あの頃名画座があった(改訂版)⑤
◆83年
池袋にスタジオ200というスペースがあった。恐らく演劇なども上映しているところだと思うが、ここで「20世紀のドキュメンタリー ライプチヒ映画祭の25年」という企画が催された。83年5月7日に「『クチ』のゲリラ」、「ハノイ・13日・金曜日」、「すべての哀しみは他人事ではない」、「ダー河の架線」を観た。いずれも短編記録映画である。貴重な体験だったが、残念ながらほとんど記憶は残っていない。ライプチヒ映画祭は記録・短編映画専門の映画祭である。その存在は知ってはいたが、そこで上映された作品を観る日本で機会はめったにない。東京はこのように、多くの自主上映館があり、さまざまなユニークな企画が並んでいる点で非常に便利である。渋谷の東京国際映画祭は別格としても、文芸座の中国映画祭、三百人劇場の「ソビエト映画の全貌」などを始め、映画館単位で独自の「映画祭」企画を組んでいる。この傾向は84年頃から目立ってきており、特に86年以降(88年からは長野に移ったのでその後は分からないが)極めて盛んになっている。フィルムセンターや三百人劇場、あるいは名画座などは特集を組むのが普通だが、それ以外の映画館でも特集を組むようになったからだ。
83年6月にまた池袋のスタジオ200でグルジア映画「ピロスマニ」を観ている。同名の画家を描いたものだが、何もない空間と静寂が支配する映画である。傑作だと思った。この頃からソ連の中の各共和国の映画が日本に入って来るようになった。3月に有楽町シネマで「サン・ロレンツォの夜」、新宿ビレッジ2で「エボリ」を観た。いずれも傑作で、久々にイタリア映画が息を吹き返したと感じた。80年代に公開されたタヴィアーニ兄弟の作品はどれも傑作だった。
この年の10月から12月にかけて三百人劇場で「黒澤明の全貌」という特集が組まれていた。この頃にはもうほとんど彼の作品は観ていたので、まだ観ていなかった「姿三四郎」と「一番美しく」だけを観た(12月19日)。後者はいわゆる「戦争協力映画」で、予想通り内容はたいしたことはなかったが、観ておかねばならなかった。また12月から翌年の1月にかけて渋谷の東急名画座で「山本薩夫セレクト・フェア」が開催された。偶然なのか、同時期に東急名画座で「今井正監督特集」が組まれていた。今井正と山本薩夫は共に社会派の大監督だが、二人とも不当に無視されてきた感じがする。このような特集が組まれたことはその意味で非常に重要なことであった。山本薩夫の「金環食」、「真空地帯」を観た。
しかし何といってもうれしかったのはこの年ついに小津を初めて観たのである。10月26日文芸座で「生まれてはみたけれど」と「小早川家の秋」を観たのだ。特に「生まれてはみたけれど」には感動した。84年から小津ブームが起きるが、これはその先駆けだった。
◆84年
翌84年の2月6日・7日に大井武蔵野館で「東京物語」、「生きてはみたけれど」、「晩春」、「早春」を観ている。大井町に行ったのは恐らくこの日が初めてで、その後何回か行ったが、映画館がなければまず行くことのないところである。それはともかく、この頃小津ブームで、いろいろな所で小津の特集が組まれていた。2月28日には池袋の「サンシャイン劇場」で「秋刀魚の味」を観ている。大井町にはもう一つ大井ロマンもあり、そこでは4月15日に「ウッドストック」と「レッド・ツェッペリン狂熱のライブ」を観ている。
この年には新しいなじみの映画館がかなり増えた。3月1日にシネ・ヴィヴァン六本木でニキータ・ミハルコフの「ヴァーリャ」を観た。この映画館はその頃でき始めた新しいタイプの映画館で、会員制になっていた。その日入会し、以後頻繁に通った。10月1日にはアフリカ映画「アモク!」(モロッコ・ギニア・セネガル)を観ている。岩波ホール並の芸術性の高い作品を中心に上映しているところで、結構いい作品を何本もここで観た。アフリカ映画といえばセネガルの「エミタイ」も岩波ホールで4月6日に観ている。3月5日に東銀座の松竹シネサロンで「花咲く港」と「カルメン故郷に帰る」を観た。ここはこの頃から特集を組んで、松竹の財産とも言える過去の名作を次々に上映していた。この時は木下恵介の特集だった。そのすぐ後には「田中絹代フェア」をやった。「野菊の如き君なりき」、「喜びも悲しみも幾年月」、「マダムと女房」、「おぼろ駕籠」等々、ここで初めて観た日本映画は多い。
