あの頃名画座があった(改訂版)③
◆74年
年が明けて74年になると、ようやく他の映画館にも行きはじめた。1月23日に飯田橋の「佳作座」で「最後の猿の惑星」と「ソイレント・グリーン」を見ている。「佳作座」はあまりラインナップがよくなく(よく「駄作座」と呼んでいた)、それまで入ったことがなかった。今はもうなくなってしまったが、飯田橋駅の向かい側、東京理科大のそばにあった。近くのポルノ専門館だった「銀鈴ホール」が今も「ギンレイホール」として続いているのは何とも皮肉だ。2月10日には「銀座文化」で「スケアクロウ」を見ている。ここはロードショー館だが、ラインナップがよく、度々見に行った。2月13日に「有楽シネマ」でチャップリンの「独裁者」。有楽町駅からマリオンへ行く途中のビルの二階にあるロードショー館でよく通ったが、これも今はない。
2月15日に後楽園シネマで「バイカルの夜明け」を見た。当時後楽園で大シベリア博覧会が開かれており、それにあわせて大シベリア博記念特別番組と銘打ち、「ソビエト名作映画月間」として23本のソ連映画が上映されたのである。今では珍しくはないが、その頃はソ連映画を見る機会は極めて少なく、これだけ大規模にソ連映画を上映するのはおそらく画期的なことだったと思われる。3日交替でプログラムが替わるのだが、春休みに入っていたので最初の3本(「シベリア物語」「おかあさん」「大尉の娘」)を除いて全部見た。文字通り平均3日おきに通ったのである。観た作品のタイトルを挙げると、「湖畔にて」、「戦争と平和」、「遠い日の白ロシア駅」、「戦争と貞操」、「大地」、「アジアの嵐」、「戦艦ポチョムキン」、「復活」、「外套」、「貴族の巣」、「人間の運命」、「リア王」、「ハムレット」、「ワーニャ伯父さん」、「罪と罰」、「小さな英雄の詩」、「子犬を連れた貴婦人」、「がんばれかめさん」、「ルカじいさんと苗木」。80年代に三百人劇場などで大規模なソ連映画祭が開催されるようになったが、そこでも取り上げられなかった作品が多く含まれており、DVD化も当分望めないので貴重な特集だった(「リア王」、「ハムレット」、「戦艦ポチョムキン」はDVD入手!)。今ではかすかに記憶の中に残っているだけである。特に「湖畔にて」と「遠い日の白ロシア駅」はどうしてももう一度見たいと今でも思っている。ちなみに当時のパンフレットを見ると料金は当日一般で450円、学生350円、前売300円となっている。
1回に2~3本を上映するのだが、その合間に短編アニメを上映していた。プログラムに載っていないので、作品名も本数も今では分からないのだが、そのレベルの高さに驚いたものである。今のアニメに比べると動きはぎこちないのだが、ウィットに富んだ、独特の世界を作っていた。不確かな記憶ながら、大人が見て楽しむ作品が多かったように思う。宮崎駿が現れるはるか前で、アニメといえばディズニーという時代だっただけに、大人のユーモアがたっぷり盛り込まれたアニメにすっかり感心したのだ。今でも当時のプログラムを見ると、休憩時間に流されていたメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲のメロディーが頭に浮かんでくる。
4月に入り2年生になると、早速文芸地下で黒澤映画を2本見ている。「酔いどれ天使」と「静かなる決闘」である。ほぼ同じころフィルム・センターでも日本映画特集を組んでいて、この時期けっこう日本映画を見ている。黒澤は、いや日本映画の古典は、田舎ではまず見られないものだ。機会があればぜひ見ておきたかった。だいぶ昔のことだが、日本映画ファンというある外国人が、日本映画にあこがれて日本に来たが、日本では古い日本映画がさっぱり見られないのでがっかりしたと、朝日新聞の投書欄に書いていた。もっともな嘆きで、日本では映画を文化遺産ととらえる意識が決定的に欠けている。ビデオやDVDが発達した現在でも、古い日本映画の名作はほんの一部しか販売されていない。ようやく去年から今年にかけて大量に日本映画の過去の遺産がDVD化されてきた。今後も一層日本映画の遺産(これは映画会社の財産ではなく、国民の財産なのだ)を国民の元に届ける作業を推し進めてほしい。そのためにはDVD化する作品を増やすだけではなく、ぜひ値段も下げてほしい。ハリウッド映画並とまでは言わないが、せめて旧作を2、3千円台まで下げてほしい。
これまでテレビでいかに大量に優れた映画が放映されていたかを強調してきた。僕は外国映画の名作のかなりの部分をテレビで観たといっても過言ではない。にもかかわらず、日本映画の名作がテレビで放映される機会はほとんどなかった。日本にいながら日本の名作をほとんど観られなかったのである。東京に来て以来、機会があれば逃さず、飢えたように日本映画を観に行ったのは当然だった。この74年だけで32本の日本映画を観ている。いずれも名作ぞろい。この年に映画館で観た最初の映画は並木座の「羅生門」と「無法松の一生」(坂妻版)である。他に、文芸地下で「飼育」、「少年」、「雨月物語」、「野菊の如き君なりき」、「津軽じょんがら節」、「西鶴一代女」、「近松物語」など、フィルムセンターで「春琴物語」、「宮本武蔵」(稲垣浩)、「わかれ雲」、「大阪の宿」、「風の中の子供」などを観た。京橋のフィルム・センターと池袋の文芸地下そして銀座の並木座。この三つは日本映画の名作を上映している数少ない映画館であり、貴重な存在だった。この三つがなければ僕は未だに日本映画をほとんど観ないままでいただろう。ただ残念なことに、この時点では小津安二郎の作品を見る機会はまだ訪れていなかった。
