寄せ集め映画短評集 その9
在庫一掃セール第9弾。今回は各国映画6連発。
「ぼくゼザール10歳半1m39cm」(2003年、リシャール・ベリ監督、フランス)
主役の子供たちがかわいい。セザール(シーザーという意味)もいいが、何といってもサラ役のジョゼフィーヌ・ベリがかわいい。ハリポタ・シリーズのエマ・ワトソンに似たタイプだ。
主人公のセザール(ジュール・シトリュク)はちょっと太目のぽっちゃり少年。友達のモルガンは成績抜群でクラスの人気者だ。
セザールは転校生のサラに心を引かれる。彼女の前に出ると二言以上に話せなくなってしまうところが可笑しい。誰しも経験がある事だ。だからモルガンとサラの関係にやきもきしたり、急に張り切ってみたりするモルガンに共感してしまう。それぞれの家族はそれぞれに問題をかかえているが、彼らは仲良しになり明るく楽しんでいる。
モルガンの母は黒人で、父親はイギリス人。母は未婚の母のようだ。モルガンがイギリスの父親に会いに行くというので、英語が話せるサラが一緒に行くと言い出す。2人だけにしたくないのでセザールもついてゆく。初めての海外!3人の冒険が始まる。イギリスで、フランス人であるカフェの女主人(アンナ・カリーナ)と出会う。彼女の知り合いに警察関係者がいるのでそのつてでモルガンの父親が見つかる。モルガンが会いに行くと父親は大歓迎してくれた。
フランスに戻ると3人の親が駅で待ち構えていた。黙って家を出た子供たちを親たちは腰に手をやりカンカンに怒って待ち構えている。カフェの女主人が一緒でなかったら「死者が出ただろう」、というセザールのナレーションが可笑しい。
それが転機になり、それぞれの家族が変わった。親たちは優しくなり、3つの家族とモルガンの父親の家族(黒人の女性と結婚しており子供も3人いる)が互いに付き合うようになった。独り者のカフェの女主人にはいっぺんに4つも家族が出来た。
悪人が一人も登場しない。さわやかな気分になれる映画だ。御伽噺の様な話だが、世の中にはこのような話も必要なのだ。
「真珠の耳飾の少女」(2003年ピーター・ウェーバー監督、イギリス)
フェルメールの有名な絵を基にした作品。絵の少女グリートを演じるのはスカーレット・ヨハンソン。フェルメールを演じるのはコリン・ファース。そのパトロン役にトム・ウィルキンソン。フェルメールの母親役を演じているのは、何と「ER」のジョン・カーターの母親を演じているジュディ・パーフィット。イギリスの名女優だそうだ。
当時のオランダの様子が見事に再現されている。ストーリーは特に凝ったものではなく、グリートがメイドの見習いとしてフェルメール家に来るところから始まる。フェルメールには子供が何人もいて、その上まだ妻の腹に一人入っている。そのせいか家計は苦しい。その苦しい家計を助けるためにフェルメールはパトロンから絵の依頼を受け、絵を描かなければならない。
グリートはフェルメールのアトリエを掃除するよう奥様に言いつけられる。あるときフェルメールに認められ絵のモデルになる。有名な窓辺に立っているメイドの絵だ。最初は左手前に椅子が描かれていたが、グリートは椅子が邪魔だと思い掃除のときにどけてしまう。すると絵からも椅子が消えていた。また彼女には色彩の才能があり、あるときフェルメールに雲の色はなに色かと聞かれ最初は白だと答えるが、しばらくして白と黄色と青色と灰色だと答える。
次にタイトルとなったあの有名な少女の絵の制作に取り掛かるが、この頃には奥方がフェルメールとグリートの間にただならぬ関係があると感づき、嫉妬し始める。グリートが耳につけていた真珠の耳飾は奥方のものだった。しかしフェルメールは彼女に手を出してはいなかった。彼女を狙ったのはフェルメールのパトロンの方だった。危うく手篭めにされそうになるが、幸い危ういところで助かる。しかし完成した絵を見て奥方は狂ったように興奮し、グリートを解雇する。やがてグリートの元に真珠の耳飾が送り届けられた。グリートには肉屋の手伝いのピーターという恋人がいたが、彼と結局結ばれたのかどうかは分からない。
ストーリーは特にこれといって素晴らしいわけではない。この映画の魅力はほとんどグリートを演じたスカーレット・ヨハンソンの清楚で若々しい魅力と当時の風景と風俗を見事に再現したことにある。
「プラットホーム」(2000年、ジャ・ジャンクー監督、中国)
