キャロルの初恋
2002年 スペイン
原題:EL VIAJE DE CAROL
原作:アンヘル・ガルシア・ロルダン「夜の初めに」
脚本:イマノル・ウリベ、アンヘル・ガルシア・ロルダン
監督:イマノル・ウリベ
音楽:ビンゲン・メンディサバル
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
出演:クララ・ラゴ、ファン・ホセ・バジェスタ、アルバロ・デ・ルナ
マリア・バランコ、ロサ・マリア・サルダ、カルメロ・ゴメス
ルシナ・ヒル、ダニエル・レトゥエルト
スペイン映画の勢いは止まらない。それほど期待して観たわけではない「キャロルの初恋」も素晴らしい傑作だった。優れたスペイン映画の多くがそうだが、この映画もスペイン戦争(内戦)によって「引き裂かれた世代」をテーマにしている。しかもこの作品はスペイン戦争時代そのものを舞台にしている。「黄昏の恋」や「エル・スール」に代表されるように、独裁者フランコ死後に作られたスペイン映画の多くはその同時代を描き、そこに内戦時代の影が常に付きまとっていることを描いてきた。内戦時代の傷は何十年たっても決して癒されていなかった。内戦時代そのものを背景にした「キャロルの初恋」では、絶えず付きまとっているのは「内戦の傷(影)」ではなく、迫りつつあるファシズムに対する現実的な不安と恐怖である。古い因習に支配されてはいるが美しい風景に囲まれたスペイン北部の小さな村にも、ひたひたとファシズムの足音は迫っていた。その不安の時代がアメリカからスペインにやってきた一人の少女の目を通して鮮烈に描かれている。
「禁じられた遊び」を例に挙げるまでもなく、大人ではなく子どもを主人公に据えることは格段に作品の求心力を高めるが、一方で作品を甘くしてしまうという捉え方がある。確かに子どもの方が同情を引くという面はあるだろう。しかし作品に描かれたテーマとそれを描く一貫した姿勢に揺るぎがなければ、主人公が子供か大人かは大した問題ではない。内戦時代のスペイン人は、大人であれ子供であれ、共和派(人民戦線派)であれフランコ派であれ、否応なく時代の混乱と危機に翻弄されていた。そう考えるべきである。問題は主人公の子どもたちが単に観客の同情と涙を誘うためだけに起用されているかどうかである。
「キャロルの初恋」の主人公キャロル(クララ・ラゴ)はアメリカ育ちで、母親(マリア・バランコ)に連れられて初めてスペインにやってきた。母親はスペイン人で、父親はアメリカ人である。父親は人民戦線の義勇兵として国際旅団に参加しているパイロットである。キャロルはボーイッシュな髪型で、はっきりと自分の考えを主張する気の強い女の子だ。キャロルを演じたクララ・ラゴの太い眉と黒い大きな瞳が意志の強さをよくあらわしている。彼女をからかった腕白少年トミーチェ(フアン・ホセ・バジェスタ)と本気で取っ組み合いをし、結局組み伏せられてしまうが、意気揚々と去って行く彼を呼び止めざまいきなり股間を蹴り上げる。そんな勝気な女の子だ。
スペインに来て間もなく母親が死んでしまう。死期が近いことを悟った母は死に場所として故郷を選んだのである(彼女は親の決めた婚約相手ではなくアメリカ人と駆け落ちして、以来故郷の地を踏んでいなかったのだ)。預けられた叔母の家はフランコ支持派だった。納得のいかない価値観を押し付けてくる叔母たちにキャロルははっきりとした言葉で反抗する。あるいは、父親が共和派側の義勇兵である事を揶揄した落書きが祖父(アルバロ・デ・ルナ)の家に書かれるが(叔母の家を飛び出し祖父と一緒に暮らしていた)、「こんな情勢だ、何もしないほうがいいんだ。見て見ぬふりさ」という祖父に対しても、「毎日見ないふりをするの?そんなの卑怯よ」とはっきり意見を言う。後に祖父は考えを改め落書きをペンキで消す。臆せずはっきりとものを言う彼女には共感を覚えざるを得ない。アメリカ育ちということもあろうが、彼女の性格は母親譲りでもある。母親のアウローラは大胆にもアメリカ人と駆け落ちし、故郷に戻ってくる汽車の中でも人々の視線を気にせずタバコを平然とふかしている。
