パッチギ!
2004年
監督:井筒和幸
脚本:羽原大介、井筒和幸
撮影:山本英夫
音楽:加藤和彦
原案:松山猛「少年Mのイムジン河」(木楽舎刊)
出演:塩谷瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカ、楊原京子、尾上寛之
真木よう子、小出恵介、波岡一喜
オダギリ ジョー
加瀬亮、キムラ緑子、余貴美子、大友康平、前田吟、光石研
「GO」、「チルソクの夏」、「血と骨」とこのところ在日コリアンを扱った映画が結構作られている。サッカーのワールドカップ日韓同時開催あたりを機に急速に韓国に対する意識が変わり、それに止めを刺すように巻き起こった「冬ソナ」ブームが背景にあるだろう。「月はどっちに出ている」、「血と骨」の原作を書いた梁石日の活躍も忘れてはならない。そして何よりも、そんなブームが起こる前からコリアンがこの日本に住んでいたのだという事実。これほど多くのコリアンが日本にいる背景には日本による植民地支配が根本的な原因であるという事実。いまさらいうまでもないことだが、ここまで遡らなければ今の在日コリアン映画ブームを理解できない。
時代設定は1968年の京都。今の韓国ブームのはるか前である。日本人高校生と朝鮮高校生との喧嘩から始まる。朝鮮人に対する日本人のむき出しの偏見・差別意識とそれに対する朝鮮人の反発・対抗意識。その中で一人の日本人高校生松山康介(塩谷瞬)が朝鮮高校の番長アンソン(高岡蒼佑)の妹キョンジャ(沢尻エリカ)にほれてしまう。朝鮮人たちから白い目で見られながらもめげずにキョンジャに近づいてゆく康介。やがてキョンジャの方も康介に魅かれ、二人の関係は日本人とコリアンの憎しみ・対立の間に結ばれた細い一本の糸のようになり、対立意識を和らげて行く。
「パッチギ!」はこのように偏見と対立を乗り越えて、日本人もコリアンも人間として理解しあうことが必要だと訴えている。この基本的姿勢には共感できる。偏見と対立を乗り越えるきっかけが恋愛だというのはいかにも安易であるように見えるが、それは下敷きになったシェークスピアの『ロミオとジュリエット』も同じこと。相手に興味を持つということは相手を理解しようとする気持ちにつながる。そこが大事なのだ。康介はキョンジャを単なるかわいい女の子としてではなく、日本人に根深い憎しみを持つアンソンの妹として、日本に住む一人のコリアンとして理解しようとした。二人で駆け落ちするのではなく、キョンジャの住む世界を理解しその世界に入って行こうと努力した。その姿勢に共感できる。一人康介だけではない。観ているわれわれ観客も、例えば、「日本は出て行けと言う、韓国は帰らせるなと言う」という言葉に表現されている在日コリアンたちの不安定な立場に対する理解を共有する。
「パッチギ!」は康介とキョンジャの結びつきが周りの人々を巻き込み友好と理解が広がっていることを描いている。ラストで康介が歌う「イムジン河」をキョンジャがラジオで聞いており、そこにチェドキの弔い合戦で日本人とコリアンが殴りあう場面、桃子(アンソンの恋人:楊原京子)が生んだ子供をアンソンが抱き上げるシーンを挿入し、様々な人々と出来事を「イムジン河」の歌が包み込んでゆく様を描いている。ここはこの映画でもっとも感動的な場面である。非常に優れた演出である。「イムジン河」は南北朝鮮の分断を嘆く歌だが、ここでは日本人とコリアンの間の深い溝を乗り越える歌として使われている。
男女の愛が対立を乗り越えるという図式のプロトタイプはシェークスピアの『ロミオとジュリエット』である。「ウエスト・サイド物語」も「パッチギ!」も基本的な枠組みは『ロミオとジュリエット』から借りている。「パッチギ!」が『ロミオとジュリエット』や「ウエスト・サイド物語」と違うのは対立が単なる2組の小さなグループの間の対立ではなく植民地問題を介在した二つの民族の間の対立だということである。この点は重要な違いであり、「チルソクの夏」と「パッチギ!」が後者の2作品を越える契機になりうる。それだけ深刻な問題を扱っているからだ。ではこの二つの日本映画は『ロミオとジュリエット』を「ウエスト・サイド物語」を越えただろうか。残念ながらそうは言えない。