期待して観たのだが、長くて退屈な映画だった。芸術を気取る監督によくある、これと言ったストーリーもなく、連続性のない細切れ的な映像を少ない科白でつなぐというタイプの映画だ。これで2時間半程もあるのだから眠くなってくる。
特徴的なのはほとんど接写を用いず、遠くから人物を撮っていることである。70年代後半から80年代にわたる約10年間を描いているのだが、思い入れたっぷりに昔を懐かしむのではなく、農村を回る文化工作隊の青年たちをあえて突き放して描くというのが監督の意図だろう。意図はともかくあまり成功しているとは言いがたい。感情移入を排し、効果音をほとんど使わず市販ビデオで撮った様な自然音のみで構成されているが、この手の映画は作る側の独りよがりになりやすい。
ただ、確かに退屈な前半を過ぎて後半当たりになってくると、妙に画面に引かれることもある。多少のストーリーらしきものが見えてくるからだろう。初めて村に電気がくる場面などのように、時代の移り変わりが分かるようになっている。一番それが表れているのは、彼らが演じる演目で、最初は文革時代そのままのプロパガンダ演劇をやっていたが、時代が移るにつれてフラメンコを取り入れたり、ロックやブレイクダンスなども入ってくる。人間関係も移り変わり、工作隊の若者たちも少しずつバラバラになってゆく。文革後の短い開放的な時代に生きた青年たちの淡い恋愛、目的もなくただその日が過ぎて行くだけのような生き方、そういう時代の雰囲気が多少なりとも伝わってくるからだ。
それと、どさ回りをしながら通過する風景が人物たち以上に引き付けるものがある。煉瓦造りの崩れかけたような貧しい家々、何もないだだっ広い平原、広大な低地にかかる橋の上を走り抜ける汽車、上海や北京のような大都市とは掛け離れた田舎の生活と風景がもう一つの主人公だと言えるかもしれない。このような不思議な魅力はあるが、全体としてみれば成功した作品とは呼べない。
「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年、ロナルド・ニーム監督、アメリカ)
東京に出てきて初めて観た記念すべき映画。久しぶりに観直してみて、傑作だと思った。次からつぎからめまぐるしく展開する今のパニック映画に比べると展開が遅いが、それがむしろいい。今の映画はこれでもかと見せ場を次々と作るが、その分味わいが薄くなっている。その典型が「マトリックス」だ。観た次の日にはもう内容を思い出せなかった。その時だけ楽しめばそれでよいという映画になってしまっている。
その点昔の映画はじっくりとドラマを描いている。有名なタイタニック号の悲劇も、97年の大ヒット作品よりも白黒時代の作品の方が人間ドラマをよく描けていた。アクションからアクションへとただ移るだけでは人間が描けない。
「ポセイドン・アドベンチャー」は今の映画よりじっくりとキャラクターを描いている。特にシェリー・ウィンタースは存在感があってよかった。彼女と夫のドラマは映画を引き締めている。2人は孫に会いに行くところだった。ペンダントが効果的に使われている。彼女が水にもぐって心臓発作で死んだ後、夫は後に残ると言い出した。リーダーの牧師(ジーン・ハックマン)は彼女から受け取ったペンダントを彼女の夫に渡し、生き残って孫に会うべきだと伝える。やっと夫は生きようと決意する。パニック状態になったキャロル・リンレイ(懐かしい!)や、元娼婦の妻を心から愛しているがすぐ牧師のやり方に口を出すアーネスト・ボーグナイン。オールスター・キャストだが、単なる顔出しには終わっていない。テンポが必ずしも速くなくても手に汗握る展開に出来る。それを改めて教えられる。
改めて見るとこの映画が後の映画のお手本となっていることがよく分かる。途中水にもぐる場面は「デイライト」や「エイリアン4」がそっくりぱくっている。安全を無視して採算を優先する船主の存在は「ジョーズ」や「エイリアン」シリーズに影響を与えている。それにしてもすべてがそっくりさかさまになったセットは今見ても見事だ。船が転覆してさかさまになるという設定そのものが意表をついている。傾いた床を人が落ちてゆく場面はいかにもお粗末だが(今ならCGでいくらでもリアルに再現できる)、CDがなくてもこれだけのセットを作ってしまう。美術部や大道具部の熟練の技術は時にCGも及ばない見事なセットを作り上げることが出来る。イギリス映画の名作「黒水仙」は崖の上にある修道院が舞台だが、その崖自体がセットだったと聞いて仰天したものだ。安易にCGに頼ることは考え直すべきだ。リアルなセットを作る技術がこれまでどれだけの優れた映画を支えてきたことか。30年以上たった今でも「ポセイドン・アドベンチャー」はパニック映画の傑作のひとつだ。
