昔まだパソコンではなくワープロを使っていた頃(ほんの3、4年ほど前までワープロを使っていたのです)のフロッピーを整理していたら、懐かしい原稿が出てきました。ある事情があって書いていたものですが、捨てるのには惜しい。そこで映画を観なかった日の埋め草にすることを思いつき、パソコンに取り込みました。
イギリス小説の単なる紹介記事で、大した内容ではありません。ただ最近でも「オリバー・ツイスト」や「プライドと偏見」などイギリス小説の映画化は連綿と続いていますので、何かの参考にはなるでしょう。毎週1作を取り上げていたので、当時は非常につらかった。単行本を1週間で1冊読み上げ(もちろん翻訳です)、おまけに紹介文まで書いていたのだから当然ですが。幅広い人に読んでいただけたら当時の苦労も報われます。
【ヴィクトリア時代】
・ヴィクトリア時代(1837-1901)
ヴィクトリア女王はわずか18歳で即位。英国史上最も輝かしい栄光の時代。
ヴィクトリア時代とは、いうまでもなくヴィクトリア女王が在位した時代のことで、1837年から1901年までの65年間を指す。ヴィクトリア初期(1837-50)、ヴィクトリア中期(1850-70年代)、ヴィクトリア後期(1870年代ー1901)の三期に分けて考えるのが一般的である。
19世紀のイギリス史は、1870年代を境に大きく二分して考えることができる。1870年代以前は、世界に先駆けて産業革命をなしとげた工業国イギリスが世界の霸者となる躍進期であり、1870年代以降は、いわゆる「帝国主義」の時代で、それ以前が躍進期であるのなら、この時期は、イギリスの今日にまでいたる後退期の始まりであった。
従来の通説は、産業革命の進展とそれにもとづくブルジョワ階級の発展を歴史叙述の機軸としていたが、その場合ややもすれば、ブルジョワ階級の経済力の増大をそのままかれらの政治支配権の増大と同一視する傾向があった。しかしながら、このさい、われわれもまたはっきり留意しておかなければならないのは、第一次選挙法改正と穀物法撤廃という画期的事件のあとに到来した1850-70年代のヴィクトリア中期においてさえも、上下両院をはじめとする全イギリスの政治機構は、なお地主階級によってほぼ完全に掌握されていたという事実であって・・・政治的な支配体制という見地からすれば、1870年代までイギリスは地主階級による貴族政の国家だった・・・。
1832年の選挙法改正と1846年の穀物法廃止の最たる史的意義が、それぞれブルジョア階級への参政権付与と自由貿易の実質的な確立にあることはすでに周知のところである。
一方労働者階級の運動についてみれば、まず19世紀の前半はまさしくイギリス労働者階級の英雄時代であった。ラダイト運動、オーエン主義、労働組合主義、政治的チャーティズムと様々な運動が起こったが、伝統的な地主・貴族階級がブルジョワ階級と手を結んだとき、これと対抗するのには結局のところあまりにも非力であった。したがって、ピータールー事件に始まり、第一次選挙法改正の運動、全国労働組合大連合をへて新救貧法反対闘争からチャーティズムへといたる敗北の歴史は、労働運動の歴史は、これを遺憾なく物語っているといえる。
参考文献:村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』(ミネルヴァ書房:1980年)
世界に先がけて産業革命を経験したイギリスは、その後は他国の追随をゆるさない繁栄の時代を迎える。しかもその発展は、これを経済史的に見れば、直線的に行われたわけではけっしてなく、1825年の恐慌以後は、ほぼ10年の周期をもって規則正しくくりかえされた景気循環過程(好況→恐慌→不況)を通じて、中断をともないながら螺旋的に行われた。...ところが、70年代になると、「世界の工場」としてのイギリスの地位に、かげりが見えはじめる。遅れて世界市場に登場したドイツやアメリカの工業生産力が、非自由主義的なカルテルやトラストの組織を背景として飛躍的に発展し、イギリスは守勢に立たざるをえなくなったからである。資本主義の世界史的発展段階としては、1873年から20年以上にわたる「大不況」期を過渡期として、自由主義段階と帝国主義段階とに区分する理由がここにある。
50年代は、ロンドン万国博覧会に象徴されるように繁栄の時代であるが、この時代の底辺の労働者の実態は、H.メイヒューの『ロンドンの労働とロンドンの貧困』と、その中に含まれている数多くのイラストによって、余すところなく描き尽くされている。
