誰も知らない
2004年 日本
【スタッフ】
脚本:是枝裕和
監督:是枝裕和
音楽:ゴンチチ
撮影:山崎裕
【出演】
柳楽優弥、北浦愛、木村飛影、清水萌々子、YOU、韓英恵
加瀬亮、寺島進
カンヌ映画祭で主演の柳楽(やぎら)優弥が史上最年少の14歳で最優秀男優賞を受賞した。大体の話は事前に知っていたが、前半は予想に反して子供たちの 日常が意外に明るく描かれている。是枝作品は「幻の光」「ワンダフル・ライフ」に続いて3本目だが、前の2本はほとんど覚えていない。特に後者は見たことすら忘れていた。「誰も知らない」はこの2本よりも格段に優れた作品である。
あるアパートに母親と息子一人が引っ越してくる。おや、どうして子供が一人だけなんだと思っていると、トランクの中から女の子と男の子が出てくる。もう 一人の女の子は別に電車かバスで来たようだ。長男が迎えに行く。これで全員がそろった。この最初の展開が意表をついていて面白い。母親は子供たちに大声で 騒いではいけない、ベランダや外には出てはいけないと言い聞かせる。理由ははっきり示されてはいないが、父親がいない(海外出張中ということになっている)母親と子供4人の家族ではアパートが借りられない事情があるようだ。子供は出生届も出されていず、父親もそれぞれ違う。学校にも通っていない。
最初のうちは母親の働きと長男の主婦代わりの活躍で何とか楽しく暮らしている。子供たちも言いつけを守っている。この暮らしが暗転するのは、ある日突然母親が出て行ってしまってからだ。子供の父親が全員違うことが暗示しているように、この母親は自分勝手でうまく男と付き合ってゆけないようだ。選んだ男もそれなりの男たちなのだろう。そのわりにはよくしつけられた子供たちなのが不自然と言えば不自然だが。好意的に解釈すれば、母親がいい加減なので子供たちがその分早く自立しているともいえるかもしれない。
長男の明を演じる柳楽優弥は確かに存在感がある。特に目が印象的だ。他の3人も個性的でよく描き分けられている。母親役のYOUもいかにも無責任そうな 母親の役をうまく演じている。というより彼女の地そのままの感じだ(言い過ぎか?)。母親失踪後一人の女子高校生が子供たちと接近する。しかし彼女もいじめにあっていて、子供たちの生活を支える力はない。
それでもある事故が起こるまではむしろ子供たちの明るさと不自由な中でも何とか生きてゆくたくましさが描かれていて好印象があった。しかしあるとき一番下の女の子が椅子から落ちて瀕死の重態になる。その頃には母親が送ってきたお金も底をつき、医者につれて行けない。警察や生活保護に頼れば、4人がばらばらに暮らすことになるのでそれにも踏み切れない。結局幼い妹は治療も受けずに死んでしまう。長男の明は、いつか飛行機をみに連れてゆくと言った約束を果たすために、高校生の女の子と一緒に死んだ妹をトランクに詰めて羽田空港まで行く。空港の近くに妹を埋めて帰ってくる。
この最後の3分の1あたりが見ていて非常にいらいらした。つらいというよりいらいらした。4人がばらばらになるのはいやだという明の気持ちも理解できるが、だからと言って重態の妹を見殺しにすべきだったのか。正直言って、このあたりは無責任な母親より明の態度に疑問を感じた。なんとも重苦しい結末であ る。
実話に基づいてはいるが、子供たちの生活、心理描写については是枝監督の創作だという。事実関係を見れば実際の事件の方がもっと悲惨である。映画では一番下の女の子が死ぬのは椅子から落ちたためだということになっているが、実話では長男が付き合っていた男友達の一人が面白半分に幼い女の子を折檻して死なせたのである。さらに実話ではもう一人男の子がおり、その子は病気で死んだのだが戸籍上生まれていないので死んだと届けるわけにも行かず、消臭剤と一緒に押入れに隠していたという。子供たちはずっと死体と一緒に暮らしていたのである。
これではあまりに悲惨なので前半は子供たちの世界を明るく描いているのだろう。前半はよく出来ていたと思う。問題は後半だ。妹が死ぬあたりから最後までは明に共感できなかった。観ているうちに気持ちが離れていった。その理由は上に述べたが、共感できない理由は明の気持ちがはっきりと示されず、彼の行動だけが描かれているからではないか。頭の中では悩んで葛藤していたに違いないが、行動だけ見ていてもその気持ちが分からない。いらいらするだけだ。死んで いった一番小さい妹は哀れだが、映画は出口が見出せないままの状態で終わる。無理やりお涙頂戴にしなかったことはいいとしても、何の救いもないままに終わ るのは疑問が残る。
是枝監督はかつてフジテレビでドキュメンタリー番組を作っていたようだ。その中には『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(91)というタイトルの番組もあるようなので、以前からこの種の問題には関心があったのだろう。子供たちが「発見」されるところで映画を終わらせなかったのは、このような問題が今でも社会の中に存在し続けているのだと訴えたかったものと思われる。この3人の子供たちは今でもどこかで暮らしているのである。その意味でドキュメンタリー風に撮った是枝監督の手法は成功していると言ってよい。「僕はこの作品が持つ境目のない空気の中に、未だ漂っているのかもしれない」とあるサイトで書いている人がいたが、「境目のない空気」と言う表現はフィクションが現実に思えかねないこの作品の現実感をうまく表現している。
ただやはり問題はこの最後の行き詰まり感だ。この作品を観た後に暗澹たる気持ちが残るのは、恐らく焦点を子供たちに絞っているからだ。作品は子供たちの視点から描かれている。そのために母親の事情がほとんど何も描かれていない。母親に自分勝手だと非難を向ける明に、「私には幸せになる権利はないの?」と返した言葉だけでは不十分だ。もちろん彼女だって生まれてすぐ子供を邪魔者扱いにして殺してしまったわけではない。出て行くまでは一応育ててはいた。映画が始まった時点の様な事情にどういう経緯でなったのかは一切語られていない。それでいきなり母親がいなくなれば当然非難は母親に向けられる。もちろん無知で無責任な親だったと言わざるを得ないが、戸籍のない子供をかかえた未婚の母にどれだけ世間が冷たいか観客も自問してみればいい。それぞれの子供の父親だって同じように無責任なのだが、非難が母親にばかり向けられるのは未だにダブル・スタンダードが生きていることを示している。しかしこの映画はその方向は一切切り捨て、ひたすら子供たちの日常に密着する。そこに閉塞感が生まれる。
要するに、この映画の一番の問題はどこにも怒りのもって行き場がないことである。だから観客は、子供たちに同情し彼らをそこに追い込んだ状況に怒りを覚 えながらも、その怒りの持って行き場がないのでいらいらするのである。ケン・ローチ監督の「レディバード・レディバード」との決定的な違いはそこにある。 こちらは同じようなだらしのない母親を描きながらも、その彼女には子供を養育する資格はないと次々と子供を「保護」という名の下に奪い取ってゆく行政の非情さを描いている。ついには生まれたばかりの子供まで母親の目の前から奪い取ってゆく。体中から怒りが噴出す思いだった。閉塞感を抜け出すには怒りが必要なのだ。これを見ろとばかりにただ悲惨な状況を突きつけられるだけでは絶望感しか生まれない。見終わった後暗澹たる気持ちになるよりは、憤りを覚える方がましだ。なぜならそこからは現状を変えようという意志が生まれるから。
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