「名もなきアフリカの地で」(2001年、カロリーヌ・リンク監督、ドイツ)
久々のドイツ映画。なかなかいい。ナチスに迫害されるユダヤ人の話だが、舞台をアフリカにしたところがユニーク。ナチスの不穏な動きを早めに察知した主人公はアフリカに亡命する。後から妻と娘を呼び寄せる。他の家族にも早くドイツを出るよう説得したが、結局脱出できたのは彼らだけだった。残された人たちはポーランドに送られ帰ってこなかった。
話はこのドイツ人一家のアフリカでの暮らしを中心に描いている。最初こんな土地にはすめないと言っていた妻が最後にはドイツ帰国に一番強く反対するようになる。料理のうまい現地人が雇われていて、彼が娘と心を通わせて行く。現地の子どもたちともすぐ仲良くなり、親しい男友達も出来る。父親は元弁護士で満足な仕事を得られなくていらいらしている。同じようにいらいらしている妻としょっちゅうぶつかり合う。
やがてイギリスはドイツと戦争状態に入ったため彼らは適性国民としてイギリス軍に拘束されるが、迫害されているユダヤ人だということで意外にいい待遇を受ける。妻がドイツ語の出来るイギリス兵に夫の職を見つけてやるという条件で一夜の関係を迫られる。彼女は夫と家族のために従う。また以前から親しくしていたドイツ人亡命者ともいい関係になるが、最後は夫を選ぶ。やがて戦争が終わり夫は裁判官の職をドイツで得られることになる。妻は反対する。娘はイギリスの学校に通っていたが、強くは反対しなかった。結局妻も夫に同意する。
親しくしていた現地人の料理人との別れの場面がいい。名作というほどではないが、すがすがしい印象の残る映画である。
「誤発弾」(1961年、ユ・ヒョンモク監督、韓国)
長い間韓国映画の最高傑作といわれていた作品。驚くほど日本の古い映画に似ている。ストーリーの展開、映像、音楽や録音の状態、建物まで似ている(障子がある)。日本語で吹き替えていたら韓国映画だとはしばらく気づかないのではないか。顔や服装だって日本人そっくりなのだから。実際ときどき日本映画を見ているような錯覚を覚えた。話も戦後の混乱期を描いた日本映画に通じるところがある。戦後といってもこちらは朝鮮戦争後だが。山本薩夫が密かに韓国で撮った映画だと言われたら、うっかり信じてしまうかも知れない。
貧しくて自分の歯の治療にもいけない兄、ただ我慢するだけの妻、戦争で腹を撃たれまともな仕事に就けず毎日酒を飲んでいる弟、家族に隠れて体を売っている妹、いつも「行こう」「行こう」と叫ぶぼけた母親(空襲の恐怖を思い出しているのか)、それに子ども2人。貧しいぼろ家に7人が住んでいる。弟は銀行強盗をしてつかまり、兄の妻は出産で死ぬ。兄は妻の死を聞いて、呆然となる。病院からの帰り、思い切って歯を抜く。もう一本も抜いてくれと頼むが、出血がひどくなるので1本しか出来ないと断られる。しかし痛みに耐えかね別の歯医者に行きもう1本も抜いてしまう。出血でふらふらになりタクシーに乗る。最初は病院へ行けと命じ、次に警察署に行けと言う。口の端から血が滴り落ちている。着くと今度はどこでもいいから行けと言う。運転手は酔っ払っているのかと思い、まるで誤って発射された弾丸のように行方が定まらないとつぶやく。
さすがに白黒の映像は古さを感じる。フィルムも韓国内では失われていたので、アメリカにあった英語の字幕つきのものが使われている。英語と日本語の字幕がついているので多少見にくい。しかしそれはしばらく見ていれば気にならなくなる。気になるのはやはり日本映画との類似性だ。61年の映画だから日本占領時代の名残りが今より色濃く繁栄されていただろう。字幕もハングルではなく漢字だ。建物の瓦も日本と同じ。玄関で靴を脱いで家に上がるのは「接続」「春の日は過ぎ行く」などで見て知っていた。最初は驚いたが。つまり韓国の生活自体が日本によく似ているのだ。今まで遠くて近い国だったのでそんなことすら知らなかったのである。「猟奇的な彼女」か「イルマーレ」に剣道が出てきて驚いたこともあった。映画作りもかつては日本映画から多くを学んでいたことがよく分かる。
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