イギリスが、チャーチズムの荒れ狂った「飢餓の40年代」を脱し、ヴィクトリア朝の繁栄とパックス・ブリタニカを本格的に謳歌するのは50年代に入ってからである。他国を農業国とする国際分業体制の下で、文字通り「世界の工場」として君臨してきたイギリスが、ユニオン・ジャックの国旗の威力を世界に誇示する晴れの舞台、それが1851年にハイド・パークで開催されたロンドン万国博覧会であった。そして、その会場でイギリスの威光を何よりも雄弁に物語っていたのが、当時の科学技術の粋を集めて建設された鉄枠総ガラス張りのクリスタル・パレス(水晶宮)であった。
パビリオンとなった水晶宮は、全長560メートル、幅120メートル、高さ30メートル、建築面積7万平方メートルという巨大な建造物であった。
万博の入場料は、「二つの国民」の存在を数字の上で示した。定期券所有者と金曜日(2シリング半)土曜日(5シリング)の入場者延べ160万人は、上・中流階級の人々であったことはまちがいない。しかし、入場者の大半は、1シリング入場券の見学者で、しかもその中には、地方から往復割り引き切符を手に会場を訪れた団体客もかなり含まれていた。1830年に開業した鉄道も、その後の20年間で、イギリス全土を文字通り網の目のように覆っていた。これに目をつけた旅行業者T.クックや鉄道会社が、こぞって割安の観光切符を発売したり、団体旅行を請け負ったことが、すでに述べたように、「1シリング・デイ」の入場者数を膨らませたもう一つの理由であったわけだ。
ロンドン万博を契機に大衆化したものは、観光旅行だけにとどまらなかった。...40年代初頭『パンチ』と『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』というヴィクトリア朝期を特徴づける大衆向け娯楽週刊誌が創刊されていたが、両誌を含めたマス・メディアは毎号、万博の話題を盛り込んで、万博熱を高めるのに寄与していた。
長島伸一『世紀末までの大英帝国』(法政大学出版局)
【階級社会/ジェントルマン/ジェントリー】
会田雄治の「アーロン収容所」に、174センチの彼より長身の英軍下士卒は少なく(そのうえ単純な計算が苦手で、満足に英語を綴れぬものもいた)、一方彼より背の低い将校はまれで、体格はみな立派だったという記述がある。イギリスがいかに画然とした階級社会であるかがよく分かる。階級はイギリスを読み解く上で欠かせないキーワードである。以下に関連の引用を示す。
この史上最初の「消費革命」の一特徴は、中流階級に虚栄の生活態度を抜きがたく植えつけてしまったことで、かれらの社会は、まさにサッカレイのいう『虚栄の市』となった。かれらの生活目標は、一段階上のジェントルマンで、年々の消費の増大は、「ジェントルマンの体面を獲得するのに必要な道具立て」を、年収の増加に応じて順次購入していくという形で顕現した。19世紀を通じて増大しつづけた馬車と召使の数値は、その端的な現れであったし、また地位向上と体面維持のための経済膨張は、多面での節約を余儀なくさせ、かくして結婚の延期と家族計画が中流階級の習慣となって定着した。
ジェントルマンとは、・・・ イギリスに特有な有閑階級のことなのであって、19世紀の前半には、ジェントルマン、ノン・ジェントルマンの区別は、なおすぐれて支配、被支配の区別に対応するものであった。だが、ジェントルマンをジェントルマンたらしめるのは、支配という要素だけではない。おそらくより重要であったのはジェントルマンの教養で、この点でパブリック・スクールとオックスブリッジが大きな意味をもつ。
ジェントルマンになるためには、...ジェントリ=地主になるか、ジェントルマン教育コースに学ぶか(そしてその後、たいていはジェントルマンのプロフェッションにつく)のいずれかしか道はなかったことになる。ところが幸い、16世紀以来のイギリス社会は「開かれた貴族制」で、ここから中流階級のジェントリ=地主ないしジェントルマンをめざす社会移動の問題が生まれた。そしてこの問題が、なかんずく大きな史的意義を持ったのは、19世紀、わけてもジェントルマン化意識が、いうなれば大量現象として、中流階級のエートス[時代風潮]と化した19世紀中葉においてであった。
