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2006年1月29日 (日)

イギリス小説を読む⑦ 『土曜の夜と日曜の朝』

  このところ忙しくてなかなか映画を観られません。もうしばらくイギリス小説にお付き合いください。

今回のテーマ:工場労働者出身のヒーロー night2

【アラン・シリトー作品年表(翻訳があるもののみ)】
 Alan Sillitoe(1928-  )  
Saturday Night and Sunday Morning(1958) 
   『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)
Lonliness of the Long Distance Runner(1959)
  『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)  
The General(1960)               『将軍』(早川書房)
Key to the Door(1961)              『ドアの鍵』(集英社文庫)  
The Ragman's Daughter(1963)        『屑屋の娘』(集英社文庫)
The Death of William Posters(1965)    『ウィリアム・ポスターズの死』(集英社文庫)
A Tree on Fire(1967)             『燃える木』(集英社)  
Guzman Go Home(1968)           『グスマン帰れ』(集英社文庫)  
A Start in Life(1970)              『華麗なる門出』(集英社)  
Travels in Nihilon(1971)            『ニヒロンへの旅』(講談社)  
Raw Marerial(1972)               『素材』(集英社)  
Men Women and Children(1973)       『ノッティンガム物語』(集英社文庫)  
The Flame of Life(1974)            『見えない炎』(集英社)  
The Second Chance and Other Stories(1981)  『悪魔の暦』(集英社)  
Out of the Whirlpool(1987)          『渦をのがれて』(角川書店)

【作者略歴】
 1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに、なめし革工場の労働者の息子として生まれた。この工業都市の貧民街に育ち、14歳で学校をやめ、自動車工場、ベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地になった。19歳で英国空軍に入隊し、1947年から48年までマラヤに無電技手として派遣されていたが、肺結核にかかって本国に送還された。1年半の療養生活の間に大量の本を読み、詩や短編小説を試作した。病の癒えた後、スペイン領のマジョルカ島に行き、『土曜の夜と日曜の朝』と『長距離ランナーの孤独』を書き上げた。ロレンスを生んだ地方から新しい作家が現れた」と評判になった。その後ほぼ年1冊のペースで詩集、長編小説、短編集、旅行記、児童小説、戯曲などを発表している。1984年にはペンクラブ代表として来日している。

【作品の概要と特徴】
  アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』は、労働者階級を労働者側から描いた最初の作品と言ってよい。それまでも下層出身の主人公はいなかったわけではない。ハーディの『日陰者ジュード』の主人公は職人だった。シリトーと同郷の先輩作家D.H.ロレンスの『息子と恋人』(1913年)は炭鉱夫を主人公にしていた。しかし工場労働者が工場労働者であることを謳いながら工場労働者を描いた小説はそれまでなかった。しかも、『息子と恋人』の主人公ポール・モレルは炭鉱夫でありながら、そういう境遇から抜け出ようと志向し努力するのだが、シリトーの作品の主人公たちは上の階級入りを目指そうとはしない。

  シリトーはノッティンガムシャーの州都ノッティンガム出身。旋盤工の息子だが、D.H.ロレンスもノッティンガムシャーの「自分の名前もろくに書けない」生粋の炭鉱夫の息子である(母親は中流出身)。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』を初めとする多くの作品はノッティンガムを舞台にしており、ロレンスの『息子と恋人』『虹』『チャタレー夫人の恋人』などもノッティンガムシャーを舞台にしている。ノッティンガムは、マンチェスターやバーミンガムとともに、イギリス中部の工業地帯を形づくる三角形の頂点の一つをなす都市であって、産業革命を契機に起こった労働者階級の暴動や運動には、中心的な役割を果たしてきた土地である。1810年代に起こった機械の破壊を目的とするラッダイトの暴動はここを中心としていたし、1830年代末から起こったチャーティズムの運動にも関係していた。この土地から、ロレンスとシリトーという二人の下層階級出身の小説家が出たことは、単なる偶然ではあるまい。

