あの頃名画座があった(改訂版)①
これは言ってみれば僕の映画自伝です。当然個人的な記録と思い出なのですが、70年代から80年代にかけての映画環境が書き込まれているので他の人にとっても何らかの参考になると思います。
最初に書いたのは2002年10月19日。記憶が失せないうちに書き残しておきたいという思いで書いたものです。記録マニアという性格が幸いして、映画記録ノート、劇場用パンフレット、チラシの類が大量に手元にあるので可能だったことです。映画ノートを持って喫茶店に入り、数時間かけて一気に書き上げました。
当時の貴重なパンフレットなどもいずれ暇ができたらデジカメで撮ってアップしたいと思っています。すぐにはできません、気長にお待ちください。
既に本館ホームページに全文掲載してありますが、さらに手を入れて改訂版を作ることにしました。85年で終わっているのですが、できればもう少し先まで追加しようと考えています。おそらく10回くらいの不定期連載になるでしょう。どうかご期待ください。
◆高校時代まで
僕が映画を最初に観たのは恐らく小学生の頃だろう。最初に観た映画が何だったかは覚えていないが、記憶に残っている最初の映画は父親に連れられて観に行った「キングコング対ゴジラ」である。他にも何回かやはり親に連れられて怪獣映画や戦争映画を観に行ったと思う。後者はもっぱら父親の好みで、彼は戦争ものが好きだった。子供には退屈だったようで、何か「コンバット」のような感じの映画と、人間魚雷回天が活躍する映画を観た記憶がかすかに残っているだけだ。そういった戦争ものよりは「ゴジラ」や「ガメラ」の方がよほど怖かったのか、はるかに鮮明に記憶している。小学生時代に友だちと観に行った映画で、怪獣映画以外に唯一覚えているのは市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」である。
中学生になると友達と行くようになったが、回数も少なく何を観たかもほとんど覚えていない。その頃から飢えたように本ばかり読んでいたので(中学時代はSFに夢中で、創元文庫をむさぼるように読みあさっていた)、映画の方はほとんど関心がなかったのだろう。ただ、よく覚えていて懐かしいのは、あの頃の映画館が映画を上映する前にニュース・フィルムを流していたことだ。まだテレビが一般には普及していなかったからだろう。
もう一つよく覚えているのは、ニュースの代わりに短編のサイレント映画を流していたことがあったことだ。まだ子供だったので何で音が出ないのか不思議に思ったものだ。部分的に覚えているものが一つだけある。観光地で記念写真を撮っている男がいる。当時のカメラだからカメラに黒い幕をかぶせてのぞき、片手にフラッシュを持ってボンとたくやつだ。男が後ろを向いてフィルムを入れ替えている時に、たまたま通りかかった黒いスカ-トをはいたおばさんがカメラをどかして、屈んで靴ひもを直し始めた。また前を向いたカメラマンは、カメラの黒い幕と間違えておばさんの黒いスカートをめくってしまう・・・。しばらくして顔を出したカメラマンは目をぱちくりする。なかなか顔を出さないのが無性に可笑しかった。あれはチャップリンだったのだろうか。
高校に入ると推理小説に夢中になり、これまた創元推理文庫を次々に買っては読んでいた。ところがある偶然のきっかけで映画を観るようになったのである。高校の2年生の時、当時好きだった森山加代子が夜遅くテレビに出演することを知り、観ようと決心した。夜遅くといっても11時くらいではなかったかと思う。家族が9時か10時には寝ていたので、その番組を観るには一人ひそかに観なければならなかったのである。
家中が電気を消した後、一人部屋に残って森山加代子の出演する番組を観た。その番組が終わった後、まだ眠くないのでついでに次の番組も観ることにした。たまたま映画をやっていた。ヒッチコックの「白い恐怖」だった。偶然観たわけだが、これが滅法面白かった。この日初めて映画の魅力に目覚めたのである。これで味をしめた後は、片っ端から映画を観まくった。当時は9時台と深夜にほぼ毎日テレビで映画を流しており、それらを可能な限り全部観たのである。名作もB級映画も見境なしである。そのうち高校の近くの映画館へも行くようになり、観た映画も全部ノートに記録するようになった。製作年、監督・撮影監督・脚本家・配役、観た日付、映画館名などを書き、初めのうちはコメントも付けていた。
最初に記録した映画は「サンセット大通り」だった。日付は1971年8月1日。ビリー・ワイルダーの名作を見て高校生ながらも感動したのだろう。それがどうして記録ノートを作ることと結びついたのかは今となっては推測するしかないが、恐らく監督や俳優の名前を忘れないようにするためだったと思われる。「サンセット大通り」は記憶に値する最初の映画だったのである。こうして、少なくとも記録に残っているだけでも高校2年のときに156本、3年のときに345本の映画を観た。最初の年は途中から記録を付けはじめたわけだから、実際に見た数はもう少し多いことになる。ちなみに、高3のときの345本が年間鑑賞数としては最高記録である。
とにかく何でも観た。大半はアメリカ映画である。「怪傑キャピタン」、「南太平洋ボロ船作戦」、「熱砂の大脱走」、「蛮族の大反乱」、「過去のうめき声」、「殺しはドルで払え」などの記憶のかけらも残っていない?映画から、「ニュールンベルグ裁判」、「刑事」(ピエトロ・ジェルミ監督)、「ハリケーン」、「マイ・フェア・レディ」、「山猫」、「大脱走」、「静かなる男」、「ブーベの恋人」、「カビリアの夜」、「道」、「嘆きの天使」、「ジャイアンツ」、「その男ゾルバ」、「翼よ!あれが巴里の灯だ」、「シェナンドー河」、「五月の七日間」、「情婦」などの懐かしい名画まで。衛星放送などなかった頃なので、これだけの映画を地上波でやっていたのである。 そしてまた、出てくる名前の懐かしいこと!エリザベス・テイラー、エバ・マリー・セイント、ジャン・マレー、ジャック・レモン、タイロン・パワー、チャールズ・ブロンソン、ジェーン・ラッセル、アンナ・マニヤーニ、アンソニー・クイン、ピーター・カッシング、クリストファー・リー、ジャック・パランス、ウィリアム・ホールデン、マリー・ラフォレ、アニー・ジラルド、バーバラ・スタンウィック、もう切がない。
しだいに映画史に興味を持ち始め、何でも観る姿勢が名作主義に変わっていった。近代映画社刊の『写真で見る外国映画の100年(全5巻)』というのを買ってきて、端から端まで何度も読み返した。ただし1巻目のサイレント映画編だけは買わなかった。おそらくサイレント映画などとうに過去のもので関心もないし、観る機会もないと思ったのだろう。このシリーズは後に一度再刊され、80年代以降の巻も付け加えられている。過去の名作、監督、俳優などの名前はほとんどこれを通して覚えたと言ってもよい。
しかし、悲しいかな、テレビで放送されるのは40年代、50年代のものがほとんどで、映画館に来るのは田舎(茨城県日立市)のことで娯楽大作ばかり。観たくても観るすべのない映画が山ほどあり、悔しい思いをしていた。その状況が東京の大学に入学してから一変した。どこにどんな映画館があり、何が上映されているかを知るために『キネマ旬報』を買うようになった。当時はまだレンタル・ビデオという便利なものはなかったが、その代わり名画座がたくさんあった。300円程度で少し古い映画を2~3本立てで観られたのである。様々な特集なども組まれたりして、田舎から出てきた金の無い学生にはまさに天国のように思えた。
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