「パッチギ!」は日本人と韓国・朝鮮人の間の憎しみと対立を結構描いてはいる。喧嘩もそうだが、それよりもチェドキの葬式のとき康介に「帰れ」と怒鳴った在日1世の爺さん(笹野高史)が彼に語った話には説得力があった。この映画で最も説得力のある場面である。その場の空気、コリアンたちの中に一人だけ日本人がいる、しかもチェドキは日本人に殺されている。康介は他の日本人とは違うとみなされていても、それでも入り込めない壁。緊張感をはらんだその場の空気には乗り越えがたい壁が感じられた。この壁がいかに頑丈で簡単には乗り越え難いものであったかを描きこまなければこの主題は安っぽいものになってしまう。その意味でこのシーンは重要だった。しかしその空気はその場限りのものだった。不良どもの間には絶えず緊張感があるが、そんなものは不良グループ同士の対立と同じガキの喧嘩のレベルだ。殴りあいこそしないが互いの胸の中にどろどろと渦巻く軽蔑、偏見、歪んだ反発、鬱屈した憎しみ、そして就職、結婚などで現実にあらわれる差別の実態こそが真に乗り越えがたい壁なのである。それをガキどもの殴り合いでお茶を濁してしまった。
どうしてそんなことになるのか。井筒和幸監督に深刻なドラマを撮るつもりはなかっただろう。それでは重くなりすぎる。彼はあくまでエンタテインメント映画を作るつもりだったに違いない。それはそれで構わない。しかしこの「エンタテインメント」というのが曲者である。日本でエンタテインメント映画を作るとテレビドラマと同じレベルになってしまう。在日問題というテーマを核にして、それに「恋愛」と「青春」と「音楽」という要素を取り込むのはいい。まさにエンタテインメントだ。その青春の描き方に疑問がある。ばったり出会っただけで喧嘩を始める高校生たち。そこになにかひたむきに、がむしゃらに今を生きる若者の姿を本当に感じ取れるだろうか。そこに常識や理屈をこえた青春の輝きが感じられるだろうか。会うと喧嘩ばかりしている高校生の描き方が問題なのは、立ち回りにばかり気をひかれてなぜ彼らはそれほど憎しみあい対立しているのかが後ろに後退していってしまうからだ。冒頭の喧嘩の原因は日本人の高校生がコリアンの女子高生に絡んだことだが、それだけでなぜコリアンの高校生はあのような「過剰な」反応をするのか。実はそこのところが曖昧になっている。全体を見れば理解は出来るのだが、描き方は乱闘場面そのものを楽しむようなつくりになっている。
もう一つの問題は「常識や理屈をこえた」という考え方だ。これはプロパガンダ的なメッセージや生のメッセージを毛嫌いする傾向と裏腹な関係にある。何かメッセージや主張をすると単純にそれを「プロパガンダ」だとみなしてしまう傾向。正面切って「理屈」と書くことを嫌い、「リクツ」と書くような感性。非常に危険だ。党派的なメッセージは確かに「プロパガンダ」だ。だが、笹野高史演じる在日一世が康介に向って言った台詞、「お前ら日本のガキは何知ってる?」で始まる激烈な言葉、これを越える「生の」言葉がこの映画の中で他にあったか?爺さんが言った「生の」言葉の力を超えるものがあるとすれば「イムジン河」の歌以外にない。だが、これさえも爺さんが悲しいコリアンの歴史を怒鳴るように投げつけるという前提があってこそ深く鋭く観るものの胸をえぐるのだ。 重いテーマを持ちながらエンターテインメントにするというのは難しい課題だ。何らかの工夫が必要なことは言うまでもない。しかし井筒監督が取った方法は安易な演出法だったと思う。彼の演出法はテレビドラマの様な安手なおふざけムードに走ってしまった。
