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2005年12月29日 (木)

宇宙戦争

原題 : War of the Worldshoseki4
監督 : スティーブン・スピルバーグ
製作 : ポーラ・ワグナー
原作 : H.G.ウェルズ
音楽 : ジョン・ウィリアムス
出演 : トム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ティム・ロビンス
     ミランダ・オットー

  スピルバーグの「宇宙戦争」は評価が大きく割れているようだ。否定派の理由はほぼ共通している。宇宙人に襲われた地球を救うために一人のアメリカのヒーローが雄雄しく立ち上がり、敵をばたばたと倒して地球を救う、およそこういうストーリーを期待していたのに当てがはずれてがっかりしたというものだ。恐らく頭の中には「インデペンデンス・デイ」のイメージがあったに違いない。そう、確かにヒーローも出てこないし、大統領が活躍したりもしない。主演のトム・クルーズはヒーローどころか、ただひたすら逃げ惑うばかりだ。

  また総じて激しい戦闘シーンを期待している。だがまともな戦闘シーンなどほとんど描かれない。あらかじめ強力なシールドが張られているため、人間の武器など役に立たないという設定になっていることもあるが、そもそも全体像は何も分からない。一貫して逃げ惑うトム・クルーズ親子に焦点が当てられているので、彼らが遭遇しないものは画面に映らないのである。最初のトライポットの攻撃によって街が破壊されるシーンだけは迫力があるが、後は逃げ隠れしてるだけじゃないか。逃げ回るだけでは面白味に欠けると。映画に「刺激」だけを求める人たち、あるいはトム・クルーズに世界を救って欲しいと願っていた人たちには総じて評判が悪い。

  もう一つ共通しているのは、もっときちんと説明をいれるべきだという不満。一体宇宙人は何が目的で地球にやってきたのか、そもそも何が起こっているのかさっぱり分からないじゃないか。あの血のように赤い植物の根っこの様なもの、あれは一体なんだ。こういう疑問には一切答えていない。これは肯定派にもある不満である。

  そもそも「宇宙戦争」にヒーロー物語を期待するのが間違っている。H・G・ウェルズの原作がまずアンチ・ユートピア小説なのである。映画でも一部引用されているが、冒頭にこう書かれている。

  十九世紀の末において、このおそるべき事実を知っていた者が、はたして何人いたことであろうか?われわれの住む地球は、われわれの知能をはるかに凌駕する生物によって、するどく見守られ、周到綿密に観察されていたのである。その生物たるや、われわれ人類同様、生き、かつ死に、そしてその眼で、われわれ地球人がこの世の営みにあくせくしているさまを、顕微鏡下の水滴中にうごめき、繁殖をつづける微生物でも見るように、観察と研究とをつづけているのだった。
  その間われわれ人類は、物質の支配に成功した思いあがりから、無限の自己満足に陶酔し、意味もない日常瑣事《さじ》に追いまくられ、地球上を右往左往していたにすぎなかった。それは顕微鏡下に見る滴虫類のうごきと、なんら異なるところがなかったといえよう。宇宙間に存在するより古い星の世界に、われら人類の危難の涙がひそんでいようとは、夢にもおもいを馳せなかったのだ。・・・(中略)
  しかし、うぬぼれつよく、虚栄心に盲《めし》いた地球人は、十九世紀の末にいたるまで、そこに、われわれ人類をはるかに超える能力をもつ知的な生命が発達していること、いや、そういった生物の生息している事実さえ、みとめようとしなかった。
 (宇野利泰訳 http://www.gutenberg21.co.jp/U_sensou.htmより)

  人類の「思い上がり」と「自己満足」という表現に込められた皮肉な視線、そしてその思い上がった人類をまるで「微生物」のように観察している「われわれの知能をはるかに凌駕する生物」の存在。これだけでこの古典的SF小説の基本的な姿勢が読み取れる。地球の支配者として思い上がった人類に警告を発しているのである。万物の霊長を自認して「虚栄心に盲いた」人類を裸にしてしまったのだ。裸になった人間はまことに弱い存在である。何も持たずに裸でジャングルに放り出されたら一体何日生きられるか。人間の肌ほどもろい皮膚はない。ちょっと引っかいただけで血がにじむ。鋭い爪も牙もない。裸の人間は無力である。

  しかし人間はそのもろさを智恵で補ってきた。鋭い爪や牙がなければ武器を持てばよい。早く走れないなら自動車に乗ればいい。空を飛べないなら飛行機やヘリコプターを使えばいい。やわな体も服を着れば寒くないし、必要なら防弾チョッキや丈夫な防護服を着ることも出来る。それでも弱ければ戦車でも装甲車でも用意すればいい。象の様な力がなければ重機を使えばいい。こうして人間は地球上のどんな動物よりも早く走れ、高く遠くまで飛べ、どんな猛獣よりも強くなることが出来た。それもすべて人間の智恵のおかげである。しかしその驕り高ぶった人類よりもっと優秀な生物がいたとしたら?それこそ「宇宙戦争」の主題であった。