 シリトーはロレンスよりもほぼ半世紀遅れて作家活動を始めた作家で、文学史的には〃怒れる若者たち〃と呼ばれる一派、すなわち『怒りをこめて振り返れ』(1956年)のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』(1954年)のキングズレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』(1953年)のジョン・ウェインなどとほぼ同時期に『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が発表されたために、シリトーもその一派と見なされたりした。しかし〃怒れる若者たち〃がその後体制化し「怒り」を忘れてしまってからも、シリトーの主人公たちはなおも怒り続けた。

  なお、『土曜の夜と日曜の朝』は1960年にカレル・ライス監督により映画化され、こちらもイギリス映画の名作として知られる。もう1つの代表作『長距離ランナーの孤独』も1962年にトニー・リチャードソン監督により映画化されている。

<ストーリー>
  『土曜の夜と日曜の朝』は「土曜の夜」と「日曜の朝」の2部構成になっている。小説の始まりから終わりまでにほぼ1年が経過している。主人公のアーサー・シートンは旋盤工だが、金髪の美男子だ。15の時から自転車工場で働いている。重労働だが高賃金である。アーサーの父が失業手当だけで、5人の子供をかかえ、無一文で、稼ぐ当てもないどん底生活を送っていた戦前に比べれば、今は家にテレビもあり、生活は格段に楽になっている。アーサー自身も数百ポンドの蓄えがある。しかし明日にでもまた戦争が起こりそうな時代だった。

ukflag2_hh_w   作品はアーサーが土曜日の夜酒場での乱痴気騒ぎの果てにある男とのみ比べをして、したたかに酔っ払って階段を転げ落ちるところから始まる。月曜から土曜の昼まで毎日旋盤とにらめっこして働きづめの生活。週末の夜には羽目を外したくなるのも無理はない。しかし、アーサーの場合いささか度が外れている。ジン7杯とビール11杯。階段から転げ落ちた後もさらに数杯大ジョッキを飲み干した。挙句の果てに、出口近くで知らない客にゲロをぶっかけて逃走する。その後職場の同僚のジャックの家に転がり込む。ジャックは留守だ。亭主が留守の間に、彼の妻のブレンダと一晩を過ごした。

  アーサーは決して不まじめな人間というわけではなく、仕事には手を抜かず旋盤工としての腕も立つ。しかし、平日散々働いた後は、週末に大酒を飲み、他人の妻とよろしくやっている。月曜から金曜までの労働と、土曜と日曜の姦通と喧嘩の暮らし。まじめに働きながらも、ちゃっかり「人生の甘いこころよい部分を積極的に」楽しんでいる。しかもブレンダだけではなく、彼女の妹のウィニー(彼女も人妻)とも付き合っている。さらには、若いドリーンという娘にも手を出している。「彼はブレンダ、ウィニー、ドリーンを操ることに熱中してまるで舞台芸人みたいに、自分自身も空中に飛び上がってはそのたびにうまくだれかの柔らかいベッドに舞い降りた。」とんだ綱渡りだが、ついにはウィニーの夫である軍人とその仲間に取り囲まれ散々ぶちのめされる。祭の時にブレンダとウィニーを連れているところを、うっかりドリーンに見つかるというへままでしでかす。しかし何とかごまかした。アーサーは嘘もうまいのだ。「頭がふらふらのときだって嘘や言い訳をでっちあげるくらいはわけないからな。」

  アーサーの狡さはある程度は環境が作ったものだろう。アーサー自身「おれは手におえん雄山羊だから遮二無二世界をねじ曲げようとするんだが、無理もないぜ、世界のほうもおれをねじ曲げる気なんだから」と言っている。世界にねじ曲げられないためには、こっちもこすっからくなるしかない。軍隊時代は自分に「ずるっこく立ち回ること」だと言い聞かせて、自由になるまで2年間がまんした。「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝ているときしかない。」彼がハリネズミのように自分の周りに刺を突き立てるのは、自分を守るため、自分を失わないためだ。自分の定義は自分でする。「おれはおれ以外の何者でもない。そして、他人がおれを何者と考えようと、それは決しておれではない。」この自意識があったからこそ、彼は環境に埋没せずに、自分を保てたのだ。

