春夏秋冬そして春
2003年 韓国・ドイツ
監督、脚本:キム・ギドク
撮影:ペク・ドンヒョン
出演:キム・ギドク、オ・ヨンス、キム・ジョンホ、キム・ヨンミン
ソ・ジェギョン、ハ・ヨジン
キム・ギドクの作品で最初に観たのは「魚と寝る女」である。キネマ旬報で上位に入った映画だが、少しも良いとは思わなかった。要するにかつての「芸術派」ポルノ映画の韓国版だ。この手の映画作家には確かに才能を思わせる一面はある。湖の上に浮かべた小屋付き釣りいかだの不思議な映像と存在感。バイクに縛り付けられて水に沈んでゆく娼婦。その後に続く水中を覗くヒロインの顔。これは確かに衝撃的な映像だ。水中に顔を差し入れる様子を水中から撮っている。顔の周りに髪の毛が広がり、さながらゴルゴンを思わせる。
このようにいくつかの場面で才能を感じさせるが、全体としてみれば、限定された空間で繰り広げられる単なる情念の世界である。ヒロインが言葉を話せないことが、何よりこれが情念だけの世界であることを物語っている。社会的広がりを一切切り捨て、まるで湖に浮かぶ売春宿のような人間の下卑た欲望が絡まる世界を描こうとしている。この手の作品は映画、小説などのジャンルを問わず、このような人間の情念や欲望が人間性の本質であるかのごとく描き出す。ひたすら情念の激しさを追う。男が自分の喉に釣り針を引っ掛け力ずくで引きちぎる場面、同様に女が自分の陰部に釣り針を引っ掛け力ずくで引きちぎる場面。何の必然性もなく、ただ情念の強さを示すためだけに付け加えられた場面だ。
「春夏秋冬そして春」もそうだが、無理やり限定された人工的な空間を作りその外の世界を一切描こうとしない。外部の人間はただやってきてまた去ってゆくだけだ。限定された架空の時空間、作り物の空間である。「春夏秋冬そして春」で大きく作風が変わったように見えるが、その後に見た「サマリア」も含めて、社会性を絶ち、限定された世界の中でのみ人間を描くという点は一貫している。
「春夏秋冬そして春」は「自分の激情的すぎた生き方の反省を込めて撮った」という作品。確かに「魚と寝る女」より断然できはいい。設定は「魚と寝る女」とよく似ている。湖の上に浮かぶ寺が舞台。この設定がまず似ている。人里はなれた場所に舞台を限定しており、登場人物も同じように少ない。「魚と寝る女」は情念の世界だったが、こちらは観念の世界。深い共感が生まれないのはそのせいだ。仏教の思想をうまく取り入れてはいるが、どこか現実離れした観念の世界であるという印象はぬぐえない。
山奥の湖に浮かぶ寺で老僧と2人で暮らしている少年は、蛙と魚と蛇に石を結びつけるという無邪気ないたずらをして生き物を殺したことから、一生の業を背負ってしまう。この設定自体が既に観念的だ。少年はその寺で青年に成長する。ある時病気がちの娘が病気を治そうと寺にやって来る。青年はその娘に引かれ、修行僧であるにもかかわらず娘と何度もセックスをする。このあたりの欲望の描き方はいかにもキム・ギドク的だ。やがて病気の直った娘は寺を出てゆく(お祈りよりセックスの方が効果的だと言いたげだ)。青年も娘への欲望を断ち切れず、娘の後を追ってこっそり寺を出て行く。このあたりもいかにもキム・ギドクらしい展開だ。「魚と寝る女」よりは抑えられているが、まるで性欲が人間の本質であるかのように描いている点では同じだ。
やがて青年はその女が別の男を好きになったという理由でその女を殺して、また寺に逃げ戻ってくる。髪を伸ばし、すぐカッとなる粗暴な男に変わっている。後から2人の刑事が彼を追って寺にやってくる。老僧は寺の床に般若心経の文句を書き、青年にそれをなぞって彫るよう命ずる。夜明けに経文を彫り終えた青年は刑事に連れられて去ってゆく。このあたりはなかなかいい場面だ。しかし、その後老僧は船に火をつけて自殺する。これがまったく理解しがたい。なぜ自殺する必要があるのか。何の説明もない。ただストーリーの展開上必要だったからという以上に理由はない。
それから何年か後、男はまた寺に戻ってくる。既に中年になっている。湖面が凍りついた湖の上で男は一人修行に励む。魚や蛙にしたように自分の体に大きな石をくくりつけ、山の頂上まで仏像を運びあげる。氷が少し解けかけた頃、顔をスカーフの様なものですっぽり覆って隠している女が赤ん坊をかかえて寺にやってくる。赤ん坊を寺に置き去りにして女は夜寺から逃げ出す。しかし女は、男が氷にあけた穴に誤って落ちて凍死してしまう。男は子供を引き取り育てる。やがて子供は大きくなり、無邪気ないたずらを始める。その子供は最初の子供と同じ子役が演じている。輪廻のように同じことが繰り返されようとしている。
最後はまるで手塚の「火の鳥」のようだ。どうもどこをとってもどこかから借りてきたような印象を受ける。映像は耽美的で見事ではあるが、どこか薄っぺらな印象がぬぐいきれない。なぜこの二つの作品は同じように人里はなれた場所を舞台に設定しているのか。この設定自体が極めて人工的だ。老僧も少年も名前がない。「魚と寝る女」では女に言葉がない。これも何かの表れである。「魚と寝る女」は情念の世界だから言葉はいらなかった。ストーリーも状況設定も情念だけが渦巻くまったくの不条理の世界だった。「春夏秋冬そして春」は輪廻の世界だから個人の名前は意味を持たない。ただ人間が入れ替わり同じことが繰り返されるだけだ。やがてこの新しい少年も成長して女を追って寺を出てゆき、男は自殺するのだろう。人間は不完全な生き物で、欲望に駆られて罪を犯し、そうなって初めて、つまり自分の肩にのしかかっている業の深さを悟って初めて、真の意味で人間として成長し始める。そう言いたいのだろうが、やはりどこか観念的だ。
本人は反省したと言ってはいるが、人間を見る目は根本的に変わっているのか。「春夏秋冬そして春」は「魚と寝る女」とかなり違う作品に見えるが、後者の「情念と欲望」が「業」に変わっただけのようにも思える。これほどの修行を積まなければ人間はその「業」を抑えられない。逆に言えばそれほど人間の不条理に満ちた「情念と欲望」は激しいものだということである。冒頭に挙げた非社会性のみならず、この「情念と欲望」は「サマリア」を含めた3本の作品に共通している。「サマリア」では一転して都会が舞台だが、人間関係の薄さと欲望のテーマは援助交際(売春)というベッドの上だけの関係に引き継がれている。一方、親子という濃密な人間関係になると、娘と関係した男を父親が次々に殺してゆくという描かれ方になってゆく。濃い人間関係が描かれたとたん、抑えがたい激情と不可分に結びついてしまう。やはりギドクはギドクなのだ。この先の詳しい分析は「サマリア」論に譲る。
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