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2005年12月13日 (火)

メゾン・ド・ヒミコ

2005年 日本 TEL_w2
監督:犬童一心
脚本:渡辺あや
音楽:細野晴臣
プロデューサー:久保田修、小川真司
撮影:蔦井孝洋
美術:磯田典宏
出演:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、西島秀俊、
    村上大樹、新宿洋ちゃん、森山潤久、 井上博一
    柳澤愼一、青山吉良、歌澤寅右衛門、大河内浩
    草村礼子、藤井かほり、 岡庭淳志、沖中玲斗
    峯村淳二、枝光利雄、高橋昌也、筒井康隆(声の出演)

  日本ではまだ珍しいゲイの映画である。ゲイ、あるいはホモ・セクシャル映画というと「真夜中のパーティー」(70)、「ハーヴェイ・ミルク」(記録映画、84)、「アナザー・カントリー」(84)、「蜘蛛女のキス」(85)、「トーチソング・トリロジー」(88)、「オール・アバウト・マイ・マザー」(99)、「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」(01)などが思い浮かぶ。80年代に集中しているのはフェミニズムの流行と関係があるのかもしれない。 ヒミコのファッション(特に頭に巻いた布)は明らかに「蜘蛛女のキス」を意識している。ゲイの人々に対する温かい視線は「トーチソング・トリロジー」に通じる。この「トーチソング・トリロジー」は傑作であった。露骨な偏見にさらされた人々の苦渋に満ちた恋愛模様と人間的苦悩が描かれている。

  〃メゾン・ド・ヒミコ〃とは老いたゲイたちの老人ホームである。特定の「業界」の人々が集まる老人ホームというテーマはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の名作「旅路の果て」(39) に通じる。こちらは俳優ばかりの老人ホームが舞台だ。「メゾン・ド・ヒミコ」に出てくる「みんなと一緒なら寂しくないと思ってここに来たのに、実は一人一人減っていくのをただ見守るだけだったのよ」(正確な引用ではない)、という台詞には「旅路の果て」と共通する悲哀感が表れている。 今このようなテーマが取り上げられるのは偶然ではないだろう。「チルソクの夏」、「血と骨」、「パッチギ!」などの在日コリアンを描いた映画が注目を浴びている。在日コリアンにしろ、ゲイにしろ、被差別者だ。そこには取り上げるべき深刻なテーマがあり、したがってまた強烈なドラマがある。しかしそこは日本映画。「メゾン・ド・ヒミコ」は差別問題を必ずしも前面には出さない。老人ホームを舞台にすることで差別よりも悲哀感を前面に出し、コメディタッチを加えることで口当たりをよくしている。日本で流行るのはコメディやシュールな味付けをした映画ばかり。そうでなければ「誰も知らない」のような出口のない重苦しい暗澹たる映画になる。あるいは故なき暴力に走る。一貫した姿勢を保ってテーマを掘り下げ、かつ重苦しくなり過ぎない映画がなかなか現れない。日本の観客が一様にコメディ調の映画ばかり観たがるということではない。日本では様々なタイプとジャンルの外国映画が公開されている。したがって幅広い様々なニーズはあるわけだ。日本映画にないものを求める観客は洋画に向かう。どん底だった70、80年代に比べれば秀作が多く生まれ活況を呈してはいるが、同じようなタイプの映画ばかり作っていたのでは決して未来が明るいとはいえない。厳しい検閲があるわけではないのだから、自己規制しているということになる。テレビのお笑いブームをあてこんで、それに合う無難な作品ばかり作っているとしか思えない。この姿勢を変えない限り日本映画の本当のルネッサンスはまだ遠い先のことだ。

  最近のアメリカ映画はオリジナル脚本を作る力が減退しているため作品の質が著しく落ちたが、その点「メゾン・ド・ヒミコ」が完全オリジナルストーリーに基づいていることは評価できる。主人公は塗装会社の事務員として働く吉田沙織(柴咲コウ)。沙織は幼い自分と母を捨ててゲイの道に走った父ヒミコ(田中泯)が許せなかった。ある日、沙織はヒミコが造ったゲイのための老人ホームで日曜だけ働かないかと誘われる。父が末期がんで死にかかっているからだ。沙織は最初冷たく断るが、破格の日給と遺産をちらつかされて、手伝いに行くことを決意する。沙織は3年前に癌で死んだ母の入院費と手術費で借金を背負っていたからだ。