  人類を上回る智恵と武器を持った宇宙人の前では人間は文字通り裸同然である。逃げ惑うしかない。パニックになり、人を押しのけてでも自分だけ助かろうとあがきまくる。実際そうなることは1938年の10月30日に証明された。H.G.ウエルズの「宇宙戦争」をオーソン・ウエルズが脚色して、ラジオで「火星人来襲」のドラマを本当のニュース放送のように流したところ、事実だと思い込んだ人々が大騒動を起こしましたという有名な話である。

  この『宇宙戦争』をうまくアメリカのイデオロギーに合わせて改変したのが他ならぬ「インデペンデンス・デイ」である。アメリカ人は大統領を先頭に勇敢に宇宙人と戦い、ついにこれを撃退するという、なんとも都合のいい話。アメリカが世界を救う。アメリカ・アズ・NO1というお話である。ほぼ同時に作られ、この「インデペンデンス・デイ」をおちょくったかと思えるのがティム・バートンの「マーズ・アタック」である。オールスター・キャストなのだが、有名俳優は早々に殺されてしまう。大統領ならぬ無名の人たちが活躍する映画である。もっとも火星人も悪ガキ程度でスピルバーグ版のような無慈悲さはない。明らかに「インデペンデンス・デイ」タイプの映画に対する意識的なアンチテーゼとして作られている。

to   こうしてみるとスピルバーグ版の性格(特質)が見えてくる。ここでは人類の「思い上がり」や「うぬぼれ」に対する風刺よりは、むしろ「強いアメリカ」に対する風刺がこめられている。その上に9.11のテロで逃げ惑うアメリカ人の姿がかぶさっている(壁にたくさんの行方不明者の名前が貼られているシーンがあった)。さらには、もう一ひねりして見れば、アメリカの道理のない侵略によって女子供まで無差別に殺されたイラク国民の姿もオーバーラップされているともいえる。ちょうど53年版の映画が核戦争の恐怖を重ね合わせていたように。スピルバーグ版はまさにそういう映画である。その出発点を正確に抑えないと見当違いな感想に終わってしまう。原作ではイギリスの各地に隕石と思われるものが落下したことになっていたのを、アメリカを舞台に変えてはいるが、それは別に問題ではない。原作がイギリス小説で映画はアメリカ映画だというだけのことだ。重要なのはアメリカ万歳、アメリカが世界を救うという観点がほとんどないことである。ただ、トム・クルーズが手榴弾で宇宙船を破壊するあたりは「インデペンデンス・デイ」を想起させる。まあ、ちょっとは反撃もしないと観客の気持ちが収まらないと考えたのだろう。

  映画を支配しているのはヒーローの勇気ではなく恐怖である。訳のわからない恐怖。侵略者は最後まで得体が知れない。侵略者が火星人だとすら説明されていない。そもそもなぜ地球が攻撃されるのかも分からない。これは意図的にしたことだろう。原作にはきちんと説明があるからだ。火星人は死滅の危機に瀕しており、「さしせまった必要性」によって「みどりの色濃い植物、灰色の水、豊饒を告げる雲をうかべた大気」を持った別の星への侵略に駆り立てられていたのである。

  あえて何も説明しなかったのは明らかに「得体の知れない恐怖」を描きたかったからだろう。それこそスピルバーグの原点である。最初に撮ったTV映画「激突」は正体の分からないトラックに追い回される恐怖映画である。トラックの運転手は足元しか映されない。最後まで顔が見えない恐怖。「ジョーズ」もいつ巨大サメが現われるか分からない恐怖が充満していた。スピルバーグは得体の知れないものの怖さを知り尽くしているのだ。「得体の知れない恐怖」という意味ではSF映画の金字塔「エイリアン」の第1作もまさに敵の姿が見えない恐怖をこれ以上ないほど徹底して描きこんでいた(ちなみに宇宙人の形もグニョグニョした生き物ではなくエイリアンに近い)。しかしエイリアンはまだ銃や砲弾で倒せた。ところがシールドを張ったトライポッドには全く通用しない。しかもトライポッドの破壊力は絶大である。突然理由も分からず強力な兵器を持った敵に襲われたら誰でも逃げ惑うしかない。何で襲われるのか分からないし、敵の正体も分からないからなおのこと怖い。スピルバーグはそういう逃げ惑う人間の恐怖体験を描きたかったのだ。だからこそヒーローでもスーパーマンでもない普通の男が主人公として必要なのである。彼の視点からは全体像が何もわからない。映画を観ているわれわれにわかる(例えば字幕などで)ことでも、彼にはわからない。反撃すら出来ず、緊張と恐怖と無力感にさいなまれるばかり。その無力感と恐怖が(偽ラジオ番組が証明したように)現実的だからこそ怖い。