そんなキャロルが恋をした。相手は例の股間をけられた男の子トミーチェ。男勝りのボーイッシュで活発な女の子は、トミーチェとの淡い恋を通して大人の世界の入り口にさしかかる。トミーチェからきれいだねと言われたときのキャロルのうれしそうな顔、はにかむでもなくむっとするでもなく、素直に喜ぶ笑顔が輝くほどかわいい。
母アウローラのかつての恩師で、今は親友であるマルッハ(ロサ・マリア・サルダ)がキャロルに温室を見せてくれたことがある。そこには蚕が飼われていた。マルッハはキャロルに「あなたもマユみたいなものかもしれない。もうすぐ羽根が開くわ」と言った。この言葉は暗示的だ。キャロルがスペインにいたのは1年だが、その間に年月では計りきれないほどの経験をした。タイトルは「キャロルの初恋」だが、キャロルの目に映ったのはトミーチェの姿ばかりではない。もともと保守派が支配していた村だが、人民戦線政府側の戦況が劣勢になってゆくに連れて、ファシストたちがさらに力を振るい始め、人民戦線支持者に対して弾圧が強められてゆく様も彼女は観てきた。自由主義者の祖父も肩身の狭い思いをしている。まだ子どもであるキャロルはともかく、大人にとって信念を貫き通すのは勇気がいるだけではなく命がけの行為なのだ。
キャロルは祖父からいろいろなことを学ぶが、彼女は祖父以上にトミーチェから多くのことを学んだ。夜黒塗りの車が走ってゆくのをキャロルたちは目撃する。そして明け方銃声を聞く。その意味を教えてくれたのはトミーチェである。また誰かが拉致され、殺されて闇に葬られたのである。トミーチェの父親もどこかに連れ去られ、帰ってこなかったのだ。トミーチェ自身も、恐らく父親が人民戦線支持者だったからだろう、警官をしている伯父からことあるごとにいじめられている。
キャロルはこの1年で大きく成長した。口も聞けず読み書きもできないお手伝いの女性に字を教え、母親からの手紙が心の支えになっている父親に母の死を知らせまいと、マルッハに手紙の代筆を頼む。ただ気が強いばかりの子ではない。そんなキャロルに、父親が誕生日プレゼントを贈る。村の上を飛行機で飛んでパラシュートでプレゼントを落としてゆく。赤いパラシュートが空を舞うシーンは例えようもないほど美しい。ただ、その父親がマドリード陥落後脱出し、キャロルと祖父の元に逃げてくるあたりの展開はやや無理があると感じた。ラストの悲劇的場面に持ってゆくために無理やりはめこんだ布石だったと思える。
詳しくはいえないが、ラスト近くである悲劇的な出来事が起こる。美しい自然に囲まれた静かな村で過ごした1年間を、大人になったキャロルはどのように振り返るのだろう。想い出には郷愁が交じり合い、痛みや苦しみは和らぎ、後から思うと笑い話になる。キャロルの想い出はどのようなものになるのだろうか。「キャロルの初恋」は多くのスペイン映画が内戦時代の傷として懐古的に描いたものを、息苦しいほどの不安と恐怖を絶えず孕んでいる「現在」として描いた。古傷ではなく、まだ生々しい傷なのだ。
しかし、この映画は決して重苦しい映画ではない。戦闘が続くマドリードではなく田舎の小さな村を、大人ではなく子どもたちを主人公にしたからである。そして何といってもキャロルの明るい性格が大きな救いとなっている。キャロルはラストでアメリカに帰ることになるが、車の後部座席から自転車で追いかけてくる男の子たちを振り返る顔には微笑みが浮かんでいた。彼女の目には必死で自転車をこいでいる3人の男の子たちが見えている。先頭を走っているのはトミーチェだ。ほっとすると同時に、胸を締めつけられる場面である。