉の方が美人で、いつも自分の方が負ける、自分は「才知はあるが、美貌ではない」というコンプレックスがある。しかし、あるときダフニーというメガネをかけた醜いいとこのことを姉と二人で散々こき下ろした後で、セアラは[自分がかくも恵まれた身であることの栄光と後ろめたさを絶えず感じている」ことを意識する。肉体は天からの賜物である。「美しい肉体をもつ者は、この世を大いに利用するがいい」と考えるに至るのだ。このセアラの考えはほとんどルイーズのそれに近い。彼女はどうやらルイーズの後を追っているようだ。
ではルイーズはどうなったのか。作品の一番最後のあたりで、ルイーズがドッレシングガウン一枚しか身につけていない格好でセアラのアパートに駆け込んでくる場面がある。実は金持ちで作家のスティーヴンと結婚したルイーズは、結婚後も公然と愛人のジョンと浮気を続けていたのだが、あるとき二人でシャワーを浴びているところに思いもかけず夫が帰って来たのである。セアラははじめて姉と腹を割って話をする。なぜジョンと結婚したのかとセアラが聞くと、ルイーズは「お金のためよ」と平然と答える。貧乏だけはしたくなかった、金持ちと結婚すれば貧乏することはないと考えたというのだ。かつて美人だったステラという友達の惨めな結婚生活を見て、自分はあんなふうにはなりたくないと思ったとも言う。そして泣き始める。初めて心の奥底を打ち明け会った二人はその後仲良くなり、互いに良い関係を保っている。後に、結婚したのは妹に追い越されまいとしたからだとルイーズは打ち明けている。その後ルイーズは夫とは別居し、愛人のジョンと同棲していることを読者に伝えて、小説は終わっている。
<セアラとルイーズ>
セアラとルイーズは19世紀の小説にはまず登場し得ないキャラクターである。間違いなく20世紀のヒロインだ。1960年代に登場したセアラは古い価値観に反発する。「わたし自身は、食事を作ってもらったり床をのべてもらったりするような契約的な慰めに負ける自分をときどき軽蔑するのだけれど、ママはそういうことが悪いとは少しも思わない。ママは面倒を看てもらうのが好きなのは弱さの証拠だとは思わないし、それが当然だと思っている。」結婚式の当日にルイーズが「ヴァージンのまま結婚するのって、どんな気持ちだと思う?」とセアラに聞くと、セアラは「不潔な純白さっていうとこかしら」、「きっと屠殺場に曳かれて行く子羊みたいな感じかしら」と答える。これは19世紀の作家には絶対書けないせりふである。セアラの友達のギルも、夫にヤカンを火にかけろと言われて断ったのが離婚のきっかけだった。これも19世紀までなら考えられないことである。
しかし、一方でセアラは古い価値観ももっている。結婚なんかいやだと言いながらも、結婚にはあこがれている。セアラにはオックスフォードで知り合ったフランシスという婚約者がいて、今はアメリカのハーバード大学にいるのだが、彼には忠誠を誓い浮気はしない、彼が帰って来たら結婚すると考えている。結婚式の時にルイーズが「大きな純白の百合」の花束をもっているのを見て、セアラはルイーズがひどくもろく見えると思った。「男は万事問題ない。彼らは明確に定義され、囲まれている。しかし、わたしたち女は、生きるために、来る者すべてにオープンで、生で接しなくてはならない。...すべての女が、敗北を運命づけられているのを感じた。」これは一瞬の感傷だったのかも知れないが、あのごうまんなルイーズにも弱さを感じたことは気の迷いだけとは言い切れないだろう。
セアラは気持ちだけは強気である。彼女は、ギルは自分と比べると「もっと寛大で、率直で、自意識過剰でなくて、癖がない」と言っているが、とすれば、セアラはその逆だということになる。自意識過剰で、癖のあるセアラは斜に構えて世間を見ている。これは世間に対する攻撃姿勢であると同時に、世間から自由でいたいという防御の姿勢でもあろう。何と言っても自分の目標を見いだせないセアラは、大地に根を張っていない宙ぶらりんな存在なのである。ルイーズはそんな妹を「一番特権的で肉食的な人のひとりよ」と表現している。「特権的」という言葉は的を射ている。何と言っても、一流の大学を出られて、適当にBBCで働いていてもやって行ける身分なのだ。その気楽さが彼女の一見浮ついたように見える態度の根底にある。セアラはいとこのダフニーを口を極めてこき下ろすが(「あのひとを見てると、動物園の飼い馴らされたうすぎたない動物を思い出す」)、その一方で彼女は脅威になりそうだと感じてもいる。たとえ醜い女でも、真面目に努力しているダフニーはやはり彼女よりもはるかに堅実に生きているのである。その弱みがダフニーを脅威と感じさせるのである。そういう社会に根付いていない自分の存在を自覚しているからこそ、自由でいられるパリやイタリアへの憧れをつのらせるのである。
『夏の鳥かご』で描かれている世界は、イギリスの中流階級の、饒舌だが、目的も価値観も見いだせないでいる世界なのである。主人公の二人の姉妹のみならず、他のカップルも離婚したり、浮気したり、貧困にあえいでいたりで、うまく行っている夫婦や恋人たちはほんのわずかしか登場しない。タイトルの「鳥かご」はジョン・ウェブスターの「それは夏の鳥かごのようなものだ。外の鳥は中に入ることをあきらめ、中の鳥は絶望して二度と外に出られないかと不安のあまり衰え果てるのだ」から取っている。「鳥かご」はドラブルの作品の場合、結婚あるいは女性の境遇を指していると思われる。「人形の家」を出ても、女たちはまだ鳥かごの中に入ったままなのである。
自分はルイーズに似ているとセアラは自分でも気づくが、そのルイーズの結婚は失敗に終わった。これはセアラにとって不吉な予兆とも言える。セアラがその後どうなったかは描かれていない。フランシスと無事結婚できたのか、読者の想像にまかされている。しかしその読者にはもう一つ不吉な言葉が与えられている。シェイクスピアのソネットが作中引用されているが、その引用の最後は「腐った百合の花は、雑草よりはるかにいやな匂いがする」である。ルイーズが結婚式のときに持っていた花束は「大きな純白の百合」の花束だった。はたしてセアラは腐らない「純白の百合」の生き方を目指すのか、それともたくましい「雑草」の生き方目指すのか。「純白の百合」であれ「雑草」であれ、腐らずに生き続けるためには、何らかの生きる目標を見いだすことが必要だろう。満足な目標を見いだすためには、まず彼女の前に努力してつかみ取るに値する、女性にとって価値のある目標が存在しなければならない。それを生み出すのは時代である。セアラの模索は続くだろう。そして、その後も何千人何万人のセアラたちの迷いと模索は続いているのである。
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