  アーサーは政治的な人間ではない。確かに彼は「工場の前で箱に乗っかってしゃべりまくっている」連中が好きだとは言う。しかしそれは彼らが「でっぷり太った保守党の議員ども」や「労働党の阿呆ども」と違うからだ。アーサーは、自分は共産主義者ではない、平等分配という考え方を信じないと言っている。もともとアーサーの住む界隈は「アナーキストがかった労働党一色」の地域であった。実際、彼の自暴自棄とも思える無軌道なふるまいにはアナーキーなやけっぱちさがある。「おれはどんな障害とでも取っ組めるし、おれに襲いかかるどんな男でも、女でも叩きつぶしてやる。あんまり腹にすえかねたら全世界にでもぶつかって、粉々に吹き飛ばしてやるんだ」とか、「戦う相手はいくらもある、おふくろや女房、家主や職長、ポリ公、軍隊、政府」とか、勇ましい言葉を吐くが、結局ノッティンガムの狭い社会の中でとんがってずる賢く生きているだけだ。批評家たちからは、反体制的な反抗というよりも、非体制的な反抗だとよく指摘される。だが、反抗といっても他人の女房を寝取るという不道徳行為に命を賭けるといった、ささやかなものに過ぎない。むしろ今から見れば、将来の希望の見えない労働者の、酒や暴力で憂さを晴らし、人妻との恋愛に一時的な快楽を求める、刹那的な生き方と言った方が当たっているだろう。「武器としてなんとか役立つ唯一の原則は狡くたちまわることだ。...つまり一日中工場で働いて週に14ポンドぽっきりの給料を、週末ごとにやけっぱちみたいに浪費しながら、自分の孤独とほとんど無意識の窮屈な生活に閉じ込められて脱出しようともがいている男の狡さなのだ。」窮屈な生活から何とか逃れようともがいている、やけっぱちの男、これこそ彼を一言で表した表現であろう。

  そうは言っても、彼の生き方に全く共感できないわけではない。アーサーと言う人物は、80年代以降のイギリス映画によく出てくる一連の「悪党」ども、「トレイン・スポッティング」等の、「失業・貧困・犯罪」を描いた映画の主人公たちに一脈通じる要素がある。アーサーは彼らの「はしり」だと言ってもよい。イギリスの犯罪映画に奇妙な魅力があるように、『土曜の夜と日曜の朝』に描かれた庶民たちの生活には、裏町の煤けた棟割り長屋に住む庶民のしたたかな生活力と、おおらかな笑いが感じられる。西アフリカから来た黒人のサムをアーサーの伯母であるエイダの一家が歓迎する場面はほほえましいものがある。中にはからかったりする者もいるが、すぐにエイダはたしなめるし、みんなそれなりにこの「客」に気を使っている。アーサーがいとこのバートと飲んだ帰りに酔っ払いの男が道端に倒れているのを見て、家まで連れて帰るエピソードなどもある。この時代の「悪党」はまだ常識的な行動ができていたのだ。もっともバートはちゃっかり男の財布をくすねていたが(ただし空っぽだった)。

  面白いのは、最後にアーサーがドリーンと結婚することが暗示されていることである。この間男労働者もいよいよ年貢の納め時を悟ったようだ。最後の場面はアーサーが釣りをしているところである。「年配の男たちが結婚と呼ぶあの地獄の、眼がくらみ身の毛がよだつ絶壁のふちに立たされる」のはごめんだとうそぶいていた男が、釣り糸を見ながら、「おれ自身はもうひっかかってしまったのだし、これから一生その釣り針と格闘をつづけるしかなさそうだ」などと、しおらしく考えている。さて、どのような結婚生活を送るものやら。

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