  トライポッドを下から人間が見上げるショットが実に効果的だ。その巨大さが視覚的に伝わるし、まさに「細菌」並みの人間のちっぽけさと無力さが実感される。しかもトライポッドは正確に人間1人ひとりをレーザー光線で焼き払ってゆくので、次は自分も殺されるという恐怖感が直に伝わってくる。このあたりの描き方は憎いほどうまい。生き血を吸うシーンなんかよりずっと怖い。そんなものはホラー映画で慣れっこだ。

  ウエルズの原作では一人の男が主人公であり語り手である(一部彼の弟が語り手になる部分があるが)。主人公は途中で家族と別れてしまい、逃げる途中で他の避難民と一緒になることはあるが基本は一人で行動する。スピルバーグ版の映画では親子をメインのキャラクターにした。その結果、家族愛というサブ・テーマが織り込まれる。アメリカ映画得意のテーマである。どんな緊迫したアクションものでも、アメリカ人はこれを描かないと気がすまない。「アルマゲドン」しかり、「ディープ・インパクト」しかり。なぜなら、そこが泣かせのツボだからだ。だが、ここでもスピルバーグは型どおりには描かない。トム・クルーズがかっこいい父親役でないのは言うまでもない。息子には馬鹿にされている。泣きわめく娘には散々てこずらされる。全くいいところのない父親である。彼を単なる港湾労働者に設定したように、あくまで普通の父親に過ぎない。子供たちの前で勇敢なところを見せる場面は全くない。最後に家族が再会した後も、基本的な関係は変わらないだろう。別れた妻とはよりが戻る可能性はないし、子供たちは母親の方を慕っている。その描き方がいい。スピルバーグは最後まで原作通りアンチ・ユートピアの姿勢を保っている。

  主人公を兄弟ではなく親子にしたのは、単なる戦争アクションものではなく人間のドラマを描きたかったからだろう。ただ人間ドラマとしては今ひとつだ。ティム・ロビンスの起用も十分生かされているとはいえない。息子にいたっては本当に必要だったのかという疑問すら浮かぶ。家族愛のテーマは意図したほど映画にふくらみを与えているとはいえない。むしろ、パニックになって車を奪い合ったり、われ先にとフェリーに乗り込もうとするあさましい群衆のほうがリアルだった。

 なお、タイトルがいろいろ物議をかもしているが、原題を見るとWorldsは複数形になっている。つまり火星と地球という二つの世界の間の戦争という意味である。

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コメント

 カゴメさん 丁寧なコメントありがとうございます。
 カゴメさんの「怒りの」ご指摘はかなり正当なものだと思います。僕もトム・クルーズがインタビューで「家族愛」を強調していたのには違和感を覚えました。変に家族問題を絡ませたことが問題の焦点をぼかしてしまっていると思います。ティム・ロビンスの処理もあれじゃねえ。
 異星人の姿が出てもいいとは思うのですが、あれは確かにお粗末ですね。昔のタコの様なイメージを変えたかったのでしょうが、「エイリアン」以降異星人のイメージはどれも「エイリアン」のヴァリエーションに過ぎなくなってしまいました。スピルバーグも「新案」を作れなかったのですね。
 落ちもただの細菌ではなくて何かもっと厄介なウイルスか何かにしたほうが説得力は確かに高まるでしょう。
 僕もそういうことをもっと指摘したかったのですが、何よりも、「宇宙戦争」をめぐる議論には評価の土台になる基本的な問題意識が欠けているような気がして、それを強調して書いたしだいです。

こんばんわ! ゴブリンさん。
相変わらず水も漏らさぬレビューぶり、感服です。
この映画、カゴメの場合、旧作のイメージが強くて、
スピルバーグが一体どんなリメイクをしてくれるのか、
かなり楽しみにしていたんです。
良くありがちなヒーロー物にしていないところは好感が持てて、
それは良いんですが、
最後の処理…エイリアンの敗退はもっとオリジナリティのある処理をして欲しかったところでした。
あと、どうもあの“家族愛”というのが平板で鼻についたです。
ティム・ロビンスにしても殺してしまう必然性がまったく稀薄だし…。
トムの軽薄さが、悪い意味で影響を与えてますね、たぶん。
一家族のヒューマニズムに固執せず、アンチヒーローの主人公の視点で、
もっと冷徹にパニックを見据えるようなドキュメントタッチの作品だったら、
随分と違った作品になったろうになぁぁ、と思ったです。

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