あの頃名画座があった(改訂版)④
◆76年
76年に入って異変が起こる。何とこの年にはわずか6本しか映画を見ていない。しかもその6本はすべて(ノートを見て自分でも驚いたが)テレビで観たものだった。翌77年はさらに減って年間5本。78年は若干増えたが7本。やっと79年になって20本、80年に22本まで回復している。何と76年から79年の4年間でわずか38本しか見ていない。別に意識的に映画絶ちをしていた訳ではないと思うが、とにかく忙しくなったのである。76年は大学4年生で、今も属している研究会に前年入会しその活動で非常に忙しい時期だった。帰りも遅くなることが多くなったので、それまで寄留していた流山市の叔母の家を出て、調布市菊野台(最寄り駅は京王線の柴崎駅)のアパートに引っ越した。そこに12年住むことになる。77年は大学院受験に失敗し浪人していた時期である。78~80年は大学院に通っていた時期だ。要するに映画など見ている余裕がなかったのである。どうして映画を見ずにいられたのか今から考えると不思議だが、この頃は一番勉強していた時期だから無理もなかったのだろう。
最初の5年間で1032本見ている。2000本台に達したのは91年1月で、同じ1000本観るのに15年かかっている。71年と72年の2年間で(高2から高3に当たる)501本見ている。高校時代は片端から見まくっていたわけだ。僕の高校時代は、本を読んでいなければ映画を観ている、映画を観ていなければ本を読んでいるという生活だった(高3の頃は世界文学全集を読み漁っていた)。そんな生活をしていたからこそできたことだ。なにせ受験勉強なんか一切しなかった。受験勉強なんかするよりも、優れた本を読み、優れた映画を観る方がはるかに有意義だと信じて疑わなかった(今でもそう思っている)。
◆77年~79年
77年2月9日に初めて神保町の岩波ホールで映画を見ている。観たのは「トロイアの女」だった。同年6月21日にはこれまた初めて高田馬場の古本屋街の一角にあるACTミニシアターで「戦火のかなた」と「自転車泥棒」を観ている。その後頻繁に利用するこの二つの場所に行ったのがこんなに遅いとは、自分でも意外だった。岩波ホールにはその後しばらく行かなかったが、79年に「家族の肖像」と「木靴の樹」と「旅芸人の記録」を観ている。これらを観てまた映画熱がぶり返し始めた。少なくとも月に1本は映画を観ようと決心したのはこの頃からである。実際、79年には20本と急に本数が増えている。しかし、年間100本以上にまで回復するのはさらに数年後、84年になってからである。
◆80年~81年
80年に日経小ホールで「ジプシーは空に消える」(2月20日)と「ナーペト」(8月11日)を見ている。どちらもソ連映画だが、この頃きっかけは忘れたが「ソビエト映画鑑賞会」なる会に入っていて、その会でみたのである。大手町の日経新聞社のビルの中にある日経小ホールだった。めったに行かない場所だし、普通の映画館ではないので何とも不思議な空間だと感じた。ソ連映画はめったに観る機会がないので貴重な経験だったが、長くは通わずにやめてしまった。理由は覚えていない。
岩波ホールに頻繁に通いだし、「女の叫び」、「青い年」、「メキシコ万歳」、「鏡」、「ルートヴィヒ神々の黄昏」、「チェスをする人」、「株式会社」、「約束の土地」、「山猫」と、ほとんど欠かさずに観に行った。81年の1月31日には千石の三百人劇場で「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」を観ている。三百人劇場初体験である。ここもその後頻繁に通うことになる。特に何回か開催されたソビエト映画特集は実に貴重な特集だった。73年に後楽園シネマで開催された例の「ソビエト名作映画月間」の際に見逃した「シベリヤ物語」を81年の4月に見ている(同時上映はソ連初のカラー映画「石の花」だった)。
9月には京王線沿線にある下高井戸京王で「勝手にしやがれ」と「薔薇のスタビスキー」を観た。ここは同じ京王線沿いなのでよく利用した。一時閉鎖されそうになったが、市民の努力で残されることになった。素晴らしいことである。「出没!アド街ック天国」の下高井戸編でも10位に入っており、支援する人々のこともきちんと取り上げていた。何もできないが、影ながら応援したい。文芸座も97年に一時閉館してしまったが、2000年12月にほぼ以前と同じ場所に新文芸座として再建された。新しい建物にはまだ入ったことはないが、2、3年ほど前に行ったときはケン・ローチ特集をやっていて、ユニークな特集は健在だと安心した。その一方で、三百人劇場が2006年いっぱいで閉館になると新聞に出ていた。数々のユニークな特集を組んできたところだけに、なんとも残念なことだ。
