チルソクの夏
2003年
監督:佐々部清
出演:水谷妃里、上野樹里、桂亜沙美、三村恭代、淳評
山本譲二、高樹澪
「半落ち」の佐々部清監督の第2作。「半落ち」はどうということもない作品だったが、こちらはなかなかいい出来だ。
1977年7月7日。「携帯もメールもなかった時代」に、姉妹都市である下関と釜山の間で行われた親善陸上競技大会をきっかけとして知り合った二人の高校生の淡い恋を描いている。海を挟んで年に一回陸上競技大会の時だけ逢える。だから映画の設定として大会は七夕の日でなければならない。「チルソク」とは七夕に当たる韓国語である。
日本人の女子高校生遠藤郁子(水谷妃里)と韓国の男子高校生安大豪(鈴木淳評)。二人の間を海が隔てており、それを超えようにも当時は携帯もメールもなかった。しかも二人を隔てていたのは海と通信手段の不足だけではなかった。あるホームページがこの点をうまく指摘していた。「コミュニケーションが難しかった事は確かですが、それは道具のせいだけではなかったというのがよく表れていましたね。」大事な指摘だ。当時は「携帯もメールもなかった時代」であるだけではなく、また「日本の歌を歌ってはいけなかった時代」でもあった。朝鮮人に対する日本人の蔑み、日本人に対する韓国人の憎しみ。海という物理的な障害よりもこの精神的な障害のほうがより強力で打ち破りにくいものだった。郁子の父親は朝鮮人と付き合うことだけは許さないと言い、安大豪の母親は身内が日本人に殺されたからといって二人の交際に反対する。この映画は「GO」に通じる主題を扱った映画なのである。
二人の空間的隔たりを埋めていたのは手紙とラジオである。互いに手紙を交わしながら郁子は韓国語の放送を聴き、安大豪は日本語の放送を聴いている。「ラジオの電波は海を越えられる」という郁子の言葉が印象的だ。この作品はさらにもう一歩踏み込む。関門トンネルに引かれている県境の白線をまたいで郁子が言う。「今右足が山口県で左足が福岡県。」それに対して安大豪がこう言う。「38度線もこうして自由にわたれるといい。」胸にぐっと来た言葉だ。間を隔てる線は日本と韓国の間だけではなく、同じ民族である韓国と北朝鮮の間にも引かれている。この視点を忘れずに取り込んだことを高く評価したい。男女の淡い恋愛を中心にしているため「GO」ほど強烈ではないが、日韓両国民の間にある心理的国境線を乗りこえようとする真摯な思いは十分伝わってくる。つい数年前までこの国境線は両国民の間に根強く存在していたのだ。未だに完全には解消されてはいないが。まさに2000年代でなくては描けなかったテーマだ。
「チルソクの夏」は欠点も目立つ映画である。郁子、真理(上野樹里)、巴( 桂亜沙美)、玲子(三村恭代)は同じ高校の陸上部の仲良しグループだが、まだまだ彼女たちは若くて演技も拙い。上野樹里も脇役ということもあるが、魅力全開とは言えない。安大豪役を演じた日本人俳優鈴木淳評も今ひとつだ。しかしこれらの欠点もこの作品の芯の部分が持つ魅力を消し去りはしない。その魅力は主題そのものから来るものだ。少々の欠点など気にならない、それほど力強くまた共感を誘う主題を持つ映画というものがある。完成度の高い作品とはいえないが、惜しみなく賞賛の拍手を送りたい。
脇役では山本譲二が見せた「親父の背中」が出色。主題歌「なごり雪」を歌ったイルカも教師役でちょこっと顔を出している。すっかりおばさんになった。郁子と安大豪が観に行った「幸せの黄色いハンカチ」、山口百恵やピンクレディの歌が時代を感じさせる。そうか77年当時はこんなものが流行ってたんだっけ。懐かしい。まだ学生だった頃だ。あれから28年。日韓の間の心理的境界線はほとんど消えかけたが、もう一本の地図上の線はいつ消えるのだろうか。
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» チルソクの夏 佐々部清監督の講演会 映画はもちろんお話もおもしろい。 [もっきぃの映画館でみよう]
東京工業大学の留学生センター日韓プログラム5周年記念事として
「チルソクの夏」上映会の後に行なわれた佐々部清監督講演会を
聞いてきました。映画はもちろん、お話もおもしろかったです。
企画については以下のHPをご参照ください。
http://www.ryu.titech.ac.jp/nikkan/fifth.html
なお、『』内でも、メモとうろ覚えのなかで再現した監督の発言ですので
正確さには欠けています。特に人の呼称、言葉使い... [続きを読む]
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