  「メゾン・ド・ヒミコ」は沙織の視点で語られているわけではないが、焦点は彼女に当てられており、沙織がゲイたちと接することでしだいに彼らを理解してゆく過程がメインのストーリーになっている。そこに父ヒミコと沙織の確執やヒミコの若い恋人岸本春彦(オダギリジョー)と沙織の微妙な関係が織り込まれてゆく。犬童一心監督自身インタビューに答えて、「僕はゲイの人たちの資料をずっと読んできて、彼らの抑圧の歴史のようなものを入れたかった。でもあやちゃん(脚本の渡辺あや)は、むしろ父と娘の関係のほうに重きを置いていたと思います」と発言している。父娘の確執を縦軸に、〃メゾン・ド・ヒミコ〃に住むゲイたちの人間模様を横軸にした展開はここから生まれている。監督自身この二つのストーリーがうまく絡み合っているか心配している。大きな破綻はないが、やや中心テーマを薄めてしまっていることは否定できない。なぜなら沙織とヒミコの関係は、別にヒミコがゲイでなくてもありうることだからだ。妻と子を捨てた父親の話はありふれている。沙織がゲイの子と周りから馬鹿にされて育ったために、父親を激しく恨んでいるというのなら話はつながると思うが。

  〃メゾン・ド・ヒミコ〃に着いた沙織が最初に出合ったのは「汚いもの」でも見るような目で覗いてすぐドアを閉めてしまった近所のおばちゃんである。この描写はリアルだ。「世間の目」からは〃メゾン・ド・ヒミコ〃に住んでいる者ばかりか、たまたまそこを訪ねてきた人も同じに見られてしまうのである。引き返したい気持ちを抑えて恐るおそる〃メゾン・ド・ヒミコ〃に入っていった沙織は、TVドラマに夢中になっているキクエを見て逃げ出しそうになる。そこに出てきた美形の岸本春彦に説得されて沙織は何とか踏みとどまる。その後ヒミコと他の住民たちに紹介される。生まれ変わったらバレリーナと相撲部屋の女将になりたいと望んでいるルビイ、将棋が趣味の政木、ギターがうまいダンディーな高尾、洋裁が得意な山崎、家庭菜園に精をだす木嶋、これらの老人たちの面倒をみているチャービー、そしてヒミコ。

  正直もっとびっくりするような奇抜なキャラクターがごろごろ出てくるものと期待していたがいたって「普通の」ゲイたちである。なんだか物足りない気がしたが、後で皆実際にゲイの人たちだということを知った。見世物小屋じゃあるまいし、やっぱり好奇の目で見ていたのかと後で自分を恥じた。彼らは決してイロモノのようには描かれていない。女装したりオネエ言葉を喋るのは観客のステレオタイプ化したイメージ(僕のように)に合わせている面もあるかもしれないが、それだけではない。ここはゲイの人たち専用の老人ホームである。ここに来tree_ww1る前は普通の生活の中にまぎれて隠れてひっそりとゲイの趣味を楽しんでいた者も、ここでなら自分の好きなように振舞える。〃メゾン・ド・ヒミコ〃とはそういう場所なのである。残された短い余生を過ごすホスピスの様なところではない。住人たちが明るいのはそのためなのだ。彼らには開放感がある。世間とは隔絶されているこの建物の中なら誰はばかることなく好きな格好や振る舞いが出来る。ヒミコはそういう場所をゲイの老人たちに提供したかったのである。石もて追われるごとく逃げ込んできた駆け込み寺の様な場所、だからそこには賑やかさや温かさがあり、また、それでもなお消えやらぬ悲しさも漂っているのである。そこにあるのは、かつては叶わなかった「なりたかった自分」である。しかしそれの望みが叶った時にはもうわずかな時間しか残されていない。だからルビイは「生まれ変わったら」という話をするのだ。そう考えるとこれは悲しい言葉なのだ。癒されない心の傷。仲間と一緒にいても消え去らない孤独感。だから彼らはそれらを振り払うようにハイテンションではしゃぐのである。

  ここに住んでいる人たちはみな悲しみと苦悩を通り抜けてきた人たちである。美輪明宏の話をテレビで聞いた友人は非常に感動したと言っていた。それはそうだろう。そこでは被差別者が散々なめてきた屈辱と苦しみと怒りとそれを乗り越えてきた信念の強さが語られていたに違いない。差別に耐えてきた彼らは並の人よりよほど強い精神と広い心を持っている。散々周りから変態扱いされ、まるで”汚いもの”のように扱われてきたのだろう。彼らは地獄を見てきたのである。もちろん一生隠し通してきた人もいただろう。誰もが堂々とカミングアウトできるほど強いわけではない。しかし、決まりきった考え方と行動しか出来ない「普通の」人たちより、彼らはある意味で自由である。阪神淡路大震災で一番活躍したのは「茶髪の兄ちゃん、姉ちゃんたち」だったと長田区の区長さんが語っているのを聞いたことがある。彼らは「規則」などといったものから元々自由だったから、非常時に適切な行動が取れたのである。まだ人が中に残っている建物が燃えているのを笑いながら「見物」に行った若者たちこそ「変態」だ。犬童監督がインタビューで「ゲイの人たちや芸人って、僕には“解放された人たち”に見える。それまで自分が暮らしてきた一般社会、生活といったものに踏ん切りをつけて、違うところに踏み込まないといけない。そこはしんどいけど自由な場所で、ゲイの人たちもそういう場所にいると思えてしまう」と言っているのも同じことを指していると考えていいだろう。

