寄せ集め映画短評集 その6
在庫一掃セール第6弾。各国映画8連発。
「ブコバルに手紙は届かない」
(1994年、ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督、ユーゴスラビア)
ブコバルは旧ユーゴスラビアのクロアチアにある町。クロアチア人のアナとセルビア人のトーマが結婚式を挙げる。しかし結婚パレードの最中、クロアチア人のデモ隊と出会う。別の道からはユーゴスラビアを支持するデモ隊が進んでくる。混乱に巻き込まれ、式のパレードは中断せざるを得なかった。
不穏な空気が国中に広まる。トーマが軍隊に入る日、彼の家の壁に「セルビア人は出て行け」という落書きが見つかる。その後は混乱の一途。戦争が始まり美しかったブコバルの街は廃墟となってしまう。留守を守るアナはおなかに子供がいたが、クロアチアの男に強姦される。最後に街がセルビア人に占領された時アナの家も兵隊に接収されるが、彼らは強姦はしなかった。敵ではなく味方に強姦されるという混乱した状況。やがて戦闘は収まりアナとトーマは別々のバスに乗り、別々の方向に分かれて行く。カメラは廃墟となったブコバルの街を延々と映し出す。
なんともやりきれない映画だ。怒りがこみ上げてくる。紛争の原因・理由は一切描かれない。しかし描いたとしてもそれで解決につながるわけでもない。ほとんどの人々はわけも分からず、否応なしに戦争に巻き込まれていったのだ。「ビフォア・ザ・レイン」(1994)、「ユリシーズの瞳」(1995)、「パーフェクト・サークル」(1997)と民族紛争を描いた力作が90年代の後半次々と日本で公開された。また2001年製作の「ノー・マンズ・ランド」は、中間地帯に敵同士の2人の兵士が取り残されてしまうという特異な状況を設定することで、このテーマに対してユーモラスでかつアイロニカルな処理の仕方を試みた。
94年製作、97年日本公開の「ブコバルに手紙は届かない」はその中で最も見るものの心を揺り動かす作品だ。他の作品はいたずらに哲学的だったり、思索的だったり、アイロニカルだったりして、必ずしも感動を誘いはしない。哲学的ではない分「ブコバル」は深みにかける面もないわけではないが、訴える力はダントツだ。あまりにも悲惨で出口のない主題を描く際の表現者の視点と視線と姿勢を考えさせられる。
「幸せになるためのイタリア語講座」(2000年、ロネ・シェルフィグ監督、デンマーク)
人間の優しさといとおしさが身にしみる映画である。ドグマ95というハンディ・カメラによる接写を多用した作風。もっとも、見ているときはそれほどハンディ・カメラということを意識しなかった。だが、それはうまくいっているということだろう。あまり技法が目立つようなら成功しているとは言えない。
珍しいデンマーク映画。製作はデンマークとスウェーデン。あるレストランに勤めるウェイターのフィンは元サッカー選手。すぐに切れる性格で接客態度が悪いため首にされる。同じレストランの受付係のヨーゲンはフィンの友人で、4年間女性と寝たことがないのが悩み。また、そこで働くウェイトレスのジュリアは黒髪のイタリア人美人。ヨーゲンを密かに愛している。フィンがよく買い物に行くパン屋の女性店員オリンピアは金髪痩せ型で不器用なおっちょこちょい。よくパンの入ったトレイをひっくり返す。43回の転職を経験したが、このパン屋の仕事は長く続いている。偏屈な父親にも悩まされている。フィンがヨーゲンに紹介されて行った美容院の女性美容師カーレンはセクシーな女性だが、アル中の母親に悩まされている。
カーレンの母親とオリンピアの父親がなくなる。二人が葬式を挙げるために行った教会の新任牧師がアンドレアス。信者がなかなか集まらず悩んでいる。葬儀の後オリンピアとカーレンが実は幼いころに分かれた姉妹同士だということが分かる。
それぞれに悩みと心の傷を抱え、満たされない生活を送っている。そんな彼らが通っているのがイタリア語の講座だ。他にも3人の女性が通っている。心の隙間を埋めるように、6人の男女はこの講座に通う中でそれぞれに愛する相手を求め合う。
ある日オリンピアに父の財産が入る。彼女は同じ講座に通う人たちとイタリアに旅行することに決める。白夜のオランダからベニスへ。この旅行で3つのカップルが誕生する。フィンはカーレンと。オランピアは牧師アンドレアスと。ヨーゲンはジュリアと。
市井のなんでもない人たちに注ぐ視線が暖かい。閉ざされた心の奥のドアをノックしてくれる人は必ず現れるはずだ。そんなメッセージが心地よい。
