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2005年12月 1日 (木)

マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ

1985年 スウェーデン 041863
原作:レイダル・イェンソン
製作:ヴァルデマール・ベリエンダール
監督:ラッセ・ハルストレム
音楽:ビョラン・イスフェルト
撮影:イェリン・ペルション
出演:アントン・グランセリウス、マンフレド・セルネル
    アンキ・リデン、レイフ・エリクソン、メリンダ・キンナマン

 ラッセ・ハルストレム。輝かしい業績の持ち主である。フィンランドのアキ・カウリスマキ(「浮雲」、「過去のない男」)やデンマークのビレ・アウグスト(「ペレ」、「愛と精霊の家」)と並ぶ、現代北欧(出身)の代表的映画監督である。スウェ-デン時代に「アバ・ザ・ムービー」(77)、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(85)、「やかまし村の子どもたち」(86)、「やかまし村の春・夏・秋・冬」(86)、「ワンス・アラウンド」(90)を作り、91年にアメリカに渡った後も「ギルバート・グレイプ」(93)、「サイダーハウス・ルール」(99)、「ショコラ」(00)、「シッピング・ニュース」(01)と秀作を作り続けている。自国で成功した後アメリカに渡った人は多いが、ほとんどの場合は自国で作った作品の水準を維持できていない。金があればいい作品が作れるわけではないのだ。そういう意味で、渡米後もこれだけの水準を維持していることは称賛に値する。いや、総合的にはアメリカで作った作品の方が上だと言ってもいい。

  「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」はハルストレム監督を世界に知らしめた出世作である。スウェーデン時代の最高作であり、渡米後の作品群にすら引けをとらない傑作である。チャップリンの「犬の生活」を連想させるタイトルの意味は冒頭の独白で暗示される。

 よく考えてみればぼくは運がよかった。たとえばボストンで腎臓移植手術を受けたあの男。新聞に名は出たが死んでしまった。あるいは宇宙を飛んだあのライカ犬。スプートニクに積まれて宇宙へ。心臓と脳には反応を調べるためのワイヤー。さぞいやだったろう。食べ物がなくなるまで地球を5ヶ月回って餓死した。僕はそれよりマシだ。

  主人公のイングマルは不幸な少年だ。兄にはいつもいじめられている。ママは好きなのだが、兄のいたずらのせいでおしっこを漏らしてしまったり、ミルクの入ったコップを持つと手が震えてこぼしてしまったりで、いつも叱られてばかり。パパは赤道の近くでバナナの出荷の仕事をしていて不在である。焚き火をすれば枯れ草に火がついて火事になってしまう。やることなすことうまく行かない。学校でも家でも叱られてばかり。決して悪い子でもいたずらっ子でもないのだが、結果的には叱られてしまう。辛くやるせない人生。そんな時イングマルは星空を見上げる。自分よりもっと不幸なものを思い浮かべることで自分を慰め、かろうじて精神のバランスをとっている。そうすれば、どんなに辛いときでも自分は「運がよかった」と考えられる。「僕はそれよりマシだ。」この考え方がなんともいじらしい。たびたび語られる「こういう時はライカ犬のことを考えよう」という言葉には胸がつまる。

  しかしハルストレム監督の演出はぐっと抑えられている。泣かせよう泣かせようとするのではなく、むしろ淡々とイングマルの生活を描いてゆく。ストーリーの展開はエピソードの積み重ねのようになっている。対象から一定の距離を置いてパノラマ的に描いてゆくのだが、離れすぎもせず随所にイングマルの独白を挿入している。この距離のとり方が絶妙だ。観客が過度にイングマルの内面に入り込むことをさけつつ、彼への共感を失わせない。見事である。

  イングマルの生活に転機が訪れるのはおじさんのいる田舎にしばらく預けられた時である。母親の具合が悪く、子供がいては気が休まらないので、子供たちは親戚に預けられることになる。兄のエリクはおばあさんの家に、イングマルはグンネル叔父さんのところに。この山間の小さな村での生活がイングマルを変えてゆく。叔父さん夫婦は共に優しい人たちだった。イングマルを出迎えたおばさんが彼に話しかけた言葉には心がこもっていた。「少し温かくなったわ、あなたが太陽を持ってきたのよ。」この言葉どおりイングマルは温かく迎えられる。

  村の人々が実にユニークだ。緑色の髪の少年。女性の下着雑誌をいつもイングマルに読ませる寝たきりの爺さん。男の子として振舞っている女の子サガ。年中屋根を修理しているフランソン。ちょっとエッチな作品を作る彫刻家。実に陽気な人たちだ。時代を50年代に設定したことが成功している。宇宙船と称してゴンドラの様なものを「飛ばす」遊びに大人も一緒になって興じている。飛ばすといってもロープウェーのようにワイヤー伝いに滑らせるだけだが(ところが、途中でひっかかって宙吊りになったまま止まってしまう)。村の男が自転車に乗って綱渡りの曲芸を始めると、いい大人が仕事を放り出して見物に集まってくる。実に伸びやかで素朴な田舎の人たち。このような人々に囲まれてイングマルはのびのびと成長してゆく。

  イングマルは男の子の様なサガと親しくなる。サッカーでは同じチームで、一緒にボクシングもしている。サッカーには面白いエピソードがある。相手チームがフリーキックを得た。イングマルたちはゴール前で壁を作ったが、男の子たちが全員股間を押さえているのにサ059259ガだけが思わず胸を押さえてしまうのだ(イングマルに注意されてあわてて股間を押さえる)。こういうさりげないシーンが可笑しい。サガは胸が膨らみ始め、イングマルがそれを隠すために胸に布を巻いてやる。子供だからエロチックではないが、目をそらしているイングマルがなんともかわいい。ほのかな性の目覚めが二人を通して描かれる。ここも抑えた演出が効いていて、決していやらしくはならない。むしろどことなくほほえましい。