3月7日に渋谷のユーロスペースでアレッサンドロ・ブラゼッティの「雲の中の散歩」を観ている。ユーロスペースにはこの時初めて行ったのだが、ちょうどイタリア映画特集(「ネオリアリスモ秀作選」)をやっていた。料金は800円。3回券2000円。8日に「ウンベルトD」、9日に「二ペンスの希望」、11日に「屋根」、12日に「激しい季節」と立て続けに観に行っている。イタリア映画は昔から大好きで、たまたまこの特集はそれまで見逃していた作品を選んでくれたかのように上映していた。特に、「二ペンスの希望」は僕にとって長い間幻の映画だっただけに、感激ひとしおだった。というのも、昔テレビでこの映画を途中から観たのだが、ずっと題名が分からないでいた。全部観た訳ではないのでノートにも書いてなかったからである。カルメンとかいうヒロインがいて、その恋人が映画館から映画館に自転車で映画のフィルムを運ぶ仕事をしていた事だけをぼんやり覚えていた。だから「二ペンスの希望」を観ていてその場面が出てきたときには、やっと幻の映画を捜し当てた喜びで胸が騒いだ。
この頃のACTのラインナップはすごい。3月13日に「禁じられた遊び」、「恐怖の報酬」、「やぶにらみの暴君」の三本立て、翌14日には「暗殺者の家」、「処女の泉」、「もだえ」を観ている。3月29日にもACTでドイツ表現主義のサイレント映画「カリガリ博士」、「ジーグフリード」、「ヴァリエテ」を観た。偶然かもしれないがその数日後赤坂の東ドイツ文化センターで「巨人ゴーレム」を観ている。ちょうど「スクリーン上のデーモン――表現主義の影」という特集を組んでいたのである。8日には「ドクトル・マブゼ」も観ている。ここへは後に『ドイツ映画の黎明――「三文映画」と「作家映画」』という特集を組んだときも観に行っている。これもめったに観られない貴重な企画だった。各国が同じような企画を立ててくれたらその国の文化紹介にもなるのでいいと思うのだが。
84年4月14日、この日三百人劇場で忘れられない映画を観た。当時三百人劇場は4月から5月にかけて「ソビエト映画の全貌PART2」という特集を組んでおり、その一環として上映されたカレン・シャフナザーロフ監督の「ジャズメン」を観たのである。1920年代のオデッサが舞台。主人公はジャズのピアノ弾きである。当時ソ連ではジャズはブルジョア文化の手先とされ、理解されていなかった。それでも主人公はジャズが好きでやめられず、たまたま監獄で知り合ったサキソフォン吹きの男を交えてバンドを結成するが、その男は軍楽隊出身でアドリブが全くできない....。ジャズが好きで好きでしょうがない青年の情熱を描いたさわやかな映画で、特にピアノを弾いているときの彼の笑顔が素晴らしい。好きでたまらないことをやっているときの人間の顔はこれ程輝くものか。忘れられない映画の一つである。そのときの特集では他に名作アニメ「話の話」を観た。料金は当日1200円、特別鑑賞券1000円。
5月12日に高田馬場東映パラスで「ザ・デイ・アフター」と「アトミック・カフェ」の二本立てを観ている。ニュース・フィルムを編集したドキュメンタリー映画「アトミック・カフェ」は、マイケル・ムーアの原点ということで「華氏911」が公開された昨年改めて注目され、DVDも出た。5月17日には三鷹オスカーで「祇園の姉妹」と「浪華悲歌」を観た。黒澤、小津と比べるとあまり上映される機会のない溝口健二の作品は見つけたら必見である。めったに行かない三鷹まで行ったのはそのためである。80年代に入ってかなり日本映画を観ている。この84年の7月には並木座で「にごりえ」と「真昼の暗黒」を観ている。同館で7月23日には「私が棄てた女」と「砂の女」を、10月10日には「切腹」と「武士道残酷物語」を観た。
7月11日にお茶の水のアテネ・フランセでカール・ドライアーの「奇跡」を観た。アテネ・フランセにはこの日初めて行った。ここも自主上映の常連館で特集を組んで上映するのでありがたかった。8月6日には「岩波ホール」でサタジット・レイの「大地のうた」、「大河のうた」、「大樹のうた」三部作を一気に観た。有名な「大地のうた」はこのとき始めて観たが、期待どおりの傑作だと思った。前後するが、7月31日にキネカ大森でポーランド映画「大統領の死」を、9月1日には「王者のためのアリア」を観ている。「ポーランド・シネマ・ウィーク」と題した特集だった。当日券1500円、学生1300円、前売1200円。当時、ハンガリーを始め、チェコやポーランドの東欧映画がけっこう日本に入ってきていた。この2本は期待したほどではなかったが、10月14日に岩波ホールで観たユーゴ映画「歌っているのはだれ?」は傑作だった。独特の雰囲気をもったコメディタッチの映画である。キネカ大森はこの頃から増えてきた新しい映画館の一つである。キネカ錦糸町と恐らく同じ系列店だと思うが、錦糸町の方が後に出来たと思う。六本木のシネ・ヴィヴァンもそうだったが、新しい映画館は特色を出すためにユニークな作品を上映する傾向があり、ありがたかった。座席も座りやすくなり、前の人の頭が邪魔にならないように一列毎に座席半分ずらして並べるなどの工夫もするようになった。