81年10月には文芸座ル・ピリエで「ライムライト」、12月に八重洲スター座でアンジェイ・ワイダの「世代」を観た。前者は確か文芸座と文芸地下の間に新しく建てたもので、2階に上がったと思う。いつ出来たのか正確にはわからないが、恐らくこの年(81年)だろう。後者は新しく開拓した映画館でその後頻繁に利用した。こちらは逆に入り口から地下に降りて行った。この頃ポーランドでは「連帯」が有名になり、「鉄の男」(84年4月三鷹オスカー)、「大理石の男」(80年10月岩波ホール)でアンジェイ・ワイダは再び脚光を浴びた。また、当時ムービー喫茶なるものもあって、81年9月に名前は忘れたが水道橋近くのムービー喫茶で「怒りの葡萄」を観ている。薄暗い感じの店内にスクリーンを垂らして映写していた。この店にはそれ一回しか行かなかったが、ムービー喫茶そのものも結局定着することなく消えて行った。
◆82年
82年頃になるともうほとんど映画は映画館で見ていた。82年1月に新宿の「シネマスクエアとうきゅう」で「モスクワは涙を信じない」を観た。ソ連映画のあらゆる記録を破る大ヒットを飛ばした映画で、ついにはハリウッドでアカデミー外国語映画賞まで取った傑作である。この映画を見てソ連映画は変わったと実感したのを覚えている。また82年4月に「シネマスクエアとうきゅう」で観た「メフィスト」、7月に新宿東映ホール1で観た「ハンガリアン」、84年12月に三百人劇場で観た「ハンガリアン狂詩曲」を観れば、当時のハンガリー映画のレベルの高さを知ることができる。いずれも傑作である。また「シネマスクエアとうきゅう」は全座席入れ替え制を導入していた。岩波ホールは前から実施していたが、一般の劇場で導入しているのはまだ珍しかった(ここが最初に始めたのかどうかは分からない)。
3月11日に初めて自由が丘の武蔵野推理劇場に行っている。「カッコーの巣の上で」と「普通の人々」を観ている。魅力的な館名だったが、あまり観たい映画をやっていなかったので、結局この時とあと1回行っただけだった。また、この頃には結構ロードショー館にも行っている。渋谷のジョイシネマと東急名画座、新宿文化シネマ2、新宿東映ホール1など。
とにかくこの頃はテレビ映画どころかテレビそのものをほとんど観なくなり、あちこちの映画館に足を延ばしていた。『ぴあ』を見て手帳にびっしりと観たい映画の上映時間を書き込んでいた。まだレンタルビデオが広まる前で、名画座や自主上映館があちこちにあり、ユニークな企画を競っていた。ビデオやDVDが発達した今日でも日本映画や外国映画の古典的作品は必ずしも充実しているとは言えない。ましてや80年代前半頃は、並木座や文芸座のような日本映画の古典を上映する映画館や、ACTや三百人劇場のような国内外の古典的作品を安い料金で上映する自主上映館は貴重な存在だった。しかも日本映画について言えば、黒澤や小津や溝口以外の日本映画監督の映画も積極的に上映していたという意味でも貴重だった。木下恵介、小林正樹、今井正、熊井啓、浦山桐郎、今村昌平、内田吐夢、山本薩夫等々、貴重な作品をどれだけこれらの映画館で観たか。また、高田馬場のACTでは「戦火のかなた」、「自転車泥棒」、「無防備都市」、「平和に生きる」等のイタリア・ネオリアリズモの代表作を観ることができたし、今井正の「キクとイサム」、「ここに泉あり」のような日本映画も観ることができてありがたかった。
82年5月に渋谷のパルコ・パート3の8階にあるスペース・パート3で「ベリッシマ」を観た。ここはデパートの中にある上映スペースという点でユニークだった。渋谷は東京映画祭の中心地だったが、その後BUNKAMURAなどもできて独特の文化の薫りのする街だった。9月10日に川崎国際で「飢餓海峡」と「不毛地帯」を観ている。わざわざ川崎まで行ったのは、2本ともどうしても観たかった映画で、この機会を逃したらもう観ることはできないと思ったからだろう。館内に入るとさすが労働者の街、都内の映画館とは雰囲気がまるで違った。周りの観客はほとんど日雇い労務者風の人たちで、昼間から酒を飲んで観ている。なんとなく落ち着かなかったのを覚えている。
82年11月3日には新宿文化シネマで「1900年」を観た。その日は祝日で館内は満員。5時間近くもあるこの大長編映画をずっと立ち通しで観たわけだが、映画に引き込まれていたせいかそれほど苦にならなかった。同じ11月に中野名画座に始めて行った。「エレファント・マン」と「フランス軍中尉の女」を観た。都内の名画座はほとんど行ったと思うが、ここは三鷹オスカー、大塚名画座や荻窪オデヲンなどとともにあまり行かないところだった。おそらくラインナップにあまり魅力がなかったからだと思うが、中央線沿線は場所的にも行きづらかったのだろう。三本立てで有名だった「三鷹オスカー」などは結構魅力的な企画を打ち出していたのだから。7月5日に六本木の俳優座で「若者のすべて」を観ている。俳優座シネマとなっていないところをみると、この頃はまだ試験的にやっていたのかもしれない。同じ六本木のシネ・ヴィヴァンより先にこちらに来ていたのは自分でも意外だった。11月の24日から12月2日にかけて、日比谷の千代田劇場で「山の音」、「雪国」、「忍ぶ川」、「浮雲」、「夫婦善哉」、「また逢う日まで」を観た。「東宝半世紀傑作フェア」と銘打った企画だった。DVDなど影も形もなかった頃だ。いずれもこのとき見逃したら一生観ることはないだろうと思っていた。
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