寄せ集め映画短評集 その8
在庫一掃セール第8弾。今度は各国映画7連発。「熱帯魚」(1995年、チェン・ユーシュン監督、台湾)
日本映画の「大誘拐」を思わせる展開。男2人組みが幼稚園生ぐらいの子供を誘拐する。それを見た高校生がトラックに飛び乗り一緒に誘拐されてしまう。小さい方の子供は養子だったので身代金は要求できないことが分かった。そこで高校生の方の親に脅迫電話をかけるが、金の受け渡し現場に警察が来ていたので引き返す。その場にいた警察官が誘拐犯の知り合いで、冷や汗をかきながら言葉を交わすあたりがこっけいだ。ところがその誘拐犯は途中で事故に会いあっさり死んでしまう。残ったもう一人の誘拐犯は困り果てた末、親戚の家族に協力を求める。金に目がくらんであっさりとその一家が協力するあたりも可笑しい。そのおばさんは見世物の蛇女をやっているような人だ。ちょっとやそっとではひるんだりしない感じ。その一家は貧しいが芯から悪い人たちではない。水門の故障で雨が降ると床まで浸水するような家に住んでいる。足元を水につけながら特別驚くでもなくテーブルで食事をしている光景がなんともシュ-ルだ。人質の高校生も別に縛られるわけでもなく親切に扱われている。
その高校生が実は受験生だった。誘拐犯たちが何とか受験だけはさせてやろうと涙ぐましい努力をする展開が可笑しい。そのためには少しでも早く身代金を手に入れて高校生を解放しなければならない。彼らは交渉を早める。しかし色々すれ違いがあってなかなか交渉が進まない。電話係の男が市外局番のことを知らなくて、いつかけても話中だといってすごすご引き返してくるあたりは笑える。
そうこうするうち高校生は受験生の英雄になり、受験まであと何日と盛んにテレビで市民の関心を集めている。最後は結局警察に見つかってしまうが、高校生は犯人たちをかばって、犯人は別にいて彼らが助けてくれたのだと警察に嘘をつく。最後はうまく収まる。
アジアの国々はどこも学歴尊重社会だが、この映画はそれをうまく題材にして面白いコメディに仕立て上げることに成功している。
「スパニッシュ・アパートメント」(2002年、セドリック・クラピッシュ監督、仏・西)
卒業しても就職が決まらないパリの大学生グザヴィエがスペインに留学する。いい宿が見つからず苦労した末に大学生達が共同で借りているアパートに住むことになった。他の6名の学生はそれぞれ出身国が違う。イギリス、ベルギー、スペイン、ドイツ、フランス。まるで60年代のヒッピー達のような共同生活。どうやらEUを意識しているらしい。最後にヨーロッパは混沌としているというグザヴィエのせりふが出てくる。
グザヴィエはパリに恋人(オドレイ・トトゥ)を残してきたが、離ればなれになってからはギクシャクしている。その反動からか飛行機の中で知り合ったフランス人若夫婦の奥さんのほうと浮気する。イギリス娘の弟が来てしばらく住み着き騒動が起きたりと、多少のギクシャクはあるがみんな仲はいい。
1年間の留学期間が終わりグザヴィエはパリに帰る。パリに帰ってもしっくり来ない。かえって自分を見失っている。親の知り合いに世話してもらった仕事もやめてしまい、作家になる決意をする。今グザヴィエは留学期間の経験を思い、ヨーロッパの混沌を思う。
青年の失業率が高く、仕事が見つかってもやりがいを感じない。そういったヨーロッパの青年の青春の彷徨を描いた映画だ。傑作とまでは行かないが、最近のフランス映画の勢いを感じさせる佳作である。
「ケミカル51」(2002年、ロニー・ユー監督、米・英・カナダ)
意外な傑作。アメリカ人の薬剤師が新しい強力な麻薬を発明し、取引をするためにイギリスに渡る。その薬剤師を演じるのがサミュエル・L・ジャクソン。イギリスで彼を出迎えるのがロバート・カーライル。この二人に、女性の殺し屋(エミリー・モーティマー)がからみストーリーが展開する。
何と言ってもサミュエル・L・ジャクソンがいい。イギリスに降り立ったときの彼の格好はスコットランドのキルト(スコットランドの男が腰に巻くあのスカートみたいなやつ)を身につけた何とも珍妙な格好である。終始この格好を通すところがまたいい。空港で見張っていた警察が民族衣装の男を追えと連絡を受けて、たまたまジャクソンの前を歩いていたインド人一行をそれと勘違いしてつけて行く所は愉快だ。これはまあギャグだが、一貫してアメリカとイギリスのからかい合いがサブテーマになっていて、これが実にぴりっとした薬味になっている。例えば、カーライルがフィッシュ・アンド・チップスを買ってくると、ジャクソンがイギリス人は食い物に困っているのかとからかう。チンピラのカーライルは無類のサッカー好きで、リバプールとマンチェスターUとの試合の切符が欲しいためにこの仕事を引き受けているという設定だ。ジャクソンの名前がマッケルロイというスコットランド名なのもおかしい。他にも散々ひどい目に会うチンピラが出て来たり、リス・エバンスが相変わらず切れた演技を見せていたりと細部にもよく気を配っている。