「氷海の伝説」(2001年、ザカリアス・クヌク監督、カナダ)
「氷海の伝説」は、北アメリカ大陸最北端に住むイヌイットに先祖代々語り継がれてきた、アタナグユアト(足の速い人)の伝説に基づく一大叙事詩である。上映時間3時間に近い氷原の叙事詩だ。監督自身イヌイットであり、イヌイット語でイヌイットを描いた最初の長編劇映画である。
あまりの生活習慣と文化の違いに最初の1時間あまりは戸惑いを感じなかなか映画の世界に入り込めなかった。しかし、主人公のアタナグユアトが寝入ったところを襲われ、素っ裸で氷原の上を逃げてゆくものすごいシーンあたりからぐいぐいと引き込まれる。悪霊が出てくるあたりはいかにも伝説に基づいた話だが、ドラマの基本線がしっかりしているため、そんなことは気にならない。
氷以外何もない世界だが、人間さえいればドラマが成り立つことを教えられる。雪と氷の美しさも特筆ものである。新しい世界を世に知らしめた力作だ。
「草の乱」(2004年、神山征二郎監督)
大したことはないかも知れないという気持ちもあったが、どうしてなかなか立派な作品だった。全体にきりっとした演出で、画面から農民たちの勢いが伝わってくる。秩父困民党のことは名前程度にしか知らなかったが、この映画で見る限り農民一揆というより全面戦争だ。武装蜂起による革命の様相を呈している。国家が暴徒、反逆者として歴史から葬り去ろうとした意図が分かる。それにしても明治17年というのに刀を引っさげ火縄銃を持って立ち上がるところは、まるで維新戦争だ。弓矢があればまるっきりそうだ。まだ銃や刀が農民たちの間に残っていたとは。
反乱蜂起の直接の原因は高利貸しによる借金地獄だが、その背後に富国強兵に走る政府の過重な税金が農民たちの生活を追い詰めていた事実がある。そのあたりはもう少し描きこんでほしかった。農民たちの困窮がリアルに描かれないと、蜂起にいたる過程に説得力が出ない。高利貸しや役所に掛け合う場面ばかりでは迫力不足だ。
しかし蜂起の場面は感動的だった。実際はどうだったのか分からないが、蜂起した農民たちはまるで戦国軍団のように勇ましかった。決して彼らを暴徒として描いていないところがいい。高利貸しの家を焼き討ちにした時、周りの家への延焼を防ぐ努力をしている様がきちんと描きこまれていた。しかし他の地域は結局呼応することはなく、彼らは孤立してしまった。憲兵隊が派遣され彼らはいっぺんに崩れてゆく。見ていて悔しかった。
配役には不満もある。緒形直人は顔ばかり深刻だが、もう一つその情熱や怒りが伝わってこない。彼はどうしても好きになれない。反乱軍の首相役を演じた林隆三も太ってしまって迫力がない。「七人の侍」の志村喬のような指導者としての器の大きさを感じられなかった。しかし不満はあっても歴史的に意味のある作品であることには変わらない。
「東京原発」(2004年、山川元監督)
これもなかなかよく出来た映画だ。「突入せよ!『あさま山荘』事件」や「金融腐食列島 呪縛」の系譜につながる作品。「草の乱」は歴史的事件を真っ向からリアルに描いた骨太の映画だが、こちらはコメディ調ながらたっぷり風刺を利かせた別の意味で骨太な映画である。
東京都知事(役所広司)が突然東京に原発を誘致すると言い出して、副知事を初めとする都の幹部達は大慌て。何とか知事を思いとどまらせようとするが、知事の舌鋒は鋭い。初めは単なる利権が絡んだ提案だと思わせておきながら、次第に原発問題の矛盾に鋭く切り込み始める。幹部たちはたじたじとなる。そこへ副知事が呼んだ原発の専門家が現れ鋭く知事や彼の支持に回った幹部たちに反論を突きつける。このやり取りが重要だ。知事と専門家の指摘によって、原発は安全でありまた必要だという主張が次々と覆される。あるいは原発問題に対する都民、いや国民の無関心さが抉り出される。散々笑わせながら鋭い風刺を放つ、あの革新的演劇集団「ザ・ニュースペーパー」の手法だ。
やがて、知事はその無関心な都民に原発問題の重大さを意識させるためにあえて原発を東京に誘致するという挑発的な提案をしたのだと、副知事が気付く。一同なんだそうだったのかと安心したのもつかの間、そこに突然とんでもない電話が入る。
