運命を分けたザイル
2003年、イギリス 2004年 英国アカデミー賞 最優秀英国映画賞受賞
原題:Touching the Void
原作:ジョー・シンプソン『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』(岩波現代文庫)
【スタッフ】
監督:ケヴィン・マクドナルド
撮影:マイク・エリー
【出演】
ブレンダン・マッキー、ニコラス・アーロン、オリー・ライアル、ジョー・シンプソン
映画を観はじめてしばらくたった時ある奇妙な感覚に襲われた。変だな、この話知ってるぞ。もちろんこの映画を観るのは初めてだ。特に予備知識もなくレンタル店で借りてきたものである。しかし、ザイルを切られてクレバスに落ち込むという話にはどうも覚えがある。頭の中で過去の記憶を急いで検索してみる。すぐ思いついたのはジョン・クラカワーの『空へ』(文芸春秋)と映画「バーティカル・リミット」(2000年)。どちらかに似たような場面が出てきたのかもしれない。しかし確信がもてない。どうも気になるので途中でDVDを止めてネットで確認してみた。何と『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』が原作だった。覚えがあるはずだ。読書ノートを調べてみたら原作の方は2001年の3月11日に読了している。もう4年半前だ。著者本人が映画に出てくるが、名前をすっかり忘れていてうかつにも気がつかなかった。
僕は登山はしないが、山岳遭難もののドキュメンタリーを読むのは好きだ。物語として下手な小説よりもずっと面白いからだ。上記の『空へ』は山岳遭難を扱ったドキュメンタリーの白眉だ。『死のクレバス』も傑作で、夢中になって読みふけったものだ。他にもチボル・セケリ『アコンカグア山頂の嵐』(ちくま文庫)なんてのも読んだ。漫画では谷口ジローの『神々の山嶺』(全5巻、集英社、原作は夢枕獏)が傑出している。「K」(双葉文庫)も秀作だ。
それにしてもイギリス人は冒険物語にはいつも顔を出す国民だ。その典型はエンデュアランス号遭難事件。その事件を扱ったドキュメンタリー、アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮社)の面白さは桁外れだ(アーネスト・シャクルトン自身が書いた『南へ エンデュアランス号漂流』〔ソニーマガジンズ〕も出ている)。南極海で2年以上氷に閉じ込められた探検隊が全員一人も欠けずに無事に帰還する。事実は小説より奇なりと言うが、ほとんど信じられないことが現実に起こるのである。この実話はドラマ化され2夜にわたってNHKで放映された。ケネス・ブラナーがシャクルトンを演じている(「シャクルトン 南極海からの脱出」というタイトルで最近DVDが出た)。しかし原作の面白さには到底及ばない。登山で言えばジョージ・マロリー。女性だってすごい。19世紀後半に世界中を旅し日本も訪れたイザベラ・バード(1831-1904)。世界の7つの海を支配したかつての大英帝国の名残りか、イギリス人はどこへでも出かけてゆく。そう言えば、世界で一番最初に旅行会社を作ったのもイギリスのトマス・クックだ。
前置きが長くなったが、イギリス映画「運命を分けたザイル」はさすがの傑作。クライミングの場面はほとんどドキュメンタリーかと思うほどの迫力だ。BBCを抱える国だけあってこのあたりの撮影技術はアメリカ以上だ。そういえばエンデュアランス号にもカメラマンが乗っていた。ドラマ化作品にはカメラマンが制止を振り切って水に沈んだ撮影済みのフィルムを拾い上げる場面が出てきて記憶に残っている。イギリス人は記録に取り付かれた国民でもある。その集大成が大英博物館と大英図書館である。「マスター・アンド・コマンダー」にも、いかにもイギリス人らしいエピソードが出てくる。艦長の親友である軍医が博物学にも関心を持つ男で、途中ガラパゴス諸島に寄って珍しい鳥や動物、昆虫などを捕まえる場面である。
またまた寄り道してしまった。「運命を分けたザイル」にはジョー・シンプソンとサイモン・イェーツ、そしてベース・キャンプを守っていたリチャード・ホーキングがインタビューを受ける形で出演している。まさか当事者本人が出てくるとは思わなかった。考えてみれば1985年の話だからそんなに昔の話ではないわけだ。再現映像ではそれぞれブレンダン・マッキー、ニコラス・アーロン、オリー・ライアルが演じている。ただし、クライミングの場面はシンプソンとイェーツ本人が出ているらしい。何せ6000メートル級の山だ、素人じゃとてもまね出来るものではない。