村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』(ミネルヴァ書房:1980年)
上流階級は、さらに貴族階級、ジェントリー、そして地主階級ないしは労働の必要のない自立紳士階級の3種に分けることができる。貴族階級とは、1万エーカー(約18平方マイル)をこえる私有地をもつ大地主から成っていて、彼らは大部分がいわゆる爵位貴族階級に属していた。年間1万ポンドを上まわる収入を産み出す資産をもち、絶大な権力を備えたこの一握りのグループの数は、3百世帯から4百世帯程度であった。彼らの下に、1千から1万エーカーまでの私有地をもつ、やや小規模の土地所有者から成るジェントリーがいた。このジェントリーの年収は1千ポンドから1万ポンド。そして彼らは約3千世帯を形成していた。
J.P.ブラウン『19世紀イギリスの小説と社会事情』(英宝社、昭和62年)
「わたくしずっと以前から堅く信じておりますけれど、実際どんな職業でもそれぞれに無くてはならないもの、尊いものでございますけど、まあいつまでも達者でいられるというしあわせは、職業に就かないですむ方、時間も勝手に使え、自分の好きな事ができ、財産で食べていけ、お金を殖やそうと齷齪しないですむ方、まったくそういう方だけに恵まれた運でございますわ。そういう方以外には、どんな方面の人でも、そろそろ若さを失いかける時分には、どうしたって幾分器量が落ちてまいりますわ。」(ウォールター卿に対するクレイ夫人の言葉)
ジェーン・オースティン『説き伏せられて』(岩波書店)p.33
【家庭の天使】
かつて理想とされた良妻賢母型の理想的主婦像。以下の引用参照。
良妻賢母の理想像の背後には、言うまでもなく、男は公領域(=職場)、女は私領域(=家庭)という性別分業がある。工業化の進展が家庭と職場の完全な分離をもたらしたなかで、男には生活の糧を得るために家の外で経済活動に従事することが、女には良き妻、賢い母として家庭を安らぎの場とすることが、それぞれ期待されていたのだ。つまり、家庭は激烈な生存競争の場たる職場からの避難所、安らぎと憩いの聖域として位置づけられ、女はそこで生存競争の闘いに傷ついて戻る男を迎え、その傷を癒し、男の魂を清める天使の役割を割りふられていたのである。ということは、男性領域たる職場と女性領域たる家庭が相携えて産業資本に基づく社会の歯車を円滑に回転させていたということであろう。<家庭の天使>とは、端的に言って、イギリス産業資本がその支配権確立の一環として制度化した「理想の女性」にほかならないのである。
本書が対象とする家庭は、さまざまな例から見ておおよそ中産階級の中流以上と言ってよかろう。女主人は、料理や育児に直接手を下すことを期待されていない。代わりに、指示を与える職務上、家政のすべての面にわたる知識が要求されているのだ。
まず指摘したいことは、女性の使命が娘・妻・母という三つの性役割においてとらえられていることだ。
次は、女性が男性に劣る存在としてはっきりと規定されていることだ。つまり、女性は、個人的才能はどうであれ、女性という性に属するだけで、問題なく男性に劣る存在なのである。エリス夫人は『イギリスの妻たち』において、「あなたのほうが夫に比してより才能があり、より学識があり、人びとからより高く評価されているかもしれません。ですが、そうしたことは女性としてのあなたの地位となんら関係がないのです。女性の地位は夫の男性としての地位に劣るものであり、かつ劣るものでなければならないのです」と説き、したがって「妻は、夫がどんな愚かなことをしようと、夫を尊敬しなければなりません。妻となったからには、その男より劣った立場になったのですから」と諭し、続く『イギリスの娘たち』においても「女にとってまず重要なことは、男に劣っていること--体力において劣っているのと同じ程度に知力においても劣っていること--を甘んじて受け入れることです」と男女の優劣関係をくり返し強調している。
川本静子「清く正しく優しく--手引き書の中の<家庭の天使>像」
『英国文化の世紀3 女王陛下の時代』(研究社出版、1996年)所収
【性のダブル・スタンダード】
女性に厳しく、男に甘い性の二重基準のこと。以下の引用参照。