プルトニウムを運んでいたトラックが謎の少年にのっとられたのである。少年はトラックに爆弾を仕掛けた。トラックの運転席にカメラを取り付け、都のホームページにその映像を流して、それをテレビで放映しろとその少年は知事に迫る。ここから映画の流れは一変してしまう。結局配線が切れていたため爆発はしなかった。この部分は不要だったと思う。おそらく製作者側は都知事と幹部たちの原発問答だけでは映画が持たないと考えたのだろう。弱気になって最後にはらはらさせる要素を付け加えたのだ。しかし知事たちの問答とトラックのっとりの部分がうまくかみ合っていない。だからいかにも付け足しという感じがする。ここで逃げてしまったためせっかくの鋭い風刺劇が薄められてしまった。その点が残念である。
「夕映えの道」(2001年、レネ・フェレ監督、フランス)
ヨーロッパ映画に多い効果音を抑えた淡々とした映画だ。しかしこれといった筋も劇的な展開もない映画だが、感動を誘うものがある。中年の女性経営者イザベルがたまたま知り合った老女マドレーヌ(マド)の世話を焼くという単純な話だ。最初は自分の中に閉じこもりイザベルをうるさがっていたマドも少しずつ心を開き始める。ポツリポツリと自分の過去を語り始めるマド。
低予算の映画だがマドとイザベルの心の交流が素直に胸を打つ。傑作というほどではないが心に残る映画だ。
原作はドリス・レッシングの「善き隣人の日記」。イギリスの小説をフランスで映画化するというのも興味深い。
「史上最大の作戦」(1962年、ケン・アナキン監督他)
昔見た映画はどれもそうだが、悲しいことに大部分忘れている。上陸作戦が始まるまでかなり時間をかけて描いていることに驚いた。すっかり忘れていた。まあ戦闘場面に比べればどうしても印象は薄いわけだから仕方がないが。あるいは、「プライベート・ライアン」の印象に引きずられていたのかもしれない。
うまい設定だと思うのは、ジョン・ウェインが落下傘で着地したときに足をくじいてしまうことだ。終始杖をついたり馬車に乗ったりして、あらかじめ大活躍の場を奪っている。その代わり有能な指揮官としての彼を存分に描いている。西部劇の時代と違って、現代の戦争は一人の英雄の活躍で勝負が決するわけではない。総力戦なのだ。どんな剣豪も鉄砲隊の前では無力なのと同じだ。
同じ視点は映画全体にも貫かれている。アメリカ軍、イギリス軍、フランスのレジスタンス部隊がそれぞれに別の場所で共同の目的のために戦っている。何度見ても感動するのはこの描き方だ。「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザーズ」にはない視点である。つまり、アメリカ軍の視点ではなく、連合軍の視点から描いているのである。いやドイツ軍の視点もかなり入れ込んでいる。このパノラマ的な視点はあの時代だから出来たのかもしれない。
戦闘場面は思った以上にすさまじかった。「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザーズ」のような銃弾や砲弾が本当に飛んでくるようなリアルさはないが、スケールの大きさがそれを補って余りある。CGなしでこれだけの迫力ある戦闘場面が描けていたのだ。ドラマ性もしっかりしている。どんなに撮影技術が進んでも決して色あせない映画だ。
「西洋鏡」(2000年、アン・フー監督、米・中国)
1902年から1908年あたりまでを描いている。主人公は写真屋で働いている青年。新し物好きで当時まだ珍しかった蓄音機などを持っている。そこへ英国人が活動写真を持ち込んで見世物小屋を始めた。主人公はすぐ興味を持ち、勝手に客引きを始める。英国人とも仲良くなりいつしか彼の仕事を手伝うようになる。初めて活動写真を見て仰天したり、感心したりする中国人たちの様子がリアルで愉快だ。主人公は京劇の第一人者の娘にほれてしまうが、活動写真が彼の人気を奪っていることに悩んだりする。ついには西太后に招かれ紫禁城で活動写真を上映する。同時に彼の勤めていた写真館の主人と京劇の役者も招かれていた。西太后は活動写真に大いに感心するが、張り切りすぎて映写機が火を噴き火事になってしまう。英国人は追放されるが、主人公は特別に許される。一人で活動写真を守り続ける主人公と彼が思いを寄せる娘が結ばれることを暗示して終幕。
劇的な盛り上がりに欠けるかもしれないが、いい映画だ。中国の観客が山を映し出した映像を見てなんてきれいなんだとため息をついたり(どうも初めて山を見た感じだ)、万里の長城の映像が映し出されるあたりでは声も出ないほどに感動しているシーンは特に印象的だ。チリ映画の名作「100人の子供たちが列車を待っている」を思い出した。どちらも映画の原点を思い起こさせるすぐれた作品だ。
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