  沙織とヒミコは最後まで和解することはなかった。安易な結末に持っていかなかったところがいい。ヒミコを演じた田中泯は、ほとんど台詞はないにもかかわらず圧倒的な存在感である。どんなに沙織に責められ詰問されても、ヒミコは何一つ言い返しもせず、言い訳もせず、それらを全て黙って受け止めている。散々無責任だと責められた後に言う「あんたの事が好きよ」という一言がなんとも切ない。沙織はヒミコの葬儀にも出なかった。〃メゾン・ド・ヒミコ〃とも縁を切った。しかし父を憎みきっていた気持ちは少し溶けはじめていた。ラスト近くで会社の専務に抱かれながら沙織が言う言葉にそのことがさりげなく暗示されている。「私が泣いてる理由は専務が思っているどれとも違います。」飛び出してきた〃メゾン・ド・ヒミコ〃に彼女が戻ったのも石のように硬かった彼女の心が少し和らいだからだ。沙織を歓迎する壁の落書きもさわやかである。

  観た後にさわやかな気持ちが残るが疑問がないではない。一つは沙織のゲイたちに対する気持ちがあっさり変わりすぎることである。山崎が沙織のために用意した様々なコスチュームにすぐに夢中になり、互いにあれこれ着替えてはしゃぐ様子はちょっと不自然だ。あまりに簡単に変わりすぎる。その後勢いでダンスホールに行こうと誘うのもあまりに性急過ぎる。もっとも、ダンスホールに行って踊りまくる場面は確かに楽しめる。柴咲コウの魅力満開でなかなかいい。偶然居合わせた元部下に山崎がしつこく絡まれ、沙織が「謝れ!」と本気で怒るシーンでは思わず彼女を応援していた (この時点では露骨な差別に腹を立てても不思議ではないところまで来ている)。しかしあまりに性急過ぎた感は否めない。あるいはゲイバー「卑弥呼」にいる母の写真を沙織が見つけるエピソードも、いかにも取ってつけたようで感心しない。不自然で、あまりに都合のいい設定だ。

  もう一つの疑問はゲイたちの描き方である。もっと彼らの背負ってきた苦痛を描きこむべきだったと思う。どこか平板ですっと通り過ぎてしまった感じだ。コミカルな要素を取り入れるのは必ずしも悪いことではない。「この素晴らしき世界」の重苦しい雰囲気をコミカルなタッチがどれだけ救っていることか。問題はそのさじ加減だ。どうもコミカルな演出に逃げてしまった気がする。彼らが背負ってきた苦悩や心の傷や悲しみに共感しなければ沙織は変わらなかったはずだ。そこをもっと描いてほしかった。

  ただ以上の様な不満はあったとしても、全体としてみれば今年の日本映画の中でも出色の出来だと言っていいだろう。まだまだ不満はあるが、着実に日本映画は力をつけてきている。僕自身もそうだが、洋画ばかり見ていた観客が一部日本映画に戻ってきている。映画製作にかかわる諸条件にはまだまだ解決すべき課題が多く残っているが、そんな中で注目すべき作品がたくさん出てきたことは希望の光である。これらの芽をさらに伸ばしてゆく方向に日本の文化状況が進んでいくことを期待したい。

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コメント

ほんやら堂さん コメントありがとうございます。
オダギリジョーが好きな娘さんがいらっしゃるのですね。確かに彼は今最も魅力的な男優かもしれません。この映画の中でも周りから彼だけ浮いているように感じるくらいです。別世界の人ですね。
柴咲コウと田中泯の存在感もすごい。柴咲コウには独特の色気があって好きですね。田中泯のあの一言は胸にぐさりときます。

ゴブリン様
TB&コメントありがとうございました.
TB無事反映されています.ココログは最近調子が悪いらしく,処理に異常に時間がかかります.
娘がオダギリジョーファンで,この映画は彼女の推薦でした.
演技力・個性とも,この映画の3人は凄いですね.

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僕たちもそれぞれの「メゾン・ド・ヒミコ」を持てるだろうか? 「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)で、僕たちを魅了した、犬童監督と脚本の渡辺あや子。「メゾン・ド・ヒミコ」は、当初、漫画の大島弓子「つるばらつるばら」を原作として、「ジョゼ虎」のだいぶん以前から、脚本を温めていたという。2000年の暮れに、プロデューサーが朝日新聞の夕刊で「独り身ゲイに老人ホーム」というマニラ発の小さな記事に触発され、主題に据えられるようになり、�... [続きを読む]

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日記:2006年5月某日 映画「メゾン・ド.ヒミコ」を見る. 2005年.監督: [続きを読む]

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