このことは、言い換えればダブル・スタンダードの程度がはなはだしい社会ほど、一方で強調される女性の貞淑さと男性への従属とのバランスをとるために、もう一方で売春行為とそれを行う女たちを必要とする社会だということになる。そしてヴィクトリア朝のイギリスは、まさしくそうした社会の一つであった。たとえばこの時代、夫婦のうち妻に一度でも不貞行為があった場合、夫はまちがいなく離婚が認められたが、夫が同じような行為をしたという理由で妻からの離婚請求が認められることは滅多になかった。妻は夫から不貞だけでなく、重婚や虐待、遺棄、近親姦、強姦、その他の「離婚理由として十分な」被害をこうむったことを立証しなければならなかったのである。こうした態度の背景には、妻は夫の所有物であるという観念とともに、男の性欲は強くて制御が難しいのに対し、女の場合には「まともな女性」であればそのような欲求は感じるはずはないという考え方が存在していた。
当時のイギリスにはその一方で、男女ともに厳しい性的モラルを要求し、婚姻外でのすべての性関係をゆるすべからざることとみなす考え方も存在していた。これはピューリタンの伝統とともに、中流階級の勃興とも関係があった。新興ブルジョアジーは、富裕だが淫蕩な上流階級の生活とも、貧しい下層階級の性的無秩序(と彼らが考えたもの)とも異なる高い道徳性やリスペクタビリティを、自分たちの階級的アイデンティティのよりどころとしていたのである。もちろんこれにはつねに、悪名高いヴィクトリア朝風お上品ぶりや、表面だけをとり繕った欺瞞という側面が伴っていたのでもあるが。
荻野美穂「「堕ちた女たち」--虚構と実像」 、 『英国文化の世紀4 民衆の文化
誌』 (研究社出版、1996年)所収
【余った女】
女あまりの時代に結婚できない女はこう呼ばれた。以下引用。
中産階級女性の有閑生活は、父親から夫への扶養者交代の歯車が順調に回転してこそ可能であり、この歯車の回転がいったん滞れば、たちどころに崩れてしまうことは誰の目にも明らかだろう。事実、19世紀の40年代頃から、この歯車は男女の数のアンバランスによってスムーズに回転しなくなったのである。男女数の不均衡は、本文で触れるとおり、①男女の死亡率の相違、②海外移住に関する両性間の相違、③上流および中流階級男性の晩婚の傾向など、主として三つの原因に由来するが、とにかく、適齢期の女の数に見合うだけの適齢期の男の数が大幅に不足したのだ。その結果、夫を見つけられない女--俗にいう<余った女>--が世紀の半ば以降、大量に出現したのである。
かつてないほど大量の未婚女性がガヴァネスの職を求めて殺到するとなれば、これまた需要と供給のアンバランスから、労働条件の悪化を招くことは当然の成り行きだろう。19世紀の「女性問題」は、中流階級の女性に関するかぎり、ひとえに困窮したレディの問題に他ならないが、それは事実上「ガヴァネス問題」という形であらわれたのだった。
川本静子『ガヴァネス』(中公新書、1994年)
【ガヴァネス】
上流家庭の子供を住み込みで教える女性家庭教師のこと。彼女自身出身は中流の上層か上流であるが、親が財産をなくしたり女性であるがゆえに財産を相続できなかった女性が収入を得る唯一の手段。
18世紀には娘たちを寄宿学校に入れるのが広く流行したが、寄宿学校では健康についての配慮がほとんどなされず、結核にかかって死ぬ者が少なくなかったという。こうしたことから、裕福な親たちは娘たちを学校にやらず、ガヴァネスをおいて家で教育を受けさせようとした。この時代のガヴァネスは、ヴィクトリア時代とはちがって、敬意をもって扱われたらしい。ガヴァネスに無礼な態度をとることはマナーにかけると見なされていたし、女性作家マライア・エッジワース(1767-1849)も「私の育った頃にはガヴァネスは上級の雇い人としてではなく、レディとして扱われました」と言っている。
上流階級の家でガヴァネスを雇うことが慣行となったのはチューダー王朝期以降だったが、摂政時代(1811-20)になると裕福な中産階級もガヴァネスを雇うようになった。この頃、女性作家ジェイン・オースティン(1775-1817)の作品『エマ』(1816)に登場するミス・テイラーのように、恵まれたガヴァネスがいたことも確かだが、一般にガヴァネスの扱いに変化がでてくるのはこのあたりかららしい。
ヴィクトリア時代におけるガヴァネスの定義だが、これはレディ・イーストレイクが有名なエッセイ「『虚栄の市』、『ジェイン・エア』およびガヴァネス互恵協会」(『クォータリー・レヴュー』1848年12月)の中で次のように明確な定義を与えている。