日本の多くの映画に表れているこのような描き方を「なんちゃって演出」と呼ぶことにしよう。「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2003」で上映され、グランプリを受賞した「地獄甲子園」という映画がある。これはまさに全編「なんちゃって演出」の塊である。言うまでもなく大した作品ではない。この映画がグランプリを受賞したのはこの映画が漫画だからである。単に原作の漫画を実写版にした映画だという意味ではない。原作は月刊少年ジャンプに連載された「地獄甲子園」という漫画なのだが、普通漫画を映画化する場合は、原作の漫画を映画向きに変える。表現媒体が違うのだから当然のことである。しかしこの映画は漫画を映画化した映画なのではなく、いわば漫画そのものが映画の画面の中で展開されているのである。死んだものが平気で生き返る、甲子園にかける情熱を熱く語ったかと思うとすぐその後で「なんちゃって」とひっくり返す。殺人集団・外道高校野球部のメークは学芸会並みのちゃちさ。まさに漫画そのもの。安っぽさ、バカバカしさを漫画そのままに映画の画面に表してみた、そこに今まで経験したことのない違和感が生じる。漫画では自然なことが、映画になると戸惑うのだ。審査員たちはそこに何かただならぬものがあると勘違いしグランプリを与えてしまったのだろう。しかし所詮はバカバカしいだけの映画に過ぎない。漫画そのものがくだらないと言っているのではない。漫画には優れたものが少なからずある。問題は、画面に描かれた漫画(原作は読んでいない)がただバカバカしさで笑わせるだけの漫画であることだ。まさに「なんちゃって演出」のきわみ、理屈ではなく「リクツ」と書く感覚がそこには蔓延している。このおチャラけた感覚が最近の日本のテレビドラマや映画には大なり小なり入り込んでいる。「JSA」、「ノー・マンズ・ランド」、「ヴェロニカ・ゲリン」、「アフガン零年」、「タッチ・オブ・スパイス」、「この素晴らしき世界」、「モーターサイクル・ダイアリーズ」等々、挙げれば切がないが、この様な作品が日本から生まれないのはこの脳天気な意識からきている。物を考えることを嫌う傾向が行き着く先はただ権威の言うことを鵜呑みにする集団催眠状態である。「パッチギ」の演出はもちろん「地獄甲子園」よりはるかにまともな映画であり、芯があり、その演出もずっとしっかりしている。しかしどこかに共通する要素はないか。「パッチギ」は本当にこの現状を「突き破り」、「乗り越え」たのか?他の演出方法は本当になかったのか?
1968年という時代が背景ともなれば、その絡みで色々言いたいことはあるが、もうだいぶ長くなったので簡単にだけ触れる。冒頭の「オックス」の失神コンサートには笑ってしまった。女の子が「愛ちゃーん」と絶叫している場面をよくテレビで流していたものだ。「失神」という言葉もあの頃流行語になった。ビートルズに始まるマッシュルーム・カットも流行ったなあ。フォークルの「イムジン河」は懐かしかった。このような文脈の中で聞くとなおさら素晴らしい曲に思える。もう一つ、観た後で知ったのだが、原作が「少年Mのイムジン河」というタイトルで、しかも作者が「帰ってきたヨッパライ」の作詞者である松山猛という人だということである。原作も作者も知らなかった。
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>ゴブリンさん
コメントありがとうございます。
私は単純な見方しかできないので面白かった(泣いたことも含めて)としか感じられませんが、ゴブリンさんの記事を読んで、「そうそう!そうだよね!」と改めて感じ入っています。
何より、ゴブリンさんと同じ映画を観たというだけで満足かも・・・。
投稿: HANA | 2005年11月27日 (日) 16:09
ほんやら堂さん コメントありがとうございます。
すいません。いつも長くなってしまうのです。いやあ、コメントを読んでいて「しかしちょー長い評論,ほとほと」の後には「あきれ果てました」と続くのかと冷や汗かきました。
恐らく読む側からするとほんやら堂さんくらいの長さが丁度いいのかもしれません。実際他の人のブログで「ちょー長い」記事を見るとなんかひるんでしまいますからね、実際。
またお寄りください。
投稿: ゴブリン | 2005年11月24日 (木) 00:21
ゴブリンさん,TBありがとうございました.
しかしちょー長い評論,ほとほと感心致しました.小生なんて面白かったとか詰まらなかったとしか書かないので,反省することしきり.
これからも是非覗かせていただきます.
投稿: ほんやら堂 | 2005年11月23日 (水) 22:41