5月12日に川崎駅ビル文化という映画館で「LBジョーンズの解放」と「わが命つきるとも」を観ている。たぶん今はもうないだろうが、この映画館に行ったのはこの1回だけだ。川崎駅に行ったのもこの時が最初だと思う。その後5月から8月まではほとんどテレビでしか映画を見ていない。大学の授業にそれだけ熱心に通っていたということだろう。夏休みに入ってもフィルム・センターに1~2度行っただけで、思ったほど映画を観ていない。ところが、10月に入って大島渚の作品を4本まとめて観ている。「愛と希望の街」、「日本の夜と霧」、「ユンボギの日記」、「絞死刑」。法政大学の大学際の一環として企画されたものだった。会場は学生会館の中である。当日大島本人も来ていて講演をした。何を話したか覚えていないが、講演後の質疑のときのやり取りは記憶に残っている。活動家と思われる学生が、大島が講演の中で思わず言った「バカチョン・カメラ」という表現に噛み付いたのである。朝鮮人をバカにする言葉をなぜ使ったのかと食ってかかったのだ。大島は不用意な発言だったと謝ったように思うが、いかにも当時全国一の紛争校として知られていた法政大学らしい一幕だった。
この年もテレビが放送していたラインナップは驚くほど充実していた。「シャイアン」、「俺たちに明日はない」、「無法松の一生」(三船版)、「オズの魔法使い」、「荒野の決闘」、「シェーン」、「シシリアン」、「エデンの東」、「哀しみのトリスターナ」、「静かなる男」、「禁じられた遊び」、「ハスラー」、「邪魔者は殺せ」、「オルフェ」、「春の悶え」、「河」、「ビリディアナ」、「下り階段をのぼれ」、「裸足のイサドラ」、「理由なき反抗」、「ワイルドバンチ」、「フレンチ・コネクション」、「男の敵」、「ステージ・ドア」、「血と砂」(ヴァレンティノ版)、「召使」、「十二人の怒れる男」、「宿命」、「蛇皮の服を着た男」、「成功の甘き香り」、「ブルックリン横町」、「オーシャンと11人の仲間」等々。地上波でこれだけやっていたのだ!現在のテレビの地上放送が貧弱になってしまったのは、娯楽大作以外の作品が衛星放送に回されているからだと言えるが(いいものを観たければ別料金を払え!的姿勢見え見え)、当時の観客にはいわゆる娯楽作品以外のものまで観る余裕と鑑賞眼があったということも指摘しておくべきだろう。今のような時代には、家に帰るとぐったりと疲れて、何も考えなくても勝手に観客を運んで行ってくれる娯楽映画しか観る気がしなくなる。シリアスな社会派映画などビデオで借りるのも億劫になる。
精神的なゆとりがなくなってきていることも問題だが、もっと重大なことは映画を観る目が衰えていることだと思う。山田洋次は「よい映画はよい観客が作る。よい観客はよい映画が作る」と言ったが、今は逆の弁証法(つまり悪循環)が働いていると言ってよい。つまらない映画ばかり観ているから、観客の目が肥えていない。目の肥えていない観客ばかり相手にしているから、つまらない映画しか作られない。つい3、4年前までの日本映画がその典型だった。総じて志が低い。人気俳優を集めただけの、テレビドラマに毛が生えた程度のものか、独りよがりのひねこびた作品ばかりが目立った。宮崎駿のアニメがこれ程もてはやされるのはそれ自体が優れているからでもあるが、劇映画にかつての力がなかったからでもある。それに比べたら安定して一定数の優れた作品を生み出し続けているハリウッド映画はむしろ立派だと言える。ただこの1、2年は逆転現象がおきている。日本映画はこのところ好調だ。一方アメリカ映画にははっきり陰りが見えてきている。
◆75年
年が明けて75年1月28日に初めて大塚名画座に行っている。「地上より永遠に」を観た。ここは大塚駅から細い路地に入った分かりにくいところにあった。あまり観たい映画をやっていなかったので、恐らく行ったのは2、3回だろう。2月になると、頻繁にフィルムセンターに行っている。「嘆きの天使」、「裁かるるジャンヌ」、「パリの屋根の下」、「塔」、「パサジェルカ」、「赤い風船」などを観ている。テレビでも相変わらず「激突!」、「旅路」、「毒薬と老嬢」、「真夜中のカウボーイ」、「花嫁の父」、「吸血鬼」(ポランスキー)、「水の中のナイフ」、「地下水道」、「終身犯」、「素晴らしきヒコーキ野郎」、「ニノチカ」、「暗くなるまで待って」、「失われた週末」、「わが谷は緑なりき」等々、相変わらずすごい作品が放送されている。まだ小津映画には出会っていなかったが、黒澤は着実に観ていた。新宿座で「我が青春に悔いなし」と「生きる」を、有楽座で「デルス・ウザーラ」をそれぞれ見ている。この年は後楽園シネマによく行っている。「砂の器」、「ゼロの焦点」、「チャップリンの殺人狂時代」、「アメリカの夜」など7本観ている。
この年に英米文学の研究会に入ったため、急に忙しくなり鑑賞数が減った。74年は190本観ていたが、75年は63本。3分の1に激減している。しかし翌年はさらに減る。76年から3年間続けて年間で1桁しか映画を観ていないのである。
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