84年11月には渋谷の東急名画座(東口東急文化会館6F)で「スペイン映画祭」が開かれた。「クエンカ事件」、「黄昏の恋」、「夢を追って」、「パスクアル・ドゥアルテ」、「庭の悪魔」の5本を観た。料金は一般1500円、学生1300円。5枚セット券5000円。80年代前半はフランコ死後に息を吹き返したスペイン映画の黄金時代で、国際映画祭で次々に賞を取っていた。「黄昏の恋」はアカデミー外国語映画賞を取った傑作である。80年代の中国映画が文革時代を引きずっていたように、当時のスペイン映画はスペイン戦争の影を引きずっていた。「黄昏の恋」はそんな時代のせつない中年の男女の恋を描いた映画である。「クエンカ事件」は実際にあった事件を描いたもので、無実の罪で牢獄に入れられた男を描いたものである。全編これ拷問シーンばかりといった印象の映画だが、当時のスペインで空前の大ヒットとなった。そのことから当時のスペインの雰囲気がよく分かる。「パスクアル・ドゥアルテ」は徹底したアナーキズム映画だ。何の動機もなく次々に人や動物を殺す場面が出てきて、何とも気が滅入る映画だった。「問題作」だとパンフに書いてあったが、確かにそうとしか書けないだろう。名作「エル・スール」もこのときの上映作品に入っていたが、残念ながらこのときは観られなかった。85年の11月にシネ・ヴィヴァン六本木で上映されたときにようやく観ることが出来たのである。
11月17日に初めて早稲田松竹で「波止場」と「地上より久遠に」を観ている。「早稲田松竹」に行ったのがこんなに遅かったとは。もっと行っていそうな気がするが、他の名画座よりも若干料金が高かったことと、やはりラインナップが今一つだったということだろう。
<付記>
フィルムセンターは1984年9月3日に昔一度火事で焼けている。この火事はまさに日本における映画文化の貧困さを象徴していた。この日は多分いつもより比較的涼しい日だったのだろう、フィルム保管庫のクーラーを止めていたところ可燃性フィルムが自然発火してしまった。予算をケチってクーラーを止めたために貴重なフィルムを一部消失してしまったのである。fan-3当時新聞でそれを知ったときにはしばし呆然としたものだ。
そもそも古いフィルムは発火しやすく、フィルム保管庫はいわば弾薬をかかえているのと同じである。オランダ視聴覚アーカイヴの可燃性フィルム保存庫は海辺の砂丘地帯の窪地にある。第二次大戦中にナチス・ドイツ軍のトーチカとして建設されたものをフィルム保存庫に改造したのである。保存庫は、職員が働いている隣室とは反対側の壁を比較的弱くしてあり、「最悪の事態」が生じた時にはそちらへ爆風が逃げてゆく構造になっている。トーチカを選んだのはそれが頑丈だからだが、周りに人家が少ないことも考慮に入れていたのだろう。
昔のトーチカを改造して使う。これくらい保存に気を使わねばならないほど可燃性フィルムはデリケートなものなのである。そのクーラーを切るとは!フィルムセンターの所員の責任ではない。国立のフィルム・ライブラリーに貧困な予算しかつけない文化政策に問題がある。日本の文化予算は能や歌舞伎などの伝統文化の維持にほとんどをつぎ込み、映画などという「大衆文化」にはおこぼれ程度しか回ってこない。果ては、予算を増やすどころか、これでもまだ多いとばかりに2001年には独立法人にしてしまった。自国の映画産業をアメリカ映画の侵食から守るためにクォータ制をとっている国もあるというのに、国自らが映画文化の首を絞めてどうする。ここ数年予算は増えてきており、多少の理解も進んだようだが、松竹の大船撮影所閉鎖などの逆行現象は止まらない。映画は製作会社だけのものではない。国民の財産なのだ。製作だけではなく、上映、保存、修復など一連の事業を含めて対策を考えるべきものである。映画は後世に伝えるべき優れた文化遺産なのだという認識を、政府も国民の間でも確立することが今一番必要なことだ。