意外な収穫だったのは殺し屋役のエミリー・モーティマーだ。細身でとても殺し屋には見えないが、それがまた妙にはまっていて魅力的である。いきなり冒頭部分の結婚式の場面で花嫁のような白い衣装を着て登場する。教会で突然ハシゴを登り機関銃を組み立て始める。首尾よく参列者の一人を撃ち殺し、教会の鐘撞きロープを伝って下に降り、何食わぬ顔で脱出する。まるで「キル・ビル」だ。この時点からもう彼女の魅力にはまっていた。坂井真紀タイプの顔だが、なかなか色気もあってとてもよろしい。また、彼女が実はカーライルの昔の恋人だったという設定も気が利いている。リバプールが舞台だが、基本的にはアメリカ人の視点からイギリスを見ている感じである。それが独特のコメディ的な味付けになっているのではないか。「シャロウ・グレイブ」「トレイン・スポッティング」などとは一味違った新たな犯罪アクション映画である。
「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976年、山田洋次監督、松竹)
さすがの傑作。観客を笑わせ、そして泣かせる。ツボを心得た熟練の演出。笑いの引き起こし方が巧みだ。無理に笑わせるのではなく、ごく自然に笑いが湧き起こってくる。例えば、この映画を見たかったのは別所温泉でロケをしたからだが、ここでのエピソードが面白い。寅さんは別所温泉で知り合いの旅回り一座に出会い、夜上機嫌で一座を呼び奢る。しかし翌日料金を請求されるが、当然そんな持ち合わせはない。無銭飲食で警察のご厄介になる。さくらが金を用意して別所に寅を引き取りに来る。しかし警察に行くと、寅さんは今風呂に行っていると言われる。ここがおかしい。警察のご厄介になりながら、のうのうと温泉に浸かりに行っている。しかも警察官は「寅さん」と親しげに呼んでいる。警察で「一泊」した間に何があったか想像がつこうというものだ。警察での一夜そのものを描くのではなく、ちょっとした言葉の端から想像させる。見事な演出だ。
本作のマドンナは壇ふみと京マチ子。こちらは泣かせの演出だ。壇ふみは光夫の先生役。その母親役の京マチ子は3年ぶりに病院から家に戻ってきたばかり。実はもう直る見込みがないので最後の時間を好きにすごさせようと家に帰されたのだ。そうとは知らない寅さん、初めは娘の方に入れあげるがみんなに年の差を指摘され、今度は母親の方にべったり。しかし明るく振舞っていた京マチ子が突然死去する。この辺りの運びは笑わせまた泣かせる。練達の至芸。寅さんシリーズはほぼ全作品を見たが、シリーズの中でも傑作の部類に入ると思う。
「隠し剣 鬼の爪」(2004年、山田洋次監督)
前作「たそがれ清兵衛」と似たような設定(貧乏な平侍が主人公、藩命で人を斬ることになる、主人公が剣の達人で相手もまた達人など)だが、二番煎じの感はない。何より片桐宗蔵を演じた永瀬正敏の凛とした表情が素晴らしい。同じ山田監督の「息子」も傑作だったが、より成長した役者としての彼がいた。剣さばきは真田広之の方が上だが、演技では長瀬も負けていない。立派な役者になったものだ。とても「濱マイク」と同じ役者とは思えない。
きえを演じた共演の松たか子も素晴らしい。控えめでしとやかな美しさが断然光っている。とても百姓の娘には見えないのは難点だが。友人で敵役になる小沢征悦もいい。しかし、この映画は基本的に主役の二人が中心となって支えている。片桐が女中のきえを実家に帰るよう説得する海辺のシーンでは涙が出た。海辺に二人並んでいる場面はどことなく小津映画を思わせるが、そう思ったときにふと気付いた。小津はあまり若い男女の愛を描いたことはないのではないか。小津の世界は家族中心の世界である。したがって親子の愛と夫婦の愛が中心だ。結婚前の男女の恋愛はあまり出てこない。それは娘や息子の結婚という形で描かれる。それは家族の外の世界なのだ。
山田洋次は時代劇の作法を東宝の黒澤明から学んだが、松竹の先輩小津からも人間をじっくり描く視点を学んだ。冒頭の片桐の家の描写がなんでもない日常の風景を描いているだけなのに、見ていて感動を覚えた。「隠し剣 鬼の爪」の前半はじっくりと平侍の日常を描いている。これがまた出色の出来だ。従来の時代劇の様なド派手な切り合いなどはまったく出てこない。それでも観客を飽きさせないのは芯となる片桐ときえのほのかな愛情がじっくりと描かれているからである。山田洋次は小津の静と黒澤の動を一つに融合することに成功したのである。「たそがれ清兵衛」と「隠し剣 鬼の爪」を日本映画史上に残る名作に仕上げられたのは、これをなしえたからだ。山田洋次は日本映画界の最後の巨匠である。