ガヴァネスの真の定義は、イギリスでは、生まれ、振る舞い、教育の点で私たちと対等であるものの、財産の点で私たちに劣る人のことである。生まれも育ちも、言葉のあらゆる意味において、レディである人を例にとろう。彼女の父親が失職したとしよう。すると、このご婦人は、私たちが子どもたちの教育者として考えている最高の理想像にぴったりというわけだ。ガヴァネスという収穫を刈り取るには、何人かの父親が軽はずみ、浪費、誤り、罪などを犯すことによって種をまいておいてくれる必要があるのだ。このように同胞の不幸によって供給される仕組みになっている雇用労働者は、他に類がない。
つまり、ガヴァネスとは、一言で言えば、生計の資を得るために教師として働くレディというわけである。
19世紀中葉以降ガヴァネスの数が増え続けた最大の原因は、女性の数の過剰である。ヴィクトリア時代の女性について少しでも学んだ者は、1851年のセンサスによって明らかになった事実、すなわち、女性の総数が男性のそれに約51万人以上上回ることを知っていよう。
当時レディにとって恥ずかしくないと見なされた唯一の職業はガヴァネスだったので、自活の必要に迫られたレディたちがきまってガヴァネスの仕事を求めたのは、論理の当然の帰結だったのである。それに加えて、商人や農場経営者の娘たちが社会的上昇の手段としてガヴァネス職を選んだことも、ガヴァネス人口の供給源の一つとなっていた。
川本静子『ガヴァネス』(中公新書、1994年)
【付録 イギリス歴史・社会・文化用語解説】
■チャーチスト運動(Chartism)
1838年から58年にかけての労働者階級による議会改革運動。1838年ロンドン労働者協会は、男子普通選挙権、無記名秘密投票、議員への歳費支給、財産による議員資格制限の撤廃、選挙区の均等有権者数制、議会の毎年開会の6項目を掲げて議会改革を呼びかけた。まもなくこの6項目は人民憲章(People's Charter)として公表された。そのためこの運動はチャーチズム、運動参加者はチャーチストと呼ばれた。請願は再三拒否され、結局直接成果は挙げられなかった。この運動は1832年の第一次選挙法改正で参政権を与えられなかった労働者が参政権を求めたものであるが、中産層の支持を得られなかったために収束していった。
■ピータールー虐殺事件(Peterloo Masacre)
1819年8月16日、マンチェスターのセント・ピーター広場で起こった、官憲による民衆運動弾圧事件。集まった5万人の群集を前に弁士が演説を始めたとき、軽騎兵が抜刀して群集に襲いかかった。11人が死亡、400人以上が重軽傷を負った。
■ラッダイト(Luddites)
19世紀初め、機会破壊運動を起こした手工業者や労働者たち。彼らは、ナポレオン戦争による困窮の原因を産業革命によって機械が導入され、省力化が進められたことにあると信じ、集団で工場や製造所を襲撃し、機械を破壊した。運動は1811年から翌年にかけ、中部や北部の繊維工場地帯で起こり、広まった。政府は軍隊を投入して厳しく弾圧した。
■ロバート・オーエン(Robert Owen, 1771-1858)
イギリスの社会主義者、社会改革家。1799年ニューラナークの紡績工場を買い取り、この工場で人道的な工場管理により効果を上げて、世間の注目を浴びた。1825年アメリカに渡り、ニューハーモニー共同社会を建設したが、失敗に終わった。33年には労働組合を結成して全国労働者組合大連合を成立させ、議長になった。しかし、1~2年で瓦解した。晩年は財産も使い果たし心霊主義者になった。
■改正救貧法(Poor Law Amendment Act)
1834年に制定された救貧法。これにより、院外救済は廃止され、救済対象の貧民はすべて強制的に救貧院に収容して働かせることになった。怠け者への懲罰の意味を含めるため、救貧院の居住条件は最悪とされ、拘置所と大差ないものになった。
■選挙法改正(Reform Act)
◇「第1次選挙法改正」1832年。
選挙区の合理化と選挙権の拡大が図られた。これまで議員選挙権をもたなかった新興都市に議席が与えられた。新たに富裕層、地方商人、新興工場主など、中産階級の上層、中層部にまで選挙権が拡大した。
◇「第2次選挙法改正」1867年
この改正で都市の一般市民や工場労働者にまで選挙権が広まった。また第1次改正後も残っていた腐敗選挙区などの統廃合が行われた。
次回は「プライドと偏見」の原作『高慢と偏見』を取り上げます。