  グンネル叔父さんはガラス工場で働いている。そこの女子工員が彫刻家ベリットに請われてヌードモデルをすることになった。女子工員は監視役としてイングマルを同行させる。その様子を聞いたグンネル叔父さんが興味津津で、「上から下まで裸か」と聞くところが妙に可笑しい。イングマルはその言葉に刺激されて、次に行った時は屋根に上って天窓から裸のモデルを覗こうとするが、足を滑らせて天窓を突き破り床に落下してしまう。このエピソードも愉快だ(怪我は大したことなかった)。そんな行動をとっても誰も彼を叱ったりはしない。そういうおおらかな「空気」の描き方が素晴らしい。

 しかしその愉快な生活にまた暗い影が差す。長く患っていた母親が亡くなったのだ。愛犬のシッカンもイングマルが田舎に預けられるときに一緒に連れてゆけないので他所に預けるということになっていたが、実は「処分」されていたことが分かる。イングマルはまた星空を見上げる。「こういう時はライカ犬のことを考えよう」。このイングマルの姿勢がわれわれの胸を打つのは、それが決して逃避ではないからである。逆境に打ちひしがれ僕は誰よりも不幸だと考えるのではなく、自分よりもっとつらい人もいるのだと考える。そこには、次々に降りかかる不幸を乗りこえようとする前向きの姿勢がある。丁度スポーツ選手のメンタル・トレーニングのように、自分で自分を励ましているのである。つらい時、人は往々にして自分のつらさしか見えなくなってしまう。イングマルはもっと不幸な存在を考えることで自分を相対化することが出来た。「比較すればぼくは運がいい。比較すると距離を置いてものを見られる。ライカ犬は物事がよく見えたはずだ。距離を置く事が大切だ」。彼の強さは自分を客観視できる精神的強さなのだ。

  「ぼくが好きなのはママとシッカン」という言葉に示されるように、母親はイングマルにとって特別な存在だった。だが実際には、母親はいつもイングマルを叱ってばかりいる。しかしイングマルがいつも思い浮かべる母親のイメージは全く違うものである。しばしば挿入される海辺の光景。イングマルのおどけたしぐさに笑い転げる母。ソフトフォーカスで映し出されるこのノスタルジックで美しい光景はイングマルの夢想なのか、母がまだ若い頃の実際の記憶なのか?いずれにせよ、この映像にはやや後ろ向きのセンチメンタルな気持ちが交じり合っている。「元気な時にママにいろいろ話せばよかった」、こういう後悔の気持ちが重ねられているからである。そこに甘さを感じ取ることも可能だろう。しかし母親との幸せな「記憶」を持ち続けたいというイングマルの気持ちも痛いほどよく分かる。

 村での生活を通してイングマルは成長してゆく。しかしその成長には痛みが伴っていた。悲しみを通して彼は成長していったのである。人の成長は決して直線的ではない。ひとりあずま屋のなかで号泣することもあった。やけっぱちになり、四つんばいになって犬の真似をして周りの人たちを困らせたこともあった。その時「犬のようなぼくの人生」というタイトルはより複雑な意味を帯びだす。イングマルの人生は、実は「ライカ犬」と同じように不幸な人生だったのではないか。そういうニュアンスを帯びだす。しかしイングマルは最後にそういう考え方を乗り越えていった、むしろそう解釈すべきだろう。

 ほのかな性の目覚めと共にイングマルは大人への入り口に差しかかる。宙吊りのまま放置されていたゴンドラ宇宙船がもう一度「打ち上げ」られることになった。イングマルと一緒にゴンドラに乗り込んだサガは初めて女の子の服を着てきた。しかし牛の群れに突っ込みそうになり、あわててブレーキをかけたためゴンドラは泥水の中に突っ込んでしまう。せっかくのサガの服も泥まみれになってしまった。こういう描き方をする冷めた目に僕はむしろ監督の才能を感じる。

 エンディングがまた素晴らしい。イングマルはサガと寄り添いながらソファの上で幸せそうに眠っている。外では村人たちがイングマルの名を連呼している。ボクシングのタイトルマッチがあり、スウェーデンの英雄イングマル・ヨハンソンがフロイド・パターソンに勝ったのだ。その非日常的な大騒ぎの中、ただ一人日常を続けている男がいる。年中屋根の修理をしているフランソンだ。村人の騒ぎをよそに彼は屋根の修理に余念がない。トントントントントン・・・。

 自分も同じような悲しみを経験しながら、宇宙を飛んだライカ犬に「さぞいやだったろう」という同情を寄せるイングマル。やがて優しい人たちと出会い、成長し、逆境を乗り越えてゆくすべを身につける。悲しみを経験したが、ずっと背負いはしなかった。緑豊かな小村で悲しみと折り合いをつけながら大人になってゆく一人の少年の成長がみずみずしいタッチで描かれている。15年ぶりに見直したが、今観ても少しも色あせていない。「フランスの思い出」や「マルセルの夏」と並ぶ忘れがたい作品である。

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「すごくよかった!」と聞いたのがもう15年程も前だったと思う。でも題名は覚えていた。最近、NHKのBS-2で放映されたが見損ねた上に、録画も取り損ねたんだが・・・今月になってTSUTAYAで見つけた。 1985年のスウェーデン映画。 夜空を仰ぎながら「でも宇宙船に乗せられたライカ犬に比べたら僕なんかマシだ」と言うイングマル少年のけなげさに打たれる。夜空と幼い少年と・・・、そして彼を巡るサ�... [続きを読む]

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