「華氏911」(2004年、マイケル・ムーア監督、アメリカ)
全編にマイケル・ムーアの批判精神と抜群の編集力が冴えわたる。「ロジャー&ミー」や「ボウリング・フォー・コロンバイン」は得意のアポなし突撃取材と記録フィルムをうまく編集していたが、ここでは全体の9割以上をニュースなどの記録映像が占め、それに部分的な直接取材を加えて、全体にナレーションを付けるという新しいスタイルを用いている。しかし基本の姿勢はどれも同じだ。アメリカ社会の問題点や矛盾点を鋭く抉り出し、歯に衣を着せぬ痛烈な批判を加える。
彼の故郷の小さな町フリントはここにも登場する。実質失業率は50%に上り、食べてゆけない貧しい層は、教育を受けられ食うに困らない軍隊に志願してゆく。堕落した金持ちたちが国民をだまし安全な国内にとどまりつつイラクに軍隊を送り、飢えた貧しい人々は戦場に向かい命を落とす。上院議員たちは多数の若者たちを戦場に送り出しながら、自分の息子は送ろうとはしない。 しかしジョージ・ブッシュの無能ぶりを最初から最後まで馬鹿にしているが、9.11の後は、アメリカ全体が対テロ戦争へ向かって一直線に進んでいった。ブッシュがどんなに無能でも、彼はアメリカを実際に戦争に向けて動かすことが出来たのである。ブッシュが有能だといっているのではない。無能な彼の指揮のもとでもアメリカは戦争に突き進んでいった。いったい何がアメリカをそのように動かしたのか。確かに卑劣なテロには誰もが怒りを覚えただろう。だがそれだけでも十分な説明にはならない。政府がマスコミを事実上報道管制下に置き真実を知らせず、政府に都合のよいことだけを報道したことも重大な問題だ。しかしそれだけでもない。
アメリカ人の基本的な考え方の中に、武力に対する過信が根強くあるのだ。ここで「ボウリング・フォー・コロンバイン」との接点が生まれる。前作で銃の問題を扱っておきながら、どうしてここではその問題を追及しなかったのだろうか。焦点を絞りたかったのかも知れない。また、下手にその点に触れるとアメリカ中を敵に回しかねない。まことにお粗末な政府の論理にころっとだまされて多くの国民がイラク攻撃を支持した原因は、アメリカ国民自身の中にもあると指摘することになるからだ。まあ、理由はともかく、その点は残念だ。だからといってこの作品の価値が落ちるとは思わないが。
「ラスト・サムライ」(2003年、エドワード・ズウィック監督、アメリカ)
まずまずの出来。半ば過ぎあたりまではそれなりにリアルな感じがしたが、最後の全滅にいたる決戦のあたりからいかにもアメリカ映画という演出が目立った。トム・クルーズと小雪のキスはほとんどありえない。当時の日本人にキスの習慣はなかったはずだし、ましてや武士道を尊ぶ一族の女がそんなことを許すはずはない。このあたりは西洋的価値観を無理やり持ち込んでいる。また、一番違和感があったのは勝元の最後を見て敵方の兵が全員跪くどころか平伏する場面だ。見事な最後に感服した敵方の指揮官が感動のあまり一人跪く程度なら理解できるが、次々に平伏するのはいかにも劇的効果を狙った演出といわざるを得ない。
また、筋の運びの上で一番問題なのは勝元がいったい何に反対していたのかさっぱり分からないということだ。廃刀令にそむいたのは分かるが、天皇をめぐってどんな考えの違いがあったのかがほとんど描かれていない。ただ天皇の取り巻きが外国の言いなりになっている情けない奴らだと間接的に分かるだけだ。
最後の戦闘場面も、なかなか壮絶に描かれていてさすがにアメリカ映画だと感心するが、本当に銃や大砲を持った敵に刀と矢だけで立ち向かうのが武士道なのか。鉄砲は信長も使っている。武士が本当に戦争をしなくなった時に武士道が成立したものだということがよくわかる。武士は武士道を極めるのが本来の役割ではない。彼らは兵隊であって、戦争に勝つことが彼らの究極の目標のはずだ。そのためにはより強力な武器を持つことは当然のことではないか。戦乱の時代に、いたずらに家来たちを死なすことが美徳であるはずはない。飛び道具も使ったし、政略結婚でも何でもやったのだ。勇気や誠実さなどの精神的美徳はどこでも通じるだろうが、それだけを純化して褒め上げた結果が無意味な玉砕精神をたたえることに通じるのなら、神風特攻隊を褒め上げるのと同じことになる。
渡辺謙、真田広之、トム・クルーズたちは確かにかっこいい。しかしそのことばかり強調するのはどうか。すぐれた映画ではあるが、やはりアメリカ映画のご都合主義的演出が所々気にかかる映画である。
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