「運命を分けたザイル」という邦題はふさわしいタイトルではない。サイモンがザイルを切ったことの是非をめぐる映画ではないからだ。原作も映画もそんなことはたいして問題にしていない。どちらも主題は絶体絶命の窮地からのサバイバルである。下山途中の骨折、そしてクレバスへの転落。すべてはそこから始まる。それまでの話は序章にすぎない。
ジョーを取り巻く状況。それは普通の人間なら1日と持たない悲惨で絶望的な状況だ。深いクレバスに落ち込みかろうじて棚のようになっているところに引っかかっている、進退窮まった状況。骨折しているのでクレバスを這い上がることは出来ない。下を見れば底知れない深さのクレバスが不気味な黒い口をあけている。声を上げてもサイモンに届かない。氷りの檻にたった一人で取り残されている。夜は真の暗闇になる。足の痛みに加えて孤独感と不安感、そしてその上に恐怖と絶望感が積み重なる。肉体的にも精神的にも耐え難い状況だ。並の人間なら自殺を考えるか、発狂していただろう。さいとうたかおの「サバイバル」にはわずかな食糧などを奪い合って殺しあう場面が何度も出てくるが、ジョーには奪い合う食料もなければ殺しあう相手もいない。絶対的な孤独。底知れない恐怖と絶望。しかしジョーは生き延びる可能性に賭けた。上がれないなら下に降りよう。痛む足を引きずって彼は氷壁を降りる。片足しか使えないので、ゆっくりとしか降りられない。しかし着実に降りてゆく。訓練をつんだクライマーの体力と技術には驚くしかない。足が1本動かなくてもザイル1本で氷の壁を降りられるのだ。
やっと底に着いたかと思えば、そこは単に雪がたまっているだけで、その下にはまだ穴がある。彼自身の重みで雪だまりは下からどんどん崩れている。上を見上げると外の光が見える。幸いその斜面は緩やかだ。必死で体を引きずるようにして出口へと這い上がる。苦労の末ようやく地上に出る。そこで彼はサイモンの足跡を見つける。サイモンの足跡を見つけたとき、よかった彼も生きていたんだとジョーは喜ぶ。共に命を託し合って凶暴な自然と闘ってきた仲間に対する山男の心情に胸を打たれた。
しかし地上に出たとはいえ、彼の前にはまだ大きな壁が立ちふさがっていた。歩けない状態でどうやってテントまで下りてゆくのか。ベースキャンプはまだまだはるか下である。途中には危険なクレバスが無数に潜んでいる。食料もない。助けも来ない。やがてブリザードが襲ってきて、サイモンの足跡を消し去ってしまった。道標さえ失った。
この先がすごい。複雑に深いクレバスが入った氷原を這い進む、まかり間違えばまた転落である。雪と氷が消えると、岩がごろごろ転がっている地面を、片足を引きずるようにして進んでゆく。何度も石の上に転倒する。歩けなくなるとごろごろした石の上を這って進む。このあたりは視覚的効果も加わって原作以上に迫真力があった。彼を支えたもの、それはとにかくあの目標まで20分で行こうという「20分ルール」だ。そのパターンの果てしのない繰り返し。1キロ進むことを考えれば気が遠くなるが、10メートル先の目標なら可能に思える。実に賢明な行動だ。
何日もかけて彼はやっとサイモンたちがいるテントの近くに到達し、助けられる。不思議なことにやっと助かったという感動は薄く、その後ラストも含めてほとんど記憶がない。恐らく助かるまでの苦闘があまりに凄まじすぎたため、その後の部分がかすんでしまうのだろう。テントに到達したところで事実上この壮絶な脱出劇は終わっているのである。本人がインタビューに出ているのだから、その後無事助かったことは分かっている。
ケヴィン・マクドナルド監督は「ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実」でアカデミー「ドキュメンタリー長編賞」を受賞している。もともとドキュメンタリー作家である。監督本人は「おいしいレストランが600m以内にないと不安になる」という都会人だが、それでもこの無茶な撮影を敢行したのは「自分の見知らぬ世界、普通でない体験に身を投じる」のが好きだからだとオフィシャル・サイトに収められたインタビューで語っている。やはり彼にも探検家たるイギリス人の血が流れているのだ。最後にもう一言彼の言葉を引用しておこう。「美しさは恐怖にもなりうる。」この世のものとも思えない美しい光景も、ひとたび嵐が来ればそこに来たことを後悔したくなるような地獄に変貌する。それを身にしみるほど知っていても登山家たちは山を目指すのである。
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